はてなキーワード: 自然数とは
民法724条は、 3年で時効消滅するし、20年間を経過したときも同様とする。
損害賠償請求権とは何かというと、 国家賠償請求権も包含されるし、 要するに、 ただし、実定法学にいうこの規定が、もの、であるかというと疑問なしとしない。
法は一般に、法律学の公理公準に準じるような一般化された規定というものによって制定されているが、そこの文言によって記載されている内容は、立法者の精神、つまり、何をするかが
書いてあり、数学で言うと、 自然数abを素数pが割るときは、pはa,bのいずれかを割る。みたいなものです。
ただし、 20年と書いている場合は、それを説明してくれとつまり、証明してくれと言われる。説明するときは
それをNHKさんに聞いたら、いや色々です、っていうから、その色々を説明してくれといったら、NHKが、もごもごもご、となるわけですね。
ぷちくらは、8年前は光っていたから、ぷちくらの定理、というものがあったが、最近は、光っていないし臭いから、ただの補題ではないかと言われている。逆に、ざちゃんの定理というのは、
あの青いアイコンが光っていることから、完全無欠な定理であると解されている。ぷちくらの規定が光らなくなった理由としては様々なものが考えられる。旧優生保護法は、法令違憲であると
言われているが、法令違憲とは、法令の中の規定それ自体が違憲であるというもので、解釈が違憲であることをいうものではない。旧優生保護法は、当時から、立法目的も合理性がないから
憲法13条違反であるというものであるが、民法724条後段は損害賠償請求権が20年で消滅するという除斥期間を定めていると解されており、宇賀克也裁判官の補足意見にある、
消滅時効を定めているものとは解されていない。ジーゲルの補題とは、自然数の積、abを素数pが割り切るときは、pは、aかbのどちらかの中に入っているという技術的に応用可能な一般論であり
これをまた組み合わせ論の文脈で言うと、鳩ノ巣原理と同じような構造の補題である。なお、練馬区のざちゃんが2年間にわたって使用してきた、板橋区精神障害者支援事業要領や、
整数論で有名な定理の名前 内容 歴史的な沿革 と 完全無欠ではないとされる理由
ウィルソンの定理 (p-1)!+1はpで割り切れるというもの 10世紀に発見され、 700年後に証明された。
フェルマーの小定理 a^p-1をpで割ると1余る p未満の自然数は確かにpと互いに素だが、pより大きいところにも
フェルマーの大定理 割愛 n≧3という条件がついているため、n=2では無数に存在するため
完璧ではないわねえと言われる。
強ーinduction
補題 いわゆる定理ではなく、お題のようなものだが、定理の中に完全無欠なものがないかほとんど知られていない代わりに
完全無欠なものが多いとされる。
最終定理は、小学生でも、結論は理解できるもので、 それに該当する自然数はない、というものである。しかし、それの完全有能性も分かっていないし、証明のテクニックも全く
公開されていない。
最近の数学少年というのはあるが、やたらに、 新しい数学の世界を発見したいとか、なんというような話で、解けない問題を必死でテクニックを考えて解きたい、という数学少年がいなくなった
数学は厳密科学で、とにかく完成させるのが難しい、 5000通のチャレンジでも全然出来ない、という。
そして、過去に、フェルマーは解かれた、と書いているだけで、どんなテクニックで解かれたのかを解説する人はひとりもいない。なんで、一般に解けないと言われているものが、解けたのか、それを説明
した人がひとりもいない。 界隈の解説が不自然なのは次の理由である。
x^n+2y^n=4z^n の場合であると、 簡単に解けてしまう。 しかし、この問題が存在することは全く知られていない。
1600年に裁判官のフェルマーが、 x^n+y^n=z^nは、n≧3のところで自然数解をもたないという定理を発見したのはなぜなのかまったく分からない。発見したというより予想しただけだから
なんで予想したのかであるが、作ることはできなかったので、何で作ることができなかったのかもさっぱり分からない。作っていない以上は、理解できているとは言えない。証明が全部終わってから初めて
ものになるので、 仮に61%の素数pについて証明できたとしても、話にはなっていない。そのように、ものになっていないから、何を言っているのか分からない。一般の書籍では、哲学的にみても、
到達不可能なもののシンボルと書いているので、その辺の記載からは、本当に、解くための技術がないように思える。1996年に書かれたフェルマーの最終定理という本でさえ真剣にそんなことを
書いているのだから、ガチ勢の数学者でも、技術を編み出すことが出来ないのではないか?
