はてなキーワード: 専門医とは
https://anond.hatelabo.jp/20171119112901
の先生が脳外科医の立場から考察されていて、大体その通りだと思う。
この事件で引っかかったのが、CTまで撮って、頭蓋底骨折の「疑い」なのはなぜかという点。
危機管理委員会が診断書を作成した医師に聞き取り調査を行ったところ、
「診断書は骨折と髄液漏れの両方を『疑い』としたものだ。CTに現れた線は過去の衝撃などによってできた骨折のあとや骨と骨のつなぎ目の線の可能性もある。今回の傷害との因果関係はわからないが念のため骨折の疑いとした」
とのことだが、「できてからあまり時間の経っていない骨折」「骨折のあと」「骨と骨のつなぎ目」これらは明確に所見が違う。
今のCTは0.5mmスライスで断層画像を撮ることができる。ある程度の大きさの病変があれば、修練を積んだ脳外科医、画像診断専門医であれば区別できるはずだ。
仮に一人の医師が見落としたor解釈を誤ったとしても、今回の場合はVIP患者、それも事件性ありということで複数の科、複数の医師が合議して判断しているだろう。
その結果が「疑い」にとどまったのだとしたら、「判別困難なぐらい小さな線」「どうみても正常な線」しか写っていなかったのではないか。
やはり元増田先生の言うように鼻水や耳漏などのそれっぽい臨床症状があって、それが「画像でははっきりしないけど念のため」で診断名に反映された可能性を考えたい。
https://anond.hatelabo.jp/20171026133336
https://anond.hatelabo.jp/20171026180918
これまでFBのタイムラインに流れてくる記事をたまに読むくらいで自分で書くには至らなかったけど、上二つ読んではてなアカウント作ってしまった。で、書いてる。
私は育休とって3年になる。一人目の子が三歳になる少し前に二人目が産まれた。
育休をさらに3年、ぶっ通しで6年とる予定。
なんでこんなに長く休職するのか?
本当に戻る気あるのか?
戻る気なければ辞めるのが筋じゃないか?
3年間自問自答してる。
仕事で徹夜する気力体力が衰えてきて、さらに自分はこれまで学歴なんかを背負って仕事できる気になってたけどどうやらあまり仕事が得意でないらしい、と気づいた頃に結婚出産した。それで子育てと家事にどっぷりはまってみたかった。
と、夫がちょうどキャリアのヤマを越えなきゃならない時期に差し掛かってて、冷静に夫が仕事、私が家事育児がんばるのが合理的だよねと夫婦間で暗黙裡に合意してるからだ。
結果、子供がかわいいのとブランクが長すぎて仕事に戻れる気がしなくなってる。
産後長くても一年ちょっとで復職するべく保活の波にのって、まだよちよち歩くか歩かないかのかわいいわが子と離れる辛さを乗り越えて、いろいろ割り切って仕事に戻らないと、復職が遠のくばかりだ。
なぜかって?
上の子が一歳を過ぎると子育てが一気に楽しくなった。歩けるようになり、言葉が少しずつ出てきたからだ。一緒にお出かけできる。意思疎通がはかれる。家事もはかどるようになる。
そのうち二人目を妊娠した。上の子と二歳差だ。また2年くらい育休とって、二人まとめて保育所に入れて復職するつもりだった。そしてその頃には夫の今後のキャリアパスがほぼ見えてるはずで、私が復職する前提で都内に家でも買おうかみたいな思惑も交ざってた。
だったんだけど、二人目を死産した。
辛かった。年取ってから子供に恵まれたので、一人でも十分幸せだと思っていたけど、二人目を喪ってみると、どうしても諦めきれなかった。
そして信じられないくらいすぐに、また妊娠した。三人目(実質二人目)が産まれた時には上の子が三歳になってた。
正直、育休を続けて取るとき「私これでもう2年か3年休んだら会社に戻れないんじゃないかな」と思った。
その時点で会社にはもう3年間足を踏み入れていなかったんだ。いつのまにかオフィスが移転し、社員数がどっと増え、自分の居場所なんてあるわけないだろうと思っていた。
上の子はたっぷり3年間一緒にいた。多くの保育所ママが「おむつなんて園に外してもらったようなものよ〜」と話す傍ら、家庭内でトイレトレーニングをやり切った。
夫は月の半分くらい出張でいない。さらに平常でも職場に泊まり込むことが多い。
ワンオペ育児は辛かった。子供の笑顔を間近で見られる幸せで乗り切ったけれど、
育児素人の私がやるより保育士さんに見てもらう方がいいんじゃない?
復職して多少なりとも稼ぐ方が短期的、長期的に経済合理性高い?
何より私が精神的に楽じゃない?子育てを一人で抱え込まなくていいもん。仕事して外の世界と関わりたいよ。。
ちょっといいコーヒーを一人で飲みに行きたい。仕事用にスーツ着たい。毎日自分のために化粧して、仕事にアタマを使いたい。
なんて悶々としていた。
だから次の子は一歳すぎた頃に復職しようと考えた。念のため3年間とって、それより早いタイミングをうかがおうかなと。
でも、下の子が産まれてみるとすんごくかわいい。授乳でも何でも、上の子の時はひたすら辛かったことが驚くほど楽になった。
もうすぐ4ヶ月になるけど、本当に天からの授かり物を育ててる思いだ。
上の子と同じだけ見てやりたいと思うと同時に、今度は上の子が赤ちゃん返りもあってだんだん難しくなり、これって発達障害じゃないの?といった性格が出始めた。
自治体を通じてカウンセラーに相談し、今度再検査することになってる。
「お母さんが復職されるまでに専門医や療育関係の機関を回られるといいかもしれませんね」とカウンセラーの言。
上の子はいつまでたっても初めてのことだらけだ。子供が成長すればするほど手がかかることを知った。
自分も会社の制度と女性が輝く社会を目指すスローガンにぶら下がってるように見えるんだろうなと思った。
と同時に、恵まれた環境の人は、仕事に対するモチベーションがそんなに強くなくても、復職後十分にやっていける、むしろそれくらいの方がうまくいくのは本当だろうと思う。
そして私のように、自力以外に頼れる人手がなく(親は地方在住)、仕事に対するモチベーションも立派なものではない、そんな働き手は誰が見てもお荷物だろうと。
念のため、育休中は無給だ。とはいえ一人目のときは雇用保険からの給付金を受け取り、二人目、三人目も健保から出産手当金をもらってる。
でも子供は手がかかる一方で、とくに上の子のことを考えると、会社より子供を優先させたい。復職してもパフォーマンス悪すぎだろう。
だらだら独り言を書き連ねたけれど、そうだね、ぶら下がってるように見えるよね。
雑誌のVERYってあるでしょ。VERYは去年かそれより前くらいから「リーマム」の造語を使ってる。週5オフィスに出勤する素敵なママのことらしい。
週5働けば、当然子供に割く時間が限られる。どんなに優れた外部の保育者を通しても
子供のことを全部把握するのは難しいと思う。
そのぶん自分の価値を高めることにエネルギー配分できる、というかせざるを得ない。
そして子供に還元するなら、自然とお金で買えるモノコトになる。洗練された服、上質なおもちゃ、英語やピアノの習い事に幼児教室。旅行かもしれない。
親がいいと思えて子供が十分に愛情を感じるならばそれでいいのではないか、と思う。
でも私はそれができずにいる。
割り切ってしまえばいい。育児を外注すればいい。夫婦の老後や子供の教育など備えはいくらでも必要だ。
それでも私は、毎朝3時に起きて家事をして、5時半に夫を送り出し、下の子の世話をしながら7時に起きる上の子の食事の支度をする。日中は公園と児童館をはしごする。
夕方5時にはお風呂に入れて、6時に夕食。7時半に寝かしつける。
子供が好きで会社に戻れないならいっそ辞めれば、との声を聞いた気がした。
子供への愛情と復職は違う話だろうとのツッコミが当然あると思うけど。
中途半端に戻っても育児を楽しみながら会社に貢献するなんて実現不可能な幻想かもしれない。
育児そして自分自身を充実させながら仕事を続けることで足を引っ張ってしまうならば。
休職前はたいして仕事力がないなりに、精いっぱいがんばってきたつもりで、自分にできることがあればどんな仕事でもいいからまた働かせてほしいと思っていたが、ふつっと糸が切れた気がした。
それでも何か糸口を探したいよ。別に自分が輝かなくてもいいけど、家族を満足させられて、社会貢献可能な道筋を。
