はてなキーワード: 賛否両論とは
こんな記事↓が話題になってたけど、実際のところアクティブラーニングは学校教育で子供の学習を底上げするメソッドだというのは明らかになっている。
公立小学校のアクティブラーニング実態に疑問の声「声のでかい子が全部やる」「二極化する学力」新時代の教育方法に賛否両論 - Togetter
超トップ校では、優秀で意欲も高いお子さんたちが集まっているので、アクティブラーニングもうまくいき、子どもたちの学力も向上する。当然の結果だろう。
超底辺校では、そもそも子どもが授業に参加するようになっただけで誇るべき大戦果である。それまではそもそも授業の体をなしていなかったのだから。ゆえにアクティブラーニングの実態が単に愚にもつかない考えをダベるだけの場であったとしても、それは子どもたちの学習意欲とかそういうものが向上したという結果だとみなされる。
2.具体的な悩み
5.これから考えていること
6.今後の目標
7.〆
当方、かなり深刻に悩んでいるので、男性目線・女性目線問わずにアドバイスをもらえたらとても助かる。
○スペック
・私は軽めのASDで、人の気持ち(言外の意味や空気)を察する事がピンポイントですごく苦手。
・BMI21なので18くらい目指して緩い筋トレ中(追記:登山でがっつり有酸素運動するので、怪我予防や体力作りを目的としてやっています)
・増田の趣味の時間は大切にしたいが旦那への奉仕精神は多分強め。
・旦那は中学時代の同級生。軽いS気質。超絶マイページで自分主義なところが玉にキズだが許容範囲。基本優しい。
・子無し(予定も無し)
・私自身、セックスは好き。でも旦那以外とのセックスは気持ち悪いので考えられない(相手が男女問わず)
・セックスは週1〜2くらい。子作りではなく、趣味や運動の範囲(※あくまで増田側の認識)
・スカトロとかハード系以外はいけると思うが、お互い甘々系が好き。
・旦那は尻、太腿フェチ。痩せ型より多少肉付きが良い方が好みぽく、コスプレ、制服、水着などの反応が良い。
○悩み
増田は元々おんなのこ♡って感じではなく、友達は男も女も同じくらいの自虐系。化粧とかの女子力は中の下〜下の下レベル(趣味と胃袋掴んでの入籍だった)
元バンギャ、昔はゴスロリ・パンクス・ユニセックス系(今はフェミ系)
旦那とは付き合いが長く、部屋着が結構ずぼらでゲーマーなのは完全にバレている。加えて、私自身も察してるが、中高生の頃の服や旦那の古着を寝間着にしてるのがあまりよくない気がする(のだが、旦那の古着のパーカーの着心地や素材が気持ち良くて手放せないでいる)
最近、私の湿疹が酷くて色々と萎える原因になっているのではと不安。
○今まで試してみた事
・エロの勉強は男性向け同人誌、FANZA中心。即売会からは離れ気味。腐女子は引退気味。最近女性向けもいくつか読んでみたが、あまり参考にならなかった。
・膣トレ、腹筋、骨盤内底筋を鍛えつつ、柔軟性を高めるストレッチは毎日してる
・膣トレ用玩具はあり。時々こっそり使う。バイブやは微妙。電マの方が好み(しかし旦那はこの辺の玩具を滅多に使わない)
・フェラには抵抗がない。精飲も平気(口に溜めて、見せてからごっくんするやつは軽く引かれた)
・騎乗位が多いので、なるべく動く
・自分からセックスに誘う→ニコニコ動画の実況に連敗中(誘い方が悪い?)
・旦那は自分がヤりたいときにヤるので、寝てたら入れられていたとかは多い。私が同様の事をすると機嫌が悪くなりがちで、誘うタイミングの見極めが非常に難しい(※一番深刻)
○旦那に直接聞いてみた
Q.増田に足りないこと
A.色気。尻は(枕としてしか)役に立たない。積極性が皆無。もっと誘ってほしい。
A.その日の気分によるので何も言えない。
Q.Twitterやはてなでは「朝にフェラで起こされること」に対して男性側に賛否両論があるが、どう思うか。旦那は嬉しいか。
A.その日の気分によるので何も言えない。嬉しい時は嬉しいが、眠いときはウザい。
A.その日の気分によるので、何も言えない。気が乗らない時は脱いで良い。
A.男はアルコールが入ると立たない生き物(または射精にかなりの努力が必要である)
○これから考えていること
・モコモコ系パジャマかネグリジェ的なものの購入?チュチュアンナとかジェラピケ?
・旦那が2回くらいいけるようなもの(?)を夕食に混入(アルコール以外)
○今後の目標:旦那が疲れマラでも抱きたくなるような増田になる。
○〆:最後まで読んでくれてありがとうございました。これ優先がよい、これが参考になった、こうされると男は嬉しい、私はこうしたなど、あれば教えてもらえるととても助かります。
旦那はセックスが好きな人なので、まだまだ下手くそですが、可能な限り満たしてあげられる、旦那が「(色々込で)結婚してよかった、幸せだ」と思えるようなエロい女になれるよう、引き続き勉強・努力していきたいです。
もし良い同人誌や参考書などご存知であればぜひ教えて下さい(キュレーションメディアは具体例に乏しくてあまり役に立たないので)
最初から全開で否定していくけど、この映画を見て欠点が一つもないようなそういう絶賛しかしない人は
きっと普段から全く内容の無い薄っぺらい作品しか見てない読んでない聞いてない人だと感じる。
今回賛否両論で話題になったドラクエの映画は絶賛できるレベルでは決して無かったと言える。
なんでかっていうと、尺が短すぎた点、主人公が石像になり伴侶が石像になりという部分も表現が簡略化しすぎた。
その後の季節的な流れていくシーンは良かった。ここは評価する。
しかし、ドラクエ5を選んだのだから、もっとドラマがあっても良かったんではないかと感じた。
挙句の果てには、ラスボスが○○○○という流れだ。全て台無しだ。
ファンタジー・アドベンチャーなら、ずっとファンタジーで良かったんだよと。
自分が主人公だという認識はストーリーが終わってスタッフロールが終わった後にでも、
自身の部屋とTVとゲーム機を映すなりしてTV画面に「Fin.」とでも表示させておけばよかった。
それをなぜか作られた世界がどうたらこうたらとファンタジーをぶっ壊してどうする。
今回、担当した監督自体に問題があったというのが一番の問題だったのだが、
絶賛している人たちはラストが熱かった、ラストの展開が面白いなどと分けのわからない絶賛をする。
いきなり現実に引き戻されるような分けのわからない展開が面白いのか。
最初にも言ったが、一切の不満をもたないで名作と言い切っている人は
普段から中身のないものでしか面白いと思えないレベルなんだろう。
絵本でも読んで、もう一度幼児期からやりなおしてみたらどうなんだ。
絵本の方がよっぽど内容が深いぞ。
「最近のアニメすごいな、流行るだけあるな」と思った。そういうレベルの人間視点
セカイ系とかは知らない
ネタバレは多分少しあり
一回目(ひとりで)
