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私たちはいつから肉食になったのか?日本人の肉食の歴史を徹底解説!
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疲れている時、あるいは気合を入れて勝負に臨みたい時、もちろんなんでもない時にでも「お肉食べたい!!」と思うことはありませんか? 焼き肉、から揚げ、ハンバーガー、さまざまなお肉をわたしたちはすぐに食べることができます。しかし、こうしてお肉をなんのためらいもなく食べられるようになるまでに、わたしたちのご先祖さまたちは葛藤を繰り返してきたのです。
日本人の肉食について『肉食の社会史』(山川出版社)の内容と、著者である上智大学教授・中澤克昭先生のお話をもとに追ってみました。
うつりかわる肉食への考え方
日本史の教科書などで「文明開化」の言葉とともに「牛鍋」を食べる人の絵を教科書などで見て、なんとなく近代(明治時代)以降に肉食が始まったと思っている人は圧倒的に多いのではないでしょうか。けれども中澤先生によれば、肉や魚を食べることは、伝統的な食文化だったそうです。ただ、平安時代からは「食べないことが高貴な身分のふるまい」「食べるのはいやしい」と思われるようになったとか。また、家畜は労働力を提供してくれる大切な存在であり、食べる対象としては見ていなかったようです。
3世紀ごろの日本(ヤマト)には、誰かが亡くなった際、喪主は肉食をがまんする習慣があると『魏志倭人伝』に書かれているそうです。これは「物忌み」のひとつとして肉食を慎む「禁欲」だったと考えられています。つまりこの時点では日常における肉食は「禁忌」ではなかったのです。その後、6世紀に仏教とともに「殺生」を「罪業」とする考え方が伝来します。喪に服したり何かを祈願したりする時に肉食をガマンする習慣と仏教の殺生罪業観、このふたつが融合して、のちの肉食忌避(タブー)につながっていくのです。
しかし、肉食忌避が強まるのは中世からで、古代には天皇も肉を食べていました。天皇は各地でとれたものを食すことで統治していることを示していたからで、イノシシやシカも食べられていたことが、さまざまな記録や古代の遺跡から出土した木簡からわかっています。中澤先生によれば、「大地を象徴する生き物を狩ることで土地の所有権を確認する儀礼でもあった」と考えられているそうです。
古代には禁欲の対象だったお肉も、平安時代になると禁忌つまり忌避されるものへとかわっていきました。たとえばイノシシは何世代も飼育されるとことで「豚」という家畜になりますが、奈良時代にはヤマトでも豚が飼育されていたそうです。ところが平安時代になると、食用に育てられている動物が確認できなくなります。野生のイノシシを食べることは続くので、家畜は食べないほうがよいというメンタリティを持っていたことはまちがいなさそうです。
「天神さま(菅原道真)の牛のように、神話や伝承の世界にも動物は出てきますが、家畜を食べるという物語はまずありません。タブーだったのです。死んだ家畜、いわゆる斃牛馬(へいぎゅうば)はいわば産業廃棄物で、専門の人々によって処理されましたが、その仕事にあたっていた人は捨てずに食べていたと思われます」(中澤先生)。ただ、そのことは公の記録には残っていません。馬刺しも牛の内臓(ホルモン)も食べられていたはずですが、身分の高い人には忌避されていたのです。おおっぴらに食べられるようになったのは、近代以降ではないでしょうか。
新鮮な馬肉
