はてなキーワード: 気づきとは
NewDays>>>>>>>>>>>>>ファミマ>>>>>>ローソン
■ローソン
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■ファミマ
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[交通系/クレジットカード/楽天Edy/WAON/nanaco/iD/QUICPay/バーコード決済]
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決済
他はミニストップにもセルフレジあったはずだが1回しか使ったことないのでわからん。
セブンは完全なセルフレジはなく、支払のみがセルフになっているレジの導入を進めているよう。特段おかしなところはないのに微妙に使いづらいと思っていたが、レジ機はたいてい店員に対して右側に来るように設置されているため客側からは左に置かれることになっているからだった。左利き者はいつもこんな不便を強いられてんだなという気づきを得た。
中学生の時はリ○ーンや銀○や○.Gray-manなんかを通り後に、女性向けジャンルにハマって「○○くんは旦那さん☆」なんて言って10代20代は順当に黒歴史を積み上げて生きてきた人間です。
30を少し過ぎた今、オタクであることが恥ずかしくて仕方がないと痛感したもで書き捨てていきます。
前述のような痛いオタクで青春時代を過ごした私は、学生時代の友人も同じような趣味の人間に偏っていました。
2人に共有しているのは、極度に他者とのコミュニケーションが苦手なこと。
例えば友人とファミレスに行くと、オーダーの時2人とも小声で自分の食べたいものを私に向かって言い、私が同じことを店員に伝える。
『オー!マイキー』に登場するボブ先生とボブママの状態と言えばわかる人がいるだろうか。
オタク同士で趣味の話をする時はやたらデカい声で騒ぐのに、それ以外の人間とのコミュニケーションが全く取れない。
私は昔から我が強く比較的外交的なタイプであった故か、友人たちと外界との窓口になってきた。
お互い大人になってたまに集まると、未だに相変わらずオーダーは私に向かって小声。
店員はA子やB子に向かって紅茶はホットかアイスか尋ねているのに、2人とも私を見て小声で「アイス」なんてって言ってくる。
どんなお店でもこの状態で毎回店員さんはやりとりをしづらそうにしている。
でも自分の好きなジャンルの話は周りもドン引きのテンションで話す。
私はそのジャンル全く興味ないって何度も言ってるのに布教と称して一方的に語られるのも辛かった。
趣味で盛り上がるのも学生時代は楽しかったけど、今では冷めた感情を抱くしかなかった。
Pちゃん自体はオタクではないが、私を含めてA子とBことも接点があったため招待してくれていた。
席に着くなり2人のカバンから出てくるわ出てくるわ俗に言う『もち』『まんじゅう』『アクスタ』の数々。
彼女たちは自分の推しを、テーブルに綺麗に並べてスマホで撮影。
そのスマホもキャラクターがデカデカとプリントされてたり、どう見ても本人に似つかわしくないデザインなのでキャラクターモチーフ系と思われる物。
挙句Pちゃんと友人みんなで写真を撮る時も彼女たちの推しも一生。
テーブルにグッズを並べ始めた時点で流石に見かねて「そういうことは他人の結婚式という場でやるものではないよ。」といった旨を彼女らに伝えたが、「えーでも〇〇くんたちもお祝いしたいって言ってるからぁ〜...フフフッ!」と言った返答で諦めた。
後に確認して彼女のSNSには写真と共に『(推しカプ名)が結婚しました/////』と投稿されていた。
A子が行きたいと言い出して誘われた格式高めのホテルのアフタヌーンティーでもずっと男言葉全開で自分の好きなBLの推しカプの話をされた時も嫌だった。
どんなシチュエーションでも自分がどう思われるか全く気にせず趣味を主張し続けることが何かのステータスなんだろうか。
③ ファッション
遊びに行くときのB子格好が、タボダボの無地のネイビーシャツ・パツパツのデニム・ダボダボのグレーのロングカーディガン・黒のショルダ・爪先のところがくしゅっとしてる茶色のバレエシューズ。そしてすっぴん。
目立つのが嫌だからと地味な色しか買わなかった結果、地味な色オールスター感謝祭が結構されてしまう。
本人は地味な色という統一感を感じて安心して家を出たかもしれないが、一般的には大事故だ。
新しいものを買っていないというわけではなく、毎回似たものを買い続けているせいで不変が生まれている。
A子の服装は『擬態』と称したファッションであるがサイズ感や着丈のバランスもめちゃくちゃ。配色も全身推しキャラの担当カラーを好きなCPイメージで固められている。そしてすっぴん。
一般的に『擬態』の定義は、オタクっぽくない非オタのキレイめ女性の雰囲気に近づくことを指していると考えていた。
つまり「えっこんな綺麗なお姉さんがオタクなの〜!?」というノリを想像しているのだろう。
髪型や髪色、アウターや靴や靴下やカバンも含めて洋服のバランスやトレンド感、自分の体型にあったもののチョイス、それらとバランスの取れたメイクか。
パッと考えたけで『擬態』端的に言えばオシャレな人に見せる行為というのはものすごく大変である。
見様見真似で1日2日で簡単にどうにかできるものではないのだ。
そしてこれは男性オタクのダメファッションにも挙げられるが、自分の服のサイズがわかっていないのは共通している。
原因としては、MやLだと入らない気がしてXXLなどを毎回購入しているとのこと。しかし2人とも中肉中背である。
そしてメイクもよくわからないし、グッズ買い過ぎてお金に余裕がないからコスメを買おうとも思わないと。
自分はオシャレではないが、20代前半で自分がダサいことに気づき、遅れを取り戻すようにPC診断や骨格診断を行い3サイズや肩幅なども定期的に測って洋服のサイズを細かく見て必ず試着して購入、美容室にもこまめに通って特にコンプレックスがあった部分なので昔の自分がダサいと気付かず30を越えた場合の姿を見ているようで本当に許せない気持ちになっていた。
しかし学生時代や20代前半は許せていたいたことが年を重ねるにつれどんどん許せなくなり今に至る。
公共の場で汚い言葉使いやプギャーとか死語含めてオタク用語を交えて離さないで欲しい。
大人なんだからグッズ買いすぎてお金ないとかやめて自己管理して欲しい。
大人なんだから求められる身だしなみが歳とともに変わることに気づいて欲しい。
こんなことが20代の後半から積もっていき、30を超えてついに爆発した。
オタクであるというのは彼女たちと同類と世間的には見られるんだろうか。
昔は楽しかったのに、今はこんなにも恥ずかしい。
恥ずかしい。恥ずかしい。
気づいたらずっとクローゼットにしまったきりだった過去に買ったグッズの処分を始めていた。
山のようなゴミ服を見つめながら色々な思い出を振り返りこれを書いている。
ただそれだけの話。
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イリヤ座のさっくりそん على تويتر: "易者の気づきはかつて突然に ...
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イリヤ座のさっくりそん · @semagist007. 成人済み見る専リツイートアカウントです^ ^. RIP. انضم في نوفمبر ٢٠١٥. Tweets. © 2021 تويتر; عن تويتر · مركز المساعدة ...
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2005/09/13 — 大人向けクッキー。スウェーデンのですよ。ごてごてしたクッキーはもう嫌だという方は是非。とっても薄くって、さっくり、そんでちょっとほろ苦い(これがいい!)んです。味はジンジャーとかカプチーノとか色々あります。
ふふ
いつも、同じ大学に縁のある人間たちが、隣駅の駅前ロータリーを汚していて、
恥ずかしい思いでいっぱいです。
さらなる学びや、芸術の世界への羽ばたきをたのみにしている人達です。
自分にとって彼らは、勉強はできるが社会に合わせない人、という印象です。
彼らを見ると、
そうした時、自分は、『何も見なかった』ことにしがちです。
という自分の考えが、
「多様性」の物差しで見たら古さや因習のくくりに入る考えなのだろう、
と分かりつつも、
でもそれが正しいよな?と
学びの豊かさが至上という人達の、
学びへの愛情や熱意や、
否定したくはありません。
彼らのそういうところを、
まあそういう奴だよな、と、
隣人として愛しています。
だからこそ、その人たちの前では、
「働くことは結局は悪なんですよ楽しいですけどね」というポーズを取るしかなくなります。
働くことはつらいけど楽しいと思っている自分を密かに殺しているような、
俺をこんな目に遭わせているのはこいつらだ、と相手を憎みたくなるような、
話は変わりますが、以前、その中の一人と、
彼は、不忍池の周りを意味もなく歩いたり、黙り込んだり、話したり、
弛緩ばかりの時間を共有してくれる、数少ない友人です。
自分の入館料を出そうとすると、彼は
と言いました。
それはあなたに奢られた訳では無いだろ
俺は入館料も払えず美しいものを無償で享受するような人間ではない
先輩らしさとは奢りのことなのか?