・映像美に見入った、雨の描写の大変さは素人でも想像に難くない
・気になったのは
・総じてネットでよく言われてるやつ。まあ「そういうもんだし」で片付くので大きな問題はない。
・あえて悪い言葉でいえば「幼稚」な印象をもった
・でも抗えない魅力があった。男の子と女の子が互いの名前を叫べばそれだけで立派な物語だ。
抗えず二回目(ひとりで)
・開始前にトイレ行ったのに、少人数+冷房のパワーで思考キャパが尿意によってみるみる浸食されていった
・夏美がコーヒーやらビールやらごくごく飲む頃にはすでに漏れそうだった
・でも頑張った。同じ映画を二回見る経験なんて初めてだから、なんとしても失敗するわけにいかなかった
・それがもう失敗であった。エンドロールが始まるや、慎重にかつ速やかにおずおずと情けなく退出したのは私です
一回目の視聴では「いやいや、出会ってからホダカがなんで陽菜に恋したかが貧弱すぎて感情移入できねー」と
思っていたが、冷静に考えればこれほど魅力的な女の子が日常に現れたら好きにならないはずがないのだった。
君じゃないとないよ、意味は一つもないよ、と。そういうこと。
二回目ってことで「陽菜はいつから自分の体の変化を認識してたのだろうか」という視点が持てた。
太陽に手をかざす描写がこれでもかと出てくるんだけど、一回目と意味合いが全然違って見えてくるのね。
あとあんまり喋ってない気がするんだよね陽菜。気のせいかなセリフ少ないと思う。もっといろんな声聞きたかった。
陽菜が最後の最後、どういう感情だったのか、これがもう少し描かれていてほしかった気はする。
当事者として彼女の葛藤は誰よりも大きいはずなのに、基本的にホダカ視点だからなこの映画。
・凪、かわいいよ凪
言わずもがなの、センパイ然とした大人顔負けのサービス精神と子供の無邪気さが共存する魅力的なキャラ
一回目の視聴では釈然としない部分に気を取られてかそこまで感動しなかったけど、
二回目は凪先輩のパンチライン「姉ちゃんを返せ!」で涙を流させていただきました。
でもなんで凪先輩はあのビル来れたんだろうね
あとこのキャラは抜群に声がいいと思う。声優とかわからんけど演者の方もっと評価されるべき
・声がいいといえば、ホダカ。これはすごいことだ。
序盤の「帰りたくないんだ」で見せる弱さは胸を突くし、なにより終盤の叫び連発に込められたエモさはヤバイ。
叫びってのは基本的には耳障り悪いはずなんだけど、ホダカの叫びは淀みない真っ直ぐな感情が乗ってて
聞き手の心をぐいと動かす力がある。最優秀ボイス賞。
一回目は「いやリーゼントとかあり得ないし」と冷めた部分もあったが、この良質な叫びのおかげで二回目は変に引くことなく楽しめた。
・総じて二回目は話の流れがわかってるだけに、キャラの感情の動きに注目して見ることができた。
(これはこの作品に限らず、そういう楽しみ方があるという発見)
スガさんとかね、「実は奥さん晴れ女だった」考察が話題になってたけど、そういう視点で見るとなかなか面白かったり。
さすがに三回目はないけど、機会あれば見たいし誰か誘ってくんねーかなくらいに思ってる
言うほど賛否両論ではないと思う
どうみても悪い政策なんだが、
これをどういう理屈で押し通してるのか想像もできないので教えてください。
どうして中小企業よりも低い税率なんだよ?
でも大企業ほど税率を税率を下げるって、どういう理屈なのかわからない。
国会で「私たちは金持ち優遇策をやります」ってどうどうと宣言して、こういうことをやってるのか?
短い期限で捨てる法律を作ってまでして捨ててる。
記録は失われるとどうしようもない。
どんな口実で捨ててるんだ?
「自分たちに都合の悪い記録を消すために必要であります」ってどうどうと言ってるのか?
政策には賛否両論はつきものだけど、このふたつは、どう考えても擁護できないと感じるのだが、
与党支持者の方々はどう考えて納得しているのか知りたい。
こうやって支持者たちは自分を納得させているのか、なるほど。
これすべての問題に使えて便利だ。
映像は悪くなかった。
ラストバトルでいきなり明かされる設定
今回の演出の失敗だと思われる。
涙ながらに終わらせる絵でも挟めば済むのに
アンチウイルスで対抗することは、肯定にも近い違和感を鑑賞者に残したのではないか?
僕が演出するなら「僕は子供で居たい」位のセリフを吐かせたのではないだろうか?
もしそんな気持ちが監督になかったのなら、そのままの言葉を視聴者に投げかけたのだから
恐ろしいが、あったとしても伝わらない演出だったわけで、これが失敗の原因だと思われる。
これが伝わっていたなら反応は少し変わっていたのではなかろうか?
ドラクエ5のストーリーが好きで、内容を覚えてる人であればあるほど最後の最後に、なるほどねって納得できて面白いと思う。
正直、終盤まではちょこちょこ面白いけど、ただのファンアート・二次創作レベルだなぁ、って感じだった。ビアンカはかわいい。
なんであそこカットするの?とか、不幸度足りなくない?とか、ドラクエ5好きだったらそこ削らんだろとか、主人公キャラ違うとか、とか不満点多数で。ビアンカは可愛かったけど。
すごい陳腐だなー、って思いながら見てたら最後の最後でどんでん返し。
前半のチープさ、カット、都合のいい感じ全部納得した。
そりゃ、そういうチープな感じにあえて描くわ、なるほどな、っという感じ。
どこかに小説を投稿し順調に評価されてアニメ化されるとしよう。
賛否両論にさえ至らず誰にも見られず語られず終わるパターンだ。
最初のチャンスで失敗すれば二度と次のチャンスは与えられない。
次は「それ以上」を求められる。
その次は「さらにそれ以上」を。
一休みして力を蓄えることも許されない。
走るのをやめたら、あっという間に忘れ去られる。
アニメオタクは恩知らずだ。
少しでも気に入らないことがあればすぐこき下ろす。
一度でも失敗すれば「落ち目」とされる。
一度落ちればあとは落ち上がる一方だ。
失敗すれば、どうなるか?
穢れは祓われ会社は存続する。
結局、どんなルートを迂回しても終着点は同じだったのかもしれない。
Fateという作品が非常に気になっていたので、ここ数年Fate関係をずっと漁って、Fate/Staynight → Fate/ZERO → Fate/UBW → Fate/HF → Fate/Extra(アニメ) → Fate/プリズマイリヤ1,2,3 → Fate/Apocrypha → Fate/Extra(ゲーム) → Fate/Extra CCC → Fate/Extellaという順番で消化し続けてきた。途中Type-Moonの世界観が共有されているとのことなので、空の境界のOVAを6作見てみたりもしてみた。そしてその結果として、言いようのない気持ち悪さを覚えたのでここに書き散らす。ぶっちゃけると奈須きのこ、てめえは駄目だ。人間ってもんがぜんっぜん書けてねえ!!
