はてなキーワード: 断片化とは
https://anond.hatelabo.jp/20201208141535
2020年代の日本社会では、スマートフォンを手にして都市との格差を認識して大学受験をする層は結構多いのではないだろうか?なにかと批判される「限界集落」。「令和の田舎は高齢化で田んぼすらなくなって、イオン以外は限界集落化が進んでい」るのは事実である。
しかし、今をさかのぼること50年前にも限界集落化を危惧された地域は存在した。私の生まれ故郷の地域である。現在私はここに住んでいない。
私の故郷はバスや電車でなんとか地方都市の中核にたどり着くことは可能であった。道が暗記できるほどにまで簡単だったため、バス代がもったいなく自転車で30分かけて行ったこともあった。しかし、私が小学校に上がる前、地元で有名な四文字スーパーが廃業した。その地を今Googleストリートビューで調べたら更地であった。この廃業の時点で、限界集落化が予想されていたらしい。
しかしながら、その四文字スーパーの廃業後、まったく別の食料チェーンを確保したスーパーが登場したことで、限界集落化を免れ、人口は増え続けた。最盛期は1980年代末だったといわれている。もうこの土地はだめといわれてほったらかしになっていた地域が、急に成長しだしたのである。確かにファミレスもなければ、イオンもないし、コンサートホールもなく、本屋もない。しかし避妊対策のためだろうか、薬屋はあった。音楽イベントには、小学校や中学校の体育館が使われていた。格差を感じないわけにはいかなかった。小学校の図書館も、私とドアを開けに来た司書以外はだれもいない、そんな時間は多かった。部屋には自分と本と司書しかいない。小学生向けの事典とはいえ、世界の作曲家を知ったのは、この時であった。
文明の象徴となる建物はないが、子供とその親はいっぱいいるという環境。これは「人が少ないので限界集落寸前です」というのとは違った困難があった。人が少なければ、多い都市にバスで移動すればいいだけの話である。しかし、私の故郷は違った。無能で無学な大人の塊なのである。こういう大人に悩まされたことは一度や二度ではない。人に物を貸すとまず返ってこない。中学校の図書館は、考えられないほどに物凄くうるさかった。大人の会話の質が低いと、そのまんま子供が模倣するので治りようがなかった。幸い私の人生に関する限り、まともな女子や女性は若干名存在していた。彼女らとの会話が私の人生の質を上げ続けていたのかもしれない。このことは大学を卒業するまで気が付かなかった。
なので、地方であろうが田舎であろうが都市であろうが、「まともに会話のできる成人」がいなければ、どこに住んでも一緒なのである。私の人生を思い出しても、まともに会話のできる成人を日常的に見たのは大学入学後であった。それまではほとんど見ることはなかった。低学歴を見下すわけではないが、短大卒以下の人々は会話が断片化しやすいという印象は今も変わっていない。今の子供はスマートフォンでというが、その親の会話はスマートフォン以上に断片化していることはメディアでは触れられない。子供であろうが老人であろうが女性であろうが、無学な人との会話は疲れる。洋書を頼んで買っていたのは、私しかいなかった。そもそも私以外、誰もドイツ語を勉強しなかった。中学の担任は「大学時代に忘れた」と言っていたのだから、その程度の教師で、その地域は間に合ったのだろう。
やはりこの無学な大人に疲れた人々がさすがに気付いたのか、10年で見事に過疎化した。その後2020年代に入って再度の人口流入が起きており、1980年代では絶対に市の行政がやりたがらなかった特別支援学級設置程度のことはしてくれるようだ。普通学級の担任では、手に負えなくなったのだろう。「まったく別の食料チェーンを確保したスーパー」は、もうない。限界集落化が進むかどうかは、その土地に住む人間の知能が上がるか下がるかでしかない。進学率が40年間に数分の1にまで急落するのも、限界集落とは違った悲劇の一つである。
この記事はテーマに解を与えるようなものではなく、むし不可解な点を挙げるにとどめるものであることを断っておきます。
漫画は必ずといってよいほど性別(+世代)基準でカテゴライズされています。
少年向け、少女向け、青年向け、TL、ヤングレディース、女性向け…
単行本はこの分類に従って、書店では棚分けされていますし、電子書籍サービスにおいては一つの作品につき一つこれらがタグとして付与されているものです。
結果、読者がターゲットして想定しない性別の読者には作品の存在が目に入らないということになっていると思います。
マニアとかは気にしないことでしょうが、たまに漫画を読む程度の人にとって、男性(女性)ならば女性(男性)向けが陳列された棚に行ってみるというのは、気が引けるか、そういう発想自体起こりづらいのではないかと思います。
電子書籍サービスでも、アクションや恋愛といったジャンルではなく、青年向けとか少女向けといったカテゴリーを第一分類とし、ページデザインにもトップページからそういった分類に基づいて専用の入口を作ってあるといった具合に反映されているのが普通です。
そのようにデザインされたサービスにアクセスした普通の読者は、疑いなく自分の性別に合った入り口のみから漫画を探すようになるでしょう。
つまり、そもそも売る側が読者を性別で限定するような売り方をしているわけです。これは特異なことだと思います。
たとえば映画なら、たとえばSFとかアクションは男性に好まれるといったような傾向はあるでしょう。だからといって映画館に男性向けと女性向けに分かれた別々の入り口があって、片やでSFやアクションのみを扱って片や恋愛映画などを扱って、なんてところはないでしょう。
むしろ宣伝する機会があるならば、自分の作品が万人に受けると思った供給側は、積極的に「男性(女性)にもおすすめ」といって積極的に顧客の間口を広げようとするでしょう。
レコードにしても、ロックとかニューミュージックみたいなジャンルに分けられた曲男性向けと女性向けという分類で恣意的に再構成して売り場を分けるということはしないでしょう。ゲームもそうです。エロゲーですらホームページに入る時の注意書きは「未成年の方や性描写の苦手な方は入場はご遠慮ください」といった言い方をしてます。
テレビでやっていたアニサマのライブを見たのですが、萌えアニメといわれるようなものや、乙女ゲー原作のアニメのような視聴者の性別に偏りがありそうな作品の曲が流れているところでも、男女関係なくサイリウムを振って盛り上がっているようでした。もしアニメが性別で見る人を選ぶものならば、そもそも作品ごとの視聴者層の性別の偏りを考慮せずに編成したようなライブは成立しないでしょう。そうであるならば曲目の半分ぐらいがいずれかの性別の人間にとって退屈なものということになります。お金を払ってまで退屈な曲が半分もあるようなライブを聴きに行く人などいるでしょうか。
以上の例から言いたいのは、おおよそサブカルチャーと呼ばれるようなものは男性向けとか女性向けといった区別はされないものであるということです。
消費側で性別が偏ったり、「これは○性向けだ/○性におすすめだ」と批評する人は出てくることはあるでしょうが、少なくとも売り手が、この作品は○○向けだから一方の性の目には極力入らないようにしようみたいな、押しつけがましい売り方をすることはないのです。
サブカルチャーのことを語ると「では芸術はどうか」と気にするべきかもしれませんが、語るまでもないことでしょう。
ダビデ像やモナリザに対して男性向けだの女性向けだのにカテゴライズしたがる評論家を、少なくとも私は寡聞にして知りません。
以上が漫画が特異だと申し上げた理由です。なぜわざわざ間口を狭くするような売り方をするのか、かえって作品と読者のミスマッチにつがなったりしないのか甚だ疑問です。
この状況を引き起こした要素として考えていることが二つほどあります。それはコンテンツの構成と歴史にまつわることです。
まず漫画は物語+絵を楽しむコンテンツだということです。田山花袋の蒲団や太宰治の美少女は官能的な描写がありますがそういった文学作品に対して男性向けとか言う人はいません。文字だけで構成されたものは特定の性別に訴えかける力が弱い/特定の性別が嫌悪感を催すことが少ないということで、○○向けと限定する根拠に乏しいのかもしれません。まあ、戦前の作品なので日本の資本主義が本格化してないかという事情もある気がしますが…。
宗教画は屏風画は一つの作品の中に動的な物語性があって漫画の祖先ともいえそうですが、これもまた絵のみで構成されたものなので文学作品の裏返しといえます。
しかしそれ以上に、これらが描かれた時代にはマーケティングという概念どころか資本主義自体が存在しないという背景が理由の比重として大きい気がします。
つまりこれらは、誰に売り込めば効率よく売りさばけるかといったことを分析的に考えるための主義も概念もないので、これらは当時の人にとって○○向けだと考える動機もなかった、また我々がこれらを○○向けと批評するのも現代のパラダイムの恣意的な投影に過ぎないから、そういった検討は一般的に行われていないのだと考えます。
時代が下って少年キングが出たあたりが転換点なのでしょう。なぜ少年○○と冠する漫画雑誌を出したのか?やはり絵と文字を組み合わせたものは性依存的な訴求力が強いものになりうると考えたからか?とにかくここから少年漫画が興隆し、対立するように少女漫画雑誌も生まれ、成功体験を経たこれらの漫画雑誌の供給者は読者の成長に合わせて、既存の雑誌のカラーに、読者の年代という要素で微調整を行って雑誌を派生させていく、これが、いかなる漫画雑誌も、その総集編に過ぎない単行本にも性別が想定されている理由だと思います。ライトノベルに性別が想定されているのも漫画の編集方針を見習ったというところでしょう。
歴史そのものがこうだったとして気になるのは、この歴史への舵取りをした人の考えは正しいものなのかということです。
男性向けとか女性向けって何でしょう?たとえば男性は男性向けに描かれたものを好むという発想はどこから来るのでしょう?
