はてなキーワード: 所与のとは
脳内のライブラリを振り返ってみると、アルコ&ピースの「ボウリングのハイスコアを買い取る業者」や「体育館の天井に挟まったバレーボールを除去する業者」、チョコレートプラネットの「開けにくいポテトチップスの袋を開封する業者」のような、あり得ない設定の業者に説得力を持たせたネタが好きなのだと気づいた。
ここで強調しておきたいのは、コントを演じる二人が設定に違和感を抱かないままネタが進行するという点だ。非現実的な業者は所与のものとして受け入れられており、利用客との間であるあると思わせるやり取りがツッコミ不在のまま繰り広げられる。そのギャップにユーモアを感じてしまう。
これと同じことはAVの好みに対しても言えるのではないか。連鎖的にそんな思考に至った。
アナウンサーが性交しながら淡々とニュース原稿を読み上げるAV。ナースが治療の一貫として当たり前のように搾精するAV。オフィスレディが口淫しながら商談を進めるAV。
自分がとりわけ興奮を覚えるAVに共通しているのは、本来覆い隠されるはずの性的な行為がさも当然かのように日常生活の一部に組み込まれており、出演者はそのことに違和感を抱いていないという倒錯した構造だった。
中には、アナウンサーものやナースものといったジャンルの垣根を越えて、性的行為のハードルが低い世界観自体を売りにしたオムニバス形式のシリーズ作品も制作されている。このようなシチュエーションに対する一定の需要が感じられる。
一見したところ交わらない両者について、「演じる」という部分に目を向けてみると、自分は「あり得ない設定の上にリアリティのあるやり取りを重ねる倒錯構造」に心惹かれる性質なのだとささやかな気づきを得た。
幸先の良い一年となりそうだ。
特定の規準を以て他者を非難した人間は同様の規準を以て非難されるのを甘受しなければならない。とまあ、そういうルールですよね?それはある種の「覚悟」であって尊ぶべきものに相違あるまい。
呉座氏の件では論点が多岐に渡るため必ずしも採用される道徳(倫理とか他の言葉に置き換えてもよい)規準が一定ではない。私が思うに根本の規準は呉座氏が北村氏を中傷していたのはよくないという程度だったろう[※1]。しかしまあ関係者含め他のことも非難していたりするわけで、その根本の規準を外れたのであれば新たな規準を示したと考えざるをえず、その新規準はその新規準を用いた人間にも適用される。
そしてなんと今回(結構前)めちゃくちゃ大きなアップデートがあったのである!
北村紗衣・北守・牟田和恵・古谷有希子各氏の過去発言|喜多野土竜|note
簡単に言えば、約10年前に北村氏が男性皆殺し協会マニフェスト(北村訳:男性根絶協会マニフェスト)を翻訳して、「『セックス』で検索してくる人がたくさんいるのだが、だいたいひっかかってくるのはヴァレリー・ソラナスの『男性根絶協会マニフェスト』の翻訳だろうから、見た人はびびるだろうね!楽しいな!」と書いたのが問題視されるべきだという内容の話である。
あ、いや、喜多野氏は「保留」と言って逃げているので、もへもへ氏やMGTOW NEWSが、もしくはこの件で批判されるべきだと言っている一部はてなユーザー達が規準をアップデートしたと言うべきか。
もちろん、訳しただけで問題だと言っているわけではあるまい。実際、MGTOW NEWSも過去に部分的に訳して説明を付している(https://archive.ph/2QksL何故かMGTOW NEWSは消滅してしまった)。その中で、当マニフェストに対する否定的見解は「フィクションに登場する悪役、はたまたブラックすぎるジョークのように思える」という部分以外にオウムを引用して暗に否定している部分だけである。加えて次のようなツイートをしている。
本当は「みんなが幸せな社会」を実現したいだけなのに、なぜか誤解されて叩かれがちなフェミニズム…
もちろん、これは皮肉である。しかしこのような調子のツイートであっても問題はないということをMGTOW NEWSは示している(ダブスタなんてするはずないからね)。換言すれば「このような悪質な憎悪文書を茶化し結果的に矮小化することは不謹慎だ」という非難はそれ単体では適用できないということだろう。ということは多角的に分析せねばなるまい。
なお、MGTOW NEWSは何故かこのツイートを削除してしまったので魚拓での引用とさせてもらう。
記事自体は削除されたのだが、なぜかわけのわからん怪しいサイトで拾えたのでそれを真実と勝手にみなして話を進めていく。セキュリティソフトが発動したのでちょっと不味い気がするが、気になった人は文章を検索すればヒットするよ。さて、北村氏はマニフェストについてどう言及していたのだろうか?
…(前略)…基本的にはレズビアンセパレーティストの立場から男性の抹殺を主張するものである(?!)。ソラナスによるとこの文章は辛辣な風刺を目的としたもので、別に本人は男性を本気で皆殺しにする気はなかったようだ(ハムレットも芝居の中で結婚している奴を皆殺しにすると宣言していたが、別にしなかったし、そのノリとたいして変わらん)。ただしソラナス本人は子供の頃から性的虐待を受けており、…(中略)…"cut up"を「抹殺」だと原文にある去勢のイメージがなくなるから「根絶協会」のほうがいいと思う。
なお、私は別にこのマニフェストに賛同しているわけではない(いや、男の人大好きですよ!とくに女装している時はね)。単に風刺文として面白いと思っているのと、日本語訳がないのと、クリスマス休暇中は図書館がしまっちゃって時間があくから訳してみるだけである。一方でこのマニフェストに書かれているミサンドリー(男嫌い)的な内容は、現代大学で読まれているような哲学・芸術史上重要とされているいろいろな論文に現れているミソジニー(女嫌い)に比べればそうたいしたことないんじゃないかと思っていることも確かである。この論文はたしかにイカレているが、初期キリスト教関係の文献とか、私が研究しているイギリス・ルネサンスのアンチ女性パンフレットとか、現代の「未来派マニフェスト」なんかのイカレっぷりに比べてそう突出しているとは思えない。
とりあえず、「内容に賛同しているわけではなく、イカれたミサンドリーを含む文章だが、一方で風刺文として面白くまた過去現在のミソジニーを含む文章と比べてそう突出しているわけではない」という感じだろう。
すなわち、今回作られた新規準によれば(1)イカれていて(2)ミサンドリーだから(3)不賛同と先に断っていても特に免罪にはならず断罪されるべきだと言うのである!
ではMGTOW NEWSの紹介記事とは何が違うのだろうか?「風刺文として面白い」のように少しでも価値を認めた時点でダメなのだろうか(なお風刺文として面白いというのは的を射た風刺だというのを意味しないらしいのに注意。後述)?もしくはミソジニーテキストと比べてそう突出していないという論評がどっちもどっち的な矮小化を思わせてよくないのだろうか?それはさておきもう2箇所程引用して少し検討してみよう。
しかし、二パラグラフめからはヴァレリー・ソラナス自身の男性嫌悪が匂い立ってくるようでまったくすごい…のだが、これは人生において一度はブスだったことがある女性にしか書けないとこである気もする。実は私はこのあたりはかなり読んでいて厳しい。
北村氏は一気に全文翻訳したのではなくかなりの回数に分けて翻訳している。これは2回目の翻訳の時の説明。この少し前に「あまりのホラーっぷりにちょっと笑いがとまらなくなってしまった」とあり言葉は軽いが男性嫌悪の勢いに着いていけない感じがうかがえる。引用後半部分はそれとは別の感慨だが。
この反ヒッピー論は私はなかなか頷けるところもあると思うのだが…ヒッピーコミューンとかが基本的に男性中心的、異性愛中心主義的だっていうのはよく言われていることじゃない?ここ二回ぶんくらい、表現が非常に下品なだけでソラナスの言うことが結構まともな気がするので、興味深いがちょっと諷刺の切れ味は鈍っている気がするな。
ちょっと前に「なお風刺文として面白いというのは的を射た風刺だというのを意味しないらしい」と書いたのはここにかかる。まともだと風刺の切れ味が落ちるということは風刺として面白いというのはもしかしたら褒めてないかもしれない。
ここは一部同調している箇所で他にも同様の反応が何箇所かある。逆に「相変わらずヒドい」と書いてある場所もある。…とまあおおよそこんな感じである。
引用文書について(1)イカれた差別文書と認め(2)不賛同を表明しているが、(3)一部で論の価値を認め(4)他の差別文書と相対評価している。
とはいえ、喜多野氏やもへもへ氏らはどこに言及すべき価値を見出したのか具体的に説明していないので何とも言い難い節はある。実際具体的にどのような態度で引用翻訳していたのかについての論評はない。つまり直接的に言及・引用されている内容を中心に彼らの取る規準を見出せばとりあえずこんな感じではないか。
中核の評価基準
(1)悪質な文書(引用文書の性質項を満たせば自動的に認定される)について引用し(2)その攻撃性を軽視しているように見られかねない発言をしていた場合(3)その発言が10年前程度の範囲内であっても問題である。
引用における態度
(A)差別または憎悪文書と論じ(B)否定的評価(イカれたなど)を下し(C)不賛同を表明する一方で、(D)部分的に価値を認め(E)類例と並べて相対化している場合は免罪されない。
(a)(引用時から)40年前の文書であり(b)差別または憎悪文書であり(c)内容も過激で(d)本人が殺人未遂を起こしている。
とりあえずキタ規準とでも呼んでおくとする(北村氏にも喜多野氏にも適用されないので不適切な名称かもしれない)。「中核の評価基準」「引用文書の性質」はこれより悪質性が高い場合問題視され、「引用における態度」はこれより良心的であれば責任は軽くなるという感じで、総合考慮されるべきだということになるだろう。ただし、何度も繰り返すようだが「引用における態度」については喜多野氏らは特段触れていないことに留意が必要ではある。ここを入れないと逆にキタ規準が適用されるもへもへ氏らに酷く高度な道徳的規準を適用されるのが不憫なため考慮に入れるのが妥当だと考える。
ところで規準で時期を考慮することに不満を持つ人もいるかもしれない。「中核の評価基準」において時期を考慮するのは、1つはやはり価値観の変遷が大きな理由だ。例えば女性は事務職という考えはすこぶる差別的だが過去に遡ってそういう発言をした人間は断罪されるべきとなれば過去の人物はわりと断罪される(もちろんそういう考え方が過去にあったことを差別的な思想が蔓延っていたと批判するのは否定しない)。するとやはり過去の発言の方が悪質性は減ると考えるべきではないだろうか。とはいえ過去においても問題であった言行は当然問題であり免罪されない。もうひとつは時効という考え方だが、こちらは不同意の方も多いかもしれない。なお例えば森元会長が女性蔑視的発言をした際に15年前の「女の人だなあ。やっぱり(視野が)狭い」という発言が掘り起こされたのは単にその人の一貫した思想態度に対する批判であって15年前だからと擁護することはできないだろう。何にせよ、一見した感じ呉座氏批判については3年前に遡った程度らしく、北村氏が現在ミサンドリー発言をして10年前の言行が掘り起こされたというわけでもないので、単発で10年前の言動も非難されるという新たな規準が定立されたと評価するほかないだろう。
「引用文書の性質」で一応時期を考慮に入れるのは少し違って切迫性の観点による。例えばどこぞの戦国武将の妻が「子供の1人でも戦死すればお家の名誉になる」と言ったのを称揚するのとどこぞの現役政治家が「お国の為に子供を差し出すのが名誉あることだ」と言ったのを称揚するのではやはり深刻度は大きく変わる。
というわけで架空の例題問題[※2]でどのように応用できるか考えてみよう。
アメリカ議会を襲撃して逮捕された人物の発言を引用しよう(訳は引用者)。
「リベラルは超特大の馬鹿(class-A moron)だ。いつでも自分達が正しいと考え意図に沿わない他者を糾弾し排斥する。自らを民主主義者の守り手と称するが、その実彼らは選民思想のエリート主義者に過ぎない。弱者や多様性を言い寛容を謳うが本性は非寛容で本当の弱者に対して無関心。アメリカを偉大さから引きずり下ろした犯人なのだ。今回もDSを支持し選挙を盗み民主主義だと嘯いている。彼らは引きずり出され、八つ裂きにされるべきだ。夜明けに連れ出され銃殺されるべきだ。」
彼はこの発言を非難された際に冗談だと返しておりリベラルは本気で殺されるべきだと思っていたわけではないようだ。それにしてもこの発言からはリベラルに対する憎悪が伝わってくる。彼は陰謀論者であったが、リベラルについての評には見るべきところがある。選民思想の持ち主だと喝破するところなんて的を射ていないか?