技術を編み出すとなったらそれこそinductionとか様々な方法があるが、それの完全版の、 完全帰納法とか、なんでも少し数学の教科書を漁ったら関連するような技術が書いてありそうな
ものだが、そこに書いている技術を使っても証明できないといったような、法学で言えば、判例百選の解説みたいなものは読んだことがない。
おっ、0は自然数か論争か??
数えることを学ぶときに無限に遭遇し、永遠に数え続けることができることに気づきます。
それほど独創的な観察ではないですが、いつでも1を足してさらに大きな数を得ることができるため、数えることに終わりがないことが、無限の重要な性質です。
無限にはさまざまな種類があるため、それほど単純ではありません。 1、2、3 などの自然数の量は「可算無限」と呼ばれる最も単純な種類の無限にすぎません。
正式には、自然数から他の集合への1対1の写像(注: 勝間さんではありません)がある場合、この集合は自然数と同様に無限であることを意味し、同じ種類の無限です。
実数の場合、その写像が存在しないので、より大きな無限となります。
さて、無限に演算を定義するとどうなるでしょうか。無限大に1を加えても無限大になります。自然数のある数を無限大で割るとゼロになります。
つまり無限大に1を加算すると、結果は同じ種類の無限大になることを意味します。
これらの関係を方程式として記述する場合には問題が起こってしまうことがよく知られます。
無限大を無限大で割ったり、無限大にゼロを乗算したりする場合はさらに意味不明になります。
実際には数学者は無限に対処する方法をよく知っています。ただ注意しなければならないのは、その無限がどこから来たのかを追跡することです。
たとえばxが無限大になると無限大になるx squareのような関数があるとします。
無限大がどこから来るのかがわかっていれば、もう一方から1を引くこともできます。
たとえば、1/イプシロン、1/イプシロン二乗、イプシロンの対数などの用語がある場合があります。
しかし2つの項が同じ無限大であり、イプシロンの同じ関数であることがわかっている場合は、数値と同様に加算または減算できます。
物理学では通常、これを行う目的は計算の最後にそれらがすべて互いに打ち消し合い、すべてが理にかなっていることを示すことです。
したがって数学的には無限は興味深いですが問題はありません。数学に関して言えば、無限をうまく処理する方法を知っています。
数学的な意味で存在します。つまりその特性を分析してそれについて話すことができるという意味です。
科学的には、観察を説明する必要がある場合にのみ、自然理論の要素が「存在する」と言えるからです。
そして無限を測定することができないので、観察するものを記述するために実際には無限を必要としません。
無限大は測定できないという問題は、ゼロの問題と密接に関係しています。
たとえば、点の数学的抽象化を考えてみましょう。物理学者は点粒子を扱うときに常にこれを使用します。点のサイズはゼロです。
しかし、実際にサイズがゼロであることを示すには、無限に正確に測定する必要があります。
したがって、測定精度が許容するものよりも小さいことしか示せません。
宇宙や時空のような一見無害なものであっても。空間の数学を書き留めた瞬間、そこにはギャップがないと想定します。
無限に多くの無限の小さな点で構成された完全に滑らかな連続体であると仮定します。
数学的にはこれは扱いやすいため便利な仮定です。そしてそれはうまく機能しているようです。
それがほとんどの物理学者があまり心配していない理由です。彼らは無限を有用な数学的ツールとして使用しているだけです。
おそらく物理学で無限とゼロを使用すると間違いが生じるのは、これらの仮定が科学的に正当化されていないためです。
そしてこれは、宇宙や量子力学の理解に役割を果たす可能性があります。
ジョージ エリス、ティム パーマー、ニコラス ギシンなどの一部の物理学者が、無限を使用せずに物理学を定式化する必要があると主張したのはこのためです。
量子力学における観測者問題についてはよく知られるように、人間の主観性が量子実験の結果に重要な役割を果たしている。
ドイツの物理学者ヴェルナー・ハイゼンベルクによる有名な引用がある。
「私たちが観察するのは現実そのものではなく、私たちの質問の方法にさらされた現実です。」
例えば有名なダブルスリット実験では、スリットの後ろに検出器を置かなければ電子は波として現れるが、検出器を置くと粒子として表示される。
したがって実験プロトコルの選択は、観察する行動パターンに影響する。これにより、一人称視点が物理学の不可欠な部分になる。
さて、数学にも一人称視点の余地はあるか。一見すると、答えは「いいえ」のように見える。
ヒルベルトが言ったように、数学は「信頼性と真実の模範」のようである。
それはすべての科学の中で最も客観的であり、数学者は数学的真理の確実性と時代を超越した性質に誇りを持っている。
ピタゴラスが生きていなかったら、他の誰かが同じ定理を発見しただろう。
さらに定理は、発見時と同じように、今日の誰にとっても同じことを意味し、文化、育成、宗教、性別、肌の色に関係なく、今から2,500年後にすべての人に同じ意味があると言える。
さて、ピタゴラスの定理は、平面上のユークリッド幾何学の枠組みに保持される直角三角形に関する数学的声明である。しかし、ピタゴラスの定理は、非ユークリッド幾何学の枠組みでは真実ではない。
何が起こっているのか?