大学出てるし(税金つかってる)社会人になってからはいろいろな人に世話になった。皆さん口を揃えて「別に自分に恩を感じることはない。後輩社員達に同じようにしてあげて」と言っていた。まだ私は何もできてない。育児の区切りがつけば会社で恩返ししたかったけど、区切りをつけられなければ外ですべきなのか。
何を取捨選択しても自由だけど自己満足にならないように、とあらためて思う記事だった。
追記)
コメントありがとうございます。恐縮してます。
夫ときちんと話し合っていないのではないのかのご指摘がありましたので追記します。
確かに書いた内容そのままを直接ぶつけたことはありません。また明日から出張なのでフライト中にでも読んどいてと言っとこうと思います。
ただ、子供のことこれからのことはわりとよく話してるかもしれません。
何がしかの隔たりを感じさせるとしたら、夫と私の働く業界が全く異なることが一因かと思います。
(夫は公務員で今は中央、全国転勤あり。男性の育休制度はあっても運用実態ほぼゼロ。同僚家庭の専業主婦率すごく高い。私は都内のIT関連企業)
自分に答えがないので話すのをためらっていましたがいい機会かもしれませんね。
だから今みたいに昼夜逆転モードのときなんかは起きてる時間ずっと死にたくなってツライんですよ
そんでね、どうしたら自分が死ななくて済むか、わりと真剣に考えてたんですけど、何も思い浮かばねえ
楽しいことすればいいかなって思うんですけど、食べることが一番好きだけど、食べ過ぎたら太るじゃないですか
太ったら死にたくなるじゃないですか
食べることは楽しいけど一日1500kcalが限度の楽しみなわけですよ
歩くのは好きなんですけど、一日30kmとか歩いてるとだんだん足が痛くなってきて歩けなくなるんですよ
やり過ぎが良くないんでしょうけどね
勉強するのも嫌いじゃないんですけど、集中できるときとできないときとでムラがあり過ぎるし、だいたいは集中できないときのほうが多いんですよ
で、集中できなくて勉強できてないと死にたくなるんですよ
つまり何やっても自分の限界を知るハメになって死にたくなるんですよ
行きつくところはだいたい「死にたい」になるんですよ
楽しさを突き詰めると「死」になるんですよ
もうずっと寝ていたい気分だと思って寝まくってたら、お肌は綺麗になったけど昼夜逆転するし、もうどうしたらいいのか分からんとですよ
なんで寿命が来るまでこの生き地獄を辛抱し続けないといけないんでしょうかね
親にこの話をすると「病院行って抗うつ薬も飲んでるのに全然効いてないじゃないの。もう病院行くの無駄だからやめたら?薬も無駄だから飲むのやめたら?」と言われて話にならないのでほんと死にたくなるよね
最近、緩和ケア関連の話で「スピリチュアルペイン」なるものを耳にして、それ私もあるわ!スピリチュアルペインってまさに私が常日頃感じてることだわ!って思ったけど、だから何だよって話でね
これを主治医(精神科専門医だけど緩和医療専門医も持ってる)に話したところで、あなたがん患者じゃないよねって内心思われて絶対通じなさそう
パワハラを受けていなくても、例えば、周りの社員が優秀すぎて、自分が常に足を引っ張る側に回っていたり、
あるいは、ギリギリで達成できないノルマをずっと目標設定され続けたりすると、弱い人は心が折れて鬱まっしぐらになりやすいんだけど、
彼もそのタイプなのかなぁと思った。もうすでに、軽い鬱状態だよね。これ。
ただ、鬱の原因にはストレス以外にも、例えば、栄養の偏った食事をとり続けているとか、事故などの外傷で脳を痛めている等も考えられるので、
仮に仕事が原因だとしたら、職を変えるのが一番効果的だけど、他の増田も書いているように、まずは彼の御両親に報告相談するところからするのがよいでしょう。
◼️ポリープあるってよ◼️
健康診断の婦人系項目でいつからか必ずといっていいほど、ひっかかるようになり、早数年。
自宅に届く健康診断結果に、さらりと書いてある「E判定 要精密検査」に最初はビビっていたものの、ここのところはすっかりあーはいはい、またね、といった具合に慣れてしまった。
ぶっちゃけ、あの流れ作業的な中で行われる健康診断の検査項目は、数値で計れるもの(体重、血液、○○値みたいなもの)以外は、人によって見方が違うから専門医でない限りアテにならないと聞いたことがある。
確かに、Aという項目でひっかかって再検査してるのに、いやBの方が問題ですよ、といわれることもしばしば。
そんなこんなで、今回も右卵巣がなんやらで判定が出てしまったので、不妊治療でゆるく通っているかかりつけ医に診てもらうことに。
そしたら、まさかの健康診断結果とは違う左の方が腫れてると言われるし、左腫れてるけど基準値内、周期のホルモンバランスの影響でしょう、と。。
そして、むしろ、子宮内膜にポリープが3つ程あると!まじかーい!
良性のものが多いけど、妊娠を望む女性にとってやっかいなものらしく、
着床障害を起こし、不妊の原因の可能性の1つらしい。個人差はあるけどとったら妊娠した、という事例もあるそうなので、ポリープを残しておく理由はない。
であれば、とってしまえ!!と思い、手術予約をとったのでした。
◼️初めての全身麻酔手術◼️
まあ、書き方おおげさなんだが、、局所麻酔は経験あるのだけど、眠らされる経験は初めてなので、記念に書いておこうと思い、今に至るのである。
まず、手術タイミングについて。子宮内膜の厚さが周期によって変わるため、手術時期が限られているとのこと。
生理開始から1週間後の内膜が薄くなっている時期が、ポリープがしっかり見えるのでその時期なんだとか。
手術前日、21時以降は絶飲食。
しかし、仕事の帰宅が間に合わず、22時前に夫が買ってきてくれた焼き鳥を食べノンアルコールビール飲んだのはここだけの話。。
水は24時頃までなら少量okとのことで飲む。なんとかなるでしょ。
当日。午前9時に自宅にて事前に処方された、痛み止めの座薬注入。
予約していた10時に病院に到着後、程なくして診察室に呼ばれる。
手術はすぐ行われるわけではなく、まずは子宮を広げる薬と布?みたいなものを入れられる。
うぅー、ちょっと痛いよ、先生。。あの、パッカーンの診療台での診察、何度やっても慣れないわ。。
そのブツが、入った状態で2時間程ベッドで休み、ブドウ糖の点滴も打ってもらう。
あぁ、病院のベッドで点滴なんて何年ぶりだろ。仕事大丈夫かなー(その日は金曜日で、仕事がかなり忙しい日)とか色々考えながら過ごす。
13時くらいに看護師さんが呼びに来る。
点滴つけたまま2つ隣くらいの部屋に移動し、パッカーン診察台に座らせられる。
よくテレビで見る、心電図と指にはめる脈測るものを装着し、医師が3人くらい登場。おいおい、まあまあ本格的やないか、、と心配になりながらもなされるがまま。
そして、女医さんが点滴から何かを入れ、次第に眠くなりますよーと言われたのが最後の記憶となるのでした。
◼️気づいたら、、◼️
意識が朦朧としているんだが、下腹部の激痛と、車酔いみたいな気持ち悪さで頭がクラクラする。。
下腹部の激痛といっても、冷静に今思えば生理痛のもう少し重い時くらいの感覚なんだけど、なんせ、麻酔により本当に眠らされてショック?だったのと、何が起こったかわからないプチパニックになり、思わずナースコールを押してしまった。
30分ほどで落ち着きますよ、といわれ耐え続ける。
ん?パンツがはかされて、ナプキンもつけられてる。。まじか。記憶がない。
看護師さんに聞いたけど、手術時間は15分から20分くらい。手術後車椅子でベッドまで運んでくれたというではないか。
くそー記憶がない。パンツはかせてもらったことも、運ばれてきたことも。。
初めての経験の衝撃と痛みと気持ち悪さで動けないのでしばらく横になって休む。痛みがだんだん落ち着き、軽い生理痛くらいになった時看護師さんが来てくれた。
無理しないでもう少し休んでもいいですよ、と言われたが、タクシーで帰るだけだし、早く家に帰りたいし、お腹すいたし帰る準備を始める。
最後に、薬を4日分処方され、経過観察のため1週間後にまた来てください、お風呂はシャワーのみで、といわれ、その日は終了。お会計は20000円弱でした。
病院をでた頃はすでに16時をまわっていた。
◼️最後に◼️
今回色々調べてわかったこと。
子宮内膜ポリープが不妊の原因の一つの可能性がある、ということ。
まだ、手術終わったばかりでその効果はわからないけど、不妊治療の色々な検査をしても異常がないのに、なかなか授からなくモヤモヤしていたので、やってよかった。
1週間は断酒だけど、また頑張るかな!
