「所与の」を含む日記 RSS

はてなキーワード: 所与のとは

2021-01-17

新卒ときにいた美人同期

新卒で働いた年のこと。

その部署に配属された新卒の同期は2人だった。俺と美女

新人にも業務が回るようになったころ、美人同期は残業しそうになると俺に仕事を頼むようになってきた。

断っていた。

顔で得をしてきた人間が嫌いだったから。

女だから若いうちは同程度に顔がいい男よりも得をしてきただろう。そういう人間が「助けを求めたら喜んで助けてもらえる」ことを所与のものとして生きているのが心底腹立たしい。そういう人間自己肯定感に貢献するわけがないだろ。

何回か断っていたら俺には仕事を頼まなくなった。代わりに、同じ部署の30代の先輩男性仕事を頼んでいた。その先輩がニコニコ手伝っているのを見て、お前みたいなのが美女をつけあがらせるのだとずっと思っていた。こちらには目に見える利益など与えてくれないのに何をしてるんだか。

美人同期の甘え(本人は甘えているとも恵まれているとも思ってないかもしれない)を良く思わない人は俺以外にもいた。

秋には

美人同期・そいつを助ける先輩男性 vs. 俺・40代既婚女性(課長)・30代先輩既婚男性

という図式がなんとなくできていた。

俺の側の2人は俺の思いに共感を示してくれていた。たまに飲みに連れて行ってくれて奢ってもらった。今でも感謝しています

さて、その図式も長くは続かなかった。

美人同期が辞めたのだ。

1年半もしないで、視界に入れるだけで不愉快ものが消えた。そのことは単純にうれしかった。

しかし、あいつは今もどこかできっと、顔の良さで得をしている。

そして、きっと幸せになるだろう。俺とは違う思想の持ち主が助けるから

憎い。

苦しめ。

不幸になれ。

でも死ぬなよ。

解放されるなんて許さない。

苦しめ。

長く苦しめ。

生きて長く苦しみを味わえ。

それでこそトントンというものだろ。

2020-10-29

新卒ときにいた美人同期

新卒で働いた年のこと。

その部署に配属された新卒の同期は2人だった。俺と美女

新人にも業務が回るようになったころ、美人同期は残業しそうになると俺に仕事を頼むようになってきた。

断っていた。

顔で得をしてきた人間が嫌いだったから。

女だから若いうちは同程度に顔がいい男よりも得をしてきただろう。そういう人間が「助けを求めたら喜んで助けてもらえる」ことを所与のものとして生きているのが心底腹立たしい。そういう人間自己肯定感に貢献するわけがないだろ。

何回か断っていたら俺には仕事を頼まなくなった。代わりに、同じ部署の30代の先輩男性仕事を頼んでいた。その先輩がニコニコ手伝っているのを見て、お前みたいなのが美女をつけあがらせるのだとずっと思っていた。こちらには目に見える利益など与えてくれないのに何をしてるんだか。

美人同期の甘え(本人は甘えているとも恵まれているとも思ってないかもしれない)を良く思わない人は俺以外にもいた。

秋には

美人同期・そいつを助ける先輩男性 vs. 俺・40代既婚女性(課長)・30代先輩既婚男性

という図式がなんとなくできていた。

俺の側の2人は俺の思いに共感を示してくれていた。たまに飲みに連れて行ってくれて奢ってもらった。今でも感謝しています

さて、その図式も長くは続かなかった。

美人同期が辞めたのだ。

1年半もしないで、視界に入れるだけで不愉快ものが消えた。そのことは単純にうれしかった。

しかし、あいつは今もどこかできっと、顔の良さで得をしている。

そして、きっと幸せになるだろう。俺とは違う思想の持ち主が助けるから

憎い。

苦しめ。

不幸になれ。

でも死ぬなよ。

解放されるなんて許さない。

苦しめ。

長く苦しめ。

生きて長く苦しみを味わえ。

それでこそトントンというものだろ。

2020-10-11

で、シリコンバレーいくら稼げるのか(Part 6)

承前 : Part-5 https://anond.hatelabo.jp/20201008100556

次回 : Part-7 https://anond.hatelabo.jp/20201014091325

前提

収入詳細: Xさんの例

前回、AmazonL7で行ったXさんの例が出た。実際に彼がどれだけの収入を得たのか、株価がそれにどう影響したか、詳細を見て行こう。

人物特定を避けるため時期や額について多少の変化をつけていることを注意しておく。

彼のTCは$700k。以前のせたlevels.fyiでの数字はSeattle等ほかのworking siteでの数字(1-2割低くなる)も含めた平均であり、かつ彼は交渉をうまくしたのでこうなった。内訳は4年間の平均で、一年毎にサラリー165k、RSU 420k, sign on bonus 115kだ。

これを実際の時系列でみてみるとずいぶん印象が変わってくる。Amazon場合、RSUのvestingが少々特殊であるためだ。

Income\Year Year 1 Year 2 Year 3 Year 4Total
Salary $165k$165k$165k$165k$660k
RSU $84k$252k$672k$672k$1,680k
Bonus $253k$207k00$460k
TC$502k$624k$837k$837k$2,800k

上記のように、AmazonはRSUを3-4年目に集中的にvestする。一年目終了後に5%, 二年目終了後に15%, 以降半年ごとに20%だ。

RSU-heavyなことと相まってこのままだと一,二年目に社員が困窮する可能性がある(特にmortgage!)。そのためsign on bonusを1-2年目に配布する。

最終的な総計は変わらない。四年間で$2.8M、TC一年毎に$700kだ。

Target compensation vs Realized compensation

しかし、彼の実際の収入はそれよりもかなり高かった。Amazon株価が高騰したのだ。

仮に彼が2015年初頭にオファーを受け取ったとしよう。そのオファーレターにはRSU報酬の「金額」は当然書いていない。代わりにRSUの「株数」が書かれている。このRSUの株数は通常、TCとその時点の株価から逆算してTCがその額に「なるように(target)」株数が決められる。((あるいはそのように交渉する、といったほうが正確か。RSUの総配布数は組織ごとに予算決定時にあらかじめ決められ、その枠の中からオファーを出す。これが尽きてオファーを出せなくなることをRSU depletionと呼ぶ。)) 2015年初頭の$AMZNは$312。なので彼は5,400株のRSUをGrantされたことになる。

そして、実際にRSUがvestされ社員が売却した時の総収入株価に影響される。彼の場合、vest直後に売却したと仮定すると、

2016年一月末、2017年一月末、2017年七月末、2018年一月末、2018年七月末、2019年一月末の株価重要となる。

Income\Year Year 1 Year 2 Year 3 Year 4Total
Salary $165k$165k$165k$165k$660k
$AMZN $587$823$988(Jul), $1,451(Jan)$1,777(Jul), $1,718(Jan)
Realized RSU $158k$665k$1,064k, $1,563k$1,914k, $1,850k$7,213k
Bonus $253k$207k00$460k
Realized Comp$576k$1,037k$2,792k$3,929k$8,333k

なんと、彼の実際の収入(Realized compensation)は三倍に膨れ上がったのだ。四年間で$8M以上。

プロ野球選手でもこれだけ稼ぐ人は少ない。これが一技術者しかもまださらに上がいるL7で起こるというのがシリコンバレーの狂っている所だ。

このように、TC議論するときに「オファー時の額」「実際に入った額」を区別してtarget compensation, realized compensationと呼ぶことがある。

通常使うのはtarget compensationである。少なくとも自分の周りでは。未来のことは誰にもわからないのだから複数からオファーを比べるためにTCを導出するときはその時点の株価を使うしかない。

Crystal ball

しかし、世の中にはそう考えない人もいる。自分がある企業からオファーを受けたとき、対面交渉の段階でそのhiring managerがこう言い始めた。

「確かにうちのオファーはあちらの企業よりもTCが低いね、でもexpected stock appreciationのことを考えてみよう.」

自分は少し戸惑った。彼がStock Appreciation Right (SAR, ストックオプションのようなもの)のことを言っていると思ったのだ。

RSUに加えてSARを配布するのか?聞いたことがない。

「うちはRSUが多いから、うちの株価が今後四年間、年間 Y%で上がっていくと仮定すると君のrealized compensationは...」

といって目の前で電卓アプリをたたき始めた。なんと、この人は株価の将来のappreciationが分かるというのだ! しかもY%はその時のNASDAQ compositeの平均成長率よりもかなり高い数字だった。Stonks only go upとでも言うのか、このGen-Zめ!