この質問に答えるには、数学的定理を証明することの意味をより詳しく調べる必要がある。
定理は真空中には存在しない。数学者が正式なシステムと呼ぶものに存在する。正式なシステムには、独自の正式な言語が付属している。
つまり、アルファベットと単語、文法は、意味があると考えられる文章を構築することを可能にする。
その言語には、「点」や「線」などの単語と、「点pは線Lに属する」などの文章が含まれる。
次に正式なシステムのすべての文のうち、有効または真実であると規定した文を区別する。これらは定理である。
それらは2つのステップで構築されれる。まず、最初の定理、証明なしで有効であると宣言する定理を選択する必要がある。これらは公理と呼ばれる。
公理からの演繹は、すべての数学がコンピュータで実行可能な印象を生む。しかし、その印象は間違っている。
公理が選択されると、正式なシステムで定理を構成するものに曖昧さがないのは事実である。
これは実際にコンピュータでプログラムできる客観的な部分である。
例えば平面のユークリッド幾何学と球の非ユークリッド幾何学は、5つの公理のうちの1つだけで異なる。他の4つは同じである。
しかしこの1つの公理(有名な「ユークリッドの5番目の仮定」)はすべてを変える。
ユークリッド幾何学の定理は、非ユークリッド幾何学の定理ではなく、その逆も同様。
ユークリッド幾何学と非ユークリッド幾何学の場合、答えは明確である。これは、単に説明したいものに対応している。
数学は広大であり、どのように公理を選択するかという問題は、数学の基礎に深く行くと、はるかに感動的になる。
すべての数学的オブジェクトは、いくつかの追加構造を備えたセットと呼ばれるものであるということだ。
たとえば自然数のセット1,2,3,4,...は加算と乗算の演算を備えている。
集合論は特定の正式なシステムによって記述される。Ernst ZermeloとAbraham Fraenkelと、選択の公理と呼ばれる公理の1つに敬意を表して、ZFCと呼ばれる。
今日の数学者は、すべての数学を支える集合論の正式なシステムとしてZFCを受け入れている。
彼らは、無限の公理と呼ばれるZFCの公理の1つを含めることを拒否する。
言い換えれば、有限主義者の正式なシステムは、無限の公理のないZFCである。
無限大の公理は、自然数の集合1,2,3,4,...が存在すると述べている。すべての自然数に対してより大きな数があるという声明(「ポテンシャル無限大」と呼ばれる)よりもはるかに強い声明である。
有限主義者は、自然数のリストは決して終わらないことに同意するが、いつでも自然数の集合の有限の部分集合のみを考慮することに限定する。
彼らは一度にまとめたすべての自然数の合計が実在することを受け入れることを拒否する。
この公理を取り除くと、有限主義者が証明できる定理はかなり少なくなる。
正式なシステムを判断し、どちらを選択するかを決定することができるいくつかの客観的な基準...なんてものはない。
「時間と空間を超越した何かを象徴しているので無限大が大好きだ」と言えば無限大の公理を受け入れることができる。
ゲーデルの第二不完全性定理は、十分に洗練された正式なシステム(ZFC等)は、自身の一貫性を証明することができないと述べている。
数学者は、今日のすべての数学の基礎であるZFCが確固たる基盤にあるかどうかを実際に知らない。
そしておそらく、決して知ることはない。
なぜなら、ゲーデルの第二の不完全性定理によって、より多くの公理を追加することによってZFCから得られた「より大きな」正式なシステムにおけるZFCの一貫性を証明することしかできなかったから。
一貫性を証明する唯一の方法は、さらに大きな正式なシステムを作成することだけだ。
数学を行うためにどの公理を選択すべきかについて、実際には客観的な基準がないことを示唆している。
要するに、数学者が主観的に選んでいるというわけである。自由意志に任せて。
公理のための主観的な基準というのは、より豊かで、より多様で、より実りある数学に導くものを選ぶという人は多い。
これは自然主義と呼ぶ哲学者ペネロペ・マディが提唱する立場に近い。
特定の公理のセットを選択する行為は、量子物理学の特定の実験を設定する行為に似ている。
それには固有の選択肢があり、観察者を絵に導く。
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q13293425613
みたいな主張、ようは「数学的に証明されたら感覚的なことではない。感覚じゃない事実なことを示すために証明するんだ」みたいな主張に対する違和感から始まってんだよね、元増田は。