自分が男性であるという自覚が男性向け作品に描かれる絵や物語に向かわせるのでしょうか?それとも(特にラブコメや恋愛なら)女性が好きであるという欲求の方が根源なのでしょうか?
つまり性に基づく嗜好というものを考える際には最低でも性自認と性的指向という切り口は欠かせないものではないでしょうか。しかし最初期の少年誌が発刊された当初には日本にはジェンダー論が存在しません。つまりこの歴史的な漫画雑誌の創刊自体、理論的根拠に乏しい見切り発車なのではなかったのかという気がします。
おまけとして、同じ漫画作品なのにある巻が男性向けで別の巻が女性向けに分類されてしまっている例を挙げておきます。これは漫画に読者の性別というものを想定して仕分けようとすることが原理的に無理のあることを示す一例ではないかと私は思っています。
https://www.cmoa.jp/title/48001/
https://www.cmoa.jp/title/124998/
ある娯楽が男女どちらに強く求められるものであるかということを検討する際には、性自認と性的指向の概念は必要だろうということは述べました。
一日経ってこの考え方の厄介なところに気づいたのでまずはそれを示しておきたいと思います。
たとえば男性向けとされるコンテンツの集合が受け手の性自認に依存するものと性的指向に依存するものの混合であるとします。では性自認に依存する作品ならば、恋愛対象が男性のFtM、先天的性別を基準にすれば女性の異性愛者である人についても、シスジェンダーの男性同様にそのような作品を読む人の割合は高いのでしょうか?
ちょっと分かりづらいと思うので、語弊が生じるのを覚悟でざっくりした言い方をしますと、男性向けコーナーにいる女性には、一定の割合でトランスジェンダーがいるのかということです。
また性的指向に依存する男性向け作品の女性読者には、いわゆるレズビアンが一定数存在しているということなのでしょうか?
いやむしろ逆に考えた方が分かりやすいかもしれません。そういうトランスジェンダーやレズビアンの多くが、男性向け作品の愛好家なのでしょうか?逆に言えば、そういう人たちにとって女性向け作品はその性自認や性指向には受けが悪い作品ということなのでしょうか?
以上の議論は男女をひっくり返しても全く同様です。今の所このような議論は全く抽象的です。個人が「確かにレズビアンって少女漫画より青年誌のお色気漫画の方をよく読んでるな」とか言っても印象論にしかなりません。
そもそも性自認的な要素や性的指向的な要素は何に宿るのでしょうか?キャラクターの容貌や魅力といったものについては、人物的な好感を喚起するものとして性的指向に関わるものと考えられそうです。ではそれ以外の線のタッチ、物語の筋書きといったはどちらに関係するのしょう?たとえば一般的に女性向けとされるBLが耽美的と呼ばれる細い線で描かれることが多いですが、あれは性自認と性的指向のどちらに関わる魅力を増幅しているのでしょうか?またこれは、BLを持ち出していることで、まる細い線が女性が一般的に持つ性自認や性的嗜好に訴えるものであることを前提としたような書き方ですが、もしもここに男性読者が多い作品を引っ張ってきたら、意図するしないにかかわらず、全く逆の前提が演出されます。どうにも、よほど注意しないと結論の根拠が単なる具体例の寄せ集めにしかならないようです。
物語の筋書きならば、恋愛物のような自分を投影すべき対象が明らかなではなく、俯瞰的な目線で話を追うことを読者に仕向ける人間ドラマを描いた作品も数多くありますが、その物語を性自認や性的指向といった観点で分析するにはどうすればよいのでしょうか?
結局、漫画を要素に分解することはいくらでも可能でしょうが、その性質を直感的に判定できるものは少なく、そうではないものについて単なる具体例の寄せ集めではない形で検討して統合するのもまた困難でしょう。
だからこの切り口は、創作論には応用しにくいといえます。具体例の寄せ集めで出された結論を応用するぐらいなら具体例そのものを応用した方がよいわけです。
マーケティングとしても、有効かどうかも分からない他所の科学の概念でまどろっこしく分析するよりは、単に典型的な男性と女性が存在する社会モデルに対して作品を売り込む方式のほうが合理的なようです。
一つ懸念があるとすれば、漫画文化におけるクィアの居場所です。どんな作品に対しても男性向けか女性向けのいずれかのタグ付けがされている社会なのでは、自分を男性とも女性とも思わないクィアの人たちの中で「私達に向けられた作品は無いのか。漫画は典型的な男性と女性だけのものなのか」と思って疎外感を抱く人がいても不思議ではありません。男性向けと言っている以上は男性向けでしかないし、女性向けだと言っている以上は女性向けでしかないわけで、自分自身を男性とも女性とも考えない人の主観にとって、自分に目を合わせてくれる販売者が誰もいないような世界なわけです。
ただこれはトイレの入り口にある男女の図案に対して文句を言うのと同じ構図で、不満を募らせても仕方のないことです。ジェンダーという考え方が存在する以前に成立している慣習には社会的に認知すらされていなかった人々に対する悪意などあるはずもないのだから、むしろ過去の遺物に囚われずに思うままに自分にとって好ましく感じた漫画を読めばいいのです。
はっきり言えることは、ゴルフとか釣りとか盆栽みたいな芸術でもサブカルチャーでもない娯楽は、どんなに特定の性に好まれそうなイメージがあっても、それらの用具を売る立場の人がそのイメージに即した宣伝をするようなことはしません。その愛好者の性がいずれかに偏っているというイメージが共通認識といえるほど強力にあったとしても、それには何ら必然性はなく、ただ現時点における流動的で結果論的な現象として捉えられているのではないでしょうか。売り込み次第でいくらでも状況は変わると思われているから、むしろそういう趣味ほど「女性にもおすすめ」みたいな宣伝がなされるのではないでしょうか。
初音ミクってありますよね。ニコニコ動画で話題になった2007年当初こそはいわゆるキモオタ向けといった様相を呈していたようですが、数年後には女性ファンの方が多いぐらいになってコミュニティとしてはむしろ男性の肩身が少し狭いぐらいになっていたといいます。※1
初音ミクはもともと作曲支援ツール以上でも以下でもないので、当たり前だとは思いますが、男性向けコンテンツして宣伝したわけではないですし、当初とコミュニティ層が変わったからといってヤマハやクリプトンフューチャーがそこへ軌道修正的な介入をすることもありませんでした。男性に愛されようが、女性に愛されるようになろうが、すべてが結果論、成り行き任せというわけです。別の言い方をすれば、そのコンテンツのカラーは消費する側で意味づけする。ユーザ主権ということです。
漫画も、これぐらい読者任せでもよいのではないでしょうか?