Fateのヒロインって奴は、というよりType-Moonの主要ヒロインは以下にまとめることができる。
・遠坂凛
・玉藻の前
・クロエ
・美遊
まあだいたい出てくるヒロイン枠はこんなもんなんだが、ぶっちゃけエロゲと同じでわりと単純で簡単に類型化できてしまう(どうして簡単にかつ単純に類型化できるのかは実は一言で表現できるのだが、それは次のチャプターで話す)要するに以下のタイプしかいないのだ。
・食い意地が張ってるので、基本は食事で胃袋を掴む
・使命感を捨てて恋に生きるよう説得するため、とにかく女の子扱いする
・不器用な生き方そのものを肯定し、過去の傷を舐めて肯定してやる
・チャラい、不真面目
※要するにギルガメシュ
・チャンスを見て、心のSGを暴いたり、心の中身を覗き込んで一旦丸裸にした上で従順にさせる
・たまに大真面目に褒めると照れるので、褒めのジャブを入れつつ、好意をストレートに打ち込むと何故か落ちる
・間桐シンジ
・真面目な朴念仁で、目的のために愚直に突き進む優男タイプに弱い
・ド直球に大してド直球に返す、沈黙に沈黙を返して誘い受けする、これを繰り返していると勝手に相手が落ちている
・倫理にもとる行為をしても基本的には立ち位置を信頼モードにして「何があっても一緒だよ」「過去どんなことがあっても俺は気にしないよ」と言い続ける
・意外と寂しがり屋だったり、わりと物事を達観してる節があるので、そういうときに包容力を見せるだけで落ちる
・こいつら自身が裏表があるタイプなので、裏表が通用すると思ったら間違い
・下手に策を弄するよりも天然を地で行くタイプに弱い。本人たちもそこがわかってるから冗談交じりで愛情をストレートに表現してくる。
・とにかくこいつらは寂しがりで承認欲求が強いので、友達とか絆とか特別というキーワードに弱い
・特に精神的な繋がりを重要視するだけで、それを与えるだけで生きる目的にすらなっちゃう
・精神的な闇の部分も含めて「お前が特別」を与えてやるだけで落ちる
・必ず不器用な一面を見せる
アホかってくらいみんなこれに該当する。そのせいで(2)Fate男主人公全般に見られる妙な脱個性&表面的素朴化が起こってる。
Fateというか、Type-Moon系の主人公格はほぼ以下の五人に集約できる。すなわち黒桐幹也、衛宮士郎、ジーク、岸波白野、藤丸立香の五人である。これは女ヒロインがType-A~Dの四種類に集約でき、かつ変形種まで存在することから考えると驚くほどに単調で少ない。とはいえ一応五人はいるのだから、五人を一人ずつ分析していってもいいのだが。ぶっちゃけるとこの五人、精神分析するまでもない。細かい差異はあれど以下の一行に簡単に集約できてしまう。
マジでこれは異論は認めない。ぶっちゃけTypeMoon系の主人公(男)ってやつはどいつもこいつも女に対しておんなじアピールしかしてない。驚くくらいこれがまったく変わってなくて驚きを通り越して笑えてくる。マクロス・フロンティアでMay'nが歌うノーザンクロスに「君を掻きむしって濁らせた、なのに可憐に笑うとこ、好きだったよ」という歌詞があるが、まんまこれである。すなわち「お前の本当の姿は可愛いんだろ?そんなお前を俺は知ってるZe!放ってなんかおけないZe!」「僕を傷つける君でも、俺はお前を好きだZe!放ってなんかおけないZe!」のどっちかを繰り返して女の子を包み込んでいるだけなのである。その証拠に各々のメインヒロインをFate/StaynightシリーズとFate/Extraシリーズを用いてざっくりどうやって各主人公が落としてきたかを振り返ってみよう。
「士郎は卑怯です、私の過去を知って、何度も私の中に入ってきた(性的に)」
→「惚れちまってんだから仕方ないだろ、俺はお前をこのまま放っておけないZe!」→「俺はお前を救いたい」→陥落
「(アーチャーが私を裏切った…!?そんな…っ)士郎、今日は疲れたでしょう、もう休みなさい」
→「お前の方が辛いはずじゃねーか、俺はお前をこのまま放っておけないいZe!」→陥落
「先輩、私綺麗じゃないんです、もうずっと前から汚れた女なんです」
→ 「そんなお前をこのまま放っておけないZe!俺は女としてのお前を求めたいんだZe!」→陥落
「奏者よ、本当の私は悪名によって星に刻まれた為政者なのだ。為政者としての余は完全に間違いばっかりなのだ」
→ 「そんなお前の姿が俺には眩しいZe!」
「私は傾国の姫君、私は人とは一緒にいられない、一緒にいてもどうせ不幸にしてしまう、」
→ 「そんなお前が俺との何気ない日常を選んでくれたことが俺はうれしいZe!俺はお前を信じていたZe!そんなお前を俺は好きだZe!」
「私は破壊の王、命を奪いたくは…ない、私は、その意味をまだ知らない。だが私には、破壊しかないのだ。他には…何もない。だから…」
→ 「お前の本当の姿は可愛いんだろ?そんなお前を俺は知ってるZe!放ってなんかおけないZe!」
ぶっちゃけFate/Extra、Extellaなんてのはストーリーはメチャクチャ単純で、主人公の事を好きな味方(サーヴァント)を連れて聖杯戦争を進んでいく内に主人公の事を好きな敵が現れて、その敵から主人公が逃げたり逆にその敵を救おうとして失敗してを繰り返しながら、ラスボスとの戦いで主人公を好きな味方と敵の全員が力を合わせ、最後にラスボスを大団円で倒した後に、切ない別れが待っている、以上。もうぶっちゃけこれだけである。FGOもほとんどこれを繰り返してるだけ。(※この系譜に当てはまらないのはせいぜいがFate/ZeroとFate/Apocryphaくらいのもんで、しかもこの2つは両方ともメインライターは那須きのこじゃなくて虚淵と東出)那須きのこの描く女性像、特にヒロイン像ってヤツがいかに偏ってるか、いい加減気づいた方が良い。こいつにとってヒロイン女ってのは精神的脆さという名前恋愛スイッチが存在していて、そこを押しさえすれば女はみんな落ちると思ってる。でもってそのためには男は全員器が謎に広くて天然朴念仁でありながらストレートに女性を褒めることも出来て自分のピンチにも泰然自若としている肝っ玉のある男じゃなきゃいけないわけだ。
このヒロイン像に対比する形で生まれた男性像が顕著といえるのが<空の教会>の黒桐幹也くんである。
筆者は空の教会の「殺人考察(前)」編で両儀式から殺されかけて逃げながらも彼女を何度も振り返って見つめ合う黒桐幹也になんだかシュールなものを感じてしまって半笑いになってしまったのだが、とにもかくにも那須きのこのヒロインを救う主人公(ヒーロー像)ってのはこのときからまったくといっていいほど変わっていないことが伺える。この異常なヒロインをそれでも愛するヒーロー(男性)というのはFateにも結構登場していて、藤丸立香や岸波白野だけじゃなく、メディアさんの恋人ポジションである葛木先生なんかはモロにそのポジションだったりする。特に岸波白野くんの包容力演出の異常さに関してはメルトリリスやパッションリップのエピソードでも充分に語られているから分かるだろう。基本的に那須きのこ氏の作品に登場するメインヒロインたちは絆や深い関係を作るために何らかの精神的ウィークポイントが存在しなければならず、そこを無意識に突くことができ、かつ人格的にも不安定な彼女たち(意図的に男性の手の中に転がりやすい存在として貶められている彼女たちの人格)を包み込んであげるためには、ヒーローたる男性は極端なまでに懐が広くて朴念仁でお人好しでなければならないというわけだ。
これって西尾維新とかの物語シリーズにもよくあるんだが、とにかく女性という存在を何かと欠陥のある存在にしたがっている。「欠陥のある存在にしたがる」というのは要するに、手触りがあって男の手の中に何となく収まってくれそうな存在に押し込めたがる傾向がある、という意味だ。早い話が心に隙間のある人間に仕立て上げることで、弱点スイッチを作っていることだと言っていい。そしてそこを上手に押してくれる男性をヒーローと仕立てあげる構図を作り上げている。これは病的なまでにすべてのヒロインに共通して言えることである。例えばFate/Extellaに登場するアルテラは1万4千年前の世界を滅ぼした遊星の尖兵たる巨神そのもので、その気になればサーヴァントたちのみならず神級の英霊をも下すこともできる超弩級の危険人物なのだが、どういうわけか主人公に惚れていて何故か必要もないのに彼にプログラム世界であるにも関わらず料理を振る舞ってみたり、甲斐甲斐しく抱きしめてみたりする意味の分からないエピソードが大量に存在する。そしてどういうわけか主人公の昔の英霊パートナーに嫉妬したり、主人公と会話をしたがるも話すことが見つからなくてじっと見つめてしまったり、逆に見つめ返されて恥ずかしがったりしてしまうのである。
この一言に尽きる。だから女性ヒロインにわかりやすいテンプレを付けすぎて、しかも毎回それを使いまわしすぎる。そして男性ヒーローに対して、女性を救う存在とさせすぎる。一言で言えば、女を舐めすぎだ。この辺は主人公(男)がしょっちゅうヒロイン(女)をからかったり弄ったりすることからもよく分かる。その弄り方のほとんどがどうにもこうにもヲタ臭いのだ。