それをこの人に投げかけるのは俺の情が許さない
今日は楽しかった、この人が障害を持つことでこの先遭遇するだろういくつもの苦しみのひとつに、今日を加えたくない
「あ、じゃあ、それで…」。
美術館は印象的でした。
洗練された気持ちになりつつも、
胸の奥に何かが引っかかり続けていました。
その人と美術館に行くことはもうないでしょう。
働かなくても(公的な補助と親の支援で)生きていけるという人たちが、
でも変わりたいと思えません。
長くなりましたが、
そういう汚さを飲み込んで生きていくのが、
勝ちも負けもせず思います。
みなさんはどう思われますか?
かつて誰が言ったか、オタクとは「エロ漫画で抜ける者」を指すらしい。
思いつく限り挙げると、
・「孕め!孕め!オラ!!」
・「おまえがママになるんだよ!」
等々・・・。
これらの描写は3次元的エロコンテンツ(AV等)ではマイナーだ。
顔射、挟射、外出しが一般的だし、中出しプレイがある場合も「中に出す」ことが目的であり、妊娠について特に触れることはない。
なぜこのような傾向の差異がみられるのだろうか?
プレイボーイ・プレイガールの多い増田諸氏ならとっくにお気づきだろうが、現実における妊娠はとてつもなくめんどくさい。
日常的にセックスを嗜む男たちは女が妊娠したとわかるや否や、あの手この手を使って責任から逃れようとする。
中出しの気持ちよさは得たいがめんどくさい妊娠は極力避けたい。
まず考えられるのはオタクにとって現実のセックスは幻想に近いものだということだろう。
日常的に女性と接する機会すらない非モテオタクにとってセックスはファンタジーであり、妊娠させると自分も気持ちよくなると勘違いしているのかもしれない。
いやいやまて、と。さすがにオタクと言えども一度もセックスをしたことがない者は極少数だろう。
と、ここで核心が現れる。
そう、オタクはセックスはできても妊娠はさせられない生き物なのだ。
オタクにとってセックスとはお金を払ってするものであり、もちろんその際はゴム有りのセーフセックスが基本である。
だんだん体調悪くなって、何かがおかしいけど途中で妊娠していることに気づき、誰にも相談できないで、ある日自分そっくりの子供が生む羽目になったら怖い
元の独身男性をタロウAで新たに生まれた子をタロウBとすると、タロウBには危険を感じると単性生殖する機能が備わっていたら怖い
最初は怖がっていたタロウAもなんとか隠しながらタロウBを育ていたけど、タロウBが生後一週間で「これ美味しくない」ってしゃべって、タロウBが完全に人間とは別種だと悟らされたら怖い
そのタロウAはタロウBに恐怖のあまり手を挙げてしまうんだけど、その危機に応じてタロウBが幼い体で単性生殖してしまったら怖い
タロウAはあまりの気味の悪さに吐いてしまうんだけど、その恐怖でタロウAも再び単性生殖していたらつわりだったら怖い
タロウA自身が恐怖が単性生殖のトリガーであることに気づき、そもそも自分が単性生殖してしまったきっかっけが自殺未遂だと思いだしたら怖い
タロウBにもタロウAの気質が明らかに受け付けられており、タロウBが「こんな自分嫌だ、死にたい」とか言っていたら怖い
タロウAが自分が自殺の恐怖を乗り越えることができずに死という恐怖を感じることで単性生殖する化け物だと自覚したら怖い
タロウAが発狂の雄たけびを上げたとたん、押し入れやタンスから小さなタロウたちがわらわらと出てきて、自身が気づいていないだけでずっと単性生殖していて、恐怖の大きさに沿ったタロウを生んでいたことを悟ったら怖い
※この場合、タロウオリジナルの死体が押し入れから出てきて、すでにタロウAはタロウオリジナルの恐怖から生まれた別個体だっていうパターンはそんなに怖くないし好みでない
まず前提として ”わたしの原稿に〝介護中の虐待〟は書かれておらず、”という、一連のアレのしょっぱなに位置する桜庭一樹の主張は正しく、件の夫婦が老々介護であったというのは分かるようになっているが、虐待と読むのは明らかな誤読であろう。
で、内容は多岐にわたっており、田舎の人々の行動や東京での自分の現在の仕事・交友関係、山陰の伝承や風俗など題材が描かれている。
当該シーンはざっくりいうと「人間の記憶はあてにならんよ」というテーマの一つのクライマックスシーンなのだ。
桜庭一樹の投影である主人公の冬子は当然、自分の都合のいいように記憶を改竄している母親に呆れ、批判的な目を向けているのだが、
桜庭一樹は「自分の書いたことが唯一の真実であり鴻巣友季子の書いたことは間違い」と断言できるし、鴻巣友季子は斜め読みした無能の売文屋と断言できる。
冬子が自分の都合のいいように記憶を改竄しているかもしれないという自省も畏怖も気づきもそこには存在しない。
「わたしの原稿に〝介護中の虐待〟は書かれておらず、」は事実としても、そもそも、なんで「そのような事実はありません」と断言できるのか。
24時間365日見てなけりゃ虐待してないとは断言できないはず。 現実の老人保健施設における入居者虐待だって見てないところでされてるわけで。
作中の冬子はほとんど鳥取に帰っていないんだ。年末年始に帰省しても実家には夕食食べに上がるだけで、食べ終わったら夜はホテルに泊まってると記述されている。
そういう意味で、鴻巣友季子が言うように老々介護の間に虐待があったかもしれない、というのはまったく可能性がないことではない。
冬子が自分の都合のいいように記憶を改竄しているかもしれないという自省も畏怖も気づきも存在しない。
読者が桜庭一樹と自分を同一視し「ああ、ジジイやババアはしょうもない。あいつらは愚かでズルいな」と軽蔑するその場所は、嘘松読んでスカッとするのと大して距離は離れていない。
久しぶりにアニメが見たくなったのでオリジナルで短めのものを探し、宇宙よりも遠い場所と迷って現代舞台じゃないこちらを選択。
総評としては、ビジュアルもアニメーションもすごくいい。ただし雰囲気は良いがところどころ肌に合わないところがある残念作。続編が映画で作られてるそうだが、たぶん触れないと思う……。
19世紀末。アルビオン国は強大な軍事力である王立航空軍・通称「空中艦隊」により世界の勢力図を一変させ、アルビオンから産出される新時代の動力源であり、特定範囲を無重力化することのできる「ケイバーライト」を独占することにより、ローマ帝国の再来と謳われる覇権国家を樹立していた。
しかし、議会共和派である「アイアンサイド党」が主導する革命の結果「王国」と「共和国」に分裂し、アルビオン王国とアルビオン共和国の両勢力により東西を隔てる「ロンドンの壁」で分割され、以来10年、各国のスパイが暗躍する「影の戦争」の最前線となった首都ロンドン。その王国領域にある名門校クイーンズ・メイフェア校に通う「博物倶楽部」の5人の少女には、王国に潜伏する共和国側のスパイ組織「コントロール」に所属するスパイという裏の顔があった。
共和国とて一枚岩ではなく、政府は穏健共和派だが、軍の一部で強硬な革命推進派が策動する中、5人は各々の能力や立場を活かし、時には悩み傷つきながらもスパイとしてロンドンを駆け巡る。
Wikiより。
OPはあまり気に入る部分はなし。ひとつ挙げるとちせ殿の横顔がイイ!曲は唸るような?歌い方がそんなに合っている風には思えなかった。
ED曲は結構好きで、一聴してリンゴ日和っぽいなと思った。今調べたらアマゾンレビューでも似たようなこと書かれてて、吉良さんを思い出し少し悲しく。映像はモンハン3rdみたいな紙質感で好き。