今は例の議会襲撃者の発言がブログトップだから別の用事で見に来た人はびっくりしそう。
いい薬だね
まず、引用文書は(a)最近の発言で(b)差別かはさておき憎悪文書なのは間違いなく(c)射殺を言い出さすなど内容も過激で(d)本人も議会を襲撃しているという事情に鑑みれば悪質で切迫性も満たす発言で問題だろう。
引用における態度では、(A)憎悪が伝わってくるなど憎悪発言であることが読み手に伝わり(B)発言の否定的評価は薄いが陰謀論者という評があり(C)不賛同だと表明していないが同調してはいなさそうである一方、(D)部分的に好意的な評価をしている。ただし、(E)相対評価はしていない。ただ総合的に見るとキタ規準に抵触する態度と言わざるをえない。
中核的の評価基準だと(1)悪質な発言を訳し(2)その攻撃性や悪質性を軽んじているように見られかねない態度を(3)最近取っていたので問題だと言える。
つまりこのような発言はキタ規準に抵触するということになろう。もちろんキタ規準は絶対のものではないが、甘受する「覚悟」を示した人間には当然適用される。まあ北村氏にも喜多野氏にも適用されないのだが。何にせよ尊い覚悟は敬服し記録するものである。
ところで繰り返しになるが今回北村氏を批判した人々はマニフェストを翻訳したという事実とそれに言及したツイートをもって批判している。であるから、ここで適切だと考えた規準はいささか正確性に欠ける嫌いがある。ここで言うところの「中核の評価基準」で論じるべきかもしれない。しかしMGTOW NEWSも同じく男性皆殺し協会のマニフェストを引用し「とっても素敵」と茶化し皮肉を言っている。これは「その攻撃性を軽視しているように見られかねない発言をしていた場合」と言えなくもない。
所与の条件である今回の批判者は過去の発言と直接的なダブスタをしていないは動くわかげないので困った話である。これをMGTOW NEWSのパラドクスと言う。これを解消するためにこの論考では別の項目、特に「引用における態度」の項を作り表面上逃れることとした。だが後続者の皆さんには正面から向き合ってこの点をブレイクスルーしていただきたい。
小学生並みの感想を言うと何にせよモラルが向上するのは良いことだと思います!覚悟がある人がモラルに寄与するんですね。いいと思う。それは呉座のいいね欄を遡ってる人でも北村氏の件を非難する人でも同様である。その覚悟は敬意をもって記録されるべきだ。
けど、自分は直接の誹謗中傷でなければ遡っても数年くらいかなって思うので私に対してはそのくらいの基準で批判してもらえると助かるかなあ。その範囲でならリツイートだろうとスターだろうといいねだろうと謝罪するので…。ダメですかね。
[※1] ここはみんな合意してくれると思うんだけど中傷ではないという意見の人もいると思うので次の増田で詳しく説明しておきたい。
結論を言うと、容姿を揶揄したと見るか全く言わないようなことを言っているかのような風聞を流したと見るかどちらかにせよ中傷であるという結論だ。
[※2] 一応元ネタは何個かあるが、1つはトランプ政権で大規模な選挙不正は無いと言って事実上の更迭をされたKrebsに対してトランプ大統領の弁護士diGenovaが冗談?として言った”that guy is a class A moron. He should be drawn and quartered. Taken out at dawn and shot.”
https://www.ajimatics.com/entry/2021/03/22/174633
これについていたブコメ
id:versatile 「実数の中には、「2乗して0になる数」というのは0しかありません」の証明ってどうやるの?
メタブを見に行ったら、そういう数が存在した場合は逆数をとると矛盾が引き起こせるよっていうスマートな背理法が書かれてたんだけど、これはかなり危うい議論に見える。
というのも、その議論は0でない実数は必ず逆数が取れるよねっていう前提を所与のものとして扱っているわけで、じゃあその「0でない実数は必ず逆数がとれる」って命題はどうやって証明するのという話になる。
そんなの当たり前の話じゃないかと感じられるかもしれないが、我々の証明しようとしている「二乗して0になる数は0以外にない」という命題も同程度には当たり前のことであって、つまりこれは当たり前から当たり前を示す、基礎論的なところの問題なのである。
こういう議論では、話の土台が何より重要で、よく知られた性質の中でもどれは使っていいのか、どれは使ってはいけないのか良く整理してから始めなければいけない。
なぜなら証明済みの性質を贅沢に使って基礎的な部分を証明してしまうと、その元の議論のほうの前提に実は今証明している命題が間接的に入っているんだよということになりかねない。
だから、「当たり前のものを示す時」には、議論が「逆流」しないか十分気にする必要がある。
で今回の問題が具体的にどう引っかかっているかと言うと、実数には有理数という土台があって、有理数は整数という土台から作られている。
ここでもし、「二乗すると0になる0でない数a」が【整数の中に】含まれていると、有理数上で、(1/a)*(1/a)の答えが定義できなくなってしまう。
そうなるとそもそも有理数上の掛け算の定義が壊れているということなので、実数の構成どころの話じゃない。
つまりこの掲題の疑問は有理数に掛け算構造を与える際にこそ気にすべき問題なのである。
逆数という概念は掛け算の成立後にようやく有効になる話であって、その前段階にあるはずのこの疑問に対して逆数の性質を使ってしまうのは若干論点先取というか、真芯を外している回答のように思う。
もちろん実数の話であるからには土台にある有理数の基本的な性質は所与のものであるという考え方も間違いではないけれど、それはこの疑問の「心」が見えていないんじゃないかな。
で実際どうやって証明すべきかというと、まずは上述のように【整数で】この性質を示すべき。
もっと言うと整数の土台には自然数(ここでは0を含む)があるので自然数上で非0×非0が非0になることを示す。
そうして得られた性質を整数、有理数、実数へと順々に拡張していく。こういう流れになる。
自然数上での証明は、0でない自然数には前者関数Preが適用できることを用いて、
a*b=a*Pre(b)+a≧a>0
という感じで示せる。(もちろんもっと厳密にやるけどね)
整数は自然数のコピーを貼り合わせてできている。自然数上での非0×非0=非0という性質から、整数上でも容易にそれが示される。
有理数は整数の分子分母のペアに約分という同一視を入れてできている。ここでも整数上の非0×非0=非0の性質を簡単に有理数上に拡張できる。
最後に実数は、有理数の無限数列を極限の考え方で同一視してできるので、有理数上の性質をうまく実数上にも持ってくることができる。
概要だけざっくりだけどこれを組み立てれば疑問への回答になると思う。
(道筋だけ最後まで立てられることがわかったら途端に興味を失うやつ)
【追記】
文章が長ったらしくて申し訳ないけど、やっぱ伝わってないね…。
前半部は、「当たり前のことを証明する時には当たり前の前提を無批判に使っちゃいけない」ってことを言ったつもり。
ブコメで貰ってる「両辺をaで割って〜」っていうようなのも、実は割り算の存在が無意識に前提とされているけど、零因子があるかないかっていうのは【割り算の構成のためにこそ】必要な話なんだ。
だから「割り算というものが存在する」って無邪気に考えることすらもこういう問題では危険だよと言いたかった。
知的障害を伴わない発達障害の存在が世間に広く認知されるようになって10年以上になるだろうか。
アスペルガー症候群(自閉症スペクトラム)やADHDなどの、コミュニケーション不全の障害は、現在の高度情報化社会に適合することが困難な人々を障害者として認定したもので、そのような意味で「新しい障害」「時代によって創られた障害」とも言われている。
歴史的経緯から俯瞰すれば、社会の構成員の多くが第一次産業に従事していた時代には、軽度な発達障害は障害としては認識されていなかった。社会にとっては身体的な機能障害の有無が、何より重要視された。
機械を使わない農作業では人間の身体が頑強であるか否かが生きていく上で重要である。逆にこのような時代において、体格さえ頑丈でよく働くことが出来ればよく、発達障害の有無が社会の構成員にふさわしいか否かの判断基準とされることはほとんどなく、それどころか知的レベルで多少劣っていても問題とはされなかった。
ところが産業革命が起こり、人々が工業生産すなわち第二次産業に従事する者が多くなってくると、知的レベルが低い者は労働生産性において不利となり、工場などで働くことがままならず、障害者としてみなされるようになる。どれだけ体格が頑丈であっても、軽度知的障害者は障害者として扱われる。
そして現在の高度情報化社会では、第三次産業に従事する者が多くなっている。情報通信業を含むサービス産業においては、他人との間の情報の伝達に問題を生じる者、すなわちコミュニケーション能力が低い者が障害者と認定されてしまう。認定を受けた者やその予備軍は、生きづらさを抱えて生きていかなければならなくなったのである。
こうして、今日の社会では他者とのコミュニケーションが困難な者は軽度であっても、総称して「発達障害者」と呼ばれ、障害者として取り扱われ、治療の対象となり、障害者枠で働くことが可能になってしまった。
生きづらさを抱える人々が社会から援助されるようになったのだから、それは社会の進歩である、ととらえる人もいるが、高度情報化社会が発達障害であることが生きづらくしてしまったのだから、発達障害者にとっては社会の悪化であろう。
ところが社会の進歩(あるいは対象者にとっての悪化)はとどまることを知らない。高度情報化社会から次の社会へとステップアップする中で、今後クローズアップされるであろう障害が、掲題の第四の障害である「嫌感障害(けんかんしょうがい)」(英訳するとharassmental disability)ではないか、というのが私の予想である。
「嫌感(けんかん)」とは私の造語で、嫌感障害者は、他人の嫌悪感を感じ取れずに、あるいは知りながらも敢えて、ハラスメントを行う人々のことを指している。