別に人間なのだから、弱点を押されれば弱いのは分かる。精神的な脆さや寂しさが女の魅力になることも分かる。
でもそれに頼りっきりかっつー話である。いい加減恋愛スイッチのあるヒロインをヒーローが助ける構図をやめてみたらどうなのか、と。例えば歴代の有名ヒロイン・綾波レイに恋愛スイッチがあったか?ガンダムのララァに恋愛スイッチがあるのか?ヒーローはいつだってヒロインに愛されていなければならないのか?そうだとしても、それは常に恋愛という形である必要があるのか?ときにはヒーローこそが、心理的に成長する物語を描いたっていいんじゃないか?Fate作品のヒーロー(男性)が画一的で単調なのは、決してヒロイン(女性)を魅力的に描く上でそれが必然だからなのではない。単純にヒロイン(女性)をきちんと描けていないから、その対存在であるヒーロー(男性)が対応する形で単調な存在になってしまうのである。
ポケモンのレッドや.hackのカイトのような、没個性的な男性を主軸に置くことを続けていくことは否定しない。しかしあえて言おう。真の意味での没入感や共感を視聴者が得るためには、登場人物には哲学や主張が存在しなければならない。中庸をいく存在であってはならないのだ。極端に何かを主張する存在でなければならない。それでいてなお、視聴者の好意を射止める存在でなければならない。そしてそれに共感するか否かは、すべて視聴者に委ねるべきなのだ。
この点を非常にうまくやったのは間違いなく虚淵氏である。Fate/Zeroの主人公たる切嗣は、主人公としては実に賛否両論だろう。この主人公に対して感情移入できたのかどうかは実際のところ評価の別れるところだし、正直行って那須きのこ氏が展開する没個性型の主人公とはまったくもって一線を画す、主義主張の塊のような漢だ。しかしどうだろう。不思議と切嗣を憎めない。また那須きのこ氏がヒロインとヒーローにばかり話の焦点を当てるのに対し、虚淵氏が上手いのはヒロインとヒーローが絡むメインテーマに対して、ヒロインとヒーローとは異なる視点におけるサブシナリオをきちんと描いてメインテーマに関連付けさせるところだ。衛宮切嗣に対して言峰綺礼をきちんと置くし、セイバーに対して、きちんとウェイバーとイスカンダルそしてギルガメッシュを置く。(※この違いはなんのかというと、要するに虚淵氏が単にラブコメも恋愛もあんまり書くつもりもないからなのだが)
したがって、那須きのこ氏がこの課題をクリアするためには、まず安易なラブコメや恋愛スイッチヒロインを描くことをやめるところから始めるべきだろう。もっと多種多様な人間の感情模様を描くべきだし、そしてもしそれがきちんと出来ていれば、主人公(男)があれほどまでに没個性的で妙なヲタのりをする奇妙な包容力のある人物になるわけはないのである。
私がTRPGというものに触れてから、もう8年近くが経とうとしている。
元々幼少期から存在自体は知っていたものの、それはダンジョンアンドドラゴンズなどに代表されるファンタジー系のものだった。当時愛読していたライトノベル「フォーチュン・クエスト」の影響もあるのかもしれない。
だが、ニコニコ動画でクトゥルフ神話TRPG(以下CoC)のリプレイ動画が莫大な人気を博したあの瞬間、それまで見向きもしなかったであろう層が、斜陽であったTRPG界に一斉に興味を示した。
それはとても素晴らしいことだと思う。前述のとおり、私もその流れに乗って本格参入したクチだ。消費税が8%になる直前にはいろんなシステムのルールブックやサプリを買い漁った。
発展したインターネットとTRPGの相性もすこぶるいいもので、遠く離れた人ともツールを使えばリアルタイムにロールプレイしあえてダイスの結果を共有できる。冬の時代を現役で感じていない私のような若輩者が口にするのは何様だともなるが、いい時代になったなと今でも痛感する。
とりわけメインで参加しているシステムはやはりCoCだ。人智を超えた生命体への恐怖という題材が好きというのもあるが、それよりも大きな理由は「プレイ人口が多いから」だ。界隈が違えばまた変わってくるのかもしれないが、私の周りには大体みんなCoCを知っていて、それ以外のソード・ワールド2.0やピーカーブーなどに目を向けるとプレイ人口は冗談抜きで半分を下回る。なんなら「CoC以外はやりたくない」と言う層もいるので、布教すらさせてもらえない。チャイム越しに追い返されるセールスマンの気持ちがなんとなくわかるような気がした。
そんな弊CoC村だが、ここ数年でやたらと所謂うちよそタイマンが流行りだした。KP側の作成したPCと、PLが用意したPCが濃密な関係を組み、愛と勇気の力で宇宙的恐怖を退けるアレだ。
TRPGの遊び方というのは千差万別、卓の数だけ物語がある。それは重々承知しているつもりだ。
けれど、私にとってのCoCは本来特別な力を持たない(ほんの少しだけ生業への専門知識を持っているかもしれない)ただの人間の探索者が知恵を絞り不可解な謎に挑み、その先で神と呼ぶのもおぞましい存在に圧倒され自らの矮小さに慄くシステムだと自己解釈しているために、どうも首をひねらずにはいられない。
pi●iv製のシナリオを見てみると「突然意識を失い、目が覚めたら見知らぬ空間にいて、そこには囚われたor記憶を失くしたKPCがいた。脱出するにはKPCを犠牲にしなくてはならないが謎を解き明かせば二人揃って無事に生還できついでに二人の絆を証明するアーティファクトが手に入る」的なものが5件に1件くらいの確率でねじ込んである。その中でもシナリオ背景に「ニャル様が暇つぶしに二人を試しました☆」だけしか書いてないものを目にしたときは頭を抱えた。
いやもうそれクトゥルフ神話要素ほとんどないやん????バッドエンドで視界暗転する瞬間に「やれやれ、君たちにはがっかりだよ。さて、次のおもちゃを探しに行こうかな」だけ言い残すニャルラトテップ御大の化身だけでは????
いやそれだけでも出てくるのならまだいい方だ。中には「自作世界観を再現したので神格も宇宙的恐怖も一切関係ありません」なんてシナリオもゴロゴロ転がっている。それなら“クトゥルフ神話TRPG”のタグを付けないでほしいし回すKPも事前に告知してほしい。こっちはいあいあしにきてるのだから。
なんだか本題からずれてきている気がする。
うちよそ自体は否定しない。最初はそのつもりじゃなくても幾度か同卓をして交流を積み重ねた結果恋仲や相棒になったPCたちもいることだろう。
ただ、うちよそありきでキャラメイクをしシナリオを選びとなると正直もっとうちよそに適したシステムは世の中にごまんとあるわけで、ただでさえロスト率や後遺症を貰ってくる確率の高いCoCに向いた遊び方ではないと思ってしまう。
例えばネクロニカやダブルクロスなんかはPC同士でロイスや未練といった感情を伴った絆を結ぶことでクソデカ感情生成システムを生み出している。これらはファンタジー色が強すぎるが、現代日本ステージであるならばインセインはPCそれぞれに「秘密」が割り振られ、その内容がPC同士密接に絡み合っていたりする。
これら以外にも、もっとうちよそに向いたシステムがあるのに彼女らは尚もCoCに拘っている。神話成分が微塵も残っていない話でオタク好みする都合のいい展開にエモいエモいと泣いて有難がっている。億が一ロストの道を辿っても、今度は「ロスト探索者専用シナリオ」を用意してきて死の淵から蘇ってきてまでうちよそをしようとしている。もはや執念だ。
結局のところ、システムは二の次なのだと思う。感動的なロールプレイをしたためたいだけなのだ。そこまできてしまったのなら、もう“テーブルトークRPG”というジャンルよりも“なりきりチャット”の方がいいだろう。私も中学生の時にオリキャラなりきりチャット掲示板で長ったらしい割にはわかりづらいロルを回してはよその子と交流を深め恋愛関係を結ばせていただいたことが何度かある。あちらにはほぼ“判定”というものがない分、よりPLにとって都合のいい展開に持ち込めていいんじゃなかろうか。
ここまで書いて、ただの自分の好き嫌いで解釈違いというだけのクレームまがいな文章になっていることに自分で引いた。
タイムラインに流れてくる「CoCタイマンしてきた〜♥恋仲になりました♥」と心底嬉しそうな報告ツイートに、ふぁぼも祝電リプも送れない意地悪な自分に嫌気が差すし、かといって界隈から離れるには横の繋がりが多すぎて村八分状態になってしまうのが寂しいと抜かす、ただのかまってちゃんで我儘なプレイヤーだ。
あれからすっかり参ってしまって、TRPG用のアカウントにログインしない日が続いていたら10月頭あたりに学級会になってたらしくびっくりです。たいたい竹流さんまで言及する事態になってるとは…。
2ヶ月越しに意見を漁りまくってたんですが、賛同や理解を示してくれる人もいれば口出しせずに放っといてくれって人もいて賛否両論でした。そりゃそうだ。タイトルが攻撃的だったのが燃え広がった原因なのかな?
