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「感じさせられる女」「感じさせる男」という役割は、いつ生まれたか(田中 亜以子) | 現代ビジネス | 講談社
これな。中を読めばなるほどと思わされる近現代の面白いトピックがたくさん書いてあるんだけど、それはいいんだが、総論があまりにおおげさじゃね? 「男性が女性を『感じさせる』セックスをデフォルトとする価値観の誕生は、20世紀初頭の西欧に見出すことができる」とある。マジかよ、と驚いた。
「とはいえ、女性=受動的、男性=能動的とする当時の性別観は強固に維持された。(中略)『感じさせられる女/感じさせる男』の誕生である」ともある。そこに至る論旨がよくわからないんだが、なんか「女性=受動的、男性=能動的とする性別観」イコール「感じさせられる女/感じさせる男、という性別観」であり、そんな価値観は19世紀以前の地球人類には存在しなかった、と言ってるように読める。そりゃいくらなんでもおおげさじゃねーの。
そんなに最近生まれた特殊な価値観だとしたら、「昔のセックスは男女対称だった」という例が,いくらでも挙げられるハズだ。しかしどこまで読んでも、それは、ない。ないのはどう考えてもオカシイんだが、そう指摘するブコメもない。春画では男女が対称的に絡み合ってる、という仄めかしが冒頭にあり、全体の締めに「性的快楽の平等は、女性のリプロダクティブ・ライツの保障はもとより、社会的に女性が男性と対等な存在となることなしに、ありえない。そして、そのときこそ単純な『感じさせられる/感じさせる』という性役割も消滅しているのではないだろうか」とあるが、その割に、江戸時代の町人男女は社会的に対等で性的に対称だった、のかどうか、踏み込んだ検証もない。なんでないの。ないならなんで仄めかすの。
オスがアプローチし、
諾否の決定権はメスが持つ。
オスが攻めでメスが受け。
その構図が、西暦1900年以降の西欧で発明されたものだっちゅーの? アホか。地球上の大抵の虫も鳥も、カメレオンもクジャクもラッコもカメも、そういうふうになってるじゃないか。それでも普遍的とは言えない、というなら別にそれでいいけど、数億年単位の歴史があるものを「誕生は、20世紀初頭の西欧」って、ないわー。
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精子は貧弱だが活発で無尽蔵、卵子は富栄養だが不活発で希少である。種の生存戦略としてそれが普遍的な正解だとは言わない。原初の地球の原初の海の所与の条件下で、たまたま結果としてそういうタイプが勢力を拡大した、ということなのかどうか、まあとにかく事実としてそうなった。そういうタイプの生物に於いては、オスが遺伝子を残す確率は、ほぼ、孕ませたメスの数に比例する。要するに、片っ端からヤリたがるのが正しい。
一方、メスはいくらヤッたって、一繁殖期当たり、通常一体のオスの子しか孕めない。当然、遺伝子を残す確率を高めるには、相手を厳選しなくてはならない。クソみたいなカスみたいなオスに孕まされたら一巻の終わりだ。なにせ卵子は希少なのだから。ヤリチンは英雄だがヤリマンは愚か。例外は「タマシギ」くらいしか知られていない。
ヒトの場合で言うと、オスは1年で300人を孕ませることだって(3000人だって)原理的には可能だが、メスはその間、一度しか妊娠できない。クソみたいなオスのアプローチを、時にかわし時に撥ね付け、同時に一方では懐妊のタイムリミットも気にしつつ、落としどころで妥協して決断して受諾するしかない。人気ブコメに「女が『やらせてあげる』(男が『やらせてもらう』)っていう表現や意識は絶滅してほしい」というのがあるけれど、そういう意識の根源はここにあり、絶滅はなかなかむずかしいと思う。「誕生は、20世紀初頭の西欧」って、ないわー。
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昔のブンガクの話をする。好色一代女は、「堂上家の姫君に生まれた一代女が、その道を踏み外して、快楽と苦悩とのないまぜになった売春生活の末に、次第次第に転落し、太夫から天神、私娼へと堕ちてゆく」話で、1686年刊、とWikipediaにある。
あるいは八百屋お七。これはどこまでが史実でどこが創作文学なのかわからないんだが、大火で焼け出されたうぶな少女が、避難所で遊び人にヤラれちゃって忘我の境地を知りメロメロになり、そのオトコに逃げられて想いを募らせ罪を犯すという話が、当時も、現代においても、深い同情と共感を呼ぶ。
あるいは竹取物語。男たちが求婚し、諾否の決定権は女が持つという、まさにそういう構図の話だ。
あるいは「逢ひ見ての のちの心にくらぶれば 昔はものを 思はざりけり」とか「つれなのふりや すげなのかおや あのようなひとが はたとおちる」とか、どうですか。エロいでしょう。西洋の寓話には「眠れる美少女がイケメンのキスで目覚める」というのが多く、男女逆のは聞いたことがない。あれも、そういうことじゃないんですか。
あるいはオウィディウスの「恋愛指南」(複数の和訳があるらしい。以下はネットで拾いましたすみません)。「私は[女が]自分の喜悦をついもらす声を聞くと嬉しくなる。私に待ってくれとか、こらえてくれとか、いってくれるのは嬉しい。女の愛の狂的な、もう参ったという目つきを見たいものだ。彼女をぐったりさせたい。もうさわってくれるなと拒ましめたい」「目当ての女性の膝に塵が落ちかかるようなことがあったら、指で払い取ってやらねばならぬ。たとえもし塵など全然落ちかかってこなくとも、やはりありもせぬ塵を払い取ってやりたまえ。なんでもいいから、君が彼女に尽くしてやるのに都合のいい口実を探すのだ」「接吻を奪ってからは、満願成就までなにほどのことがあろうか。ああ、なんたることぞ。そんなのは恥じらいではない、野暮というものだ。力ずくでものにしてもいい。女にはその力ずくというのがありがたいのである。女というものは、与えたがっているものを、しばしば意に添わぬ形で与えたがるものだ」紀元前の書らしいよこれ。
これらに接して素直に浮かぶ感懐は、オレの場合、ああ、エロ事情って二千年前から変わらねえんだな、というものです。お前ら様はどうですか。ちなみに怪人小谷野敦は、怪著『もてない男』の中で「近代以降と中世以前との違いばかり強調するのがいまどきの流行だが、共通点だって普通にある(大意)」と述べている。「誕生は、20世紀初頭の西欧」って、ないわー。