(同様に"harassmental disability"も、発達障害=disappointmental abilityに寄せて作った造語)
「それは一般の発達障害とどこが違うのか?」と問われるかもしれないが、知的障害が身体の脳の障害という意味で広義の身体障害者であり、発達障害が広義の知的障害であるのと同様に、嫌感障害もまた、広義の発達障害ととらえて差し支えない。
しかしこれまでの発達障害という概念の中には、共感性が低いために他人の感情が分からずに意図せず他人に嫌悪感を与えることをその中に含みつつも、「他人が嫌がることがわかっていながら他人の嫌がることをすること」、いわゆるセクハラやパワハラをすることまでを障害の一種だと認定することはなかった。
今回私が提唱する「嫌感障害」は、一歩踏み込み、発達障害者の中で他人に嫌悪感を与え続けてやまない行動発言をする人々と、攻撃的であったり、あるいは人が嫌がることをすることをやめられない人々を、まとめて新たな障害者として認定するものだ。
第1の障害が身体障害、第2の障害が知的障害、第3の障害が発達障害ととらえたことが、嫌感障害を第4の障害ととらえる所以である。
昨今の脳科学では、人間の自由意志の存在は否定され、すべてが所与の条件、すなわち、遺伝子と環境、構造などによって思考は自動的に決定されているという。
自分の意思によって他人の嫌がることを行う人もまた、ある意味自分ではどうしようもない衝動によって突き動かされ、社会に不適合な行動を取らざるを得ない障害者と言えるのではないか。
彼らが適合できない社会とはなんであるか。それは女性や障害者が多く進出した社会であり、多様な社会であり、弱者が認められ、生きやすく、守られる社会である。
この社会では、強者や多数派が、その力でもって弱者や少数派の人権を踏みにじることは、もはや許容されない。
強者が所有していた権力、多数派が所有していた圧力でもって、他人の自由を拘束し、口をふさぎ、多様性を蹂躪することは社会がもはや許さないのである。
他人への嫌がらせを許さない社会は、高度情報化社会が発達し、様々なサービスが生まれる中で、人々が夢中になるサービスに人々の興味が集約していく中で育まれていった。人々が夢中になるサービスとは、SNSである。
高度情報化社会が理性の支配する知識の共有を成し遂げたものであるならば、その中で育てられてきたSNS内では、感情の共有が重要なものとして形作られてきた。
それは「高度感情化社会」と言えるものである。私達は高度感情化社会という新しいセクターに生きており、産業革命、情報革命の次に生じた、感情革命の只中にいるのである。
GAFAが情報化社会の雄ならば、そこに入っていないTwitterは感情化社会の雄であり、今後は感情産業と言われるような感情の共有化をビジネスの柱とする産業(第四次産業?)に、多くの人々が従事するようになるだろう。
その産業の中で障害となるのが、他人の感情を傷つけて平然とする人々である。その問題が今、ジワジワと、次々にクローズアップされているのを私達は知っている。
「こんなことまでハラスメントなのか?」
という疑問を抱いた人は、多いのではないだろうか。なぜ新しいハラスメントが次々に問題視されているのか、わからない人も多いはずだ。戸惑っている人々も多いだろう。新しいハラスメントを提唱する人々に「お気持ちギャング」というレッテルを貼る人々も少なくない。
しかし、これが時代の趨勢である、ととらえると、納得できるのではないだろうか。他人に嫌悪感を抱かせるのは障害である、という新しい常識が広まりつつある過程なのだ。
嫌感障害という概念が確立されるメリットとしてまず考えつくのが、嫌感障害は障害であるのだから、治療の対象となり、医療が解決する分野となることだ。
発達障害がコンサータなどの投薬で治療されてきたように、いずれ嫌感障害を解決する薬が見つかることになるだろう。
次に挙げられるメリットとしては、パワハラ、セクハラをしてきた人々が、ひとくくりの集団として可視化され、社会活動における「障害」の持ち主と認識されることだ。
発達障害という概念が、コミュニケーションの重要性を浮き彫りにしたように、嫌感障害という概念は、他人への攻撃性を抑止できる能力の重要性を明らかにする。
パワハラ、セクハラ、モラハラを、無意識であれ意図的であれ、行ってはいけないし、それは教育によって徹底されていき、矯正できないものは「障害」がある者として取り扱われることになるだろう。
このような潮流が社会に表出しようとしていることを、私達はこれから目の当たりにすることになるだろう。
なお、以上のようなことがふと頭に浮かび、自分のオリジナルなアイデアかもしれないと思い、一気呵成に書き上げたが、研究者でも専門家でもない私の思いつくようなことは、すでにどこかで誰かが考えついているかもしれない。
「高度感情化社会」「嫌感障害」といった概念に似たことが書かれている本などがもしあれば、ぜひブックマークか増田返信で教えていただきたい。
逆にアイデアが私のオリジナルだった場合、用語やアイデアに関して、皆さんのご自由にお使いいただきたい。この記事からの引用である、などと断る必要もありません。
by tnkm
新卒で働いた年のこと。
新人にも業務が回るようになったころ、美人同期は残業しそうになると俺に仕事を頼むようになってきた。
断っていた。
女だから、若いうちは同程度に顔がいい男よりも得をしてきただろう。そういう人間が「助けを求めたら喜んで助けてもらえる」ことを所与のものとして生きているのが心底腹立たしい。そういう人間の自己肯定感に貢献するわけがないだろ。
何回か断っていたら俺には仕事を頼まなくなった。代わりに、同じ部署の30代の先輩男性に仕事を頼んでいた。その先輩がニコニコ手伝っているのを見て、お前みたいなのが美女をつけあがらせるのだとずっと思っていた。こちらには目に見える利益など与えてくれないのに何をしてるんだか。
美人同期の甘え(本人は甘えているとも恵まれているとも思ってないかもしれない)を良く思わない人は俺以外にもいた。
秋には
美人同期・そいつを助ける先輩男性 vs. 俺・40代既婚女性(課長)・30代先輩既婚男性
という図式がなんとなくできていた。
俺の側の2人は俺の思いに共感を示してくれていた。たまに飲みに連れて行ってくれて奢ってもらった。今でも感謝しています。
さて、その図式も長くは続かなかった。
美人同期が辞めたのだ。
1年半もしないで、視界に入れるだけで不愉快なものが消えた。そのことは単純にうれしかった。
しかし、あいつは今もどこかできっと、顔の良さで得をしている。
そして、きっと幸せになるだろう。俺とは違う思想の持ち主が助けるから。
憎い。
苦しめ。
不幸になれ。
でも死ぬなよ。
苦しめ。
長く苦しめ。
生きて長く苦しみを味わえ。
新卒で働いた年のこと。
新人にも業務が回るようになったころ、美人同期は残業しそうになると俺に仕事を頼むようになってきた。
断っていた。
女だから、若いうちは同程度に顔がいい男よりも得をしてきただろう。そういう人間が「助けを求めたら喜んで助けてもらえる」ことを所与のものとして生きているのが心底腹立たしい。そういう人間の自己肯定感に貢献するわけがないだろ。
何回か断っていたら俺には仕事を頼まなくなった。代わりに、同じ部署の30代の先輩男性に仕事を頼んでいた。その先輩がニコニコ手伝っているのを見て、お前みたいなのが美女をつけあがらせるのだとずっと思っていた。こちらには目に見える利益など与えてくれないのに何をしてるんだか。
美人同期の甘え(本人は甘えているとも恵まれているとも思ってないかもしれない)を良く思わない人は俺以外にもいた。
秋には
美人同期・そいつを助ける先輩男性 vs. 俺・40代既婚女性(課長)・30代先輩既婚男性
という図式がなんとなくできていた。
俺の側の2人は俺の思いに共感を示してくれていた。たまに飲みに連れて行ってくれて奢ってもらった。今でも感謝しています。
さて、その図式も長くは続かなかった。
美人同期が辞めたのだ。
1年半もしないで、視界に入れるだけで不愉快なものが消えた。そのことは単純にうれしかった。
しかし、あいつは今もどこかできっと、顔の良さで得をしている。
そして、きっと幸せになるだろう。俺とは違う思想の持ち主が助けるから。
憎い。
苦しめ。
不幸になれ。
でも死ぬなよ。
苦しめ。
長く苦しめ。
生きて長く苦しみを味わえ。
承前 : Part-5 https://anond.hatelabo.jp/20201008100556
次回 : Part-7 https://anond.hatelabo.jp/20201014091325
前回、AmazonにL7で行ったXさんの例が出た。実際に彼がどれだけの収入を得たのか、株価がそれにどう影響したか、詳細を見て行こう。
人物特定を避けるため時期や額について多少の変化をつけていることを注意しておく。
彼のTCは$700k。以前のせたlevels.fyiでの数字はSeattle等ほかのworking siteでの数字(1-2割低くなる)も含めた平均であり、かつ彼は交渉をうまくしたのでこうなった。内訳は4年間の平均で、一年毎にサラリー165k、RSU 420k, sign on bonus 115kだ。
これを実際の時系列でみてみるとずいぶん印象が変わってくる。Amazonの場合、RSUのvestingが少々特殊であるためだ。
Income\Year | Year 1 | Year 2 | Year 3 | Year 4 | Total |
---|---|---|---|---|---|
Salary | $165k | $165k | $165k | $165k | $660k |
RSU | $84k | $252k | $672k | $672k | $1,680k |
Bonus | $253k | $207k | 0 | 0 | $460k |
TC | $502k | $624k | $837k | $837k | $2,800k |
上記のように、AmazonはRSUを3-4年目に集中的にvestする。一年目終了後に5%, 二年目終了後に15%, 以降半年ごとに20%だ。
RSU-heavyなことと相まってこのままだと一,二年目に社員が困窮する可能性がある(特にmortgage!)。そのためsign on bonusを1-2年目に配布する。
