はてなキーワード: 妙味とは
いちゲーオタ中年男性のハートのど真ん中の最奥部に抜けないほど深く突き刺さった「テン年代ゲーム」10本をランキング形式で挙げていきます。お付き合いください。
のっけから「特別賞」から始めることをお許しあれ。ランキング発表後だと、1位よりもスペッシャルな空気を醸し出してしまいそうで。それを避けたかった。
でも、本作がとくべつな1本であるには違いない。だから悩んだ挙句の……「特別賞」。まんまでごめん。
個人的には『ノベルゲー」って昔からあんまやらないんです。ノベルゲーやる時間あったら小説を読むほうが(たいてい)有益だろう、という長年の思いこみ集積のせい。でも、『Doki Doki Liteature Club』は例外。ゲームらしいインタラクティブな要素があるわけじゃないのだけど、小説でもマンガでもアニメでもこの表現は絶対不可能。
本作の凄さについてはもはや語り尽くされている感があるし、強く深い思い入れを持っている方が世界中にいらっしゃることも存じておりますし、まだプレイしていない方のためにも、内容については何も言いたくない。
でも、これだけは言わせてほしい。
本作は「神は存在を愛している」ってことをギャルゲー/ノベルゲーのガワで見事に顕してみせた一大叙事詩である。ここには生があって、性があって、詩があって、死があって……愛がある。さらには現象学的「彼方」をも開示してみせる。
その(一見)破天荒、かつ強烈な内容に憤怒するかもしれない。ショックのあまりマウスを壁に叩きつけるかもしれない。号泣するかもしれない。戦慄するかもしれない。でも最後にはきっと宇宙大の愛に包まれる……絶対。
ああ、すっきり。
では、こっから心置きなく2010年代・心のベスト10を発表させて頂きます。
「……なんか妙に懐かしいな。子供の頃、お前と行った鵠沼海岸をまざまざと思い出したわ」
ゲームと本の山でとっ散らかった僕の部屋にやってきて、このゲームをしばらく遊んだ君は、いかにも重たいPSVRヘッドギアをつけたまま、そう呟いた。
僕はかなり潔癖症だから、君が顔じゅうに汗をたっぷりかいてることがひどく気になって、除菌ティッシュ片手にそれどころじゃなかった。
けどさ、あの頃君と一緒に見つめた空と海の青さに、まさかVRの新規アクションゲームの中で出会えるとは夢にも思わなかったよ。
ハタチん時、『スーパーマリオ64』を初めてプレイした時の驚きと、海辺で自分の子と君の子が一緒に遊んでいるのをぼんやり眺めてるような、そのうちに自分たちも同じくらい小さな子供に戻って、一緒に無邪気に冒険してるような……切なくて温くて微笑ましい気持ちがじわじわこみあげてきた。そのことに、僕は本当に心底驚いたんだよ。またいつでもやりに来てくれ。
「あー、なんかシャベル持ったナイトのやつでしょ。古き良きアクションゲームへのオマージュに溢れる良質なインディーゲーって感じだよね、え、あれってまだアップデートとかやってんの? なんかsteamセールん時に買って積んでんだけど、ま、そんな面白いならそのうちやるわー」
あなたが『ショベルナイト』をその程度のゲームだと思っているのなら、それは大きな大きな間違いだ。
プレイ済みの方はとっくにご承知と思うが、本作はレトロゲーもオマージュゲーもとっくに越えた、誰も登れない山頂に到達した類い稀な作品である。アイロニーと切り張りだけで作られた、この10年で数えきれないほど溢れ返った凡百のレトロ風ゲームとは、かけ離れた聖域に屹立してゐる。
そして3つの追加アプデ(大胆なアイデアに溢れた全く新規追加シナリオ。今月でようやく完結)によって、本作は10年代下半期にリリースされた『Celeste』や『ホロウナイト』の先駆けとなる、傑作2Dアクションとしてここに完成したのだった。さあ、ショベルを手に彼の地へ赴け。
このゲームの印象を喩えて言うなら、
久し振りに会って酒でも飲もうものなら、いちいち熱くてしつっこい口論になってしまう、共感と嫉妬と軽蔑と相いれなさのような感情を腑分けするのが難しいくらい綯い交ぜになっている面倒きわまりない幼なじみ、みたいな。
正直、ランキングにはあまり入れたくなかった。が、初プレイ時の衝撃をまざまざと思い出してみると、やっぱり入れないわけにはいかぬと悟った。
もし未プレイだったら、このゲームはできればPC(steam)でやってみてほしいとせつに願う。当方バリバリのコンシューマー勢なので、ゲームでPC版を薦めることは滅多にない。だが、コンシューマー機ではこのゲームの持つ「鋭利なナイフ」のような「最後の一撃」が半減してしまうだろう。
作者トビー・フォックス氏は、かつての堀井雄二や糸井重里の系譜に連なる倭人的王道シナリオ(コピー)ライターと感じる。
確認のために本作の或るルートを進めていた時、初期ドラクエと『MOTHER』と『moon』が携えていた「あの空気」が30年ぶりに匂い立ってくるのを感じて眩暈がした。会えば会うほど凄みを増す狂人のような作品だ。
2020年内に出る(であろう)2作め『DELTARUNE』において、トビー氏は堀井/糸井が書け(書か)なかった領域に確信犯的に踏み込んでくるにちがいない。それが半分楽しみで、半分怖くて仕方がない。
その山の森の奥には古い洋館があった。
庭は川と繋がっていて、澄んだ水が静かに流れていた。
君は川沿いにしゃがみこんで1輪の花を流していた。
俺は黙って君を見つめていた。
君は俺に気づかない。
俺は木に上ったり、柱の影から君を見守ったり、触れられない手で君の髪を撫でたりしているうちに……君の可愛がってたシェパード犬がこちらにひょこひょこやってきて、ワン、と小さく吠えた。
ああ、なんだかこのゲームやってると批評的目線がどんどんぼやけていくのを感じる。まるで透明な死者になってしまったような、奇妙で懐かしい感覚に否応なしに包みこまれるような……。
本作は「VRで描かれた古典的AVG(アドベンチャーゲーム)」であると言われている。個人的には、そんな持って回ったような言い回しはしたくない。
VRでしか描けない世界と情緒に対して、あまりに意識的な本作。その手腕はあざといくらいなんだけど、実際に本作をやってみるとあざといどころじゃない。泣くわ。胸の内に熱いものがこみあげてくるわ。
『Deracine』はプレイヤーの原風景をまざまざと蘇らせる。かつて失ってしまった友人を、失ってしまった動物を、失ってしまった思い出を、「ほら」とばかりに目の前に差し出してくる。そのやり口はほとんど暴力的でさえある。
もしVR対応しなかったら、知る人ぞ知る良作(怪作)止まりだったであろう本作。
かくいう俺もPS Storeで見つけて何となく買った時は、まさか2010年代ベストに入れることになるとは思わなかった。怪しい仮面被ったバレリナ少女がサイケ空間を飛び回ってんなあ……製作者はドラッグでもやってんのか?くらいの。
しかしPSVR対応した本作を再度プレイして驚愕した。怪作がまごうことなき傑作に生まれ変わっていたのだ。あるいはコンテンポラリーアート作品としての本質を露にしたとも言える。ああ、VRというハードではこんな事態が起こり得るのか……。
画を作っているサンタモニカ・スタジオ(ゴッド・オブ・ウォー、風ノ旅ビト他)の仕事はいつだって凄まじいクオリティでため息が漏れるのだが、VRとの相性は抜群だ。とりわけ今作での仕事は白眉と言える。
とにかく、思わず自分と少女の頬をつねりたくなるほど美しい。少女が、景色が、色彩が、確実に「もうひとつの世界」(夢、とは言いたくない)を現出させている。
そして本作は本質的な意味で——究極の恋愛ゲーでもある。誰も認めなくても、俺はそう強く感じる。あの少女と過ごした時間を、あの少女が内に秘めていた闇の部屋を、あの少女が戦っていた怪物を、そしてこの狂気と色彩にみちみちた世界を日常生活の中で思い出す時、この胸に去来するのは——それは「恋」としか言い様のない儚い感情だ。
書き始めるまで、本作がここまで自分内上位に食い込むとは思わなかった。
が、確認のために軽くプレイしてみたら、やっぱりとんでもなかった。
実験施設内部に、そして自分の内側(Inside)に展開するめくるめく不穏な景色。ディストピアの先にある、吐き気をもよおさせると同時に、穏やかな安寧に包まれるような、唯一無二のビジョン——を完璧に描ききった本作。