「合わないなら離れればいい」という意見をとても多く目にしたのですが、当記事に言及ぶら下げてくださってる方が仰ってる「居場所が侵蝕されたがそれだけを理由に切れるような浅い間柄ではない」ってのがまさにその通りで、だからこそ苦しかった。こんなグチグチした恨み言を書くような性格してるから必然的に友達も少ないし、その少ない友達がそんなことになってさらに孤立してしまったような気分になってしまったというのが本当のところで。
一度恨んでしまえば対象が何を言っても気に障ってしまう性分で、そんなタイムラインを見続けるのも精神衛生上良くないと思ってひっそりミュートしてたら今現在その界隈とは疎遠になり、晴れてぼっちになりました。万歳!!
いやね、元から書いてたんですけどシナリオを経た結果うちよそに発展するのは全然いいと思うんですよ。それも一つのロールプレイだと思ってますし、なんなら私にもそういうルートを辿ったPCがいます。
過激派繊細ヤクザすぎて言語化がひどく難しいんですけど、うちよそすることを大前提にキャラメイクしたり、ただダラダラと中身のない会話をするだけで生還報酬1d10貰ったり、初対面から仲良くなり喧嘩したりなんだりで段々と惹かれ合い告白し愛を深め身体を重ね合わせプロポーズして結婚式!って流れを全ッ部「クトゥルフ神話TRPGのシナリオ」にして経験してて、お前は24時間365日神話的事件に巻き込まれてんのか?っていうようなやつが本当に本当にダメで…そこまで神格に寵愛を受けてるのなら今頃ドリームランドか外宇宙へご招待されてるのでは?ってなってしまうんですよね。
言ってしまえばこれもただのいちゃもんです。私が嫌いだから見たくない!っていう近頃流行りの“お気持ち案件”です。当時元身内たちに言いたくても言えなかったフラストレーションが積もり積もってキレ散らかしながら書いた散文だし、こうやって拾い上げられて学級会の議題に据えられることなんて想定してなかったし。
けど、こうやって苦しんでたのが私だけじゃなかったことがわかったことはちょっとだけ安心しました。
書かれそうだから先に書いとこう
フォーマットが君の名はと同じ感じな印象を受けたのと、帆高の無鉄砲さが気になってしまった。
まあフォーマットについてはほかの新海作品もそうかもしれんから別にいいんだけど、
たとえ東京を沈めても大切なものをとるという選択肢の尊さを描く。
RADの曲ってそういう曲を多いしRADに寄せすぎでは?って気分になった。
そういう意味では東京を沈めたことの描写が生ぬるい点は中途半端だったと思う。
最後の大丈夫というセリフはいいんだけど東京は犠牲になってんのかなってないのかよくわからん状態だと
かといって、ハッピーエンドにするにはあえて悪影響の部分は見せないようにしなきゃならんから難しいね。
基本バッドエンドだったけどぎりぎりハッピーエンドにしたのが、
一筋の光のように感じた点かもしれん。
でもこれだったらおもっきし曇り空にしてもよかったのでは?てなる。
でもそれはきついしなーってなる。難しい。
・見る世代によって感想は大きく変わると思う。特に10代なら主人公に感情移入できると思う。
・キャラや展開がエロい。ホテルのシーン最高だったと思う(エロ抜きでみてもいいシーンだけど)。
・瀧くんとか雪野先生みたいにちょい役で出るかなと思ったら前作主人公みたいな強キャラ感だしてでてきたのはすげえ面白かった。
ネタバレあるので、まだ観ていない人は右上の×を押してください。
新海誠監督の最新作『天気の子』を観てきました。「ヤフー映画」の感想とかを見ていると、新海監督が公開前に言ってたように「賛否両論」の様子。……しかし、否定的評価をしている人たちの感想を見てみると、「賛否両論以前の問題」で、人物描写が薄っぺらさを指摘している意見の多いのが印象的だった。
だが、待って欲しい。「人物造形が甘い」とか「人物描写が薄っぺらい」という批判を新海誠にするのはいかがなものか。そもそも、新海作品にこれまで重厚な人物描写などあっただろうか? 薄っぺらくない人物なんて一人としていただろうか?
まず、大ヒット作『君の名は。』で考えてみよう。瀧君も三葉も奥寺先輩も、ラノベ並みの、いや、そういう言い方はラノベに失礼なくらい、ペラペラの薄さだったと思いますよ。三葉の悪口を言ってた同級生たちなんか、当社調べでは0.01mmの薄さで、わが日本が誇るコンドーム会社オカモトが対抗意識を覚えるくらいの薄さじゃないですか。
『秒速5センチメートル』も同じ。主人公(遠野君)は半年前に転校したメンヘラ気味の女の子に会うために、東京から栃木に電車で向かう。しかし、大雪のために途中で電車は大幅に遅延する。その時の主人公(遠野君)のモノローグを皆さん覚えていますか?
「たった一分がものすごく長く感じられ、時間ははっきりとした悪意を持って、僕の上をゆっくりと流れていった。」
ごめん。最初『秒速5メンチメートル』を見た時、私はここで腹痛くなるほど笑い転げて、逆に何度もここを再生しましたよ。もうね、ほんとリアル中学二年生でもこんなポエムを呟かないですよ。時間は君に悪意を持つほど暇じゃないと思うんだよね。たんに大雪のために電車が遅延してるだけやん……
未見の方いたら、すみません。この電車の遅延、単なる一つのエピソードじゃなくて、『秒速』のなかでは、物語の要となるようなエピソードなんです。
意味不明自己満SF『雲の向こう、約束の場所』、ジブリを真似た結果盛大にコケた『星を追うこども』。これらも、人物描写は書道半紙なみの薄さです。
『言の葉の庭』も、ストーリーや人物描写の甘さについては微笑せずにはいられません。ユキノ先生がいじめられてる理由とか、いじめてる生徒の描写とか、これ薄っぺらくないと思う人いるの……?
まあ、いるんだと思う。それはそれでいい。私が言いたかったのは、『天気の子』が「薄っぺらい」という理由で批判されるのは不合理だということである。初めっから薄っぺらいし、中二病だし、セカイ系だし、自意識過剰のウィスパーヴォイスがうざいし。そんなこと、分かり切ったことじゃない。それを今更批判したってどうしようもなくない?