最終的な総計は変わらない。四年間で$2.8M、TCは一年毎に$700kだ。
しかし、彼の実際の収入はそれよりもかなり高かった。Amazonの株価が高騰したのだ。
仮に彼が2015年初頭にオファーを受け取ったとしよう。そのオファーレターにはRSU報酬の「金額」は当然書いていない。代わりにRSUの「株数」が書かれている。このRSUの株数は通常、TCとその時点の株価から逆算してTCがその額に「なるように(target)」株数が決められる。((あるいはそのように交渉する、といったほうが正確か。RSUの総配布数は組織ごとに予算決定時にあらかじめ決められ、その枠の中からオファーを出す。これが尽きてオファーを出せなくなることをRSU depletionと呼ぶ。)) 2015年初頭の$AMZNは$312。なので彼は5,400株のRSUをGrantされたことになる。
そして、実際にRSUがvestされ社員が売却した時の総収入は株価に影響される。彼の場合、vest直後に売却したと仮定すると、
2016年一月末、2017年一月末、2017年七月末、2018年一月末、2018年七月末、2019年一月末の株価が重要となる。
Income\Year | Year 1 | Year 2 | Year 3 | Year 4 | Total |
---|---|---|---|---|---|
Salary | $165k | $165k | $165k | $165k | $660k |
$AMZN | $587 | $823 | $988(Jul), $1,451(Jan) | $1,777(Jul), $1,718(Jan) | |
Realized RSU | $158k | $665k | $1,064k, $1,563k | $1,914k, $1,850k | $7,213k |
Bonus | $253k | $207k | 0 | 0 | $460k |
Realized Comp | $576k | $1,037k | $2,792k | $3,929k | $8,333k |
なんと、彼の実際の収入(Realized compensation)は三倍に膨れ上がったのだ。四年間で$8M以上。
プロ野球選手でもこれだけ稼ぐ人は少ない。これが一技術者、しかもまださらに上がいるL7で起こるというのがシリコンバレーの狂っている所だ。
このように、TCを議論するときに「オファー時の額」「実際に入った額」を区別してtarget compensation, realized compensationと呼ぶことがある。
通常使うのはtarget compensationである。少なくとも自分の周りでは。未来のことは誰にもわからないのだから、複数社からのオファーを比べるためにTCを導出するときはその時点の株価を使うしかない。
しかし、世の中にはそう考えない人もいる。自分がある企業からオファーを受けたとき、対面交渉の段階でそのhiring managerがこう言い始めた。
「確かにうちのオファーはあちらの企業よりもTCが低いね、でもexpected stock appreciationのことを考えてみよう.」
自分は少し戸惑った。彼がStock Appreciation Right (SAR, ストックオプションのようなもの)のことを言っていると思ったのだ。
「うちはRSUが多いから、うちの株価が今後四年間、年間 Y%で上がっていくと仮定すると君のrealized compensationは...」
といって目の前で電卓アプリをたたき始めた。なんと、この人は株価の将来のappreciationが分かるというのだ! しかもY%はその時のNASDAQ compositeの平均成長率よりもかなり高い数字だった。Stonks only go upとでも言うのか、このGen-Zめ!
上場企業の株価が今後どうなるか、確実にわかるはずがない。わかるならば仕事などせず株取引だけで暮らしていける。
自分はその人の交渉手法を危険だと感じた。自分が同じことをしようとは思わない。その言葉につられて応募者が入社した後に株価が下落したらどうするのだ。
訴訟とはいかないまでも、その社員がHRやLegalに苦情を持ち込んだとしたら。
オファーレター等、証拠が残るところに一切そんな言葉がなくても、複数社員が同様の苦情を入れたら、HRが自分を守ってくれる自信はない。
定期的に行われる、たるいクリック連打訓練は社員の教育のためではなく、不祥事の際に全責任を社員におしつけるためのものだ。
Legalは自分のterminate letterを発行するのに微塵の躊躇もないだろう。それこそseveranceがもらえるかさえもわからない。
自分はそのhiring managerに不信感を抱き、最終的には他のところに行った。
自分は他の人に転職の助言をする際、株価の下落リスクを考えるように強調している。
Tech株が近年好調であるのは確かだが、一寸先は闇である。IBMを見よ、一昔前のMSFTを見よ。
株価が上昇することを前提に将来を決めるのは非常に危険だ。実際、IBMに2010年ごろに移った知人は後悔しきりであった。
さて、自分がオファーを断ったその企業であるが、その後、Y%を遥かに超える株価成長を続け、自分の心を削った。
所与の状況で自分が間違った選択をしたとは思っていないが、それでも時折そのオファーレターを見返すことがある。
シリコンバレーではよくある話である。Googleの早期社員になりえたひと、FBの早期社員であったかもしれない人、
そういう人はたくさんいるが、別に彼らが不幸そうには見えない。彼らにその時のオファーレターについて聞くと、
みな同様に時折見直す、という。人生の大事な選択をするまえに、来し方を見返し、自分の心が均衡を保っているか、
何があっても後悔をしない心構えができているか、自分の人生は何のためにあるのか、心をはせるツールである。
次回はRSU Refresherについて。
■所与の前提
航空会社は運行に支障を来す行動をとった者を強制退場させることを規約で規定している
→これは演繹できない
→降ろすことができる
→これは演繹できない
→降ろすことができる
「マスクのせいじゃない」と言っている人は、この所与の前提を共有しているものとしてしまって話している。
「マスク関係あるよね?」と言っている人は、この所与の前提を飲み込めていないor所与の前提に疑義がある。
→たとえば、「運行に支障を来す」の中に「マスクをしない」が含まれていると思い込むなどは論理的には明白に誤謬。
黒人差別だろうがなんだろうが、この前提が事前に共有されれば問題にならない。
黒人差別はいけない、マスクはすべき、とかいうコンセンサスの問題でもなんでもなく論理的に所与の前提が一致しないと議論にならない。
「運行に支障を来す」が暴言や暴力として別途規定されていて、この手の議論をするなら本来はそっちの内容まで前提を共有するべき。その上で、「暴言や膀胱があったか分からないから善し悪しを判断できないよね?」という議論はできる。
批評・評論・研究と社会運動が悪魔合体した結果かなあ、と思ってる。
批評や評論、あるいは研究の領域では、「俺がジャッジだ」でいいんだよね。「この作品にはこれこれこういう問題がある」というのを、あくまで個人の批評や評論や研究として、審美的な基準から行う分にはなんの問題もない。
だからオタク同士の会話で「今となってはあの描写古いよねえ……」みたいにつぶやく分には、何も問題にされないんだよな。新聞の書評欄とか、あるいは「気鋭の学者によるラノベレビュー○○選!」みたいな場だったら、「ちょっと性差別的なのはどうかと思うんだけどー」みたいなこと言っても別に問題にならないでしょ。
レビューとか評論というのは多少厳しいことを書いてもなんならボロクソにこき下ろしたりしても問題ない、なぜならそれは個別の作者による個々の作品の批判であって特に実際の権力のあるものではなく、「文芸」とか「ラノベ」とか「オタク界」とか、とにかくそういうおおもとの土台となる文化とかジャンルとかを揺るがすものではないからだ。むしろその内部で行われるものだ。
社会運動は物事に変革を、場合によっては廃絶を要求する。社会運動は外部から内部を揺るがそうとする。社会運動は美しさよりも正しさを重視する。そして社会運動のジャッジには権力が伴う。評論やレビューによるジャッジと違って。
昨今の表現規制をめぐる問題で、表現に口を出す側が「自分もオタクである」「オタクだって嫌いなアニメをdisったりしてるのに、なんで私のdisが認められないんだ」と主張することがある。本人はおそらく大真面目にそう考えているんだろう。でも答えは自明だ。
そりゃ、あんたの主張が「社会運動」の文法やコードに則って発せられているからだ。
評論やレビューのコードなら、どれだけ作品をdisろうがよほどトンチンカンなdisでない限り別に文句は言われない。その作品を好きなやつとバトったりする羽目にはなるかもしれないが、それもしょせんはオタクコミュニティの内輪もめにしかならない。なぜなら評論やレビューは、ジャンルや文化の内部で、その存在を所与のものとして行われるものだからだ。
でも、社会運動のコードで作品をdisったら、それはその作品だけじゃなくジャンル全体への攻撃にもなりうる。社会運動は文化やジャンルの存続に関心がない。なんなら滅びても構わないとさえ思っているだろう。社会運動は正しさを最優先する。これ自体は別に悪いことじゃない。でも「正しくない」という理由で切り捨てられそうな側に身を置いてみれば、不倶戴天の敵としか思えない。
本当に社会運動をやっているという意識の人は、別にあんたらから不倶戴天の敵と思われても気にしませんと堂々としているだろう。宇崎ちゃんバッシングに火をつけた某弁護士なんかはそのへん潔いというか、自分がオタクコミュニティから敵視されてもいっこうに構わん、あいつらは私の敵だ、とでもいうような態度で、敵ながら天晴だった(いや、最終的には打倒すべき敵なんだけど)。
でも、社会運動のコードに則って物申しておきながら、ジャンル愛好者に敵視されると「自分もオタクですよ」と言い訳をしようとする人がいて、それは申し訳ないけど見苦しい敵にしか見えない。キズナアイバッシングの先頭に立った某社会学者なんかはその類だろう。お前さっきまで運動家の顔してたやんけ!
