はてなキーワード: ぼやきとは
10年ぐらい前、はてなダイアリーをアンテナに入れてよく見ていた人たちを当時Twitterでも見つけ次第フォローしてたんだけど、
その後自分は忙しくなってはてな界隈もTwitterもご無沙汰してた。
なんとなく久々にTwitterにログインしてタイムラインを追っていたら、
はてなでそこそこ有名だった人も今ではなんか金がなさそうでつまらないぼやきばっかりのシケたおっさんになってる人が多くて時の流れの無常を感じた。
(女の人は結婚したり子育てしたり仕事バリバリやってそうだったりして、そこまでシケてる感じはしなかった)
で?と言われればそれまでだけど、当時、賢しらぶったりオモシロぶったりしてた人たちもこんなもんかと思った。
映画見てきた。その時に流れた予告編の感想を覚えてるだけ書く。
※見に行った映画本編は(ペンギン・ハイウェイ)
見に行ったのがアニメ映画だからかジャリ向け映画が多く(ペンギン・ハイウェイ自体はあまり子供向けではなさそうだが)not for meというか普通に対象年齢ではない作品が多かったー
誰かがブコメで言ってた気がするけど、広瀬すずの眉が(あの時代にしては)太すぎる
◇アントマン・ワスプ
この映画がどうかはよく知らないけど、B級じゃない結構お金かかってる面白いサメ映画もクソ映画目当てのサメ映画イッキ見とかで見たりするのかなとか考えてた
◇プーとおとなになった僕
ちょっと興味ある。でもどっちかというとつかれたときとかに家でぼっとみたい。アマプラとかに来ないかな。
怪物苦手
自分が対象年齢だった頃から青い鳥文庫でブイブイいわしてた人気作品だけど結構面白いのかな??
(読んだことはない)
で、でたービブリアー!!
ファンの人には悪いがみんなビブリアのこと覚えてる?っていうタイミングでの再映像化だ
剛力ちゃんが悪いわけではないけど、剛力ちゃんよりは黒木華のほうが文学少女感がある
映画館には行かないだろうけどレンタルとかアマプラとかで見るかも
くるみ割り人形、曲は思い出せるがどういう話だったか全く思い出せないな
◇グリンチ
この声は??あの人かな??あの人だよね??だってぼやき方がそうだもんね??
これはいまテレビ放送してる方の映画化の流れなのかな???(見てない)
ディズニーは旧い「プリンセス」の再定義を試みていて、それ自体は全然いいし必要なことと思うけど、予告にあるプリンセスのシーンぐらいになると若干鼻につくのではとは思った。本編をまだ見てないから全然わからんけど
あと、なんでもできるインターネットの世界!的なイメージはもうだいぶ古びてきているのでは
◇シン・エヴァンゲリオン
自分のようなエヴァ見てない人間からすると何がなんやらわからん予告編だな
公開されるのだいぶ先だけど、エヴァくらい有名で続編が待望される作品だと予告編の小出しに意味があるということか
ホッテントリにもなってたし
◇●◇●◇
アニメ映画だと児童向けのアニメじゃなくても問答無用で児童向けアニメの予告編が流れるの結構勧め方が下手じゃないかと思ってしまう
ペンギン・ハイウェイは子供よりは子供が可愛い大人が見たほうが面白い映画だと思う(子供が子供らしいとは言っていない)
というかショタコン向け
ちょっと長かった
以上。また映画見たら書くかも。
人とちょっと違ったことをして、だけどふみはずさないコンサバなのにロックの心を忘れないよう生きてきた。
側から見たら、成功してる順風満帆な人生なはずなのにどうも自分ではまだまだだと思ってしまう。
ぐーたらして生きていたい。
なお、結婚して子もいて役職付いて金は年齢平均よりもらっている。
うんこ。
某大学(※1)の医学部入試の問題について、どうしてもぼやきたくなった。
あくまでも個人の意見ではあるが、随分と乱暴な意見だとも自覚しているので、その所予めご了承ください。
あと、これは個人の雑感なので、読み易さは期待しないで下さい(※2)。
最後に、二重括弧で脚注付くって言うからせっせとつけたけど何故か脚注付かないので、手打ち脚注を付けました。もしもミスを見付けても、この間抜けについてはどうか(鼻で)笑って許して下さい。
※1:伏せる意味は欠片も無いが、様式美だと思ったので付けた。他意はない
※2:(意訳)クソ長ェ意味の無い文章が続くけど素人の感想文だから許して下さい
基本的には親戚含め概ね一般家庭であるが、父親とイトコと義大叔父とがそれぞれ医者という、何故か不思議な縁がある。(※4)
タイトルの通り、本人の性別は女で、そして医者では無い。既に女子と名乗る年齢は過ぎたので、(元)女子<コメントへ一言
※3:七大都市圏外に生息。県庁所在地ではあるが、当県には新幹線が通っておらず、未だに女子は親元にいて当然、みたいな思考がまかり通る程度の田舎
「まぁ当然じゃない?何で叩かれてるの?」
※5:伏せる意味は欠片も無いが、様式美だと思ったので付けた。他意はない(二回目)
『入試を受ける許可が降りなかった』ので『医学部受験が出来ず』に『医者になれなかった』『元女子』である。
因みに偏差値は何とか足りてた。まぁ何とか、レベルだったのでもしかしたら国試に受からずに医者になれなかった未来もあるかもしれないが、そこは今は割愛する。
ただの自慢だが、高校二年の頃までは、随分と増田の成績は良かった(※6)。
高校一年までは、まだどうなるか分からず模試の結果にも志望校にも何も口を出さなかった親が、二年最初の模試の結果を渡した時、初めて話し合いの場、というものを設けられた。
結論から言うと、増田はその話し合いを経て『医学部を受けない』事を確定した、という話である。(※7)
事の次第はこうだ。
その模試の結果が返って来たその週末、『模試の事で話したい事があります』と親子三者面談が行われることとなった。
滅多に家に居ない父親がわざわざ昼から家に帰って来ての三者面談であったので、非常に緊張もしたし、内心『エライコッチャ』と思った。
先の通り、まだその頃(※8)は別段叱られる様な成績を取っていたと思っていないので、何故呼び出しを受けたのか分からない、という混乱もあった。
その時まで、得点や偏差値といった所について怒られるものとばかり思っていたから、返答が「へぁっ?」という間抜け極まった返事になった。この面談が何の為に行われているのか、全く理解が追いつかなかったのもある。
娘の間抜けな返答にに、両親は特に叱るでもなく、母は言葉を重ねた。
母の指先が示していたのは、志望校の欄に書かれた、地元の医学部の欄であった。
「いや、そういう訳では…」
それまでのほほんと『まぁ今の偏差値ならこの辺りの学部書いとけばいいだろ』と志望校を書いていた増田は、母親の言葉で『自分が本当に医者になりたいのか』という事を初めて、真面目に、考える事になった(※9)。
我が家は勤務医であったので『実家の病院を継ぐ為に、何が何でも医者にならなければならない』という家庭の事情も無ければ、『パパみたいにおいしゃさんになるのー!』みたいな可愛らしい夢も無く、『医者になりたいのか』という問いに悶々と悩んだが、すぐに答えが降って湧いて出る訳も無い。
いつまで経っても(※10)返答をしない増田に、母は再度口を開いた。
「じゃあ先に、私達の意見を、聞きなさい」
うろうろとテーブルの片隅に置かれていたコップの辺りで彷徨っていた視線をふっと上げると、母の強い視線に当てられた。残念ながらスローモーションにならなかったが、それでも随分と怖い顔をしていると思った。
それまでずっと黙っていた父親は、やっぱり黙っていたけど、母の言葉に追従する様にうんうん、と首を縦に振っていた。
※6:大見得を切った。自慢して歩ける程良くは無かったが、教師や親から叱られる程悪くも無かった
※7:(意訳)クソ長ェ意味の無い文章が続くけど素人の感想文だから許して下さい(二回目)
※8:何の反動か知らないが、この話し合いの後一切勉強をしなくなったので、その後当然成績は真っ逆さまに落ちた。高校二年の頃まで、と書いたのはそのせいである
※10:とはいえ、今考えても三分も経っていない。カップラーメンは待てても娘の返答は待てないらしい
両親の主張は、主に二点であった。
医学部、それも国立の医学部に入る、という事は、日本国民から借金をする(≒投資を受ける)と同義である
これは防大についても同じ事が言えるが、極論、医学部の学生というのは『将来的には国益になる』と信じられているから、通常よりも多く『投資を受けている身分』である。
原資は何か?当然、国民の血税である。その投資を受けた以上は、医者になったならば、労働を通して国民へ返さねばならない。
医学部に入って6年、専門を決め、安定した独り立ちをするまで更に数年。
10年近く投資を受けるのだから、同一年数は働かないと、その投資に見合った返済が出来たとは言えない。
最低でも46歳、そこまで働く気がないなら、税金泥棒になるのだと自覚しろ、と締め括られた(※11)。
『どこでも眠れる』『すぐに眠れる』『すぐに起きれる』『寝溜めが出来る』の何にもかすっていない増田には向いていない。増田はどれも欠落しているから資質が無い。とばっさり切られた
何を想定しているか?無論、当直時、あるいは緊急時に即戦力として対応出来るか否か、という事である。
尚、緊急時には『有事』も含むからな、国立大卒なんだから当然、とも言われて、己の命の使い方も本気で考える羽目になった。
※11:据わった目で『国益』という単語が出た時に、九州系女性の腹の括り具合怖ェ、って思いました(感想文)。尚、両親は特定の党も支持していなければ、右の話も左の話もした事が無かったので、余計ビビりった
→最低限の国資を通った以上、四十歳半ばで辞める優秀な医者よりも、定年まで働く普通の医者の方が国益に勝る
→総数比を考えろ。数が少ないという事は、医師一人に対しての負担は看護師の比率分だけ上がると自覚しろ