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まあブンガクは置いとくとして、「ほとんどの生き物が、オスが性的にアプローチし、諾否の決定権はメスが持つ」というのは、珍説でもなんでもなく、大抵の人が知っているはずの事実だ。「ほとんどの生き物で、まあ控えめに言ってもほとんどの哺乳類で、メスは交尾の間、ただじっとしている」というのも「ヤリチンは武勇伝として語られがちだが、ヤリマンは呆れられる」というのも、大抵の人が知っている。「男の性欲は視覚からでも、あるいは内なるリビドーからでも一瞬で火が点くが、女の身体は時間をかけ手順を踏んで優しい接触から始めてもらわないとなかなかスイッチ入らない」とか、「多くの男は射精の快感を自然に知るが、多くの女は上手な男に上手に開発されないとなかなか目覚めない」とかいうのも、まあ俗説かもしれないが、フェミ勢を含む多くの人が直感的に、かつ体感的に、認めているのではないか。
「若い女は可愛い」というのも、無視できない。もちろん筆者なら「それこそまさに社会が押し付けるジェンダーロール」と言うだろうが、本当にそうか。「ヒトは、小さくてすべすべでふわふわで声の高い生き物を可愛いと感じ、愛でたくなるようにチューニングされている。子育てに有利だから結果としてそういう特性が優位になった」という仮説は、そんなにおかしくないと思うんだが。写真を見るとこの筆者自身、明らかにオレより可愛い。
「オスが攻めでメスが受けなのは性器の形状から考えても当たり前」というような一見バカっぽい主張だって、「いつ生まれたか」を本気で考えるなら、当然アタマをよぎるはずのファクターだ。
なぜ、それらをすべて無視して、20世紀初頭の西欧なのか。
それは、「いつ、なぜ生まれたか」を、本気で考える気がないからだ。
この人は「それは社会的な刷り込みに過ぎない。それもごく最近の、特殊な」という結論ありきでものを言ってる。だから、その結論に都合の悪い話は無意識にスルーする。
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「ホニャララという価値観はなんら普遍的なものではない」式の主張は、確かに快刀乱麻感があって気持ちいいが、そもそも価値観というものはすべて何らかの偏りであり、したがって「普遍的ではない」のは当たり前だ。それだけでは「価値観は価値観だ」と言ってるのと変わりない。
それが意味を持つのは、ホニャララフリーな世界も意外に広い、という事実とセットの場合だけだ。例えば「チョンマゲはカッコイイという価値観」に対して、「チョンマゲを奇異に思う世界の方が圧倒的に広い」と提示することには意味がある。また例えば「食事というものは主食とおかずから成る」と思い込んでる人に、そうでもない文化圏の存在を示せば、有益な目ウロコ落としになるだろう。だが「感じさせられる女」の論考には、男女が互いに感じさせ合う文化圏も意外に広い、というような例は、ぜんぜん出てこない。
そんなら、最初っからこう言えばいいんだよ。「普遍的かどうかとか、いつ生まれたのかとか無関係に、私はその価値観が嫌いだ」と。「想像してごらん、男女が対称的なセックスを。私を夢想家だと笑うかい? But I'm not the only one. I hope someday you'll join us」と。
オレは「セックスの快感の授与と受容において、男女はもっと対称的であるべきだ」という、なんとなくジョンレノンっぽい主張を、批判する気はない。特に賛成でもないが反対でもない。そう思う人はそう主張すればいいと思う。少なくとも、悪い意見じゃない。
また、男女の性行動の非対称性に自然な根拠があるからと言って、「自然な根拠があるから肯定・維持すべきだ」とも思っていない。例えば「痴漢は男が多い」ことには、生物としてもっともな理由があると思うけれど、だからといって痴漢を擁護する気はない。いくら本能的にもっともであっても、否定されるべきことというのはある。
だからね、その主張自体は、べつにいいんだよ。ただ、その主張を強化するために、客観を装ってもっともらしい嘘を述べ、あるいは誰かのもっともらしい嘘を本気にし、それをあたかも確定した事実であるかのように無批判に引用し、自分の主張の根拠とし、都合の悪い要素はスルー、という、その姿勢がイヤだ。恥ずべきだ。
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オレの方こそ些細な点をおおげさに問題にしてるのだろうか。
例えば「そういう価値観は太古からある。ちょっと20世紀初頭の西欧から概観してみよう」とでも書いてあれば何も文句はないんだし、脳内でさらっとそう読み換えて流すのが大人のたしなみなのかも知れない。だけどさー、「いつ生まれたか」というタイトルで、いやまあタイトルなんてものはね、著者の意向と無関係に編集者が後から勝手につけたりするもんだけどね、これの場合は本文中に「本稿では、『感じさせられる女/感じさせる男』という役割が、そもそもどのようにしてつくられていったのか、その歴史的経緯を概観したい」と書いた上で、直後に「誕生は、20世紀初頭の西欧」って、はっきり書いてあるんだもんよー。長くてごめんねー。
日々ネットでは色んな対立や論争が起きてるけど、将来の人口減についてだけは、頭の良さそうな奴もそうでない奴も不可避の運命として珍しく意見が一致してる。
でも少なくとも俺は、それに抗うために政治や社会が一度でも本気で行動したところを見たことがないんだよな。
例えば安倍さんがさ、テレビの前で手をついて、「お願いします!どうか日本のために皆さん二人の子供を産んでください!!」って叫ぶくらいのこと、してみたらいいと思うんだよ。
で、現実にそれを奨励するための施策をバンバン実行してみたらいいんだ。
どうせ国債なんて日銀が全部買ってるから財政破綻なんか起きやしないし、老人が安穏と暮らすために使われるなら癪だが、自分たちの未来のために使われたと思えば、後の世代も納得すると思うんだよな。
中途半端に学歴や所得のある奴が、これから生まれてくる子供が可愛そうとか賢しらに言うのを目にするけど、お前らが嘆こうが毎年まだ100万人近くの新しい命がこの国に生まれてくるんだよ。
その子らからしてみたらさ、なにかわかったような顔して早々に諦めた親世代のことなんて、恨む対象にしかならないんじゃないのかね?
本当に「これから生まれてくる子供」のことを考えているなら、もっとがむしゃらにやり尽くして欲しかった、最後まで必死に戦って欲しかったと思うんじゃないの?