上場企業株価が今後どうなるか、確実にわかるはずがない。わかるならば仕事などせず株取引だけで暮らしていける。

自分はその人の交渉手法危険だと感じた。自分が同じことをしようとは思わない。その言葉につられて応募者が入社した後に株価が下落したらどうするのだ。

訴訟はいかないまでも、その社員HRやLegalに苦情を持ち込んだとしたら。

オファーレター等、証拠が残るところに一切そんな言葉がなくても、複数社員が同様の苦情を入れたら、HR自分を守ってくれる自信はない。

定期的に行われる、たるいクリック連打訓練は社員教育のためではなく、不祥事の際に全責任社員におしつけるためのものだ。

Legalは自分のterminate letterを発行するのに微塵の躊躇もないだろう。それこそseveranceがもらえるかさえもわからない。

自分はそのhiring managerに不信感を抱き、最終的には他のところに行った。

Concluding remark

自分は他の人に転職の助言をする際、株価の下落リスクを考えるように強調している。

Tech株が近年好調であるのは確かだが、一寸先は闇であるIBMを見よ、一昔前のMSFTを見よ。

株価が上昇することを前提に将来を決めるのは非常に危険だ。実際、IBM2010年ごろに移った知人は後悔しきりであった。

さて、自分オファーを断ったその企業であるが、その後、Y%を遥かに超える株価成長を続け、自分の心を削った。

所与の状況で自分が間違った選択をしたとは思っていないが、それでも時折そのオファーレターを見返すことがある。

シリコンバレーではよくある話であるGoogleの早期社員になりえたひと、FBの早期社員であったかもしれない人、

そういう人はたくさんいるが、別に彼らが不幸そうには見えない。彼らにその時のオファーレターについて聞くと、

みな同様に時折見直す、という。人生大事選択をするまえに、来し方を見返し、自分の心が均衡を保っているか

何があっても後悔をしない心構えができているか自分人生は何のためにあるのか、心をはせるツールである

これは、シリコンバレーにおける般若心経なのだ

次回はRSU Refresherについて。

2020-10-05

anond:20201005091600

メンヘラ女は彼氏や夫を作れるが、メンヘラ男は難しい。

金は能力がないと稼げない。

少なくともほとんどの男性所与のものとして与えられているわけではない。

女性器は女性に生まれてくれば原則としてついてくる。

金目当ての女を抱ける男は金があるやつだけ。

体目当ての男はいくらでも釣れる。

難易度全然違う。

2020-09-18

anond:20200917183131

なるべく客観的かつ論理が通るようにコメントします。

所与の前提

航空会社運行に支障を来す行動をとった者を強制退場させることを規約規定している

個別のケースにおける論理

マスクをしないから降ろす

→これは演繹できない

マスクをしないことを論拠に、運行に支障を来す行動をとる。

 運行に支障を来す行動をとったから降ろす

→降ろすことができる

黒人から降ろす

→これは演繹できない

黒人差別されたことを論拠に、運行に支障を来す行動をとる。

 運行に支障を来す行動をとったから降ろす

→降ろすことができる

これは所与の前提を共有しないと議論できない。

マスクのせいじゃない」と言っている人は、この所与の前提を共有しているものとしてしまって話している。

マスク関係あるよね?」と言っている人は、この所与の前提を飲み込めていないor所与の前提に疑義がある。

→たとえば、「運行に支障を来す」の中に「マスクをしない」が含まれていると思い込むなどは論理的には明白に誤謬

黒人差別だろうがなんだろうが、この前提が事前に共有されれば問題にならない。

黒人差別はいけない、マスクはすべき、とかいコンセンサス問題でもなんでもなく論理的に所与の前提が一致しないと議論にならない。

運行に支障を来す」が暴言暴力として別途規定されていて、この手の議論をするなら本来はそっちの内容まで前提を共有するべき。その上で、「暴言膀胱があったかからいから善し悪しを判断できないよね?」という議論はできる。

2020-09-13

anond:20200912181523

批評評論研究社会運動悪魔合体した結果かなあ、と思ってる。

批評評論、あるいは研究領域では、「俺がジャッジだ」でいいんだよね。「この作品にはこれこれこういう問題がある」というのを、あくま個人批評評論研究として、審美的基準から行う分にはなんの問題もない。

からオタク同士の会話で「今となってはあの描写古いよねえ……」みたいにつぶやく分には、何も問題にされないんだよな。新聞書評欄とか、あるいは「気鋭の学者によるラノベレビュー○○選!」みたいな場だったら、「ちょっと性差別なのはどうかと思うんだけどー」みたいなこと言っても別に問題にならないでしょ。

レビューとか評論というのは多少厳しいことを書いてもなんならボロクソにこき下ろしたりしても問題ない、なぜならそれは個別の作者による個々の作品批判であって特に実際の権力のあるものではなく、「文芸」とか「ラノベ」とか「オタク界」とか、とにかくそういうおおもとの土台となる文化とかジャンルとかを揺るがすものではないからだ。むしろその内部で行われるものだ。

でも、そこに「社会運動」の視点が入ってきちゃうと話は違う。

社会運動物事に変革を、場合によっては廃絶を要求する。社会運動は外部から内部を揺るがそうとする。社会運動は美しさよりも正しさを重視する。そして社会運動ジャッジには権力が伴う。評論レビューによるジャッジと違って。

昨今の表現規制をめぐる問題で、表現に口を出す側が「自分オタクである」「オタクだって嫌いなアニメdisったりしてるのに、なんで私のdisが認められないんだ」と主張することがある。本人はおそらく大真面目にそう考えているんだろう。でも答えは自明だ。

そりゃ、あんたの主張が「社会運動」の文法コードに則って発せられているからだ。

評論レビューコードなら、どれだけ作品disろうがよほどトンチンカンdisでない限り別に文句は言われない。その作品を好きなやつとバトったりする羽目にはなるかもしれないが、それもしょせんはオタクコミュニティの内輪もめにしかならない。なぜなら評論レビューは、ジャンル文化の内部で、その存在所与のものとして行われるものからだ。

でも、社会運動コード作品disったら、それはその作品だけじゃなくジャンル全体への攻撃にもなりうる。社会運動文化ジャンルの存続に関心がない。なんなら滅びても構わないとさえ思っているだろう。社会運動は正しさを最優先する。これ自体別に悪いことじゃない。でも「正しくない」という理由で切り捨てられそうな側に身を置いてみれば、不倶戴天の敵としか思えない。

本当に社会運動をやっているという意識の人は、別にあんたらから不倶戴天の敵と思われても気にしませんと堂々としているだろう。宇崎ちゃんバッシングに火をつけた某弁護士なんかはそのへん潔いというか、自分オタクコミュニティから敵視されてもいっこうに構わん、あいつらは私の敵だ、とでもいうような態度で、敵ながら天晴だった(いや、最終的には打倒すべき敵なんだけど)。

でも、社会運動コードに則って物申しておきながら、ジャンル愛好者に敵視されると「自分オタクですよ」と言い訳をしようとする人がいて、それは申し訳ないけど見苦しい敵にしか見えない。キズナアイバッシングの先頭に立った某社会学者なんかはその類だろう。お前さっきまで運動家の顔してたやんけ!

特にフェミニズム関係燃えやす理由もそこにあると思っていて、あのへん、評論運動境界あんまりないというかシームレスな界隈だという印象を受ける。つまりフェミニストと名乗る人たちには評論家として文学作品ジェンダー視点から解釈しますという人から戦闘的にデモやら抗議行動やらを繰り広げて社会を変えていこうとする人まで幅広い人がいて、その人たちがフェミニズムという同じ旗の下に集っており同じ理念を奉じていて相互に行き来しているので、境目が曖昧になりやすい。

なので、評論のつもりで社会運動的な物言いをしちゃう人が出たり、評論を発しただけのつもりが社会運動に発展しちゃったりする。本人からすれば、自分評論をしただけのつもりなのにどうして? と思っていることだろう。いや、だからあなたあなたの周囲が社会運動の人ばっかりだったら、あなた評論社会運動の一環にしか見えないんだよ!

オタク同士で「宇崎ちゃん巨乳描写は好きじゃないんだよな」「銀英伝もっと女の提督がいてもよくない?」と語らうことと、社会運動として献血ルームに抗議のお電話したり「描写を改変すべきだ」と主張することは社会的には別の意味を持つのであり、そこの社会的な場のコードみたいなやつを読み解き理解することが必要だよなと思うのです。

2020-09-02

anond:20200902114405

たまたま今の時代では違うという価値観が広まる傾向にある、というだけなのに

「違う」ことが所与の前提であるかのような詭弁を弄する方がよっぽど卑怯だぞ

2020-07-23

自粛中の都民の4連休、積み残した仕事を午前中にちょっとやって一休みしている。

コロナ以降は夫婦ともに在宅率が一気に高まったので、家で料理を作って食べるようになった。料理は好きだし通勤しないで済む分の余裕があるから苦にもならない。

考え事が仕事の大半、というか企画職なので、送られてくる所与の資料を読みふけり調べ物をしうーんうーん、うーんと煮詰まったりしながら資料を作り、リモート会議プレゼンしたりする。最初のうちは化粧した方がいいだろうか、ビジネスぽい恰好をした方がいいのだろうかなどとと思ったがこちらも先方もだんだん緩くなり、家にいるとき服装会議をしている。さすがにタンクトップとかではないが、Tシャツ全然ありであるプレゼンしたもののピント外れで画面に並ぶ顔たちからつぎつぎにダメ出しをされたりすることもしょっちゅうなので、冷や汗もすぐ乾くTシャツでもいいぐらいだ。

我が家には子ができなかった。そのせいもあってリモート仕事環境はかなり良いのだろうと思う。マンションの部屋からは割といい風景が見える。手が止まったらベランダに出て少しボケっとしたりしている。古いマンションだが窓から風景が気に入って買った。寝室の他にもう一部屋あったのでそちらを夫用の部屋にして、私はダイニングテーブル占拠している。リモート会議の内容は当然家族にも守秘なので、私が会議中は夫はリビングには入れないし逆もしかである。共用スペースを私が占拠すると夫はイヤなのではないかと思ったが、特に不都合はないか大丈夫だというので良かった。夫のリモート会議の声が個室から漏れ聞こえてくることがある。何を話しているかは分からないが気配は感じて、仕事中の夫…ふふふ、とほくそ笑む。こちらがダイニングテーブル猫背になって酷い顔をして煮詰まっているところに、夫がコーヒーを淹れに来るときがある。コーヒーがいいにおいで気づいて顔を上げると私の分のコーヒーテーブルにおいてくれる時もある。そうじゃない時もある笑、紅茶淹れるけど飲む?と声をかけて二人でちょっと休憩する時もある。