・別に定時で帰れる様な小さな病院に勤めれば良くない?例えばアルバイト医師(※13)とかさぁ
→甘 え ん な 阿 呆 (※14)
※12:自分がドベの成績で国試に受かるかもしれない、という思考を持たない愚かな小娘の僅かばかりの抵抗
※13:その当時、我が家の父は副業で日勤のアルバイト医師もしていたのでそういう発想に至ったのだが、若い頃はアルバイト医師として当直ばっかりしていた為、余計家に帰って来れなかったそうである。そりゃ人が居ない時間を埋める為のアルバイトであるんだから当然である
※14:地雷を踏んだ
さて、以上の話は全て母親が話をした。
父親はずーっと『そうだぞ』とか『お母さんの言う通りだ』とか、合いの手しか入れなかった。
口下手、というのもあるが、彼は『父親ではない』というのが大きな理由である。
一行で起こったこの矛盾であるが、彼は『生物学上における父親』であるが『家族構築関係上における父親』でない、という人なのである。
私が幼い頃、まだ医局という所は随分と力があり、若手医師の勤務先は医局の鶴の一存で決まる様なレベルであった。ペーペー医師である父は一週間の大半は家にいなかったし、弟は帰ってきた父親が父親だと理解出来ず、抱かれた瞬間火の点いた様に泣いた、という古典的なエピソードまである程、家に帰ってこなかった。
ペーペーを脱しても主流医師でない(※15)父は、時には単身赴任も交えながら、随分と家から遠いあちらこちらの病院を転々としていた。
結局、父親が我が家を根城に出来る様になる頃(※16)には子供達は反抗期を迎え、ちっとも父親として接していなかった父親は、子供とどんな話をして良いのか分からない、という状態に陥っていた、そんな時期がこの事件の頃合いである。
所謂、『仕事人間で家族と関わって来なかったお父さんが定年を迎え、家族との接し方が分からない』という状態になっていた為、結果娘に何と言えば良いのか分からなかった、というやつである。
彼がそうなった原因の一つに『田舎の医者が少ない』という点がある。
圧倒的に『全体数が足りて無い』が故に、『一人当たりの当直数が多く』なり、またそういう人数が少ない病院ばかり転々としていた(※17)のも相まって、父親はいつだって『住まいは病院です』みたいな生活を送っていた(※18)。
たまに家に帰って来て『今日はお父さんが帰ってきたから、家族四人で外食に行こう!』となっても、たった二時間もしない食事の最後に彼のポケベル(※19)がけたたましく鳴り、家族団らんが解散になった事は数えきれない程あった(※20)。
当然、盆暮れ正月も関係無く、少なくとも我が家は帰省や冠婚葬祭も含め父親を交えて一泊二日以上の旅行に行った事が無い(※21)。
そういう訳で、我が家は常に『母子家庭』と同等であった。何せ基本的な家族行事に、父親はいつだって居ないのである。入学式も卒業式も発表会も、父親がいた記憶が無い。
幸いにして母親は専業主婦ではあったが、代わりに田舎ならではの『旦那(=増田の父親)実家の面倒』を見るという仕事はあり、最近流行り(?)のワンオペを当時より当然の如く強いられてきた。
別段その事については特に思う事は無かったそう(※22)だが、そういう母を間近に見ていながら『私の仕事の穴を他の人が埋めてくれれば良くない~?』みたいなニュアンスの発言を娘が行った(※23)のは、流石に看過出来なかったらしい。
という事で、此処からは若干説経と、あと当初の想定通り偏差値について幾ばくかの説経が入ったので、ここで一端幕を降ろす。
※15:と父親本人が言っていた。本当の所は知らない
※16:医局の力が弱くなってきた事と、勤務先について本人の希望を汲んで貰える程度には中流層に入った頃合い
※17:「していた」のか「させられていた」のかは、今はもう分からない
※18:一度だけ父がインフルエンザに罹った時に、『入院していい?』と聞いたら、師長さんに『(いつも病院で生活してるんだから、)病気の先生の面倒まで見たくありません』と断られ、そのまま家にいた母親に迎えの要請の電話が来た(実話)
※19:少なくとも、私が小学校を上がる頃まではポケベルが主流であった
※20:とある店に行くと、なぜか謀った様に毎回毎回鳴るので、仕舞いには弟と『今日はポケベルが鳴るか鳴らないか』という賭け事(掛け金:翌日のオヤツ)をやっていた(※現金の絡む賭博行為は違法です)
※21:いわんや海外旅行をや
※22:父と結婚するにあたり、ワンオペ育児を行う事になると重々言い含められ、了承の上の結婚だった、と後に語る
※23:自分の穴埋めをしてくれる人(=他の医師)を全力でバックアップする人間(=その医師の家族)に対して軽視し過ぎであり、礼を失した態度である、というお怒り
その後、別日ではあったが、もう一度話をされた。
その時に言われたのは、
・増田が本当に医者になりたくて且つ子供も欲しいなら、孫(=増田の子供(※24))が一人で留守番が出来る年齢になるまでは私がフォローする。私の体力が追いつかなくなったらシッター代も出す。だからそれも踏まえた上で、自分が『医者』になりたいのか、『母親』になりたいのか考えろ
・ただし、その場合は増田の就職は(地元)県一択になるだろうから、そこを前提に考えろ
・田舎から出ていきたいと思うなら、専業主夫になってくれる男性と結婚か、或いは子供を持たない夫婦二人暮らしを選択する事になるが、家事労働を金で買うかのどれかだが、そういう考えに賛同してくれる相手は数が少ないと心得よ
・医者になる幸せと、(増田)の人生の幸せ(※25)と、よく考えてから志望校は決めなさい
そういう話をされ、『そこまでして医者になりたいか?』と考えた結果、以降増田は志望校欄から医学部の名前を書かなくなった。
※24:結果として、母親の想定年齢を超えても増田は一人身だし当然の様に孫も産んで無い為、このくだりを書きながら無駄な気苦労をさせてすまない…、という気持ちで一杯である
※25:生活力の無さを見抜かれた上での発言であり、別に子供を産むことを推奨はしていない。30歳を超えたある日、電話口で母に『孫いなくてごめん』と謝ったら『子供なんて、居たら居た形の幸せがあるし、居なきゃ居ない形の幸せがあるんだから、比較も出来ないし、(母)に謝る事ではない』と叱られた。本当にすみません…
此処まで書いてこんな事を言っても信じて貰えないだろうが、別段増田は『女性が医者になるな』と主張したい訳ではない。
ただ、医者になりたいのであれば『自分が誰に投資をされたのか』という事を忘れないで欲しいし、その投資に対して最低限ペイをする気が最初から無いならば、その道は他に譲ってくれないだろうか。(或いは、現場医師ではなく、研究職といったルートを選択するとか、兎角ペイを出来る道筋を立てて欲しい)
そして、医者の総数が少ない以上、途中で辞めてしまう優秀な医師よりも定年まで働いてくれる平々凡々な医師の方が有難い、と思う程に、医師の少ない地域があるのだ、という事実に少しで良いから目を向けて欲しい。
産休・育休をしても尚女性医師が長く働ける職場を、と言うならば、お互い様精神で、男性医師だって同じ様に休ませて欲しい。女性医師の休みは認めろと声高に叫ぶならば、同じ様に男性医師にも同じ期間だけ育休を取得する権利を声高に叫んでくれ。
『女性は妊娠・出産するから優遇されて当然でしょ!』ではなく、女性であろうが男性であろうが同じ様に当直を行い同じ様に休みを取り同じ様に昇給して同じ様に家族との時間を持てる様にと主張して欲しいだけである。
が、現状、当然比較論ではあるが妊娠・出産を機に投資に見合ったペイもせぬまま医者を辞める女性は多く、その穴埋めを男性医師が当然の如く行っている以上、男性に下駄を履かせたり、女性を少なく取ったりしたって『当然だよなぁ』と思うのである。
少なくとも、医者になりたいし母親にもなりたいの!と思うならば、実家のフォロー/パートナーのフォロー(※26)/民間(例:シッター)のフォローなど、両立出来るだけの道筋を立てられるかどうかを、一度考えてみて欲しい。
※26:我が家の場合は『奥さんに丸投げ=パートナーのフォロー』なので、真面目に女医を成立させるならで自分の代わりに家庭を全て回してくれる人を探す案をおすすめしたいし、現状それで男性医師の家庭は回っているのだから、女性医師が真似ても上手く回る例なのでは?と本気で思っている
まずは一人一人が己の健康を顧みて、医師の負担を減らす事で、医師の仕事量の総数が減り、結果男女共に産休・育休を取りやすくする事を目指しませんか?
具体的には
・日々歩く、と言った最低限の健康管理を行う(成人病のリスクを下げる)
・(今のシーズンだと)熱中症予防をきちんと行う(急患の数も減らし、重篤な熱中症患者を出さない)
・予防接種を受ける(風疹騒ぎ、よもやお忘れではあるまいな…?)(※27)
・健康診断を受ける(数年に一度脳ドッグオプションを付けたり、市町村区でフォローしてくれるガン検診を受けたり、早期発見早期治療を目指す)
みたいな。
少なくとも、そういうフォローの仕方もあると思うので、ご一考頂ければ幸いです(※28)。
※27:予防接種については、医学的に受ける事も出来ない人(例:妊婦の風疹ワクチン)もいるのだから、少なくとも飛沫感染・蚊を媒体にした血液感染系の予防接種は医学的に問題が無いなら受けて欲しい。接触型感染である子宮頸がん、みたいな類のワクチンは医師家族相談の上自己判断で良いと思うけど、少なくとも不可抗力で他人にうつしてしまう可能性があるならば、皆で予防する、というのは基本的な事ではないかと
※28:これ、医者に限らず例えばサービス業に対しても同じだと思うのですが。と申し添えておく。お金も払わずにサービスだけを求めるのを止めて、サービスに見合った対価を払うか、或いは対価を払いたくないのであればサービスを求めないとか。まずは等価交換が基本でしょう?