終盤の怒濤の展開と比類なき生命体描写のインパクトに心奪われるが、本作の真骨頂は木々や空や雲や雨、海などの自然情景(それが何者かによって造型されたものであれ)の美しさだと思う。荒んだ世界の中、思わず立ち止まって、天に祈りを捧げたくなるような敬虔な心持ちを強く喚起させる。
俺にとって『INSIDE』とは、自己の内面に深く潜るための潜水艦、あるいは哲学書のページを繰っても繰っても掴めない、自分と世界との乖離を自覚するための尖った注射針であり、神なき世界の宗教である。
灰色にけぶった空の下、雨降るトウモロコシ畑で無心で佇んでいた時のあの安寧と絶望感に、これから先もずっとつきまとわれるだろう。
人の生には「もっとも幸福な時期」というものがたしかに存在するようだ。そして、それは必ずしも幼少期だったり青年期だったりする必要はない。
俺にとっては、傍らに愛猫がいてくれて、WiiUと3DSが現役ハードで、仕事から帰ってくると毎日のように今作にあけくれていたこの頃が——生涯でもっとも幸福な時期だったと言いきってしまいたい。なぜなら、幼少期や青年期と違って、その記憶ははっきりと想起できるから。
そして後から振り返ってみて、その時期がどれほどありがたいものだったかを確認し、やるせない気持ちに包まれるのだ。「ああ、やっぱり」と。
総プレイ時間は生涯最長となったし、この作品を通じて(自分にしては珍しく)老若男女多くの「オンラインフレンズ」ができた。
が、続編『スプラトゥーン2』は発売日に購入したものの、ろくすっぽプレイしなかった(できなかった)。
その理由は(おおざっぱに書くと)3つ。
ひとつは『2』発売時、先に述べた、俺にとってもっとも幸福だった時代が過ぎ去っていたこと(ごく個人的な理由だ)。
ふたつめは、初代スプラトゥーンが持っていた、俺を夢中にさせるサムシングが『2』には欠けているように感じられたこと(批評記事ではないので、それについてここでは掘り下げない)。
3つめは、次に挙げる同じく任天堂開発の対戦ゲームの登場である。
それは35年前に夢見た未来の『パンチアウト!!』だった。そして20年前に夢みた『バーチャロン』と『カスタムロボ』の奇跡的融合であり、同時にそれらとは全く別次元に昇華された「理想的格ゲー」であった。
『スプラトゥーン』で「共闘」の愉しさを味わった俺に、本作は「見知らぬ相手とサシで戦う」ことの妙味と厳しさをばっちり思い出させてくれた。
そして画面内のキャラをこの手で操る——そんなあまりにも原初的な「ゲーム」の喜びが本作には隅々までみちていた。こればかりは「Just do it」(やるっきゃない)。
やがて俺は日々のオンライン対戦では飽き足らず、リアルの大会にまで足を運んだ(あっさり敗退してしまったが……)。そんなゲームは、おそらく生涯最初で最後だろう。
余談だが、Joy-con特性を生かした「いいね!持ち」による操作こそが本作の革新性であると信じているのだが、革新性よりも「合理性」と「勝率」を求める猛者たちには殆ど浸透しなかった。
「いいね!持ち」メリットをうまく調整できてさえいれば、本作は『e-sports』ゲーム初の従来型コントローラーから離れた(両腕全体を用いた)操作形態を実現していたはずで、それについては至極残念だが、現在開発中であろう『ARMS2』に期待したい。
2010年代下半期は、俺にとっては「VRに初めて触れた年代」としていつまでも記憶されることになるだろう。
2017年冬、とにかく『Rez infinite』をプレイしなければならない——そんな義務感でPSVRを勇んで購入した。配線がややこしい機器をPS4に繋げ、想像していたよりもさらに重たいヘッドセットを被り、本作をプレイすると——すぐに「ここには未来がある」と思った。いや、正確じゃないな。「未来に至る——今の時間と自分」をばっちり感じたと言うべきか。現在は可視化され、360度方位に顕在し、俺をユニバーサルに包みこんだ。
AreaXを初めてプレイした時の、重たい身体感覚から自由になり、魂だけが全宇宙に放りこまれたような未曾有の感覚は、ゲームなるものと関わってから過去30数年を振り返ってみても、5歳の時に生まれて初めて電子ゲームに触れた時の体験と並ぶ、あるいはそれを越えかねない、空前絶後の体験だった。
これだけ長いこと「ゲーム」なるものを続けてきて、ゲームからそのような感覚を初めて得られたことに深く感動し、ラストではほとんど泣いていたことがつい昨日のように思い出せる。
そして『Rez infinite』の「次の体験」を今か今かと待っている。
『Rez infinite』からのまさかの……自分に驚き、何度も自身に問うた。
あれだけ昔から『どうぶつの森』嫌いだったお前が。とび森を。テン年代1位に。据えるつもりか?
お前はそんなにぶつ森好きだったのか? ありがちな中年男性みたいに「しずえ萌え」になったのか? それとも親子くらい歳の離れたフレンドと時々会えるからか? おいおい、かあいこぶってんじゃねーぞ、と。
だが本作を1位にした決定的な理由——それは、テン年代初頭に放たれた今作から「仮想世界」における、人間存在の理想的な在り方の萌芽をひしと感じたからだ。
一発で脳内に凄まじいヴィジョンを注入した『Rez infinite』と比べると、まるでアリが餌塚に砂糖を運ぶようなゆったりとした足取りだが、本作は確実に世界中のゲームファンに「もうひとつの世界」をキュートな顔つきと口調(しずえ嬢のような……)でじわじわと浸透させ、人々の無意識をしれっと変容させ、もうひとつの生活を愉しませ、ネット接続により文字通り「飛び出させた」。
『どうぶつの森』は今年3月に発売する次作『あつまれ どうぶつの森』においてさらなる大きな広がりと変化を見せてくれるだろう。
が、俺は本作をとくべつに、個人的に、偏執的に、限定的に愛しているのだ。
それは故岩田社長が生み出した『3DS』というハードへの偏愛と、ゲーム機では3DSだけが備えた「裸眼立体視」——ARとVRを折り合いし、先取りした——唯一無二の機能によって『どうぶつの森』というクローズドな世界をまるで飛び出す絵本のごとく彩り、「夢の中で他者の森を訪ねる」という奇妙かつ魅惑的な通信世界を生み出し——
要は、全シリーズを振り返っても今作『とびだせ どうぶつの森』だけが持ち得た、この奇妙で牧歌的で神秘的なアトモスフィアに由るものだ。
カフカ『城』や村上春樹『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』主人公のように、俺はある時、この森の中に、夢の中に、村の中に、これからも留まり続けることを選んでいた。
そういうわけで、本作を迷わずにテン年代1位に据えたいと思う。
※※※※※※※※※※
長々とお付き合いくださって本当にありがとうございました。
余談ですが、最初は「順不同」にしようと考えていたのです。これほど自分にとって大切なゲームたちに順位なんてつけるのは相当失礼な気がして。
でも、敢えてつけてみた。並べてみたら、なんとなく自分内重要度みたいなものがぼんやり浮かび上がってきたので。
異論提言はもちろん、よかったらあなたのテン年代ベスト(5本でも20本でも1本でも)教えて頂けると、いちゲームファンとしてめっぽう嬉しいです。
この週末、AbemaTVで宮迫、亮の会見を見たのを皮切りにたけし、ダウンタウン松本、アッコと色々テレビをウォッチしている。
知ってか知らずか反社の人から金を受け取ったこと、会社が保身のために問題を起こした社員を切ったこと、それ自体は世の中にありふれているだろうし、これがマスメディアと大きく関わる会社の話でなければ大して注目されることもなかっただろう。
しかし、マスメディアに大きく食い込んでいる吉本興業の話であり、芸人から所属事務所への前代未聞のクーデターの様相を呈したこの状況であり、テレビでこの話に言及する吉本芸人を始めとする芸能人の誰もが軽々に口を開けない煮詰まった状況になっている。
たけし、松本、アッコといった所謂大物達がシリアスに――かつ暗黙にそれぞれの立場を踏まえて――語っているのが面白く、見応えがある。
会社を擁護すれば大炎上するし、かといって表立って社長を批判するわけにもいかない吉本芸人達の言葉にも緊張感がある。
言うまでもなく世の中もっと重大なトピックスは色々あるわけだが、結局のところ人は自分に直接影響のある話以外に当事者意識は持てないのであって、これはなかなかテレビで見る機会のない空気感だなと思いながらテレビを見ている。