ダイニングテーブル仕事をする良いことの一つは、食事の支度だ。食事まわりは以前から主に私の分担なので、ダイニングで仕事をしながら、煮詰まったら手を洗って晩ごはんちょっとした下ごしらえをしたりしている。しょっちゅう煮詰まるおかげで凝った晩ごはんが増えたように思う。正月でもないのに黒豆を煮込んだりしている。だし巻き卵とか(だしを引いたら冷えるまで待つ、みたいなほんの少しの手間が、出勤上等な日々ではなかなか面倒になっていた。タブレット資料を読みながら煮魚の上に煮汁をかけたりしている。煮汁をさんざん浴びせられてツヤツヤになったカレイ煮物が我ながら旨かった。ダイニングを私が占拠したことで、ごはんリビングテーブルで食べよう、ということになった。それも宴会みたいで何か楽しい宴会料理ではなく粗食だが。

夫は良い椅子を買うと言ってデカビジネスチェアを買っていた。下に敷くものを合わせて買っていて、さすが夫ナイス!と思った。私はダイニングの椅子テーブルで割と快適に仕事をしている。おたがい、残業(というのかな?)で遅い時間まで仕事をしている時もあるのだが、寝室を仕事部屋にせずに済んだのは一番幸いだったと思う。

リモート会議ももうかなり慣れてきて、今はお子さんがいる相手方が話している時にかわいらしい声が入ってくるのにデレたり、先方の旦那さんのデカくしゃみが入り込んでくるのに笑いが止まらなくなったりしている。やはり在宅だと静かで外部環境の変化が少ないので、小さいことがツボって笑いが止まらなくなったりする。

自分取引先だと、会議映像をoffにして、実質複数電話状態で打合せをすることが増えている。社内会議ではすでに回線の安定確保のために映像要らんとなっている。でも実は、野次馬根性もあって背景に映りこんでいるものに興味津々なのでこの風潮はほんの少し残念でもある。一方で、先方が年配の方だったりすると顔が見えないのが不安になるようなので、映像onでやる。私はダイニングテーブル会議中なので背景はリビングダイニングの壁全面に作り付けてもらった本棚が映る。素敵な画集や素敵な装丁文学の間にオシャレなインテリア雑貨などが美しく並んでいればいいのだろうが、大半は仕事関係の本が雑然とそしてギュウギュウに縦・横に詰まっている。web映像でどんな本が置いてあるかまでは分からないだろうが、仕事の本に混じってお笑い男の星座とかも入ってるからバレたら恥ずかしいな。

2020-07-06

anond:20200706204744

煽られる側にも原因があるという発想になる時点で予備軍だぞ。

トロトロ走る車や逆にせかせかしすぎる車がいたとしても、正常な精神の人は交通安全遵守の精神のもと、ゆとりある対応ができる。

そして至らないドライバーというのはある程度いるもので、そういう前提を所与のものと捉えられず、遭遇するや否や勝手にキレ散らかす側の方に常に問題があるんだよ。

2020-05-04

いくらか気が利いている感じのTwitterアカウントWeb漫画を紹介してた

そのアカウント曰く、『異常な女と異常な男が出てくる』という触れ込みだった

実際に読んでみたら、とある人気配信者の男(イケメンだしちょっとかわいい感じ)に認知されようと狂う女と、配信ではちょっとかわいい感じを出しておきながら実際は女癖の悪い配信者男、といった漫画だった

……女の方はたしかに狂っているけど男はそんなに異常か?

というのがそっちょくな感想

だって、単にその男はあらゆる男が備えているような性欲を備えていて、それに準じた行動をしているだけだったから、なにが異常なのかはわからなかった

まあしかし、男の性欲を所与のものとして理解していない人間がいることはわかった(当該の、気が利いていて聡いようなアカウントがそれであることには少しの驚きがあった)

ぬいぐるみペニス現象の一端を垣間見た気がする

2020-04-30

【檄】彼らに罰を与えよ

国家権力の最大の仕事ひとつは再分配、わたしたちから集めた税金をどのように使うのか予算を決め執行することだ。そしてその仕事こそは、彼らの力の源泉でもある。

平時であれば、これほど多様化された社会である、それぞれの立場環境により何を優先すべきは変わる。わたしたちの利害は対立する。彼らはそれを調整する。

しかし、今は平時ではない。国難であり、非常のときであるウイルスは、病は、死は、イデオロギー世代階級党派を超え、等しく襲い掛かる。感染症の前にわたしたち平等であるわたしたちが、いま、優先すべきものはただひとつだ。

政権が、この状況で決めた補正予算案に含まれものが下記である。各省庁・利益団体既得権益層がいか予算を奪い合ったか、よくわかる。これが、10万円給付などと抱き合わせされ、ほぼ無審議で国会を通過する。

https://www.tokyo-np.co.jp/article/politics/list/202004/CK2020042502000145.html

経済産業省「Go To キャンペーン」 一兆六千七百九十四億円

内閣府離島来訪促進事業」五・六億円

国土交通省訪日回復プロモーション」九十六億円

これがこの国の権力仕事である

これがわたしたちが選んだ政権である

むろん、選挙は、より良いものを選ぶためには機能していない。

わたしたちは残念ながら自らより優れたものを選べるほど賢くはない。

しかし、わたしたちは彼らに罰を与えることは、出来る。

革命のような時間コストをかけなくていい。選挙制度はそのためにある。

彼らを落選させればいい。落選させると言えばいい。

彼らの権力は、所与のものではない。わたしたち主権者が、彼らに与えたものだ。

与えたものは奪うことが出来る。

無能な、冷淡な、そして強欲な彼らに、罰を与えることが出来る。

わたしたちは、彼らを選び直すことを通して、偏狭官僚システムにも罰を与えることが出来る。

彼らがむさぼろうとしているその金を、

ワクチン治療薬の開発のために

医療従事者を守るために

依然として増えることのない検査拡充のために

苦しむ人々の今日食事のために!明日家賃のために

わたしたち健康財産のために

使おう。

彼らに罰を与えよう。そして変えるのだ。

2020-01-23

あ、最初に言っとくと、この文章別に結論ないです。ポエムです。

深夜のタイムラインで、旧知(というほどでもないが)の人とやりとりをしていて、ふと思った。どうやらその人いわくいまは「過渡期」であるらしい。

ま、確かにそうだ。

いい年したおっさんなので、もう20年くらいインターネットにいる。ということは、インターネットが「俺たちの隠れ家」だった時代から、だれにでもアクセスできるようになった2020年まで、その全期間をインターネットで過ごしているということでもある。

その過程では、ミクシみたいな場所に引きこもっていたこともあり、そこそこ名が売れていたときもありで、まあいろいろあった。

昔より、インターネットでなんか書くことに自由がなくなったとその人は言う。まあこれも自分の実感とよく合致する。主に「自分の書いたものがどこまで届くか」という制御という面において。これが制御できないのがなかなかに厳しい。ま、ゾーニング? そのへん含めて過渡期なのかもしんないですけど。

で、自分なんかは、そのほとんどの期間において、一線で書き続けてる人を何人か知ってるわけなんだけど、書き手のほうも状況に対応することをしなきゃいけない。いやおうなしに戦略的じゃなきゃその立場は維持できない。それができてる人ってすごいと思うんですよね。自分はできなかっただけに。

対応ってのは、そのどこかに迎合という語義も含みうるものだとは思うんですが、由来、文章書くのなんてだるいことなんですよね。それをわざわざするからには、なにか叫びたいことがあって、それを文章にしなきゃならない。これ大変なことです。ましてブログなんて看板背負ってたら。迎合なんてするくらいなら、最初からそんなめんどくさいことしてねえですよっていう。

ブコメ見ててよく思うんですよね。意見が違うのはもちろんかまわない、なんらかの理由思考の枠が違ってて合意のしようもない。それもかまわない。けれど、わざわざ看板背負って言挙げしたそのそもそもモチベーションを相対化するようなブコメはかなり苦手。みんながみんなそうとは言いませんけど、たとえハンドルネームだろうがなんだろうが、それを背負って書くからには「ほかならぬ俺は」こう思ったのだ、聞いてほしい、だれかに届いてほしい、という初期衝動があるんですよ。そこを相対化すんなよ、対等の熱量で殴りかかれよ。そんなことをよく思う。

けど同時に、そんなめんどくせえことする人もそうそういないよな、とも思う。

増田なんですけど、あれホッテントリに上がってくるようなやつって、たいていなんらかの意味ではおもしろい。それはある意味とうぜんで、どんな人にでも書かれるべき瞬間、これだけは伝えておきたいということ、まあそんなようなものをひっくるめて「輝き」みたいなものはあると思うんですよね。これかならずしも肯定的意味だけではなくて、無駄な輝きは共有されない。日常を脅かす脅威でもありますから。だから、書かれる。とてもおもしろい。

不断に「書かれるべきこと」を抱えているのって、ある意味では病人といってもいい。そこまでおまえは考えるのか。そこまでして伝えたいことがあるのか。それだけ書いても、まだ足りないのか。そして、そうして書かれたエントリに「いや、俺はこうだ」と殴りかかるのもまたそれ相応の熱量を抱えた病人ということがいえるかもしれない。

「俺が」というのは、ある意味自己顕示欲のものなんですけど「ほかならぬ俺は、こう思うのだ」というのは、自己顕示欲とは少し違うものだと思う。なにが違うのかはうまくいえないんですけど……。