この間、実家に帰ったら父親にぼそりと『(増田)を医学部にやれば良かった』とか言われた。
オメェ、あの時散々反対したじゃねーかよ。と殴ろうかと思ったけどやめた。
『属性:医者』をようやく辞める事が出来た彼は、ようやく『属性:父親』の練習を始めたばかりであり、目下家族との対話の練習中なのであり、まだまだ足りない日本語(※29)をフォローし、行間を読む日々は続きそうである。
こんな形ではてブロとかダイアリーデビューするとは思わなんだなんですけど
以下に書く通りめちゃくちゃ時間があるし、
ウン年オタクをやってきた自分の中で今まで無い感情だと思うから半分愚痴というかぼやきなんだけど残しておきます。
いやある、あるんだけど。
なんかこうその作品に対するパッション?みたいなのが全く底をついてしまった。
今まではなんかこうパッションがある時に
また別の作品に出会って新たなパッションを得て……みたいな自然な?ループ?をしてたんだよね。
今まではインターネットオンリーお絵かきマンってやつだったけど最近は同人誌作ってイベント出たりもしてた。
・作品に動きが無い(ユーザー間ではサービス終了が囁かれている(…))
が主だと思う。
自分で諸々の情報アーカイブを作るなどしてもうゆるやかに身を固めている。
終わるってそれお金落とさないからでしょ?って思った人いると思う。
お金落とすところを公式が作ってくれないと落とせないんですよね…。
私はこの作品の半生ほども共に歩めていない
全く金を落とさねえのに何言ってんだコイツ……みたいなファンではない。(と思う)
二つ目はもう理不尽な粘着にあったりしてる(恐らく未だ現在進行形)けど
その他のことは界隈に同調することができなかっためんどくさいオタクの私が悪いと思うので割愛。
でも悪いことを悪くないよ~なんて擁護するのはおかしいと思ったし、
身内、という言葉とグループがじわじわと悪性?を持ち始めていたとも感じるから
抜けてきて良かったとも思うし悪かった面が7対3くらいかな。
まあそんなことが続いてなんというか心がとても擦り切れた。
作品のことだってキャラクターのことだってこんなにこんなに大好きなのに。
大好きなのに、こんなことで擦り切れてしまうのが切なくて悲しいし自分に苛立ちを感じる。
そしてここにしがみつくみたいにどこにもいけないことにも整理できない感情がある。
離れてしまえば大好きという気持ちが無くなってしまうように感じている。
今までは「好きな作品は二次創作をしなくても呟かなくなってもちゃんと大好きなまま」って
とここまでこんな風に書いておいて、他に夢中になれる作品もないから漠然と立ち尽くしている。
同時にもうこのジャンルで底をついたパッションが戻ることは無いとも感じる。
そんなこんなでアホほど描いていた絵も全く描けなくなり
ボーッとTwitterを眺める日々を過ごしてる。から今こうしてこれを書いてます。
まあ私の好きなジャンルの状況諸々は置いておいて、
私は作った人間とファンに愛されていると感じる作品のことがその作品をよく知らなくても好きだ。
ST☆RISHがデビューCD「マジLOVE1000%」の発売から7周年を迎えたそうで、
Twitterで公式やファンの方々がおめでとうと祝っているのを見て勝手に泣いた。
たまにはてブロなどで「この作品や人に出会って人生が変わった」という記事を読むと胸がぎゅうっとなる。
文章から伝わってくるくらいとても眩しくてその作品のことを大切にしているんだな~と感じる。
羨ましいとかそういう感情以前に何かに対して大好きだって叫べる人のことが大好きなオタクなので。
だから今の自分が大好きなものに対して大好きと叫べなくなってしまっているのが苦しい。
私も今まで出会ってきた全ての作品やキャラに人生を変えてきてもらっていると思うけれど、
今はまたそんな作品と新たに巡り会う機会があるかなと期待してしまう。
また時間と腕が足りね~~~~~!!!!!!なんて言いながら絵を描いたり呟いたりする日が来るといいな。
しっちゃかめっちゃかなオタクの愚痴ぼやきをここまで読んでくれた人ありがとうございました。
増田は生物学的性・性自認・性的指向すべて女性で、社会人になってからずっとエンジニアをしています。
最近、皆さんもご認識の通り、あるイベントでの発表が物議を醸しています。
http://b.hatena.ne.jp/entry/s/logmi.jp/294756
この発表や付随する世の反応(主にTwitter)を拝見してからずっと、心臓がざわつくような感覚を覚えています。
自身の気持ちを整理するため、今まで自分が”女性エンジニア"として生きてきて遭遇した様々な不自由さと、本件に対して思うことを文章にしてみたいと思います。
ただでさえ特定されやすい属性ですから、多少のフェイクが混ざるかもしれません。
初めて、かつ最大の不自由さを感じた出来事は、ある会社で起きたことでした。
言葉にしてしまうと、とてもシンプルでよくあることかもしれません。
どのようなことがあったのかは、思い出したくもないことなので割愛します。
具体性を欠く話になってしまいますが、複数の第三者の告発を経て収束した出来事でしたので、
行きすぎたフェミニストの過剰反応ではない旨、信用していただければと思います。
色々な心情からしてしまったことではありますが、今となっては全く無駄な時間を浪費してしまったと反省しています。
もし子供がいたら、きっとこのまま泣き寝入りしてしまっていたと思います。
結局、様子のおかしいことに気がついてくれた職場の同僚や先輩が、各所に通報してくださり、
Aは社内で秘密裏に制裁を受け、私には謝罪といくらかの示談金が与えられました。
Aとは直接話をしていないのですが、真摯に謝罪をしてくれたと信じています。
ただ、それまでの過程でAの上司から受けた言葉で、もうこの会社にはいられないと思い、転職する結果となってしまいました。
Aは社内でもそれなりの地位にいたため、その上司となると執行役員クラスになります。
上司からは対面で「自分の監督不行き届きだ、申し訳ないことをした」という旨の謝罪を受けましたが、その中の小さな一言に本音が見えてしまいました。
「ただ”この程度のことで”Aを懲戒解雇にはできない」
この一言で、もうこの会社から貰う給料で生きていたくないと思うようになり、できる限りの早さで転職先を探し、退職届を出しました。
仕事自体に不満はなかったため、必要ではあるが不本意な転職となってしまいました。
すぐ転職できる状況だったなら、示談金も受け取って得したじゃないかと思われる方もいるかもしれません。
しかし、この件でしばらくは心療内科のお世話になることになりましたし、最寄駅もAに知られていたため転居の費用もかかりました。
今でこそ心療内科のお世話にはなっていませんが、当時は自力で睡眠を摂ることもできなかったし、
Aに似た背格好の男性を見ると動悸がして動けなくなったりしました。
何より、一度損なってしまったものは回復しても元どおりにはならないのです。
この出来事を境に、自分は心身ともにすっかり変わってしまったと感じています。
本件を通して、一人のエンジニアとして受けた損害は不本意な転職だけではありませんでした。
当時、はてなブログで簡単な技術メモのようなことをしていました。
退職後のことですが、そのブログに「楽しそうだね」とコメントがつきました。
きっと私の考えすぎだと思います。そうでない可能性も十分にあると思います。
それでも、「俺はあんな目にあったのにお前は会社を辞めて楽しそうにやっているな」という、
Aからの恨みのコメントなのではないかという不安にとらわれてしまい、ブログはすぐに閉鎖しました。
それ以来、パブリックな場へのアウトプットは一切できていません。
しかしいまや、公的な場へのアウトプットを求められることは、エンジニアにとって当然の時代となりました。
GithubやQiitaなど、エンジニアとしての名刺代わりになるようなアカウントをプライベートに閉じることは、
エンジニアとして生きる上で大変もったいないことだという自覚はあります。
これももう昔のことですから、今更何かあるなどとは思っていません。
それなのに、なぜだか、アウトプットへの気概のようなものを根こそぎ失ってしまい、それを回復できずにいます。
技術サーベイにパスしたり、リファラル採用を活用することで、今現在もなんとか転職活動はできているという状況です。
これ以降も、女性であるがゆえの不自由さには度々遭遇しました。
エンジニアとして採用されたにも関わらず、顧客の受けが良いからという理由で、業務時間の大半を営業同行にあてられてしまった会社もありました。
再三の改善要求にも応じる気配がなかったため、その会社は短期間で退職してしまいました。
会社を見る目がなかったと言われてしまうと、それまでのことですが…
勉強会に参加すると、結構な確率で司会者のアイスブレイクのネタに使われてしまいます。
ひどい時は、受付の時点で「会場を間違えていませんか」と言われてしまうことあります。
「今日は女性の参加者もいらっしゃいますね、嬉しいですね。どちらからいらしたんですか」など、大半が悪意のないもので、非難する意図はありません。
ただ、自分自身でコントロールできない属性を理由に人々の注目を浴びることは、なかなかに消耗してしまうということも、ご理解いただきたいと思います。
多くの人が問題意識を感じている一方で、何が問題なのかわからない・気にしすぎだと表明している人も少なくありません。
こちらのブログで丁寧な所見が述べられていますが、それでもなお、納得のいかない人がいらっしゃるようです。
http://b.hatena.ne.jp/entry/s/piro.sakura.ne.jp/latest/blosxom/topics/2018-06-22_women.htm
問題の記事の「女性エンジニアが少ない問題」を「我々の職場に女性が少ない問題」、「女性エンジニア」を「女性」に置き換えてみてください。