では、鶏肉に関してはどうだったのでしょうか。「鶏も『時を知らせる、占いをする』という性質が強いので、おおっぴらには食べられていなかったと思います。卵は食べたはずですが、それもあまり記録にのこっていません」(中澤先生)。闘鶏に使われた軍鶏などは「筋肉質で硬くて、現在の鶏ほど美味しくなかったでしょうね」と先生はいいます。「牛も体脂肪が少なく、現在の『霜降り』のような食感とはほど遠かったのでは」とのこと。
なお、近代以前に肉を地方から京都や江戸へ運ぶとき、塩漬けにするか干し肉にする場合が多かったそうですが、キジの新巻や干し肉も存在していたとか。案外さまざまな加工肉があったそうです。……鮭では見たことがありますが、鳥が新巻にされるなんて想像もつきませんでした。また、少し前にグルメ界を席巻していた熟成肉もあったそうです。遠くから生で運ばれた場合、その可能性が高いとか。よく食べられていたのはシカやイノシシでしたが、貴族社会の宴会ではメインディッシュとして鳥のキジが好まれたそうです。焼くだけでなく、刺身でも食べられたそうですが、味付けは摂関家であれば、ひしお(現在の味噌・醤油の原点と考えられている調味料)や酢などが使われたと考えられています。
肉食を考えるうえで必ず登場するのが「鷹狩り」です。鷹狩りは、神々へのお供え物の調達手段としても大切で、仏教の殺生禁断の思想が広まってからも続けられました。古代には貴族の間で行われて、鷹狩りのための狩場もつくられ、鷹狩りに用いる鷹の繁殖のために狩猟や入山を禁じた巣山や巣鷹山と呼ばれる山もありました。その後、貴族から武家に権力が移ると、キジだけでなく白鳥や雁もよく狩られるようになり、小型の鶴が狩られたこともあったようです。武家の食事のマナーでは、鷹狩りの獲物は箸ではなく指で食べることになっていました。食材としての価値が高く、食べ方にも特別な作法があったようです。
江戸時代になると、徳川家康が好んだ鷹狩りを、代々の将軍が受け継ぎ行っていました。江戸幕府第5代将軍・徳川綱吉が発した「生類憐みの令」のころまでは史料上確認できますが、その後しばらく姿を消してしまいます。復活するのは8代将軍・徳川吉宗のころ。吉宗は徳川家康を尊敬していたので、家康が好んでいた鷹狩りを復活させたようです。その後、大政奉還が行われ明治新政府が発足した後は、鷹狩りは大名の特権ではなくなりました。明治天皇も御料場で鷹狩りを行ったようです。在位中の天皇が狩猟に出かけたのは、白河天皇が1073年に嵯峨野で鷹狩りをして以来のことでした。天皇は800年ものあいだ狩猟をしていなかったわけですが、この800年はそのまま武士の時代と重なっているのが興味深いところです。
明治天皇は1872年に牛肉を食べましたが、近代以降もしばらくは肉食に対する忌避感がありました。しかし、食の欧米化や大規模な多頭養豚経営、乳用種雄の肥育牛の食用への転用などにより、1955(昭和30)年ごろからは急速に肉食が一般化していきます。結果、戦後生まれの世代からは肉食があたりまえの世の中になって現代に至ります。食肉生産が進み、ブロイラーが出てきたからこそ「帰りに焼き鳥でちょっと一杯」ができるようになりました。そんな生活も高度成長期にようやく成立したもので、まだ現在のような「お肉を食べたい」「お肉を食べよう」の歴史は50年ほどしかないのです。
一方で2030年ごろには、世界の人口の増加が食肉生産を追い越してタンパク質が足りなくなる「プロテイン危機」が起こるという研究があり、昆虫食の研究などが進んでいます。今のようにお肉を食べられる時代は、日本史のなかの、ほんのわずかな期間で終わるのかもしれません。
「動物を殺す」肉食に対してはさまざまな意見もありますが、人間の食欲がそれを抑え込んでいるのが今の時代です。お肉はいつでも好きなだけ手に入りますし、食べることもできます。「中世には動物を殺すことやそれを食べることがタブーとされていましたが、実際に食べる人は少なくありませんでした。うしろめたさと食欲との葛藤があって、そこからさまざまな言説が生まれました。現在も肉をめぐってさまざまな問題があります。もう少し葛藤があっても良いのかもしれません」と中澤先生は言います。「お肉が食べたい」という気持ちを自由に満たせる今だからこそ、食文化についてちょっとだけ考えてみませんか。
