はてなキーワード: ほぼイコールとは
女は男と付き合えるので、恋愛弱者男の恐怖や焦りは理解できない。
男の「好き」は「ヤりたい」とほぼイコールなので、ぶっちゃけ大半の男は元々そう好きじゃない女相手でも、女側から迫られれば割とOKしがち。
※ネットとかで、告られたけど好きじゃない女なので断った、めんどくさそうな女なので断った的な話も出てくるが、そこで断れる男はよっぽど消極的(性欲が薄すぎ)でおかしい男か、もしくは恋愛強者(非童貞で女と付き合った過去の経験から性欲を理性で制御できる)男である。
なので女はセックスを対価に差し出せば、本人がよっぽど不潔だとか、高望み過ぎる場合とかを除いて、基本的に男と付き合おうと思えば付き合える。
それを非難する気は無いし、「セックスを受け入れる意思と自由の権利」が女側にあるので生物的にどうしようもない。
男は、女に交際(≒セックス)を断られるという恐怖感・焦りを内心ずっと抱えてるんだよね。
余談だけど、こういう話になるとモテの定義がだいたい曖昧だよね。
女を叩こうとする男目線だと「モテ=誰かと付き合おうと思えば付き合える状態」くらいの意味ではないだろうか。
で、それって前述のとおり、大半の女はセックスを対価にする気さえあれば達成できる状態なんだよね。
でも女の言うモテって「基本的に常に誰かに言い寄られている」「同時に複数の異性から好意を示されている」あたりの意味だよね、多分。
あとセックスを対価にするってのに普通の女はすごい抵抗あるだろうから、そんなんモテとは言わんってのも当然だと思う。
個人的には、童貞拗らせてネットで女叩きするような男は、さっさとソープに行って「なんだ、こんなもんか」となると良いと思う。
お前らさ、いい加減にしなさい
30周年の2013年度以降、2018年度までの東京ディズニーリゾートは
毎年年間3000万人超えの異常事態
TDSオープン翌年の2002年度から2011年度まではずっと入場者数が年間2500万人程で安定推移したわけです(25周年の2008年度は2800万人)
アニバーサリーイヤーでもないのに年間2750万人を叩き出し、以降30周年から3000万人台に一気に水準が跳ね上がりました
色々なメディアに「東京ディズニーリゾートの満足度が急低下!」とか
書きたてられてバッシングされていた2010年代半ばの頃を思い出す
OLCも「満足度の向上」的な文言を新施設や施設リニューアルのリリースを出す度
「何が満足度の向上だよ!バーカ!」とオタク達から総ツッコミされていたことを
一気に快適なパークに変貌しました
いや、コロナが存在せず、あのままずるずると変わらぬ運営を行っていたら、
年間3500万人以上にまで入場者数の水準が上がり、混雑低下効果は出ず、焼け石に水だったんじゃないかと思います
それとオタク達!よーく聞け!
お前らの存在こそ2000年代後半以降のエンタメ予算削減の大戦犯だよ!
と言うけど
「地蔵糞オタクのせいで一般客が見られなくなった」から経費削減したんだよ〜!!!