記事としてなんら問題なく、意味も意図も通ってしまうと思います。
「エンジニア」という専門職の女性として論じておきながら、その実、期待する役割は「声や女性らしい立ち居振る舞い」といったジェンダーロールの顕現でしかないのです。
おそらく、「女性エンジニアが少ない」ではなく単に「職場に女性が少ない」問題であれば、ここまで炎上することはなかったのではないかと思います。
(もちろん「女性」でも駄目ですが)
ここまで腑に落ちていただければ、
などといった反論が、全くのお門違いであるとご理解いただけるのではないでしょうか。
私たちは女性という属性をたまたま持っていただけのエンジニアなんです。
エンジニア扱いをしてほしいのです。
それをする気がないのであれば、もしくは性差について論じなければならない状況でないのなら、
わざわざ「女性エンジニア」などとカテゴライズして槍玉にあげないでほしいのです。
こんなことを主張しなければならない状況に、もうずっと私たちは消耗して疲れ果てています。
それでも、もし、次の生をエンジニアとして受けて、性別を自由に選べるとしたら、私は迷わず男性を選びます。
不本意な転職を重ねたといえども、見え始めた自分のキャリアに一定の満足もしています。
気軽に使えるサービスも増え、誰でもネットショップを開ける時代ですね。
ネットショップを運営する理由も人それぞれだし、自由だと思うけど
気軽に始められること
や
簡単に始められること
と
責任感持たずにやれる
とは
全く別のことだからね
「気軽」や「簡単」といった言葉の意味を履き違えてはいけないと思う訳です。
・金は欲しいが運営は真面目にやりたくない
みたいな人は本当に本気で真面目にいい加減にしろよという気持ちしかない訳です。
その店の運営責任者であり、販売した商品の責任者であり、対応するべき責任者であって
やりたくない、というのは全く理由にならない。
運営がずさんだと購入者に迷惑がかかるし、何らかのサービスを使っている場合にはその運営元の会社にも迷惑がかかることもある。
というか「販売して得られるお金」以外の部分への意識がまるでないならもうその時点で今すぐ販売業なんてやめてくれと。
付随するあるゆる物事に対してきちんとやるべきことをやるのが前提であるべきで。
運営者の事情がどうであろうと、購入者から見たら「店」の責任者であることを自覚してやるべきだと思うのです。
客がいることは変わりない訳です
ネットショップだからちゃんと対応しなくて良いなんて道理ないんです
ネットショップだから自分の好き勝手して良い理屈なんかないんです
きちんと責任持ってやってほしい、本当に。
コンビニで夕勤のバイトを始めてじきに丸二ヶ月になる。といっても1日4時間週2日勤務なので、出来る事は大して多くない。
自分では結構いい感じにやれていると思っているのだけれど、誰も私の仕事を良いとも悪いとも評価しないので、本当のところよくわからない。ただ、たまに交代時間に会うベテランのパートさんには、「大分慣れたみたいだね」と言われた。それだけ。
週に2回の勤務のうち1回は店長とでもう1回は副店長と組んでいる。
副店長は陽気で親切な性格で私にもなにかと話し掛けてくれるのだが、店長とは用が無い限り全くと言っていいほど話す事がなくめっちゃディスコミュニケーション。だがごく僅かしか話さないけど、何となく面倒事が嫌いな様に思われ、しかも最近新人である私の教育もその面倒事の一つになりかけているような感があるような無いような気がするけどよくわからない。
店長は寡黙な質なのかといえばそうでも無いらしく、副店長や時々来店する以前バイトしてた女の子とはよく喋っている。
てことは問題はどちらかといえば私にあるという事か。私自身、猛烈人見知りで自分から人に話し掛ける事がなくて、しかし仕事となれば朗かに接客するし副店長やマネージャーやベテランのパートさんなどに話し掛けられるとちゃんと応答(内心かなりびくびくしてるんだけど)するせいで、店長にだけ塩対応してるみたいに思われちゃったのかな。すみませんけど本当に人と話すの苦手なんでどうしたもんだろう。
先日は副店長と仕事だったが副店長はあーもー辛い眠いマジしんどいとぼやきまくりだった。接客の時はうってかわって仕事のバリバリできる快活なお兄さんになっているのだが、客足が途絶えると萎びていた。
実際副店長のシフトは鬼の様で、夕勤帯から早朝まで、休憩を挟むとはいえ14時間も拘束されている。なお店長も同じ。この時間帯のシフトは毎日店長と副店長が交代でやっているということ。そこに夕勤・準夜勤の時間帯だけは私含めて三人の女性バイトのうちの一人がつく。女性バイトのうち二人が新人だ。
だから店長も副店長も1日おきに長時間労働でしかも忙しい夕勤の時間帯には新人のフォローもしながらという、しんどい仕事をしている。正社員なのでお店に出ていない日は昼勤や他店のフォローやら事務仕事やら、やることが色々あるだろう。
バイトが働き易いと思って仕事をしている裏ではこのようにその分苦労している人達がいる。
私はまだ子供達が小さいので、昼間フルタイムで働くのは難しいと思い、夕方夫の帰りが早いのを良いことに、働きに出る事にしたんだけど。でも上手いやり方だと思ったけどその分他人に負担をかけてるんだなと思ったらやるせなくなった。
子なし時代に働いていた職場では、私は若いからって子持ちの人達のフォローを全部押し付けられてしまって、心身を病んでしまう程に追い込まれてしまったが、フォローされる方の人達は私に対して容赦がなかった。
若くて体力が有り余ってる癖にとか、どうせ子持ちの気持ちなんかわからないでしょうとか、こっちは何も言ってないのに一方的に叩かれたし、生理止まるくらい疲弊してるのにあんたも早く子供産めばいいのにとか、とにかくハラスメントされ放題になっていた。
そんなんだったから、子持ちになったら極力職場の人に面倒をかけない様にと思って、子供の行事や病気などがあっても休まないで済みそうな時間帯で勤務日数も少なくて済む職場、という事でコンビニバイトを選んだけれど、私の考えは甘かったのかもしれない。
特に、副店長はこきつかわれてた頃の私と同じくらいの歳なのもあって、目の周りがぐるりと隈で真っ黒になってるのを見るとほんと悪い事をしている気がしてしまう。
タイトルは結婚して数年経った私が使う、独身の友人の「結婚できるのかな…」というぼやきへのお決まりの返答だ。
だいたいめちゃくちゃに酔っ払ってる時に限ってそういう話になるのでかなり熱弁を奮ってしまい相手の酔いを覚ましてしまうので毎度反省している。
けれど、コレはかなり深い部分の本音だ。
それでもやっぱり「結婚なんかしなくてもいい」と思っている。
私は30歳を少し過ぎて結婚した。
仲のいい友人がひとり、またひとりと結婚していき少々焦りもあった。
けれどそれは「私だけ結婚できないのでは…?」という焦りではなくて
「私だけ誰からも選ばれないのでは…?」という焦りだった。
プロポーズがされたい。
誰かのたった一人に選ばれたい。
独身の私は自分の言っている「結婚したい」という願望は「プロポーズされたい」のルビが振られているのに婚約直前に気づいた。
私は、プロポーズされることで自分の承認欲求を満たしたかったのだ。
当時5年近く付き合って結婚の話も出ているのにプロポーズをしてこない彼(現夫)にちょっとイライラして、
「結婚するの?しないの?」と詰め寄った事があるが「そうだね~」と軽く流された。
別に「結婚する気がない」って言われたらその場で別れるとかそういうつもりはなかった。
ただ、「結婚する気がない人と付き合ってる」という心の準備が必要だからはっきりしてほしかった。
彼にもそう伝えたが、今思えば強がりやウソと思われていたかもしれない。
でも、結婚する気がある彼と付き合っていてプロポーズされないのと、結婚する気がない彼からプロポーズされない
のでは天と地ほどに差がある。
そもそも誰も選ぶ気がないのであれば選ばれないのも当然で、自分に否があるわけじゃない。
結局彼は誰かを選びたい人だったので、うだうだ待つのもめんどくさいからと半ば強引に入籍したのだ。
(選ぶ選ばない、という言葉を使っているがそれは私が結婚に対して「承認欲求をみたしたい」という願望が
あったためで、決して結婚は男が女を選んでするものだなんて思っていないことは付け加えておく。)
仕事や趣味で認められていたら彼に「結婚は?」詰め寄ることもなかったかもしれない。
けれど、仕事の能力も並で特別「私でなければならないこと」はなかったし、趣味はほとんど無趣味に近いし趣味の友人なんていなかった。
その点、結婚は日本では1人としかできない。彼が選ぶのはたった一人。
それが自分の中で分かった時、すごく楽になった。スッキリした。
すでに結婚は決まっていたし後悔もしていなかったけど、なんだか「な~んだ、私、誰かに認められたかったのか」と
自分の中にあったドロドロとした焦りの正体が分かって晴れやかな気持ちだった。
そこで周りを見渡してみると「結婚したい」と酒を飲み、酔っている友人たち。
軽い気持ちで聞いてみるとざっくりと「いい歳だから」「子供が欲しい」「親を安心させたい」というような理由が多いようだ。
いい歳、と言うけれど晩婚化が話題になっているし60代で初婚という話も最近割とよく聞く気がする。
そもそもいい歳、というと結婚しても専業主婦になる女性が少なくなっている現代。働き続ける女性にとって
結婚すると女性はいつ妊娠し育休に入るかずっと上司たちに気にされ続ける。
最近よく記事で読むような「結婚して子供を産んでも変わらずキャリアを積んでいます」という美談。
一応私は大手企業に属しているが組合が強く、女性社員の活躍がうたわれており組合が強いだけあって実際色んな制度も充実している。
だが、女性の管理職は少なく、その中で既婚の女性管理職はもっと少ない、
でも、結婚している人や子供を産んだ一般の女性社員は山のようにいる。