崇神天皇が「実在した可能性のある最初の天皇」って言われてるけど、やっぱ初代って継体天皇でしょ。
BC37年頃 高句麗が成立
近畿地方を中心に銅鐸、西日本に青銅製武器形祭器による祭祀が行われる。
階層の秩序化すすむ。
関東地方や東北地方南部に縄文時代の一墓制である再葬墓が見られる。
北部九州では甕棺墓が盛行し、その中の一部のものが多くの前漢鏡を副葬する。
8年 前漢の滅亡
25年 後漢の成立
147年頃-189年頃 倭国大乱
220年 後漢の滅亡
239年 邪馬台国の卑弥呼が帯方郡に使者を送り、魏の明帝への奉献を願う
248年頃 女王卑弥呼死す。その後、卑弥呼の宗女・壱与(または台与)が女王となる
266年 倭の女王が晋に使節を派遣する(『日本書紀』の神功紀66条に引く晋起居注。『晋書』武帝紀、西晋の泰始二年)
日本では銅鐸・武器系祭器による祭祀が終わる。北部九州の甕棺墓も衰退する。西日本各地に、特殊な壺形土器、器台形土器を供献した墳丘墓(首長墓)が現れる。
316年 西晋が滅亡
空白の4世紀
463年 吉備氏の乱
457年-479年(日本長暦) 雄略天皇 考古学的に実在が実証される最古の天皇
479年 星川皇子の乱
大王クラスの大形前方後円墳が奈良盆地から大阪平野に移り更に巨大化する。
日本では倭国の古墳時代中期にあたる。各地で巨大な前方後円墳が築造され、地方とヤマト王権中枢双方の首長たちの祭祀儀礼が執り行われる。この世紀の倭国は朝鮮半島諸国間の紛争に活発に武力介入を行っていたことが、日本側と朝鮮半島側双方の歴史記録から伺われる。当時の5代に及ぶ治天下大王が東晋から南朝にかけての江南の王朝に盛んに朝貢して王号と官職を得ていたことが中国正史の記述に残されており、倭の五王として知られている。
507年-531年 継体天皇
527年 磐井の乱
531年-535年 安閑天皇
538年 仏教伝来(552年説あり)
536年-539年 宣化天皇
539年-571年 欽明天皇
572年-585年 敏達天皇
581年 隋の建国
585年-587年 用明天皇
587年-592年 崇峻天皇
それまでのヤマト王権の王統嫡流が断絶し、誉田別尊大王(後の応神天皇)五世の子孫とされ越前と近江に地盤を持ち尾張連草香の娘を妃としていた男大迹王(後の継体天皇)が、大伴氏、物部氏、巨勢氏らにより畿内に迎えられて前王統の手白香皇女を皇后に迎え、治天下大王として擁立される。やがてこの継体系の王家は新興の蘇我氏と結びつき、武川鎮軍閥系の政権によって大陸が華北の再統一から南北朝の統一へと向かう中、前世紀の「倭の五王」後に途絶えていた活発な東アジア外交を再開する。
考古学の発掘研究によればこの世紀の半ばになって日本列島での鉄鉱石からの製鉄遺構が初めて出現する。同時期に大陸では倭国が弥生時代以来鉄素材の供給源としていた弁韓の後身加羅諸国が新羅に併合されている。
前世紀に九州などで造られ始めていた古墳の横穴式石室が全国規模で普及する。
この世紀の後期になると畿内では前方後円墳がつくられなくなり、前方後円墳の伝統を保持していた天皇陵含む大型古墳も渟中倉太珠敷大王(後の敏達天皇)の陵墓を最後に以後方墳となる。関東でも群集墳が盛んに造られるようになる。ヤマト王権中央、さらには地方首長の統治下でも仏教の導入が進行し、前方後円墳と結びついていた首長祭祀は以後氏寺における仏教儀礼が担うようになる。
593年-628年 推古天皇
603年 冠位十二階を制定
618年 隋の滅亡、唐の建国