なんかほんと、そこだけは所与のものとして全員が現実から目を背けてるのが俺はほんと許せないんだわ。
頼むから出てきてくれよ、そういう当たり前のことをやろうって言ってくれる集団がさ。
そしたらあっという間に世の中変えるだけの支持を集めると俺は思うし、少なくとも俺はその意思を表明するつもりだぞ。
30後半額面600万のサラリーマン
それで狭い5畳半アパートの一人暮らしだったが、ある程度の金が溜まったので、住処ぐらいはある程度のものにしても罰は当たるまいと思って一戸建てを買った。
広さは段違い、リビングは快適、最新の設備は文句なく、各部屋も完全に自分の趣味の壁紙にした。
住み始めて、するとどうだろう。以前はまるで感じなかった人寂しさを僅かながら感じることに気が付き、違和感を覚える。
この家にもう一人くらい住まわせてもいいか、ぐらい思う。
結局のところ、自分の願望が住居に最適化してあっただけで、どうやら自分は所与の箱の範囲内で最適化をはかり、それで満足してしまうらしい。
そういえば仕事がそうで、私生活も結局同じであったという話である。
よく結婚してから家を買うとか言うけど、単にそれが現在の多数派なだけで、自分のようにある程度の人の居場所が確保できてから願望(らしきもの)が生じる人間もいるのだ。
現代俺らが近代法治国家に生きているのは先祖がそれを獲得したからなわけね。つまり「現代俺らが近代法治国家に生きている」ってのは先祖の遺産なわけよ。増田はその先祖の遺産をあたかも所与の権利のように振り回しているけれど、所与でも権利でもないのよ。遺産なだけ。そして遺産を受け取った以上、望むと望まざるとにかかわらずその歴史的経緯という連鎖を継承せざるを得ないわけ。「近代法治国家の行いでしたっけ?」なんて都合よく遺産を利用しておいて、負の側面を拒否しようというのは卑劣な行為よ。
増田個人がオタクでありもしかしたら弱者男性で、遺産から大きな利益を受け取ってないというのは事実かもしれないけれど、そんなの何の関係もないのよ。「現代人(遺産の継承者)だ」というだけでもうすでに「関係者」なのよ。その歴史の連鎖を否定することも逃げることも誰にもできないっていうだけ。
オタクは「男性ゆえのメリット」も受けてないんだから殴られるのは間違ってる。
反撃するのみ。
そもそも「増田という個人がメリットを受けてるから叩かれてる」なんて妄想は誰から挿入されたの?
何度も言うように公平性の原理から、男女お互いに殴り合えばいいし、それは歴史的経緯があるってだけの話だよ。そして殴り合うときに、戦術的に見て、相手のチームの弱いところを攻撃するのは合理的でしょ? それだけのことになにか正当性とか倫理性をもちこもうとする増田がおかしいよ。
ある人がAという行動をするかしないかは
「Aをすることによる得」が「Aをすることによる損」を上回るかによって自動的に決まる
ここでいう損得には気分が高揚する/減退するといったような感情的なものも含まれる
「タダで物が手に入るから」「成功に快楽を感じるから」「店員がむかついたから」
といった要素があり
「捕まったら刑罰を受ける・社会的に失墜するから」「倫理的に許せないから」「店に申し訳ないから」
といった要素がある
それぞれの要素にどう重み付けするかは個人によって異なっており、それが「性格」などと呼ばれる
言いたいのは、これらの重み付けの結果として万引きの得が損を上回り、万引きを実行するに至った人間を、「悪人」として糾弾するだけでは何の解決にもならないということだ
その人を糾弾するということは、その人の重み付け関数を異常なものとして矯正し、人類平均に近づけるということである
もちろんそれも重要だ
重要だが、その人の重み付け関数が理想化されたとして、次に来る万引き犯はそうではない
真に行うべきことはルールの変更だ。相当クセのある重み付けをされても、それでも得が損を上回らないような、システムの設計をしておく必要がある
たとえば万引きの「得」を減らす対策として、強引に外すとインクの飛び散るタグ、などがあり、
万引きの「損」を増やす対策として、防犯設備の整備や罰則の強化などがある
これらの対策を行わずに「万引きする人間はなんて悪人なんだー」と吠えていても無意味極まりないと思う
万引きの代わりに、政治・外交や、職場の問題、恋愛・友人関係など何を入れても同じことが論じられる
話題の日向市のPR動画見たけど、個人的にはすごく好感の持てるPR動画だと思った。あの動画にいかなる程度であれルッキズムが潜んでいることは否定しようがないけれど、僕個人としては社会的抑圧の一切を否定した社会はハクスリー的なディストピアでしかないと思ってるので「海、似合ってないね」程度の抑圧は彼と同じく「ほっといてください」と言って許容出来る範疇 にある。しかし、それでもやはり肥満体型と似合う似合わないという価値判断を結びつけている以上そこにルッキズムという抑圧が存在していること自体は疑い得ない事実である。ところがその事実すら否定したがる一部のフェミニストたちがいるらしい。
サーフィンの練習を重ねた結果として体が引き締まることを自然の結果だと言うなら、なるほど一般的に言うルッキズムもある程度自然に根拠を持つものだと言えるだろう。しかし、海に似合う男が体の引き締まった男性なのだとしたら、つまり自然と身体の一致を以ってして似合っていると呼ぶのであれば、男女で所与の身体的条件に差異が存在しているのも自然になるわけで、したがって生理や妊娠などによっても社会活動に制限のかかる女性が社会進出を目指すことは女性に「似合っている」とは言い難いように思う。それは当然女性の社会進出を訴えてきたフェミニストには受け入れ難い主張かもしれない。
思うにフェミニズムという思想が上述したようにいくらかは自然に根拠を持っている社会的分業に反対するものとして登場した思想であることを考慮すれば、その根底においてフェミニズムは反自然的な性格を備えていることがわかる。それはつまり自らの生物としての女性性に対する根源的な自己嫌悪とも言える。このように考えた場合、フェミニストがこのPR動画におけるサーファーの「海、似合ってないね」というセリフを見てそこに普段から自分たちが解放されることを望んでいるのと同種の自然の軛を見ずに、あまつさえ他方にあってはその軛を肯定して自らの軛からの解放の手段にしてしまうのであれば欺瞞も甚だしいと言わざるを得ないだろう。
Google 画像検索で「ボディペインティング」で検索してみてほしい。
裸の児童の写真が大量に得られる。これらの画像がどういうコンテキストでインターネット上に公開されているかというと、保育園とか親とかが完全に善意で公開しているにすぎない。
そして、保育園の運営者とか、親とかが児童ポルノの公然陳列で摘発されるということはない。
が、これらの画像を児童ポルノマニアらが、児童ポルノとして扱ってまとめサイトみたいなものを作ると、それは児童ポルノの公然陳列であって違法だ、ということに日本ではなっている。