それにしても一発の会見でこれだけの状況を演出した宮迫と亮は大したものだと思う(二人は片方だけでは演技くさすぎ、馬鹿正直でここまで盛り上がらなかっただろうから偶然なのかこの二人が組み合わさったことが妙味を生んでいると言われているが俺もそれに同意する)。
明日の社長の会見もまた、「芸能事務所は所属する芸能人が問題を起こしたとき本人に謝らせ、社長は謝らない」という一般社会からすると有り得ない慣例を打ち破るものであり、事態がどう転がっていくのか、予定調和の蔓延するテレビにおいて珍しい「筋書きのないエンターテイメント」として注目したいところである。
投資会社である親会社が、事業会社である子会社 を上場させることの意味を捉える必要があった
投資会社が事業会社の株を売るということは、その事業に投資妙味がないことを端的に示す
資金が必要なら親会社に頼めばよいだけなのだ(なんせ親会社は投資会社なのだから)。それをせずに、市場から資金を集めるということは・・・そういうことだ。
CNBC のキャプチャで見たのだが、ファンダメンタルズで分析すると1000円の価値もない株に 1500円の公募価格を付けた
SB は高値で売りたいだろうが、証券会社がそれに歯止めをかける役割があっただろう。
(結果として市場で評価される価値よりもはるかに)高い価格で子会社の一部を売りさばけた親会社が大勝利。孫さんの投資判断が絶妙であったといえる。
子会社も数年の運転資金を目論見通り得られた点で、勝者といってよいだろう。
何とか、引き受け株を捌けた証券会社もまあ、手数料程度は儲けた。
敗者は、9割にものぼるといわれる個人投資家。食われるのは弱きものだ。そして、この舞台での獲物は彼らだった。勝敗は今日の9時にはすでに決していたのだ。あとは個人投資家同士で損を押し付けるゲームというわけだ。
初日から公募価格以下で株を売るなら、初めから買わなければよいはずだ。なぜそんな不合理な行動をするのか?
ということです
『ガチンコファイトクラブ』を楽しんだ人はいるだろう。
見ている当時は興奮したものだ!
そういう、「やらせ」を全面的に出した作品や映画がここ10年くらい流行っている。
マッコイ斉藤というテレビプロデューサーが好きな手法だったりするんだが。
『クローバーフィールド』、『REC』、『ブレアウィッチプロジェクト』というホラーが多い。
この面白さに気付いたのは、「秋葉あかね」というAV女優の作品です。
身長177cmということから、登場の時から、「もしかしてあの宝塚の!?」という話だった。
なんと、SODすらも、それにあやかろうとしてか、「あれから3年、、、(その宝塚の人が3年前にヘアヌード写真集を出した)」という釣りを行った。
それで、顔を見せずに、「森の中でうつむいた長身美女の映像」が流れる。
2chを見ると、結構な人数がつられていたようだ。
そして、顔写真が公開されると、「ゼンゼン違うじゃん」となる。
しかし、AVデビュー作品を見ると、「私は身長が高すぎるので、それがコンプレックスで、女性らしくできなかったから、女性らしくなりたい」
緊張した面持ちで、「演技」をする。
周りも、もちろん、その演技と流れを成立させるために、「乗っかかって」演技をする。
これが、本当に、往年の『ガチンコファイトクラブ』を見ていた時の雰囲気なんですよ。
周りが、もちろんおかしくても、話を合わせる。
その妙味、これからどうやって落としどころをつけるのか?という緊張感。
僕が指摘したいのは、何と言っても、最後のシーン。
あの森で、デビューの時の、あの格好で、顔をこちらに向けている。
あ~あのデビューの時の。
「私の幸せは、、、男の人と、生でセックスして、中に射精してもらうこと」
分かるだろうか?
これなんですよ、これ!
「ポカーン( ゚д゚)」ってなるでしょ?
フェイクドキュメンタリーの、「違和感マックスの終わり方」が好きなんですよ。
おすすめは、「あやのあんだーばーぱーぷる」や、「宮野真尋」や、「星空もあ」
もちろん、色々あるんですが。
タイムを競う競争競技、技術や表現を評価する採点競技がほとんどの冬季競技の中で、チーム
同士が対戦し明確な点数により勝敗が決まるのは元増田の言うように他にアイスホッケーくらい。
観客視聴者にできるのは結局のところ応援するだけというのはかわらないが、カーリングは
試合中に解説を聞いてるだけで居酒屋野球談義くらいの話はできるようになる。
見慣れていないとスロー再生でも4回転かどうか、ダブルコークかどうかよくわからない、
解説や審判の言うままに見ている。着地成功したかコケたか以外は素人目に判別しがたい。
アイスホッケーもパックが非常に小さく素早い。おかげでスピード感と迫力が出るのだが
カーリングは目に優しい。
方向速度回転見極めながら声かけあってデリバリーする過程を10秒以上かけてじっくり見て
いられる。
試合展開が早くすすんだりコンシードによって短く終わることはあるが、ポイント制の競技で
ラリーがひたすら続いたりデュースの応酬で時間がかかったり野球のように延長回で双方0点
の息詰まる攻防が続いたりしない。
延長になればシンキングタイムも追加されるが、どちらかが点を取れば終わる。ブランクゲーム
が続いて延長し放題とはならない。
盤面見れば状況がわかる。何なら途中でトイレタイムで抜けても問題ない。
民放だとエンド交代にCM挟んでリードの何投かを抜かされてしまうのがやや残念。
男子はストーンが貯まったハウスを一気にクリアできる爽快感、予測しきれない盤の変化の妙味。
女子はそれができないからこその混雑した局面で正確なショットが求められる緊張感。
採点競技は審判が絶対、アイスホッケーも格闘をブレイクさせる審判は重要。
カーリングでは双方の選手たちが主体となって点数も決定し、どうしても微妙な時だけ
メジャーの出番が出て来る。
「しゃーない」とは「しかたない(仕方ない)」であって、「しょうがない(仕様がない)」は「しょーない」。
…というわけで、残念だけど少し違うと思います。時代が下るに従って混用は起こるので、同じように用いる事例がないとは言いませんが。
そして、この「しょーない」は、現在それ単独で使用される例は日常ではあまり見かけない気がします。「ドーしょーモない」などの有名な連語は使用頻度高いですけど。ちなみにそこから更に生まれた派生語が、あの有名な「ショーモナイ(=「詰まらない」の意。ツッコミ等でよく使われる)」であるのはご存知の通り。
なお「ショーモナイ」と「ショーナイ」は相当語感が違っていて、前者には愛があるけれど後者にはあまり愛がない。「ショーモナイ」という批評は笑いながら言うのがふさわしいですが、「ショーナイヤッチャ」といった言葉は吐き捨てるように言うのがふさわしいですね。「モ」が入るだけでずいぶん違います。
というわけで、事例が少なく特殊なため、この「しょーない」を丁寧語化するのはちょっと難しいです。「どうしようもない」という状況を強いて丁寧に言う場面を想定したら、まず出てくる言葉は「コレアキマセンネ(=「これはダメですね」の意」)」でしょうか。丁寧でなければ「コラアカンワ」です。関西人はあきらめが早いです。あと、デスマスだけでなく、コレとコラでもちょっと違うのです(※1)。ホンマオモロイナ。
というわけで、補足講座を終わります。 マアソンナカンジヤ。ヨケーナオマケ。
座興としてお楽しみいただければ幸いです。 コンナン読マント寝テタホーガマシヤロw
ありがとうございました。さようなら。 アンタモヒマヤナー。ホナナー。
(※2)
https://anond.hatelabo.jp/20180115174412
※1 「コラ」は「コレハ」から来た略語なので、これを使うと俗語っぽくなるのです。
※2 最後に付録として、ネイティブ関西人による本当の意味での「翻訳」を少し試みてみました。自虐と相手へのイジリと配慮を等分に混沌とさせながら、相手も自分も「アホ」の坩堝に投げ込んで韜晦させ最終的に和の一座を創造するところに関西弁の妙味があります。「方言」というのは、決してイントネーションだけで成立しているのではなく異文化そのものである、というメッセージを少しでも感じていただければ幸いです。
エロゲと小説というかADVやノベルゲーと小説を比較して小説の方が面白いってなんじゃそりゃと思ってしまう。
同じ文字ベースだから優劣つけても文句ないだろって思いがちだが、もうそりゃ全然別物ではないだろうか。
エロゲのテキストをまんま紙に落とし込んだところで小説として成り立たない。
一体何故か?