ま、どっちにしろ看板背負ってるのはリスクなんですよね。これもう先行者利潤というしかないんですけど、昔から書いてる人は、その身振りを学ぶ機会ってのがどこかであった。いまの時代看板背負って書くのは、最初から大衆」とやらを相手に立ち上がるってことで、それをトレーニングなしにできる人なんてそうそういない。増田トレーニング場になるのかなとも思うんだけど、それもまたちょっと違うような感じがある。

なんにせよ、個人ブログの「おもしろい部分」ってのが、かなりの割合増田に持ってかれてるのは確実だと思うんですけども。

でもまあ、見たくはあるんだよなあ。バックボーンのはっきりした任意のだれかと、別のだれかが議論したりとかそういう光景。「あの人」と「あの人」だからこそ見えてくるものがあるというか。

別に昔はよかったとかそんな話じゃないんですよ。自分が「ちょっとなあ」と思う現状は、だれかにとっては所与の環境であり、そしてその環境からしか出てこない新しいものというのがあって、自分にとってはそれを見るのが最大の娯楽だったりするので。新しいものはたいていおもしろいじゃないですか。

ただまー、書き手としては「テーマ見出しにくい」時代にはなったとは思いますね。いや、自分なんも書いてないですけど。「俺が死ぬほど考えているこのことについて、不特定のだれかが、同じだけの熱量理解してくれて、そのうえで別の道を示してくれ」みたいな願いは、とてもかなえづらい時代になったなーとは思う。一人で考えるのは、わりと孤独で、しか効率がよくない。

まあ自分読み手としては、んなこと知ったこっちゃないんですけどね。今季も大量のアニメあるし。

でも、ひとたびテキストエディタを立ち上げたときに、ひょっとしたらそこには、空に向かって鉄砲放つような、一抹のさびしさがあるんじゃないか、そんなことを想像したりもします。

2019-12-22

個人情報保護委員会も、公取委に言ってくれ……これ位。

公取委個人情報保護委員会とは別にオンラインサービス規制提案して、「サービスの対価として自らに関連するデータ提供する消費者」とか言い出してるけど、EUでも似たようなことが起きてたらしい。

欧州委員会オンラインサービス規制のための新しい指令を起草して、そこで「消費者サービスの対価を個人データで支払う……」とか書いてしまった。これに対し、欧州データ保護監督機関が「何すんじゃワレェ!」したのが以下の見解である

EDPS Opinion 4/2017

https://edps.europa.eu/sites/edp/files/publication/17-03-14_opinion_digital_content_en.pdf

EDPSはデータ駆動経済について、EUの成長のために重要であること、デジタル単一市場戦略として唱道されるデジタル環境において抜きんでていることを認めております消費者法とデータ保護法とが共同し相補しあう関係にあることは私たちが一貫して論じてきたところであります。ですから、「デジタル商品」の提供を受ける条件としてデータ差し出すことを要求される消費者保護を強化するために、デジタルコンテンツ供給にかかる契約に関する特有の側面にかかる2015年12月の委員会指令プロポーザル意図しているところを、私たちは支持しております

しかしながら、この指令のある側面は問題はらものです。というのも、これが適用可能なのはデジタルコンテンツのために価額が支払われる場合だけではなく、デジタルコンテンツ金銭以外の個人データその他何らかのデータの形での反対給付と引き換えに供給される場合にも適用可能からです。EDPSは、人々が金銭を支払うのと同じように自分達のデータを支払えるという考え方を導入するような規定を新たに定めることのないよう警告いたします。個人データ保護を受ける権利のような基本権は、単なる消費者利益に縮められるものではありませんし、単なるお値打ち品のように個人データを捉えることはできません。

最近採択されたデータ保護フレームワーク(以下「GDPR」といいます)は、未だ完全には適用可能でなく、新しい e-Privacy 制度は今も審議中でございます。ですからEUとしては、立法者が協議されている入念なバランスをひっくり返すようなプロポーザルは、何であれ避けるべきものです。イニシアティブの重複は、デジタル単一市場統一性意図せずとも損ない、規制断片化と法的不確実性をもたらすことになりかねません。デジタル経済における個人データ使用規制する措置として、EUGDPR適用することをEDPSは推奨いたします。

「反対給付としてのデータ」という概念……このプロポーザルでは未定義のままです……は、所与のトランザクションにおけるデータの正しい機能について混乱を引き起こす恐れがございます。この点で供給から明瞭な情報がないため、さらに難しいことになるでしょう。それゆえ私たちは、この問題解決する一助として、EU競争法におけるサービス定義を一考することをお勧めしますが、その地域範囲定義するうえでGDPRの用いている規定が役立つかもしれません。

見解では、このプロポーザルGDPRとどのように影響し合うことになりうるか検証いたします。

第一に、データ保護制度に基づく「個人データ」の定義が広範であるため、その効果により、この提案指令の対象となるデータが全て GDPRに基づく「個人データ」とみなされることは十分にありえます

第二に、(個人データの)取扱いが発生する厳密な条件はGDPR指定済みであり、この提案指令に基づく修正や追加を必要としておりません。このプロポーザルは反対給付としてデータを用いることを正当とみなしているようですが、GDPRでは、例えば、(本人の)同意有効性を検査し、デジタル取引文脈において(同意が)自由意思に基づくとみなしうるか決定するための、新たな条件を一式用意してございます

最後に、消費者に与えるものとして提案されている契約終了時に供給からデータを取得する権利供給者がデータ使用を控える義務は、GDPRに基づくアクセス及びポータビリティ権やデータコントローラデータ使用を控える義務オーバーラップしている可能性があります。このことで、適用する制度について意図しない混乱をもたらすことになりえます

EDPS Opinion 8/2018

https://edps.europa.eu/sites/edp/files/publication/18-10-05_opinion_consumer_law_en.pdf

見解は、EU消費者保護規則のより良い執行近代化に関する指令のプロポーザルと、消費者集団的利益保護のための代表訴訟に関する指令のプロポーザルからなる「消費者のための新しい取引」と題する立法パッケージに関するEDPSの立ち位置を概説しています

EDPSは、目標において最近近代化されたデータ保護フレームワークと密接した領域で、既存規則近代化しようという同委員会意図を歓迎します。EDPSは、個人データの大規模な収集収益化、およびターゲットコンテンツを介した人々の注意の操作依存するデジタルサービスの主要なビジネスモデルが提す課題対応するために、現在消費者法におけるギャップを埋める必要性を認識しています。 これは、消費者法を改善して、個人デジタル市場の強力な企業との間で拡大している不均衡と不公平是正する、またとない機会です。

特にEDPSは、指令2011/83 / EU範囲を拡大して、金銭的な価格にて提供されないサービスを受ける消費者が、同指令が提供する保護フレームワーク恩恵を受けることができるようにする意図を支持いたしますが、それはこのようなサービス今日経済的な現実ニーズを反映しているからです。

このプロポーザルでは、EDPS Opinion 4/2017の推奨事項を考慮して、「反対給付」という用語使用や、消費者によるデジタルコンテンツサプライヤーへのデータ提供が「積極的」か「受動的」か区別することを控えています。ただしEDPSは、プロポーザルで想定されている新しい定義により、消費者お金で支払うのではなく、個人データで「支払う」ことができるデジタルコンテンツまたはデジタルサービス提供に関する契約概念が導入されることに懸念を示しています。この新しいアプローチは、「反対給付」という用語使用したり、個人データ提供価格の支払いを類推したりすることで生ずる問題解決していません。特に、このアプローチは、個人データを単なる経済資産とみなしているために、データ保護の基本権としての性格を十分に考慮していないものとなっています

GDPRでは既に、デジタル環境にて個人データの処理が行われ得る状況に関するバランスを既に定めています。 このプロポーザルで、GDPRで定める個人データを完全に保護するとのEUコミットメント矛盾するやり方で解釈される可能性のあるアプローチを促すようなことは避けるべきです。データ保護法の原則を損なう危険を冒すことなく幅広い消費者保護提供するために、電子商取引指令における「サービス」の広範な定義や、GDPR地域範囲定義する規定、もしくデジタルコンテンツプロポーザルに関する理事会一般アプローチの第3条(1)などに基づくアプローチ代替することが考えられます

したがいまして、EDPSは、「有形媒体では提供されないデジタルコンテンツ供給に関する契約」や「デジタルサービス契約」の定義にて個人データを参照することを何であれ控えていただくことを推奨し、その代わりとして、次のような契約の考え方に依拠することを提案します。 それは、「消費者への支払いが必要かどうかに関係なく」特定デジタルコンテンツまたはデジタルサービスを売り手が消費者提供または提供することを約束するというものです。

その後

きちんと追えていないが、「EU消費者保護規則のより良い執行近代化に関する指令」は、昨月末に採択されたようで、前文に「digital services provided in exchange for personal data」という表現が残ったものの、個人データについては「GDPRに従う」とのことで落ち着いた様である

https://eur-lex.europa.eu/eli/dir/2019/2161/oj

2019-11-14

京大博論を元にした本が東大紀要書評フルボッコされてる件2

(長く書きすぎたみたいだ。途中で切れてしまった。。。)