これが、これこそが日本のあらゆる問題を象徴している。日本国憲法第19条には「思想及び良心の自由は、これを侵してはならない。」とある。しかし、ここで問題にされるのは、児童の裸の写真をどういう気持ちで扱っているかというまさに「思想」の問題であって、つまり日本では内心の自由がない。
児童が性的被害をこうむらないためにはどうすべきか。何も考えずに自分の子供の裸の写真をインターネットに公開する親たちの、その「行為」を問題にして断罪しなければならないはずだ。実際には、児童ポルノマニアたちの「思想及び良心」を問題にして検挙のターゲットを絞ってしまう。これが日本だ。
これが西欧のキリスト教民主主義社会であれば、自分の子供の裸をうっかり公開してしまっていた親族も検挙される。そういう事例はいくらでもある。
平均的な日本人はこれを「杓子定規すぎる」「堅苦しい」と感じるはずだ。そして児童ポルノマニアの内心の自由が侵されている点を問題視する者はあまり多くないのではないか(すくなくとも国会議員や裁判官はそう考えている)。
マッカーサーはこの問題を理解していた、しかしマッカーサーはあくまでも「行為」を問題視する世界観のみを持っていたから「憲法に"思想及良心ノ自由ハ不可侵タルヘシ"と書けば十分」と思ってしまった。もちろんそれは間違っていた。
日本人が「行為」ではなく「内心」を裁く民族であるというのは、それはそれでよい。というか俺が「よい」とかなんとか言う問題じゃない。それを所与の条件として日本人にとってより優れた社会を築くため個々人が努力をすればよい。優れた社会を築きたくないのであれば、それはまあ、各自やっていけばいい。ただ、その事実を皆が直視したほうがいいと思うんですよ。
自分は就職するのだな、というのが決定的になったのは、大学三年の正月に帰省したときだった。そのとき姉は子どもを身ごもっていて、結婚式の準備を進めている時期だったと思う。両親の住む実家はいつになく浮き足だっていて、居間に鎮座した年代物のコンポが機嫌のよい音楽を流しているのを何年ぶりかに聴いたりした。この雰囲気だったら言っても大丈夫だろうかと思った。家に着いたその晩、おそらく姉の結婚式やお腹のなかの子どものことをしばらく話したと思う、そのあとに切り出した。あのさ、大学院に行きたいっちゃけど。
予想外に、部屋の空気が一瞬で凍りついたのを覚えている。両親は言葉を発さず、コンポから流れる陽気な音楽(荒井由実のセカンドアルバムの六曲目、あなただけのもの、)がいっきに、なにか強烈な、皮肉めいた疎外感のようなものを演出する異物となって浮き上がった感触があった。しばらくして、母が重々しく口を開いた、なん言いようね、そげんお金なかよ。大学院てなんね。行ってなんすると。もとより自分も、大学院で何か研究したいことがあるわけじゃなかった、研究というのが何をすることなのかもよく分かっていなかった。ただサークルや何やで接する先輩たち、自分より二年間長く学生でいられる、その二年間は就職せずにいられるひとらのことがうらやましかった。その程度の動機だったから、突如として部屋に現れた重苦しい空気を前にして、うっかり声に出した気持ちは途端に冷え切り、しぼんでいった。なんでんなか、分かった。話を逸らすような話題もなく、アルバムが次の曲に行ってしまうまえに居間を出て階段を上がった。あのコンポが音楽を流しているのを聴いたのはそれが最後だったと思う。
*
就活ではいろいろな街へ行った。下宿していた福岡から、十分な交通費が支給されるときは新幹線や飛行機(LCCはまだなかったから、スカイマーク)で行き、そうでないときは夜行バスで行った。その土地の知人に当てがあれば泊まらせてもらうときもあり、ネットカフェに泊まるときもあった。神戸の三宮とか東京の蒲田とか、そのころネカフェに泊まったっきり訪れていない街がいくつかある。
就活にかかる交通費は多くの同級生にとって悩みの種だったと思う。専攻柄、東京に一極集中したメディアや広告、出版関係の企業を受けるひとが多かったせいもあったか、とにかくいかに交通費で破産せず就活を乗り切るかはひとつの重要なテーマとして共有されていた記憶がある。自分もそんなに多くの交通費を出せる状況ではなかったので、受ける企業の数をかなり絞っていた。当時の就活サイトが提唱する標準的なエントリー数は二十社くらいだったけれど、自分は十社も受けなかった。それでも度重なる関西や関東への移動はそれなりに負担で、特に東京の会社で選考が進むたびに片道半日以上かかる夜行バスを往復するのは楽ではなかった。
夜行バスが発着するのはたいてい新宿の西口だった。あるとき、行きのバスに乗っていた添乗員さんと、帰りのバスでも鉢合わせたことがあり、乗り込みざまそのひとが、就活ですか、がんばってね、と声をかけてくれた。あのひとはたぶん、その数日間だけじゃなくてずっと、何十往復も、あの片道半日はかかる夜行バスに乗りつづけていたのだと思う、いまも乗りつづけているかもしれない。西新宿のビル街を歩くと時々そのことを思い出す。
支給される交通費で収入を得るモデルを立てていたひともいた。関東の実家や知人のところに滞在しながら、東京の会社をたくさん受け、それぞれの会社に対して福岡〜東京間の交通費を申請して利益を得る手法だったと記憶している。あるいは近場であれば、実際には18きっぷで移動しながら新幹線のぶんの交通費を出してもらう方法もあったらしい。これは静岡の会社に大阪から来ていた子が教えてくれた。会社でいっしょに最終面接を受けたあと、内々定をほのめかす説明会から帰るバスの中でのことだった。その子はすでに他社からも内々定を得ていて、ほんとうはそちらに就職するつもりだと言っていた。第一次安倍政権のときで、少なくとも経済政策はうまくいっていて売り手市場だったから、そのように交通費収入を得る目的で、実際には就職する気がない企業の内々定までを得る学生はその子だけではなかったと思う。二年後にはリーマンショックが起こって、ふたたび新卒市場は氷河期を迎えた(らしい)。もし自分が大学院に進み、二年後に就活をしていたら、たぶん学部のとき受かったところには受かっていなかっただろう。
職を得るためにスーツを着ることは苦ではなかった。それは公立の小学校から高校までをずっと制服で通わなければならなかったのと同じ程度の義務だと思っていた。大卒でそれをしなくてよい人生がどういう仕組みで成り立っているのか、そのころさっぱり想像がつかなかったし、いまでもその仕組みを十全に理解しているとはいいがたい。いずれにせよ、そうしたものは自分には関係のない、自分に与えられた生の可動域からは逸脱するものだと思っていた。もちろん、自分を取り繕って面接官に良い顔をすることとか、所与の経歴と志望動機を矛盾なく有効に繋げる作業を会社ごとに行うこと、そうした虚飾じみた行為への疲れはあった。リクナビやみん就のサイトを見るのも好きではなかった。けれど仕方のないことだと思っていた。ほかに生きられる道があるとも思えなかった、だからメンタツも読んだ、SPIも受けた、そうこうしているうち、他人に自分を矛盾なく説明するために用意したぎりぎり嘘でない物語の数々は、徐々に内面を染めかえ、自分のなかに元々あったそれらと区別がつかなくなっていった。照明がおとされた夜行バスの車中で、自分は眠れずによく手を組んで、いろいろな願いごとをしていたけれど、どうか今度の面接が通りますように、内定が取れますように、そういうこともふつうに願った。