出版業界の不況は今に始まったことではないですが、そういう垣根をなくしたほうが作品間の読者の流動性が高まって漫画の売上が底上げされるのではないかと思うのですがどうでしょう。
まあ、ピンチだからこそ安易な賭けもするわけにはいかないという考え方も至極真っ当ですけどね…。
ここまでずっと弊害のように書いておいてなんなのですが、男性向けや女性向けという分類にメリットというか効能のようなものを一つ見いだせました。
単にアクションとかファンタジーといった次元のジャンルしかないのと比べると、性別というレイヤーもあったおかげで、むしろ漫画の表現が多様になった側面があると思います。
もしもそのような分類がなければ、たとえばアクション漫画は今よりも男性に好まれるものばかりだったかもしれません。
男性向け女性向けという概念があって、それに基づいて男性誌、女性誌があるから、たとえば女性誌の制約のもとでアクション漫画を描こうとすれば、そこで必然的に「女性向けアクション漫画」とも言うべき新たな特色を持ったジャンルが起こるわけです。男性向け、女性向けという概念が、漫画家にとってはカウンターカルチャーとしての新ジャンルを創出する意識付けになっているという見方ができそうです。
今後、男性向け嫁姑漫画なんてのも出来たりするかもしれません。
多分追記する前の方が断然まとまりは良かったと思います。乱文失礼しました。
※1 ニコニコ学会βを研究してみた」という本にグラフも交えて書いてあったのですが、具体的なページは忘れたのでそれは後日
※2 この記事の価値観はマンガ古本雑学ノートに培われたところも大きい。全くジャンルというものを意識させない、ジャンルに偏りがない漫画遍歴だった。
※3 読書メーターにも数千冊数万冊と読んだ漫画の感想を逐一丁寧に書いている人がいるが、多読家ほど雑食なことが多い気がする。でもそれは彼ら彼女らが変人だからというよりも、むしろ漫画にそういうジャンル分けがあるせいで見かけ上の断片化しているだけのような気がする。そういうバイアスを取っ払った先には彼ら彼女らの嗜好にも何らかの一貫性というものが見えてくるのではないか。男性向け<
公取委が個人情報保護委員会とは別にオンラインサービス規制を提案して、「サービスの対価として自らに関連するデータを提供する消費者」とか言い出してるけど、EUでも似たようなことが起きてたらしい。
欧州委員会がオンラインサービス規制のための新しい指令を起草して、そこで「消費者がサービスの対価を個人データで支払う……」とか書いてしまった。これに対し、欧州データ保護監督機関が「何すんじゃワレェ!」したのが以下の見解である。
https://edps.europa.eu/sites/edp/files/publication/17-03-14_opinion_digital_content_en.pdf
EDPSはデータ駆動経済について、EUの成長のために重要であること、デジタル単一市場戦略として唱道されるデジタル環境において抜きんでていることを認めております。消費者法とデータ保護法とが共同し相補しあう関係にあることは私たちが一貫して論じてきたところであります。ですから、「デジタル商品」の提供を受ける条件としてデータを差し出すことを要求される消費者の保護を強化するために、デジタルコンテンツの供給にかかる契約に関する特有の側面にかかる2015年12月の委員会指令プロポーザルの意図しているところを、私たちは支持しております。
しかしながら、この指令のある側面は問題をはらむものです。というのも、これが適用可能なのは、デジタルコンテンツのために価額が支払われる場合だけではなく、デジタルコンテンツが金銭以外の個人データその他何らかのデータの形での反対給付と引き換えに供給される場合にも適用可能だからです。EDPSは、人々が金銭を支払うのと同じように自分達のデータを支払えるという考え方を導入するような規定を新たに定めることのないよう警告いたします。個人データの保護を受ける権利のような基本権は、単なる消費者利益に縮められるものではありませんし、単なるお値打ち品のように個人データを捉えることはできません。
最近採択されたデータ保護フレームワーク(以下「GDPR」といいます)は、未だ完全には適用可能でなく、新しい e-Privacy 制度は今も審議中でございます。ですから、EUとしては、立法者が協議されている入念なバランスをひっくり返すようなプロポーザルは、何であれ避けるべきものです。イニシアティブの重複は、デジタル単一市場の統一性を意図せずとも損ない、規制の断片化と法的不確実性をもたらすことになりかねません。デジタル経済における個人データの使用を規制する措置として、EUがGDPRを適用することをEDPSは推奨いたします。
「反対給付としてのデータ」という概念……このプロポーザルでは未定義のままです……は、所与のトランザクションにおけるデータの正しい機能について混乱を引き起こす恐れがございます。この点で供給者から明瞭な情報がないため、さらに難しいことになるでしょう。それゆえ私たちは、この問題を解決する一助として、EU競争法におけるサービスの定義を一考することをお勧めしますが、その地域範囲を定義するうえでGDPRの用いている規定が役立つかもしれません。
本見解では、このプロポーザルがGDPRとどのように影響し合うことになりうるかを検証いたします。
第一に、データ保護制度に基づく「個人データ」の定義が広範であるため、その効果により、この提案指令の対象となるデータが全て GDPRに基づく「個人データ」とみなされることは十分にありえます。
第二に、(個人データの)取扱いが発生する厳密な条件はGDPRで指定済みであり、この提案指令に基づく修正や追加を必要としておりません。このプロポーザルは反対給付としてデータを用いることを正当とみなしているようですが、GDPRでは、例えば、(本人の)同意の有効性を検査し、デジタル取引の文脈において(同意が)自由意思に基づくとみなしうるか決定するための、新たな条件を一式用意してございます。
最後に、消費者に与えるものとして提案されている契約終了時に供給者からデータを取得する権利と供給者がデータ使用を控える義務は、GDPRに基づくアクセス及びポータビリティ権やデータコントローラのデータ使用を控える義務とオーバーラップしている可能性があります。このことで、適用する制度について意図しない混乱をもたらすことになりえます。
https://edps.europa.eu/sites/edp/files/publication/18-10-05_opinion_consumer_law_en.pdf
本見解は、EU消費者保護規則のより良い執行と近代化に関する指令のプロポーザルと、消費者の集団的利益の保護のための代表訴訟に関する指令のプロポーザルからなる「消費者のための新しい取引」と題する立法パッケージに関するEDPSの立ち位置を概説しています。
EDPSは、目標において最近近代化されたデータ保護フレームワークと密接した領域で、既存の規則を近代化しようという同委員会の意図を歓迎します。EDPSは、個人データの大規模な収集と収益化、およびターゲットコンテンツを介した人々の注意の操作に依存するデジタルサービスの主要なビジネスモデルが提す課題に対応するために、現在の消費者法におけるギャップを埋める必要性を認識しています。 これは、消費者法を改善して、個人とデジタル市場の強力な企業との間で拡大している不均衡と不公平を是正する、またとない機会です。
特にEDPSは、指令2011/83 / EUの範囲を拡大して、金銭的な価格にて提供されないサービスを受ける消費者が、同指令が提供する保護フレームワークの恩恵を受けることができるようにする意図を支持いたしますが、それはこのようなサービスが今日の経済的な現実とニーズを反映しているからです。
このプロポーザルでは、EDPS Opinion 4/2017の推奨事項を考慮して、「反対給付」という用語の使用や、消費者によるデジタルコンテンツのサプライヤーへのデータ提供が「積極的」か「受動的」か区別することを控えています。ただしEDPSは、プロポーザルで想定されている新しい定義により、消費者がお金で支払うのではなく、個人データで「支払う」ことができるデジタルコンテンツまたはデジタルサービスの提供に関する契約の概念が導入されることに懸念を示しています。この新しいアプローチは、「反対給付」という用語を使用したり、個人データの提供と価格の支払いを類推したりすることで生ずる問題を解決していません。特に、このアプローチは、個人データを単なる経済的資産とみなしているために、データ保護の基本権としての性格を十分に考慮していないものとなっています。
GDPRでは既に、デジタル環境にて個人データの処理が行われ得る状況に関するバランスを既に定めています。 このプロポーザルで、GDPRで定める個人データを完全に保護するとのEUのコミットメントと矛盾するやり方で解釈される可能性のあるアプローチを促すようなことは避けるべきです。データ保護法の原則を損なう危険を冒すことなく幅広い消費者保護を提供するために、電子商取引指令における「サービス」の広範な定義や、GDPRの地域範囲を定義する規定、もしくデジタルコンテンツ・プロポーザルに関する理事会一般アプローチの第3条(1)などに基づくアプローチで代替することが考えられます。
したがいまして、EDPSは、「有形媒体では提供されないデジタルコンテンツの供給に関する契約」や「デジタルサービス契約」の定義にて個人データを参照することを何であれ控えていただくことを推奨し、その代わりとして、次のような契約の考え方に依拠することを提案します。 それは、「消費者への支払いが必要かどうかに関係なく」特定のデジタルコンテンツまたはデジタルサービスを売り手が消費者に提供または提供することを約束するというものです。
きちんと追えていないが、「EU消費者保護規則のより良い執行と近代化に関する指令」は、昨月末に採択されたようで、前文に「digital services provided in exchange for personal data」という表現が残ったものの、個人データについては「GDPRに従う」とのことで落ち着いた様である。
容量使い切って断片化させてる奴もいそう
1行目で「見る人が不快に思うからダメという言う話ではない」って言ってるのに
3行目は女性差別だと思う人がいないと成り立たない論理だから、結局「見る人が不快に思うからダメ」って言ってるだけじゃん…
それとも「差別は受け取り手無しに成立する」とでも言いたいのかね?