早くも影響が出てきていて、研修医たちが内科を避け始めている。
「内科か、精神科か迷ったんですけどー、精神科にしました」とか「内科か、皮膚科か迷ったんですけどー、皮膚科にしました」とか・・・。
内科に籍を置く人間としては、「くそー、みんな安易にマイナーに行きおって!!」て感じなんだけど、
新専門医において、内科はいかんせん、専門決まるのが遅すぎる。
「専門しながら総合内科的な研修できるように改定しました!」て言われたけど、実際のスケジュール考えると無理っぽいし。
今まではマイナー外科に行く研修医たちって「最初からそう決めてた」人たちだったんだけど、
これからは内科に行く研修医が「最初からそう決めてた」人たちなんだろう。
こんなことを考えて感傷にふけったりしている。
しかしながら実際問題、これから内科を志す人が減って、どうなってしまうのだろうと不安が拭えないでいる。
最初から予想されてた事態なので、何か狙いがあってのことなんだろうなとは思うのだが・・・。
(例えば、より科の偏在が進むことで社会問題になって、強制的に各科定員を決めるようになるとか)
新専門医機構は単なる天下り先なのでは?という記事を読んだり、
女性や現場医師が極端に少ない理事メンバー(だいたい教授とかの偉い人で、研修医や指導医と大して触れ合ってなさそうな人たち)を見ると
もしかして何も考えずに新専門医制度始めるとか言ったんじゃないだろうな・・・
と心配になる。
ほんとどうしてくれる。
まあこんなこと書いたって、何も状況は変わらないんだけど。
子供は二人。上の子は自閉症の診断あり。下の子は自閉症かどうかはよくわからない、というかたぶん違う?けれども言葉の発達が遅く、なかなかに育てづらいタイプの子。
妻が上の子の問題に気づくのは早く、1歳くらいにはもうおかしいと言っていた。
増田は初めての子で、他に乳児と積極的に接触を持ったことがなかったし、自分の子に障害があるなんて夢にも思わないので、まぁこんなもんだろ、と思っていたが、両親にも発達の問題を指摘されたことで、
「おぉ。そうか。妻が正しいのね。こいつには問題があるのか。」と認識。
実はその前に、妊娠中にもいろいろ問題があって、もっと重篤な奇形かもと言われたこともあり、
というよくあるパターンには陥らず、
「発達障害ってやつなのはほぼ間違いなさそうだな。じゃあ、どうすりゃいいのだろう。」
と素直に考えられた。
と、いうことで、amazonで本を買って、インターネットで情報収集して、自閉症の早期療育の親の会に 入った。
本の著者の医師の診察を受けるために県外の病院を受診し、地元の地域の自治体の療育センターも受診。
早期療育親の会の本を参考に家庭で療育を開始。自宅から1-1.5時間かけて毎週療育エージェントにも通い始めた。
小学校入学を控える現在、彼のIQは100を超え、日常生活で困ることはほぼない。
社会性の問題は多少あるのだろうが、もはや彼を見て自閉症だと思う人はいないだろう。
そして、下の子。
健常なのかなぁと期待していたが、明らかに言葉が遅く、また発音が不明瞭。
この子もか…と思い、上の子同様県外の専門医にも地域の療育センターの医師にも診てもらったが、お二人とも自閉症とは違うようだ、という見解。
しかし、同じように行かない。
家庭での療育も全然思うように行かないし、エージェンシーでのトレーニングも何かあんまり効果があるんだかないんだか。
逆に、幼稚園での他の子との関わりではいろいろと良い刺激があるよう。
そんなこんなで、今も毎週5日間働きその次の日は療育エージェンシーへ行く。
上の子での通所終了から下の子の通所開始までに数ヶ月はあったけど、その時期もまた別のところに通わせたりしていたので、こんな生活になって、もう3年以上だ。
週休2日のうち、もう1日は休めることもあるけれど、今は子供たちが夏休み中なので元気ならそれはそれで遊びに連れていかなきゃならん。
普通に5日働いて、翌日はいつも通り療育へ。高速使って車で。少し渋滞があったので行きは1.5時間ほど。昼ごはんをファミレスで食べて、療育中の待ち時間はPC開いてお仕事。帰りは渋滞なしで1時間くらい。
帰宅したら連れていった下の子が発熱しており、妻が解熱剤のませたり夜の看病。
診察待ち会計待ち処方待ちで疲労が蓄積。
午後はもともと予約してあった上の子の眼科の受診。自閉症で診てもらっている先生に斜視を指摘されてご紹介いただいた眼科さんで、これまた遠い。高速使って1時間くらい。
そしてこの眼科さん、評判が評判を呼び激混み。待っている時に座るところがないくらい。
検査待ち診察待ち会計待ちを終えて、また1時間かけてようやく帰宅。はぁ…
俺は良い父親だ。沸点高いので基本的にあまり怒らないし、稼ぎはたいして良くはないが悪くもない。
タバコは吸わないし、家でお酒を飲むことはほぼないし、かといって外で飲む機会も月に1回あるかないかくらい。
これといって趣味もなく、休日はほぼ子供達のために使っている。
別に無理してやっているわけではないし、遊びたいわけでも飲みに行きたいわけでもないんだけど、体力がなくて貧弱なのでもう少し休みたい。
そんで、休みを休むことに使えるのであれば、例えばジムとかで運動して健康的になりたい。
でも、今の状態では、ただでさえ疲労困憊で鍛える余裕なんてない。
健康維持のために運動するのって、体力と時間に余裕がないとできないのな。貴族のたしなみだな。
子供を持つとこんなことになったり、生命保険額を上げなきゃいかなくなったり、家を買うか、とかなったり、いろいろ大変だ。とても大変。
あぁ、でも違うな。やんなきゃいけないっていうんじゃなくて、やりたいんだよな。
だから俺がやりたいだけなんだな。
あれだ、ほら、マザーテレサとかもさ、もちろん偉いっちゃた偉いんだけど、あの人はああいう生き方を自分がしたいだけとも言えるじゃん。
親もそういう感じだよな。聖人じゃないので他人の子供は知ったことではないが。
医師の働き方がしんどそうすぎて見ていてつらい
https://anond.hatelabo.jp/20170822153603
300床ほどのしょぼい市中病院で働いている医師として意見してみたいと思う。
有給どころか盆休み・土日すらまともに休めず30連勤だよと自嘲気味に語る医師はゴロゴロいる。
ただ、そんな中でも年間100日も働かずに平均的なサラリーマン以上の生活をしている医師もいる。
問題は医師の偏在にある。都心に医師が集中して、地方に医師がいないとか言うことではなく(それもあるけど)、楽な勤務(バイト)に医師が集中して、きつく責任の重い常勤にはなりたがらない。
正月の日直とか9時〜17時の勤務(実際は前後2時間ほどオーバーするが)1日で20万のバイトとかもザラにある。常勤で働くよりも旨味のあるバイトを週に半分ぐらいしたほうが収入も休日も手に入るという異常な状態が続いている。そんな状態だからこそ、初期研修2年+後期研修3,4年を必死で働いて、専門医を取ればバイト三昧で楽な仕事を選ぶ医師が増えているんだと思う。
それは市中病院の悲惨な経営実態にある。市中病院は診療報酬の改定でかなり経営が苦しくなっている。24時間365日の救急指定をうけないと成り立たないところも多い。ただ、常勤医だけですべてを回すのは無理なので外来業務をバイト医を雇う必要がある。昔は大学病院へ上納金を納め、医師派遣をしてもらうこと多かったが、今は初期研修医制度が導入されて大学の残る医師が少なくなり、医師派遣が期待できなくなった。なので市中病院は自前でバイト医を用意しないといけない。
そんなバイト医をどこから連れてくるか?医師派遣会社からである。この会社が本当にクソ。法外に医師のバイト料金を釣り上げている。1日のバイトで20万円とか常識ハズレな値段を平気でつけてくる。市中病院はなんとしても休診することができないので(1日でも休診すると救急加算がつななくなり下手すると数千万の損になる)、どんなに値段を釣り上げられても要求を飲むしかない。また、医師派遣会社のピンハネ具合もすごい。常勤の医師を紹介してもらうだけで数百万円を仲介料としてとっていく。
そんな医師派遣会社はどうやってこんな強大な力を持つようになったか?