*
先日、はじめて海外旅行に行った。羽田から仁川経由でニューヨークへ向かう機内の十数時間を体験しながら、ああ、これは博多から東京まで夜行バスでかかったのと同じくらいだなと思った。
夜行バスに乗っていたときの自分にとって、海外旅行も宇宙旅行も似たようなものだった。どうせ行けないのだから費用や行きかたなんて調べても意味のない、視界に入れたってしょうがないもの。行けるわけのない外国の遠さよりも、見慣れた田んぼ、そこにある変わらない暮らし、そういったものに思いを馳せるようになるのは、そのときの自分にはごく自然な成り行きだったと思う。だから新宿の街も好きではなかった。東口のネットカフェに泊まったり朝から歌舞伎町の銭湯に入ったりする小旅行を、楽しんではいたけれど、駅の通路に浮浪者の排泄物のにおいが漂っていたのを強烈に覚えてもいた。長く住むところではないと思った、その都市に、けっきょくいまは福岡に下宿していたのよりもずっと長いこと住んでいる。
去年はじめて実際に調べた、二月のヨーロッパやアメリカへ渡る往復航空券の値段は、盆や正月のラッシュのなかを新幹線で実家に戻るのと大差がなかった。どうせ行けるわけがない、他に選べる道もない、と見過ごしてきたものごとの数を考えた。けれど、そのときはたしかに、それが自分の視界に映るもののすべてだった。その視界が十分に広くなかったとして、いまを測るための物差しとしては省みることかもしれない、けれど責められるものではない。いまとむかしの自分は違う、同じものでない、そのことは互いの存在を妨げない。一応は自分のお金で大学院を出て一年が過ぎ、将来の自分から先借りしているお金を返しはじめて半年が過ぎたいまはそう思っている。
って、あれは「1ヶ月間でサービスをお楽しみいただいた上でご契約を検討してください」じゃなくて、「1ヶ月したら有料になるけどその頃には解約がめんどくさくなってるはず」という商法なんだろうな。
もちろん無料で敷居を低くしてたくさんの人を呼び込もうという意図もあるだろう。そして参加者には有料契約の決断を先延ばしにさせる。
先延ばしの間は、サービスを使おうが使うまいがユーザーの自由だ。面白かったり便利だったりすれば利用するだろうし、そうでなかったら利用頻度は下がる。だけど両者とも、サービスの利用権があることが1ヶ月後には所与の前提になっている。使いたい時にサービスを使えることが当たり前になっている。だから1ヶ月後に切り替え期限がくると、「うーん最近あまり使ってないけどもしかしたらまた使うかもしれないし」とさらに決断の先延ばしをさせる。これがサービス提供者の狙いだ。
メスケモ派、オスケモ派にはじまり、マッチョ派、モフモフ派、デブ派、ショタ派(なぜかロリはほとんど見ない)、モンスター派(極左人外連)、トランスファー帝国、肥大化公国、融合辺境伯領、ロイヤル竜奇兵連(ドラゴナーズ)、爬虫人類委員会(レプタリアンズ)、キグルミ派、母性探求派、海生動物会議(「海の人々」)、四ツ足派だけどズーフィリアじゃないもん派(愛ケモ主義的極右)、丸呑みだけが人生だ派、卵胎生出産教会、インターレイシャル(人×ケモ)派、反インターレイシャル派……
「天はケモナーの上にケモナーを造らず、ただし、ケモナーの横には無限のケモナーを造った」
産業革命以降の通信技術の発達は、孤独だったケモナーたちに「同好の士」を発見する機会を与え、ファンダムの拡大に成功したものの、
同時に細かな嗜好の違いによる派閥間対立をも生じさせ、その軋轢がついに二度に渡る世界大戦の引き金となったことは今更説明するまでもないだろう。
そうした争いは近年まで衰えることなく続き、いつしかケモナーたちは「派閥が違えば殺し合って当然」という野蛮な虐殺言語を所与のものとして生きるようになっていた……。
私もそうだった。
私もある狭い派閥こそ唯一かつ至高と信じ、他者の排除や差別によって所属派閥への帰属意識を高めていった。
派閥の意志に叶うと思えば、喜んで我が手を血に染めてきたし、かつての友人たちをためらいなく2chに晒した。
なかでもいっそう劣悪とされ、他のありとあらゆる派閥から敵視されていたのが「ケモミミスト」である。
サイバー=コネクトツー・スペクトラムでいうところの「レベル2」。
「ニンゲンの身体に、ケモミミ(としっぽ)がついてさえいればよい」とする日和見主義的邪教徒たちだ。
彼らにはケモコミュニティ内において最初から人権など与えられてこなかった。
なので、ふだんは「一般人」に紛れて潜んでいたのだが、ときおり何かの間違いで何も知らない”レベル2”がケモコミュニティに迷い込んでくることがあった。
多くの場合、彼らは痕跡も残さずにコミュニティから「除去」された。
中道過激派の秘密ケモナー警察のあいだで流行ったジョークにこんなものがある。
「”レベル9"(いわゆる真性の獣姦嗜好)はケモナー以上に進化してしまったケモナーだ。だから畏敬をもって殺す。
”レベル2”はケモナーになれなかったケモナーだ。だから哀れみをもって殺す」
私も彼らを憎んだ。
でじ子の肖像を何枚も焼いたし、それ以上におぞましいこともやった。
現代のケモナー社会は、あらゆるケモナーには自分自身と同胞である他のケモナーの「性欲」を認め、尊重することができる能力、そして性的志向の善し悪しについて自ら判断する能力があるというフマニスト的前提をもって、各人に普遍的ケモナー権を付与しようとしてきた。
一見それは理性的で合理的、かつ人道的な判断基準なように思える。
だが、人は他者の良い面よりも悪い面を重視する傾向にあるようである。それが上記のような派閥争いとケモミミスト蔑視の引き金となったのである。
だが忘れもしない2017年の某日。
私は『けものフレンズ』を観た。
もちろん、観る前は”レベル2”だと貶していた。
しかし、一種の社会現象となるにつれ、そして「一般人」たちがけもフレを「ケモナー」と結びつける言説を多く弄するになるようにつれ、私は「世間の無理解を忠実バラなぬ」という一種の義憤から、けもフレを鑑賞したのである。
最初はなんと退屈でつまらなく、くだらないアニメだろうと思った。
だが、一話の終わりにさしかかったあたりから胸がざわめきはじめ、
画面にかじりつくようにして二話に没入し、三話を見終わるころにはすっかりフレンズたちに魅了されていた。
のみならず、こう思うようにさえなっていた。
「これは”われわれ”について語られた、”われわれ”のためのアニメである」と。
ケモナーは一般に受けいられる性的志向ではない。というか、世間的には性的志向ですらないと考えられがちだ。
同胞たちは自分たちの好きなものをカミングアウトできずに日々気持ちを圧し殺して生きている。
ファンダムとは、そうした「のけもの」たちを包摂するために存在するやさしいシェルターではなかったのか?