震災を期に廃止された「カウントダウンパーティ」なんて、駐車場での「難民キャンプ」とあまりに危険すぎた、ワールドバザールの開園ダッシュがあったから
辞めるタイミングをずっと伺っていたんじゃない?っていう
何はともあれ、年パス廃止で地蔵糞オタクが絶滅してくれるのは最高ですね
一般客が「前に陣取ってる人が多すぎてまともにショーが見られなかった」という苦情は日常茶飯事
アメリカのディズニー本社から視察してきた人が、城前にレジャーシート敷いて場所取りしている光景見て唖然としたり…
2002年4月、TDLにおいて「場所取り1時間前ルール」を策定
「D-POPマジック」開催当時、プラザテラス周辺には1時間になるのを今か今かと待ち構えてるオタ達が集合して殺気立っていたそうですわ
そしてそのD-POPマジック開催期間中に行われた事と言えば「キャッスル・フォア・コート」の開発
これによってキャッスルショーの中央鑑賞エリアが大拡大、そしてプラザにおいて、キャッスルショーの鑑賞性が大きく向上
そして翌2003年、20周年のキックオフイベント「シンデレラブレーション」(以降シンブレと表記)から
抽選にしてもなお結構な割合を占めるし、中央鑑賞エリア"外"のいい場所は年パスオタクが埋め尽くすので
やっぱり一般客の不満は変わらなかったり
(マジックキングダムみたいに開始10分前にふらっと城前行ってショーを見られるぐらいにならないかねぇ)
そんなこんなで2006年から徐々にコストカット開始したわけです
この時の衝撃と言ったらもう…(※点灯式はキャッスルショーではない)
TDLのクリスマスキャッスルショーって当時は「伝統芸」みたいな存在になっていて
内容もその性質上、マンネリ気味だったけれど偉大なるマンネリになっていましたね
「お、今年は久々にこの曲使ったか」「この曲を今年はこういうアレンジにしてきたか」そんな具合
とにかくクリスマスキャッスルショーは大好きでしたね、特に3回目公演が(4回目よりも)
シンブレは2003〜2008年の6年連続公演で「ま た 今 年 も シ ン ブ レ か」と、当時多くのDヲタが思っていました、私もです
(言うまでもなくシンブレはTDRで歴代最高レベルのショー、この当時の感覚は今振り返ると贅沢極まっていた、#シンブレ復活して)
「フリフリオハナバッシュ」も2年連続公演で(今から思えばとやってくれるだけでありがたい)
でもこの頃は「25周年を豪華にするために今は節約しているんだ…きっとそうだ…」って思っていました
そして2008年、25周年到来
もう「終わった」その一言に尽きる
クリスマスキャッスルショーの良さの欠片もない「ミッキーのジョリースノータイム」
「スターライトマジック」序盤、サン=サーンス作曲の"動物の謝肉祭"に合わせて
シンデレラ城が徐々にライトアップしていくパートのリメイクバージョンなのですが、
そこでドナルド達による鍵の奪い合い、"鍵コント"と言うような小芝居を追加し、台無しになってしまったという…
この時期のTDRショーにありがちな悪い癖と言うべきというか…
「東京のエンタメ部門の質はこれ程までに落ちぶれたのか…」と唖然したのと同時に「わざと質を落としているのでは?」という疑念も生じました
そしてそれは後年、「D23EXPO JAPAN」におけるTDRの演目において実感することができました
「本当はできるんじゃん…」「やりたくでもパークではできないんじゃん…」
という嬉しさと同時に悔しくて歯痒い想いをしました
この25周年に対するDヲタからの評価を35周年の時によく見かけたのですが
「最低最悪の周年、財布よ、開けw」という散々な評価と
「25周年は最高すぎた…😭あの頃は豪華だったな…」という評価に二極化していた、と感じます
その後と言うとイースターワンダーランドという、あの時期としては奇跡的な良ショーも出したりして
なんやかんやで迎えた30周年、期待値ゼロだったので特に何も感じず
そして2014年、キャッスルプロジェクション「ワンス・アポン・ア・タイム」(以下ワンスと表記)の開始
これこれ!と思いました
プラザの全域で見られるこの満足感、これがTDLにおけるエンタメ改善の兆しと当時感じました
2017年のクリスマス期間に開催した「ギフト・オブ・クリスマス」なんて特に琴線に触れましたね
その当時、夏に城前でやっていたショー、雅涼群舞だっけ?
オタク向けのショーはもはや開き直ってショボく、
全ての層に向けた(オタクも含む!)ショーは予算をかけて豪華に!
35周年、これはとても良かったです
TDLのアニバーサリーとしては20周年以来に良いと思えました
数だけ揃えても全てがお粗末最低だった25周年が20点
もはやなにもしない30周年が10点
今の出来る範囲で最大限パワーを発揮した35周年は75点と言った所でしょうか
夜の「オー!サマ!ーバンザイ!」では城へのマッピングも融合!