医師は初期研修医が終わるとバイトが自由にできるようになる。その頃を狙ってダイレクトメールや医師向けのWEBサイト(○3,○経メディカル、○are netなど)からバイト募集の広告を乱れ打ちしてくる。「楽なバイトですぐに稼げます」みたいなどうみても地雷のような広告文句を使って取り込んでいく。広告の通り実際に楽な業務で大金が稼げることがわかり、ハマってしまった医師は抜け出せなくなる。
バイト医が全員が悪いわけではないが、バイト医の診察能力は恐ろしく低いことが多い。責任のない仕事をしているので、誰からも診療内容がおかしくても指摘されず、自分では正しいと思いこんでいる。自分のやった診療結果を知ることなく消えていくので、とんでもない医療をしていることが多い。いざというときは医療賠償の保険も充実しているので裁判沙汰になっても困ることはない(バイト元の病院は大変困るが)。
とりあえず、日本から医師派遣業者が消えれば、医療業界は格段に良くなると思う。
とは言え、市中病院の外来単位のバイト料がいいのは大学病院の給料が低いことも関係している。昔は大学から派遣されてきた医師の稼ぎどころとなっていたのだ。市中病院のバイト料が安くなると、大学勤務している医師の家計には大打撃となるだろう。
今日も外来診療していて慌ただしく患者さんを診ていたが、隣の診察室のバイト医はスマホばかりいじって患者をほとんど見ていない…。(バイト医の診察能力が低いことがわかっているので看護師も簡単に処理できる患者しか回さない)
https://anond.hatelabo.jp/20170816125019
の増田なんだけど、現状把握とメンタルを落ち着けるために、今日までの経緯を書き残しておきたいと思う。
まず前提として、増田は統合失調症である。発症した時と比べてすごく良くなっているが、再発防止のためにセロクエルを主剤としてその他いくつかの薬を飲んでいる。そして、81kgの肥満でもある。
で、妊娠した。そうしたら5wくらいからつわりが結構ひどくて、水を飲んでも吐くような日もあり点滴をしてもらうなどしてきた。けれども食べることがちょっと辛くて、妊娠前81kgあった体重が13wの今は74kg台にまで減っている。いい感じにダイエットに成功していると思いたい数字だけど、ちょっとばかり不安。
また、メンタルを患っており肥満でもあるハイリスクは自分でもわかっているので、産科は精神科もある大きな総合病院の産婦人科にお世話になることにした。
そして、11wの検診の血液検査で血糖値が引っかかり、12wの時点で血糖値の推移の検査もしたところ、妊娠糖尿病だと診断された。糖尿の専門医による詳しい診察は二週間後。そんなに大きく基準をオーバーした値ではないので、それまでは食事制限をせず、つわりでも食べられるものを食べてくれ、との話だった。
そのことをメンタルの方の主治医に話すと、困ったなあという反応。聞いてみたら、セロクエルは糖尿病の人には禁忌の薬らしい。でも、セロクエルにたどり着くまで相当色々試行錯誤した経緯と、血糖値が基準値をそう大きくオーバーしているわけではないと言うことで、まだしばらくセロクエルを使うことにした。
それに加えて、血糖値の推移の検査をした日辺りから喉が痛む風邪をひいた。でも産科でお世話になっている総合病院に連絡したら風邪くらいなら他で受けてくれ、と言われたので、地元の内科の先生に診てもらって、トラネキサム酸を処方してもらった。一時は良くなったのだけれどぶり返してしまい、それからはトラネキサム酸が効かない。風邪を引き始めてから5日経っても治らない。夜中になっても喉の痛みと咳でろくに寝られない上に、私の咳で夫も寝られず寝不足。自分だけじゃなくて夫にも迷惑をかけてしまい辛い。多分風邪が長引いているのは、つわりでろくにものが食べられなくて体力が落ちてるからだと思う。
だからまた内科にかかろうとしたが、今週いっぱいその内科がお盆休み。仕方がないので再び総合病院に連絡し、今週の月曜日に産婦人科の先生に風邪を見てもらえることになった。そうしたらPLなんとかという粉薬と咳止めをもらい、木曜日になっても治らなかったらまた連絡してくれ、と言われた。
が、今日になって赤い糸みたいなものが模様のように入った痰が出て、咳をしてもお腹や胸が痛むようになってきて、これはまずいのではと午前中に総合病院に連絡。そうしたらなんとか明日呼吸器内科に予約を入れてもらえたが、それでも喉が痛いままなのは当然変わらないので辛い。この時点で上の増田を書いた。
辛いので横になっていたのだけれど、午後になってから左腕がピリピリと痺れ始める。ナニコレと思いつつ様子を見てたら右腕も痺れ始め、怖いので総合病院に連絡したいが今でも相当横紙破りな診察をしてもらっているのにまた迷惑をかけるのも気が引けて、まずは#7119に連絡することにした。
電話で問診を受け、妊婦であることも統合失調症があることも妊娠糖尿病であることも話し、そうしたらなるべく早く病院にかかれ、もし足まで痺れてきたら救急車を呼んでもいい、と言われた。
なのでその結果を持って再びかかりつけの産科のある総合病院に連絡。そうしたら、産科の先生に診てもらえることになり病院に向かった。向かっている途中、足まで痺れてきて本格的に不安になる。
産科の先生に今までの経緯を話し、最初に痺れ始めた左腕は手首にとても違和感を感じるくらいになっているということや、足も痺れてきて、特に右足首の痺れが強いことを伝える。
だが、痺れは息のしすぎで出ているものではないだろうか?と言われ、喉については明日の呼吸器内科で詳しく診てもらってくれ、という話で、この二つの症状については処置も検査も特に何もなしだった。でも、お腹の赤ちゃんについてはちゃんと診てくれて、心拍もはっきりしているし元気だと言われ、そして帰された。
で、今また部屋で安静にしているのだが、手足の痺れは相変わらず、今こうしてキーボードを打っていても違和感は拭えない。
夫には会社から早めに帰ってきてもらったが、夫は手足の痺れについても、医者が何もしなかったのなら大丈夫なのだろう、というように鷹揚に構えている。
だって喉が痛いのは変わらないし咳だって出るしなぜか手足は痺れている。病院でもあまりちゃんと診てもらえなかった。後から調べたら糖尿で手足が痺れるとあるのに産科の先生はその点にすら言及しなかったし。
なので不安で不安定で泣き出したりし始めているが夫は持ち帰りの仕事で忙しく話を聞いてもらいづらいので、最初にも書いたが自分を落ち着かせるためにこの増田を書いた。
書いているうちに涙は止まったが、やはり不安は尽きない。
こんな状況でも元気でいてくれる赤ちゃんに励まされるが、しかしこうやって書き連ねてみると本当に大丈夫なのか色々と心配になるレベル。
生来、大声が苦手で、幼少のころ、親に「そんな勢いで言われても頭に入らない、もっと優しく言って」「文章に書いて伝えて」などとお願いし、理解されなかったエピソードに始まり、今でも怒鳴り声に直面すると、文字通り固まって黙り込むという、コミュニケーションにおける最悪手を取る結果になってしまう。
これは男性の罵声であっても、女性のキンキン声であっても全く同じ。それどころか、「あ?何言ってんの?」程度の凄んだ声でも必要以上に緊張する始末である。
なんというか、何か返さないといけないと思っても、そういう風に言われた直後からしばらくの間、考えがまとまらないのである。
日常会話では、某大御所お笑い芸人の定番芸よろしく「あんだって?」みたいな聞き取り事故が結構起きる。
というか、コミュニケーションは「相手ごとに個別最適化された、些細なことの積み重ね」なのは、読者諸兄もよくご存じだと思う。
どういうわけか相手の言動を観察できず、どうしても一方通行気味の会話となってしまう。
それでも友達らしい付き合いはどうにか可能だが、彼女を作るとか、仕事でステークホルダーと際どい内容を話せるレベルの関係を作ることは、非常に困難ないし不可能である。
実際、自分の恋愛経験はアラフォーの今でも毛が生えた程度だし、仕事でもコミュニケーション面は完全に落第点である。
歩くときも座っているときもついつい考え事をし、それで誰かとすれ違う時は「お互いが同じ方向に動く」コントみたいなことがたまに起きる。
これって騒音のせい?
雑音をシャットアウトする手段で、古くからある定番の一つは耳栓だ。
最近はこの耳栓も大変便利になり、ノイズキャンセリングで不要な音だけ排除し、必要な音はクリアーに聞こえるという「デジタル耳栓」なるものまである。
昔ながらの耳栓は個人的にあのフィット感が嫌いで、かなり若いときに数回試してやめてしまったが、このデジタル耳栓はイヤホンもどきだし、そんな気にならなさそう。
その結果は、自身のQOLに、想像以上の途轍もない効果をもたらすこととなった。
最初は電車で使い始めて「あれ、こんなもんか」という感想だった。まあ車内放送は聞こえるし、別にいいけど。
などと思っているうち、よりによっていつも降りる駅近くになって眠り込んでしまった。
それでも、いつもは不思議と車内放送を聞き逃さず、すかさず起きて降車できるのだが…今回はそうならなかった。
実に20年ぶりくらいに車内放送を聞き逃し、乗り越しをやらかした。
大慌てでいつもの駅に駆け戻り、デジタル耳栓を外す間ももどかしく改札をくぐった。
そこから速足気味で歩き始めて数秒後、いつものペデが、なんだか違うのである。
えらい静かなせいなのか、自発的に周りを注意しないと…という意識が自動的に働いてしまった感じだろうか、とにかく人の動きがよく目に飛び込んでくるのだ。
それも、周りを注意せず歩いている人なんて一瞬で分かってしまうレベルで識別できる。
これなら例のすれ違いコントなど起きようがない。