EDのような球体を歩く感じの演出が好きなのだが脳内がヨシヒコに完全に乗っ取られていつも山田孝之がちらついてきて非常にウザい。ヨシピコ見たくなるから出てくんな。閑話休題。
特に印象はなし。梶浦由記氏?へー。まどかも劇半はマミさんのテーマ以外グッと来なかったしBGMの相性は自分と悪いやも。
スタッフもストーリーも調べずに見始めたので女の子かわいいなー程度に見ていたら2話ぐらいで黒星紅白?と思い出し3話でちせのマロ眉を眺めて確信した。
氏は好きなのでラッキーと思いつつも、氏がキャラデザ?原案か。した作品のアニメはあまり評判が良くない印象があるので一抹の不安を覚えた。
シゴフミはまあまあ好きだったよ。
キャラとは直接関係ないですが王族や上流階級設定ならドレスは毎回変えてほしかったかな。いいデザインだったのでもっと見たかったという意味で同じドレスで出たときはすこし残念。現実でどうだったかは知らんけど。
非常に良かった。キャラクターの顔見せや世界のビジュアルなどの雰囲気も良好。期待が持てる1話だった。
特に主人公が発砲したシーン。天邪鬼なので撃たないんだろうなと思いつつ撃てよ撃てよ撃てよ~と願っているので撃ったときはヤッター!となりました。
この感動は鉄血のオルフェンズ以来で、すごく期待してしまった。まあオルフェンズはほぼ右肩下がりでそれに倣わないことも願いましたけど。
割とかっきり直線のストーリーがある、オムニバス系でないアニメ作品だとハルヒ以来かな?ハルヒは原作読了済みだったので新鮮に楽しめたと思う。
主人公。
わかりやすい嘘つき、低感情と個人的好きな要素が多くて好きだったキャラ。声も一番好きかな。引退したけど。
能力は万能と無重力化によるアクションだけど、超人的動きはちせが(特に理由なく)できるので被ってる気がしないでもない。非常に高い跳躍や高高度降下や運搬が見せ場か。
できればもっと動きの嘘を利かせてスパイダーマン的ワイヤーアクションがあれば映えたかも。
無重力化装置が回光通信機としても使えるのは良いアイテムギミックでした。
チームリーダーの20歳。能力は「お色気」。後述すると思うが「お色気」要素はいらなかったと思う。年長者としてのお姉さん役、組織との連絡役とキャラを引き立てられる要素はしっかりあるのでそっちに割り切ったほうがよかった。
おそらく一番感情移入しやすいキャラに作られているので素直に好感度が高い。ギャルゲー化して無目的にプレイすると自分ならドロシールートに入るはず。
プリンセス命で巻き込まれなんかスパイの一員になっていた人。能力は「声だけコナン君」。ダイアルを回すだけで即座に声を似せられるのはインチキくさいがコナン君で慣れすぎて受け入れている自分が居た。
立ち位置がよく飲み込めなかったけどあまり葛藤など描く暇もなく素人がスパイ活動してる。
4話で二手に分かれる場面、5人なので必然2・3になるのだが残ったベアトが悩んだ末「プリンセスが居ない二人組み」のほうに参加してしまう。ベアトが参加できてないアンジェとドロシーの会話でなんとなく「その他3人」に入れられた流れだけど2話や3話からもわかる強い過保護のプリンセス第一主義者なら無理にでもプリンセス側について行くかなと強く解釈違いを感じた。時系列シャッフルなのでちせ参加後から見て強い信頼感ができている時期ともとれるし、一応迷う動きも描いたしとも受け取れる。
3話の和解後は楽しそうにやってるが彼女がスパイになる彼女なりのメリットがなにかひとつ提示されていればなおよかった。
プリンセス。能力は「プリンセス」。優越的地位を濫用してフリーパスしていく。アンジェとのバックボーンは良かったがいかんせん人当たりが良すぎて影が薄い。学校や仲間内でももう少し諧謔的にプリンセスを使い引っ張っていく強引さを見せれば7、9話でキャラが立ったかなと。
強固な思想はあるものの実現への行動を描く暇がなく、そういうのは劇場版でやっていくのだと思う。
なんだかんだで2話と8話好き。
個人的問題児。わたくしファンタジーにおける東の島国やKATANAが非常にアレルギーなのですが真正面にぶっこんできたキャラ。
こういう日本人キャラを日本人が作ること自体が少し寒気を覚えるのですが逆に他国人をこんな風に描くのも時代的に難しいかなぁ。
異なるカルチャー同士の交流は好きなのですがそこに漬物や相撲や土下座などを入れられると…9話は良さ1/3苦手さ1/3、この作品の悪さ1/3で出来ております。
彼女の一番の問題点は話し方。「~じゃ」や「~しておる」と古風な話し方だが、当然舞台はロンドン。英語でコミュニケーションしているはずじゃ。
舞台が外国や異世界のものを日本語で見るときは、特に説明がなければ翻訳・吹き替えを見ていると解釈しているのですが、そうすると彼女(に限らず日本人)の正解は「カタコトの英語」を翻訳した「カタコトの日本語」になるのかなぁ、と。外交官は免除でいいけど。作中、日本人同士でしゃべるときとそれ以外に差異がないのが気になる。それだけだとギリギリのギリギリ受け入れられるラインなのですが、主人公が学生として振舞うときに田舎物設定として「だべ」口調でしゃべるのですよ……普通に考えると「英語の地方訛り」で田舎物を演出していて、それを翻訳して「だべ」口調になってると見るのですが、じゃあちせの「~じゃ」口調などはどう考えればいいのやら……
滞在は最終的に4ヶ月以上。しかし初期から話し方は変わっていない。辞書を引くシーンもある。と非常に解釈に悩みました。超人的体術と日本語の固有表現も堪能に訳せられる超人的語学力を併せ持っている超人説は採りません。
詳しくないのでどうよかったかは書けないのですけどね。ロンドンの街中もよかったし学校や草原と空のような明るい絵もきれいだった。街は1話の霧たっぷりなのも良いけれど日中や雪中など変化に富んでるし下層市民も焦点になるので下町感もあってよかった。話数があれば偽装としての博物倶楽部の活動で学校の中と5人の楽しそうなショットがあればよかったな。
アクションも最近のアニメで悪いと感じるほどの質は出会いにくいので比較するものでもないでしょうけどよかったんじゃないでしょうか。1話と5話は文句なしに見入りますしメリハリというかタメが効いたような動きだったような気がします。あとはぼんやりですが車の加速がとんでもなくすごかったような記憶があります。
今作の感想のひとつとして傑作百合アニメと評しているものがあります。
https://kakuyomu.jp/works/1177354054886711486/episodes/1177354054890392693
これを見て逆に私は、この作品は「百合も恋愛もない良いアニメ」だと思いましたな。男性とのロマンスはなく、仲間内でも過剰な身体的接触すらない。それらが苦手な自分はストレスフリーで見れていたことがわかったわけで。アンジェとプリンセスの関係性は非常に感情を揺さぶるものでありましたが、これを百合と称されてしまうとうん?となる。自分の百合アンテナは低いですし「尊い」という言葉自体にはなんとなくそうだねと言えそうなものの同性愛とまでは絶対いかないよな?と。百合も広くなりけりで友愛も含められるとむにゃむにゃ…マリみては百合かむにゃむにゃ…とかくメインキャラ内でドストレートな性愛はないです。自分センスで百合作品判定ではなし。百合として見れるは何でも見れる!どう見えるかだ!捕まってあれこれしてやるぜゲヘヘ未遂もなし!たしか!ハニトラは除く!ごめん軽い女衒未遂はあった!