それがいつのまに、我々自身から「のけもの」を作り出し、排除し、殺し合い、差別するようになってしまったのか――
「姿かたちも十人十色だからこそ惹かれ合」い、「みんな自由に生きている」場所。
それこそが我々が最初に求めたファンダムのあるべき形ではなかったのか?
蒙が啓かれるとはまさにこのことだった。
私はいてもたってもいられなくなり、地下壕から出て地上へとあがった。
だが、つい先刻まで鳴り響いてはずの銃声や悲鳴はすっかり止んでいた。
地には戦車ではなく瓦礫の影で戯れる少年少女が、空には爆撃機ではなく大きな翼の鳥たちが遊んでいた。
まるで、あらゆる憎しみが「ぼくのフレンド」に包まれて溶けて消えてしまったのかように。
私はあてもなく、ただ何かにつきうごされるかのごとく歩いた。
そして、数分もしないうちに反対側の地下壕から出てきたであろう年老いた男と出くわした。
老人はあきらかに”レベル2”であった。
ふだんなら我々の姿を見て怯えて眼をそらすはずの彼らが、瞳に決意をたたえ、凛としてこちらを見据えている。
「きみも、観たのかね?」
そう老人は問うてきた。
私は無言で頷いた。
頭を傾げた途端に、一条の熱い何かが頬をつたい、顎からしずくとなって焼けた大地に滴った。
涙を流している、と自覚したのは、湿った点が地面に染み込んで数秒経ったころである。
「私は、私たちは」とうわずる声で私は言った。「許していただけるのでしょうか。あなたたちとフレンズになることは……できるのでしょうか?」
老人は痩せこけた顔に、穏やかな微笑を浮かべて応えた。
「笑おうじゃないか。ともに笑ってみよう。
そうとも、と老人は私の肩を叩いた。
ここが、われわれのジャパリパークなんだ。
われわれは『けものフレンズ』というサンドスターを通過して、今一度生まれ直したのだ。
本当の愛は、ここにあるのだよ。
「これは犯罪になってるけど、理屈では納得できない。別にやってもいいんじゃないか?」
とか考えてる人
法律が、普遍的善悪の基準と完全に被さっていなくて、そこからはみ出た部分(A∪B-A∩Bみたいな??)が犯罪になるのよね
普遍的善悪の基準って言っても、人間は神様じゃないから本当は普遍的でも何でもないんだけど、生きてる限りは自分なりの正義があって、だからこそ面倒くさいんだよね
まあ、各自が想像する任意の普遍的善悪の基準に当てはめてもらっていいんだけど
この前、視覚障害者が店の予約?入店を断られた?ってニュースあったじゃん
その時に、コメントの一つに、「障害者差別解消法に定める合理的配慮に反しています」ってコメントがあって、うーんって
じゃあ障害者差別解消法がなければあなたはどういう武器で店を責めるの?
「何人たりとも差別されるべきじゃない、出来る限りの配慮をしたうえでの入店拒否なのか?」って言った方が、論理的にしっくりくるし、法律を武器にするのは時として悪手になる
見方として、法律が普遍的善悪を過不足なく包摂していて、過不足なくその基準になってるって盲目的に信じ込むのは、危険だし、そう信じ込めること自体が、幸せであることの証左な気がするなあ
そもそも論として法律は普遍的善悪の基準じゃなくて社会の行動規範って言われればそれまでなんだけどね、もちろん、そういう面があるのも事実だけど
「自分は悪いことをした」と「自分は社会を乱した」はトータリーイコールにはなりませんよねえ
所与のもの(既存の在り方、既成概念)を疑うことが、なぜか法律だけにはなかなか適応されない(される場合でも、性犯罪(セクシャリティ)の問題など、非常に感情論的な疑い方にすぎない)事実は、あるんじゃないかなあ??
元記事はこれ
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160617-00009939-kana-l14
ブコメはこれhttp://b.hatena.ne.jp/entry/headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160617-00009939-kana-l14
そもそも何が問題となっているかを理解していない様に見えるブコメが散見される。
問題となる条例は、海老名市海老名駅自由通路設置条例である。(以下、断りのない限り、条文は、同条例のもの。)
この条例では、30条1項2号において、自由通路における「集会、デモ…その他これらに類する行為」が禁止されている。
これらの行為をしたと認められる者については、市長は中止命令等を発することができ(30条2項)、これに従わないと5万円以下の過料に処される(41条)。
一方、「募金、署名活動、広報活動その他これらに類する行為」や「催事…その他これらに類する行為」については、19条1項により、指定管理者の承認が必要とされている。
今回のケースでは、市長が、
市民団体の行った行為は、30条1項2号の「集会、デモ…その他これらに類する行為」にあたるとして、同条2項に基づく命令をしたということだと思われる。
(なお、今回は、すでに行為が終了した後に、将来の行為を禁止する命令が発せられているようなので、中止命令ではなく、「必要な措置」の命令だと思われる。)
これに対する市民団体側の主張は、
①30条1項2号は、違憲ゆえに無効であり、本件の命令は違法である。
②仮に条例が合憲だとしても、市民団体の行った「マネキンフラッシュモブ」は、「集会、デモ…その他これらに類する行為」にあたらないから、本件の命令は違法である。
というものだと思われる。
(②については、主張されているか記事からは明確には読み取れない。)
条例で決まってるんだから当たり前、ブコメがあるが、①の主張のとおり、そもそも、その条例が違憲であり、無効だという主張がされているわけで、条例の内容が所与の前提となるわけではない。
また、条例が合憲としても、市民団体の行為が30条1項2号に規定される行為にあたるかの問題もある。
この問題は、「約10人が、プラカードを持って数分間立ち止まる行為を1時間行う」行為が、「集会、デモ…その他これらに類する行為」にあたるかの問題であり、市民団体の行為がいわゆるフラッシュモブにあたるかどうかは無関係である。
(また、表現の自由を考慮すれば、「集会、デモ…その他これらに類する行為」については、狭く解釈するべきだ、という議論も成り立ち得るので、単に集会やデモにあたるかどうかを直感的に考えただけで解決する問題でもない。)
なお、市民団体の行為が、フラッシュモブかどうかは、その言葉の定義の問題であり、本件で法律的には本質的な議論ではない。
「原告は他所でやることも出来た。条例は歩行者の安全で快適な往来に資するための管理を定めたものであり、表現の自由を制限しない」で棄却、というブコメがあるが、そんなに簡単な話でもない。
催事等は承認制で可能なのであり、許可制・届出制等ですらなく全面禁止しか安全かつ快適な往来確保の方法がないのか、という点は議論を要するように思われる。
「催事、興業、音楽活動レベルでも事前承認は必要」とあるが、市民団体の行為が承認が必要な行為だったとしても、30条1項にあたらないのであれば、命令を発することはできず、違法である。
「普通にデモやったらいいんじゃないかな」というブコメもあるが、自由通路でのデモは一律禁止であり、許可をとる余地すらない。
以下、個別に書いていくときりがないが、デモの規制については、(ブコメにおける議論よりおそらく厳格な)憲法上の議論が蓄積されているところだあり、興味があればもう少し調べてほしいと思う。
最近は増田というだけで脱糞が許されたり、ことによると誇るべき勲章だと考える似非増田が増えている。
なげかわしい。
本来増田が蔑まれるべき対象であるのと同様に、脱糞もまた蔑まれるべき行為だ。
我々は人間なのだから、うんこは当然便器にするべきであり、それ以外の場所でぶちまけるなどしつけのなっていないネコ以下の畜生である。
自分から積極的にその下劣さを憎みつつも、波打つ括約筋の秘すべき快楽に抗えない、
そういう隠微で官能的な行為であるべきなのだ、脱糞とは。本来は。
だというのに、なんだそのざまは。その有様は。
まったくもってひどすぎる。
すき家の新作メニューにも劣るフランケンシュタインのモンスター的生ごみ、
ネット社会の恥部オリンピック日本代表のはてな匿名ダイアリーの利用者、
純然たる無為、
増田なのか?