そうなる前に、なんとなく人の動きが読めるのだ。
上述のように周囲に注意しつつも、それでも考え事がやむことはなかったのに、独り言だけがパッタリやんでしまった。
独り言をしなくても、考えたことがスッと頭に入っていく感じだろうか。
数年来の友人と電車内で会話したとき、とにかく相手の話に苦も無く追従できたせいだろうか、彼が今まで話した中で、最も楽しそうに喋っていた…ような気がする。
こちらも、その話しっぷりから「コイツの飾らない人柄、すげーイイ奴だ!」などと妙に感動してしまったり。
これってもしかして「ちょっとしたこと」ができていたということだろうか。
だとすれば、確かにこの「ちょっとしたこと」は他人に教えられない。
自分もコミュニケーションが苦手なので教えてほしいクチだったが、これは文字通りフラットな経験から体得するしかないんだなーと痛感した。
数年前に話題になった、某引っ越し業者の幹部がユニオンのスタッフを怒鳴る動画、最近取りざたされた某女性議員の「このハゲー!!!」で始まる動画、この2つをデジタル耳栓をつけた状態で試聴してみた。
確かに「あーコイツやべえ、すっげーなオイ」とは思ったが、さほどビビらなかった。
これなら「あっすみません●●は××にしておきます、あの、ご指摘ありがとうございます」くらいのアクションを咄嗟に返す余裕はありそう。
少なくとも、怒鳴り声で感じる威圧感は最小限だった。
別に変なクスリをキメたつもりはないのに、デジタル耳栓をしている時間が、極上に安らかなひと時になっている。
とにかく不安感が全然ない。不安になる事を考えていても、である。
「満更でもないな」という気持ちが非常に支配的で、安心感が凄まじい。
ともかく、「人間の感情も思考も、全て感覚によって形作られる」ことを認めざるを得なかった。
そして、「この世界は俺にとってうるさ過ぎる」とも。
というわけで、なるべく早く、というか可能な限り最優先で、聴覚過敏の専門医を受診しようと思う。
確かにデジタル耳栓は快適なのだが、これを今後ずっと使い続けていいのか、そもそもの自分の感覚異常の正体は…など、色々気になる。
https://anond.hatelabo.jp/20170713211145
職住近接の時代、職場の近くに住んでの自転車通勤が合理的であり、社会貢献(自動車を減らして自転車を増やすと渋滞も公害も事故も減り、更に運動不足解消で社会の医療費も抑制できる等)にもなるから。
http://web.archive.org/web/20140811155540/http://www.heisei.or.jp/docterseye224.htm
2009年から本格的に乗り始め、ほぼ毎日25キロの通勤をしていたところ95キロあった体重は82キロまで下がり、
献血時の血圧測定で140mmHgを超えていた血圧は正常化し、脂肪肝によるものと思われたGOT・GPT高値は正常化するわ、
右の頬に出ていた慢性の吹き出物は消失するわで深夜のテレホンショッピング、雑誌の広告も真っ青な効果でした。
海外に、「トラック一杯の薬より一台の自転車」という諺がありますが、その通りであることを実感いたしました。
長距離を走るなら是非ロードバイク(ハンドルが下に曲がっているやつ)を購入したいところですが、
如何せん高価です。まずは家のママチャリのサドルを高めに設定し、
タイヤの空気圧を高めにしてチェーンの注油をするだけでもかなり快適に走れるようになります。
本格的に走りたいという方は是非スポーツバイクの購入をおすすめします。
後輪のギアが8枚以上あればスポーツバイクと考えて問題ありません。
あとは自転車屋の店長に相談しながら好みで選べばよいでしょう。
その一方で、都市部、市街地における自転車専用道ネットワーク整備を政策で進めたり、自転車購入補助金制度創設などで自転車の活用拡大推進を進めている。
イギリスの首都ロンドンでは自動車から通行課税を徴収して自動車を減らし、自転車利用者を増やすための自転車専用道ネットワーク整備に充てているほど。
そしてノルウェーの首都オスロは自家用自動車=マイカーの排除、禁止化、違法化を決定済で、一方、自転車に対しては自転車専用道ネットワーク整備や電動アシスト自転車購入補助金制度創設などで優遇も決定済。
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jssd/57/0/57_0_H08/_pdf
街を走る一般の自動車は、5人乗りに1人しか乗ってないようなのがほとんどだという事実が国土交通省の調査により明らかになっている。
なので、海外では渋滞対策として、一人しか乗っていない自動車は乗り入れ禁止な規制もある。ロンドンも自動車から通行課税を徴収して自転車道整備に充てており、ノルウェーの首都オスロはマイカーを禁止し自転車優遇を決めた。
現代の先進諸国は自家用自動車=マイカーへの規制や課税を強めて、自転車への乗り換えの為の自転車道整備を政策で推進したり、
これと併せて公共交通強化も進めている。自動車は減らせば減らすほど渋滞も公害も重大事故も減るというが最大の理由。
http://livedoor.3.blogimg.jp/himasoku123/imgs/9/5/952362b2.jpg
不眠症の人に対する「無理に寝なくていいメソッド」も、最近の「睡眠負債」という概念で効用を失いつつあるよね。
睡眠負債はこまめに返さないとどんどんたまっていき、返済不可能なまでになると身体に害を及ぼすという。
1日最低7〜8時間は寝ないと睡眠負債がたまり、日中の認知機能が低下する。
じゃあ休日に寝溜めして一気に負債を返済しようと思っても睡眠リズムが崩れるのでそれは許されないらしい。
薬に頼ろうと思っても、ベンゾジアゼピン受容体作動薬は常用量依存の問題があり、緊急避難的な使い方以外は許されない。
さあ大変だ!睡眠負債という概念で恐怖を煽っている睡眠専門医たちに助けを求めないといけない。
どうやら我々に残された方法は、睡眠専門医たちと、オレキシン受容体アンタゴニストと、メラトニン受容体アゴニストの売上に寄与する方法以外にないらしい。
2018年に施行されると言われている新専門医制度、頓挫しないかなあ、とずっと思っている。昨年一年延期、てなってカリキュラム制が追加されたり小さい病院での研修が必須化されたりとかしたけれども若い医師の状況は金銭的にも勉強的にも上がってないんだよね。
結局のところ、臨床医としてのスタートはサブスペシャリティの勉強を始めたときだと思うんだ。サブスペシャリティを始めてやっと1-2年してまあなんとか形になってきたかな、て感じ。上級医もそれを見越して一生懸命教えるわけ。実質、機動力として4〜6年目(サブスペシャリティの2〜4年目)の医師を頼りにしている市中病院って多いんじゃないかな。
出産や留学の例外は認めるという風にはなったけど、新専門医制度は結局2年ローテーションして1年サブスペシャリティが基本になってるから、簡単に言うと丸々2年分サブスペシャリティの勉強をする医者がいなくなる。たぶん4〜6年目を頼りにしていた多くの病院が、数年で立ちいかなくなる。
本当になんで研修医でやったローテーションをもう一回させるかなー、て思う。サブスペシャリティに行ったら、使わない知識なんて忘れるから!忘れなくても他科の新規治療を完全には会得なんてできないから!あと、半端に知識が残ってるのも危ないから!
結局、ローテーションって研修医がしたことのやり直しだから、正直教える方も教わる方も身にならないんだよね。指導医の立場からしたら今までは将来の投資として頑張って教えてたのが、これからは一生懸命教えても2ヶ月程度でハイ、さよなら。てなっちゃうんだし。勿論患者さんにとっても主治医がちょいちょい変わるから、誰も得しないと思うんだけどな。
あと問題なのが、専修医のポストの予算捻出がどこも難しいところ。今まで後期研修医ポストを持ってた病院はそれでいいけど、持ってなかった病院は専門の先生のポストを削ったり、大学院生を無給で働かせたりしないといけなくなるみたい。研修医の待遇があまりにも悪すぎる!と今の研修医制度は始まったはずなのに、また誰かが低賃金・もしくは無賃金で働かないと行けなくなるのか。。。と思うとなんかね。
まだモデルプログラムも出てないうちから入局を決めろと迫られてる研修医気の毒やな、と思いつつ、しわ寄せが来るであろうちょっと上の学年も気の毒だなと思う。
理解がいまいちできてない部分とか、勘違い部分もあるかもしれない。自分が内科医なので、内科に特化した内容になっちゃってるかもしれない。(内科はサブスペシャリティを同時にできるプログラムも、、、とか言ってるけど、具体的にはどうすんのかね)。あと、ちょっと感情的になって読みにくい文章になっちゃったかもしれない。とりあえずぼやきたくて書いた。
こんな公的支援がある
医院と薬局を一カ所だけ指定して申請すると、精神科の医療費と薬代が一割負担になる。転院したり引っ越ししたりしてもまた申請すれば大丈夫。収入によっては一カ月の中で支払う上限が変わる。
http://seseragi-mentalclinic.com/jiritu-shien/
・障害年金
18歳未満に病気が発生したか、それ以上かによって支給要件変わる。発達障害単体だと無理の可能性高いけど二次障害起こしてるともらえるかも。受給するための支援してくれる障害者支援施設もあるので使ってみてもいい。
一番のメリットは障害者雇用に応募できる。配慮をもらえるのはすごく楽。あと公的施設の入場料が無料になったり映画が1000円で見られたりバスなど移動手段が割引になったり。電車は割引不可のところがまだまだ多い。持っていると色々役立つ時がある。ただし障害者雇用は賃金がだいぶ安くなるから気をつける。
