いつも、同じ大学に縁のある人間たちが、隣駅の駅前ロータリーを汚していて、
恥ずかしい思いでいっぱいです。
さらなる学びや、芸術の世界への羽ばたきをたのみにしている人達です。
自分にとって彼らは、勉強はできるが社会に合わせない人、という印象です。
彼らを見ると、
そうした時、自分は、『何も見なかった』ことにしがちです。
という自分の考えが、
「多様性」の物差しで見たら古さや因習のくくりに入る考えなのだろう、
と分かりつつも、
でもそれが正しいよな?と
学びの豊かさが至上という人達の、
学びへの愛情や熱意や、
否定したくはありません。
彼らのそういうところを、
まあそういう奴だよな、と、
隣人として愛しています。
だからこそ、その人たちの前では、
「働くことは結局は悪なんですよ楽しいですけどね」というポーズを取るしかなくなります。
働くことはつらいけど楽しいと思っている自分を密かに殺しているような、
俺をこんな目に遭わせているのはこいつらだ、と相手を憎みたくなるような、
話は変わりますが、以前、その中の一人と、
彼は、不忍池の周りを意味もなく歩いたり、黙り込んだり、話したり、
弛緩ばかりの時間を共有してくれる、数少ない友人です。
自分の入館料を出そうとすると、彼は
と言いました。
それはあなたに奢られた訳では無いだろ
俺は入館料も払えず美しいものを無償で享受するような人間ではない
先輩らしさとは奢りのことなのか?
それをこの人に投げかけるのは俺の情が許さない
今日は楽しかった、この人が障害を持つことでこの先遭遇するだろういくつもの苦しみのひとつに、今日を加えたくない
「あ、じゃあ、それで…」。
美術館は印象的でした。
洗練された気持ちになりつつも、
胸の奥に何かが引っかかり続けていました。
その人と美術館に行くことはもうないでしょう。
働かなくても(公的な補助と親の支援で)生きていけるという人たちが、
でも変わりたいと思えません。
長くなりましたが、
そういう汚さを飲み込んで生きていくのが、
勝ちも負けもせず思います。
みなさんはどう思われますか?
ワオ手帳貰ってないよ
フィジカルエリートが生まれ持った才能で野球で渡米して二刀流で活躍する。 それと同じで、生まれつきの才能だよね。 豊かな家に生まれた出生力で文化資本をえて東大に行くのも才能...
せやな 愚痴ればいいと思うよ なんか改行のラインが気になるけど