というわけで、『天気の子』もただひたすらに薄っぺらいわけです。ストーリーや人物描写の説得力とかには期待したらダメ。リアル中学生でも、もう少し人間に対する洞察力をもった人は五万といる。そのレベルです。主人公はどうやら「神津島」から家出をして「東京」にフェリーでくるわけですが、家出の理由、とくになし。至って普通の家庭で、酷いイジメにあっていたとかでもない。なんとなく嫌だったから、くらいのノリ。いわゆる反抗期? なんとなく盗んだバイクで走りだしたい気分? サリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて(The Catcher in the Rye)』を持っていたけど、まさかサリンジャーに感化されて?(笑) いや、笑いごとじゃなくて、マジで新海はそのレベルでなんとなく家出をさせてOKだと思っている人なんですよ。
じゃあ、なんでそんな薄っぺら新海作品はこれまで評価されてきたのか? とくに『君の名は。』の歴史的ヒットはなんだったのか? 問題はそこにいたる。
第一に挙げなくてはならないのは、美しい背景描写だろう。カメラレンズを強く意識して、超広角レンズや逆光、望遠などが多用される。しかし、実際のカメラではあんなに綺麗に映ることはない。細かいファンタジックな「嘘」がそこかしこに散りばめられている。ありえそうだけどありえない風景。新海が描き続け、そして観客を魅了しているのは、そうした風景にあるんじゃないのか。もっとも、この美しい風景も、セカイ系の、センチメンタルな自意識過剰の、中二病ポエムではないのか、と反問されるだろうが、それについて私は次のように答えるしかない。「いかにも、その通り」
で、そこから「新海誠=童貞」のような公式がでてくるわけだ。「たぶん新海さんは楽しい恋愛を高校時代にしたことがないんじゃないですか」(石田衣良)という言葉が出て来る所以であろうが、これについては一言。たしかに新海誠は自意識過剰の中二病ポエマーであるかもしれないが、全ての童貞が自意識過剰の中二病ポエマーであるわけではないし、またその逆もしかりである。童貞に対して失礼である。石田衣良には猛省を促したい。
さて、『君の名は。』ヒットの理由について語るのは当然のことながら難しい。だが、これを見た人の多くが「東日本大震災」を想起したことは無視できるものではないだろう。『君の名は。』は、良くも悪くも「震災芸術」であり、『君の名は。』の賛否両論の根底にあるのも、「震災をなかったことにしてもいいのか」というこの作品についての疑問から生じているだろう。
『君の名は。』には、カタルシス(浄化作用)がある。瀧君と三葉の恋物語以上に、この映画で「主役」となっているのは「彗星」であり「隕石」である。突拍子もないことのように思われるかもしれないが、これは演出上も疑いを得ないことである。このことについては伊藤弘了という人が「恋する彗星──映画『君の名は。』を「線の主題」で読み解く」という卓抜な評論を書いているので一読を勧めたい(http://ecrito.fever.jp/20170123213636)。
少しだけ説明する。「糸守湖」が出来たのは劇中でも語られるように、1200年前にここに隕石が墜落したことにするものだ。瀧君と三葉は三年の時間差を越えて出会いを果たすわけだが、その奥には1200年という長大な時間を経て、同じ彗星が墜落するわけで、あの惨劇を生み出した隕石は、それ自体、隕石の恋物語でもあったというわけだ。瀧君と三葉の悲恋は、その運命を受けいれて、むしろその「運命そのもの」に同化するような形で、自己を超越した恍惚体験へと昇華する。これが、『君の名は。』のインパクトである。伊藤は言う。
観客は人智をはるかに超えたティアマト彗星の壮大な恋物語のうちに自らの似姿を見出し、同時に自己自身を超越する感覚を疑似体験する。これが本作の記録的大ヒットを支えた一因である。
この伊藤の読みは、それ自身、私も正しいと思う。ちょうど隕石が地球を目がけて猛烈ないきおいで突進してくる際に流れるRADWIMPSの「スパークル」の歌詞をここで引用しておこう。
伸ばそうと届かない 場所で僕ら恋をする
いわゆる「サビ」の部分がはじめて出て来るのは、隕石墜落のシーンなのである。彗星は隕石と化して「いまだかつてないスピードで君のもとへダイブを」するわけである。観客はかくして、瀧君でも三葉でもなく「隕石」に感情移入をすることになる。それによって、運命を超越した運命とでもいうべきものに同一化し、「自己自身を超越した感覚を疑似感覚」させるのが『君の名は。』である。ちなみに言っておくと、これは何も新しい話ではなく、ギリシア悲劇の古典的なパターンであり、「悲劇」の快楽そのものである。この点についてはニーチェの『悲劇の誕生』を参照して欲しい。
要点のみを記す。1200年前に糸守町に落ちた彗星は偶然の産物である。劇中で墜落する彗星の《片割れ》もまた偶然の産物である。その偶然をしかしながら運命的なものにするのが『君の名は。』のドラマである。隕石は、人間の視点からはどうしようもない《偶然的=運命的》なものであり、それが世界に災厄をもたらす。それは《悲劇》である。ニーチェが述べるように、悲劇とは一方では自身が運命に翻弄され自身の非力さを痛切に認識した上で、他方ではそうした小さな自己を超越し運命そのものに一体化する感覚のあるところに《悲劇》の快楽があるのだとすれば、『君の名は。』における悲劇とは、次のようなものである。(A)それは自己の意志の無力と運命の強調という形で行われるのではなく、(B)確かに一方では自己の意志の無力さを痛感させられるが、星の動きはたんに災厄をもたらす運命だけではなく、同時に強烈な人間的な意志でもあるのであって、運命から逃れていく偶然の力として描かれるのである。ここにおいて、まことに《運命=偶然》という奇跡的な場所での物語が描かれるのであって、その強烈さに私たちは感動をするのである。
震災を《運命=偶然=意志=恋》と化すことにより、現実の震災を美的に昇華してしまうのが『君の名は。』である。『君の名は。』は過去にタイムトラベルすることで「震災をなかったこと」にするだけではなく、上に書いたように、情動レベルで震災というトラウマを「昇華」させて、フロイト流にいうならば「喪の作業」を遂行することを促進するのである。「昇華」とは、「忘却」の別名である。
こうしたところが、『君の名は。』の慧眼な人々に批判される所以であるだろう。
だが、どうだろう。《忘れない》ことが一つの倫理であることは疑わないが、《忘れる》ことも一つの生き方として否定されるものではないのではないか。また、《忘れさせる》ことを描いたものが《覚えられる》ということ自体が、完全な忘却からは救うはずだと私は考えるが、いかがだろうか。
──ライトな語り口で始めたのに、全然そうではなくなった。そして、肝心の『天気の子』にまだまだ辿りつけていない。次回、『天気の子』の内容に踏み込んでいきます。
他の人の感想や批評を目にする前に、見たばかりの自分が感じたことを雑に書き留めておく。雑に。
「君の名は」のような複雑な構造をもたない、テンプレ的な物語を新海なりの作画と演出で見せる映画。
新海誠は自分のことを利口に見られたいタイプかと思ったけれどそうでもなかった。
とくにこじらせている感じもすかした感じもしない少年と少女の恋の物語。
不思議な少女に出会う、その少女の不思議な力を使うことで一時の幸せが訪れ2人は惹かれ合う、
本当にどこにでも転がっているような話。
「君の名は」がヒットしすぎて次回作をゆっくり練っている間もなくて
開き直って小細工なしの王道で勝負しようと新海誠が思ったのかどうか知らないが、
クライマックス、再会を果たした少年と少女が2人で空から落ちていくシーンにはけっこうじんと来るものがあった。
どうやって着地するつもりなんだとはらはらもしたがカメラ変わったら廃ビル屋上の鳥居の前にちゃんと戻されていた。
母親が病気で死んだぐらいしかわからない姉と弟の2人暮らしとか、
誰でも好きに侵入できる廃ビルなんか東京のど真ん中にあんのかよとか、
なぜ晴れ女が人柱になったら雨がやむのかだとか、
とくに説明はされないけど、時間がなかったのかやけくそなのか前作で意図したことがちっとも客に伝わってなかったからなのか、
理由はともかく削ってよかったと思う。
公開前に新海が賛否両論になるといったのは、
帆高と陽菜が雨を止ませることよりも自分たちの幸せを選んだことについてだと思うんだけど、
それはべつに賛否を呼ぶようなことでもないような。
世界を敵に回しても僕は君一人を救うことを選ぶ、みたいなのセカイ系でさんざん見てきたんで
「秒速5センチメートル」でも「君の名は」でもない、
童貞力はそのままに批評の余地もあまりなさそうな頭悪いエンタメに走った新海についてという話なら
それは賛否両論あるだろうなとは思うけれど、自分としては楽しめたからよし。
まだ見ていない人もいるだろうから詳細は伏せるが、これまでトイストーリーを見たことがある人もない人も満足できる内容。
後になってネットを見てみるとトイストーリー4、賛否両論あるみたいだ。
でもトイストーリーは1の時から劇場で見ている私にとっては大満足。
周りは子供が多くてちょっと気が引けたが、他にも見ているおじさんがいたので心強かった。
子供は歴史も知らず思い入れもないだろうから、こちらにはアドバンテージはあると言う自負がある。
純粋に作品を楽しんでいれば周りの目は気にしなくても大丈夫みたい。
是非みなさんも映画館へ。
悟空のイメージが強すぎるけれども、客観的に聴くと超お婆ちゃんボイス。
筋骨隆々とした男の声がお婆ちゃんボイスで世間に定着してしまったのって、客観的に考えてみると変な感じだよな。
少年時代の悟空ならあの声でもまだ分かるんだけど、大人時代でもアレだし。
当時のスタッフは、悟空が大人になっても同じ声優を使い続ける判断をしたってわけで、ようやるわホント。
ああ、そういえば。
あっちでは普通に男性が声を当てているし、それを聴いて育ってきた人も多いから違和感が強いんだろう。
上映が終わりそうになっていたので、慌てて品川で観てきた。
まるで海のように苦しかった。
ファンとかステマとかではないんだけど、謎の使命感で書き殴っている。
業界のことは分からないけど、作品に携わったクリエイターの方々がちゃんと報われてるのだろうかと心配になって、映画の途中ですっかり気が散ってしまった。
こんなに話題になってなくても、興行として成立するものなの!?