上記は主治医の診断書が必要になるので治療方針が食い違うと書いてもらえなくなるかも。要相談。ちなみに障害年金受けてるとその受給者証を見せれば楽に手帳の申請ができる。
学生生活では、いちかばちかテストやレポートのすみっこに、これこれこういう理由で授業を受けるのが困難だった、と書いてみる。時々同情してもらえて単位もらえる。最終手段として。
退学するかどうかは家族と良く話し合おう。うつ症状は判断を狂わせるので、あまり重要な決断をしないのが一番いい。どれだけ時間をかけても卒業するか、休学しながら体調を回復させるか、はっきり辞めてしまうか。道はたくさんあると思う。
やりたい勉強があったなら、退学は最終手段にしてほしいな。やめるのは簡単だけど、入るのはすごく難しいから。お金の問題もあるから一概には言えないけど。コメにもあるけれど通信教育や放送大学という手もある。
ざわつきが気になるならデジタル耳栓とかイヤーマフなんかを試してみてもいいかもしれない。授業になったら外す、とか。周りの目は気にしなくていい。好きなように言わせとこう。
何よりも、無理せず。やりたいようにやろう。
私も卒論の指導教授には、たぶん見えないところでたくさん下駄を履かせてもらえたと思う。うつの治療しながらではあったが、なんとか卒業させてもらえた。ありがたかった。味方は必ずいるから。
都道府県には必ず「発達障害支援センター」や「障害者職業センター」が存在する。場所によっては「障害者生活・就労支援センター」などもある。「若者サポートステーション」などもいいかも。公的機関とは別にNPOなんかも。相談先はいくつかあると楽。たまに信用できない支援施設や相談員もいるから気をつけて。
もうそもそも発達持ちなら自営業とかの方が合うかもしれないとつくづく思っている。ブログで副業とかどうなのだろう。そこはお好みで。
ADHDと自閉症スペクトラム併発すると結構職業が限られると思う。これは私も今模索中。広々した場所で全員の挙動が全部見えるデスクワークは最悪だった。経験談として。
また何か思い出したら書くかも。
お互い頑張ろう。
あ、あと自分から「ガイジ」という言葉を使うのはおすすめしない。あまりにひどい言葉だしはてなにもたくさんいる発達持ちに失礼。
※色々追記
ADHDは治らないよ。薬で症状を押さえてるだけ。でもこのコンサータやストラテラを飲むと、発達持ちの特性である、創造性が失われるという話もある。それが嫌なので私は飲まなかった。元増田はいい方向に行ってるようなので何より。
一割負担の話は政府に文句言ってくれ。だけど精神障害持ちはロクに働けなかったり薬がべらぼうに高くなる傾向なので大目に見てくれると助かる。
精神障害二級はだいたい労働や生活にかなりの支援を必要とする、くらいだったと思う。
ガイジって言葉は誰であれ使うなと強く言っておく。アスペもあまり好きでない。
発達持ちは謎の体調不良を起こしたり疲れやすかったりするので授業にたどり着くだけでもけっこう大変。そして休んでも友達にノートを借りたりできずに落とした単位がいくつかあった。人によるから簡単にちょろいと言ってやらないでくれ。
※またまた追記
>>偶に自立支援の申請に必要な診断書の交付を拒む医師がいるらしいが、医師法19条2項違反だからな。
申請を受理するか却下するかは役所が判断することで、医師がその申請が通るかどうかを必要以上に気にすることは無い。<<
そうなのか。一番最初に自立支援の申請をした医者がどうも渋り気味だったから印象で書いてしまった。補足助かる。
それも十年近く前だから、きっと少しは良くなっていると信じたい。申請にマイナンバーが必要になったのはアホかと思ったが。
まだ成人の発達障害は誤解も多く、私の主治医はとても良い信頼できる主治医だが、私が発達障害であると認めてくれない。(主治医に内緒で発達障害専門医にセカンドオピニオンに行って発覚した)
発達障害に詳しい医師にかかるのが一番だろうが、地方ではそれも難しい現状だ。
ただ、障害者職業センターはだいぶ発達障害に力を入れ始めていると聞いた。何かの助けになるかもしれないから、元増田以外の発達障害持ちも相談してみるといいかもしれない。
都議会選挙が告示されて、東京の街はそれまで以上に賑やかになった。
駅までも遠いし、バスなんて走っていない。
列車で行けない距離にあるから、近所の人の車に乗っけてもらわないと病院に行けないのが普通。
別に名医がいるからじゃなくて、もちろんそこが1番近くの産婦人科だから。
間に合わなくて、救急車やタクシーの中でのお産を経験した人もいる。
だけど、
「専門医がいればなあ」
と葬儀でそんな言葉を聞いてきた人間からすると、やっぱり贅沢だなあと感じてしまう。
http://women.benesse.ne.jp/article/002322.html?sns
なるほど。
うちの子、いくつか食物アレルギーある(あった)けど、結構病院に振りまわされた感がある。
うちの子は「乳児湿疹」からあと「アトピー疑いあり」でずっと塗り薬処方されてきてる、いま1歳半。お肌はきれいだけどやっぱりアトピーなのかもしれない。
イギリスでは区別されていないという文章をみて、なるほどやっぱりそうかと思った。日本も呼び方区別しない方が良いのでは…。乳児湿疹だと赤ちゃんはなるもの、1ヶ月〜3ヶ月ぐらいで治るよっていう感じで皮膚、アレルギー問題を軽視してしまう。
思い返すと退院した生後1週間頃からポツポツ湿疹できてきてた。
母乳、ミルク与えた後とか顔をママの服にすりつけてきてたけど、今思えばあれは痒かったんだろうなと思う。痒くても手を動かせないから…。
1ヶ月検診で小児科で乳児湿疹が多いと相談してもプロペト処方されただけ。
その後、産後ケアセンターに滞在してたときたまたま助産師さんに皮膚科行ったほうがいいと評判よいところを教えてもらって生後1ヶ月過ぎにこの記事にある成育医療センターの元皮膚科医長さんのクリニックに通いだした。区では一番有名な小児皮膚のクリニック。
生後5ヶ月頃に離乳食始める前にアレルギー検査していこうと考えて(アトピーだと食物アレルギーある場合が多いという情報を本、雑誌、ネット記事をみて知ったので)、この皮膚科で5大アレルゲンの血液検査をうける。結果はすべて陰性、問題ないですといわれる。
安心して6ヶ月頃から離乳食はじめるも、なす、かぼちゃ、きゅうり、バナナなどで口元が赤くなる。皮膚科に相談するとヨダレかぶれでしょうと食事前に口元にプロペト塗ってくださいと処方される。
次に白身魚の鯛でアレルギー反応がでる(唇がはれる)、この時はすぐ小児科にいき食物アレルギーでしょう、1歳まで魚、鯛はひかえたら良いと指示される。反応でた食物は1歳までひかえたらいい、1歳こえると体の機能が強くなるから食べれるようになるよと。
その後も、離乳食定番のクタクタうどん与えると首から耳が赤くなる。→小麦粉控えるなどをしていた。
8ヶ月の時に勝手に卒乳になり(子供が母乳を全く飲まなくなった)、粉ミルクに切り替えたら口元が赤くなる。
これもヨダレかぶれ??おかしいなぁ、牛乳アレルギーは血液検査でなかったはずだったけど。粉ミルクの種類の問題かな?メーカーをかえてみる。e赤ちゃんという粉ミルクだと反応でなくなった。ということはやはりアレルギーか?ということでここで皮膚科や小児科ではなくアレルギークリニックにはじめて子供をつれていく。
血液検査ですべて陰性だった件を伝えると月齢が低いときは血液検査より皮膚スクラッチテストの方が正確な結果が出やすいんだよと。
大豆もでてる、毎日トウフ食べてて問題ないですが何故でしょうと聞くと偽陽性といって問題なくても少し出る場合あるからねといわれる。ミルクは少しだしいま飲ませてるe赤ちゃんで問題でてないならそれでいい。ただ卵は強くでてるから1歳まで与えない方がいいと指示される。
70歳過ぎてる先生だが著名な方ではあった。
先生曰く「血管細いから血液取りにくいし無理にする必要ないよ、1歳半まで食べさせなくてもいい」と指示される。
また指示通り過ごすが、1歳5ヶ月で保育園入るにあたって(近所の小児科で卵食べさせたことないならアレルギークリニックで接種してもらってくださいといわれ小児科では接種拒否された)麻疹風疹ワクチンを打つために行くとワクチン使った皮膚スクラッチテストで皮膚反応が少しでたので2歳まで打たなくていいと言われる。
保育園の入園前検診で他の病院にきいて打ってもらった方がいいといわれ、保健所に相談して他の少し遠い場所にあるアレルギークリニックに行った。
すると「いまは遅らせるより少量を与え続けるの治療法がメインだよ」といわれ…、血液検査で高い数値も出てたけど与えて問題ない分量を指示されずっと与えてる。
あと3ヶ月したら再度血液検査して下がっていれば全解放する方針らしい。
ちなみにこの先生ももと成育医療センターのアレルギー科の先生。
先の老医師はこの方の大先輩。
元成育医療センターの先生曰く、老医師はすごい先生だけど少し持ってる情報が古いのかもね。
皮膚科で受けた血液検査も時期が早過ぎ、6ヶ月以降でないと母親からの免疫が残ってるから数値が出てこないんだよ。
皮膚科のあの先生は知ってるし、非常に優秀だけどアレルギー専門医ではないから知らないんだろうね。
今度受診したらあそこの先生がこう言ってましたって伝えといてよといわれる。
なんだか振りまわされてる。
いま通ってるアレルギークリニックは元成育医療センターの医師で最新情報を治療に反映させているようなのでこのクリニックに通って完治させたいと思う。
大病院が通える範囲にあり、そこのOBが独立して界隈に小児皮膚、小児アレルギー、小児眼科などのクリニックがいくつかある地域でよかったとも思える。