答えは明白だ。画や音楽、文字の送り方など細かいゲーム的パーツなくして表現として完成されないからである。
冗長すぎるほどに冗長すぎるしょうもない小ネタを織り交ぜた長い長い会話シーンが成り立つのもエロゲならではだ。
つまりはエロゲを単なるストーリーの骨子や妙味だけを目的として遊ぶのはそもそも大間違いなのだ。
エロゲでしか成立しえない表現があり、エロゲでしかできない物語の見せ方がある。
子供だから面白かったとか大人だからツマラナイなんてのは誘導されたわかりやすい答えがよくも並んだものだ。
http://anond.hatelabo.jp/20160809152948
2ch辺りでアニメアンチたちのアニメ批評なんかを眺めてる時も、理解の断絶を感じることが多い。
アニメは言語化しないぶん、より意図を汲み取れないで妙な邪推してしまう人が多いよね。
偏差値というか、ASD傾向がある人あたりが、想像力障害ゆえに突飛な解釈をする→
長文で説得を試みられてもコミュニケーション障害ゆえ納得できない→
感化される人も増える、ってサイクル。
ものごとの妙味って複雑で多面的な要素が絡み合っているものだから、
でも言語化できないまでも、おおかたの人はなんなく汲み取れるんだよね。
本筋のメッセージ性とかの大事な部分を。だから総体的に評価ができる。
もう脳内補完をしてあげる事ができなくなり、理解が途切れてしまう。
結局自分の思い描いた筋書きしか受け入れられないようになってしまう。
このようにファジーな文脈解釈をするのに高度な脳機能が必要となる一方で、
作品にネガティブな印象を与えるには一面的なことを短文で罵倒するだけで十分。
健全なメンタルの人でも、その一面のネガティブ解釈に注目してしまえば、
こういうネガティブサイクルが、ネットのそこかしこで見られる。
それでどんな話題においても、プロ水準の造詣の深さや視野の広さを持っている人の声よりも、
素人のパワフルな罵詈雑言の方が支配的になるし、正義面をするのもうまい。
一番象徴的なのはヤフコメかな? でも最近のブコメも大差ないかな。
まあ、啓発が進んでる分野では、ネット素人の意見がプロのそれに近くなる場合もある。
たとえばエスカレーターは歩くなとか。
とはいえ、それはただ素人集団が条件反射的に流れに乗っているだけで、
彼ら一人一人が毎回書き込むたびにプロ並の思索を巡らしているわけではないようにも感じる。
こういうところが、ネットの闇でありネットの限界だと思うのよね。
ASDは自閉症スペクトラム障害、アスペルガー症候群をさした言葉です。
トラバで指摘されて気づいたけど、
ASD特有っぽいやたら神経質な指摘をする人と、その指摘に乗っかってDisを始める人は
必ずしも同一とは限らないと思う。
http://anond.hatelabo.jp/20160517114849
トラバ元を書いた方がよく見知っていた分野は、ニコニコの構造上廃れやすい分野だと思う。
一方で生き残る分野はどんなところか。それを書いてみたい。
生き残ると思しい分野に含まれる要素を先に述べておくと、「解説・説明・突っ込みを加えられる」と言うことに尽きる。
私は2006年が大学二年生で、暇だったわけだ。クラスが同じMという男からニコニコ動画の話を聴いてサイトを使い始めた。
http://nicovideo.g.hatena.ne.jp/myrmecoleon/20080527/1211907817
に詳しいような、「おっくせんまん」の成立過程もリアルタイムだったし、住宅街の人が初めて歌ったこともリアルタイムで見ていた。
その後東方の隆盛や音MAD、パンツレスリング、淫夢、歌ってみた踊ってみた、ゲーム実況やらなにやらがこの10年で興っては消えて行った。
10年見ていて思うことは、冒頭で書いた通り、「解説・説明・突っ込み」を入れられる動画が強いということだ。
例えば、先ほどの「おっくせんまん」は動画に歌詞を加えたことで大きなムーブメントになって行った。こうした部分がニコニコの固有性だ。
一方、そういうのが基礎になり生まれた「歌ってみた」は、あまり「解説・説明・突っ込み」を必要としない。動画を見て楽しむことがメインのコンテンツだ。
先に投稿した方が、もう誰もやってないと嘆いたのはこうした分野だからだろう。
ゲーム実況だと、初めは実況者の音声のみで、とにかくゲームをしていく、という内容が多かったように思う。
そのうち、ルールが細かいゲームや、難易度が高いゲームに「解説」しながら実況する人が多くなっていた。
ソウルシリーズやオブリビオンなんかがそう。この時期で覚えているのは「テクテク」さんの動画だ。
また、TAS・RTAなど速さや面白さを競うゲーム実況も生まれた。
こちらはマリオやFFドラクエなど比較的皆が知ってる、プレイしたことのあるゲームが好まれた。「魔界塔士」さんの一連の仕事が著名だろう。
どちらであっても、動画内で状況を「解説」する。そしてコメントでは、驚嘆を示すコメント・指摘や修正を加えようとするコメントが出てくる。これで動画が盛り上がる。
ゲーム実況では実況そのものが面白い人ももちろん多かった。しかしそれだけではニコニコ動画の固有性が発揮されなかったのではないか。
「解説」を投稿者もコメントを書き込む者も可能な点こそが、ニコニコの妙味なわけだ。そうした構造を持つジャンルは生き残っていく。
もう少しゲーム実況の話を続ける。RTA動画を多く投稿している「biim」兄貴と呼ばれる人が創始した「biimシステム」というゲーム実況のスタイルについて。
私はこのシステムこそがニコニコ動画におけるゲーム実況の成熟であると思う。
「biimシステム」は、ゲームプレイ動画本体を左上に据え、右に解説窓二つ、下部に解説窓一つの構造を持つゲーム解説スタイルだ。
下部の窓には、ゆっくり実況の音声が台詞として字幕表示される。右の解説窓ではクエストの確認や、敵やアイテムのステータス、チャートなどが示される。
このように「biimシステム」は、ゲーム実況を「解説」するに特化したもので、多くの追従者を生んだ。
こうした点を見ても、ゲーム解説実況は、分野として生き残っていきやすいと感じる。
次いで生き残りやすいと思う分野は、専門分野を解説する動画だ。たとえばナショジオとか。本当はアップしたら駄目なんだろうけど。
ニコニコ動画では、かなり以前から「メーデー!」という航空機事故を紹介・解説したナショジオのシリーズがアップされ続けている。
ここに、どこからともなくやたら航空機に詳しい奴が現れ、緑色でやたら細かい解説を加えて行く。
また、「メーデー民」と呼ばれる人々は、以前の動画で出てきた事故と、今回の事故とを比較しコメントする。初心者はさらに興味が広まる。
それと、軍事映画・戦争映画は盛り上がる。いやが王にも盛り上がる。兵器解説シリーズもそうだ。
軍事オタクが描写の正確性を論議し、また右寄り左寄りの意見で荒れることが頻繁だ。しかし活気がある。
あとは海外の翻訳系も強い。「AVGN」という古いクソゲー好きのアメリカ人がクソゲーに切れる動画がニコニコに輸入されていて、
英語に詳しい者もそうだし、古いクソゲーに詳しい者、日本とアメリカのゲーム事情に詳しい者が説明を相互にしている。
こうした専門分野系の動画は「解説・突っ込み」に馴染みやすい。生き残る。
あと地味にスポーツの放送が良い。野球とか相撲とか。夜中に再放送とかもしていて、疲れて帰ってきたら、西武対楽天とかがやっている。