城プロジェクションの良いと思う点として、昔のキャッスルショーと違って「遠くからでも楽しめる」これがとても重要
「こんな感じで古き良き時代のクリスマスキャッスルショーがまた見て〜!」とか
「東京のショーもようやく新時代に突入か」と思ったところにコロナがやってきました
「入場者数のコントロール」「客単価の向上」
バケパにも限界が出てきたことからいよいよショーの「鑑賞席」有料化の可能性が出てきたという吉兆が出てきました
90年代後半〜00年代前半のような豪華で質の高いエンタメが見たかったら
年パスの廃止は喜んで受け入れるのが本当のオタクである、と思います
2ヶ月に一度ワンデーで入って豪華なショー見るのと
満足度が高いのはどちらかと聞かれたら、私は前者だと大声で言えます
TDSについて
ポルトやミシカの様な世界中のディズニーオタクが絶賛するようなハーバーショーを…
ハーバー埋め立て後の季節ハーバーショーってキャラヲタが喜ぶだけ
WFPのステージョー これは永久に無理だと思います、どうやっても無理な広さです、あきらめましょう
稼働期間8年位ですか 4隅にスピーカータワーを備えた立派なイベント用広場ですが
今となっては持て余していますよね、そのうち開発されそうと感じる
基本的にTFTしかやってなかったんだけど、最近ちょっとサモリフもやり始めた。
ヨリックは基本的にスプリットプッシュ偏重のキャラでレーンを押し込まないといけないという理解なのだが、なかなか押し込めない。
レーンを押し込むということは、ほぼイコールでレーンで対面に勝つということなのだが、ヨリックのスキル構成では勝ちにくい。
世間一般ではむしろ「ヨリックはレーン戦で強いから押し込める」ということになっているのだが押し込めない。
ヨリックで対面にハラスするためにはQ3~4回→Eが必要になるが、その間に相手から3,4回ハラス受けることになり良い交換にならない。
ファイターにハルブレイカーあたり積めばヨリックじゃなくてもかなりの速度でタワーは折れるし、単発のスキルでハラスとミニオン処理できるキャラ使った方がレーン勝ち→サイドプッシュの流れ作りやすくないか?
最近、二次元に魂を奪われ二次創作に萌える二次豚とでも呼ぶべき存在どもが、「公式が勝手に言ってるだけ」「原作とアニメで言ってないだけ」という種類の鳴き声を発明した。
歴史学などの一部学問においてはこうした態度が倫理的に要請されてきた、ということはニコニコ大百科でも指摘されているが、そもそもこうした態度はここ半世紀ほど「文学」「テキスト」「作品」といった物事を専門家が語るために用いられてきたものがほぼ起源であろうと思う。「テクスト論」と呼ばれるものがそれである(構造主義の話はしません)。
すなわち「勝手に言ってるだけ」「言ってないけど言ってる」は、文学者がこの半世紀格闘し続けてきたテーマなのである。ちなみに本稿は、加藤典洋『テクストから遠く離れて』をなんとなく参考にして書かれたので、興味のある方はそちらも読まれるとより楽しいかと思う。
さて、半世紀ほど前まで、たとえば夏目漱石の作品を批評する、ということは「それを書いた当時の夏目漱石の思考に限りなく接近する」ということとほぼイコールであった。平たく言えば「作者の気持ちを考える」ことが批評家の仕事であった。友人の噂話やら本人の秘蔵のメモ書きやら、ちょっと引くくらいの何もかもを動員して「唯一の答え」=「漱石の意図」に接近しようとした。