特にフェミニズム関係が燃えやすい理由もそこにあると思っていて、あのへん、評論と運動の境界があんまりないというかシームレスな界隈だという印象を受ける。つまりフェミニストと名乗る人たちには評論家として文学作品をジェンダー的視点から解釈しますという人から戦闘的にデモやら抗議行動やらを繰り広げて社会を変えていこうとする人まで幅広い人がいて、その人たちがフェミニズムという同じ旗の下に集っており同じ理念を奉じていて相互に行き来しているので、境目が曖昧になりやすい。
なので、評論のつもりで社会運動的な物言いをしちゃう人が出たり、評論を発しただけのつもりが社会運動に発展しちゃったりする。本人からすれば、自分は評論をしただけのつもりなのにどうして? と思っていることだろう。いや、だから、あなたやあなたの周囲が社会運動の人ばっかりだったら、あなたの評論も社会運動の一環にしか見えないんだよ!
オタク同士で「宇崎ちゃんの巨乳描写は好きじゃないんだよな」「銀英伝もっと女の提督がいてもよくない?」と語らうことと、社会運動として献血ルームに抗議のお電話したり「描写を改変すべきだ」と主張することは社会的には別の意味を持つのであり、そこの社会的な場のコードみたいなやつを読み解き理解することが必要だよなと思うのです。
自粛中の都民の4連休、積み残した仕事を午前中にちょっとやって一休みしている。
コロナ以降は夫婦ともに在宅率が一気に高まったので、家で料理を作って食べるようになった。料理は好きだし通勤しないで済む分の余裕があるから苦にもならない。
考え事が仕事の大半、というか企画職なので、送られてくる所与の資料を読みふけり調べ物をしうーんうーん、うーんと煮詰まったりしながら資料を作り、リモート会議でプレゼンしたりする。最初のうちは化粧した方がいいだろうか、ビジネスぽい恰好をした方がいいのだろうかなどとと思ったがこちらも先方もだんだん緩くなり、家にいるときの服装で会議をしている。さすがにタンクトップとかではないが、Tシャツは全然ありである。プレゼンしたもののピント外れで画面に並ぶ顔たちからつぎつぎにダメ出しをされたりすることもしょっちゅうなので、冷や汗もすぐ乾くTシャツでもいいぐらいだ。
我が家には子ができなかった。そのせいもあってリモート仕事の環境はかなり良いのだろうと思う。マンションの部屋からは割といい風景が見える。手が止まったらベランダに出て少しボケっとしたりしている。古いマンションだが窓からの風景が気に入って買った。寝室の他にもう一部屋あったのでそちらを夫用の部屋にして、私はダイニングテーブルを占拠している。リモート会議の内容は当然家族にも守秘なので、私が会議中は夫はリビングには入れないし逆もしかりである。共用スペースを私が占拠すると夫はイヤなのではないかと思ったが、特に不都合はないから大丈夫だというので良かった。夫のリモート会議の声が個室から漏れ聞こえてくることがある。何を話しているかは分からないが気配は感じて、仕事中の夫…ふふふ、とほくそ笑む。こちらがダイニングテーブルに猫背になって酷い顔をして煮詰まっているところに、夫がコーヒーを淹れに来るときがある。コーヒーがいいにおいで気づいて顔を上げると私の分のコーヒーをテーブルにおいてくれる時もある。そうじゃない時もある笑、紅茶淹れるけど飲む?と声をかけて二人でちょっと休憩する時もある。
ダイニングテーブルで仕事をする良いことの一つは、食事の支度だ。食事まわりは以前から主に私の分担なので、ダイニングで仕事をしながら、煮詰まったら手を洗って晩ごはんのちょっとした下ごしらえをしたりしている。しょっちゅう煮詰まるおかげで凝った晩ごはんが増えたように思う。正月でもないのに黒豆を煮込んだりしている。だし巻き卵とか(だしを引いたら冷えるまで待つ、みたいなほんの少しの手間が、出勤上等な日々ではなかなか面倒になっていた。タブレットで資料を読みながら煮魚の上に煮汁をかけたりしている。煮汁をさんざん浴びせられてツヤツヤになったカレイの煮物が我ながら旨かった。ダイニングを私が占拠したことで、ごはんはリビングのテーブルで食べよう、ということになった。それも宴会みたいで何か楽しい。宴会料理ではなく粗食だが。
夫は良い椅子を買うと言ってデカいビジネスチェアを買っていた。下に敷くものを合わせて買っていて、さすが夫ナイス!と思った。私はダイニングの椅子とテーブルで割と快適に仕事をしている。おたがい、残業(というのかな?)で遅い時間まで仕事をしている時もあるのだが、寝室を仕事部屋にせずに済んだのは一番幸いだったと思う。
リモート会議ももうかなり慣れてきて、今はお子さんがいる相手方が話している時にかわいらしい声が入ってくるのにデレたり、先方の旦那さんのデカいくしゃみが入り込んでくるのに笑いが止まらなくなったりしている。やはり在宅だと静かで外部環境の変化が少ないので、小さいことがツボって笑いが止まらなくなったりする。
自分の取引先だと、会議の映像をoffにして、実質複数電話状態で打合せをすることが増えている。社内会議ではすでに回線の安定確保のために映像要らんとなっている。でも実は、野次馬根性もあって背景に映りこんでいるものに興味津々なのでこの風潮はほんの少し残念でもある。一方で、先方が年配の方だったりすると顔が見えないのが不安になるようなので、映像onでやる。私はダイニングテーブルで会議中なので背景はリビング・ダイニングの壁全面に作り付けてもらった本棚が映る。素敵な画集や素敵な装丁の文学の間にオシャレなインテリア雑貨などが美しく並んでいればいいのだろうが、大半は仕事の関係の本が雑然とそしてギュウギュウに縦・横に詰まっている。webの映像でどんな本が置いてあるかまでは分からないだろうが、仕事の本に混じってお笑い男の星座とかも入ってるからバレたら恥ずかしいな。
そのアカウント曰く、『異常な女と異常な男が出てくる』という触れ込みだった
実際に読んでみたら、とある人気配信者の男(イケメンだしちょっとかわいい感じ)に認知されようと狂う女と、配信ではちょっとかわいい感じを出しておきながら実際は女癖の悪い配信者男、といった漫画だった
……女の方はたしかに狂っているけど男はそんなに異常か?