ここでは多分俺と同じようなアラサーの人たちがのんびり書きこんでいる。
楽天って左打者が誰が誰だかファンでないと解りにくいのだが、動画でちょっとその選手について質問するとすぐ詳しい人が教えてくれる。
10年見ていて思うことは、こうした動画による双方向的な解説・やり取りこそが、ニコニコ動画が獲得した固有性だということだ。
私よりちょっと上の皆さんよぉー
あんだけバカ騒ぎしておいて、そして過ぎ去って何年もたってインターネットでなんでも聴いたり見たりできる時代になったのに
渋谷系とはなんだったのかだれもちゃんと語ってねーじゃねーか
しらねー奴らにさ、俺みたいに後発で渋谷系を遠くに眺めていた世代もそうだし、もう今の中高生に対してだってもそうだ
あんたらが語らないでだれが語りえるんだよ
翻訳できるのはあんた達しかいないんだよ、なにが心を惹きつけたのか語ってくれよ
そうじゃないと私たちは(少なくとも私は)『デトロイトメタルシティ』だって真の意味で楽しめないし、ゴッドタンのマジ歌選手権で大竹マネが角田と掛け合いした時の真の妙味を理解できないんだ
「真田丸」のきりちゃんこと長澤まさみがずいぶんDISられてるようなんだけどさ。
あの感じでウザがられることまで含めて役として機能してると思うし、
何より「いい……」と思ってしまっているのでその辺のことを説明する。
ムダに丁寧に。
・演技が雑でいい
いかにも「大河でそれはねーわ」って思われるのはわかるんだけど、
ああいう「うわっ、雑っ」って思わせる演技が
武家の娘だけどまだガサツな田舎娘という造形にちゃんとハマっている。
ほんとに十代に見えてくる堺雅人と大泉洋のバケモノぶりに比べると落ちるけど、
いい仕事するようになったなぁ……とわりに思う。
・セリフがドギツくていい
これは脚本のほうの良さになるけど、
「人質に使える駒が減って〜」とか「(とりの居場所を)知りません」とか
「お松様もこの人のせいで死んだんです」とか、
もう100%反感買う前提のドギツいセリフを言ってくるのが良い。
女優として駆け出しみたいな位置の子だったら可哀想でしかないんだけど、
ヘイト集めの役を任されてるのって大したもんじゃないか、と思う。
だいたい即座に他の登場人物にフォローされて(怒られて)るあたり、
・服装がゆったりしてていい
どうしてもピシッとした見栄えのする格好をさせられがちなんだけど、
わざと膨らませて縦横比を変えるみたいな着方をさせられてて良い。
なんていうの、肩幅を活かした着こなし?
ああいうキーキーいう演技をやってたらほんとに腹立つと思うんだけど、
なんとなく「こいつならしょうがないか……」という体型に
ギリギリで見えていると思う。
昔のゲームは、小学生にはクリア不能な異常な難易度のゲームがたくさんあった。
今はそういうのは皆無。
また、ゲームスキがゲームを作るのではなく、高学歴のマーケティングの結果のゲームばかりになった。
だからつまらない。クソゲーまがいの超絶難易度のゲームや、妙味のあるゲームがでない。
クソ簡単な作業の繰り返しのゲームばかりになる。そうじゃないと、売れないから。
これって、ファッションもじゃないかなと思った。
俺は、俺が子供の頃の20年くらい前のファッションは面白いと思う。カオス感があった。
しかし、今は、清潔感とか、そういう謎の感覚で、普通のファッション。
これって、クソゲーの無い、超絶難易度や妙味も無いゲームと同じじゃないだろうか。
綺麗な絵とか、普通に飽きるだろ。抽象画だよな、たいていはさあ。つまらないんだもん、清潔感。
つか、綺麗な絵どころか、量産型のハンコ絵並みのつまらなさなんだよ、清潔感ファッション。こんな白痴みたいなものに夢中になれる人本当にいるのだろうか?
ファッションは、マナーだろってのも分からないことも無いけどさ。
つまらなすぎるんだよ。とにかく。
今のクッソヌルイゲームしかない環境でゲーム楽しい、楽しいってやってるんだろうか。
不思議すぎるわ。
でも、大概はルールに明記されるので、仕方無いなーとなる。対応できるのも力だろう。判定方法がクソなのは流石に柔道連盟やIJFも認めてるだろ。何度も問題になってるし。
しかし、個人的に一番嫌いなのが。「審判の匙加減でどーとでもなるルール」が周知されない点。
特に、『指導』というルール。これ、つまり反則をポイントに変換するよーってルールで。これだけで試合決まるのが多い。ってか、指導を奪って勝つっていう概念があるくらい大事なルール。ほぼポイントと変わらない意味がある。
で、この指導ってのはつまり反則だから、いくつか反則の種類があるんだけど。「ここが審判の匙加減に大きくよっている」という現状がある。
分かりやすい指導ってのは、問題ない。「ピストルグリップで攻撃しないの禁止ね!」って言われたらピストルグリップしなければいい。「頭抜いたら一発で指導ね!」なら、頭抜かなければいい。「両手で組手切るの禁止ね!」これも若干分かりにくいが、まあ、分かる。
しかし、分かりにくい指導ってのがある。しかも、ほぼ柔道のゲーム性を決めているのがクッソいやらしい。
「6秒以上攻めないの無しね!」たとえばこれ、昔は全然取られなかった、組み手争いっていうつかんだり、離したり、距離とったりってのも攻防の一部だからっていう理屈。でも、最近は組んでいても技に入るなり、がんがん動くなりしないとダメ。しかも、ダメかどうかは審判のその日の気分だったり、国際的な『風潮』とかいうものだったり、審判の厳密さだったり。つまり、大会や時期ごとに全然違う。それは、つまり、ルールに書いてないけど、空気を読めということになる。普段から柔道の試合を見まくれるプロとかなら問題ないが、素人がこんなものに振り回されて、また視聴者やファンも理解できないルールでやられて、たまったものじゃない。練習もこれにあわせてやらなきゃいけないのに、現状、対策がマジでない。早いタイミングで取られるらしい、という物凄く良く分からない空気でやっている。
「かけ逃げ禁止」。このルールも分からない。どこまでがかけ逃げかどうか、ってのは、これもまた審判しだい。現在のルールでは、あまり組まなくても、即効技に入るのが大事なため、かけ逃げと紙一重な技が多い。そういう技を練習することになるので。大会でかけ逃げが厳しく取られたらそういう選手は終わる。また、かけ逃げの基準も、物凄くあいまいというか、不合理で。手の一部が服にかかっていればかけ逃げじゃなかったり、完全につかんでいないとダメだったり。巴投から寝技も、『巧みに(当然主観)』入っていればセーフだが、巧みであっても、2、3回だとかなり心象が悪く、逃げているととられがち。しかも、巴の場合、時間つぶしと紙一重なので、巴投中心で練習している寝業師ってよばれる一群の場合は、かけ逃げととられない場合が多い。つまり、プレイヤーのタイプによって、取られない取られるが決まったりする。ルールってそういうもんじゃないでしょ。
正直、これどうなのって思うよ。指導ルールは流石に明確にしてほしい。柔道を見る側にもやる側にもクッソつまらなくしてる。本当に、これ俺が個人的に思うだけでなく、古参の人達は結構納得いってなくて、でも国際準拠だからしかたないなってやってる。
脚取り禁止になった時点で相当怪しいもんだって思ったんだけど。きっちり組んで投げましょう。って聞こえはいいんだけどさ。使える技術、組み手の妙味みたいなの消えちゃって、柔道のいいところ死んじゃったわけよ。柔よく剛を制すって、これ脚取りあっての話だったんだけど、脚取りなくなると、チビがデブに負けますっていうことしか残らないよ。組んだら負けるんだから、組み手争いで切ったりして崩してたんだけど、これなくなったら、崩し無理だよ。デブや筋トレしてる方がが勝つ、技術より筋肉や体重になる。