賛否両論なのも理解できるけど、それにしても話題にならなすぎではなかろうか?(はてブ観測しかしてないけど)
届くべき人には、届いているんだろうか、いらぬ心配。
パンフレットでも、海獣くんフィギュアでも、なんでも買ってやるぞという気持ちだったけど、パンフレットは残り1冊だった。
しばらくは部屋に飾ろう。
原作も買おう。
んーーー!!
んーーー!!
んーーー!!
前の週にランダムに決まった映画を私が自腹で映画館にて鑑賞し、その感想を20分以上に渡って語り下ろすという、友人やゲストであっても忖度しない型映画評論コーナー。それでは、今夜評論する映画はこちら!
『未来のミライ』!
はい。山下達郎さんのこの主題歌、やっぱり沁みますねー。かの名作、アニメ版『時をかける少女』『サマーウォーズ』『おおかみこどもの雨と雪』『バケモノの子』などを手掛けた、言わずと知れたヒットメイカー細田守監督が原作、脚本、監督を務めたアニメーション映画。
これは後ほどの僕の評で触れますけどね、どうも細田監督は脚本を外注するタームに一旦戻した方がよいんじゃないかと僭越ながら思います。というのも、フィルモグラフィを踏まえると、細田さんが脚本に絡めば絡むほど逆にダメさが際立っているのが歴然となるという(笑)。
さて、『未来のミライ』、どんな話かと申しますと、甘えん坊の4歳の男の子くんちゃんは生まれたばかりの妹・ミライちゃんと仲良くできず、両親を困らせてばかり。そんなくんちゃんの前にある日、少女が現れる。声の出演は上白石萌歌さん。『君の名は。』のヒロイン、三葉を演じた上白石萌音さんの妹さんだそうで。これなんかは、僕、勉強不足で申し訳ない。存じ上げませんでした。それと、黒木華さん、麻生久美子さん。スーパースケベタイムこと星野源さんなんかもね、声を当てております。
ということで、この『未来のミライ』、見ましたよ~というリスナーの方から監視報告結果をメールでいただいております。ありがとうございます。メールの量は・・・多め。まあ、そんなもんですかね。注目度は高いでしょうからね。ただ、賛否の比率が今回、賛のメールが3割、否定的なメールが4割、そして普通が3割といった感じで。あらそうですか。まあ賛否両論というか、まあ世間的にも今回は否がちょっと多めな感じですよね。
多かった否定的な意見としては、これなんか僕笑っちゃったんですけど、「未就学児にアナルプラグってどうなんですか(笑)」「クソガキにひたすらむかついた」「リアリティラインがずっと迷子。演出が全て茶番」とかですね。みなさん手厳しいですね。一方褒める意見としては「まさに子育て中の自分にとってはくんちゃんの言動が“子育てあるある”でつい笑ってしまった」、「あの東京駅の造形は素晴らしい」、「全く予定調和ではない、ほとんどカルト映画のような展開に細田守のすごみを感じた」--最後のこれ褒めてるのかな(笑)--といったところがございました。
ということで『未来のミライ』、私もTOHOシネマズ日劇とバルト9で計2回、見てまいりました。正直日劇の方はちょっと寂しい、イマイチの入りだったんですけどね、バルト9の方は、休日ということもあったのか、子供連れのお客さんが多い雰囲気でしたね。おちゃらけたシーンでは子供の笑い声があったりしてね。これ僕意外だったんですけどね。
それで、細田守さんの細かい説明、はもういいかな。もういいですよね?
ニッポンの夏と言えばもう細田作品、となりましたね。春はドラえもん・しんちゃん・コナンくん、そして夏は細田作品というね。改めて振り返るとですね、あの押しも押されぬ名作『時をかける少女』以来、なんとキッチリ3年ごとに細田監督の劇場用新作長編アニメが天下の日テレをバックにつけて全国のシネコンでがんがん流れされるという。この光景は果たしてユートピアなのかそれともディストピアなのか(笑)!・・・といった風情でございますが、“ポスト宮崎駿”という形容が正しいかどうかはひとまず置いておいて、現在の日本アニメーションを代表する監督のお一人であることは間違いございません!一方ですね、これだけ大メジャーになっても、細田さんの作品は、毎回変なんですよ、はい。
日テレがバックにいます、山手線にも全面広告出してます、たくさんの有名どころの芸能人が声あててます、主題歌は山下達郎です、で、騙されちゃいけませんよみなさん(笑)!“変”なんです。これも後で触れますけど、残念ながら悪い意味で、ですけれども。
細田さんなりの意識としてはね、今回はこれを描こう、これがテーマだというものがあると思うんです。そして大出世作『時をかける少女』を除けば、特に細田さんのオリジナル作品には、ドーンと太い幹のテーマとして、「家族」たるもの、そのあり方、に明らかにオブセッションがありますよね。ジャンルも角度も全く違いますが、大枠のテーマ設定自体は是枝裕和監督と共通してる、ともいえます。両者とも相手の作品のことは苦手そうですが(笑)。
そして今回は最もそのテーマがわかりやすく出ているからこそ、これまで周辺の諸々で覆い隠せていたダメさが際立ってしまってるという。
これねえ、細田さんのホント悪い癖だと思うんですけどねえ。実生活を作品に反映させすぎてるんですよ。
もちろんですね、ここは誤解しないでいただきたいんですけど、私も含めてですが、まずリアルの生活があって、日々作品をクリエイトしているわけでございますからそのことを安直かつ一概に悪いというつもりは毛頭ございません!我々の業界でも、それはそれはまあ古今東西のあちこちで「リアル」か「非・リアル」か、ということが作品、ひいてはクリエイターとしての評価軸として語られてきた闘争の歴史があるわけでございます。まあここらへんの話はし出すと切りがないからやめときますが、また別の機会に特集でやれたらなと考えています。
ただね、これ、我々とも共通しているんですけど、決して間違えちゃいけないのは、「リアル」だから偉いんじゃないんですよ。そして「非・リアル」イコールダメじゃないんです。“リアルの生活があってのクリエイト”の裏っ返しとして、作品がウンコなら、いくら本人的にリアルなものであってもダメはダメなんです。まあ当然の話ですけどね。言い換えると、てめえ創作をなめてんじゃねえぞ(笑)!というね。どういうことかというとですね、僕が常日頃から大変尊敬しております、故・藤子・F・不二雄先生のですね、こちらも大傑作『エスパー魔美』にですね、こんなエピソードがあります。大変有名なエピソードなのでご存じの方やこの流れでピンと来た方も多いとは思いますが改めてここで引用させていただきます。
主人公魔美に対し、画家である魔美のパパの絵を酷評した評論家がこう言い放ちます。曰く「芸術は結果だけが問題なのだ。たとえ、飲んだくれて鼻唄まじりにかいた絵でも、傑作は傑作。どんなに心血をそそいでかいても駄作は駄作。」と。さらに、魔美公の「父の絵が駄作だと・・・!?」という問いに対しても、件の評論家曰く「残念だが・・・・・・」と。
「くたばれ評論家」というタイトルの話ですけれども、前後も含めて気になる方は是非全編読んでみてください。文庫版第1巻収録でございます。これ、我々クリエイターにとっては誠におっそろしい、喉元に切っ先をつきつける真実の言葉ですよ。作品内の一エピソードとはいえ、これを自作で評論家に言わせるF先生のすごみってのが改めて感じられますけども。
これを今回のリアル/非リアルの問題に引き直しますとね、こうなります。はいドーン!!