まずこれは、「見る人が不快に思う」からダメという言う話ではない。
当然、不快に思う人もいるだろうが、重点を置くべきはそこではない。
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/68185
読んだんだけどさ。
まずこれは、「見る人が不快に思う」からダメという言う話ではない。
当然、不快に思う人もいるだろうが、重点を置くべきはそこではない。
いや、俺は「性が断片化され、人格からきりはなされたものと扱われる」っていうのが何を言ってるのかさっぱりわからんのだが。
だいいち、この人の理屈だと、公共の場に限らず、宇崎ちゃんは差別的でダメってことになると思うんだが。
なんで公共の場以外だったらOKになるの? それはそれで適当過ぎない? (挨拶)
ここから本題。
最初にさ、赤十字じゃなくて埼玉県のガイドラインの話するじゃん?
んで、宇崎ちゃんが埼玉県のガイドライン的にアウトって話をするのね。
なんでも女性を笑顔にしてるだけでダメなんだってさ。(ここよくわからないポイント1)
んで、埼玉県のガイドラインですらアウトなんだから、赤十字はもっと公共にあたるし当然だめっていうのね。(ここよくわからないポイント2)
んで、ここまでのよくわからんポイントはとりあえず飲み込むとして
「公共での広告の在り方を定めるガイドライン的にNGだから宇崎ちゃんもダメ」っていうのはとりあえず受け入れるとするじゃない?
ここまではまだモヤモヤはするけど受け入れられるのよ。
まずこれは、「見る人が不快に思う」からダメという言う話ではない。
当然、不快に思う人もいるだろうが、重点を置くべきはそこではない。
ここよんで「はあああああ?」ってならんかった?
なんでさ。
公共のガイドライン的にちょっと自重したほうがいいよっていう話を受けいれたら、
自動的に、「宇崎ちゃんの絵は、女性の性が断片化され、人格から切り離されたモノと扱われることが、女性蔑視・女性差別だから問題」
ってところに合意させられるわけ? (ここよくわからないポイント3。というか納得できないポイント)
そもそも論理が逆転してんじゃん。
今までは一応「ガイドライン」の存在が先にあって、それにひっかかるからアウトって話だったよね。
全然違う話をつなげてる上に、その違う話でNG判定が出たってとこから無理やり逆算してるのね。
「ガイドライン的にNGだった」→「女性蔑視・女性差別だから」→「宇崎ちゃんは女性の性が断片化され、人格から切り離されたモノと扱われてるものだ」になってる。
これずるくね?
だって、牟田さんの記事、どこにも「宇崎ちゃんが女性の性を断片化して、人格からきりはなしたものである」ということについて説明してないじゃん。
なんか、前のガイドラインの件の続きで、あたかもこの点については説明済み・合意済みって前提で話進めてんじゃん。
ちょっと牟田先生の知性を疑いたくなるレベルでひどいと思うんですけど。
いや牟田先生がバカだからじゃなくて、説明してないことを説明したつもりになって記事書いてるだけならまだいいよ。
でも、もっと恐ろしいのは、牟田先生がわざとこういう構成で文章を書いてるとしたら。
それはもう教授失格でしょ。
それが教育者のやることですか?
この件での騒動で明らかになっているのは、多くの人々に、女性差別撤廃条約やそれにもとづいて国や自治体が取り組む、女性差別撤廃に向けた取り組みの中身がまったく理解されていないことだ。ツイッターを見ていると、弁護士や評論家と称する人たちにさえ「個人の気持ちの問題」「感じ方の違いにすぎない」「表現の自由を侵すな」等の発言があったのにはまことに頭の痛い思いがした。
別に素人なら頭の痛い思いをしたとか感情的なことを書くのもいいけどあなたフェミニズム学の教授でしょ。
なに素人みたいなこといってんの?
考えてみてほしい。
物心つく前から、街頭で目にするポスター、本屋やコンビニの店頭にならぶ雑誌の表紙に、性的なポーズを取り男性の欲望に訴える女性の姿を見ない日はない。道を歩いていると見知らぬ人から容姿について卑猥な言葉を浴びせられる。学校の先生や男子たちから体つきについてからかいや嘲笑を浴びる…。
日本で普通に生きていてこんな体験をしたことがない女性はいないと断言してよいが、こうした体験は、女性たちの尊厳を傷つけ自己肯定感を奪って、生き方そのものさえ歪めてしまう。あまりにも日常的に起こっていることだから、自覚することさえなくやりすごすことも多いのだが、これはまぎれもない女性への人権侵害だ。上述の条約や基本法の警告や指摘は、女性たちにとってリアルなのだ。
そうかもしれんけど。
それと牟田先生がろくな説明もせずに「宇崎ちゃんが女性の性を断片化して、人格からきりはなしたものである」認定したことは全く関係ないよね。
話ごまかしてるよね。
ねえ。
フェミニズムの授業っていっつもこんな非論理的な解説やってんの?
それ学問としてどうなの?
さすがに、今回の記事をまじめに書いてこれだったんだったら、教授としての資質を疑いますよ。
象牙の塔で、誰も批判する人がいないからいつの間にかこんなずさんな文章書いてもやばいと思わなくなったのかどうか知らないけど。
書き直して。どうぞ。
夢見りあむが第8回シンデレラガール総選挙で優勝する可能性は決して小さくない。あえて「優勝」と書いたのは、モバマスやデレステを始めたばかりの人、すなわちりあむの票田への配慮である。ゲームがシンデレラガールズなのにシンデレラガール戴冠とか言われても詳しくない人はわからないよねこのネーミングどうなんだと前から思ってる
それはさておき、りあむ戴冠は現実の可能性である。え?ガチャブもらった加蓮に決まってるだろって?中間一位の未央に違いないって?りあむなんか無理無理wwwって? うん、もちろん普通に考えれば優勝は加蓮や未央の可能性が高く、りあむの目はずっと小さいのだろう。
しかし、そもそも中間の前も「圏内入ってたらいいね」「いきなり声付き狙える位置ならすごいね」程度の評判だった。それが蓋を開けてみれば声どころかCGを窺う中間位置である。前例がない話で予想が難しかったとは言え、中間発表まで我々は夢見りあむを過小評価していた。見くびっていたのだ。
であるならば、我々はまだ見くびっているのではないか? 加蓮や未央の後ろに迫っているという我々の予想こそが、現実では遥かにぶっちぎっているということの証左なのではないか?
蓋を開けるまではわからない。しかし、私はその可能性は高いと思っているし、現実の可能性として備える時期が来ていると考える。
ここからが本題である。夢見りあむが優勝したとしよう。一体何が起こるのか?