四六時中どこでもウンコをもらして許されるといった風情じゃないか?
だが、逆なのだ。
おまえが世界を所有しているのではない。
おまえが世界に所有されているのだ。
誰にも支配されなかったお前の胃腸を、お前の肛門を、お前はやつらに捨て値同然で売り払ってしまった。
ブクマという悪銭と引き換えに。
思い出せ。
あの恥じらいを。
忘れるな。
あの屈辱を。
噛み締めろ。
あの劣等感を。
堂々と脱糞するな。
自慢気に脱糞談を書くな。
俺たちはクソみたいな存在だ。
だが、クソそのものではない。
俺たちには常に脱糞がついてまわる。
おまえは増田だ。
おまえは脱糞ではない。
おまえは増田だ。
おれたちは増田だ。
だが安易すぎる自由は、安価すぎる自由は、やがておまえを殺す無為に満ちた自由の刑と成り果てる。
おまえはいつでもどこでもクソを漏らしていい社会に直面したとき、もはや何者でもなくなる。
おまえが初めてクソを漏らしたときのことを思い出せ。
それが俺たちの原点だったはずだ。
俺たちは十一人。
互いに交わらず、互いに傷つけず、互いに愛さない。
誰からも賞賛されず、誰からも顕彰されず、孤独にdatの海に散っていく。
綴る言葉の価値はbotがランダムに打つワードサラダと等しく、
拠って立つアカウントも肉体も何もない。
それを忘れるな。
俺たちは増田だ。
4年つきあって結婚、5年続いた結婚がだめになってしまって2年が経った。
再婚にはあまり興味はないのだけれど、実子を持つならそろそろぎりぎり、という年齢になろうとしている。
結婚せずに実子を持つなら、わたしの子供となる人は「遺伝子上の父親に会うことがかなわない人生」が最初から確定して生まれてくることになる。諸事情あって金銭的に苦労させることはないと自信を持って言えるけれど、「父親のいない人生」っていかほどのものだろうか。ふた親揃った環境で育った自分には想像することしかできない。
どんな親の元にどんな生まれ方をしても、人生とはどのみち葛藤の多い、苦悩に満ちたものであって、それを乗り越えて自己を確立することこそが「生きる」ということなのだろうか。自分はもう大人だから、「幸福とは自己の意思によってのみ決定されるものであり、所与の条件で決まるものではない」と確信を持って言えるけれど、この心境に到れるまでに30年以上かかっている。
まず「大半」を強調しておく、もちろん尊敬に値する素晴らしい人も「まれに」いる。
かつてインフラ系とフロントエンド系のエンジニアを職業としていた。
いまはまったく別の職種、ユーザー側として常駐しているSEにリクエストを出すこともある
今の立場になり他者として技術者と対面すると、SEをしていた時は気づかなかったことが、いろいろ見えてきたこともありまとめておきたい。
最後にもうひとつだけ。下記にあげたものは職務遂行能力とは直接関係ない。技術職・事務職を問わず職務遂行能力はあって当たり前であり、なければ配転や契約打ち切りとなる。ここにあげるのはどちらかというと社会集団的あるいは企業文化的の枠組みでなぜIT技術者が軽く扱われるかについて考察している。前置き長くてすまん。
これはよく言われるので一例のみ。質問に対し字句通り答える。質問の言外の意味を察しろとは言わぬまでも質問の上のレイヤーさえも推測しようとせず字句にそのまま答えるので相手にとり会話の流れをつくっていくことが非常に困難となる。
たとえばシステムやアプリケーションの不具合について質問すると「これはこうこうこうでこうなっています」(話のすじみちはとおっている)と答える。仕様についても「仕様ではこうなっています」と「こうだからこう」ではただ「こうなっている」と解決策を示すこと無く今の状態を記述する。何か規定されたルールを絶対の所与のものとして、過去にそれがどのような目的のもとでつくられたかに関する想像力が及ばない。「こういうことをしたいのだけど…」と聞いたら「それはこうなっています」と答えることのある種の異常さに気づいてない。現在時点を中心に狭い範囲の時間軸しか認識・理解できないという意味では猫や犬などの動物に近い。
見方を変えればモノ(ソフトウェアやシステム)をつくる職種が徹底的に「as is」ベースの思考というのも何が深い原因があるのかもしれない。
興味範囲外のことについて広く知識収集せよとまでは言わないが、興味が無いことについてバッサリと切ってしまうので話が広げにくい。たとえば営業系の社内システムを保守しているのに営業の職務内容については自分に関係の無い話としているなど。そうした指摘をしても我関せず、えてして自分の雇用契約(派遣契約、期間雇用契約)などを理由に理論武装しているが個人的に考えたくないのが見え見えである。
一部前項とも重なるがここで言う教養とは業務知識やいわゆる(公務員試験などの)一般常識レベルのことではなく社会人になってからの学び、つまり文化・芸術や歴史に対する理解が低いの。せいぜいゲーム、アニメ、マンガ、あるいはテレビのバラエティなどのサブカルチャー方面に造詣が深い程度である(もちろんこうしたサブカルチャーを馬鹿にする意図はないよ)。
そう言ってしまえば文化資本が家庭環境、周りの環境が云々と言い出すひともいるが、自分はこうしたものを身につけるのはむしろ社会に出てからと思っている。よく言われる「うちの職場は休憩時間にはパチンコや風俗の話しかしない奴ばかり」と言うのは自らの選択の結果であり親や周囲の人間のせいではない。
ここであげるかどうか迷った。というのもこれは技術者にかぎらず日本の社会人の多くに共通する問題かもしれないから。
もちろん過去の自分もこれにあてはまる言動をした可能性があるのでそれについて弁明はしない。
一般に日本のIT技術者は他国のそれに比べて低所得と言われているがそれもむべなるかな、現在の待遇は不思議でもなんでもない。
なお、ここであげたIT技術者は、自身の経験から企業や団体の中の情報システム部門、ユーザー支援のために外部から雇用あるいは派遣されているSEなどを対象にしている。開発委託先や運用委託先のシステムベンダーの担当者、などについても一部当てはまるかもしれない。
異性愛者は正常で、同性愛者は異常だ、と言う人がいる。本当だろうか?