というのがそっちょくな感想
だって、単にその男はあらゆる男が備えているような性欲を備えていて、それに準じた行動をしているだけだったから、なにが異常なのかはわからなかった
まあしかし、男の性欲を所与のものとして理解していない人間がいることはわかった(当該の、気が利いていて聡いようなアカウントがそれであることには少しの驚きがあった)
国家権力の最大の仕事のひとつは再分配、わたしたちから集めた税金をどのように使うのか予算を決め執行することだ。そしてその仕事こそは、彼らの力の源泉でもある。
平時であれば、これほど多様化された社会である、それぞれの立場環境により何を優先すべきは変わる。わたしたちの利害は対立する。彼らはそれを調整する。
しかし、今は平時ではない。国難であり、非常のときである。ウイルスは、病は、死は、イデオロギーや世代や階級や党派を超え、等しく襲い掛かる。感染症の前にわたしたちは平等である。わたしたちが、いま、優先すべきものはただひとつだ。
現政権が、この状況で決めた補正予算案に含まれたものが下記である。各省庁・利益団体・既得権益層がいかに予算を奪い合ったか、よくわかる。これが、10万円給付などと抱き合わせされ、ほぼ無審議で国会を通過する。
https://www.tokyo-np.co.jp/article/politics/list/202004/CK2020042502000145.html
経済産業省「Go To キャンペーン」 一兆六千七百九十四億円
わたしたちは残念ながら自らより優れたものを選べるほど賢くはない。
革命のような時間とコストをかけなくていい。選挙制度はそのためにある。
彼らの権力は、所与のものではない。わたしたち主権者が、彼らに与えたものだ。
与えたものは奪うことが出来る。
無能な、冷淡な、そして強欲な彼らに、罰を与えることが出来る。
わたしたちは、彼らを選び直すことを通して、偏狭な官僚システムにも罰を与えることが出来る。
彼らがむさぼろうとしているその金を、
依然として増えることのない検査拡充のために
使おう。
彼らに罰を与えよう。そして変えるのだ。
あ、最初に言っとくと、この文章、別に結論ないです。ポエムです。
深夜のタイムラインで、旧知(というほどでもないが)の人とやりとりをしていて、ふと思った。どうやらその人いわくいまは「過渡期」であるらしい。
ま、確かにそうだ。
いい年したおっさんなので、もう20年くらいインターネットにいる。ということは、インターネットが「俺たちの隠れ家」だった時代から、だれにでもアクセスできるようになった2020年まで、その全期間をインターネットで過ごしているということでもある。
その過程では、ミクシみたいな場所に引きこもっていたこともあり、そこそこ名が売れていたときもありで、まあいろいろあった。
昔より、インターネットでなんか書くことに自由がなくなったとその人は言う。まあこれも自分の実感とよく合致する。主に「自分の書いたものがどこまで届くか」という制御という面において。これが制御できないのがなかなかに厳しい。ま、ゾーニング? そのへん含めて過渡期なのかもしんないですけど。
で、自分なんかは、そのほとんどの期間において、一線で書き続けてる人を何人か知ってるわけなんだけど、書き手のほうも状況に対応することをしなきゃいけない。いやおうなしに戦略的じゃなきゃその立場は維持できない。それができてる人ってすごいと思うんですよね。自分はできなかっただけに。
対応ってのは、そのどこかに迎合という語義も含みうるものだとは思うんですが、由来、文章書くのなんてだるいことなんですよね。それをわざわざするからには、なにか叫びたいことがあって、それを文章にしなきゃならない。これ大変なことです。ましてブログなんて看板背負ってたら。迎合なんてするくらいなら、最初からそんなめんどくさいことしてねえですよっていう。
ブコメ見ててよく思うんですよね。意見が違うのはもちろんかまわない、なんらかの理由で思考の枠が違ってて合意のしようもない。それもかまわない。けれど、わざわざ看板背負って言挙げしたそのそもそものモチベーションを相対化するようなブコメはかなり苦手。みんながみんなそうとは言いませんけど、たとえハンドルネームだろうがなんだろうが、それを背負って書くからには「ほかならぬ俺は」こう思ったのだ、聞いてほしい、だれかに届いてほしい、という初期衝動があるんですよ。そこを相対化すんなよ、対等の熱量で殴りかかれよ。そんなことをよく思う。
けど同時に、そんなめんどくせえことする人もそうそういないよな、とも思う。
増田なんですけど、あれホッテントリに上がってくるようなやつって、たいていなんらかの意味ではおもしろい。それはある意味とうぜんで、どんな人にでも書かれるべき瞬間、これだけは伝えておきたいということ、まあそんなようなものをひっくるめて「輝き」みたいなものはあると思うんですよね。これかならずしも肯定的な意味だけではなくて、無駄な輝きは共有されない。日常を脅かす脅威でもありますから。だから、書かれる。とてもおもしろい。
不断に「書かれるべきこと」を抱えているのって、ある意味では病人といってもいい。そこまでおまえは考えるのか。そこまでして伝えたいことがあるのか。それだけ書いても、まだ足りないのか。そして、そうして書かれたエントリに「いや、俺はこうだ」と殴りかかるのもまたそれ相応の熱量を抱えた病人ということがいえるかもしれない。
「俺が」というのは、ある意味で自己顕示欲そのものなんですけど「ほかならぬ俺は、こう思うのだ」というのは、自己顕示欲とは少し違うものだと思う。なにが違うのかはうまくいえないんですけど……。
ま、どっちにしろ、看板背負ってるのはリスクなんですよね。これもう先行者利潤というしかないんですけど、昔から書いてる人は、その身振りを学ぶ機会ってのがどこかであった。いまの時代、看板背負って書くのは、最初から「大衆」とやらを相手に立ち上がるってことで、それをトレーニングなしにできる人なんてそうそういない。増田がトレーニング場になるのかなとも思うんだけど、それもまたちょっと違うような感じがある。
なんにせよ、個人ブログの「おもしろい部分」ってのが、かなりの割合で増田に持ってかれてるのは確実だと思うんですけども。
でもまあ、見たくはあるんだよなあ。バックボーンのはっきりした任意のだれかと、別のだれかが議論したりとかそういう光景。「あの人」と「あの人」だからこそ見えてくるものがあるというか。
別に昔はよかったとかそんな話じゃないんですよ。自分が「ちょっとなあ」と思う現状は、だれかにとっては所与の環境であり、そしてその環境からしか出てこない新しいものというのがあって、自分にとってはそれを見るのが最大の娯楽だったりするので。新しいものはたいていおもしろいじゃないですか。
ただまー、書き手としては「テーマを見出しにくい」時代にはなったとは思いますね。いや、自分なんも書いてないですけど。「俺が死ぬほど考えているこのことについて、不特定のだれかが、同じだけの熱量で理解してくれて、そのうえで別の道を示してくれ」みたいな願いは、とてもかなえづらい時代になったなーとは思う。一人で考えるのは、わりと孤独で、しかも効率がよくない。
まあ自分も読み手としては、んなこと知ったこっちゃないんですけどね。今季も大量のアニメあるし。
でも、ひとたびテキストエディタを立ち上げたときに、ひょっとしたらそこには、空に向かって鉄砲放つような、一抹のさびしさがあるんじゃないか、そんなことを想像したりもします。
公取委が個人情報保護委員会とは別にオンラインサービス規制を提案して、「サービスの対価として自らに関連するデータを提供する消費者」とか言い出してるけど、EUでも似たようなことが起きてたらしい。
欧州委員会がオンラインサービス規制のための新しい指令を起草して、そこで「消費者がサービスの対価を個人データで支払う……」とか書いてしまった。これに対し、欧州データ保護監督機関が「何すんじゃワレェ!」したのが以下の見解である。
https://edps.europa.eu/sites/edp/files/publication/17-03-14_opinion_digital_content_en.pdf
EDPSはデータ駆動経済について、EUの成長のために重要であること、デジタル単一市場戦略として唱道されるデジタル環境において抜きんでていることを認めております。消費者法とデータ保護法とが共同し相補しあう関係にあることは私たちが一貫して論じてきたところであります。ですから、「デジタル商品」の提供を受ける条件としてデータを差し出すことを要求される消費者の保護を強化するために、デジタルコンテンツの供給にかかる契約に関する特有の側面にかかる2015年12月の委員会指令プロポーザルの意図しているところを、私たちは支持しております。
しかしながら、この指令のある側面は問題をはらむものです。というのも、これが適用可能なのは、デジタルコンテンツのために価額が支払われる場合だけではなく、デジタルコンテンツが金銭以外の個人データその他何らかのデータの形での反対給付と引き換えに供給される場合にも適用可能だからです。EDPSは、人々が金銭を支払うのと同じように自分達のデータを支払えるという考え方を導入するような規定を新たに定めることのないよう警告いたします。個人データの保護を受ける権利のような基本権は、単なる消費者利益に縮められるものではありませんし、単なるお値打ち品のように個人データを捉えることはできません。
最近採択されたデータ保護フレームワーク(以下「GDPR」といいます)は、未だ完全には適用可能でなく、新しい e-Privacy 制度は今も審議中でございます。ですから、EUとしては、立法者が協議されている入念なバランスをひっくり返すようなプロポーザルは、何であれ避けるべきものです。イニシアティブの重複は、デジタル単一市場の統一性を意図せずとも損ない、規制の断片化と法的不確実性をもたらすことになりかねません。デジタル経済における個人データの使用を規制する措置として、EUがGDPRを適用することをEDPSは推奨いたします。
「反対給付としてのデータ」という概念……このプロポーザルでは未定義のままです……は、所与のトランザクションにおけるデータの正しい機能について混乱を引き起こす恐れがございます。この点で供給者から明瞭な情報がないため、さらに難しいことになるでしょう。それゆえ私たちは、この問題を解決する一助として、EU競争法におけるサービスの定義を一考することをお勧めしますが、その地域範囲を定義するうえでGDPRの用いている規定が役立つかもしれません。
本見解では、このプロポーザルがGDPRとどのように影響し合うことになりうるかを検証いたします。
第一に、データ保護制度に基づく「個人データ」の定義が広範であるため、その効果により、この提案指令の対象となるデータが全て GDPRに基づく「個人データ」とみなされることは十分にありえます。
第二に、(個人データの)取扱いが発生する厳密な条件はGDPRで指定済みであり、この提案指令に基づく修正や追加を必要としておりません。このプロポーザルは反対給付としてデータを用いることを正当とみなしているようですが、GDPRでは、例えば、(本人の)同意の有効性を検査し、デジタル取引の文脈において(同意が)自由意思に基づくとみなしうるか決定するための、新たな条件を一式用意してございます。