京大STAP細胞はありま~す?」

もう終わりにしよう。書評批判が当たっているなら、こういうことだ。超大物教員指導の元、こんな博士論文が書かれ、専門家達が「厳正な」審査をし、超一流の博士号が授与され、それをテコに大学で職を得た人がいる。これがわかったのは、本が出版されたおかげだ。ちなみにこの本、名もない出版からではなく、京都大学出版会が出している。もちろん、本の出版は著者が勝手にできることではない。本の最後に超大物元指導教員が「解題」を寄せているから、知らなかったはずはない。解題を見てみたところ、基本的にほめていて、特に批判らしい批判はなかった。実はその解題、公開されている博士論文審査結果の要旨とほとんど同じ。

https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/199376/1/ynink00705.pdf

審査結果からもいくつか引用しておこう。

論文は、個別言語における認知メカニズムの解明によって言語固有の形式文法カテゴリ創発する根源的理由説明を試みた意欲的研究であり、認知言語類型論という新たな研究分野の基礎を示した先駆的研究として評価することができる。

論文日本語文法事象を中心に扱っており、その記述分析の面においても、射程の広さと事例観察の綿密さが評価される。分析対象として、格、時制、主語目的語自動詞他動詞、態、形容詞といった広範な現象を横断的に扱い、本論文の主張する日本語の「主体化による認知モード」によって一貫した説明が試みられており、それらがいずれも西欧パラダイムによる言語研究標準的使用されてきた文法概念と完全な対応関係を結ばないことが、説得力をもって示されている。

日本語学で所与のものとして適用されてきた「動詞の自他」や「態」といった文法概念のものの再検討を迫るという点で、本論文日本語研究にも一定の貢献をなすものである。また、本論文日本語における文法カテゴリや語彙の変容にも照準を合わせたものであるが、その主張は単なる理論憶測ではなく、万葉集源氏物語などの主要な古典作品をはじめとする膨大な歴史的資料に基づいたものであり、言語研究において不可欠である言語データの観察の綿密さについても高く評価することができる。

論文共時的言語事例と通時的言語事例とを並行的に分析し、日本語言語現象全般個別現象の解明を目指した統合研究であり、認知言語類型論という新たな研究視点提供している点で、学術価値は高いと判断される。

よって、本論文博士人間環境学)の学位論文として価値あるものと認める。

また、平成26年11月26日論文内容とそれに関連した事項について試問を行った結果、合格と認めた。

まさにお墨付きだ。

最後ちょっと真面目な話。『認知言語類型原理』の問題は、この書評で間違いだと明らかになったことじゃない。学問は古い学説踏み台にして進んでいく。今の定説もいつかは否定され、乗り越えられていくかもしれない。だから、間違いを含んでいるとわかったこ自体問題じゃない。それまでの研究に新たな知見を付け加えたのなら、たとえ間違いを含んでいても価値ある研究だ。ダメなのは、従来の研究に何ら新しい知見を付け加えず、最初から間違いだとわかる研究だ。『認知言語類型原理』はまさにそのような本だと批判されている。もちろん、出版された本に対してそのような批判をする権利は誰にでもある。たとえ批判が当たっていなくても、ある。自由批判ができることは、学問の発展に不可欠だ。書評子が批判したことで将来不利益を被ることがあってはならない。

それにしても、どうして『認知言語類型原理』は『日本語主語はいらない』みたいに多くの言語学者から批判されていないんだ? 『日本語主語はいらない』は大手出版から一般向けに出たのに対して、『認知言語類型原理』は学術専門出版から専門書として出たからか? それにしたって、専門書でも専門家なら読むだろうし、なんならもっと真剣に読むだろう。他に書評は出てないのかとCiNii https://ci.nii.ac.jp/ で『認知言語類型原理』を検索したけど、ないみたいだ。もしかして京大とか超大物研究者とかの権威に怯んでるのか? 文系学問がそんな腐敗した世界なら、世間から不要とされるのも無理はない。この腐敗した世界に堕とされても、くだらないことでビビることなく「王様は裸じゃないか! 裸の王様、何を学んだの?」と喝破した書評子には拍手喝采を送りたい。だけど、こんなものを書くために生まれたんじゃないだろ…。

京大博論を元にした本が東大紀要書評フルボッコされてる件

日本大学特に文系学問に対する風当たりが厳しい昨今、文系学者達は自分たち存在意義を示そうと必死だ。大学で行われている文系研究は、どう役に立つかはともかく、それ自体研究としてちゃんとしたものなんだ!ということは前提となっているし、みんなそう信じている。文系先生達は決してSTAP細胞のようなデタラメをやっているのではないと。

だが、それは本当か? 証拠はあるのか? 最先端研究専門家でさえ評価が難しい。たとえばアインシュタイン一般特殊相対性理論を作ったけど、時代の先を行き過ぎていて正当な評価がされなかったそうで、ノーベル賞は他の業績に対して与えられた。文系研究基本的には同じで、研究の良し悪しを判断できる人は極少数だ。だから、知らないうちにトンデモない研究がはびこっていて、それに社会的評価が伴っていても、ほとんどの人にはわからない。専門家が厳正に評価してくれていることを信じるしかない。

パンドラの箱が開いた

本題に入ろう。最近、1つの書評論文東大言語学研究室発行の紀要に出た。

田中太一日本語は「主体的」な言語か―『認知言語類型原理』について―」『東京大学言語学論集』 41 (2019.9) 295-313

https://repository.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/?action=repository_action_common_download&item_id=53475&item_no=1&attribute_id=19&file_no=1

書評された本は『認知言語類型原理』(京都大学出版会)。

https://www.amazon.co.jp/dp/4814001177/ref=cm_sw_r_tw_dp_U_x_6P9YDbPVN9WJ2

著者は、関西外国語大学 短期大学部 英米語学准教授中野研一郎先生

 

普通書評というのは基本的にほめるものだ。批判はあっても最後ちょっとだけ。しかし、この書評は、冷静な筆致でありながら、酷評酷評、ボロクソ、クソミソ、ケチョンケチョンフルボッコだ。一個もほめてない。批判が当たっているなら、トンデモ本に違いない。

こうすればあなた博士になれる

一番ヤバいのは、この本が博士論文を元にしたものということ! 一応説明しておくと、博士論文とは、最高の学位である博士」の学位を取るために大学院生が何年もかけて書く長大論文で、大雑把に言って本1冊以上の分量がある。もちろん、何でもいいからテキトーに書けばいいわけではない(はずだ)。自分オリジナルで、学術的に価値のあること、つまり、これまで誰も知らなかった知見を新たにもたらして人間知識を拡大するような研究の成果でなければいけない。どの分野でもそうだ。

そして博士論文原稿は、3~5人の審査委員審査する。審査委員は全員、その分野に詳しい大学教員だ。審査は3回くらいある。まずは博士論文の大枠ができた後、本格的な執筆にゴーサインを出すかを決める一次審査、そして論文が大体書けた後、論文大学に提出していいか審査する二次審査最後論文が完成し、大学に提出された後、博士学位を与えるか否かを決める最終審査がある。それぞれ少なくとも1時間はかかる本格的なものだ。ディフェンスと言われる最終審査の口頭試問は、公開で行われる。最後に別室で結果を審議した審査委員が会場に戻ってきて厳かに合格が伝えられると、みんな拍手で心から祝福する。

ミサト:おめでとう!

アスカ:おめでとう!

レイ:おめでとう。

シンジ:僕はここ(アカデミア)にいてもいいんだ!

研究人生のフィナーレではないが、1つのピーである。こうやって研究者の能力お墨付きを与えるのが大学存在意義の大きな一部分だ。

要するに、博士号を取るのはとても大変なのだ日本だと博士号を持っている人は1万人に1人くらいしかいないらしい。日本大学は入るのは難しいのに出るのは簡単だとよく言われるけど、大学院の博士課程はそうではない。入るのも修士課程ほど楽ではないし、文系では入っても博士号を取れない人の方が多いくらいだ。これだけ大変だから博士号はアカデミアでは評価される。大学教員になるなら、博士じゃないとエントリーすることさえほぼほぼ不可能。『認知言語類型論』の中野先生は、フェイスブックを見たところ、以前は高校先生だったみたいだけど、博士号をとってから、50歳を過ぎて関西外国語大学准教授になったようだ。周知の通り、大学終身雇用教員の座をめぐる争いは非常に激しい。博士号がなかったら就職できなかっただろう。

 

博士号はどこの大学でとっても価値は同じ、みたいなことを何度か読んだことがあるけど、あれはデマ。真に受けてはいけない。いい大学博士号ほど高く評価される(Why not?)。中野先生がお持ちの京都大学博士号は、京大が超一流なのと同様、超一流の博士号だ。50歳を過ぎて大学就職できたのも不思議ではない。しかも、中野先生師匠は、日本言語学界の大物中の大物、山梨正明先生だ。『認知言語類型原理』に山梨先生が解題を寄せているから間違いない。この大先生は、「日本代表する理論言語学者の一人」([wikipedia:山梨正明])。中野先生が在学していた頃には、日本語用論学会(2008〜2011)や、日本認知言語学会(2009〜2012)の会長を同時に務めもした大物中の大物だ。ちなみに、山梨大先生2014年度に京大を定年退官して、2015年から中野先生より一足早く関西外国語大学で教鞭をとっている。ちょっとややこしい話だが、博士論文審査が終わる前に京大を定年退官したようで、審査主査ではないが、審査委員には名を連ねている。https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/handle/2433/199376 博士論文を書くのに何年もかかるから、こういうことはよくある。

日本語に主語目的語、態、時制、格、自動詞他動詞はいらない?