ただ紹介状書いてもらえるほどの症状(血液検査)が出てなかったから結果的に行けなかったかもしれない。血液検査を6ヶ月以降にしてて高い数値出てたら皮膚科から紹介状書いてもらえたかもしれないが、皮膚科に相談したら血液検査は全部陰性だからかけないといわれた。
どこかで紹介状書いてもらって数ヶ月待ってでも成育医療センターのアレルギー科に通ってたら違った結果になってたのかも…残念。
以上、こういうケースもありました的なお話でした。
https://anond.hatelabo.jp/20170617190103
http://news.mynavi.jp/news/2017/05/12/075/
http://aquariusmedgim.hatenablog.com/entry/2017/05/08/235452
全死亡率、心血管疾患、心血管死、癌死、癌の発生率はいずれも自転車通勤群で低い傾向。
心血管疾患、心血管死は歩行通勤群で低い傾向だが、癌に関しては差はなさそう。
なお、Mixed mode(公共交通機関や車での通勤を併用する群)でも多少は良い傾向があるが、アクティブな通勤単独群ほどの効果はなさそう。
(中略)
◯まとめ
歩行通勤も心血管疾患および心血管死亡率を低下させうる。
電車や車を使うにしても、少なくとも歩く距離を長めにするような指導はしても良いかもしれない。
http://web.archive.org/web/20140811155540/http://www.heisei.or.jp/docterseye224.htm
2009年から本格的に乗り始め、ほぼ毎日25キロの通勤をしていたところ95キロあった体重は82キロまで下がり、
献血時の血圧測定で140mmHgを超えていた血圧は正常化し、脂肪肝によるものと思われたGOT・GPT高値は正常化するわ、
右の頬に出ていた慢性の吹き出物は消失するわで深夜のテレホンショッピング、雑誌の広告も真っ青な効果でした。
海外に、「トラック一杯の薬より一台の自転車」という諺がありますが、その通りであることを実感いたしました。
長距離を走るなら是非ロードバイク(ハンドルが下に曲がっているやつ)を購入したいところですが、
如何せん高価です。まずは家のママチャリのサドルを高めに設定し、
タイヤの空気圧を高めにしてチェーンの注油をするだけでもかなり快適に走れるようになります。
本格的に走りたいという方は是非スポーツバイクの購入をおすすめします。
後輪のギアが8枚以上あればスポーツバイクと考えて問題ありません。
あとは自転車屋の店長に相談しながら好みで選べばよいでしょう。
http://www.bbc.com/japanese/video-34524760
http://longride.info/general/2694/
”仏パリ心臓血管研究所(Paris Cardiovascular Centre)のエロワ・マリヨン(Eloi Marijon)氏率いる研究チームが、
自転車ロードレースの最高峰ツール・ド・フランス(Tour de France)のフランス人参加選手を対象に行った調査によると、
男性のプロ自転車競技選手は、同世代の一般人と比較して、平均で何と6.3年も長生きする可能性が高いという。
素朴だけど優しく私を愛してくれる夫と2児に恵まれ、幸せな人生を手に入れてそれなりに満足感のある日々だった。
幸せな日常を一瞬にして真っ暗な絶望に追いやった乳がんの発覚。
乳がんは罹る人も多い病気。負担はあるけど、治療なんてさほど難しくないと思っていた。
でも全然カンタンではなかった。
家族、友人、そして自分自身多くの人を深く傷つけ、心身共に疲れ果て全てを失う寸前まで追い込まれた。
判断ミスもあり、軽度とは言えない状態までいってしまった私だが、良き出会い、周りの人の支えに助けられたことは幸運だった。
手術、抗がん剤治療を行い私は今、再発の不安は抱えながらも元の幸せな生活を取り戻すことができた。
いろんな後悔が今も心に残っている。
こんな思いをする人を一人でも減らせたら。そう思って私の体験を伝えてみたくなった。
興味があったら読んでみて下さい。
ほんの些細なこと。
10月1日、夫と食事に出かけた帰りに見かけたピンク色にライトアップされた東京タワーだった。
その時は何も思わなかったが、少しだけ「乳がん」という言葉が頭をよぎった。
それから1ヶ月が経った頃、
朝、着替えの時に左の胸に固い感触を感じた。
違和感を感じ指でふれた。コロコロとした1cm程度の小さなしこりを感じた。
ピンク色の東京タワー、ピンクリボン、その記憶が私にそう思わせたのかもしれない。
ただし、その日は家事に忙しいこともあり、夜にはしこりのことは忘れていた。
夜の入浴時にもう一度触ってみた。朝のしこりはもちろん、あと2個程度小さなしこりを指先に感じた。
大きな病気をしたことが無い私は些細なことでもすぐ心配になるタイプだった。不安にかられ、髪も乾かさずインターネットで幾つかのサイトを調べた。
しこりがある=乳がんというわけではない。40歳未満の場合は良性のしこりの方が多いらしく乳腺線維腺腫の可能性が高いと書いてあった。
人間、不安なときは都合のいい方の考えに飛びついてしまうものだ。
私は、
と勝手に安心し、「こんなものはそのうち消えてなくなる」なんて、根拠もない解釈をしながら、眠りについた。
翌朝、しこりは消えていない。やはり気になる。「もしかしたら」が再び頭をよぎる。
考えないように過ごそうと思ったが、家事が何も手につかない。
今まで感じたことの無いものが私の胸に存在している。その事実から目をそむけることができなくなっていた。
一刻も早く安心したい。その一心で私は病院を探し始めた。乳がんを検査してくれるのはどこか?今まで考えたこともなかったから検討がつかない。
よくわからないが、とにかく近くの産婦人科に行ってみることにした。
そういって若い女性の医師は近所の外科への紹介状を書いてくれた。
その翌日は外科の診断へ。私は一日がかりで色々な検診が行われることを想像したが、触診だけだった。
診断は
違和感があった日に確認した見解と一致していたため、その診断を疑うこともせず飛びついてしまった私がいた。
乳腺線維腺腫は放っておけば3ヶ月程度でしこりはなくなってくるとのことだった。私は安心して、日常の生活に戻った。
「大丈夫でしょう」という自分の安易な判断と、夫に相談せず自分で納得してしまったことがあんなことを引き起こすなんてこのときは思いもしなかった。
それから2年、私はしこりのことなどすっかり忘れて平穏な生活を続けていた。
日々の家事、娘息子の世話、当たり前のことを当たり前にこなす。傍からみれば退屈かもしれないけど、愛のある満たされた毎日。
その日もいつもと何一つ変わらない一日だった。
夫と同じベッドで寝ていると、寝返りをうった夫の手が私の胸に当たった。すると夫が「え?硬っ!」驚いた様子で声を上げた。
暫く自分の胸に意識が向いていなかった私は自分の胸を触り、全身から血の気が引き、突然得も言われぬ恐怖感が襲ってきた。
私がもらした一言を聞いた夫の青ざめた顔が今でも印象に残っている。
夫はすぐに「明日会社を休むから、一緒に病院に行こう」と言ってくれた。
とにかく早くということもあったが、2年前にいった病院は割けるため、隣町の女性クリニックへ診断に行った。すると「確かにしこりがありますね。技師が3日後に来るのでエコー取りましょうか」
との回答。
しかし、今すぐにどうなっているか知りたい。不安が募りの募った私達夫婦は待つことができなかった。
「乳がんの専門医でなくてはわからないのでは?」と夫の意見を採用し、インターネットで調べ最も近くにあった乳腺外科のある病院へ行った。
まずは触診。先生の無表情さが不安を掻き立てる。その後針生検へ。これは正直かなりの痛みがあり、辛かった。
終了後、先生は「結果は一週間ほどで出ます。検査結果によっては大きい病院を紹介する形になります。」と。
もはや1週間を待てる心理状態ではなかった。一刻もはやく白黒を知りたい。先生にお願いをして大学病院への紹介をすぐにもらった。
これらの検査を一気に検査を行うことができた。これで自分が乳がんなのかそうではないのか、ハッキリと分かる安心感はあった。
この一週間は今まで感じたことのない長さだった。
加えて、2年前、なぜしこりが気になった時点でもっと詳しく調べなかったのか、夫に相談しなかったのか、激しい後悔にも襲われた。
診断結果を聞かされた瞬間、私は頭が真っ白になった。
先生が言っている言葉は聞こえるが頭に入ってこない。隣の夫も呆然としていた。同じ状態だったのだろう。
何も考えられない、何も声発せない状態が3分は続いただろうか。
我を取り戻した私は、
「どうすれば治りますか」と先生に聞いていた。
結論は手術。
私は家族と一日でも長く幸せにくらしたい。その思いが人生の最優先だと強く認識した。
女性として葛藤もなかったと言えば嘘になるが、全摘を選択した。
医師から告知を受けると今度は身内や親しい人に話をする必要が出てくる。
まずは娘と息子に12歳の娘、10歳の息子。
ともに私が大変な状況にあることは理解してくれたようで、神妙な顔つきをしていた。こんな状況だが「泣いたり喚いたりせず立派だな」と成長を感じ少し嬉しい気持ちもあった。
次に両親へ説明をした。福岡に住んでいるのでまずは電話で話をした。母が出た。
母とは昔から何でも話し合える仲だ。あまり回りくどく説明しても仕方がないと思い、率直に「乳がんになった。手術をする」と伝えた。
と私に声をつまらせながら何度も何度も謝った。
親の前ではやはり自分は子供に還るのだろうか、今まで必死に堪えていた恐怖心や悔しさ、絶望感があふれ、私も涙が止まらなくなった。