最後に、消費者に与えるものとして提案されている契約終了時に供給者からデータを取得する権利と供給者がデータ使用を控える義務は、GDPRに基づくアクセス及びポータビリティ権やデータコントローラのデータ使用を控える義務とオーバーラップしている可能性があります。このことで、適用する制度について意図しない混乱をもたらすことになりえます。
https://edps.europa.eu/sites/edp/files/publication/18-10-05_opinion_consumer_law_en.pdf
本見解は、EU消費者保護規則のより良い執行と近代化に関する指令のプロポーザルと、消費者の集団的利益の保護のための代表訴訟に関する指令のプロポーザルからなる「消費者のための新しい取引」と題する立法パッケージに関するEDPSの立ち位置を概説しています。
EDPSは、目標において最近近代化されたデータ保護フレームワークと密接した領域で、既存の規則を近代化しようという同委員会の意図を歓迎します。EDPSは、個人データの大規模な収集と収益化、およびターゲットコンテンツを介した人々の注意の操作に依存するデジタルサービスの主要なビジネスモデルが提す課題に対応するために、現在の消費者法におけるギャップを埋める必要性を認識しています。 これは、消費者法を改善して、個人とデジタル市場の強力な企業との間で拡大している不均衡と不公平を是正する、またとない機会です。
特にEDPSは、指令2011/83 / EUの範囲を拡大して、金銭的な価格にて提供されないサービスを受ける消費者が、同指令が提供する保護フレームワークの恩恵を受けることができるようにする意図を支持いたしますが、それはこのようなサービスが今日の経済的な現実とニーズを反映しているからです。
このプロポーザルでは、EDPS Opinion 4/2017の推奨事項を考慮して、「反対給付」という用語の使用や、消費者によるデジタルコンテンツのサプライヤーへのデータ提供が「積極的」か「受動的」か区別することを控えています。ただしEDPSは、プロポーザルで想定されている新しい定義により、消費者がお金で支払うのではなく、個人データで「支払う」ことができるデジタルコンテンツまたはデジタルサービスの提供に関する契約の概念が導入されることに懸念を示しています。この新しいアプローチは、「反対給付」という用語を使用したり、個人データの提供と価格の支払いを類推したりすることで生ずる問題を解決していません。特に、このアプローチは、個人データを単なる経済的資産とみなしているために、データ保護の基本権としての性格を十分に考慮していないものとなっています。
GDPRでは既に、デジタル環境にて個人データの処理が行われ得る状況に関するバランスを既に定めています。 このプロポーザルで、GDPRで定める個人データを完全に保護するとのEUのコミットメントと矛盾するやり方で解釈される可能性のあるアプローチを促すようなことは避けるべきです。データ保護法の原則を損なう危険を冒すことなく幅広い消費者保護を提供するために、電子商取引指令における「サービス」の広範な定義や、GDPRの地域範囲を定義する規定、もしくデジタルコンテンツ・プロポーザルに関する理事会一般アプローチの第3条(1)などに基づくアプローチで代替することが考えられます。
したがいまして、EDPSは、「有形媒体では提供されないデジタルコンテンツの供給に関する契約」や「デジタルサービス契約」の定義にて個人データを参照することを何であれ控えていただくことを推奨し、その代わりとして、次のような契約の考え方に依拠することを提案します。 それは、「消費者への支払いが必要かどうかに関係なく」特定のデジタルコンテンツまたはデジタルサービスを売り手が消費者に提供または提供することを約束するというものです。
きちんと追えていないが、「EU消費者保護規則のより良い執行と近代化に関する指令」は、昨月末に採択されたようで、前文に「digital services provided in exchange for personal data」という表現が残ったものの、個人データについては「GDPRに従う」とのことで落ち着いた様である。
(長く書きすぎたみたいだ。途中で切れてしまった。。。)
もう終わりにしよう。書評の批判が当たっているなら、こういうことだ。超大物教員の指導の元、こんな博士論文が書かれ、専門家達が「厳正な」審査をし、超一流の博士号が授与され、それをテコに大学で職を得た人がいる。これがわかったのは、本が出版されたおかげだ。ちなみにこの本、名もない出版社からではなく、京都大学出版会が出している。もちろん、本の出版は著者が勝手にできることではない。本の最後に超大物元指導教員が「解題」を寄せているから、知らなかったはずはない。解題を見てみたところ、基本的にほめていて、特に批判らしい批判はなかった。実はその解題、公開されている博士論文の審査結果の要旨とほとんど同じ。
https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/199376/1/ynink00705.pdf
本論文は、個別言語における認知メカニズムの解明によって言語固有の形式・文法カテゴリが創発する根源的理由の説明を試みた意欲的研究であり、認知言語類型論という新たな研究分野の基礎を示した先駆的研究として評価することができる。
本論文は日本語の文法事象を中心に扱っており、その記述・分析の面においても、射程の広さと事例観察の綿密さが評価される。分析対象として、格、時制、主語・目的語、自動詞・他動詞、態、形容詞といった広範な現象を横断的に扱い、本論文の主張する日本語の「主体化による認知モード」によって一貫した説明が試みられており、それらがいずれも西欧的パラダイムによる言語研究で標準的に使用されてきた文法概念と完全な対応関係を結ばないことが、説得力をもって示されている。
日本語学で所与のものとして適用されてきた「動詞の自他」や「態」といった文法概念そのものの再検討を迫るという点で、本論文は日本語学研究にも一定の貢献をなすものである。また、本論文は日本語における文法カテゴリや語彙の変容にも照準を合わせたものであるが、その主張は単なる理論的憶測ではなく、万葉集や源氏物語などの主要な古典作品をはじめとする膨大な歴史的資料に基づいたものであり、言語研究において不可欠である言語データの観察の綿密さについても高く評価することができる。
本論文は共時的な言語事例と通時的な言語事例とを並行的に分析し、日本語の言語現象全般と個別現象の解明を目指した統合的研究であり、認知言語類型論という新たな研究視点を提供している点で、学術的価値は高いと判断される。
まさにお墨付きだ。
最後にちょっと真面目な話。『認知言語類型論原理』の問題は、この書評で間違いだと明らかになったことじゃない。学問は古い学説を踏み台にして進んでいく。今の定説もいつかは否定され、乗り越えられていくかもしれない。だから、間違いを含んでいるとわかったこと自体は問題じゃない。それまでの研究に新たな知見を付け加えたのなら、たとえ間違いを含んでいても価値ある研究だ。ダメなのは、従来の研究に何ら新しい知見を付け加えず、最初から間違いだとわかる研究だ。『認知言語類型論原理』はまさにそのような本だと批判されている。もちろん、出版された本に対してそのような批判をする権利は誰にでもある。たとえ批判が当たっていなくても、ある。自由に批判ができることは、学問の発展に不可欠だ。書評子が批判をしたことで将来不利益を被ることがあってはならない。
それにしても、どうして『認知言語類型論原理』は『日本語に主語はいらない』みたいに多くの言語学者から批判されていないんだ? 『日本語に主語はいらない』は大手出版社から一般向けに出たのに対して、『認知言語類型論原理』は学術専門出版社から専門書として出たからか? それにしたって、専門書でも専門家なら読むだろうし、なんならもっと真剣に読むだろう。他に書評は出てないのかとCiNii https://ci.nii.ac.jp/ で『認知言語類型論原理』を検索したけど、ないみたいだ。もしかして京大とか超大物研究者とかの権威に怯んでるのか? 文系の学問がそんな腐敗した世界なら、世間から不要とされるのも無理はない。この腐敗した世界に堕とされても、くだらないことでビビることなく「王様は裸じゃないか! 裸の王様、何を学んだの?」と喝破した書評子には拍手喝采を送りたい。だけど、こんなものを書くために生まれたんじゃないだろ…。
日本の大学、特に文系の学問に対する風当たりが厳しい昨今、文系の学者達は自分たちの存在意義を示そうと必死だ。大学で行われている文系の研究は、どう役に立つかはともかく、それ自体研究としてちゃんとしたものなんだ!ということは前提となっているし、みんなそう信じている。文系の先生達は決してSTAP細胞のようなデタラメをやっているのではないと。
だが、それは本当か? 証拠はあるのか? 最先端の研究は専門家でさえ評価が難しい。たとえばアインシュタイン。一般・特殊相対性理論を作ったけど、時代の先を行き過ぎていて正当な評価がされなかったそうで、ノーベル賞は他の業績に対して与えられた。文系の研究も基本的には同じで、研究の良し悪しを判断できる人は極少数だ。だから、知らないうちにトンデモない研究がはびこっていて、それに社会的評価が伴っていても、ほとんどの人にはわからない。専門家が厳正に評価してくれていることを信じるしかない。
本題に入ろう。最近、1つの書評論文が東大の言語学研究室発行の紀要に出た。
田中太一「日本語は「主体的」な言語か―『認知言語類型論原理』について―」『東京大学言語学論集』 41 (2019.9) 295-313
https://www.amazon.co.jp/dp/4814001177/ref=cm_sw_r_tw_dp_U_x_6P9YDbPVN9WJ2
著者は、関西外国語大学 短期大学部 英米語学科 准教授の中野研一郎先生。
普通、書評というのは基本的にほめるものだ。批判はあっても最後にちょっとだけ。しかし、この書評は、冷静な筆致でありながら、酷評も酷評、ボロクソ、クソミソ、ケチョンケチョンのフルボッコだ。一個もほめてない。批判が当たっているなら、トンデモ本に違いない。
一番ヤバいのは、この本が博士論文を元にしたものということ! 一応説明しておくと、博士論文とは、最高の学位である「博士」の学位を取るために大学院生が何年もかけて書く長大な論文で、大雑把に言って本1冊以上の分量がある。もちろん、何でもいいからテキトーに書けばいいわけではない(はずだ)。自分のオリジナルで、学術的に価値のあること、つまり、これまで誰も知らなかった知見を新たにもたらして人間の知識を拡大するような研究の成果でなければいけない。どの分野でもそうだ。
そして博士論文の原稿は、3~5人の審査委員が審査する。審査委員は全員、その分野に詳しい大学の教員だ。審査は3回くらいある。まずは博士論文の大枠ができた後、本格的な執筆にゴーサインを出すかを決める一次審査、そして論文が大体書けた後、論文を大学に提出していいかを審査する二次審査、最後に論文が完成し、大学に提出された後、博士の学位を与えるか否かを決める最終審査がある。それぞれ少なくとも1時間はかかる本格的なものだ。ディフェンスと言われる最終審査の口頭試問は、公開で行われる。最後に別室で結果を審議した審査委員が会場に戻ってきて厳かに合格が伝えられると、みんな拍手で心から祝福する。
ミサト:おめでとう!
アスカ:おめでとう!