いや、定義自体が、人間にインプットされた「同一/非同一」とか「書き換える」みたいな原始的な観念/身体感覚に依存してる部分が多少なりともあって、このプリセットが全人類で同一か確認する術が不可知なのだから、
「感覚をあいまいなもとみなし、そこから『全く』逃れるために証明するんだ」という考え方は、誤りだろって突っ込みたい動機から始まってるんだよね。全くじゃなく、程度問題だろ、全く感覚の影響を排除できてるというのは思い上がりだろっていう。もちろん厳密であろうと努力する態度は尊いと思うよ。
数の概念は文化や歴史によって変化してきた。古代ギリシアでは、1は数ではなく単位とされていたが、現代では自然数の集合 N の最小の要素とされている。
数の概念は哲学的な問題を引き起こすことがある。無限や超準数といった数は直観に反する性質を持つ。例えば、無限は自分自身に加えても変わらないという性質を持つ(∞+∞=∞)。超準数もまた通常の数の演算法則が成り立たない(ω+1≠1+ω)。
数は実在するのか、それとも人間の心の産物なのかという存在論的な問いもある。数の実在主義は、数は客観的な実在であり、人間の心とは独立して存在すると考える。数の構成主義は、数は人間の心の産物であり、人間の言語や思考に依存して存在すると考える。プラトニズムは、数はイデア界に存在する普遍的な実在であると考える。ピタゴラス主義は、数は万物の根源であると考える。論理主義は、数は論理的な体系から導き出されるものであると考える。
数の概念は数学の基礎付けにも関わる。数学の公理や定理は、数の概念に基づいて構築されているが、その正当性や完全性には限界がある。ゲーデルの不完全性定理は、数の概念を用いた形式体系には矛盾しないが証明できない命題が存在することを示した。
数の概念は、かつて客観的な現実を表すものと考えられていたが、量子論の発展により、数はより複雑で主観的なものである可能性が高まった。古典物理学では、数は物理量と一致していたが、量子論では、数は物理量とは別の抽象的な概念として使われている。
自我や自由意識と同様に、数の本質はまだ解明されていない。しかし、量子コンピューターは数の概念を利用して作られており、数は物理システムを表現する有効なツールであることは、どのレイヤー、スケールにおいても明らかである。
数の概念は私たちの知識や理解を拡張するものであり、同時に私たちの疑問や不確実性を増やすものでもある。
数の概念は、私たちの世界に対する見方を変える力を持っている。(どやああああ)
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数学における自然数みたいなものの定義、が形成する概念を、たとえば数式の3という表記が指示する概念が、我々が日常見てる、3個のりんごやひもとその3倍のひもが並べられてる光景や、時計の長針と短針が三目盛り分ずれてるみたいなのから得られる共通の世間一般に3とよばれる性質と同じだと思うのは、すでに「解釈」なんだよな。
数学において3、「0の次の次の次の数」と自然言語では説明されるような概念はただの操作対象である記号列でしかない。
その記号列にどんな意味を持たせるかは、「物理現象の中に見いだされる3という性質」以外にもあるかもしれないし、ないかもしれない。
「直線と呼ばれるものの定義」についても、幾何的なイメージで解釈するのも、イデアル?だかで解釈するのも勝手。日常生活の個数や順番などとして見出される3の性質も、それと同程度に解釈でしかない。
トポロジーなんかが典型的だと思う。あれが示す証明が、幾何的なイメージとしての立法を内包する何かに対する性質を示してると考えるのは解釈でしかない。
そうすると自然言語で認識してる3や△というのは、たとえそのもっとも理想的なものを持ち出しても、数学の定義にとっては一段レイヤーの低いイデアということになるかもしれない。
数学の定義に対して、複数の3や三角形というイデアが解釈として結びつくなら、数学の定義はメタイデアか。
その前は、定義もまたイデアとするなら、3や三角形は物理的イデア、と物理的を冠して存在する領域を区別すればいいのかなとか思った。
・もっと根源的な問題として、推論規則の「一覧表」があるとして、あるマスの記号列とあるマスの記号列の関係それ自体を厳密に記述することは可能なのか?と思う。
はい. もちろんできます. 例えば数理論理学の本などを参照していただければ, 証明体系などの数学的定義が与えれらています.