629年-641年 舒明天皇
642年-645年 皇極天皇
645年 乙巳の変
645年-654年 孝徳天皇
646年 大化の改新
655年-661年 斉明天皇
660年 百済滅亡
663年 白村江の戦い
668年 高句麗滅亡
673年-686年 天武天皇
飛鳥に29、40、41代天皇の墓があって大阪、奈良に16代天皇家族の墓があるのは変だなと思って経済史的に考えてみた。
4世紀、帯方郡と卑弥呼が滅び、渡来人が辰砂利用技術を持ってきて、初代天皇が立つ。天照・卑弥呼から曾孫の代は出雲にも進出。
5世紀、貿易で成功した15〜16代天皇は大阪と奈良盆地に進出して栄える。巨大古墳を作る。
6世紀、29代のとき任那が滅びて百済貿易が中心になる。渡来人が増えたので32代までに飛鳥京が開発される。それで銀山も開発されたが、場所は秘密。
7世紀、33代は遣隋使を送り、34代は遣唐使を送ってまた大陸貿易栄える。36代のとき百済が滅びて渡来人が増えたので38〜41代が奈良を再開発。飛鳥京は国内統一のための機関になり、統一後は廃止。
8世紀、渡来人がいるので43代に古事記(たぶん百済系)、44代に日本書紀(たぶん漢人系)ができる。45代が奈良大仏。47〜49代あたりに続日本紀ができる。50代(平家祖のひとり)が長岡京、平安京を開発。しばらくすると、インフレが酷くなりしばしばデノミをする。
平安時代は長いので飛ばして11世紀、唐と平家が滅びて道教の公家が衰退、仏教の武家が台頭。大陸も日本も諸国分立時代。
古墳の年代が正しいなら、天皇は4世紀からで、5世紀に大阪・奈良時代が始まり、任那滅亡のあとしばらく飛鳥京がある。飛鳥京の謎の石造物は任那系渡来人が来る前のものだろう。そもそも2世紀に福岡伊都国に千如寺が建ったときは天皇がいないだろうし、新羅系渡来人も鉱山開発をしてる。
天皇陵のある奈良や飛鳥や古墳作りがが廃れたのは、国内統一し終わって割の良い古墳作りを村人にさせる必要がなくなったとか、そのあたりの銀山が閉山したとか、任那や百済が滅びて古墳が流行らなくなったとか、産廃の利用方法を古墳作りの他に見つけたとか、唐辛子や香辛料が入ってきて、料理に忙しくなったとか。
初代天皇の父親の墓が鹿児島にあるとされているが、だったら隼人の反乱が起きるはずがないと思う。
だいたい古墳の主は仮託もできるし、もしかすれば戦争の死者が埋められてるかもしれないわけだ。律令制のあとは古墳がないんだろ。
FGOに歴史書からの剽窃が発覚?「文章がほぼ一致してる」「Fateに今更言うの?」 - Togetter
ttps://togetter.com/li/1501534#c7673065
そのまま引用しなくても、資料の内容を消化して自分の言葉に直すことはできます(そもそも件のプロフィールは出典の明記などの引用の要件を満たしていません)
ttps://togetter.com/li/1501534#c7673129
どの辺が剽窃なのか理解に苦しむ。線引かれている部分がほぼほぼ歴史的に用いられてきた名称じゃん....。逆に、これに独創性を加えてどうするんだよ。
固有名詞以外の部分の言い回しも酷似しているから問題になっています(「歴史的に用いられてきた名称」に関しても、「足速き馬駆る者たち」といった訳は日本でそこまで一般的なんでしょうか?)
ttps://togetter.com/li/1501534#c7673164
ゲームの解説文に何言ってんだ、って感じ。 これが論文などの、後に定説として広まりそうな文書や有料の書籍についての事ならわかるけどさ。 基本無料ゲーでパロディやオマージュネタいっぱいのFGOの解説文を「定説」にする奴がいたらそっちが笑われるだろ。
「定説」にならないから他人の文章を借用しても問題無し、とは……?