彼女たちは結婚し、子供ができれば産休・育休をとり、子供が小さければ時短勤務だ。
仕事だってそれなりにできる彼女たち。未婚の管理職と同じくらいの年数働いているのに管理職はこの中にはいない。
この現実をみてると、仕事を頑張りたい・いつか管理職になりたいという女性社員にとっては結婚は足かせなのではないかと思ってしまう。
子供だって、自分自身の覚悟があり、きちんと将来的に子供を納得させられる理由があれば未婚の母を選択して育てることは十分可能なのではないだろうか。
両親揃っていることが好ましい、そりゃ1人を人間を1人で育てるよりも誰かと分かち合った方が楽だし、子供にとっても頼れる相手が1人でも多い方が幸せだろう。
だけど、その分かち合う相手や子供が頼る相手は結婚相手じゃなくてもよいのではないだろうか。
自分の親兄弟でもいいし、信頼できる親友だっていいんじゃないかな。
血がつながってなくてはいけない理由も、同じ戸籍に入ってなければいけない理由もない。
親に花嫁姿見せたいよね、一生添い遂げるパートナーを紹介して安心して老後過ごしてもらいたいよね。
本当によく分かる。
親世代や祖父母世代は、子供が結婚するということに大変な安心感を覚えるのは自分の両親を見ていてわかった。
本当に子供から手が離れた瞬間だったんだと思う。自分以上に両親が幸せそうだった。
でもそれは、それ以外のことでカバーできると思う。
子供が本当に不幸でないことが、親にとって1番必要なことで、それには結婚は絶対条件ではない。
結婚しても不幸になるし、しなくても不幸になる。
結婚という要素の1つだけが、その人の人生の幸せ全てを左右するものではないと思う。
いまだに男女ともに「結婚して一人前」という意識が根強い社会だ。
ずっと「結婚したいと思わないの?」とか「なんで結婚しないの?」という質問を受け続けるし、そのうちそんな質問もされなくなって周囲の結婚の話題の際に気まずい空気を作り出す原因になるかもしれない。
結婚していればお互いでどうにか助け合えるかもしれないし、子供がいれば施設に入れるくらいしてくれるかもしれない。
でも1人だと、全部自分でやらなければいけない。
今ならいい、若いうちなら体調が悪ければ病院に1人で行けるし、病状もうまく説明できるだろう。
施設だって自分の希望にあった場所を探しせるし、空きがなければ他の施設も探せるだろう。
自分だけで移動できる距離・時間は限られてくるし、病状もうまく言葉が出てこないせいでうまく伝えられない。
運良く施設を見つけられても、諸々の手続きを老いた自分が1人でできるだろうか。
なにより、死んだ後だ。
誰かを頼らなざるを得ないときがくる。
でも、社会とのすり合わせも、老後も自分が納得・始末できればそれでいいんじゃないだろうか。
1人で生きていくと決めたなら早め早めに準備すればいいだけだ。
私は結婚を後悔なんてしたことありません!なんてきれいごとは絶対に言えない。週に3回は後悔してる。
お金やスケジュールが自分ひとりの判断では決められなくなったし、別にこっちは気にしてないのに「夜の飲み会は旦那さんに悪いから」という気遣いで呼ばれなくなった集まりもある。
反対に結婚していないとできないことってとっても少ない。
世の中には私も含めて物好きが多いな。
婚姻届をもって他人と家族になります。裏切りません。相手の人生にも責任を持ちます。
という内容の契約。
ひとりでも楽しく生きていける時代なのに、男女ともに結婚をしていないと一人前に扱われない。
だから言いたい。
いいんだよ、結婚なんかしなくて。
けれど、それはひとりでいたら得られる幸せを捨てることだ。
どっちの幸せを捨てるか。
前述したように、まだまだ結婚したら一人前という社会ではあるけれども、若い子たちはそうでもないんじゃないだろうか。
これから私達が生きるのは未来だ。口うるさい人たちはきっと私達より先に死ぬ。
それが選べる友人たちが少しうらやましい。
ライトノベルブームの記事を見た。自分の認識では漫画もラノベももう売れなくなっててゆるやかに終わりつつあるジャンルという感じなんだがそうでもないのかね。年取ったせいで自分はもうああいうのは楽しめなくなったというか、小説やアニメや映画も含めてフィクション全般バカバカしくて見てられなくなった。なんでこんなもんに熱中していたのか、時間の無駄だったなと後悔している。
こういうことを言うとすぐ「時代についていけなくなった老害」だと非難されるわけだが、40代50代にもなって漫画、ラノベ、アニメ、小説、映画とかにはまってる人間は「老害」ではなくて賢い人間なんだろうか。たかがフィクションを楽しんでいるだけの人間がなぜそんなに偉そうにしているのか。ある程度の年齢になればフィクションの底の浅さに気付くだろう。それでもまだ若い頃はそういう底の浅い陳腐なものをあえて楽しんでいたりもした。しかしそれも限界に達する。もはや底の浅い陳腐なものをあえて楽しむという趣味にも飽きてしまう。
真性オタクは底の浅い陳腐なものをあえて楽しむ趣味を40代50代になっても依然として続けている。現代の出版事情においては彼らのような真性オタクが漫画やラノベを買い支えている。記事によるといまだにブームということらしいし、ますます拡大を続けているという。底の浅い陳腐なものをあえて楽しむ趣味を飽きずに続けている40代50代がこれからもどんどん増えていくんだろうか。
あえて「時代についていけなくなった老害」として言わせてもらうと、自分はそういう連中を不気味だと思うし、不憫だとも思う。しかし同時にすごいことだとも思う。その辺の底の浅いつまらない作家が書いた陳腐な作り話に熱中して子供のように感動してしまう真性オタクたちはある意味で時間を超越した存在でもある。彼らは年を取らないし、永遠に子供と同じ感性のままで生きている。飽きるということがない。同じような感動ストーリーを見てもまるで初めてそういったものに接したかのように純粋に感動するし、「既視感の牢獄」などといって作品批判をすることもない。彼らの漫画・ラノベ体験はつねに新鮮で、生き生きしていて、色彩豊かで、刺激に満ちている。正直うらやましい。
話が飛ぶが、自分はもう人生に飽きてしまった。何をやってもつまらない。人間の限界を感じるし、さらに壮大なことをいえば宇宙の限界を感じる。毎日が無力感との戦いだ。すべてが想定の範囲におさまってしまう。想像力の飛翔とも思えた漫画・ラノベですらもう自分には何の目新しいこともない。どの作品も既存の設定や筋書きの配列や条件や固有名詞をちょっと変えただけ。すべてが想定の範囲できれいに丸く収まる。想像力は飛び立つのではなく、磁力に引きつけられて大地に叩き落される。ああやっぱりそうなったか。飛ぼうとした人間はいくらでも見てきたが、結局だれも飛べなかった。
とまあこんなことを書いてみたが、こういう老害のぼやきすらすでにテンプレであって、こういう言説自体にすでに飽き飽きしている。そしてこういう文章に対してどういった批判がくるかもまた自分にはわかってしまうし、多くの人はそうなんじゃないだろうか。作品があり、老害からの作品批判があり、作品批判する老害への批判がある、ここまでがセットだ。そしてこの一連のテンプレ的やりとりにすら飽き飽きしている。もしかしたらすべてのやりとりは簡単なAIで十分なのかもしれない。飛べていると錯覚している真性オタクたちと飛べていないことを自覚している老害。飛べているという錯覚はいつでも想定の範囲の陳腐さだが、飛べていないという自覚もまた同じくらいに陳腐なものだ。ここには弁証法的なものはない。反発しあう二つの力が化学反応を起こして何か新しいものを創造するわけでもなく、目新しくもないその場限りのテンプレ的反目が未来永劫断続的に続くだけ。端的に言ってすべてにもう飽きている。飽きていること自体に飽き飽きしている。
こうやって死を受け入れていくんだろうなどと最近は思うようになった。子供のころはなぜ人間は死ななければならないんだと苦悩していた。そんな理不尽があっていいのかと。しかし自分も年をとってきて、人生に飽きてきて、だんだん死に対する態度が変わってきた。死は救いであるとまでは言わない。自分の中では死というのはそんなに肯定的で前向きなものでもない。死は眠りに例えられることが多いが、まさに穏やかな眠りといった感覚に近い。肯定でも否定でもない。ごぼごぼとあぶくの音がする。そこに自分がとけていく。
世界はとてもつまらなくなった。それは自分がつまらなくなったからだ。そういう反論は多い。たしかにそうかもしれない。自分はつまらなくなった。射精の快感も最近は全然感じなくなった。ただ精液が弱々しく飛び出るだけ。初めて射精したときのあの凄まじい快感は一体何だったのか。あのころは自分が本当の意味で人生を知ったのだと思った。射精のない幼少期はピントの定まっていない夢のように思えた。あの凄まじい覚醒感はなんだったのか。生きてるって感じはなんだったのか。いまはもう射精にも飽きてしまった。自分の射精は想定の範囲におさまっている。天井まで飛んでいくように思えたあの青春はなんだったのか。
すべてに飽き飽きしていて、刺激に対して鈍感になってしまった。資本主義社会の虚飾にはうんざりしている。どうして馬鹿騒ぎできるのか、どうして楽しめるのか、自分にはもうわからない。つい最近、オリンピックをやっていたが、当然まったく見ることはなかった。子供のころそんなものにワクワクしていたのはなぜだろう。
長文。
25のときにプロジェクトがおおこけしてから、課長にパワハラを受けながらのプロジェクトが続いた。終電、タクシー、徹夜を繰り返す毎日。若さと馬鹿さは紙一重。当時は身体など気にせず、心がおもむくまでの天才プログラミングが毎日続いているなどと勘違いしていた。
最終的にそのプロジェクトは、新卒がぶらぶら入ってきて、自分は「あいつらのほうがおまえよりも生産性高いし、まじでいままで何やってんだよ」と罵倒され続け、心がくじけてしまった。最終的には、どうでもいいテスター業務なんぞやらされ(実装屋としてはそのころからテスターは大っ嫌いな仕事)をやらされて、もう気持ちが参ってしまった。