我々は似たような事例を2つ知っている。言わずとしれた直近のアメリカ大統領選と、ブレグジット国民投票である。
製造業が衰退して職を失ったラストベルトの人々。移民に職を奪われることに怯える下流階級の人々。不満のはけ口を求める彼らが、現状へのアンチテーゼとして選んだ選択肢がトランプであり、EU離脱だった。
今回の総選挙の構図はこれと同じだ。大好きな担当に投票しても投票しても圏外から抜け出せない、声はおろか出番も上位レアももらえない、そんな総選挙から閉め出された下位アイドルのPたちの不満の捌け口として、総選挙の仕組みそのものへの鉄槌として、あるいは現状が壊れることを期待する野次馬根性によって、夢見りあむは表をかき集める存在となった。
しょせんは烏合の衆、弱者連合、最後に勝つのは本流の人気アイドルだ、騒いでるのは面白いが上位に来るのは許さない。そんな多くのPが、もしかしたらりあむに投票してるP達さえも心の底ではそう思っているだろう。だが、その軽視、嘲りそのものが夢見りあむを怪物に仕立て上げるのである。
トランプは内向き政策を強め、中国との貿易摩擦を激化し、世界経済に暗雲をもたらしている。
イギリスはEUからの抜け出し方を決められず、大混乱の内政とダラダラと引き伸ばされる離脱期限で世界に醜態を晒している。
一時の熱狂から冷めた後に残ったのは、混乱と後悔、そして取り返しのつかない分断である。「勝利」に熱狂し、次第に見えてくる現実から目を塞いだまま、すでに萎びた勝利の果実を強硬に求める者たちと、そんな者たちを怒りと軽蔑を込めて睨みつけながら、ノリと気分と浅い考えで投票した馬鹿者のせいだと嘆きまわる者。分かり合うことは決してない。
夢見りあむが勝った宇宙でシンデレラガールズに待ち受けるのも、そんな分断であろうことは間違いない。りあむに擦り寄りにわか担当になる者、声なし出番なしの代弁者としての振る舞いを期待する者、声が付き出番が付いてその振る舞いに失望するもの、夢見りあむの主流キャラへの仲間入りと相応の出番を求める者、それを拒絶する者、嫉妬する者、優勝を横から奪われたと思い込み強烈なアンチへ変化する者、それが行き過ぎてデレマス、アイマス全体へのアンチへと落ちる者。デレマスPたちは、バラバラになり、決して分かり合えない小さな集団へと断片化していくのだ。
どの集団に入るか、見限るか。結果発表までの一週間に考えておいた方がいいだろう。杞憂かもしれないけど、起こっちゃってから慌てるのは大変だよ。
https://trendy.nikkeibp.co.jp/atcl/pickup/15/1003590/121900702/?P=4
ネット上の言論は、しばしば極端で根拠を欠いたものに流れがちだと言われる。その要因は複合的だが、「劇場化」「匿名化」「断片化」「無料化」などが挙げられる。
まず挙げられる代表的な原因は「劇場化」だ。現代社会は、誰もが気の利いたことを言えば、瞬時に数十万人に情報を届けることができる社会だ。過激で面白い発言は多くリツイートなどされ、発言者は目立ち、逆に地道で理解に少し時間のかかる発言は敬遠される。
誰も反応しない発言は存在しないのと一緒だし、誰でも他人には認められたい。自然と劇場化し、発言は過激に流れやすくなる。それ自体はどんな社会にも存在した現象ではあるが、それが劇場化と相まって過剰になっているのだろう。
公式HPではそこで書いたことが全て公式の発言になってしまうことから、
「こうやって作るべき」といった公式の中でも意見が分かれる議論には言及できず、
どうしても事実だけを淡々とまとめるリファレンスのような内容に偏ったりと、
(どちらかというと公式より同じ利用側の立場から教えてもらえる書籍の方が入りやすい)
それ以外のネットの誰が書いてるかわからない無料の情報は間違ってる場合も多い。
ネットの仕組み上、正確な情報より、読み手が面白いと思ったものが
Stack Overflow レベルになると間違いは少ないとは思うけど、
日本の Qiita とかで話題になってる技術記事はひどい内容のをよく見かけるね。
(反論してる人が少ないのは読み手が間違いに気づいてないのか、批判は失礼だと思ってるのか)
一方、書籍はその分野である程度評価されている人しか出版の話にならないので
最低限の内容の正確性は保証されていたり、
そもそも金を取るので読みやすさとかに配慮されていることが多い。
また書籍一冊分の分量からしても技術の全体像が体系化されて説明されるので
まぁ、最新情報が手に入りにくかったり、読者の最大公約数を取るので
高度やマニアックな内容に触れにくかったりという側面はあるね。
要は、それぞれ一長一短あるんだから、賢く使い分けるのがよいと思う。
俺からしたら、両方のいいとこ取りをすればいいのに、
アカシア根皮茶(ACRB)を試す機会があったので、様子を書いてみる。
例えば飲酒したとき、吐く寸前くらいの酩酊時は、気分が大きくなり、説教を垂れたり思考が飛び飛びになったりする経験がある人も多いと思うが、この草の場合は酩酊と同時に視覚と聴覚の幻覚も一緒に楽しめる。
(効果は人によって異なり、効かない人はアルコールの悪酔い程度にしかならない。自分は多いにキマった)
試してみたい場合や調べてみたくなった場合はこのURLから辿っていけば一通りを知ることが出来る。 http://storys.jp/story/24344
13:20 アルコールの酩酊に近い状態になる。寝転がっているのが楽で、座っているのが面倒に感じる。目を閉じていた時にも視界に液晶モニタを間近で見たようなツブツブが見えてくる。
13:30 目を開けていても、気を抜いていると何も無い白壁や、陶器の皿にプリズムのような幾何学模様のパターンが見えてくる(ルイス・ウェインのフラクタルな猫のような見え方)白い皿の輪郭部分から色収差のように赤と緑の線が見える。
13:32 気分が悪くなり、嘔吐。体温が低く感じる。
13:40 目を開けて意識をしっかり持っている時はアルコールの酩酊と同じ感じ。目を開けてぼーっとしていると視界が何重にも見え、幻覚の幾何学模様のパターンが更に激しくなる。この視界が何重にも見えるのをぼーっと楽しんでいるだけで多幸感がある。目を閉じていても、フラクタルパターンやモノクロの部屋など、各種幻覚が強制的に見られる。
14:00 感覚の鋭敏感のピーク。瞬きしたときの視界の変化が知覚できるようになる。蛇口から水がポタポタ落ちる環境音などにタイミングを合わせて視界が歪む。毛布や服の感触に安心感を覚える。同居人に現在の様子を説明するときに、自分の心情や見えている物が伝わらないのがもどかしく感じる。
14:10 音楽や映像を摂取すると精神が持って行かれそうな状態になる。音楽や映像を全部止めて、ぼーっと天井を見ている。その時に天井のシーリングライトの丸い形状が愛おしく感じる。角張ったものに対する忌避感がある。
14:30 思考が断片化しているのを自覚する。喋ったり文字を打っている途中にもう別の事を考えてしまい、発話がおいつかなくなる。おそらく、ボイスレコーダーをセットしておいて独り言を言い放題にしておくと、後で聞き返して悶絶しそう。
15:00 視覚と聴覚の幻覚や幻聴が無くなる。以降は酩酊した状態に近い精神状態。連続した思考が出来なくて、自分の意思と無関係に考える対象がポンポンと飛ぶのが、まるで自分の頭が良くなった、悟りを開いた、と誤解してしまう。
16:00 酩酊も一通り収まり、外に出る。太陽の光がまぶしい。
まとめ
ここまでキマると思っていなかったので、音楽や映像の用意をしていなかったのが悔やまれる。人と話していたいのか、映像を流して視覚がめちゃくちゃに過敏になっているのを楽しみたいのか、ぼーっとしていたいのか、の様に方針を決めておくほうが良い。
とはちょっと違うかもしれないけど、芸術人の孤独みたいなものがやっぱりあるよね。あるよね?
我々音屋にしてもそうで、なかなか目の前の音を観てくれない。
オーディエンス(聴衆)が互いに隣や周囲ばかり見ててステージのほう見てくれない。比喩的な意味で。
そこには芸術家の苦悩が赤裸々に綴られていた。やっぱりそういうのあるよね。
今の時代はルネッサンスと違って、インターネッツで観衆どうし簡単にやりとりできる。
作品そのものを見てほしいのに、作品が独り歩きしてファンの間で共有されていて、
正直今どきそんなの気にしてる時点で向いてないよと言われちゃったけど。
ネット見なきゃいいじゃんとも。そういうことじゃないんだよな。ちゃんと伝わってほしい。
良いものを作ってれば伝わる人には伝わるとも言われた。それは一理ある。
だけど俺の場合伝わったと思ったら伝わった旨を作者にメールしたくなるんだよな。俺だけ?