最初の数話は国の分裂と
"各国のスパイが暗躍する「影の戦争」の最前線となった首都ロンドン"
が繰り返し説明されるのでスパイが入り乱れる話かと思ったのだが、主に描かれるのは主人公たち共和国スパイと敵役のノルマンディー公のスパイ・公安の王国側とあとほぼちせしか居ないが日本ぐらいしか登場しない。終始アルビオン国で完結していて肩透かしを食らった感は否めない。12話でこれ以上の複雑さは望めないか。
シナリオもだいたい王国側の暗躍を検知して先回り…といったもので、もちろん知らないものは知れないのでしかたないがほぼしかける側であまり緊張感がない。逆に2話終盤は緊張感があってよかった。
共和国スパイの司令部「コントロール」。その描写がにんともかんとも。電信室と併設の狭い部屋に大人が4・5人テーブルを囲んで詰まってる。机上に紙はあるがその数は少なく、ないことも多い。壁には何の物もない。
全員がほぼ手ぶらに近しい状態で話し合い意思決定してるのだが…みんな頭の中にすべて入っている超人なんか?移転や隠滅の容易性のために質素なんか?彼らは意思決定機関として描かれているが、「高度な意思決定」がされているようには見えない。これがスパイのリアルな描写なのかもしれない。私はリアルな描写も好きだ。でもここはもっとケレン味を効かせてほしかった。ほかの部分でははったりたっぷりなのだから。
舞台は19世紀末ごろから無重力を引き起こす「ケイバーライト」を契機に異なる歴史を歩んだ地球のロンドン。スチームパンクに類するSF要素を含んだ作品である。
である、のだが。ぶっちゃけSF要素はほぼ無い。(前面に押し出されてはいない)
肝心のケイバーライトを使い覇権を取った「空中艦隊」はほぼ作中に絡まない。出ても大きな飛行機以上の役割は無い。では国内がケイバーライトを活用して発展しているかといわれればそのような描写もない。ところどころで蒸気が噴出する機械仕掛けがあるがビジュアルや目くらまし以上の意味もない。ケイバーライトを使っているかも不明。1話でケイバーライト障害が軽く触れられたがその後はなし。扱いも公害病程度か。そもそも王国側ではケイバーライト装置の小型化が実現できておらず、公式HPではもう少し詳しく書かれているが作中でわかる範囲では携帯用まで小型化できている、そのことを知っているのは共和国内のスパイ組織内のごく一部、即ち使うのはほぼ主人公のみである。
その主人公の装置を使った常人をはるかに超えるアクションも常人以上の動きを理由無く生身でこなす仲間が隙間を埋めてしまっている。携帯用小型ケイバーライト装置も物語のカギというわけではなくて…TVシリーズの範疇では別にSF要素を入れることなく分断が起きた19世紀末でも成立しそうで、主人公にはほかの得能を持たせてみてもよかったんじゃないかなとも感じた。
ブラジル強すぎ
見えてないのにドリブルにフェイント入れて交わしてくるし、サイドチェンジをガンガン通してくる
さらにワンステップやノーステップで打ったシュートが正確かつ強烈
日本は一人にほぼ全員で当たって囲んでボールを奪おうとするんだが、ドリブルで引き付けてからのサイドチェンジであっさりかわされる
当然ブラジルの選手もボールの位置を把握しにくいはずなんだが、それをピタッと足元で止めてくる
ある程度予め決めた位置に向けて蹴ってるのだとは思うんだが、それを試合の中で実行するのはかなり難しいはずだ
受け手は自分の現在位置を正確に把握しておかないといけないし、出し手は味方が居るであろう位置に正確に浮き球のパスを通さなきゃいけない
1(https://anond.hatelabo.jp/20210828215226)のつづき
第九話では、トップジョイの正体と過去が明らかにされる。もともとダークスポーツ財団で「作られた」トップジョイは、ショックサーキットという枷を掛けられ、スパイ行為を「ほとんど」強制されていた。これまで意思を持ち、それを自由に行使できると思われていたロボットが、実はそうではなかったということが、ここで明らかになる。
もちろん、ショックサーキット自体は第一話の時点でマッハウインディに埋め込まれた形で登場している。ダークスポーツ財団がロボットたちに背反を許さないようにし、彼らの自由を奪っている事実は、物語の冒頭から提示されていた。
だが第九話から続くトップジョイの物語は、マッハウインディがショックサーキットに苦しみ、そして克服した第一話・第二話とは少し様子が異なる。マッハウインディが自らダークの元を去り、早々にショックサーキットを切除して完全にダークとの絆を絶ったのに対し、トップジョイはそこから第十三話まで、「自らの意思で」ダークとの関係を持ち続けているのである。
トップジョイが――シルバーキャッスルに好意を抱き、マグナムエースから手を差し伸べられていたにも関わらず――なぜ十三話までダークとの縁を切らなかったのかについては、明確な描写がなく、少々解釈が難しい。ここから先は憶測の比重が非常に大きくなるので、ご容赦いただきたい。
第九話で、トップジョイはフェアプレーを重んじるシルバーキャッスル、及びそれに共感する子どもたちを「理解できない」と言った。「ラフプレーをすれば客は喜ぶ」「客を喜ばせるのがアイアンリーガー」だと。
これは、シルバーキャッスルを内部から撹乱するというスパイ行為による言葉ではない。トップジョイの本心だ。彼は本心でラフプレーを正しい行為と捉えているのである。同じ本心で、第八話でキアイリュウケンとオーナーの絆に涙し、子どもたちと純粋に交流を楽しんでいる一方で。
同時に、九話ではトップジョイの過去と思いが垣間見える。「楽しむ」ことを大切にした結果、バスケットチームから放逐された過去。それでも忘れられない、バスケットリーガーである自分に向けられた観客の歓声。あの場所に戻りたいという思いが、トップジョイの根底にある。
彼がぎりぎりまでダークとの絆を絶てないでいたのには、この思いが大きいのではないだろうか。トップジョイがダークに従っているのは、ショックサーキットだけが理由ではない。もっと根底の、自分の存在そのものに関わる意思ーーあるいは、心ーーである。
これは完全に僕の推測であるが、第八話で示唆された「ロボットは、人間に役割を与えられ、それに相応しいように設計・プログラムされて生み出される」という事実を踏まえると、トップジョイのこの「意思(心)」もまた、ある程度製造者によってプログラムされたものではないだろうか。
作中で、ロボットの意思や思考、心が人間にプログラムされたものだという直接的な言及は(現状)ない。だが彼らが「注文に応じて製造される商品」としての一面を持つ以上、ロボットが人間の赤ん坊と同じようにまっさらな状態で納品されるとは思えない。彼らは製造された時点である程度の機体性能、そして知能と知識を有し、そこには人間の意向が相当程度反映されていると考えるのが自然である。
「トップジョイ」という名前であるがーー彼らがある程度完成された状態で世に出るとしたら、彼らの名前は、その機能・性能にちなんだものであるのだろう(もちろんまったく関係のない場合もあるかもしれないが)。ロボットの機能・性能は、つまりは製造者が彼らに込めた役割と期待である。「ジョイ」つまり「喜び」。彼は、人に「喜び」をもたらす存在としての役割を期待されたのではないか。故に、ああいった明るい性格に設定され、他者の喜びを自分の喜びとするような性格にプログラムされたのではないか。そして、そのプログラムされた心でラフプレーに喜ぶ観客たちを見て、それを自分の喜びとして、そして正しいこととして学習したのではないだろうか。
(製造された時点でラフプレーを正しい行為としてインプットされていた可能性もあるが、第九話のトップジョイの「教わった」という言い振り的に、その可能性は薄そうである。)