仲の良い友人にも伝えておく必要があると私は考えた。
私のこの考えは安易だったのだろう、結果闘病前に友人関係で心のダメージを負うことになった。
仲が良いと思っていた主婦仲間、ママ友に告知をすると
という反応。
特に親身になって欲しいとかそういうわけじゃない。何が欲しいのかもわからないけど、何か嫌だ。そんなダダっ子みたいな自分も嫌になった。
更に追い打ちを掛けたのは「親友」だった。
中学校からの友人、由美とは今でも週に一度は会う仲で、何でも話せる間柄。
私と由美はまるで姉妹のように、同じような進路を辿り、同じようなレベルの男性と結婚し、同じように幸せな家庭を育んでいった。
昔から進路の話、異性の話、結婚してからはお互いの家庭の話、旦那の愚痴。家族ぐるみでも付き合える最高の友人だった。
由美になら何でも話せる。親兄弟よりも私の気持ちをわかって親身に寄り添ってくれるそんな勝手な期待をしてしまったのだろう。
由美にも率直に
と伝えた。
ただ、由美にだけは同じ女性、同世代ゆえに全摘によって片胸が失われることに関しての悲しさがあるという話をした。
するとA子は
と言い放った。
彼女は明るい性格だ。彼女なりに私を励まそうとしたのかもしれない。
死を意識する日々、あまりに多くのものを失っていく毎日、私があらゆるものに敏感になりすぎていたのかもしれない。
ただ、この一言はどうしても受け入れることができなかった。
私が置かれていた状況は私の平常心を奪っていたんだろう。滅多に感情的になることがなかった私が怒りを抑えきれず、由美に対して激しい言葉をぶつけてしまった。
これまで長年にわたり育んできた暖かな友情に大きなヒビが入ってしまった。乳がんはまた一つ私から大切なものを奪ってしまった。
家族の不安、両親の涙、友人との離別、多くのネガティブな感情を抱えながら私は手術に挑む。
スケジュールが出た。
手術は診断結果が出た日から20日後に決定。全摘を選択したために術前の化学療法はなし。
手術2日前から入院となった。前日からは食事も取れない。当日は朝から各種検査を行い以異常がなければ全身麻酔をして手術開始。目を覚ませば手術が終わっている。
手術は予定よりも2時間遅れて終了。遅れた理由はリンパ節への転移が見られたから。麻酔が切れて朦朧とした中で、病室で夫がずっと手を握ってくれていたことは記憶の中にうっすらと残っている。
乳がんが発覚し自分の信じていた世界が全て崩れてしまったと思っていた。
でも夫だけはどんな状態の私も暖かく包んでくれていた。こんな時だからこそ夫の愛情を強く感じることができた。手術が終わった安堵感と、愛を感じられたことによる充足感か、そのまま深い眠りに就いた。
翌朝の目覚めは心地よかった。起きたら包帯でぐるぐる巻きだ。まあ夢ではない。現実だ。左のおっぱいないよなー。と思って触ってみるとやはり・・・ない。
わかっていたけど、現実を突きつけられると涙がこぼれた。
術後に体内にたまるリンパ液や血液を出すためのドレーン管が二本入ってたが。ここから液がでなくなれば退院だ。
7日後、遂に退院が出来た。退院時の値段は50万円だった。私はがん保険には入っていなかったので正直この金額は厳しいものがあった。備えあれば憂い無し。
そんな言葉が頭をよぎったが、今は無事に退院ができたことの喜びの方が勝っていた。
左の胸がなくなってしまったことへの喪失感はあった。お風呂に入るときなど自分の身体から目を背けたくなる時期もあった。
でも、疑似おっぱいの性能が以外と良く、服の上からでは見た目にわからない状態になった。そこからはだいぶ気分が楽になった。
気分は元に戻ってきたが、治療はまだ終わりではない、手術から30日経過した時点で今度は抗癌剤治療が始まった。
期間は3週間を1クールとして、8クール、複数の抗がん剤を組み合わせての実施。
抗癌剤治療と言えば、ドラマでも度々その様子が描かれる。そのためわずかに恐怖心があった。でも生きるため。
抗がん剤治療は想像していたよりはキツくはなかった。最初の一週間は特に異変もなかったけど、8日目辺りから吐き気と貧血が出始めた。割りと調子が良くなってきた17日後に遂に髪の毛は完全に抜けてしまった。「あー、やっぱこうなるのねー」と思った。
覚悟は出来ていたので、思っていたよりはショックは少なかった。
2クール目は特に問題なく過ごすことができた。まあ抗がん剤の点滴の際は気が重いくらいかな。
3クール目に入る前にはかなり抜け落ちてきた髪が目立つので、ウィッグを買いに行った。季節をまたいでの治療なので冬用と夏用を両方買った。
それにしてもケアグッズも高い。
あまり大きな声で言う人はいないと思うが、乳がんは治療以外にかかる金銭的負担も大きい。
4クール目に差し掛かる頃には髪の毛は全て抜け落ちた。髪だけでなくまつげ、眉毛、体毛全てが抜け落ちた。顔色も悪く自分を鏡で見るのがちょっときつくなった。
いつも看病してくれる。夫も私の姿をみてどう思っているのかな。。。と少し気になる時期だった。
こうして、長かった化学療法も遂に8週で無事に終わりを迎えることができた。もう吐き気に悩まされることもないと思うとかなり気が楽になった。
楽しい時期は2ヶ月なんてあっという間だが、治療となると1年間のような長さに感じる。
抜け落ちた髪も徐々に生えてきて、昔に戻れるのかな-と淡い期待を抱かせてくれた。
化学療法を無事に終えた私は最後の治療、放射線治療に入ることになる。
放射線治療は、全部で30回。毎日通院が必要で、一ヶ月半ほど平日は病院通いが必要になった。経済的な負担も引き続き大きかったが、仕事の調整をして一緒に通院してくれた夫に負担をかけているという罪悪感も多くあった。
放射線治療にも副作用がある。軽い火傷のような症状だ。熱い、かゆい、痛い。放射線を当てている患部は赤黒くなってしまい、見るからに痛々しい感じだ。
ただ化学療法と違い体外的な副作用しかなかったので、辛さで言えば全然問題なかった。
手術をしてから約半年が過ぎて、ようやく私の乳がん治療は全て終了した。
毎日毎日通った病院。乳がんを発見してもらった病院にそのままお世話になって本当に良かったと思う。
検査のときは無表情で怖かった先生も病に真剣に向き合って時には優しく、時にはハッキリと私が不安にならないように、また過剰な期待を抱かないように上手に説明をしてくれた。
お陰で私は現実と向き合い、治療の目的を正確に理解しながら集中して治療を受けることができた。先生本当にありがとう。
そう言えればどれだけ幸せだろうか。
一般的ながんは5年再発しなければ完治と呼ばれるが、乳がんは10年後20年後も再発の恐れがあるために、ほぼ一生に渡って再発の恐怖との戦いになる。
こんな人生を送ることはまっぴらごめんだ。
そのなかで私の心は強くなっていた。がんを再発させないように生活を改善していけばいいじゃないか。そうポジティブに捉えることができるようになっていた。
乳がんによって手に入れられたこともあるのかなと思うと、最悪なことばかりではないかと思った。
幸いといっていいかな。見た目以外は正直、乳がんが発覚する前とあまり変わらない状態だ。
ただ髪の毛はやはりなかなか生えてこずまだ5cmほどしかない。出かける時、来客のときは帽子を被るようにしている。
左胸がないことにはさすがにもう慣れてしまった。残念に思うのは大好きだった温泉に行きたくなくなっちゃったことかな。
胸のコンプレックスが薄くなった今なら親友の言葉も笑った受け流すことができたのになーと思うと少し心が痛む。
以前は特にお肉が大好きでカロリーは紀にしながらも好きなものを食べていたけれど、今は野菜を中心とした食事と抗酸化作用の高い食品をメインにしている。
そのおかげもあってか、再発は今のところなく、検査結果も良好。適度な通院も生活のリズムを整える意味で意外と気に入っている。
家族との結束は乳がんによって以前より固まった気がする。長女は14歳になったが私の身体を察してか、家事も積極的に手伝ってくれるし、反抗期の気配もない。12歳になった長男もだいぶ私を労って自分のことを自分でやるようになった。時々一緒にお風呂に入るが胸のことには触れてこない。なかなか優しいやつだ。モテる男になるかも。
夫は病気の前から優しい人ではあったが以前に比べて、私を心の底からいたわってくれている。先週末、酔って帰ってきた時に話していたが、乳がん告知の際、私を失うかもしれないと思った時に本当の愛が溢れてきたそうだ。
先日からかったら、覚えていないと本人は言うが、どうだかは知らない。
親友との関係は残念ながらまだ修復には至っていない。先日スーパーで顔を合わせたが会釈程度で終わってしまった。今の精神状態なら素直に私から謝ることができる。彼女との関係修復は今の私の一番の課題だ。
こんな感じで意外と悪くない日常を過ごすことができている。
でも、今こうして、振り返ると悪くないことも多いなと思うに至った。
どうしても後悔はある。それが今回私が体験談を語ろうと思った理由。いまでも本当に後悔していることは一つ。
乳がん発覚の2年前、最初に気になった時点で乳がん早期発見の機会を逃したこと。
もしここで、私の治療をしてくれた大学病院までたどり着くことができていたら・・・
早期発見というくくりの治療となり切除も再発のリスクも存在しない状態で治療が終わっていたと思う。
親友との離別も家族への過度な負担。これらも起こることはなかっただろう。
10月1日ピンク色に染まった東京タワーを見た時にもっと深く乳がんを自分ごととして考えられていればな-なんてことまで思ってしまう。
乳がんは女性の12人に1人がなる病気と言われている。確率は高い。あなたもなる可能性が十分にある。正直発生自体を防ぐことは生活習慣などにもよるし、生活習慣を気をつけていても病気はいつ襲ってくるかわからない。