その時まで、いろんな組み込みをしてきた。SCSIとか、USBとか、画像処理とか、JPEGとか、MPEGとか。会社で勉強して、組み込んで、間違えて、直して、テストして、OK/NG見て。心がNGラインの曲線を描きながら、父に殺せ、母に殺せ、と実家暮らしが災いした。死ななくてよかった。(そこから数か月工場に通ったが、朝が早すぎて体力的に持たなくなってしまった。同時にパワハラからのうつが、どんどんとひどくなり、結局持たなかった。(その後パワハラ上司は窓際に追いやられたらしい。)
会社を辞めてから、なぜかコピーライターになりたくなってしまった。そして実際に2つの会社を経験し、泣きながらやめることになる。
一つ目の会社は、有給がなかった。コピーライター養成講座に通いながらハローワークで見つけた求人で、「有給ないんですか」って言ったら「んなもんねーよ」と、確かに誰も文句ひとつ言わずに、有給なし、ボーナスはデザイナーのみ(デザイン事務所だったから)、うつは隠して働かないとで、結局、夜は全く帰れず病気が辛くなり辞めてしまった。
それからもう一社で働いたが、Macの起動音を聞くと辛くなるほど追い詰められ、結局退社。(それ以降、Macでどや顔している人たちにはちょっと嫌な気持ちを抱く)
さあ、じゃあ、自分は売り物があるんだ、結局プログラミングしかないじゃないか、とJava屋さんに転向。この時の身売りが結局今までを何とか結び付けた。
月の残業は20時間程度、終わった後の主な業務は飲み会っていう天国に(一回終電もあったけど、すげえ怒られた記憶もあったけど、一回土曜日出勤してピクニック気分で派遣さんがお弁当作ってきてくれたけど、ほんとにいい思い出しかねえ)。
3年ほどプログラマをしてから、ライターに転向したり、自分にとって屈辱的なテスターに転向したりなどしつつも、幸せな生活を保っていられたのが崩れたのは会社の上場。それによって何もかもぐちゃぐちゃになった。社内政治が生まれ、嫁をとった自分には再び苦しい現実が続き、「あの野郎、ぶっ殺してやる!」という罵声が飛び、結局従い、残る人は残る人、辞める人は辞める人といった選別が行われ、結局辞めざるを得なくなった自分は、何のあてもなく千切れる糸を眺めていた。
そのころ、地震があった。テレビから逃げられず、結局3か月休んだ。フラグは立ちまくった。
その後、何とか働かしてくれる取説の会社があった。まじめに働いててもそもそもの英語力のなさで各方面に迷惑をかけた。
迷惑をかけながら、結局自分は障碍者ではないのか、という疑念がわいた。それをあまり検証せず、もう現状の仕事を続けていくのは無理と感じた。
でも割と給料暮れるし、そこそこ幸せ。いつかは正社員か。などぼやきながら働いている。
落ちて行っているのか、どうなのか分からないけど、誰の参考にもならないけど、生きるって、こういうのもあるんだよっていうのを増田ってみました。
40代。既婚子無し。都心に住んで都心で働いている。出世コースに乗ってはいないが、取り立てて不満の無いポジションにいる。暮らしにも仕事にも急を要する不満は無い。
けれども一つだけ。騒がしいのが苦手でならない。仕事でもプライベートでも都心ではどこに居ても、常に騒がしくてかなわない。過剰な笑い声、貧乏揺すり、飲食店でのクチャクチャ音、クルマのクラックション、電車の中のイヤホンの音漏れ、常に何らかの不快な音が耳に入って来て堪らない。心から落着くのは自宅の部屋の中だけだ。
そう書くと、速攻で鬱の気があると返される。まぁ若干はそうなのだろう。が。音以外に関しては大過なく日常生活を過ごせている。外出それ自体は楽しいし、人付き合いも苦では無く、自宅に引きこもるのは嫌だなと思う。でも騒がしい環境には結構消耗させられる。
一方、国内旅行で地方に行った際には、必ず夜中に宿の周囲を散策するのだが、殆どの旅行先で、その静けさに驚かされる。聞こえて来るのは虫の声と風の音とたまにクルマの走行音。理想的な環境だ。この環境を一日一回満喫出来るとしたら、とても素晴らしいなと憧れる。都心にいるとまず手に入らない環境が地方都市にはある。気がする。
新卒以来一度も職を変えた事がないのだが、転職して移住する。という選択肢もあるのかな?等と最近ぼんやり考えてみたりもする。連れ合いに相談してみようかな。驚くかな。落ちも何も無いぼやきみたいな事を書いてしまった。他所でやれクソ雑魚ナメクジコメが付きそうだがまあいい。日記だ。
まず、この記事は同人歴約一桁後半の腐女子のぼやきであることを念頭においてほしい。
定番どころだとファンタジー作品の学パロ(学園パロディ)やBL定番の吸血鬼パロ、最近ではオメガバースなんかもある。二次創作どころか、公式でパロもののスピンオフや番外をやるタイトルも少なくない。
(型月のちびちゅきとか、進撃の中学校とか)
パロ自体は好きだ。読んだことも創作したこともある。魔法学校パロとか世代的にドンピシャ。
そんな私が最近、twitterで見かけて目が点になったものがある。
「前世設定で吸血鬼Aとシスター女体化Bが同級生の幼馴染なAB」
特定できないよう少しフェイクを入れたけどほぼ近い内容。ちなみにこのAとBは原作ではおっさんと少年である。
つまり上記の一文には、設定だけで「前世、吸血鬼、年齢操作、性別逆転、学園モノ」の五要素が盛り込まれている。
正直、それABでやる必要あるの?と思った。
二次創作なんて全部捏造だとか、そもそもBLの時点で…とか、個人の趣味なんだからとか、そういう「そもそも論」はとりあえず置いてほしい。
わかっている。そんなことはわかっているが、それでも二次創作は「キャラクターの雰囲気を残す」からこそ面白いんじゃないか。
けれど私にとってのパロとは、「そのキャラクターのもつ特徴やキャラクター同士の関係性が、別の設定、別の世界観に投げ込まれた時に、何に置き換わるのか」を妄想するのが楽しみだった。
たとえば殿と従者なら、学パロなら生徒会長と副会長、リーマンなら上司と部下かなとか。このキャラはこういう性格だからスリザ●ンに入りそうだなとか、そういうことだ。
あまりに過剰に設定を盛り込みすぎて原型を無くすなら、もうほとんどオリジナルではないか。
見た目も、中身も。
もちろん、例に挙げた前世吸血鬼(以下略)でもそのキャラたちの面影、ABの関係性をきちんと残して素晴らしい作品になっているならすごいと思う。
けれど私にはどうにもそれが想像できない。
自分の頭が硬いのはわかっている。他人のことだし口を出す気はない。間違ってもオリジナルでやれとリプライを送るような真似はしない。
けれど、ABが好きな腐女子として言いたい。
あなたはAのどこに惚れたのか。Bのどこに惚れたのか。ABのどんな描写に、どんな関係性に、原作のどこに燃え滾って同人に手を出したのか。もう一度原作を見直しながら思い出してほしい。
再販ありますか?は嬉しいけど散々告知したのにって思ってごめんね。ピコだから再販そんなにできないんだわ。
すごくいいABに出会って嬉しいと呟いたらおすすめのAB教えてってきたけど少し落ち込む。
交流と好きな作品は分けたいから感想は匿名で送ってるしあんまり名前出したくないからわざと名前伏せたんだけどな。
そもそも私もAB書いてるんだけど。
嫌ではないけど感想もらう回数は少ないから、通知きてドキドキしながら開いて落ち込む。そんなんリプライでくれよ。交流避ける意味かもしれないけど。
人前に出る業務にはなるべく見目の麗しい人を選ぶし、
男性保育士が事件を起こせば保育士さんは女がいいと言い出す人は出る。
それはもうしかたがなく、我々は差別者である自分を自覚しながら、
それでも、自分にできうる限りに、公正で善良であろうと努力する以外にない。
個人的な見解としては、あれはその理屈自体に筋は通っているものの
という希望を語るだけでよかったろう(第二回のイラストはずいぶんとんちんかんなアンサーだったが)
女性だけの街がほしいなあと言うぼやきは、ミサンドリーから来る差別ではあるだろう。
しかし、具体的にそれを実行しているわけでもなく
一部の人は「男に汚れ仕事をやらせるとかいていたから問題だったのだ!」と吹き上がっているが、私はそれは欺瞞だと思っている。
「ああ、たまには家で一人でのびのび好きなことをしたい」と呟いた父親に
「洗濯は、料理は、掃除が誰がするんだ!?」と詰め寄って失言を引き出したとして、それが一体なんだと言うのだろう。
単に言い勝てるところがそこだからあげつらっているようにしか見えない
(しかもそもそも元発言の人は「男にやらせる」なんていっていない。曲解したらそうも読めるかもしれませんね、というだけ)。
「差別が嫌いなんじゃなくて、それをやった(言った)人が嫌いなだけなのでは?」
である。
それを攻撃する理由には単純に「オタク絵は、女性差別的な人間が好みがち」という先入観があったように思う
(そしてそれを補強するような擁護が吹きあがった)。
「女だけの町」も、「フェミはどうせ汚れ仕事はしたがらない」だとか「解決策を真面目に考えたりはしない」という、
人は差別をしてしまうし、してしまったときは襟をたださなければいけない。
差別は「差別するつもり」かどうかは関係なく、した結果のみが問われる。
自分が「大したことではない、気にしなくてよい」と思うことだからといって、他者にとってそうであるとは限らない。
それは全くその通りだと思っている。
けれどそれを思ってなお、
「差別」という概念を自分の嫌いな対象への攻撃手段に活用しているように見える例がこの二つだ。
だからこそ、「差別」という概念の取り扱いかたをもっと洗練させていかなければ、
単にぶん殴りあうだけの世の中になってしまうと
今回の流れを見て強く思った。
http://blog.shinoegg.com/entry/2018/01/26/130303
娘さんの気持ちを思ってめちゃくちゃしんどくなった。
なぜみんなと違くあれと押し付けるのか??