だが、その期待は裏目に出た。明るく楽しくを第一義とする性格はチームメイトの反感を買い、彼は本来活躍するはずだったバスケットコートに立つことができなくなった。その後、シルバーキャッスルにおいてはーー彼自身の純粋さから、本来のスパイという立場を越えて、彼らに好意を抱いているにも関わらずーー逆にラフプレーを許すことができないシルバーキャッスルの皆の心を理解できず、孤立してしまう。
そして、ダークから虐待を受けても、マグナムエースたちから手を差し伸べられても、本当に自分が望むことに気づきかけても、プログラムされた心で過去に学び、感じた喜びを忘れることができず、ダークとの繋がりを断つことができなかったのではないか。
人間の都合によってプログラムされた「心」によって、トップジョイは傷つき続けていたのではないか。
人間と全く同じように喜び、悲しみ、悩み、傷つく「心」を、人間の都合によって作り出すというこの世界の不気味さが、トップジョイによって突きつけられる。
そして、第十一話でのS-XXXの結末が、それを決定的にする。
S-XXXはこれまでのロボットたちとは違い、意思や感情の乏しい存在として描かれる。それは本来、僕たちが「ロボット」と聞いて思い浮かべるイメージに近い。
S-XXXはテンプレート的な「ロボット」として、命令だけを忠実に実行し、サッカーのフィールドで「戦争」を繰り広げた。そして最後は、マグナムエースによって破壊される。
第十一話では、これまでよりも明確にロボットが「商品」であることが語られる。S-XXXはアイアンソルジャーという「商品」として、敵を殲滅する者としての役割として与えられ、その破壊力を期待され、品定めされる。彼のロボット然とした意思や感情の薄さは、兵士として忠実に命令を実行することを求められ、そうプログラムされた結果なのではないだろうか。
しかし一方で、S-XXXは「敵を倒す」という目的に対し非合理的なシルバーキャッスルの行動に困惑し、動揺する。そして、マグナムエースの「新しい道」という言葉に、ほんの一瞬であるが、本来あるはずのなかった「迷い」を見せた。
S-XXXにも、心は存在した。
なぜS-XXXの製造者が「兵器」であるロボットに「心」が生まれるような知能を搭載したのか、その理由はよく分からない。スポーツ選手であるアイアンリーガーであれば、人間がある種のカタルシスを得るための機能として、人間と同じような心や感情を搭載する理由もある程度理解できるが、迷いが命取りとなる戦場に送り込む兵器に、それは不要のはずである。
もしかしたら「心」というものは、それは製造者の意図的なものではなく、自分で学習し、アップデートしていくことができるほど高度な知能には、逃れられない副産物なのかもしれない。
いずれにしても、例え人間にほとんどをプログラムされたものであったとしても、兵器であったS-XXXにさえ、心は存在した。そして僅かに、けれど確かに「新しい道」へと進む可能性があった。
にも関わらず、第十一話の商人たちは、彼を徹底的に「商品」として扱った。そしてS-XXX自身も、「戦場でない場所には存在不可能」と語っている。
ロボットは、人間によって役割を定義されている。そしてその役割を果たせなければ、彼らは自らの存在意義すら失いかねないのである。
この『アイアンリーガー』の世界に横たわる現実を受け止めるのに、相当な時間を要した。いや、実際まだ受け止められてはいないのかもしれない。人間は自らの都合によって、自分たちとほとんど変わらない心や感情を持つロボットを役割という枠に押し込めて生み出し、その存在をも人間の都合によって左右する。この神の模倣とも思える傲慢さに、幾たび怨嗟を吐いたかしれない。
一方で、自らの意志で生き、誇りを持って戦っているロボットたちを哀れみ、同情を寄せるようなことは、彼らに対する侮辱ではないかという思いもずっとあった。
僕の心は千々に乱れ、分裂し、二転三転し、自己矛盾に苦しむ日々が続いた。「ロボットがスポーツをする子ども向けのアニメ」を観てそんな感情に取り憑かれるなど、一体誰が予想できよう。
しかし、である。一通り憎悪と煩悶に身を投じた後に、ふと気づいたことがある。
ロボットたちが置かれた現実は、結局、僕たちの生きる現実と同じなのではないか、と。
僕が七転八倒している時、僕に『アイアンリーガー』を教えてくれた先達は、一つの問いを僕に投げかけた。「ならば、アイアンリーガーはどうなったら幸せなのか」と。
頭を殴られたような衝撃を受けたせいで、僕がその時どのように答えたのか、正確には記憶していない。「彼らが、やりたいことをやりたいようにやれる」のようなことを言ったような気がする。
月並みな言葉を振り絞りながら、僕はぼんやりと「どこかで聞いたような話だな」と思った。よくある話。人間の幸せを語るときに、よく言われるような言葉だと。
そして、僕の思考は再び振り出しへと戻った。『アイアンリーガー』に最初に感じた、違和感にも似て、それでいて温かかった感覚。人間とロボットが、同じ意志や心や感情を持つ存在として、同じように生きている世界。
第一話でマッハウインディはこう言った。俺たちロボットも「人間と同じなんだよ」と。
それはつまり、人間もまたロボットと同じであることを意味する。
この国で生まれれば(その実態はどうあれ)、僕たちは一応、自由意志(ここでは各種の哲学定義を無視して、単に「他から強制・拘束・妨害などを受けないで、行動や選択を自発的に決定しうる意志」という意味で用いる。)を認められた存在である。
しかし、完全に自由な人間など存在しない。人間もまた、さまざまな制約の中で生きている。親、夫、妻、上司、部下、教師、学生、老人、若者、友人……そういった役割や立場を与えられ、家庭環境、ジェンダー、経済力、文化、時代、価値観……そんなあらゆる枠に押し込められながら、社会の中での「あるべき姿」「あるべき意志」を定義され、それに応える「社会人」に育てられてゆく。それは、人間、あるいは「社会」の要請で意思や心をプログラムされるロボットと、実はそう大差ないのではないか(語弊を恐れずに言えば、教育とは一種のプログラミングである)。
真に自分の望むように生きている人間などほとんどいない。皆、社会の中で折り合いをつけながら成長し、社会の中で生きている。そして、労働市場の中で自らの価値を計られ、自己の存在意義を証明し続けることを要求される。
(そうあるべき、と思っているのではない。ただ事実として、それが資本主義社会の一側面であることは否定できないとも僕は考えている。)
その姿は、役割を与えられ、商品として売買されるロボットに重なる。
もちろん、『アイアンリーガー』においてロボットたちが置かれている状況は、僕たち人間より深刻だ。彼らは自らの存在の前提として役割がある。役割がなければ彼らは存在し得ないし、その役割への期待に基づいてプログラムされた意志や心の拘束度は、人間のそれよりも遥かに強い。
しかし、あらゆる寓話がそうであるように、度合いが強いからといって、それが全く違うということにはならない。制約の中で、それでもなお自らの意志を貫き通そうとするロボットたちの姿に、僕たちは僕たちの姿を見るのである。
『アンドロイドは電気羊の夢を見るか』の訳者あとがきに書いてあったことだが、アンガス・テイラーという人は、フィリップ・K・ディックの書くアンドロイドについて(「機械的な行動パターンに侵された」、あるいは「内面的に阻害された」)人間の隠喩、象徴であると述べたそうだ。そして訳者の浅倉久志氏は、この作品の中に「人間とは何か?」というテーマに取り組んだとしている。『アイアンリーガー』も、それと似たような物語ではないかと、僕は思う。つまり、『アイアンリーガー』に登場するロボットたちもまた、僕たち「意志を持つモノ」、つまり人間の隠喩であり、『アイアンリーガー』は、「意志あるモノが自由を手に入れる」物語ではないかと。