勘違いなのに理解者を気取ってるかもしれなくて怖いけど、迷惑かもだけど、送ってしまう。
だけど、そういうメッセージを貰った話は身近では聞かない。メールでも口頭でもいいんだけど。
それって伝わってないってことなのか、そもそも伝えようとしてるものが大したものじゃないのか。と考えてしまう。
根本にはひらめきや気付きで美しいと思ったものの完成した姿を見たいという動機があって作ってるんだけど、
プログラムの癌(Runy)をなくすの前に人間の癌をなくすやり方について書いておこう
癌は熱に弱い。42度の熱で消滅する。心臓に癌ができないのは熱に弱いから 外部から熱をあてて癌を直す治療がある。ハイーパーサーミアという治療法で厚生省から認可がおりており健康保険がきく。1回3千円くらい 10回セットで3万円くらい 病院にいけばやってくれる。動物病院でもやっている。42度の熱をあてるだけ 手術がない 体に負担がかからない 副作用もない 入院がいらない 時間が取られない 抗がんん剤や複雑な手術をする必要ない。体を痛めない
でだ ここからが問題だ まずハイーパーサーミアの機器を導入している病院が少ない。少ない理由は病院が儲からないから 3万円では医者が儲からないしやりたがらない。最近ハイーパーサーミアが知れ渡ってきてハイーパーサーミアの操作できる人が不足を理由に取りやめる病院が出てきている。また一緒に抗がん剤を抱き合わせてきたり、効果がないと否定してお金や体に負担がかかる3大療法をすすめてきたりする。3大療法はやらないほうがよい。放置もよくない。それより熱線をあてることに徹した方がいい。近くにハイーパーサーミアがなかったり、受けられなかったら、三井式温熱治療器やダイエットサウナをおすすめする。治療が受けれるのであれば3大療法よりハイパーサーミアだけやる。3大療法もやめたほうがよい。ハイパーサーミアは高いステージから生還してるし、費用が安く、副作用もなく、時間が取ることなく、体に負担がかからない。
抗がん剤は結局正常な細胞を弱らすだけでがん細胞を消滅させるわけではないのでけっしてやってはいけない。もちろん放置もいけない。
三井式温熱治療器やダイエットサウナでも体に42度の遠赤外線をあてる事が出来る。
三井式温熱治療器はアマゾンや楽天で買える。レビューがたくさん書かれていて癌に効果があったとたくさん書かれている。
ハイパーサーミアの医療現場で使われているサウナ機器(スマーテイ)もアマゾンで売っていたりする。
これで外から42度をあて続けるだけでよい
三井式温熱治療器の楽天のレビューを見てみる 癌治療に効果があったと高評価が150件が書かれている 要確認
http://review.rakuten.co.jp/item/1/202385_10001070/1.1/
三井式温熱治療器のamazonでも癌治療に効果があったと多くの高評価が書かれている 要確認
心臓 癌
癌 熱
癌 熱
などを調べてみると実際受けた患者の感想が書かれている。どれも末期だとか手の施しようのないといわれたとこから生還している。
ちなみに血液性の癌や白血病には高濃度ビタミンC点滴が有効 保険はきかない
日本の医療は米に10年 欧州に20年遅れていると言われている。
なので他の病気に関しても日本の医者の言う事よりもまず欧州がどんな治療をしているか調べてから判断した方がいい。医者はSilrだと思え
欧州では2008年の段階で癌が減っている事が記事になっている。
www.news-medical.net/news/2008/04/10/30/Japanese.aspx
http://hayabusa6.2ch.net/test/read.cgi/cancer/1251284895/
他にもここに詳しく書いてあるぞ!
http://apps.wiki.fc2.com/wiki/その他
プログラムの癌と言えば動的言語のことだろう。それを広めようとする関係者、開発者もまたがんだ。
メーカー製の静的言語フレームワークを使えば誰でも簡単に高度なことができる。
わざわざ出来損ない言語を引っ張りだしてきて、無駄に苦労したり、無駄な苦労を広めたりする輩はほんとうにがんだ。
その苦労は数年後無駄に終わる。動的言語は数年ごとにバージョンアップを繰り返し、今書いているものは
すべて動かなくなる。2007年頃に意図的に起こされた第一次Rubyブーム 1.7のRubyはもう動かない。
互換性の問題で起動できないし、サポート対象外だから脆弱性だらけ 今もRailsやNodejs angluerなどが
意図的にブームが起こされているが、それらも数年後には使えなくなる。負債にしかならない。
IT経営者にとってはそのほが都合いいのだろう。仮に辞められてもその技術で手間がかかりすぎて独立はできない。アプリストアがあるわけでもない。課金プラットフォームがあるわけでもない。 だからIT経営者はいきばのない技術者を酷使し放題だ。動的言語は技術者を自由にさせない鎖付きの言語なのだ
鎖のついてない言語は何か?それはC#だ。C#はシステムを簡単に作れる。管理画面サイドはexeアプリで作り、サーバーサイドはasmxとado.net ORMを使えば一日でWEBアプリケーションが作れてしまう。リファクタが効き、ビルドができエラーは直ぐ見つかりアップデートも自動でソースを書き換えてくれる。C#ができるとUnityからlot Robot スマートフォン タブレット One Windows 医療 業務用アプリまで 様々な分野に進出することができる。Railsではこうはいかない。Webしか作れないし、3年後にはバージョンアップが行われ、その都度のコードの修正に時間を取られる。つきっきりになっていないといけない。他の事が出来なくなる。ビルドできないからすぐバグがわからない。バグ潰しに時間を取られる。動的言語の現場がいつもギスギスしてるのは、バグが探しの疑心暗記がいつのまにか人に向けられていじめみたいなことになっている。
IT派遣事業者にとっても動的言語はいつまでも脆弱性が発生し続け、保守作業がうまれる都合のいい金になる言語だ。
企業が無料で教えるのには彼らだけが儲かるカラクリがあったのだ。今もRuby On Rails Ruby JavaScript Node.jsなど意図的なブームが起こされている。
メーカー製の静的言語やっている身からすると動的言語をやる輩はとても愚かだ。静的言語なら自分で書いたコードは自分の資産になる。
静的言語で書いたコードはリファクタが効くし、コンパイルでバグがすぐわかる。コードを最新のバージョンに自動で書き換えてくれる。
共通ライブラリを他のプロジェクトで使い深い内容で書いても、元のプロジェクトで開いた時にビルドでバグがすぐわかるから、深い内容で共通ライブラリを書く事ができる。
自分用の共通ライブラリを出来上がってくると開発速度があがっていく。無理に20倍速の早さとかメデイアで煽られて複雑に書かなくても、一度書いた物を組み合わせて使い回していけば生産性は普通にあがっていく。
動的言語では共通ライブラリを深い内容を書くのは難しい。バグを発見に時間がかかるから、浅い内容のことしか書けない。生産性があがらない。ファイルの管理に追われて断片化したり バグを探したり バージョン管理に追われたり いつまでも手間が掛かる始末だ。
なぜこんな無駄な言語を使い続けるのか なぜあのブックマークはRubyの時だけ数字がはねあがるのか不思議でしょうがない。Botにブックマークさせてるのではと疑ってしまう。
2007年頃のステマRubyブームで騙された技術者は酷い目にあってたいはんはRubyから去っている。
求人がある訳ではない。アプリストアがあるわけではない。脆弱性は出し続ける。すぐ互換性がなくなる 使う用途が限られている。汎用性がない
加えて他の動的言語にも言える事だか
フレームワークの乱立 CMSの乱立 フレームワーク自体バージョンがあがると別ものになる。フレームワーク自体に脆弱性がありサポートしてくれない。プロジェクトごとにフレームワークを学び直さないといけない
フロントサイドとサーバーサイド 両方 動的言語選択してしまってカオスな状態。スパテッゲテイすぎて再利用は不可、資産は築けない。
こんな安心して生きていけない言語は止めて、iPhoneアプリ、C#アプリの開発をやるべきだ
医者は儲かるからという理由で人の命よりお金になる抗がん剤を優先するのと、Silrが儲かる理由で脆弱性が多い動的言語を推奨するのは同じムジナだろう。
新年にもなれば「心機一転で」とか「新しいパソコンを購入したから」とかで何かとパソコンの設定はするものだ。
えっしないの?しとけよ、悪いことは言わないからさ。
パソコンの設定を大幅に変更するときは機種固有障害が起きる可能性もあるし、バックアップは取っておいた方が良い。
バックアップは可能ならばDVDとか光学ディスクメディアにしておこう。長期保存効くし。
そうそう知ってるか?USBメモリのデータってちょっと時間が経つと消えるんだぜ?