さて、超大物お墨付き博士論文(を元にした本)はどんなもんなんだろうか。書評から拾っていこう。2節は専門的な議論でよくわからいかパス。3節「日本語に存在しないとされるものから見ていこう。まず、1節に同書のまとめらしき部分から引用がある。

日本語(やまとことば)」を深層とする日本語において、「形容詞 (adjective)」・「主語 (subject)/目的語 (object)」・「態(voice)」・「時制 (tense)」・「格 (case)」・「他動詞 (transitive verb)/自動詞 (intransitive verb)」といった、従来ア・プリオリに前提とされていた統語・文法カテゴリ妥当していないことも論証した。さらに、「膠着」言語の一つである日本語」においては、その語・語句・節の生成メカニズムは、「音」自体に「意味」を見出す「音象徴 (sound symbolism)」を基盤にしていることを論じた。

(『認知言語類型原理』[以下、中野 2017] p. 308、書評論文[以下、田中 2019]p. 295から禁断の孫引き。以下、同書の引用は全て孫引き)

昔、『日本語に主語はいらない 百年の誤謬を正す』[amazon:日本語に主語はいらない]という本が出て、言語学者に酷評されたことがある。金谷武洋日本語に主語はいらない』批判記事一覧 - 誰がログ https://dlit.hatenadiary.com/entry/20071216/1197757579

主語がいらないと言っただけでそうなったのに、『認知言語類型原理』は、ミニマリスト断捨離なんてもんじゃない。主語だけじゃなく、形容詞、態、時制、格、自動詞他動詞も、いらない、何も、捨ててしまおう~♪と謳っているらしい。全部なしで日本語の文法はどうなっているのかというと、「その語・語句・節の生成メカニズムは、「音」自体に「意味」を見出す「音象徴 (sound symbolism)」を基盤にしている」ということらしい。

「音象徴」の名の元に蘇る亡霊

これは熊倉千之氏の「音象徴理論に基づいているそうで、熊倉氏は、

膠着語にかんして、「イメージイメージを膠でつけるように、ことばができているのです。ですから、具体的なモノとモノをつなげると、言語(コト) としての「抽象」 性が生まれ、新しいことばが作られるのです (熊倉 2011: 18)と述べた上で、日本語の音素はそれぞれ何らかのイメージを持つという観察を根拠に、やまとことばの「音声と意味」には、ソシュールの説に反して、「恣意的」ではなく、密接な繋がりが感じられる」 (熊倉 2011: 30) と主張している。

(これも田中 2019: 309から禁断の孫引き

熊倉千之 (2011)『日本語の深層〈話者のイマ・ココ〉を生きることば』東京: 筑摩書房.

とのこと。

近代言語学の父、ソシュールの一番有名な恣意性原理否定しているが、それ自体はない話ではない。音象徴が当てはまる例として、ポケモンとか怪獣名前は、音と意味関係が全く恣意的なわけではない、みたいなことが最近よく言われている。ただ音象徴基本的オノマトペ擬音語擬態語)や新たに名前を付けるものについての話、しかあくま傾向性言語全体の「語・語句・節の生成メカニズム」になるようなものとして扱われてはいない。しかし、中野説はそういった主流の音象徴研究とは一線を画する。具体的に見てみると、

「あ/a/」は「空間出来の語基」 として、「い/i/・居」 は「様態化の語基」 として、「う /u/・続」 は「プロセス化の語基」 として、 「音象徴」 により語彙を創発させる機能を担っているのである(中野 2017: 247) 。

知らなかったー、日本語ってすごいですね(棒)。たとえば、「合う・会う」は、「あ/a/」+「う /u/」だから、「(出来)動詞」だそうだ。書評子が、

「「出来」が「プロセス化」すると「合う・会う」になるという説明は到底理解できるものではない」(田中 2019: 309)

と言う通りだ。「あい」(愛とか藍)はどうなるんだろう。中野先生によると、音象徴

日本語(やまとことば)」の同音異義の語の数の多さと、またオノマトペの豊穣さの、母体にもなっている」 (中野 2017:232)

そうだが、書評子は、ここに鋭く矛盾を見て取る。

この主張は、本書の議論を決定的に破綻させるものである。もし「音=意味」という恣意的でない結びつきが存在するならば、同じ音を(同じ順序で)組み合わせれば同じ意味になるはずである同音異義語存在が極少数に限られるならともかく、その数が多いのであれば、日本語の全体を「音象徴」に基づいて分析することが不可能であることは自明である。(田中 2019: 310)

かに。他にも、中野先生は「確かに」・「達する」・「頼みます」・「たった、これだけですか」・「立つ」・「経つ」・「絶つ」・「裁つ」などを例に、

日本語(やまとことば)」では、音部分が同根であれば、「音象徴」に基づき、その意味機能通底している 。 [中略] 「た/ta/」音を語頭とする語は「心的確定(確信)」を基に語彙が生成していることが理解できる。「日本やまとことば」の「た/ta/」音は、「音象徴」において「確信」を「意味」とする「音」なのである。 (中野 2017: 255)

と言っているそうだが、「立つ」とか中野先生自身の例でさえ、どこが確信関係があるのかわからない例もある。この説が無理なのはよく考えてみるまでもない。

そもそも、「音象徴」なんて流行りのタームを中野先生熊倉氏は使っているが、こういう説は「音義説」[wikipedia:音義説]と言うのがより正確だ。近代以前に唱える人がたまにいたけど、今ではググるとわかる通り素人が唱えているだけのものだ。ちなみに、このような形で同書に大きな影響を与えた熊倉千之氏とは、

1980年「『源氏物語』の語りの時間」でカリフォルニア大学バークレー校にてPh.D.取得。ミシガン大学サンフランシスコ州立大学などで日本語・日本文学を教える。1988年帰国後、東京家政学院大学教授1999年金城学院大学教授2007年退職

[wikipedia:熊倉千之]

という人。ウィキペディアでは一応「日本文学者・日本語学者」となってはいるけど、専門はどう見ても文学言語について言語学界とは関係なく自由思索著述をしている人のようだ。そういう独自言語論を唱える文学思想研究者はよくいるけど、普通言語学者はそういうのはまともに相手にしない。『認知言語類型原理』もその類の本だったなら、東大言語学を学ぶ書評子も取り合わなかっただろう。でも、これは京大言語科学講座で博士号をとるために書かれた論文(が元になった本)なのだ

驚愕の主張の数々

他にも同書には、業界震撼の主張が満載みたいだ。是非同書を買って私の代わりに確認してみてほしい。

日本語では論理的命題を表すことができない」(田中 2019: 305)
日本語は英語を含む近代ヨーロッパ標準諸語に翻訳できず、また近代ヨーロッパ標準諸語も日本語に翻訳できない」(中野 2017: 268)
科学数学物理学化学生物学法学経済学歴史学社会学言語学等)」と称せられるものの全ての言説は、日本語で書かれている限り、「日本語(やまとことば)」の論理によって、「客観的であるとする言語論理的根拠を維持できないのである。当然のことながら、この本自体も、日本語で書いている限りはその陥穽から逃れることができない。」 (中野 2017: 268)
日本語の「伝聞」というコミュニケーション様態においては、伝えられる内容は、伝える者によって「主体化」されており、したがって、その「主体化」された内容の真偽判断に関わっては、「権威」が必要となる。伝える者に「権威」が伴っていない場合、伝えられる内容は真と判断されない。」(中野 2017: 16)

しつこいようだが、これで5年前に京大博士号が取れたのだ。

ちなみに、なんで日本語が英語などと違ってこうなってるかと言うと、中野先生によると、日本語は歴史的文字を持たなかったからだそうだ。とはいえ英語だってそうだし、文字で残っている歴史の長さも日本語と同じくらいなんだけど。っていうか、どの言語も昔々は文字がなかっただろ!

ということで、書評の内容は変な言いがかりではないようだ。そもそもこんな空前絶後激辛書評論文大学院生が書くこと自体大きなリスクを伴う。(書評子、いろいろ大丈夫か?)無理なイチャモンをつけるためにそんな危険を冒すわけがないし、出版前に東大で止められるだろう。ま、『認知言語類型原理』は、博士論文審査から本の出版にいたるまで、誰にも止められなかったみたいだけど!

京大STAP細胞はありま~す?」

もう終わりにしよう。書評批判が当たっているなら、こういうことだ。超大物教員指導の元、こんな博士論文が書かれ、専門家達が「厳正な」審査をし、超一流の博士号が授与され、それをテコに大学で職を得た人がいる。これがわかったのは、本が出版されたおかげだ。ちなみにこの本、名もない出版からではなく、京都大学出版会が出している。もちろん、本の出版は著者が勝手にできることではない。本の最後に超大物元指導教員が「解題」を寄せているから、知らなかったはずはない。解題を見てみたところ、基本的にほめていて、特に批判らしい批判はなかった。実はその解題、公開されている博士論文審査結果の要旨とほとんど同じ。

https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/199376/1/ynink00705.pdf

審査結果からもいくつか引用しておこう。

論文は、個別言語における認知メカニズムの解明によって言語固有の形式文法カテゴリ創発する根源的理由説明を試みた意欲的研究であり、認知言語類型論という新た

2019-10-25

anond:20191023172934

自由主義者議論しているのは、消極的自由重要なのは所与のものとして、積極的自由重要視すべきかどうかということなんだよね。

消極的自由積極的自由対立した時にどちらを優先すべきかって議論は無いんじゃないかな。

というか消極的自由積極的自由って対立するものなのかね。浅学なので誰か教えてほしいのだが。

2019-10-24

田中亜以子さんの論考が滅茶苦茶

「感じさせられる女」「感じさせる男」という役割は、いつ生まれたか(田中 亜以子) | 現代ビジネス | 講談社

これな。中を読めばなるほどと思わされる近現代面白いトピックがたくさん書いてあるんだけど、それはいいんだが、総論があまりにおおげさじゃね? 「男性女性を『感じさせる』セックスデフォルトとする価値観誕生は、20世紀初頭の西欧に見出すことができる」とある。マジかよ、と驚いた。