私は「書き換え」のように自然言語を使って表現していますが, これらの操作などももちろん数学的に定義されます. 「操作」とは何かという疑問をお持ちでしたらラムダ計算の理論が参考になると思います. そしてこれらの操作は全て計算可能です, 平たくいうとプログラムとして実装できます. これらは全く感覚的なものではありません.
・(その他の部分に関して)
何が問題意識としてあるのかが私ははっきりとつかめていません. すいません.
例えば自然数の概念を共有していれば上記の概念(証明体系等)は一意的に共有できるものです. 一方で例えば何も共有していない全く無の人にこれらの概念を共有するのは困難だと思われます.
卑近な例でしたら, 数学を全く知らない人に突然これらの定義を見せたら, ただの絵や呪文に見えるでしょう. (私はそれはそうだと思います. 数学に対してどういう普遍性を求めているのか分かりませんが. )
最後に, 哲学的にそのようなトピックを議論したいのであれば, 無理に数学の言葉を使わなくとも可能だと思われます. 時には数学における言葉遣いが通常の言葉遣いと異なる場合もあります. また度々言及されいる事柄のいくつかは様々なな分野で歴史的に議論, 研究されているトピックがいくつもあります. いくつかの文献を読んでみて一度整理されると, 誤解, 車輪の再発明を避けることになりますし, あなたがどういう問題, 問題意識を持っているかをきちんと言語化する助けになると思います. それに加えて, これまで人々が様々な学問領域で積み重ねてきた多くの結果に敬意を払うことが重要であると私は考えます.
無限は様々な人たちを当惑させてきた。周囲の物理世界で観察されるものはすべて有限。
観測可能な宇宙の原子の数でさえ、想像を絶するほど大きいとはいえ、やはり有限。
数学はおそらく、無限とつながるための最も知性的で論理的な方法を与えてくれる。
数学的な無限理論は、19 世紀末にドイツの数学者カントールによってほぼ独力で作成された。
自分のアイデアを追求するために、カントールは途方もない勇気を示した。批判者たちに答えて「数学の本質はその自由にある。」と書いたのである。
数学では、選択された公理と論理規則に厳密に従わなければならない。
しかし、そのルールの中においては、本当に想像力を羽ばたかせることができる。数学には独断や偏見が入り込む余地はない。
カントールの考えは、無限大は数ではなく、むしろ集合の性質であるというものであった。
2 つの集合 A と B が与えられると、A から B への「写像(勝間さんじゃないですよ)」について考えることができる。
これは、 B の要素を A の各要素に割り当てるルールである。
カントールによって導入された重要な概念は、集合 A と B の間の1 対 1 対応である。これは、Bの各要素がAの1つの要素にのみ割り当てられるような、A から B への写像である。
Aが有限数の要素 (たとえば、n) を持ち、B が別の集合である場合、B にもn要素がある場合にのみ、AとBの間に1対1の対応関係が存在するという定義である。
ここで、無限集合の概念を導入できる。これは、Aと有限集合Bの間に1対1の対応がないような集合Aである。たとえば、自然数の集合 N={1,2, 3,…}は無限集合である。
ここまでの理論はかなり単純だ。しかしその後、カントールは驚くべき発見をした。互いに1対1対応していない無限の集合が存在するのである。
たとえば、集合Nと実数の集合Rの間には1対1の対応がないことがわかる。
カントールの対角線論証とも呼ばれる証明があるが、これはかなり美しい証明と言われている。
そこでは実数の集合と自然数の集合の間には 1 対 1 の対応関係がないということが示されている。実数の「無限大」は自然数の「無限大」よりも「大きい」と言える。
この 2 つの間に「無限」は存在するのか? これは、数理論理学における最も深い問題の 1 つである、有名な「連続体仮説」につながる。