【USBメモリー編】放置厳禁!データの“自然蒸発”に要注意:寿命が来なくてもUSBメモリーからデータが消える?《徹底研究 メディアの寿命》 - PC Online(日経BP)
この際さ、やっちゃわない?OSのクリーンインストール。
クリーンインストールの利点は、汚れたシステムを真っ新綺麗に出来るとか、デフラグで改善しきれてなかった断片化をこれまた真っ新に出来るとか、同じエロ画像をいくつも保存してて容量を無駄に食ってたのを解消出来るとか色々ある。
セキュリティ的にも今まで発見されてなかった未知のスパイウェアを根刮ぎ逝くことも出来るし、クリーンインストールによる膨大な読み書きによってハードウェア寿命を浪費するという欠点は利点から考えると小さいので半年に1回くらいはクリーンインストールして損は無いはずだよ。
そして何かあったときにOSのインストール方法を学んでおくってのも大事だと思うんだ。
OSのクリーンインストールが済んだらセキュリティソフトを導入する。
既に有償セキュリティソフトを購入して所有している人は付属しているマニュアルに従って設定しよう。
実はWindows 8と現行のWindows 8.1にはインストールの時点でMicrosoft Windows Defenderと呼ばれるセキュリティソフトがはじめから導入されているからココは飛ばしても問題は少ない。
Windows 7以前、Windows 7、Windows Vista Windows XPなどなどの古いOSのユーザはMicrosoft Security Essentialsを導入しておこう。
Microsoft Security Essentials - Microsoft
http://windows.microsoft.com/ja-jp/windows/security-essentials-download
あえてMicrosoft Windows DefenderやMicrosoft Security Essentialsを切り、オープンソースで開発保守されているClam AntiVirusを導入するのも選択肢としてはアリ。
Clam_AntiVirus - Wikipedia
Windowsで常駐化をしたい場合は補助ツールであるClam Sentinelが必要なので注意。
スパイウェアとか感染する確率を減らすにはそもそも怪しいWebページへアクセスしなければ良いわけで、そういう設定を施す。
詳しいことは面倒なので端折るが名前解決のためのDNSサーバアドレスを変更すりゃ良い。そのサービスがNorton ConnectSafe。
以下のリンクを参考にプライマリ(主に使う側)を199.85.126.10、セカンダリ(プライマリが逝った時の保険)を199.85.127.10にすると設定出来る。
Windows 8 でのDNSサーバー確認方法 - ASAHIネット
http://asahi-net.jp/support/guide/os/0010.html
危険性のあるサイトをはじく『Norton ConnectSafe』は転ばぬ先の杖である - lifehacker(※Macでの設定)
http://www.lifehacker.jp/2014/05/140509norton_connectsafe.html
ちなみにネットワーク上の全てのマシンへ適用したいのならばルータ側のDNSサーバ設定を変更すると良い。
ルータ側で設定するとスマホやセキュリティが怪しい地デジTVのアクトビラ、Nintendo3DSのWebブラウザなどでもNorton ConnectSafeが適用されるようになる。
Wikipediaに書いてあるポルノなどを含むアドレスを設定するとR18なWebページへアクセス出来なくなるので必要に応じ選択すると良い。
小難しいことは省くが当のMicrosoftも認めるクソシステムにSNPというのがある。
当のMicrosoftがクソだと言ってる上にパーソナルユースではそんなに関係無い機能なのに大人の事情なのか何故かデフォルトでは有効になっているから無効にする。
上記のサイトには何か色々高速化情報が載っててWindows7でなくともWindows8やWindows8.1などでは比較的共通点も多いし試してみると良いかも知れない。
これはWindowsのみだけれども・・・というかMacやLinuxでは普通に使われているパッケージ管理システムのWindows板。
パッケージ管理システムに馴染みないWindowsユーザは1行のコマンドで指定した定番のアプリケーションを一気にダウンロードしインストール出来るツールと解釈しておけば良い。
更にChocolatey経由でインストールしたアプリケーションの一括アップデートが可能など高機能。
Windowsアプリをコマンド一発で導入できるパッケージ管理システム「Chocolatey」 - 窓の社
http://www.forest.impress.co.jp/docs/review/20130603_601777.html
Chocolateyを導入したら自分の利用しているWebブラウザやメーラ、動画プレイヤーなどをインストールしてみよう。
色々設定していくのにはやはり日本語入力が不便なのは宜しくない。
ATOKとか有名な高性能日本語入力はあるけれど、ココは定番のGoogle日本語入力で快適にしよう。
おそらくは平均的なパソコンユーザには聞き慣れないだろうSpace and Shift。略称はSandS。
これはSpaceキーを押している間はShiftキーとして働き、Spaceキーを押して離すと空白が入力されるという入力方式だ。
SandSの利点はホームポジションから離れずデフォルトのキーバインドでは遠いShiftをサッと入力出来ること。
親指でShiftキーを入力することになるので、操作感はいわゆる親指シフトなキーボード配列に近いかも知れない(※SandSは設計自体が親指シフトとは違うので同一視してはいけない)。
WindowsでSandSを実現するにはAutoHotkeyを使うのが情報量的にも一番だろう。MacであればKeyRemap4MacBook(Karabiner)を使う。
AutoHotkey SandS -Google検索
KeyRemap4MacBook(Karabiner) - pqrs.org
ついでにこれは好みだがCapsLookキーをCtrlキーへ置き換えたりしても良いかも知れない。
SandSは一度使い始めると病み付きになる。一度は試してみるべき。
あとはChocolateyからよく自分が使うアプリケーションをインストールしたりしてる。
実は互換GUIシェルのbbleanを使ったりもしてるけど基礎の基礎な設定という意味ではなんか違うなと思って掲載はしなかった。
忘れてる部分もあると思うんで「基礎ならコレもじゃね?」ってのを可能ならば書いておいてくれると助かる人も居るんじゃね?と思う。
自分はプログラマーで、多くのプログラマーと同じように、コードを書く行為そのものが幸せであり、いつまでもコードを書いていたいと思う。
だが30を越えて、今までいくつかの会社でサラリーマンエンジニアとして働いた経験を総合するに、
少なくともこの国でプログラマーで居続けるためには起業する以外の選択肢は無いのだという結論に至った。
普通にコードを書いて、スキルを磨いて、リリースを成功させていくと、やがて肩書きがついて雑務に振り回される日々が訪れる。
プログラマーにとって何よりも大事なのは連続した集中、それも出来るだけ長い時間だ。
昇進して部下が出来たり、質問される機会が増えたり、評価業務やら、上級職会議やら、採用面接やら、一つ一つは大した事が無くても、
出社時間は気が付けば断片化して切り刻まれ、一日に一時間続けて集中する事すら困難になってしまう。
もはや一日中コードを書き続けるような事は遠い夢になり、腕は鈍り、ますますコードからは遠ざかる。
これまで、本当に多くの人がそうやってコードを書かなくなり、緩やかにピーターの法則に吸い込まれていくのを目にしてきた。
そしていつしか、コードは昔取った杵柄を披露するだけのオモチャになり、やがて家族なんかが出来て、どうでもよくなる。
それはそれでいいだろう。
だが、どこまでいこうが、自分が書きたいのはパワーポイントやエクセルや論文などではない。実際に動いて、問題を解決するコードなのだ。
フリーランスになる事はこの問題を幾分か解決するが、下に述べる他の要因によって最善手ではない。
単なるテキストの塊から、継続的な自動化を行い、マシンの集団を操り、物事の新しい側面を露出させ、市場と金を生み出すことだ。
しかし、サラリーマンエンジニアであろうとする限り2000万円の年収を越す事はほとんど想像出来ない。
プログラマーとして平均の20倍の生産性を叩き出したとしても、報酬には重いフタがのしかかっている。
同じようにレバレッジを利用する投資銀行やらコンサルタントやら、金の流れを直接扱う職能に比べて、ソフトウェア開発者は恐ろしく不当に評価されている。
だが、結局プログラマーはプログラミングを書いていれば幸せなのだから、そのように容易に搾取する事が出来る。
一年後の状況すらまるで読めないこの業界では、学習を止める事がそのまま死に繋がる。
しかし、エンジニアのあるべき姿としてのスペシャリスト信仰のようなものは根強い。
ある技術に特化して一線に身を置く事は極めて重要ではあるが、技術が発展する限り、どのような専門知識も価値は保証されない。
しかし同じ場所に居続ければ、新しい技術を習得したり、全く関連の無い分野に挑戦することはいつしか"若い衆"の役目となってしまう。
挑戦や学習が趣味の領域に追いやられた時点で、エキスパートは本当に脆い存在になる。