とはいえ女性受動的、男性能動的とする当時の性別観は強固に維持された。(中略)『感じさせられる女/感じさせる男』の誕生である」ともある。そこに至る論旨がよくわからないんだが、なんか「女性受動的、男性能動的とする性別観」イコール「感じさせられる女/感じさせる男、という性別観」であり、そんな価値観19世紀以前の地球人類には存在しなかった、と言ってるように読める。そりゃいくらなんでもおおげさじゃねーの。

そんなに最近まれ特殊価値観だとしたら、「昔のセックスは男女対称だった」という例が,いくらでも挙げられるハズだ。しかしどこまで読んでも、それは、ない。ないのはどう考えてもオカシイんだが、そう指摘するブコメもない。春画では男女が対称的に絡み合ってる、という仄めかしが冒頭にあり、全体の締めに「性的快楽平等は、女性リプロダクティブ・ライツ保障はもとより、社会的女性男性と対等な存在となることなしに、ありえない。そして、そのときこそ単純な『感じさせられる/感じさせる』という性役割消滅しているのではないだろうか」とあるが、その割に、江戸時代町人男女は社会的に対等で性的に対称だった、のかどうか、踏み込んだ検証もない。なんでないの。ないならなんで仄めかすの。

オスがアプローチし、
諾否の決定権はメスが持つ。
オスが攻めでメスが受け。

その構図が、西暦1900年以降の西欧発明されたものだっちゅーの? アホか。地球上の大抵の虫も鳥も、カメレオンクジャクラッコカメも、そういうふうになってるじゃないか。それでも普遍的とは言えない、というなら別にそれでいいけど、数億年単位歴史があるものを「誕生は、20世紀初頭の西欧」って、ないわー

◉◉

精子は貧弱だが活発で無尽蔵、卵子は富栄養だが不活発で希少である。種の生存戦略としてそれが普遍的な正解だとは言わない。原初地球原初の海の所与の条件下で、たまたま結果としてそういうタイプ勢力を拡大した、ということなのかどうか、まあとにかく事実としてそうなった。そういうタイプ生物於いては、オスが遺伝子を残す確率は、ほぼ、孕ませたメスの数に比例する。要するに、片っ端からヤリたがるのが正しい。

一方、メスはいくらヤッたって、一繁殖期当たり、通常一体のオスの子しか孕めない。当然、遺伝子を残す確率を高めるには、相手を厳選しなくてはならない。クソみたいなカスみたいなオスに孕まされたら一巻の終わりだ。なにせ卵子は希少なのだからヤリチン英雄だがヤリマンは愚か。例外は「タマシギ」くらいしか知られていない。

ヒトの場合で言うと、オスは1年で300人を孕ませることだって(3000人だって原理的には可能だが、メスはその間、一度しか妊娠できない。クソみたいなオスのアプローチを、時にかわし時に撥ね付け、同時に一方では懐妊のタイムリミットも気にしつつ、落としどころで妥協して決断して受諾するしかない。人気ブコメに「女が『やらせてあげる』(男が『やらせてもらう』)っていう表現意識絶滅してほしい」というのがあるけれど、そういう意識の根源はここにあり、絶滅はなかなかむずかしいと思う。「誕生は、20世紀初頭の西欧」って、ないわー

◉◉

昔のブンガクの話をする。好色一代女は、「堂上家の姫君に生まれた一代女が、その道を踏み外して、快楽と苦悩とのないまぜになった売春生活の末に、次第次第に転落し、太夫から天神私娼へと堕ちてゆく」話で、1686年刊、とWikipediaにある。

あるいは八百屋お七。これはどこまでが史実でどこが創作文学なのかわからないんだが、大火で焼け出されたうぶな少女が、避難所遊び人にヤラれちゃって忘我の境地を知りメロメロになり、そのオトコに逃げられて想いを募らせ罪を犯すという話が、当時も、現代においても、深い同情と共感を呼ぶ。

あるいは竹取物語。男たちが求婚し、諾否の決定権は女が持つという、まさにそういう構図の話だ。

あるいは「逢ひ見ての のちの心にくらぶれば 昔はものを 思はざりけり」とか「つれなのふりや すげなのかおや あのようなひとが はたとおちる」とか、どうですか。エロいでしょう。西洋寓話には「眠れる美少女イケメンキスで目覚める」というのが多く、男女逆のは聞いたことがない。あれも、そういうことじゃないんですか。

あるいはオウィディウスの「恋愛指南」(複数和訳があるらしい。以下はネットで拾いましたすみません)。「私は[女が]自分の喜悦をついもらす声を聞くと嬉しくなる。私に待ってくれとか、こらえてくれとか、いってくれるのは嬉しい。女の愛の狂的な、もう参ったという目つきを見たいものだ。彼女をぐったりさせたい。もうさわってくれるなと拒ましめたい」「目当ての女性の膝に塵が落ちかかるようなことがあったら、指で払い取ってやらねばならぬ。たとえもし塵など全然落ちかかってこなくとも、やはりありもせぬ塵を払い取ってやりたまえ。なんでもいいから、君が彼女に尽くしてやるのに都合のいい口実を探すのだ」「接吻を奪ってからは、満願成就までなにほどのことがあろうか。ああ、なんたることぞ。そんなのは恥じらいではない、野暮というものだ。力ずくものにしてもいい。女にはその力ずくというのがありがたいのである。女というものは、与えたがっているものを、しばしば意に添わぬ形で与えたがるものだ」紀元前の書らしいよこれ。

これらに接して素直に浮かぶ感懐は、オレの場合、ああ、エロ事情って二千年前から変わらねえんだな、というものです。お前ら様はどうですか。ちなみに怪人小谷野敦は、怪著『もてない男』の中で「近代以降と中世以前との違いばかり強調するのがいまどきの流行だが、共通点だって普通にある(大意)」と述べている。「誕生は、20世紀初頭の西欧」って、ないわー

◉◉

まあブンガクは置いとくとして、「ほとんどの生き物が、オスが性的アプローチし、諾否の決定権はメスが持つ」というのは、珍説でもなんでもなく、大抵の人が知っているはずの事実だ。「ほとんどの生き物で、まあ控えめに言ってもほとんどの哺乳類で、メスは交尾の間、ただじっとしている」というのも「ヤリチン武勇伝として語られがちだが、ヤリマンは呆れられる」というのも、大抵の人が知っている。「男の性欲は視覚からでも、あるいは内なるリビドーからでも一瞬で火が点くが、女の身体時間をかけ手順を踏んで優しい接触から始めてもらわないとなかなかスイッチ入らない」とか、「多くの男は射精快感自然に知るが、多くの女は上手な男に上手に開発されないとなかなか目覚めない」とかいうのも、まあ俗説かもしれないが、フェミ勢を含む多くの人が直感的に、かつ体感的に、認めているのではないか

若い女可愛い」というのも、無視できない。もちろん筆者なら「それこそまさに社会押し付けジェンダーロール」と言うだろうが、本当にそうか。「ヒトは、小さくてすべすべでふわふわで声の高い生き物を可愛いと感じ、愛でたくなるようにチューニングされている。子育てに有利だから結果としてそういう特性が優位になった」という仮説は、そんなにおかしくないと思うんだが。写真を見るとこの筆者自身、明らかにオレより可愛い

「オスが攻めでメスが受けなのは性器の形状から考えても当たり前」というような一見バカっぽい主張だって、「いつ生まれたか」を本気で考えるなら、当然アタマをよぎるはずのファクターだ。

なぜ、それらをすべて無視して、20世紀初頭の西欧なのか。

それは、「いつ、なぜ生まれたか」を、本気で考える気がないからだ。

この人は「それは社会的刷り込みに過ぎない。それもごく最近の、特殊な」という結論ありきでものを言ってる。だから、その結論に都合の悪い話は無意識スルーする

◉◉

ホニャララという価値観はなんら普遍的ものではない」式の主張は、確かに快刀乱麻感があって気持ちいいが、そもそも価値観というものはすべて何らかの偏りであり、したがって「普遍的ではない」のは当たり前だ。それだけでは「価値観価値観だ」と言ってるのと変わりない。

それが意味を持つのは、ホニャララフリー世界も意外に広い、という事実とセットの場合だけだ。例えば「チョンマゲはカッコイイという価値観」に対して、「チョンマゲを奇異に思う世界の方が圧倒的に広い」と提示することには意味がある。また例えば「食事というもの主食とおかずから成る」と思い込んでる人に、そうでもない文化圏存在を示せば、有益な目ウロコ落としになるだろう。だが「感じさせられる女」の論考には、男女が互いに感じさせ合う文化圏も意外に広い、というような例は、ぜんぜん出てこない。

そんなら、最初からこう言えばいいんだよ。「普遍的かどうかとか、いつ生まれたのかとか無関係に、私はその価値観が嫌いだ」と。「想像してごらん、男女が対称的なセックスを。私を夢想家だと笑うかい?  But I'm not the only one. I hope someday you'll join us」と。

オレは「セックス快感の授与と受容において、男女はもっと対称的であるべきだ」という、なんとなくジョンレノンっぽい主張を、批判する気はない。特に賛成でもないが反対でもない。そう思う人はそう主張すればいいと思う。少なくとも、悪い意見じゃない。