「結局、創作においては作品が全てなのだ。たとえ、童貞くんや処女ちゃんが作るAVでも傑作は傑作。ヤリチン、ビッチがその経験を総動員して作るAVでも駄作は駄作。」
はい、そういうことでね(笑)、まず『未来のミライ』、何が一番ダメか、というと、これ、あちこちのインタビューで細田監督自身がね・・・これホントダサいよなー・・・言い訳がましく語っているところでもありますが、4歳の男の子が主人公なんですね。で、彼の視点で基本話が進んでいくんですけども、監督曰く、同じ4歳でも、女の子じゃなくて男の子がいいという。そんで、監督が女の子と男の子の二児をもった経験をそのまま持ってきているという。
これねえ、頼んでもいないのにてめえで勝手に4歳男児を主人公にしといてね、4歳男児だからね!彼の目線だから!そういう体で!大目に見てよね!って言い訳にしてもクソダサいにもほどがありますよ!細田さん、昔はそんな人じゃなかったでしょ!?
なんでてめえんちの、オチもかわいげもないクソガキのホームビデオを延々と見せてんだ!っていう(笑)。一億万歩譲ってですね、ホームビデオだとしてもいくらでも演出のしようがあるだろ、と。こっちは先週ガチャが当たったおかげでクソガキのホームビデオ鑑賞に1800円の2回、合計3600円自腹で払ってんだぞ(笑)!っていう(笑)。まあ、最後のは僕だけの事情ですけど(笑)。
別にね、幼児を主役にすんな、ホームビデオを劇場で流すな、ってそんな単純な話じゃないんです。北野武監督の『TAKESHIS'』『監督・ばんざい!』『アキレスと亀』のいわゆる芸術3部作ね。僕なんかは敬愛を込めて“偉大なる失敗作群”と呼んでますけど、あれらだってフェリーニの『8 1/2』方式といえばよいんでしょうか、意地悪な言い方すると豪勢なホームビデオっちゃあホームビデオですよね。それでもK.U.F.Uややり方次第で、いくらでも幼児ならでは、ホームビデオならではの特性を生かすことはできるんですよ。
これ、他の幼児キャラと比べるとはっきりわかると思うんですけど、みなさんご存じ“嵐を呼ぶ園児”野原しんのすけ!これはまあちょっと特殊な例ですけど、もう少しリアルよりのちょっぴりわがまま幼児といえば『トトロ』のメイちゃんなんかもそうですね。あと、変化球としては、F先生のオバQだってその言動だけ捉えたら幼児的な異物といえます。
どういうことかと申しますと、もう名前も言いたくないな(笑)、今回のこのクソガキ様の挙動がビタイチ、ホンットビタイチおもしろくもない、かわいらしくもない、ムカツクだけ。“好きくない”?はやんねーしはやらせねーぞ。
要するにですね、このガキ、いや、おガキ様、ほぼ全編に渡って、人間のむき出しの感情や欲望を、アクセル踏みっぱなしで発散しまくる、という非常に独特かつ個性的なキャラクターであらせられ、たてまつられ候なわけなんですね。で、ここを「面白い!かわいい!」と思える大変奇特な方も世の中には一定数いらっしゃると思います、あるいは、残念ながら僕のように「このクソガキ!」っていう風にやっぱり、拒否反応を感じてしまう方もいらっしゃると。これはねえ・・・もうしょうがない!
いや、実はしょうがなくはないんですけど。僕なんかはね、僕は自分の子供もおらず、あと僕自身末っ子なんで弟感、妹感ってのがイマイチわからないですけど。でもね、その人の実生活上の“あるある”なんぞに頼らざるをえない時点で作品としてはその時点で“負け”なわけなんですよ。
どういうことが言いたいかというとですね、先ほどの例であげた『トトロ』のメイちゃんね。これ、宮崎監督さすがだなあと思うんですけど、ダダをこねるシーン、グズるシーン、いずれもひじょーにロジカルに「何故彼女がそういう行動に至ったか」というのが、お父さん、さつきちゃんとの関係性も含めてストンと腑に落ちる作りになっている。しかも説明的なセリフもほとんどなく。
さらに悪いのはですね、クソガキのダダこねに対してお父さん、お母さん--こちら星野源さん・麻生久美子さん自体は好演だったと思いますけど--が突如ですね。表現が過激で申し訳ありませんね。白痴になられる(笑)。要はキャラクターとしての一貫性がないんですよ。
どういうことか。産休明け出勤時のお母さんは目の前に居る4歳児の甘え要請をガン無視(笑)。いやいやいや・・・(笑)。第二子が生まれたときの第一子のフォローって別に特別な知識や経験がなくたって、“人として”ちゃんとやってやんないとヤバいのは直感でわかるでしょう?
そんで、自宅で仕事をしているとはいえ、4歳の幼児と新生児をかかえてワンオペ育児父ちゃんの、千と千尋の父ちゃん母ちゃんにも匹敵するレベルの無慈悲な既読スルー(笑)。『風立ちぬ』の堀越二郎だってもう少し周り見えてたぞ(笑)。マジでこいつらサイコパス夫婦なの?何か目に見えない妖怪的なものに取り憑かれているとかそういうこわい系の話なの、これ?というね(笑)。他の作品でこんなの見たことあります?っていう感じですよね。僕、見たことないです。
あとねえ、僕個人的に一番許せないのがね、劇中、クソガキがミライちゃんにとあるひどいことをします。この“ひどいこと”自体も、「ためにする」展開の脚本でしかないんで、ただただ単に不快なだけなんだけど、その現場を見ていないはずのサイコ母ちゃんが「何で仲良くできないの!仲良くするって言ったでしょ?!」と頭ごなしに怒るんですよね。僕、子供いなくたってわかりますよ、一番やっちゃいけないっしょこれ。これもねえ、怒る前に母ちゃんの些細なイライラエピソードを入れるとか、クソガキが所在ない感じを示唆するとか、怒ってしまった後の後悔の瞬間をちらっといれるとかだけでも相当違うと思うんですよ。もちろん説明セリフじゃなくてですよ?少なくとも映画における省略技法ってこういうことじゃあないと思うんだけどなあ(笑)。
(続く)
Behind the Sheetは「現代産婦人科学の父」と呼ばれ米国医師会長も務めた婦人科医、ジェームズ・マリオン・シムズに関する実話を
基にしたオフ・ブロードウェイの舞台。脚本はシャーリー・エボン・シンプソン。
シムズは出産で膣に穴が開く膀胱腟瘻(フィスチュラ)の治療法を確立した。
しかし、南北戦争前、奴隷貿易の中心地であるアラバマ州モンゴメリーで開業していたシムズは、奴隷のアフリカ系(黒人)女性の体を
治療法の実験に使っていた。近代的な麻酔技術は開発されたばかりで、使われなかった。
http://www.theaterscene.net/plays/offbway-plays/behind-the-sheet/mark-dundas-wood/
https://gigazine.net/news/20180713-absolutely-evil-medical-experiments/