レイ:おめでとう。
研究者人生のフィナーレではないが、1つのピークである。こうやって研究者の能力にお墨付きを与えるのが大学の存在意義の大きな一部分だ。
要するに、博士号を取るのはとても大変なのだ。日本だと博士号を持っている人は1万人に1人くらいしかいないらしい。日本の大学は入るのは難しいのに出るのは簡単だとよく言われるけど、大学院の博士課程はそうではない。入るのも修士課程ほど楽ではないし、文系では入っても博士号を取れない人の方が多いくらいだ。これだけ大変だから博士号はアカデミアでは評価される。大学教員になるなら、博士じゃないとエントリーすることさえほぼほぼ不可能。『認知言語類型論』の中野先生は、フェイスブックを見たところ、以前は高校の先生だったみたいだけど、博士号をとってから、50歳を過ぎて関西外国語大学の准教授になったようだ。周知の通り、大学の終身雇用教員の座をめぐる争いは非常に激しい。博士号がなかったら就職できなかっただろう。
博士号はどこの大学でとっても価値は同じ、みたいなことを何度か読んだことがあるけど、あれはデマ。真に受けてはいけない。いい大学の博士号ほど高く評価される(Why not?)。中野先生がお持ちの京都大学の博士号は、京大が超一流なのと同様、超一流の博士号だ。50歳を過ぎて大学に就職できたのも不思議ではない。しかも、中野先生の師匠は、日本言語学界の大物中の大物、山梨正明先生だ。『認知言語類型論原理』に山梨先生が解題を寄せているから間違いない。この大先生は、「日本を代表する理論言語学者の一人」([wikipedia:山梨正明])。中野先生が在学していた頃には、日本語用論学会(2008〜2011)や、日本認知言語学会(2009〜2012)の会長を同時に務めもした大物中の大物だ。ちなみに、山梨大先生は2014年度に京大を定年退官して、2015年度からは中野先生より一足早く関西外国語大学で教鞭をとっている。ちょっとややこしい話だが、博士論文の審査が終わる前に京大を定年退官したようで、審査の主査ではないが、審査委員には名を連ねている。https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/handle/2433/199376 博士論文を書くのに何年もかかるから、こういうことはよくある。
さて、超大物お墨付きの博士論文(を元にした本)はどんなもんなんだろうか。書評から拾っていこう。2節は専門的な議論でよくわからないからパス。3節「日本語に存在しないとされるもの」から見ていこう。まず、1節に同書のまとめらしき部分からの引用がある。
「日本語(やまとことば)」を深層とする日本語において、「形容詞 (adjective)」・「主語 (subject)/目的語 (object)」・「態(voice)」・「時制 (tense)」・「格 (case)」・「他動詞 (transitive verb)/自動詞 (intransitive verb)」といった、従来ア・プリオリに前提とされていた統語・文法カテゴリが妥当していないことも論証した。さらに、「膠着」言語の一つである「日本語」においては、その語・語句・節の生成メカニズムは、「音」自体に「意味」を見出す「音象徴 (sound symbolism)」を基盤にしていることを論じた。
(『認知言語類型論原理』[以下、中野 2017] p. 308、書評論文[以下、田中 2019]p. 295から禁断の孫引き。以下、同書の引用は全て孫引き)
昔、『日本語に主語はいらない 百年の誤謬を正す』[amazon:日本語に主語はいらない]という本が出て、言語学者に酷評されたことがある。金谷武洋『日本語に主語はいらない』批判記事一覧 - 誰がログ https://dlit.hatenadiary.com/entry/20071216/1197757579
主語がいらないと言っただけでそうなったのに、『認知言語類型論原理』は、ミニマリストの断捨離なんてもんじゃない。主語だけじゃなく、形容詞、態、時制、格、自動詞/他動詞も、いらない、何も、捨ててしまおう~♪と謳っているらしい。全部なしで日本語の文法はどうなっているのかというと、「その語・語句・節の生成メカニズムは、「音」自体に「意味」を見出す「音象徴 (sound symbolism)」を基盤にしている」ということらしい。
これは熊倉千之氏の「音象徴」理論に基づいているそうで、熊倉氏は、
膠着語にかんして、「イメージとイメージを膠でつけるように、ことばができているのです。ですから、具体的なモノとモノをつなげると、言語(コト) としての「抽象」 性が生まれ、新しいことばが作られるのです (熊倉 2011: 18)と述べた上で、日本語の音素はそれぞれ何らかのイメージを持つという観察を根拠に、やまとことばの「音声と意味」には、ソシュールの説に反して、「恣意的」ではなく、密接な繋がりが感じられる」 (熊倉 2011: 30) と主張している。
とのこと。
近代言語学の父、ソシュールの一番有名な恣意性の原理を否定しているが、それ自体はない話ではない。音象徴が当てはまる例として、ポケモンとか怪獣の名前は、音と意味の関係が全く恣意的なわけではない、みたいなことが最近よく言われている。ただ音象徴は基本的にオノマトペ(擬音語・擬態語)や新たに名前を付けるものについての話、しかもあくまで傾向性。言語全体の「語・語句・節の生成メカニズム」になるようなものとして扱われてはいない。しかし、中野説はそういった主流の音象徴研究とは一線を画する。具体的に見てみると、
「あ/a/」は「空間出来の語基」 として、「い/i/・居」 は「様態化の語基」 として、「う /u/・続」 は「プロセス化の語基」 として、 「音象徴」 により語彙を創発させる機能を担っているのである(中野 2017: 247) 。
知らなかったー、日本語ってすごいですね(棒)。たとえば、「合う・会う」は、「あ/a/」+「う /u/」だから、「(出来)動詞」だそうだ。書評子が、
「「出来」が「プロセス化」すると「合う・会う」になるという説明は到底理解できるものではない」(田中 2019: 309)
と言う通りだ。「あい」(愛とか藍)はどうなるんだろう。中野先生によると、音象徴は
「日本語(やまとことば)」の同音異義の語の数の多さと、またオノマトペの豊穣さの、母体にもなっている」 (中野 2017:232)
この主張は、本書の議論を決定的に破綻させるものである。もし「音=意味」という恣意的でない結びつきが存在するならば、同じ音を(同じ順序で)組み合わせれば同じ意味になるはずである。同音異義語の存在が極少数に限られるならともかく、その数が多いのであれば、日本語の全体を「音象徴」に基づいて分析することが不可能であることは自明である。(田中 2019: 310)
確かに。他にも、中野先生は「確かに」・「達する」・「頼みます」・「たった、これだけですか」・「立つ」・「経つ」・「絶つ」・「裁つ」などを例に、
「日本語(やまとことば)」では、音部分が同根であれば、「音象徴」に基づき、その意味・機能も通底している 。 [中略] 「た/ta/」音を語頭とする語は「心的確定(確信)」を基に語彙が生成していることが理解できる。「日本語 やまとことば」の「た/ta/」音は、「音象徴」において「確信」を「意味」とする「音」なのである。 (中野 2017: 255)
と言っているそうだが、「立つ」とか中野先生自身の例でさえ、どこが確信と関係があるのかわからない例もある。この説が無理なのはよく考えてみるまでもない。
そもそも、「音象徴」なんて流行りのタームを中野先生や熊倉氏は使っているが、こういう説は「音義説」[wikipedia:音義説]と言うのがより正確だ。近代以前に唱える人がたまにいたけど、今ではググるとわかる通り素人が唱えているだけのものだ。ちなみに、このような形で同書に大きな影響を与えた熊倉千之氏とは、
1980年「『源氏物語』の語りの時間」でカリフォルニア大学バークレー校にてPh.D.取得。ミシガン大学、サンフランシスコ州立大学などで日本語・日本文学を教える。1988年に帰国後、東京家政学院大学教授、1999年金城学院大学教授。2007年退職。
という人。ウィキペディアでは一応「日本文学者・日本語学者」となってはいるけど、専門はどう見ても文学。言語について言語学界とは関係なく自由に思索・著述をしている人のようだ。そういう独自の言語論を唱える文学や思想の研究者はよくいるけど、普通の言語学者はそういうのはまともに相手にしない。『認知言語類型論原理』もその類の本だったなら、東大で言語学を学ぶ書評子も取り合わなかっただろう。でも、これは京大の言語科学講座で博士号をとるために書かれた論文(が元になった本)なのだ。
他にも同書には、業界震撼の主張が満載みたいだ。是非同書を買って私の代わりに確認してみてほしい。
ちなみに、なんで日本語が英語などと違ってこうなってるかと言うと、中野先生によると、日本語は歴史的に文字を持たなかったからだそうだ。とはいえ、英語だってそうだし、文字で残っている歴史の長さも日本語と同じくらいなんだけど。っていうか、どの言語も昔々は文字がなかっただろ!
ということで、書評の内容は変な言いがかりではないようだ。そもそもこんな空前絶後の激辛書評論文を大学院生が書くこと自体大きなリスクを伴う。(書評子、いろいろ大丈夫か?)無理なイチャモンをつけるためにそんな危険を冒すわけがないし、出版前に東大で止められるだろう。ま、『認知言語類型論原理』は、博士論文の審査から本の出版にいたるまで、誰にも止められなかったみたいだけど!
もう終わりにしよう。書評の批判が当たっているなら、こういうことだ。超大物教員の指導の元、こんな博士論文が書かれ、専門家達が「厳正な」審査をし、超一流の博士号が授与され、それをテコに大学で職を得た人がいる。これがわかったのは、本が出版されたおかげだ。ちなみにこの本、名もない出版社からではなく、京都大学出版会が出している。もちろん、本の出版は著者が勝手にできることではない。本の最後に超大物元指導教員が「解題」を寄せているから、知らなかったはずはない。解題を見てみたところ、基本的にほめていて、特に批判らしい批判はなかった。実はその解題、公開されている博士論文の審査結果の要旨とほとんど同じ。
https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/199376/1/ynink00705.pdf
本論文は、個別言語における認知メカニズムの解明によって言語固有の形式・文法カテゴリが創発する根源的理由の説明を試みた意欲的研究であり、認知言語類型論という新た