また、男女の性行動の非対称性自然根拠があるからと言って、「自然根拠があるから肯定・維持すべきだ」とも思っていない。例えば「痴漢は男が多い」ことには、生物としてもっともな理由があると思うけれど、だからといって痴漢擁護する気はない。いくら本能的にもっともであっても、否定されるべきことというのはある。

からね、その主張自体は、べつにいいんだよ。ただ、その主張を強化するために、客観を装ってもっともらしい嘘を述べ、あるいは誰かのもっともらしい嘘を本気にし、それをあたかも確定した事実であるかのように無批判引用し、自分の主張の根拠とし、都合の悪い要素はスルー、という、その姿勢がイヤだ。恥ずべきだ。

◉◉

オレの方こそ些細な点をおおげさに問題にしてるのだろうか。

例えば「そういう価値観は太古からある。ちょっと20世紀初頭の西欧から概観してみよう」とでも書いてあれば何も文句はないんだし、脳内さらっとそう読み換えて流すのが大人のたしなみなのかも知れない。だけどさー、「いつ生まれたか」というタイトルで、いやまあタイトルなんてものはね、著者の意向無関係編集者が後から勝手につけたりするもんだけどね、これの場合は本文中に「本稿では、『感じさせられる女/感じさせる男』という役割が、そもそもどのようにしてつくられていったのか、その歴史的経緯を概観したい」と書いた上で、直後に「誕生は、20世紀初頭の西欧」って、はっきり書いてあるんだもんよー。長くてごめんねー。

2019-07-15

anond:20190715080609

スーツ所与の条件なの?

スーツならキモくなりようがないが。

ブランドがいいってなら、ゼニアとかかな。

靴もなんでも良いでしょう。スコッチグレインあたりで十分だろ。チャーチズとか要らないだろ。

時計IWCでもしとけ。

メガネなんてなんでもいいよ。

2019-06-07

人口減って本当に不可避なのか?

日々ネットでは色んな対立や論争が起きてるけど、将来の人口減についてだけは、頭の良さそうな奴もそうでない奴も不可避の運命として珍しく意見が一致してる。

でも少なくとも俺は、それに抗うために政治社会が一度でも本気で行動したところを見たことがないんだよな。

例えば安倍さんがさ、テレビの前で手をついて、「お願いします!どうか日本のために皆さん二人の子供を産んでください!!」って叫ぶくらいのこと、してみたらいいと思うんだよ。

で、現実にそれを奨励するための施策バンバン実行してみたらいいんだ。

どうせ国債なんて日銀が全部買ってるから財政破綻なんか起きやしないし、老人が安穏と暮らすために使われるなら癪だが、自分たち未来のために使われたと思えば、後の世代も納得すると思うんだよな。

中途半端学歴所得のある奴が、これからまれてくる子供が可愛そうとか賢しらに言うのを目にするけど、お前らが嘆こうが毎年まだ100万人近くの新しい命がこの国に生まれてくるんだよ。

の子からしてみたらさ、なにかわかったような顔して早々に諦めた親世代ことなんて、恨む対象しかならないんじゃないのかね?

本当に「これからまれてくる子供」のことを考えているなら、もっとがむしゃらにやり尽くして欲しかった、最後まで必死に戦って欲しかったと思うんじゃないの?

なんかほんと、そこだけは所与のものとして全員が現実から目を背けてるのが俺はほんと許せないんだわ。

頼むから出てきてくれよ、そういう当たり前のことをやろうって言ってくれる集団がさ。

そしたらあっという間に世の中変えるだけの支持を集めると俺は思うし、少なくとも俺はその意思を表明するつもりだぞ。

2018-11-05

5畳半一間の罪深さ

30後半額面600万のサラリーマン

結婚願望がまるでなく、就職氷河期悲惨な20代を送り、

それで狭い5畳半アパート一人暮らしだったが、ある程度の金が溜まったので、住処ぐらいはある程度のものにしても罰は当たるまいと思って一戸建てを買った。

広さは段違い、リビングは快適、最新の設備文句なく、各部屋も完全に自分趣味壁紙にした。

住み始めて、するとどうだろう。以前はまるで感じなかった人寂しさを僅かながら感じることに気が付き、違和感を覚える。

この家にもう一人くらい住まわせてもいいか、ぐらい思う。

結局のところ、自分の願望が住居に最適化してあっただけで、どうやら自分所与の箱の範囲内で最適化をはかり、それで満足してしまうらしい。

そういえば仕事がそうで、私生活も結局同じであったという話である

よく結婚してから家を買うとか言うけど、単にそれが現在多数派なだけで、自分のようにある程度の人の居場所が確保できてから願望(らしきもの)が生じる人間もいるのだ。

もっと早くに気付いていればという気持ちと、一定のスゴロクだけを宣伝する社会はクソという気持ちモヤモヤしてる

2018-10-18

anond:20181018164418

本人に責任のない親の罪で殴るのって近代法国家の行いでしたっけ?

現代俺らが近代法国家に生きているのは先祖がそれを獲得したからなわけね。つまり現代俺らが近代法国家に生きている」ってのは先祖遺産なわけよ。増田はその先祖遺産をあたか所与の権利のように振り回しているけれど、所与でも権利でもないのよ。遺産なだけ。そして遺産を受け取った以上、望むと望まざるとにかかわらずその歴史的経緯という連鎖継承せざるを得ないわけ。「近代法国家の行いでしたっけ?」なんて都合よく遺産を利用しておいて、負の側面を拒否しようというのは卑劣行為よ。

増田個人オタクでありもしかしたら弱者男性で、遺産から大きな利益を受け取ってないというのは事実かもしれないけれど、そんなの何の関係もないのよ。「現代人(遺産継承者)だ」というだけでもうすでに「関係者」なのよ。その歴史連鎖否定することも逃げることも誰にもできないっていうだけ。

オタクは「男性ゆえのメリット」も受けてないんだから殴られるのは間違ってる。

反撃するのみ。

そもそも増田という個人メリットを受けてるから叩かれてる」なんて妄想は誰から挿入されたの?

何度も言うように公平性原理から、男女お互いに殴り合えばいいし、それは歴史的経緯があるってだけの話だよ。そして殴り合うときに、戦術的に見て、相手のチームの弱いところを攻撃するのは合理的でしょ? それだけのことになにか正当性とか倫理性をもちこもうとする増田おかしいよ。

2018-07-15

東京地方田舎者

東京地方の連中が群がってどんどん人が増えてうざい。

私の故郷である東京が、他所からきた連中のためにどんどん変えられてゆく。

田舎者は都会のマナーを身に付けてない。地元帰れ」


言うまでもないが、あなたが生まれ育ち慣れ親しんできた東京は、地方から人口流入、それによる経済規模によって支えられているものだ。

発達した交通網も、町ごとに表情を変える多様性も、あなたの小さな頃のちょっとした特別な思い出ーーデパートだとか映画だとかーーも何もかも。

もしも東京に住む人間が、出自東京の人に限られていたなら、ここはただの地方都市で、あなたはその地方都市の「田舎者」でしかないだろう。

個人的に、田舎者定義とは

自分の知る環境所与のものだと信じて疑わず

自分にとっての異物を排斥する態度をとる」人間だと思っている。

あなた東京地方まれ田舎者だ。

でも幸いですね。

東京田舎者が集まってできた町だからあなたのような田舎者も許容されます

2018-06-24

anond:20180624205422

どうにもならん。

逆にこの保育士の低待遇と、どんどん退職していく状況を所与のものとして、

共働き支援子育て支援少子化対策政策を組むしか手は残されていない。

2017-10-09

人間所与のルール内で最適解を求める生き物

ある人がAという行動をするかしないか

「Aをすることによる得」が「Aをすることによる損」を上回るかによって自動的に決まる

ここでいう損得には気分が高揚する/減退するといったような感情的ものも含まれ

たとえば人が万引きをする理由には

「タダで物が手に入るから」「成功快楽を感じるから」「店員がむかついたから」

といった要素があり

人が万引きしない理由には

「捕まったら刑罰を受ける・社会的に失墜するから」「倫理的に許せないから」「店に申し訳いから」

といった要素がある

それぞれの要素にどう重み付けするかは個人によって異なっており、それが「性格」などと呼ばれる

言いたいのは、これらの重み付けの結果として万引きの得が損を上回り、万引きを実行するに至った人間を、「悪人」として糾弾するだけでは何の解決にもならないということだ

その人を糾弾するということは、その人の重み付け関数を異常なものとして矯正し、人類平均に近づけるということである

もちろんそれも重要

重要だが、その人の重み付け関数理想化されたとして、次に来る万引き犯はそうではない

真に行うべきことはルールの変更だ。相当クセのある重み付けをされても、それでも得が損を上回らないような、システム設計をしておく必要がある

たとえば万引きの「得」を減らす対策として、強引に外すとインクの飛び散るタグ、などがあり、

万引きの「損」を増やす対策として、防犯設備の整備や罰則の強化などがある

これらの対策を行わずに「万引きする人間はなんて悪人なんだー」と吠えていても無意味まりないと思う

もちろんこの文章における万引きは喩えにすぎない

万引きの代わりに、政治外交や、職場問題恋愛・友人関係など何を入れても同じことが論じられる

かに、重み付け関数がよっぽど狂っている(人類の平均から大幅に乖離している)人間はい

快楽殺人者とかがそれだ

そこまでカバーするルールを作るのは至難の業から、全人類の9割がカバーできれば良い

ログイン ユーザー登録
ようこそ ゲスト さん