娘さんは幼稚園ではみんなと同じことを共有したいんじゃないのか。
社会性のある生き物として同じことをして連帯感を高めるのは大事だよ
個性を伸ばすとか人と違うことをするのはその他の時間でできるしやってるんでしょ?
人と違っていてもいい=人と違っていることが価値ではないんだよ
社会から受ける影響も含めた娘さんのそのままでいいってことだよ
みんなと同じの、同じになりたい娘さんでもいいんだよ
娘さんが気に入るビーズが見つかったらそれをちゃんと買ってあげてほしい……
わいも家庭問題があって、それをぼやきたいがためにここに書いてる。
書いてスッキリしたらそれでいいやというも一つある。
いらん茶々入れるやつもおるけど、助けを書くやつもいる。
それと、やっぱりめんどくさいやつは法的に取り扱う&切るしかないよ。
相続も、それなりの財産があるなら弁護士に任せたほうがいい。そんなのないのなら放棄してしまったほうがいい。
親に対する未練?まあ、わからんでもない。でも、やっぱり切ると幸せな人間関係ってのはあるんだよ。たとえ親族でも。
アル中で、親が可哀想でも、むしろ深入りするとあなたも傷つく。
僕もまだ親親戚兄弟がうっとおしいなあと思って、縁を切り気味にしたら情に訴えるとか、みんな心配していってるんだよとか言ってきたりとか、
ただ、かつて、変に情をかけたがためにさらに事態を悪化させて、周りの評価も悪くなっていったこともある。うん。お人好しすぎたかなとは思う。
一時評価落ちても、めんどくさいのと縁を切ったら幸せになれることもある。
助けになるのといえば、禅系とかマインドフルネスあたりの本だよね。禅は心の認識について色々考えさせてくれる。マインドフルネスは頭の休息。
小池龍之介「平常心のレッスン」
「ネトウヨが登場し始めた頃、連中の垂れ流すデマやヘイトスピーチを『あいつらなど放っておけばいい』『荒らしはスルー』と放置した結果、ここまでレイシズムが横行する事態を招いてしまった」…。
こういう言説を、至る所でよく見るようになった。
自分も始めのうちはそういうものかと思っていたが、最近はどうも「そういう言説自体がフェイクなんじゃね?」という気がして仕方がない。
端的に言えば、「後付け結果論」「今の基準や感覚で当時を裁いている」という感じがしてしまうし、表立ってこれに対して「そんなことはない」と反論する声が見られないのも、何か異様だ。
かつて自分の知人に、反戦市民運動系のサイトを運営している人がいた。
当時はイラク戦争の頃だったが、彼のサイトにもよくネトウヨが掲示板を荒らしにきていたようで、彼は「まーたウヨクが荒らしに来ているよ、困ったもんだ」とぼやきながら、かなりきつい調子で1つ1つ反論していた。
また、自分が当時よく読んでいた多くのリベラル・左派系ブログでも、コメント欄を荒らしに来るネトウヨに対して、放置などせず丁寧に逐一反論している管理人が多かった。
(中には放置しているブログもあったが、あくまでも管理人の方針が「賛同的なものも含めてコメントには一切反応しない」というものだったためだと思う)
卑近な例だが、こうしたことを思い出すと、少なくともこの人たちはネトウヨに対して「荒らしはスルー」などせず、きっちり対峙・反論していたわけで、そういう行為を「なかったこと」にしてしまうのは、やはり乱暴な議論なんじゃないか。
そう思うと、「ネトウヨのデマを放置した結果、レイシズムの横行を招いてしまった」と主張している人々は、どうにも主語が曖昧だし、自分からすれば、「で、あなたはその時どうしていたのですか?」と言いたくなる。
先日もあるジャーナリストが、「ネトウヨがここまで広まったのは、左派リベラルが彼らを放置したから」と主張しているのを見かけた。
「ネトウヨがここまで広まったのは、左派リベラルが彼らを放置したから」
という仮説がもし成り立つとすれば、逆に、
「左派リベラルがネトウヨを放置せず適切に対処した結果、ネトウヨの抑え込みに成功した」
というケースがあってもいいはずだが、そんな国はどれほどあるのだろう、と自分は思う。
世界を見渡すと、日本より左派リベラルに力があるとされる国々ですら、デマやヘイトスピーチを平然と言ってのける指導者や政党が勝利したり、日本ほどひどくはないかも知れないがヘイトスピーチやヘイトデモ、ヘイトクライムが横行したり、強弱の差はあれ「抑え込んでいる」とは言いがたい国が多い。
こういう状況を見て、「ネトウヨのヘイトスピーチを放置せず適切に対処していれば、ここまで横行することはなかったろう」と結論づけてしまうのは、どれほど正しいことなのだろうか。
かなり前、「戦争を起こした奴よりも、戦争を止めようとして止められなかった奴の方が、皆に責められ裁かれる時代が来るのかねぇ」と書いたことがあるが、「ネトウヨを放置したせいで…」という言説がここまで広まっている現状を見ると、もうそうなる下地はできているんだな、と思う。
戦争が起こるのは、戦争を止めようとした者が弱すぎて止められないせいなのか?
戦争を起こした者よりも、戦争を止めようとしたが弱すぎて止められなかった者の方が、より厳しく責められなくてはならないのか?
「戦争」を「ヘイトスピーチ」「差別」に置き換えると、完全に同じ問題になる。
そう考えると、「ネトウヨのデマを放置したせいでここまでレイシズムが広まってしまった(?)」ことよりも、「『ネトウヨのデマを放置したせいでここまでレイシズムが広まった』という言説が、多くの反レイシストの間に広まってしまった」という現実の方が、危ないというか後々響くんじゃないか、と思う。
(2020.1.14 加筆修正した)
うちの母はよく働く人だ。お正月といえば家の大掃除をして、おせちの準備をして、私はただ実家に帰って母の作った料理を食べるだけだ。片付けとかの手伝いもしない。今70歳なんだけど、もう少し歳をとって思うように動けなくなったらどうなってしまうんだろう?