これは当時に特異な現象ではなく、それまで人間と「ことば」の関係は大体においてそんな感じであった。人類史上のベストセラーである聖書の読み解かれ方を考えてみればわかるだろう。聖書には○○と書いてあるが、これは当時の××という慣習を踏まえなければ正しく読み解けず、「正しい教え」は△△せよ、という意味になる、という研究は数限りなくされてきたし、今も続いている。
聖書にせよ漱石にせよ、ここでイメージされているのは「正解」というもの(難しく言いなおせば「真理」といってもよい)が遠くにあり、我々は「ことば」というヒントでありフィルターでもあるものを通してそこに接近していく、という構図である。
これは我々の日常的な「ことば」の使用から考えてもごく自然なことだ。たとえば日本語話者のあなたが「八百屋さんの隣にあるポストに手紙を入れてきて」と日本語話者である子供に頼んだとき、その場で子供が八百屋と反対方向に歩き出したら、あるいはその場で手紙を破いて食べ始めたら、あなたは「言葉の正しい意味」「子供がたどり着くべきだった正解」についてこんこんとお説教をすることになるだろう。
これまでの「公式」に対するオタクの態度もまた、まさしくここに連なるものと考えてよいと思う。たとえば「エヴァの世界で公式に起きたこと」にアニメや劇場版を通してよりよく接近していこうとする、というのは聖書研究者の態度そのものである(ちなみに「公式」とファンダムの関係をもってしてオタク文化を特異なものとする東浩紀「データベース消費」などの理論もありますが、例も反例もいくらでも出てくる類の話なのでここでは触れません)。
話は半世紀前の文学研究に戻る。ソシュールという言語学者が「一般言語学講義」という10人くらいしか出席者のいない講義を行い、ソシュール死後、その講義にも出てなかった全く関係ない奴が学生のノートをもとにソシュール『一般言語学講義』として出版し、これがコペルニクス的転回にもならぶ「言語論的転回」のはじめとなった。
聖書や漱石の研究など、ソシュール以前は「世界が言葉を作った」とされてきた。されてきた、というか、それ以外の考え方が無かった。わたしたちが「あの赤くて木になってかじると甘いやつ」に「りんご」と名付けたのであって、「りんご」という言葉がまずあって「あの赤いやつ」が後からついてきたわけではない(全くの余談だがりんごと机はこのジャンルの議論で酷使されすぎだと思う)。
それに対して、「言葉が世界を作った」と主張するのがソシュールを祖とする「言語論的転回」である。ソシュールが言ったのはあくまで言語の話で「あの赤いやつと『ri-n-go』の結びつきって別に絶対的じゃなくて、appleとかpommeとか見ればわかるけどたまたまだよね」という程度のことではあった。しかしそれは十分に革命であった。あまりに革命的だったために世界が驚くまでに半世紀を要し(講義は1900年代はじめだった)、さらに半世紀経った今ようやく振り返りがなされつつある。本稿で扱うのは、世界が気づいてからの文学理論の最近半世紀である。
それまでの哲学(世界観と言ってもよい)においては、言語の研鑽によって「正解」「真理」にたどり着けると思われていた。しかし「たまたま」のものをいくら研ぎ澄ませたところでその高みに至る日がくるものだろうか?