こんなことを考えているうちに、僕は『BEASTARS』のことを思い出した。『BEASTARS』の登場「動物」も、姿形は動物のそれであるが、やはり人間と同じような意思や感情を持つ。彼らを通して描かれているのは、そういった心を持つモノたちのドラマだ。人間と同じ意思や感情を持つモノたちが、しかし肉食・草食動物それぞれの身体的特性、言い換えれば宿命という強制と制約を背負いながら、学校という一つの閉鎖社会の中で苦悩し、ぶつかり合い、時には折り合いをつけながら生きていく。負った宿命の中身や程度は違えど、そこに描かれているのは紛れもなく心を持つモノーーつまり僕たちの物語である。
と、このような書き方をしたが、あくまでこれは『アイアンリーガー』(や『BEASTARS』)という作品に僕たちが心を動かされる「絡繰」、結果論をそれっぽく言い募っているだけである。『アイアンリーガー』は(恐らく)寓話ではないし、アニメスタッフが彼らロボットを人間の象徴、あるいはその苦悩の投影先として選んだ、というのも(なんとなくだが)違うような気がする。正直、単にロボットが好きなだけな気がしてならない。
これについては、象徴や隠喩というよりも、同じく『アンドロイドは電気羊の夢を見るか』の訳者あとがきに引用されていた、次のような表現が相応しいように思う。(原典に当たっておらず申し訳ない。)
「ディックにおいて、人間とアンドロイドの生物学上の、あるいは自然科学上の区別は、まったく無意味である。(中略)ディックは、『アンドロイド』と『人間』の形式上の区別には関心がない。(中略)ディックの世界では、そもそも人間と機械、自然と人工といった単純な二分律は棄却されている」(『銀星倶楽部』12 後藤将之氏「フィリップ・K・ディックの社会思想」)
『アイアンリーガー』に描かれているロボットたちの生き様を語るのに、彼らが生み出された経緯や理由に潜む人間の驕慢さなどは、意味をなさない。彼らの前で、人間が自分たちと同じ心を持つモノを恣意的に生み出すという行為の是非を問うことは無意味である。いかに彼らのルーツに薄ら寒い人間の欲望が渦巻き、彼らの意志が人間によって指向性を持たされているとしても、それは彼らが「その」自らの意志で決断し、戦い、生きてゆく征途の輝きを何ら曇らせるものではない。
彼らは、ロボットとしての宿命を背負う自らの存在を呪うことはない。背負った宿命の中で、心を持つ故に葛藤に苛まれながらも、心を持つ故に抱いた意志で、自らの宿命を乗り越え、未来を切り開いていく。フェアプレーをしたい。スポーツをしたい。道を極めたい。この場所にいたい。君と一緒にいたい。たとえ世界がそれを許さなくとも、世界がそれを笑おうとも、自らの意志で在りたいように在る。その姿は僕たちと地続きのものだ。彼らはロボットであるから尊いのではない。僕らと同じであるから、眩しいのである。
Floorp ウェブブラウザと名乗るブラウザが最近出てきて、開発が終了したKinzaのパッチが公開されたら取り入れると宣言してKinzaの後釜を狙ってるらしい。中の人は学生(中学生?高校生?)らしく、使っていくうちにチャラさ、痛々しさが目立ってきたのでこき下ろしていきたい。
このブラウザが気になってしょうがない人はTwitterアカウントに行けばダウンロードリンクがあるのでダウンロードして確かめればよい。
※以下の話は、断りのない限り8/28に公開された公開ベータ版(v1.1.3)のことである。
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1.Floorpをお選びいただき、ありがとうございます。高速で軽量なブラウジングをお楽しみください。
2.Floorpのソースコードは一部をAblazeのGithubにて公開しています。また、Chromiumのライセンス「BSDライセンス」に基づき、作成者は本ソフトウェア(Floorp)によって発生した損害は保証できません。
3.Dev Previewエディションの場合、TwitterなどのSNSにスクリーンショットなどをアップグレードしないでください。
4.感想やご不明な点がございましたら、お聞かせください。これは義務です。Floorpの改善に協力してください。
5.Ablazeの利用規約に沿って本ソフトをご利用ください。
6.以下に表示されている利用したオープンソースソフトウェアに感謝しましょう。Floorpはこれがなければ実現しませんでした。
7.開発者はあまりすごいことをしていないことに気づきましょう
8.ソースはこちらhttps://github.com/Ablaze-MIRAI/Floorp-Browser
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利用したオープンソースソフトウェア
[※以下略]
さて、どこから突っ込もうか。
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あああああああああああああああああああああああああああああああ開発つかれた
1.Floorpをお選びいただき、ありがとうございます。高速で軽量なブラウジングをお楽しみください。
2.Floorpのソースコードは一部をAblazeのGithubにて公開しています。また、Chromiumのライセンス「BSDライセンス」に基づき、作成者は本ソフトウェア(Floorp)によって発生した損害は保証できません。
3.Dev Previewエディションの場合、TwitterなどのSNSにスクリーンショットなどをアップグレードしないでください。
4.感想やご不明な点がございましたら、お聞かせください。これは義務です。Floorpの改善に協力してください。
5.Ablazeの利用規約に沿って本ソフトをご利用ください。
6.以下に表示されている利用したオープンソースソフトウェアに感謝しましょう。Floorpはこれがなければ実現しませんでした。
7.開発者はあまりすごいことをしていないことに気づきましょう。後眠いんだけどどうしよう?癒してください!彼女ください()
8.Floorpは有志によって無料で提供されています。寄付は受け付けますのでダイレクトメッセージ https://Twitter.com/Floorp_Browser へお越しください
9.ソースはこちらhttps://github.com/Ablaze-MIRAI/Floorp-Browser
[※以下略]
利用規約をなんだと思っているんだ。「利用規約は楽しく、ユーモアにありふれさせたい」とか「Floorpの利用規約の最後に・彼女になることに同意しますか?って書けば同意させられんじゃん」とかつぶやいてる時点でなめてるしふざけてる。
Ablaze-MIRAI/Floorp-Browser: Chromiumで一番軽量なブラウザの大部分のソースコードです。
というタイトルなのに、実際に公開されているのはブラウザコンポーネントに比べてかなり少ない。これのどこが「大部分」なの?
あと何の根拠もなく「Chromiumで一番軽量」って言い切ってるだけで相当痛い。一番軽量かどうかは知らんが、メモリ使用量が少ない=軽量と思い込んでる節がある。ほか、
という文は誤解を生むから今すぐ止めろ。これだとBSDライセンスに違反するぜ!と宣言してるような解釈もできるから。利用規約でOSSに感謝しましょうとか言っておいてこの扱いひどくないか?
このブラウザの自己紹介記事(https://blog.ablaze.one/573/2021-08-16/)が先週公開されていたが、ここに書かれてる内容も相当痛々しい。
ブラウザをインストールするとメモリカスタマイザーなるものが同時にインストールされる。これが動作することでFloorpブラウザのメモリ使用量が劇的に減ってるから軽い、ということらしい。
しかし、ブラウザを起動したまま放置してみてから、実際のWindowsタスクマネージャーの様子をよく見てほしい。メモリ使用量が数MBとありえないぐらいまで減っているのがわかるだろう。Windowsタスクマネージャー上ではメモリ使用量が減っているように見えるが、ブラウザのタスクマネージャーで表示されるメモリ使用量はそれほど減っていない。では何が起こっているのか?