私は昔料理の基本的なことは教えてもらったし、一人暮らしを始めたときは多少自炊もしていたけど、最近はめんどくさくなって出来合いのおかずを買って帰って食べるばかりになってしまった。実家に住んでいるときは洗濯も掃除もしなかった。今の家も洗濯は着るものがなくなると困るのでするけど、掃除は気が向いたときに水回りをちょっとするぐらいだ。
私も父も祖母(父方)も片付けられない人なので、実家にはいろんなものが山積みになっている。年末年始も私が泊まるスペースがないぐらいだったけど、今回母が奮闘してスペースを作り、ベッドに布団を敷いてくれた。どうも私が実家に住んでいたころの布団を引っ張り出したようで、ホコリっぽい匂いがした。
母が一人で頑張っているのを見ると「大変だな」とは思うんだけど、どうしても手伝う気になれない。母には自分のやり方があって、その通りにやってくれないとイラっとくるみたいだし、要領の悪いのがぐずぐずやっているのを見ていられないようで、結局「私がやった方が早い」になってしまう。
よく「夫や子供が家事を手伝ってくれない」みたいなぼやきを聞くけど、母みたいなタイプの人が家事をしない夫や子供を作ってしまうんじゃないかと思う。多少下手だろうが要領が悪かろうがじっと我慢して手を出さないようにしないと、「どうせやっても文句言われるだけだし」っていうことで余計やらなくなる。
あと、私はある程度お金がある場合、外注できる家事は外注した方がいいと思ってる。料理はまだ主婦のプライドがかかっていて、かつ出来合いのものを買うと材料に何使ってるか分からないとか味が濃すぎるとか添加物が多いとかいうのがありそうだけど、レンジフードの掃除に何時間もかけるのとか馬鹿げてると思う。そういうのをプロに任せればその分時間が浮いて、自分が手間をかけたいことに時間をかけることができるのだ。
母の母である祖母もそうだった。リウマチでだんだん手足の自由が効かなくなってきたのに、数年前までは正月に行くと頑張って手料理を振舞ってくれた。今は歩けなくなって施設に入ったけど、それでも共有の台所で、ちょっとした自炊はやるつもりらしい。まぁそんなにやることがあるわけではないので、負担にならないレベルの料理ならいいけど、家事の習慣がしみついている人とそうでない人の違いは凄まじい。ちなみに父方の祖母は特養に入っていて、認知症が進んでいるので、日々ぼんやりと料理も掃除もお風呂も施設の人にお任せで生きているようだ。実家に住んでいたときも家事はすべて母まかせで、トイレに行くのも一大事だったから特養に入ってくれて本当に助かったけど。
ということで家事でも何でも頑張る人とそうでない人の格差がすごいというのと、頑張りすぎる人が頑張らない人を助長させているというのが結論。話がうまくまとまってなくてすまんです。
少しでも気持の整理をしようと、今の自分の心情をこれから書き綴っていく。
衝動に任せて書き殴るので日本語としておかしな点や誤字脱字が多数あると思う。
ご容赦願いたい。
12月22日、我々V6ファンの耳にとある衝撃的なニュースが飛び込んできた。
本来は12月24日にファンの元へ届けられる筈だったその赤い封筒は、年末の混乱により起こったミスのため誤って一部のファンの元へ一足早く届いてしまったらしい。
赤紙かよ……。
TLに流れてきたその赤い封筒を目にした瞬間そう思った。そして胃が鷲づかみにされたかのようにギューッと痛んだ。私の信仰に重大な危機が訪れていると直感的に悟った。
いま現在、私は岡田くんの結婚に対して「悲しみ」と「恐怖」というの二つ感情を抱いている。
例外も多数あるが「アイドル」と呼ばれる彼ら彼女らは疑似恋愛の対象としてメディアの中で振る舞い、あるいはそう見えるように編集される。そしてこちらも例外多数だろうが、ファンも彼ら彼女らを疑似恋愛の対象として認識し、恋愛感情と酷似した感情を彼ら彼女らに抱くようになる。その感情がファンとアイドルとを結ぶ紐帯となる。「格好いいヤツならいくらでもいる でも俺にメロメロなんでしょ?」と言うフレーズは演者の技量に惹かれたのではなく演者に対し恋愛感情のような感情を抱きその感情を核に演者を応援する我々アイドルファンの特性を鋭く見抜いた非常に秀逸な物であると思う。
話を元に戻そう。
何を隠そう私も岡田准一に対して恋愛感情のような物を抱いていたファンの一人である。少なからず好きだった人が結婚した。だから悲しい。ただそれだけの話だ。
イノッチの時も長野くんの時も、同じような感情を抱いた。イノッチのは生で聞いてしまって当時中学生だった私はコンサート終わりに泣き崩れた。長野くんの時も長野担の友人に電話し二人してワンワン泣いた。下手に恋愛感情に近い感情を抱いてしまっていたため失恋した時のような心情になったし、それに加え大好きな人がやっと掴んだ幸せを手放しで喜べない自分自身に失望してしまって、涙が止まらなかった。
でもこの感情は泣けばある程度は落ち着かせる事が出来たし、気合いでどうにか既婚者萌えに開眼することが出来た。
だが今回、「悲しみ」に加え過去二回の結婚報告では抱かなかった「恐怖」という感情も自分の内からわき上がってきた。
もっと厳密に言うと「信仰をこれ以上続ける事が出来ないかも知れないという恐怖」だ。
今回の結婚はアレだ。その、えっと、色々あった。何が真実でそうでないかはわからないけど、色々あった。その「色々」の部分がもし真実であったら、もう私の中の倫理感ではどうしても受け入れられないのだ。「おめでとう」なんて言えないのだ。過去の「色々」が積み重なってきていて、今回の件で私の倫理観は完全に飽和してしまいそうなのだ。もう何もかも駄目になってしまいそうなのだ。
東山紀之さんは自分のファンに向け「僕達にふさわしいレディになってください」と言ったらしい。このエピソードを聞いた時、私もV6ファンにふさわしいファンにならなければならないと思った。V6のメンバーはトイレの張り紙よろしく「僕達のファンはマナーが良い」と言ってくれる。だから、彼らに迷惑をかけないために、彼らが誇れるファンになるために、常識を倫理を道徳を身に付けよう常に心がけていた。
でも今はその常識や倫理や道徳が私を苦しめる。彼らの為に身に付けたいと思った物が彼らの一部を否定する。この相克がたまらなく苦しい。辛い。しんどい。
私はカウコンに当選した。他の5人はカウコンで、あるいはその他の場所ででも、この結婚について言及するのだろうか?この結婚を祝うのだろうか?その瞬間を見るのが怖い。自分が疑いの目を向けている物を祝福している彼らを見るのが怖い。私を明るい方向に導いてくれた存在が穢れてしまうように感じる。何もかも信じられなくなる。その瞬間、私の信仰は破綻してしまうように思う。
「いや、不倫が事実かわからんやん」と自分にここ数年何度も何度も言い聞かせようとした。でも無理だった。2015年から交際し始めたと信じたい。あるいはそれが嘘であったとしても気にしないでいられるような人間になりたい。どうしてこんな簡単なことが出来ないのだろう。二十歳も過ぎたいい大人が。ジャニオタって私にはむいていない趣味なのだろうかとここ最近考えるようになった。
本当にこんなファンでごめんな。
坂本くん、長野くん、イノッチ、剛くん、健くん、そして岡田くん、本当にごめん。
マジで今どうすりゃ良いのかわからん。祝いたい。のに、祝えない。「この世には事実など存在せず、ただ解釈のみがある」と何度も自分に言い聞かせてるんだ。でも駄目なんだ。都合の良い解釈すら出来ないんだ。
貴方達が大好きなのに貴方達の全てを信じて受け入れる事が出来ない。
本当にどうしてこんな人間のくせしてジャニオタになんかなっちまったんだ。自分で「夢」を見る才能のない人間はジャニオタになんかなるべきではなかったのだ。足を踏み入れるべきでなかった。
とりあえずあともう一回がんばってみる。
無理だったらもうオタ卒しようかと思う。
潮時だと思うから。
追記
今回わざわざ私が自分の胸の内を公開したのは、第三者からの忌憚のない意見を聞いてみたかったからです。お心遣いありがとうございます。
それと私は確かに恋愛感情に似たような感情をアイドルに対して抱いてはいるけど、アイドルと付き合いたい、結婚したいとは思わないんですよね…。V6の中で一番好きなメンバーは三宅くんなんですけど、一番結婚したくないメンバーも三宅くんです。まあ、そもそも私のような人間は相手の方からお断りでしょうが。
あと認知もされたくはないなあ。ジャニーズ以外にも様々な男性アイドルグループが林立する中、わざわざジャニーズを選んで応援しているのは単に彼らと私達とを隔てる一定の距離感が私の肌に合っているからなんですよね。
私にとって「夢を見る」ということは「人間関係を築く上でどうしても付きまとう煩わしさから解放されながらも、人間関係を築く事で得られる充足感を得られる」ことを指します。良いとこ取りをしたい訳です。
恋人もいますし、友人にも仕事仲間にも恵まれている方だと思います。でも、彼氏にしろ友人にしろ仕事仲間にしろ、人間関係が密になればなるほど得られる情緒的な満足感も増しますが同時に様々な煩わしさも出て来ます。特に今は閉鎖的なコミュニティの中に身を置かねばならない状況なので、とにかく波風立てぬよう一挙手一投足に細心の注意を払っています。
アイドルから「顔や名前を覚えられる」ということは、この煩わしさの中に自分とアイドルとの関係を放り込むことだと思います。関係が密になるほど気を遣わなければならない部分が増えてくるから。
そんな物を感じたくないから距離感のあるアイドルを好きになったのです。繰り返しになりますが、V6で一番好きなのは三宅くんだけど一番結婚したくないのも三宅くんです。でも、そんな相手も適切な距離感さえあれば好きになれる。距離があるからこそ安心して課金ができるんです。
あと「アイドルの結婚が受け入れられない」っていうのは違うんですよね。そりゃイノッチの時も長野くんの時も最初は号泣しましたが、その翌日くらいには井ノ原快彦(既婚)長野博(既婚)という字面にめちゃくちゃ萌え始めましたし、「大好きな人が幸せを掴めたんだなあ」と嬉しく思いました。たまーーーーーにポロッと漏れ聞こえる彼らが幸せに暮らしてるっぽいエピソードとか子供と遊んでるっぽいエピソードとか大好物です。なんていいうか、すごくホッとする。「良かったなあ」って思う。瀬戸朝香さんも白石美帆さんも宮沢りえさんも本当に大好きです。苦しみの先には新たな萌えが待っていました。
「お相手が受け入れられない」ってのも違います。「お相手だけでなくこの結婚に関わる物すべてが白々しくみえてきて、信仰の対象の輝きすら失せてしまいそう」「色々なものを黙殺してきてどうにか守ってきた『好き』という感情がこれを機に瓦解するのが怖い」「もうこれ以上、色々なものをスルーすることができそうにない」「好きなアイドルの潔白を信じることができないのが辛いしそんな自分に嫌悪感を抱いている」のです。今回の結婚は単なる引き金にしか過ぎません。今まで色々と蓄積されてきてた物が、この結婚を機に飽和してしまいそうなのです。
この文章を読んでいただいた奇特な方々は「結局なにが言いたいんやコイツ……」と困惑なさっていると思います。
私もです。私も自分で何をどうしたいのか
どうすれば良いのかわかりません。
「お前、不倫は受け入れられないのに自分は付き合っている相手がいるのか……」とツッこんだ方もいるでしょう。全くです。上記の文章を読んでいただければ分かる通り、とにかく自己矛盾の塊なのです。この自己矛盾が自分の中で看過できない程の数になってしまった。飽和してしまった。
私は普通の人間にしては無神経で、ジャニオタにしては潔癖すぎたのでしょう。
そもそも、人間と関わる中で避けることの出来ない苦しさから逃れる先を人間に求めたのが間違いだった。
これまで書いた長々とした文章より「ぎええええええええ」という絶叫の方がまだ私の今の感情を言い表すことができている程、未だに取り乱しています。
この文章はとある哀れなカウコンを目前に控えたジャニオタの遺書、あるいは断末魔の叫びだと思ってください。
愚痴垢だけは作りたくないなあ。
まだギリギリ好きな人達をを誹謗中傷なんてしたくないけど、こんな文章を書いて公開してる時点で殆ど同じような事やってるのかもなあ。
あーあ、本当にこんな思いをするくらいなら草や花にうまれたかったなー。
あたしって、ほんとバカ。