やりたいことなんてない、起業したりフリーランスで働くような才能もあると思えない、夢を語るほどの熱意もない。
普通に生活を営める程度のお金と、体と心を壊さない程度の職務と人間関係と、趣味をそこそこ楽しめる時間のある仕事に就きたいな。
そんなことを思いながら、なるべくマッタリできそうな、そして難しくなさそうな仕事を探しました。
他の学生よりは時間はかかりましたが、自分の思い描く条件(給与・休日・人員構成などなど)にピッタリの職場に就職できました。
…の、はずでした。
職務内容は確かに誰でもできそうなものでしたが、内容が簡単な分、大量の業務を素早くまわさねばなりませんでした。
学生時代の得意分野とは全く異なる内容でしたので、対策を考えても考えても歯が立ちませんでした。
特に何かキャリアアップの望める仕事ではない分、周りの人はあまり仕事にガツガツせず、テレビ・グルメ・旅行・結婚恋愛・人の噂の話ばかりしていて、
向上心がないように見えました。
私の趣味(読書と観劇)は「何をお高くとまってるのww」という反応をされました。
勉強が出来るということと、仕事が出来るということは別だ、という大人たちの言葉は正しかったのだと身に沁みてわかりました。
仕事としてお金を貰うということは、作業を高いクオリティーで完遂しなければいけないということです。
高学歴であるということはある程度の能力を持つことの証明になるかもしれませんが、オールマイティーであることは保証しません。
自分のことを掘り下げて、「できそうなこと・できないこと」を割り出し
「自己実現」や「夢を語る」のは、厚顔無恥なのではなく、自分と企業の相性を見極めているのです。それは自衛に似ています。
今はカウンセラーさんや主治医と話し合いながら、自分の考え方を見直し、出来ることを探しているところです。
「安定した条件」「マッタリ職場」は「ここでやっていけなければどこに行っても無理」と自分の自信を奪う要素になりました。
私の就職は失敗だったと思います。病気になり、たくさんの人に迷惑をかけました。
しかし、歯の立たない仕事にジタバタともがき力尽きていく途中で初めて、自分が好きなこと、人生の中心に置きたいことが見えてきました。
そのためになら、企業研究も、自己分析も、勉強も、心の底から「したい」と思えます。そして少しずつ実行に移しています。
古来ヴァイオリンというのは、全く弾けない者・少しだけ弾ける者・とてもよく弾ける者の3種類に人類を区別するための楽器だった。
1番目と3番目は人類にとって特に益にも害にもならないが、2番目は雑音を撒き散らして周囲に迷惑を振りまく。
かくいう自分は2番目に入る奏者だった。
保育園の頃から習っていたのに、耳が幼いまま長じた結果、独学になってからは大して弾けもしないのに慢心を極め、手が付けられない状態に落ちたというか。
例えるなら、幼少から料理を手ほどきされたのに「甘い」「辛い」「脂っこい」「デカい」くらいしか味覚が備わっておらず、しかもそれ以上興味が湧かなかったため、「節子デカいは味覚ちゃう視覚や」と親切に指導してくれる人間がいなくなった途端、どんどん腕が荒れてメシマズ化したと。
そこに転機が訪れたのは去年のこと。
何を思ったのか、突然「満漢全席を作りたい!」みたいに、とんでもなく難しい名曲を弾きたくなり、自己流()では無理そうだったので、大人向けのレッスンに再入門したのがきっかけだった。
今振り返れば本当に身の程知らずな話だった。もし例えでなく先生が料理の包丁を持っていたら、冗談抜きで何度か刺されたんじゃないか?という話だ。
そこで、メシマズならぬ音マズでさえ考えなくても弾ける曲を1曲セレクトし、その曲を通じて包丁ならぬ弓の持ち方を叩き直される所から始まり、「ちゃんと歌って完璧に弾け、手先だけで弾くのは許さん」と言われ、先日ようやくマスターした。
でもその結果、それまで全く理解できなかった「妙味」がハッキリ分かるようになり、マスターした曲とほぼ同レベルと定義されている(そして味を理解できない故にバカにしていた)幾つかの定番曲がスラスラ弾ける上に、心底名曲だと体感できるまでになっていた。
やっていた当初は屈辱的なレッスンだと思っていた(この期に及んでまだプライド高杉なのだw)けど、想定外の成果に一人狂喜してしまった。
・・・などと偉そうに書いたが、所詮は「出汁の取り方」「器具の基本的な使い方」「調味料の加減」を考えなくとも正しくこなせるようになった程度だ。
そして「基本がきちんと備わるだけで、こんなに美味しく作れる料理がいっぱいあるんだ!」と喜んでいるに過ぎない。昔からやっていて今更そこかよって話だ。
イージーモードでゲームをプレイすれば、大抵のタイトルでハイスコアを叩き出せるレベルとも言い換えられる。
実際先生も仰っていた。
「これでようやく増田さんも、今まで色々ブレて偏っていた所から、正しい道の入口に来れましたね」と。
「♪君の行く道は 果てしなく遠い」けど、別に歯は食いしばっていない・・・多分。
今自分に出来ることと出来ないことを明確に実感してしまった以上、こうなったら何年かかろうが絶対上手くなるしかないのだ。
最初に書いた3番目にはなってないけど。
中国料理の調理法には数多くの流派がある。そのうち最も影響力があり、代表的なものとして社会的に公認されている料理は山東料理(魯菜)、四川料理(川菜)、広東料理(粤菜)、福建料理(閩菜)、江蘇料理、(蘇菜)、浙江料理(浙菜)、湖南料理(湘菜)、安徽料理(徽菜)があり“中国八大料理”と称されている。これらの料理系譜の独特な調理法は、調理法形成過程、その地方の歴史と切り離して語ることはできない。またその地方の地理的条件、気候条件、特産資源、飲食習慣などの影響も受けている。八大料理の擬人化表現として、江蘇、浙江料理は清楚な素面の江南美人、山東、安徽料理は古風で質朴な北方健児、広東、福建料理は風流典雅な貴公子、四川、湖南料理は造詣深く才気あふれた名士と表現されている。中国“八大料理”の調理法はそれぞれ長所を有し、長い歴史が生み出したものである。
一 山東料理(魯菜)
宋朝以降、魯菜は“北方食”の代表となった。明、清時代には魯菜が宮廷料理の主流となり、北京、天津、東北各地に対して大きな影響を与えた。現今の魯菜は済南、膠東両地方の地方料理が発展したものである。その特徴の爽やかな香り、新鮮な柔らかさ、純粋な味で世に知られ、コンソメ(清湯)とクリームスープ(奶湯)の調理法に長じ、コンソメは淡白上品、クリームスープは純白で濃厚である。済南料理は煮炒め、遠火焼き、油炒め、揚げ物に長じ、有名な料理には“糖酢(甘酸っぱい味付け)黄河鯉魚”、“九転大腸”、“湯(スープ)爆(煮炒め)双脆”、“焼海螺(ホラガイ)”、“焼牡蠣”、“烤(焙り)大蝦”、清湯燕巣“などがある。
二 四川料理(川菜)