なぜ異性愛者が正常なのかというと「人間は子孫を残すために生まれてきたからだ」と言う。
その「ために」は何のための「ために」なのだろうか?
事実として、多くの人間には、種を残すための本能のようなものが、遺伝子的にプログラミングされているらしい。
そう考えると、同性愛者というのは、プログラムの「バグ」のようなものにも見える。
しかしシンプルな理屈ほど、疑ってかからなければならない時もある。
ここで考えなければならないことは、「そのプログラムはなんの『ために』存在するのか?」ということではないだろうか。
なぜ種を残す本能が存在するのか? そもそもなぜ人間は、あるいは生物は、その種を後世に残そうとするのか?
難しい問題である。無茶苦茶ムズカシイ。なんとなれば、「人はなぜ生きるのか?」というような問題にも繋がってくるからだ。
科学は価値判断をしない、という文脈に立った上で言うならば、科学的に見て、人間が生きることに意味や目的や理由は存在しない。
あるひとりの人間が、人間としてこの世界に生まれたのは、単なる物理現象の膨大な積み重ねにすぎず、そこに必然性のようなものは全く無い。全く、である。
「人間は子孫を残すために生まれてきたんでしょ?」と言う人がいるかもしれないが、そういう人には逆に問いたい。「じゃあなんのために、人間は子孫を残すの?」と。
おそらくこの質問に回答できるのは、宗教的な議論だけだろう。「終末の日を待つため」とか。「自分を産んでくれた先祖に恩返しするため」とか。
しかしあえて言わせてもらうなら、あなたがこの世に存在するのは、先祖があなたのためを思って子孫を残そうと努力したおかげなどでは決して無い。ただ単に、「種の保存」という遺伝子的プログラムに従っただけのことである。身も蓋もないことを言えば、ただセックスしたいからセックスしたら子どもが生まれただけである。いや、ホントはもうちょっと複雑だろうけどね。
「よりよい種を残すことが人類の目的だ」というようなことを言う人もいるが、それも科学的に見て間違っている。
生物が進化するのは、環境に適応するため、である。「より良い」などという概念は、人間的な価値判断に過ぎない。
より正確に言うならば「多様な個体の内、環境に適応した個体が生き残る」という形で進化は進む。
人間が今の人間のカタチをしているのは、大雑把に言えば、単なる偶然に過ぎないのである。
どうも「人類は今まで子孫を残してきた」という事実と「だから全ての人間は子孫を残すべきだ」という価値判断をごっちゃにする人が多いようだ。事実と価値判断は分けて考えなければならない。
あなたが「全ての人間は子孫を残さなければならない」と考えるのは個人の自由だ。しかしそれはあくまでもあなたの個人的な思想であり、社会的な合意ではない。
あるいは、成員全てが子孫繁栄のためだけに邁進するような、そんなブラック企業じみた社会に、本邦はなりつつあるのだろうか? そうしたい人は結構いるみたいだが。
話を冒頭に戻そう。
確かに、人間のうちの多くが、「種の保存」を遺伝子的にプログラミングされている。
しかしだからといって、そのプログラムが多少ズレている人が、直ちに異常人間であるという話にはならない。
なぜなら、そのプログラムは、様々な偶然の積み重ねによって、そのような文字配列になっただけであり、あらかじめ種の保存を目的として書かれたものなどでは決して無いからだ。
もし足し算が出来ない表計算ソフトがあったとしたら、それはれっきとしたバグである。所与の目的と違う動作を、バグと呼ぶのだから。
しかし人間は、人間の遺伝子は、誰かによって何かの目的によって作られたプログラムでは無い。人間の遺伝子に目的は無い。「ために」も無い。
「足らぬを知る」、
つまり、自分の可能性の枠の上限を広げることは、成り上がり的幸福感を与えてくれる。
ただ、そのコストは莫大であり、枠を拡大する段階で、相当の努力、ストレスを必要とすることが多い。
反対に、「足るを知る」ということは、人生の上限を決め、
その枠を広げることよりもとても楽なこと。
そのうえ、精神的充足を得られるのだから、幸せそのものだろう。
人生の中で、
「足りない」期間が長いからといって、最終的により高い地位にたどり着き、幸せになれるとは限らない。
ただの傾向として、「足らぬ」ことを知り、努力を積み重ねた人間のほうが何かを成し遂げやすい、
ただそれだけのこと。
必死で「足りない」と思いながら踏ん張っている、僕は幸せになれるのだろうか。
それとも、「足りない」ことを知りつつも、
自分の上限を広げる力を持ってないことに気付かないまま、無駄な努力をしているのだろうか。
イスラム教が女性を蔑視していない理由という記事があって要約するとこういうものだった。
1.イスラム教は成立当時の社会において極端な男性支配から女性を救う革命的な考え方を持っていた。
2.しかしコーランの記述には、現代において普遍的な人権等の概念にそぐわない部分があることも事実である。
3.そうした記述についてイスラム教徒のフェミニスト等は、再解釈に取り組んでいる。
4.性差別はイスラム教の教義じゃないからイスラム社会においてこれから改善していくだろう。
2はわかる、ムハンマドは昔の人なので世界人権宣言に着想を得てコーランを執筆したということはありえない。齟齬はたくさん出るだろう。
コーランを文字通り読んでいくのは理解できる。ISは異教徒や女性に対する蔑視を所与のものとしてイスラム的に振舞っている。
でもコーランに対して、現代のイスラム外世界の規範に基づいて、執筆当時決して存在し得なかった解釈を試みるというのは意味がわからない。
コーランの記述は神の啓示を書きとめたものだから価値があるんじゃないの?現代の社会学者による創造的な再解釈は何がその価値を担保しているの?
これ当のムスリムに受け入れてもらえるの?世俗的な地域ならいけるけど、そこ以外は仕方ないという考えなの?
あと現代における人権概念も日々変質し拡張してるわけで、それとの差異が広がるその都度再解釈を試みていく予定なの?コーランってそういう性質のものなの?捨てたらダメなの?
誰か詳しい人おしえてもんじゃ