メモリカスタマイザーの正体はFireminである。名前の通り元々はFirefox用で、仮想メモリにページアウトさせて物理メモリ使用量を減らすものらしい(実際の動作は細かく見てないのでよくは知らない)。Fireminの名称変更、起動時にFloorpを自動的に対象にするといった改造を施している。FireminによってWindows10の途中の大型アップデートから搭載されたメモリ圧縮がより積極的にかかるようになり、物理メモリ使用量も減らせるメリットはあるようだ。YouTubeのトップページを開いてしばらく待った時、メモリカスタマイザーの使用時と未使用時で約0.1GBの差はあるのは確認できた。ただし、メモリ圧縮の代償はパフォーマンスの低下。特にページアウトによりディスクI/Oが増える。ディスクI/Oが足を引っ張って重くなる場合があるので、必ずしも軽いとは言えない。
結局の所、Chromiumを改造するなどの根本的な解決策を取っているのかは疑問である(もししているならTwitterなりに書いているだろう。技術的アピールができるし)。Floorpブラウザの作者はWindowsのタスクマネージャーに出てくる見せかけの数値だけを見て「えっ、Floorp軽っ、、、、、」とか言ってるのだから、実に恥ずかしい。いつ気がつくか見物である。
500ms単位でメモリ節約機能が動作するせいで、Speedometer 2.0のベンチマーク結果がさえない。未使用時と比べて7%ぐらいスコアが落ちてる。Edgeよりもスコアが良くない。メモリ使用量のことばかり気を取られて、速度のことには関心がないのかもしれない。
Chrome Web Store外から拡張機能(Deepl翻訳と同期機能)をインストールさせるためにレジストリを使用した結果、他のChromium派生ブラウザ(SRWare Ironで確認済)でも拡張機能がインストールされたという通知が表示されるようになってしまう。
Cドライブ直下にフォルダー作ってそこに入れるとか、いつの時代のソフトだよ。Program Filesに入れてやれよ。
https://ja.wikipedia.org/wiki/Wikipedia:%E5%89%8A%E9%99%A4%E4%BE%9D%E9%A0%BC/Floorp
https://twitter.com/surapunoyousei/status/1431961462734352385
作者から依頼されて書かれた記事に客観的な証明なんてどうやってするんだろうね。
まあKinzaのパッチが出てからが本番っぽいし、それまではこれぐらいにしておこうか。
Uniant Browser → Floorp Browser? UniantとAblazeの関係がよくわからん。個人で開発してるのか寄り集まって開発してるのかもよくわからん。
中の人のTwitterで中学生と書かれていたことがあったので、高校生ではないかもしれない。高校生の表記から「学生(中学生?高校生?)」に変更した。
男性向けポルノを見てると、ヒロインの女性器を道具扱いするセリフが結構あるじゃん。
凌辱物で男が「グフフいいオナホだ」みたいに言うのはベタだし、イチャラブというか友達以上恋人未満物でも「いいよいいよ、穴貸すくらいしてあげる」「そんじゃ失礼します」なんてやりとりがちょいちょいある。
そんなに性具が好きならオナホのまがい物である人体ではなく本物のオナホを使えばいいじゃん、って話になりそうだがそういうわけではなくて、人体や性器をあえて道具として扱うと考えることで性的興奮が増す心理があるわけだな。
そこで思ったんだけど、女性向けポルノだと、男のペニスを棒扱いするの作品が、少なくない?
凌辱物で「棒の仕事くらいしっかりしろ!」とか、和姦物で「俺のちんぽ使いたいなら勃たせようか?」「えへへ、悪いね」とか、あんま見ないんだよな。
なんでなんだろうね。
男性向けジャンルの中の、マゾ男性向けだと、「お前は肉バイブだ!」とか「オスオナホとしてしっかり締めろ!(マゾ男の肛門を犯しながら)」みたいなセリフがちゃんとあるんだよ。
だから、ペニスやアナルなど男性の性器の道具扱いも、十分ポルノとしてポテンシャルがある。
あえていえば、女性向けでは、男性をぬいぐるみとか大型犬みたいな便利で都合のいい癒し存在として使ってる(でもそのことに読者は気づきづらいように描写する)作品はポルノでも非ポルノでもかなりあるんだけど、男体や男性器をバイブとして使いたがらないっぽい。
不思議だわ。
掛け算の順序問題なるものがある。
「りんごが4つ入った袋が3つあったらりんごは全部でいくつありますか?」という問題に「4×3=12 答え 12個」と「3×4=12 答え 12個」という回答があって、前者だけを正答とすべきだとか両方正答とするべきだとか、そういう問題だ。長方形の面積について話している場合もある。
この意見の対立には、(一面として)数学をどのように抽象的に捉えるか、というのや数学・算数という科目の持つ役割に関してのスタンスの相違が原因にあると考える。
数学をより純粋に抽象的に捉えるにしたがって「順序強要」→「順序容認」→「順序強要」のように立場が変化することを以下で述べる。
念の為記しておくが、この文章は掛け算の順序問題に関してどの立場が正しいというような文章ではない。
俺は教育の専門家でもなければ小学生に算数を教えたベテラン教師というわけでもない。
数学への向き合い方が真摯になるにつれて変化する立場が単調でないことに気づき、その非自明な振る舞いについて筆を執ろうと思っただけのものである。
この文章で誰かの何らかに影響があればそれは幸いである。
「りんごが4つ入った袋が3つあったらりんごは全部でいくつありますか?」という問題に「4×3=12 答え 12個」と答えるのが正答であり、「3×4=12 答え 12個」と答えるのは誤答であるという立場である。
"4×3"という数式には「『1つぶんが4つ』のものが『3つぶん』ある」という意味があるとして、"3×4"という数式は題意にそぐわないとする。
正直なところ、数学でこれを正当化するような解釈を俺は知らない。
より高学年、あるいは中学・高校・大学・それ以降で出現する数式(例えば e^iθ=i sinθ+cosθ が成り立つとは、どういう意味合いのものが等しいということを言っているんだろうか?)に対して、その数式の"意味"は適切に存在して、何らかの実態と一致するだろうか。そのような体系がある場合、ぜひ知りたいのでご一報いただければ嬉しい。
上記の思想とは翻って「4×3=12 答え 12個」も「3×4=12 答え 12個」も正答とする立場である。
数式そのものに何か「実際的意味」はなく、そこには記号の間の関係や操作があるという立場はより現代的な数学に近いものであり、納得できるものだろう。
俺が現実で計算をするときもこの立場にいる。「日本国民全員が2回ずつ…」などと聞いたら脳内で出てくる式は"1億3000万×2=2億6000万"だし、「2人が1億3000万個ずつ…」と聞いても思い浮かべる式は"1億3000万×2=2億6000万"のままだ(自分の脳は乗数が単純なほど高速に乗算が行えるから、そのような式のほうを思い浮かべるように訓練されたのではないかと思う)。単なる道具としての使い勝手ならば、この立場はとても強い。道具として(正しい答えを出せるなら、という条件付きだが)順序を気にしない方が順序を気にする方より楽だろう。
算数を「現実の事柄に付随して必要となる計算を正しく行う能力を育てる」科目だと考えるなら──教養(大学などで学ぶそれではない)としての算術としての用途としては実際にそれで十分だろう──、真っ当な立場だろう。
しかし、この立場には少し弱いところがある。
数式そのものに意味はないとするのはよいが、その結果立式の段階で「状況」から一足飛ばしで「数式」が出来上がっている。これは、少なくとも数学の厳密な操作ではない。より厳密であろうとするならば、次の立場になるだろう。
数学的に厳密な立場であろうとするならば、意味論的操作を取り除く必要がある。この立場において、「『ひとつ分の数』が『いくつ分』あるとき、全体で『(ひとつ分の数)×(いくつ分)』あります」という定義にしたがって被乗数と乗数を区別することには意義がある。
この立場では、「りんごが4つ入った袋が3つあったらりんごは全部でいくつありますか?」という問題文に記述欄があった上で、「4×3=12 答え 12個」と答えるのも「3×4=12 答え 12個」と答えるのも厳密には誤答とする。
「これは、りんごが袋ひとつ分につき4つあり、袋が3つ分あるので、全体で4×3個のりんごがある。4×3=12なので、答えは12個である。 答え 12個」のように定義の形式に構文的に当てはめて答えて初めて正答である。この立場は「3×4=12」という立式を否定するものではない。「りんごを袋にひとつずつ入れていくことを考えると、これは一周分につき3つのりんごを入れ、4周分入れるので全体で3×4個のりんごがある。3×4=12なので、12個入れたことになり、全部でりんごは12個ある。 答え 12個」という回答も正答である。