よく言われるように、日本人は虹を7色で数えるが、外国人は5色で数える。この差の2色というものは本当に「ある」のだろうか?といった問題は一見トリビアルで退屈なものである。だがさらに進めて、そもそも「日本人」というものは「日本人」という言葉よりも前から「あった」のか?と問うと大昔の言語学の講義がいまなお強烈に突き刺さってくる。
これは今日でも大問題ではあるが、半世紀前の文学研究にとっても大問題であった。確かに、それまでも言語というものがそんなに主人に忠実でないメッセンジャーであることは知られていた。しかし言語論的転回は、メッセンジャーこそが主人である、としてしまったのである。その理由は以下のように明快である。我々は言語の向こうの対象(「真理」)に近づこうとしてきた。しかしソシュールいわく言語と対象の結びつきは「たまたま」である。我々が触れることが出来るのは言語のみである。ならば、「たまたま」で検証不能な真理などというものを求めるのではなく、言語が言語として我々に何を訴えかけてくるのかこそをガクジュツテキにケンキューすべきである!と。
冗談のような本当の話なのだが、ここ半世紀、世界中の文学研究者はこぞって「公式が勝手に言ってるだけ」「原作とアニメで言ってないだけ」と言い続けてきた。専門用語でこれを「テクスト論」における「作者の死」という。本当にそういう専門用語がある。
もはや書きぶりから嫌いと蔑視がにじみ出てしまっているが、しかしこの半世紀くらい、この潮流は世界中の識者におけるブームないし真理とされつづけ、最近になってようやく揺り戻しがきている。
二次豚でも簡単にわかることだが、これを言い始めると「公式見解」が意味を成さなくなり、要するにきりがなくなる。しかしこれはある意味正当なことでもある。「全ての『公式見解』が正しいか」と問われれば、とくに今日であれば即座にNOと答えることができる。なぜならもはや「公式」と呼ばれる以上はもはや庵野や富野といった個人ではなく、分業化された組織であるからして、そこには作品世界という真理からの誤差、ノイズ、エラーが当然のものとして含まれうる。最も軽薄でありがちな事例として、公式Twitter担当者が調子に乗って後に撤回する、という事例を挙げておけば十分だろう。
しかし、かつてのテクスト論者たちが正当にも考えたように、庵野や富野すなわち「作者」個人だってべつに無謬ではありえない。すなわち彼らとて(限りなく比喩としての意味合いが薄くそのままの意味での)「神」ではないのだから、それを絶対視する必要は無くなる。むしろ「作品」は1文字、1フレームに至るまで確固たるものとして存在するのだから、そちらから何を導けるかが重要である、とテキスト論者は考えた。さらには一歩進んで、「作品から導かれたわたしの感情」が重要だと考える「読者反応理論」というものも生まれた。
上で「きりがなくなる」と書いたが「何でもありになる」とは微妙に異なることに注意されたい。これまで「訴えかけてくる」「意味する」「導く」などとこっそりごまかして書いてきた部分についても、文学研究者は鋭くメスを入れた。すなわち形式としての言語がなにを「意味する」(またこの言葉を使ってしまった!)かについて、激しい議論が戦わされた。つまり、「シャミ子が悪いんだよ」は「原作とアニメで言ってないだけで実際は言ってる」という解釈はまあアリだが、「桃が悪いんだよ」は「言ってないし実際言ってない」という我々の直観をいかに正当化するかについて、涙ぐましい努力が続けられた。
しかしそうした努力にもかかわらず、論理学や数学(それぞれ「たまたま」じゃない言語として期待されていた)が発達した結果、クレタ人のパラドクスやらゲーデルの不完全性定理やらでそこまで簡単ではないことがわかってきた(ここでは「簡単ではない」と注意深く言ったが、知ったかぶりで「数学は不完全だと証明されたよね」と言うと凄まじく怒られるので注意)。
かくして文学研究者らはそうした論理的数学的理論を縦横無尽闊達自在に引用した結果、文学の「正解」を「何でもあり」にした。現在蔑称として使われる「ポストモダン」という思想潮流は、大体この辺のことを指していると思う。