そして、30代、40代、50代となって、エキスパートとして食わせてもらう以外の在り方もまた、想像出来ない。
独立がリスクであるように、全てのITエンジニアが置かれたこの状況もまた同じようにリスクであって、どちらにせよ誰も責任を取る事は出来ない。
エンジニアがエンジニアであろうとする限り、やる事は結局のところ他人の問題の解決だ。
相手が解決しようとしている問題を推察して、それに合わせてキャリアやらスキルを設計することになる。
どこか知らない所で仕事が作られ、それに合わせて自身を適合させていく。
どんなに有名で優秀な人間が集まるところだろうが、その構造は基本的には変わらない。
日本の大卒者は社会に出るまで、一貫して他人に選ばれるために他人が定めた問題の解決をする努力を強いられる。
だが、実際にやってみて本当に実感するのは、自分の夢を追うのは他人の夢を追うよりも一億倍やりがいがあるということだ。
面白い仕事を探して選ばれる事を願うよりは、自分が面白いと思う仕事を作って食えるようになった方が楽しい。
何よりもコードが書けるし、どうせいつかは死ぬわけだし、百万年も経てば全ては元通りになる。
まとめると、プログラムを書きまくり、能力に見合った報酬を求め、新しい分野を学習し続け、面白い仕事にありつきたいという願いを叶えるための手段として、
サラリーマンやフリーランスという生き方は絶望的に効率が悪い選択肢という事だ。
各種手続きやら事務やらのおまけは付くが、それすら問題解決の対象として、新しく学習していける限り楽しむ事は出来る。
なんといっても、プログラミングが好きなプログラマーというのはこの世で最も幸福な職業なので。
反応を見ていて、ちょっと言葉が足りていなかったり誤解を招いている部分があったような気がしたので、少し蛇足します。
どうも起業という言葉には一種のアレルギー反応みたいなものが有るように感じられますが、
僕が知る限り起業というのはある種の書類上の手続きを漠然と指すだけのものであって、
人を雇う事や、金を集めて大々的に事業を起こす事そのものを意味するものではないです。
個人事業主になってスタバでアプリを書いたり、手続き上の法人を作ったりするような話から始まって、要は雇われる以外の道を模索するみたいなことです。
仕事の対価を求める限り、結局解決すべきなのは他人の問題であり、最終的にそこをゴールにしなければいけないのは勿論同じ事です。
ただ、"他人"は雇用主や受注先だけではなく、ユーザーという言葉に置き換える事も出来ます。特に今の時代は。
そうした問題設定の起点を自分自身でデザインして定めるか、誰かに定めてもらったものを選ぶかのどちらかで言えば、
自分で定めた方がチャレンジングで面白いと感じられますし、実際にやってみない限りはその能力を鍛える事は出来ないと思います。
どんな形であれ、平均的には"起業"は失敗する方に賭けた方が勝ちます。
ただ、成功するとか失敗するとか、金持ちになるとか破産するとかは基本的にどうでも良い事であって、
現実を思い知り、おそらくは軽視していた営業や事務の重みに押し潰されつつあっても、
それ自身を効率的に肌で学ぶのはやはりやってみない事には分からなかった事で、そういう経験が得られれば良いものだと思います。
それに別に失敗したところで間抜けが地球上から一匹削除される程度の事で、どの道取るに足らない話です。
そうした事をどうでもいいと思わせる程、プログラミングは楽しいものです。
この話はプログラマーから見た効率の話で、実際に企業にあってもこうした事は問題にならず、幸せにコードを書いている人は一杯居ると思います。
ただ、本当に選択肢が無くなる前に、何らかの行動を自分から起こせ、守る者も少ないうちはそういう道に走った方が妥当と感じたという話です。
それに、そっちの方が面白くないですか?
色んな人やテキストがこの手の話をしますが、自分は実際にやってみて、本当にこれが面白いものだと納得しました。もちろん誰にも勧めはしませんが。
念のため
この記事はあくまでプログラマーが起業に追い込まれるだけの理由について述べただけで、
追い込まれた結果としてどのようなビジネスモデルや、ロードマップ、資金繰りに行き着いたか、誰のためにどのようなリリースをしなければならないのか、という話ではありません。
自分自身はまだそれについて書けるだけの材料も資格も無く、現在進行形で自分の金と体で実験をしているようなところです。
うまく生き延びたら、いつかその続きを書きたいと思います。
フルHD系 1920x1080 = 1920÷1080 = 1.778(約) F-03F 1280x 720 = 1280÷ 720 = 1.778(約) 初代Xperia 854x 480 = 854÷ 480 = 1.779(約) 2.3系 800x 480 = 854÷ 480 = 1.667(約) Kindle Fire HDX 1920x1200 = 1920÷1200 = 1.667(約) Nexus 10 2560x1600 = 2560÷1600 = 1.6 ASUS MeMO Pad HD7 1280x 800 = 1280÷ 800 = 1.6かなり古い機種であってもアスペクト比はかなり似ていることがわかります。 アスペクト比 16:10 で画面を作っておけば困ることはまずありません。
iPhone4s 960x 640 = 960÷ 640 = 1.5 iPhone5 1136x 640 = 1136÷ 640 = 1.775 iPad 1024x 768 = 1024÷ 768 = 1.333(約) IPad3 2048x1536 = 2048÷1536 = 1.333(約)縦長のiPhone5と寸胴のiPadの違いが両極端で、もしiPad側に合わせようとするとiPhone5側の見た目をかなり犠牲にせざるを得ません。結果として個別にレイアウトを考えることを強いられます。
それはアメフトが「サッカーやラグビーのわかりにくさを野球のわかりやすさで補ったスポーツ」だから。
「アメフトって難しいですよね。サッカーはわかりやすいけど」と言われることがある。でも自分は完全に逆だと思う。
サッカーはルールがわかりやすいのであって「サッカーの何が面白いのか」は素人にわかりづらいようになっている。
逆にアメフトは面白さをわかりやすくする為にルールのわかりやすさが犠牲になったスポーツ。
サッカーの試合で行われていることの大半は、ゴールになる確率が高そうなシュートシーンをお膳立てするという作業だ。
たとえばこんな状況でこいつがシュート打てばゴールの確率30%以上、みたいなシーンを1試合にいくつ作れるか、あるいは作らせないかという争いをしている訳だが、
このゴール確率が一瞬で80%に上昇したと思ったら次の瞬間には何かのミスで0.1%になっているという具合で、素人にしてみれば何を喜び何を悲しんでいいのかよくわからない。
得点の期待値の高いシーンが90分間のうち数十秒とかしかない。
それでも辛抱強く(ゴールという)心おきなく喜べる瞬間を待ち続けるにはそれなりの動機が必要で、結局ナショナリズムの力を借りなければならない。
サッカーの人気が代表に集中しているのは、サッカーが多くの人にとって実はわかりにくい競技だから。
もちろん上級者の人たちはその「確率の上げ下げ」の争いをも(というかそれをメインに?)楽しんでいるわけで、
そういう「サッカーがわかる」人にとっては楽しいんだろうなあと思うし羨ましい限りなのだけれど、お茶の間の皆さんにはそれわかんないから。
一方、野球はルールは難解だが試合はわかりやすい。甲子園とかマジ老若男女が見る。なぜか。
野球は一つ一つのプレーごとに審判のコールによって「たった今行われたプレーが応援するチームにとって『良いこと』だったのか『悪いこと』だったのか」が観客にわかりやすく示される。
そしてここが大事な点なのだが、すべてのプレーの結果が一時的に保存される。保存されるからこそ観客は喜べる。
攻撃側にとって出塁や進塁は得点確率の上昇を示しており、しかもその確率が0.5秒後には元に戻ってましたというような心配はない。
いわば、たとえは悪いけどパチンコやスロットで当たりの確率が上がった状態であって、そういう状況になったこと自体が嬉しいのだ。
あるいは守備側にとって恐怖なのだ。そしてそんな状況でスリーアウトになれば守備側にとって歓喜の瞬間となる。アウトは一度宣告されれば失われることがないので思う存分祝っていいのである。
得点がたくさん入れば人気が出るというのであれば、いまごろバスケやバレーが日米の人気No.1スポーツになっているはず。
そうならなかったのは「もうちょっとで点が入りそう」という状況を一旦保存し、そんな状況になったこと自体をまず理解して喜んでもらい、観客の集中力を高めた上で然る後に喜びを爆発させてもらうという野球やアメフトの性質がスポーツエンターテインメントとしての力を発揮したということなのだと思う。
アメフトは基本ラグビーに似た陣取り合戦だけど、そこに野球的な要素、つまりプレーの断片化、攻守のターン制、そしてプレー結果の保存が行われるようになっている。
具体的にはボールを持った選手がタックルを受けて倒される度に試合が止まり、相手ゴールまであと何ヤードの地点まで進んだかが一旦保存される。
だから攻撃側は何ヤード進んだと言っては歓喜し、守備側は何ヤード押し戻したといっては狂喜する。
攻撃側が前進するほど得点の期待値がじわじわ高まっていき、守備側が健闘するほど攻守交代の可能性が高まって守備側の期待感が高まる。
それでいてサッカー的な戦術の面白さやスピード感も、野球のホームランのような華やかな一発プレーも相手の配球を読むようないやらしさも含んでいる。