この立場のもとで、「これは、りんごが袋ひとつ分につき4つあり、袋が3つ分あるので、全体で3×4個のりんごがある。3×4=12なので、答えは12個である。 答え 12個」という回答は全くの間違いとなる。「3×4=12」という立式ができる解釈はあるが、その式を導出するに至る構文的操作が誤っているためである。同様に、定義が「『ひとつ分の数』が『いくつ分』あるとき、全体で『(いくつ分)×(ひとつ分の数)』あります」というものならば、「これは、りんごが袋ひとつ分につき4つあり、袋が3つ分あるので、全体で4×3個のりんごがある。4×3=12なので、答えは12個である。 答え 12個」という回答は間違いとなる。
"3×4"と"4×3"はそれが"12"と等しいことを示すための証明木も異なるなど、式として完全に異なるものである。値が等しいことは証明されるべき非自明な命題であり、何も断らず用いてよいことではない。
「被乗数と乗数を入れ替えても答えが変わらないため、立式の際に断らずにこれらを入れ替えることがある」と答案の先頭で述べてある答案があれば(このようなことが書ける生徒は単なる乗算でつまづくような生徒ではないだろうが)、「りんごが袋ひとつ分につき4つあり、袋が3つ分あるので、全体で3×4個」でも正答としてよいだろう。
余談だが、長方形の面積に関してさらに状況は混迷を極める場合がある。長方形の面積を「たて×よこ」とするとき、これは「定義」か、「定理」かすら明らかでない。「1cm×1cmの正方形の面積は1cm^2」で「1cm×1cmの正方形がある図形にすきまも重なりもなく敷き詰められる場合その図形の面積は 使った正方形の個数 cm^2」という定義によって導かれる「定理」とする立場もあるだろう。この場合、「たて×よこ」は単なる立式の1宗派に過ぎず「よこ×たて」で面積を計算しようと1つ1つ数えようとどんな式で計算しようと使った正方形の個数を正しく導くことができる式ならば正答である。対して、「たて×よこ」が「定義」ならば、どちらを"たて"と見るかを記述する2択のみがあり、それ以外は誤答である(別の定理がある場合を除く)。
この思想は非常に窮屈に思えるかもしれないが、数学の直感的理解を否定するものではない。
必ずしも全生徒がそこまで進むわけではないが、数学科などで学ぶような数学においてはこのような思想が顕著になる。
純粋な数学において、自然数すら現実の何の対象とも厳密には対応せず、論理学は実際の"正しさ"と一致する保証を持たせるものではない。数学基礎論などを学ぶことでこのような数学の思想に触れることができると考える。
もし俺が正義感とやる気と生徒への期待と十分な時間を持ち合わせているなら、生徒にこのように指導するだろう。算数(は賛否両論あるかもしれないが)・数学は計算するだけの科目ではなく、論理学を学ぶための学問でもあるからだ。特に文章題を「現実の対象を数学的にモデル化してそこから論理的に結論を導く」ことを問うものであるとするならば、この立場に立つことには合理性がある。
しかし、これは理想的な状況における対応である。例えば回答欄が「(しき) (こたえ)」のように分かれている場合、そもそもこのような記述を行うべき欄がない。この場合、問題文を「『ひとつ分の数』が4であるようなものが3つ分あるとき、全体でいくつあるでしょう?」のように非常に定義に近づけて初めて「3×4=12」を減点する準備が整うといえよう(これでもまだ即座に誤答とするべきではないだろう)。そうでない場合、「4×3=12」と「3×4=12」の2つの式は同程度に論理の飛躍を伴っており、それらに点数の別をつけるべきではないかもしれない。
冒頭でも述べた通り俺は教育の専門家でもなんでもないから、どの立場を取れば生徒がよく理解するかなどについて何も言えない(どの立場に対しても理解できる生徒と理解できない生徒がいるだろうと思うが)。
個人的には2つ目と3つ目の中間のような立場だ。算数は計算をするだけでもないし論理をするだけでもない。単に計算をする手段としてなら順番なんてどうでもいい、素早く正しい答えが出るなら3袋の4個入りみかんを見て3+3+3+3だと思おうが(2*2)*3だと思おうが10+2だと思おうが構わない。他人と考えを共有するための道具なら前提から論理を組み立てる訓練が必要で、掛け算の順番にまで気を遣わなければ意味のある結果を出せない。数学はどちらをする科目でもあることに我々は自覚的だろうか。
理由はアマゾンギフトをほかから安く買って、定期的に使用していたため。
今回のセールで10万円くらいの商品を買うために、追加でギフト券を購入して使用としたら、審査に引っかかり、2日間くらいの間に、アカウントの利用停止→審査によりアカウント永久凍結となった。
10万円のギフト券が返ってこないのは、まあ致し方ないかなぁと思いつつ、スマホでKindleを立ち上げたら全部見れなくなっており、ああそりゃそうかぁという気づきが。
直近で友人に聞かれたんで調べたこともあって3800冊以上はKindleで購入しており、その大半がマンガ。
400円✕4000冊の単純計算で160万円くらいは吹っ飛んだという状況のものの、アカウント利用停止段階から、そこまで精神的なダメージが大きくなく、逆に驚くという。
思い返せば、電子だったら物理的スペースの圧迫がないことをいいことに、手当り次第、気になる漫画をレコメンドに従って買い漁ってはいたものの、二回目以降もう一度読みたいという漫画は言うほど多くなかったなぁと。
7割以上が1巻目を買った手前、2巻目以降も読むか…という惰性だったのだと、アカウントを停止されて気づくという。
どちらかといえば、自分がどんな漫画を買った・読んだというリストが紛失してしまったことのダメージのほうが大きかった気がする。
Kindleでもう一度蔵書を買い直すほどの胆力はなく、とはいえ漫画は今後も読み続けたいので、どうするのがいいのかを考えている。
電子書籍のデメリットは売ることが出来ないことなので、全部紙の本で購入する方針に切り替えて、読み終わったら即売りに出す(ただし売るのにも手間はかかる)のがいいのか、
週イチくらいのペースで、漫画喫茶に行って、雑誌ベースで週刊・月刊連載を追いかける+過去の読みたい漫画を単行本ベースで読み返すのがいいのか、
真面目に今日一日考えてしまった(心理的にAmazonで本を買い直すことは出来ないので、次にどこのプラットフォームを選ぶべきか含め)
4000冊近く蔵書を貯めた身としては、電子ですら結局自分が何を持ってるかを把握できない、かつそこを資産として活かせないことが確定した都合、
アマゾンプライムで観た。
最後まで観たのだが、意味がわからなかった。この映画から、どんな教訓や気づきを得られるというのか?この映画を作った人は見た人にどのようなメッセージを伝えようと意図していたのか?まるでわからない。
解説を書いてくれているサイトがいくつかあったので読んでみたが、やはり意味がわからない。これはモダンアートの現物と、その解説を読んだ時の感覚に近い。
それだけならばいいのだが、制作者の悪意が感じられた辺り、問題があるようにも思えた。
・己を支配しようとする外部のものに対して、人である自身は無力なのだというすり込み。
・理不尽な出来事も、人である己には受け入れるほかないという無力感を与える暗示。
悪魔信仰を主題としているようだが、悪魔サイドに立って、観客・視聴者に影響力を行使しようとしているのではないかと勘ぐりたくなるようなつくりでもあった。
まともな神経を持った者が、果たしてこういう作品に意義を見出せるものだろうか?
周囲に流されやすい人がこういうものを繰り返し観ていれば、己を無気力にするのではないかという懸念だけが残った。
追記:
観て、ためになる映画が良い、というのは勝手な決めつけに過ぎないということらしい。
人格の向上を促してくれるコンテンツといったものを私は求めて、そういう雰囲気のものを好んだりするのだが、世の人々が求めるのはそういうものではないということのようだ。
世間が高く評価するものは、世間が求めているものを上手に提供できているということであり、世間の求めに上手に応えられているということなのだから、確かに価値を与えているといえる。私には価値を感じられなくとも、世間一般には高い価値を与えている。
世の人々は、見て楽しいものを求めている。それはそうだ。自分にもわかる。ホラー映画であれば、ハラハラドキドキさせてくれる2時間が求められているのであって、その欲求を満たしてくれるものには皆喜んでお金を払う。人生に役立つ、人格向上に資する、そんなものを求めているのではない。
世間が求めるものの優先順位を、己の勝手な思い込みで決めつけてはならないのだ。うむ、勉強にはなった。
追記2:
・それにしても、映画批評のわかりづらさよ。自称映画通の人々の独りよがりの評にはおそれいる。まったく感銘を受けない文章というのも、ある意味すごい。
・サンダンス映画祭なるもので絶賛されたのだそうだ。なんのこっちゃである。本当に面白い物語を観たり読んだりしたことあるのかと訊いてみたい。