しかし、文学の「正解」が「何でもあり」であっていいものだろうか。蔑称とか揺り戻しなどと何度か言っているように、今日の文学理論は素朴な「作者の死」論には与せず、いくらかの距離を取っていることが多い(『テクストから遠く離れて』はまさしくそうした書物である)。しかし昔と違って「神」のことばこそが「正解」であるとも考えない。そもそも「正解」があるのかどうかもわかってはいない。いまの研究者は、グラデーションの中のどこかに、自分の場所を見いだそうと必死になっているのだと思う。
だから、「公式が勝手に言ってるだけ」「原作とアニメで言ってないだけ」と2022年に言っている人がいても、笑おうとは思わない。「彼/彼女はこう思う、と私は思う」という感情=想像力こそ、人間が発明した最も大きな発明であり、誰しもまだそれを持て余しているのだから。
最後に
これを書いた人(@k_the_p)は無職で、仕事を探しています。Pythonとかほんの少しできます。よろしくお願いいたします。
ホロスターズ見ててつくづく思った話。
そもそもVTuberのファンを男女別で見た場合、明らかに男性ファンが多数派。
その時点で、VTuberとして人気配信者になりたかったら、男性ファンにもバズるのは大前提なわけ。
にじさんじの葛葉だって、他の男性ライバーに比べたら女性ファン多いだろうけど、それ以上に男性ファンも非常に多いと。
だからVとして女性向けに特化するなんて、自ら負けに行くようなもの。
女性アイドルの女性ファンは昔から細々と存在するのに対し、男性アイドルの男性ファンは今も昔も皆無という歴史を踏まえると(TOKIOなんて例外中の例外)、
ホロスタがアイドル売りする限り、今後も男性ファンが増える可能性は極めて低い。
というか実際のところ、男性VTuberを好きになりそうな女性という、いわゆる潜在顧客の殆どは今やすとぷりに夢中でしょ。
女性向けに特化したVを売るというのは、事実上この牙城を崩す戦略とほぼイコールだと思うんだけど、運営はそこまで考えているんかな。
フリーランスのエンジニアで単価が70万とか80万の人に対して、売上と所得は違うって言うサラリーマンって頭悪いなって思う
確かに売上と所得は違うけど仕入がない商売なんだからそれはほぼイコールになるよね
確かにアパレルみたいに仕入があって例えば原価が30%で店舗も借りてたら売上が高くてもどれだけ儲かってるかはわからない
でも現場に常駐してパソコンも貸与してもらってるフリーランスエンジニアは何の経費もかからないからそれがそのまま利益になる
あと保険とか年金を自分で払わなきゃいけないとか言ってる人もいるけどそれはサラリーマンも同じだよね
君たちは自動で引かれてるけど、フリーランスは普通に郵送で振り込み用紙来るからコンビニで払うだけだよ?
「女性が働きやすい」「女性が活躍中」「女性比率○%以上」「育休取得○%」「女性管理職比率○%」
求人サイトを開くといかに女性社員が多いかの表記がズラッと並んでることが多いけど、過剰にそこをアピールしてる企業は絶対に応募しない。
まず女性の働きやすさ・育休の取りやすさははほぼイコールで独身の犠牲率なので、独身女性の私は近寄りたくない。そしてそういう企業が求人を募集しているときは大抵穴埋め要員が足りない時。女性が活躍する優しい企業はママや妊婦には優しいけど、独身や子無しには全く優しくない。
そしていつか自分がお世話になる側になってもぶっちゃけ男性社員=抜けにくい穴埋め要員が多い企業の方が取りやすい。
あと女性の上司とは正直やりにくい。真っ当な人もいるんだけど年数が長い女だからって理由だけで選ばれた地雷の潜伏率が男性の上司より高くて、異常に厳しかったりえこひいきが激しかったりであまりいい思い出がない。
女性社員が多いも同じで、男性が多い企業より空気読みや派閥争いが激しい場合が多くて非常に疲れる。
ぶっちゃけ現代の日本においては、有能で気立てがよくメンタルが安定した賢い女性ほど男に頼るという一番便利な手段をさっさと取るし、男もそういう女性を結婚相手として手放さない。
その結果有能な女性社員ほど結婚退職したりマミトラに乗って暮らしてたりするので、正直、バリバリ労働して生き残る女性は割と癖のある人が多いなぁと感じる。それが何人もいる職場は会社の雰囲気やレベル感も含めて正直お察し…