秦末から漢初期にかけて初期的に形成され、唐、宋代に急速に発展し、明、清代にはその名声が全国に広まり、現在では世界中に四川料理レストランを見出すことができる。正統四川料理は成都、重慶両地方の料理に代表される。精選された原材料、規格の重視、主従明確な盛付けの彩り、鮮やかなハーモニーを誇っている。酸味、甘み、痺れ感、辛味、巧みな油味、濃厚な味付けが特徴で、調味料として三椒(唐辛子、胡椒、花山椒)と生姜は欠かすことができない。他地方には余り見られない辛味、酸味、痺れ感のある料理として人口に膾炙し、四川料理独特の風格は“一皿一味、百皿百味”と賞賛されている。調理法は焙り、遠火焼き、揚げ炒め、蒸し物に長じる。四川料理は総合的な味付け、濃厚なだし味に特徴があり、塩味、甘み、痺れ感、辛味、酸味の五味を基本として、さらに各種の調味料を配合し基本的家庭味、巧みな塩味、魚香味、レイシ味、複雑な妙味など23種類の複合味付けが) 確立されている。代表的な料理には“大煮干絲(干し豆腐の千切り)”、“黄燜(醤油と酒の煮込み)鰻”、“怪味鶏塊”、“麻婆豆腐”などがある。
三 広東料理(粤菜)
前漢時代にすでに粤菜の記載があり、南宋時代には皇帝付きコックが広州に随行する影響を受けた後、明清時代に急速に発展し、さらに対外通商開始後は西洋料理の長所を吸収するとともに粤菜も世界に普及し始め、現在、ニューヨーク市だけでも数千の広東料理店を数えるに至っている。広東料理は広州、潮州、東江の三地方の料理を代表として形成されている。原材料の種類は豊富で新奇を好むので変化に富み、旨み、若い柔らかさ、爽やかさ、滑らかさを重視している。一般に夏秋には淡白を求め、冬春には濃厚に傾く。味付けにはいわゆる五滋(香り、歯ざわり、臭み、滋味、濃厚さ)、六味(酸味、甘み、苦味、塩味、辛味、旨み)の別がある。調理法はソテー、揚げ物、餡かけ、煮込み、揚げ炒めなどに長じ、盛付けの彩りは重厚で、その滑らかさは飽きが来ない。蛇、ハクビシン、猫、犬、サル、ネズミなどの野生動物調理で名高く、有名な料理には“三蛇竜虎鳳大会”、“五蛇羹(濃厚な吸い物)”、“塩火局(蒸し煮)鶏”、“牡蠣油牛肉”、“烤乳猪(子豚)”、“干煎(油煎り)大蝦碌”、“冬瓜盅(杯)”などがある。
四 福建料理(閩菜)
福建料理は福建省閩候県に起源を発し、福州、泉州、アモイなどの地方料理を代表として発達してきた。その特色は色調が美しく、淡白で滋養があることで名高い。調理法は油炒め、餡かけ、ソテー、煮込みに長じ、特に“酒糟味”は独特である。福建は東南の沿海に位置しているため、ハモ、アゲマキ、イカ、イシモチ、ナマコなどの海鮮が豊富で、それらを原材料とした調理法に独自のものがある。有名な料理には“仏跳墻”、“酔糟鶏”、酸辣爛魚“、“焼片糟鶏”、太極明蝦“、清蒸加力魚”、“荔枝(レイシ)肉”などがある。
五 江蘇料理(蘇菜)
南北朝時代に発祥し、唐宋以降は浙江料理と覇を競って“南方食”の二大大黒柱となった。江蘇料理は蘇州、揚州、南京、鎮江の四大菜を代表として構成されている。濃厚さの中に淡白さを有し、ふんわりとして香り高く、スープだしは濃厚であるが嫌味が無く、口当たりは柔らかで甘みのある塩味がその特色である。調理法は煮込み、遠火焼き、蒸し焼き、油炒めに長じる。調理する時には原材料を厳選して配色、盛付けを重視し、四季の別がある。蘇州料理は甘みに特徴があり、彩りのハーモニーが素晴らしい。揚州料理は淡白で口
当たりがよく、主食材の味がうまく引き出され、切り込み法に優れて味がよく滲みこんでいる。南京、鎮江料理は濃厚な味付け、精緻な造りで、特にアヒル料理はその名が高い。有名な料理には“清湯火方”、“鴨(アヒル)包魚帳翅”、“松鼠桂魚”、西瓜鶏“、“塩水鴨”などがある。
六 浙江料理(浙菜)
杭州、寧波、紹興、温州などの地方料理を代表として発達してきた。その特徴は淡白、香り高さ、歯ざわりのよさ、若い柔らかさ、爽やかさ、旨みにある。浙江は魚、蝦類の産地であり、また山紫水明の有名な観光名勝地であるため、民間伝承の有名料理も多く、造りも精緻で変化にも富んでいる。調理法は油炒め、揚げ物、揚げ炒め、餡かけ、蒸し物に長じている。盛名を誇る料理には“西湖酢魚”、“生爆鱔片(タウナギ)”、“東坡肉”、“竜井(竜井茶)蝦仁(エビの剥き身)”、“干炸(粉衣揚げ)響鈴”、“叫化童鶏(若鶏)”、“清湯魚圓(魚のすり身団子)”、“干菜(乾燥野菜)燜肉”、“大湯黄魚(イシモチ)”、“爆墨魚(イカ)巻”、“錦繍魚絲”などがある。
七 湖南料理(湘菜)
湘江流域、洞庭湖周辺、湖南省西部の山間地帯の料理を代表として発達してきた。その特徴は材料の幅が広く、油濃く鮮やかで、唐辛子、燻製肉を多用する点にある。味付けは新鮮で香ばしく、酸味辛味が強く、柔らかく口当たりがよい。調理法は塩漬け肉、魚、燻製、蒸し焼き、蒸し物、煮込み、揚げ物、油炒めに長じる。有名料理には“腊(塩漬け肉)味合蒸”、“麻辣子鶏”、“紅煨魚翅(フカヒレ)”、“湯泡肚(臓物の胃)”、“氷糖湘蓮(蓮の実)”、“金銭魚”などがある。
八 安徽料理(徽菜)
長江沿岸、淮河沿岸、徽洲の三地方料理を代表として構成されている。その特徴は原材料選定が質朴で、火の使い方を重視し、油がきつく色鮮やかで、スープだし、原材料本来の味を維持するところにある。安徽料理は山海の珍味で名高く、南宋の頃には早くも“沙地馬蹄鱉、雪中牛尾狐”が有名料理として知られている。調理法は遠火焼き、煮込み、煮物に長じている。有名料理には“符離集焼鶏”、“火腿(ハム)炖甲魚(スッポン)”、“腌鮮桂魚”、“火腿炖鞭笋(竹の地下茎)”、“雪冬焼山鶏”、“紅焼果子狸(ハクビシン)”、“奶汁肥王魚”、“毛峰燻鰣魚(ヒラコノシロ)”などがある。
酱烧青蟹:蟹の味付煮
生炒鳝鱼片:田うなぎのこまきり炒め
红烧甲鱼:スップンの甘煮
麻婆豆腐:マーボーどうふ
樟茶肥鸭:楠の木と茶の葉でいぶした鴨
广州料理
脆皮鸡:広東式揚げ鶏
锦绣排翅:ふかのひれのうま煮
鲍鱼香茹:鮑とマシュルームのあんかけ
生炒鲜干贝:生貝柱の炒め物
中国についてアナタはきっと強く好奇心を持っていますね~(^ω^)(^ω^)(^ω^)まあ、もっと詳細の中国の基本情報は下のサイトをご参照ください。
メールアドレス:cs1@japinchina.com
黒っぽいレトリックを駆使してPVを稼いでいるブロガーは、どこでブログを書いてもウンコまみれになるのでは - シロクマの屑籠と誤読解説"黒っぽいレトリックを駆使してPVを稼いでいるブロガーは、どこでブログを書いてもウンコまみれになるのでは" - 斗比主閲子の姑日記
シロクマさんは平常運転中ですが、お相手はどうもひどいですね。この方、一度関わりあうとめんどくさそうだし、自分のブログは妙な話題で汚したくないのでこちらで書きました。わたしの意見はこちらに書いたことに尽きますので、もし議論したかったら他の方々とどうぞ→ブログ主さま。
自分が書いた記事の誤読解説をどや顔で書いてるのみて、びっくりしたわ(ま、でもそこまで馬鹿じゃないよね、余裕な振りして顔真っ赤にしてるんだよね、でもそれはそれで、いったんこらえずに書いちゃうのも、お茶めかもね)。
この人のブログ、一時期はてな女子に登録されてたし、ファンでもなければ「あ、女性なんだな」と思うだろ。自分ははてなを愛してるんだ!行間読めばわかる!って、そんなこと読み取ってやるほどほかの人は暇じゃないから。他人は自分のファンじゃないし、好意的に読んでもらえないのが当たり前ですよ。人に客観的な視点で文章添削されたことないのかな、この人。論文出してリジェクトくらったり、仕事でプレゼンしたり文書提出したりすると、自分よがりな文章書いても通じないってわかるけど。(ちなみに、ここで「添削されたことあります!誤読です!」とか言っても、馬鹿さらすだけだからね、気をつけてね)。