そう、会社もそれで、女性の活躍を売りにする企業は業務内容や商材にこれといったセールスポイントがなく、社員に女性が多いことしか誇れない場合が結構ある。
まあ大抵の会社は特にセールスポイントもないし厄介な男性社員もいるしで、受かったとこで働くかって感じなんだけど、それにしたってコッソリ女性比率を見ているよ、多分想定とは逆の使い方で。というボヤキでした
とはいえ今時女性の社会進出やってませんなんて書けないからしばらくは騙し合いやってるんだろうな〜と思う。みんな労働頑張ろうね。
【追記】
たくさん読まれててびっくりした。
「アットホームな職場です」と同じで本当に雰囲気がいい会社はわざわざ書かないよねって指摘がまさにそれだなと思った。
以前勤めてた会社がまさにママだけ優遇でフォロー残業が多くてちょっと滅入ってたんだよね。なのに扱いは「ママなのに活躍!」で独身の犠牲は一切注目されないし。
それをネットで愚痴ったら「文句は会社に言え」「そんなところでしか働けないのが悪い」って言われて、その通りだと思ったから働きやすい会社に転職しただけ。
確かに今年は御伽原絵良やら桐生ココ、鈴原るるの卒業やアイドル部の解散など大手VTuberの卒業が目立ったが、
それでも一般的な芸能界の退所・卒業・引退に比べると比率としては少ないのではないかと思う
キャラクターを事務所から借りて活動している身という都合上、前職の人気や実績を丸々引き継ぐのは難しい
有識者によって前世バレし、暗黙の了解としてファンが移動するケースは往々にしてあるが、
キャラクターIPを事務所から引き取って別の事務所に転向したり個人勢として活動するケースは事務所自体が消滅する以外だと難しいようである
他の業界に転向しようとしてもVTuber時代の活動経歴は表向きにはアピールポイントとして使うことができないため、
結果的に卒業が活動実績を捨てることとほぼイコールになってしまうのではないかと思う
件の共同声明について、女性フェミニストに対して是非を問うたり、踏み絵のように利用する事には抵抗が有る、
何故ならやはり女性は現在進行形で強く抑圧を受けている被害者であり(無論、そうした「男性」対「女性」の様な単純な二元論は当の声明で批判されていることは重々承知であるものの)
しかし、男性の場合はその様な遠慮は当然働かない。あの声明に対してどう考えるのか、フェミニストとして応答責任があるとさえ思う。
まず件の声明は「フェミニズムではなくヒューマニズム」との批判も受けているが、男性がフェミニストになる場合は女性と異なり、ヒューマニズムを経由する場合が殆どである。
理由は単純で、そもそも男性フェミニストは女性ではない以上、「何故ほかのどれでもなく、女性(差別)なのか?」という問いに応え得ない。
つまり女性ではない男性が女性差別を問題視する動機は、「そもそも差別は駄目だ」というヒューマニズムを経由せずにはほとんど成立しえないのだ。
だとすれば男性フェミニストは件の声明がヒューマニズムであったとしても、それ故にこそ声明の語る内容を拒否しえない。
ヒューマニズムを根拠に自己と異なる属性の人々(女性やLGBT、障碍者、貧困者、セックスワーカー等)へ共感を寄せ、それらの人々が受ける差別や苦難に反対する事は間違いなく正当だ。
しかしだとすればそれらの人々の間に優劣を付ける事は欺瞞ないしグロテスクな加害にさえなり得る、
例えば女性差別に反対する事は間違いなく正当だが、「女性を優先していない」事を理由に件の声明を拒否するなら、それはLGBTやセックスワーカー等をヒューマニズムの対象に含めないという極端にグロテスクな差別主義という事になる。
この事情故に、男性フェミニストにとってのあの声明は、女性フェミニストにとってのそれと取るべき対応がかなり異なる。
「女性を優先する」タイプのフェミニストを自任する場合、女性=弱者・被害者、男性=強者・加害者という構図を採用する事が多いだろうが、そのような単純な二元論を棄却しないならば同時にLGBTやセックスワーカーに対しても強者・加害者とならざるを得ない自己の責任を果たさねばならないし、だとすれば声明を拒否しえないのだ。