個人的には、こういう人の存在、困るんだねぇ。ブログ全体の方向性としては、言いたいこと、わかるわけよ。ある種の女性の側にたちたいという思いも。ただ、むやみにけんか腰だし、ウイットがないし無駄に上から目線。意見が同じ人は一緒に文句がいえてキモチいいかもしれないけど、意見が違う人からは「うわ、絡むとめんどくさ」って感じになる。確かにこの人が絡む相手、びみょーな人は多いけど、そこまで叩かれるほどでもないし、叩き方もねちっこくて。
同じ意見の人間だけでダマになって、愚痴いってスッキリしたい!という人だったらいいのかもしれないけど。自分はいろんな立場の人と一緒に働くからさ。意見の差を強調して、対立構造作られても困んのよ。そういうことは、井戸端でやってくれるかな、と思う。後ろ弾撃たれてる感じ。
やっぱり、マッチョ&批判系ブログというのは、軽妙さと頭のよさが必要だと思うのよねぇ。下手するとうざくなるじゃん。
やまもといちろうさんみたいに危ない話題にもガンガン突っ込む馬力と鉄面皮さ(やまもとさんはうざいっちゃうざいが、またそこがいい)。イケハヤみたいに、ゾンビのように立ち上がる懲りなさと、論理の隙に垣間見える愛嬌でもいいけどね。イケハヤとか、石でうたれる姿勢がキリスト化しているし、もはや神様。
炎上はいいけど、もっとエンターテイメントな炎上がほしい。小町も誤読と空回りと極端な意見ばかりだけどさ、yomoyomoさんが取り上げる小町的な感じの、集合的な芸としての炎上ならいい。はてなには出せない妙味がある。でも、こういう中途半端な人が持ち上げられんの、美しくないし、つまんね。なんか、一本調子なんだよねー。もっと華麗な展開が見たいですよねー。
http://p-shirokuma.hatenablog.com/entry/2013/11/25/162534
・ユーモア:時々、ねこらさんは恐ろしく機転の利いたブックマークコメントを残す。
・本当に危ないネタには距離を取る:何にどのように言及するのが最適/最悪か、かなり考えているふしが見受けられ、しばしば無言ブックマークを行っている。
・キャラクターの妙味:味方のつくりかた、あるいは読者のつくりかたを心得ている。邪悪発言を繰り返しても「まあ、ねこらさんのキャラだよね」で通るような“スタイル”を確立している。
はあ?
俺はまったくそうは思わないし思えない
そんな光景見かけた事も無い
エターナル東方や愛国先生ですらそういう見かたは俺でもできるけどid:nekoraにだけは絶対にできない
非表示にしてるのに何かの拍子でアイコンだけ確認できてしまうだけでも本当に嫌な気分になる
俺は今でもkanoseさんのブクマを覗いてるけど奴の糞アイコンだけは非表示設定でも視認できてしまうので本当に頭に来る
あん時病気で死んでくれてたらと本気で思う
有村が何でこんな糞野郎を許せたのか本当に理解に苦しむ
なんかそんな感じ.
ぐりんぐりん動いて,ビームもにゅんにゅん撃ってという感じなのかなぁと思ってたら違った.
編隊組んでの集合美を魅せてる感じやった.素敵.
宇宙っていう世界一広い場所でガンガンに動くまくって戦うアニメばっか見てたから,新鮮でした.
そしてちっとも曲がらない/とっても静かなビーム!!
いや,きっと宇宙で戦ったらそれが一番正しいのだろうけどね!!
どれだけ鮮烈に人を殺せるか,なんて現実に考えたらロクな評価軸ではないけどさ.
あの「敵を殺したぜ!」「え?人殺しちゃったの?」って構図は,31歳のおっさんにも
けっこう良い角度で刺さった次第です.
銃で形見を加工しとったけど,1話からの視覚的な伏線にやられました.
それに対する音と光の演出もとても計算されてて,楽しかったです.
2月のワンフェスのトークイベントも見に行ってたりするのだけど,
そんときに「鳴子ハナハルさんの描く女性はとても肉感的な女性なので~」
みたいなことを言ってて,それになんか違和感があったんです.
「そうでもないだろう」と.
改めて見直すと,確かに他のおっぱい描いてご飯食べている人達の
美味しく頂く俺的には平均から随分上だと思うけれども.
せいぜい籐ます先生や三巷文先生やゆきみ先生より若干太ましい程度だろ,と.
見る人の目によって違うし,そこからさらに動画に変わって更にずれは
増えるしで,トークショー当日は面白くも心にモヤモヤが残ったわけです.
最初は「これでぶじゃん!でぶにゃんじゃん!」と思ってたもん.
でもでもでも,
実際動いてるのを見ると,横に間延びした(ように俺には見えた)
デザインが,キャラが動くために必要な肉づきだったのだと思い直したり,
「骨格まで見える!」とまで勝手に思い始めたり.
つくづくいい加減な自分です.
でぶにゃんもきっと空とか飛んだりからなんでしょう.
「よい乳は良い尻と太ももから!」という標語も飛び出す始末(俺から).
なんすかね.実際元絵と重ねたとしたら,ほんのちょっとの違いだと思うんですよ.
ただそのほんのちょっとの違いが良い違和感となって,俺に無駄な知恵熱を発生
させた次第です.
まどマギとかもそうだったのだけど.キャラデザがそもそも好きで,
そうなったのかとか考えるのは好きなのです.
今回はそれが作り手側と良い感じに違ってて,そこもとても面白かった次第です.
まだどんな終わりになるかもわかんないですし,
キャラの動きやお話が素敵な中で,音響がところどころ気になりますどね.
三人娘がアップになったときに,画面とセリフとの距離感が崩れてて
凄く嫌な感じになっちゃった.
「俺がそう思ったからそうなの!」って感じになるので恐縮なのだけどさ.
純粋に一話一話の構成の妙味や,もっさんのちょっとあざとい開拗音を
楽しみにして生きていこうと思います.
お世話になってます。
それはそうと、彼らのメンタリティを考えると色々考えることがある。
1・プロ
俺もIT業界にいた頃は仕事が楽しかった。キツくなかったと言えば嘘になるが、IT業界にいた時期のことは決して後悔してはいない。
当たるならこういう人に当たりたい。
2・労働者
こういう人がとても多いことはよく分かるし、普通に仕事してくれる分には客も気にせずありがたくそのサービスを受け取ればいい。
ただ「客のことなどどうでもよく面倒な仕事はしたくない」という態度は接客業ではアウトなのでそれはやめてくれ。
俺もバイトしていた時は仕事に愛着を持っていたわけではなく、金が欲しかったわけだが、その辺は気を使った。
3・初心者
仕事のことが分かっていないでとりあえずやっている。
こういうのに当たるとガッカリすることがあるが、まあ誰しも初心者だった訳だし、とやかくは言わねえ。
そういう労働者は正しい意味での労働者じゃないし、役所の社会福祉の観点からすれば救済が必要だということになる。
だが外から見ている限りでは奴隷的労働と普通の労働者やプロを見分けるのは至難の業だ。そうなると俺も奴隷的労働に加担していることになる。それはめちゃくちゃ困る。
風俗を愛しているのなら、当然4はなくしていって労働環境を健全化していかなければならない訳だが、誰がやるか? どうやって見分けるか? というところに大きな謎がある。
警察が人の流れを管理できればいいが、それは合法的な店の話で、違法な店相手ではそうはいかないからガサ入れが必要な訳だし、それだって癒着があったり、十分に人身売買を摘発できなかったりと色々ある訳だ。
差別されているのはロリコンと一緒で、一件でも犯罪の要素があれば、全部犯罪と思われてしまう。それを避けたい訳だが、どうすればいいものか。客としては出来ることは少ない?