「あの声明の内容に問題は無いが、フェミニストの名を冠するのは不当だ」という批判もあるが、これも適当ではないと私は思う。
件の声明が「再確認を呼びかける」ものである事に着目すべきだろう。文脈上、ほぼ確実にあの声明はそもそも「フェミニスト・フェミニズムの名の下にLGBTやセックスワーカーへの差別や偏見が蔓延している」現状を前提とし、
そうした現状を憂慮するが故に「再確認を呼びかけ」ている。そうである以上、あの声明は「フェミニスト・フェミニズム」に対して呼びかけなければ意味がないし、その必然性がある。
また声明の構成は「➊人権の普遍性、差別をなくすこと、そして暴力からの解放」「❷身体的自主性、尊厳、作動性、アイデンティティの権利」等のタイトルで区分けされ、その前に「フェミニストの原則の再確認:」と書かれている。
これは声明に書かれたすべてが「原則」なのではなく、「➊人権の普遍性、差別をなくすこと、そして暴力からの解放」「❷身体的自主性、尊厳、作動性、アイデンティティの権利」「❸拷問、非人間的な扱い、医学的虐待からの解放」といったタイトルが「原則」であり、そのあとに付される文章はその原則の「応用」「実事例への適用」と読むべきだろう。
LGBTやセックスワーカー等への言及はこの「応用」「実事例への適用」に当たり、原則そのものにはLGBTやセックスワーカー等への言及は含まれていない。
つまり「LGBTやセックスワーカー等への言及ばかりだからこれはフェミニズムではない」というのは声明の構成に対する誤読だと私は解釈する。
あくまでそれらは「原則」から導いた応用に過ぎないのだ。そして各タイトルはフェミニズムの原則として違和感のあるものではない。
また、それらが「あまりに一般的すぎる」事は、論理的に考えてフェミニズムという思想に対する強い信頼の反映だと考える。
つまり「あまりに一般的な」普遍的な人権に関する原則とフェミニズムはほぼイコールなのであり、普遍的な原則からフェミニズムは自明に導けるのだ、という強い主張である。
例えばフェミニズムが「女権拡大」の為のもので、女性を優先した原則を掲げなければフェミニズムではないと考えた場合、そのような思想は「女権を拡大すべき」「女性を優先すべき」という命題に同意する人にとってしか重要ではないし、従う理由もない。
けれども普遍的な人権に関する命題からフェミニズムが導けるならば、普遍的な人権に同意するあらゆる人はフェミニズムに同意しなければ矛盾を抱えていることになる。
つまり原則が「あまりに一般的すぎる」事はフェミニズムの普遍性を支持しているのであってその逆ではない。逆にフェミニズムを普遍的な人権と切り離してしまう人は、フェミニズムを自ら小さい、意味の無いものにしてしまっている(こうした論理的な関係は気付きにくいものなので、そこに気付かないことに特別過失が有るとは思わないが・・・)
こうした事について男性フェミニストや男性リベラルは真面目に考えることが出来ているのか、声明に応答できるのか、という事は注視すべきことであろう。(勿論私自身を含めて)
太田光のマスク会食をバカにしていたことを反省していたって記事、あれはなんだかブコメでは好意的に受け止められていた。
https://news.yahoo.co.jp/articles/cef26de56983491d69670b563c4297cdca867925
一方で、政治家の会食は何が何でも駄目って感じになっている。もしかしたらマスク会食していたかもしれないのに。
まあマスク会食ではないと思うけど。
なんでもかんでも会食というだけで形態に関わらず批判するのは、外食を批判することとほぼイコールになっていて、外食産業ではないけど自粛で割りを食っている自分としては正直嫌な気分になる。
立憲民主党あたりはマスク会食してみた動画とか上げてみたらどうかと思う。立憲民主党でなくて維新がやったらはてなでは批判一辺倒になりそうだから立憲にやってほしい。
マスク会食だって出来るんだってことを示す人がいてもいいと思うし、冒頭の太田光のインタビュー記事を好意的に受け入れるのであればマスク会食出来るんだって見せることは意義があると思う。