ttps://togetter.com/li/1501534#c7673278
「史実や伝承」そのものと、「史実や伝承について解説した文章」は違います。
ttps://togetter.com/li/1501534#c7673286
たぶんここでの「言い回し」はやはり固有名詞等のことだと思いますが、たとえば「聖エルモの火」自体は一般的な名称だとしても、「嵐のさなかに船のマストなどに(で)見られる〜」という説明がここまで一致するのは偶然とは考えにくいです。
ttps://togetter.com/li/1501534#c7673351
まあ、引用元が何かアクションを起こしたら、出典明記すればいいってだけで、他人が大騒ぎして炎上させるほどのこととは思えない。
「他人が大騒ぎして炎上させる」ことの是非はともかく、引用の出典は文句を言われたら書けばいいというようなものではありません(そもそも件のプロフィールでは、引用部分が「」でくくられてなかったり中途半端に改変されたりしてるので、出典明記以外にも「引用」の形式として不十分です)
ttps://togetter.com/li/1501534#c7673352
「パクリ」と「被り」の区別出来ない人っぽい印象。該当部分が剽窃元とされる文献独自の解釈でないのなら、本件は「パクリ」ではなく、「被り」の可能性が高いと感じる。
解釈自体は一般的なものだとしても、「元来〜として崇拝され」「顕現(だ)と信じられるようになった」「さまざまな危難から緊急に人々を救う神として崇められ」といった言い回しが偶然「被る」可能性はどの程度あるんでしょうか。
ttps://togetter.com/li/1501534#c7673587
日露戦争の小説や漫画を描いたら「司馬遼太郎に許可をもらったのか?」「江川達也に許可をもらったのか?」と外野が騒ぐみたいな案件ですね。
日露戦争を描いた完全新作小説が、なんの説明もなく「まことに小さな国が、開化期を迎えようとしている。」で始まったらビックリしませんか(このぐらい有名なフレーズならパロディで通るかもしれないが)
ttps://togetter.com/li/1501534#c7673661
しかし、これ剽窃というには抜き出し個所は固有名詞がらみが多くてむしろ「改変するほうがさすがに問題だろ」という発想しか持てないところ。聖エルモの火も説明が必要だしアルゴナウティカもカストルとボルックスという固有名を出すためには避けられない話だし、正直糾弾するにも微妙なラインにしか見えんなぁ。
ttps://togetter.com/li/1501534#c7673821
FGOの『「A」「B」の通称を持ち』が 書籍の『「A」または「B」と呼ばれ』の剽窃だと言うなら 「A」「B」は筆者のオリジナルで、実際には呼ばれてないってことになるんじゃないのか…。 通称が「剽窃だ!」って何ぞ。
「二人の王たち」「二柱の神」自体が剽窃だという話ではなく、「固有の名をも(持)っていなかった」まで含めた流れが酷似しているということじゃないでしょうか。
ttps://togetter.com/li/1501534#c7674088
これ本の方は、『ホメーロス風讃歌』と呼ばれる紀元前7から6世紀の歴史的なものだぞ、日本語訳こそ何度目かの翻訳で2004年なだけで。 個別具体的に内容を知ってるかは別としても、無断転載も何も常識的な範疇の内容だぞ。
FGOが参照したと思われるのは、翻訳ではなく訳者自身による注釈・解題の部分です(そもそも、たとえ保護期間の切れた古典の翻訳だったとしても訳者の著作権は発生します)
ttps://togetter.com/li/1501534#c7674211
ttps://kotobank.jp/word/%E6%9C%AC%E8%83%BD%E5%AF%BA%E3%81%AE%E5%A4%89-135228
1582年、毛利氏と対戦中の羽柴(豊臣)秀吉救援のため本能寺に宿泊中の織田信長が、やはり中国攻めのため丹波亀山城まで先発していた明智光秀に襲われ自害した事件。
本能寺の変ぐらいメジャーな事件の説明でも、このぐらいの言い回しの違いはふつうに発生するようですね。
ttps://togetter.com/li/1501534#c7674244
こういうのは基本「オリジナルにあらざるもの即ち悪」位のフワッとしたバイアス以上のものではないんだけど(件の箇所にオリジナル性があるかって前提になる話すら無いし)、
「オリジナルにあらざるもの即ち悪」とは言いませんが、オリジナルでないのなら引用であることを明確にした方がいいんじゃないでしょうか(「件の箇所にオリジナル性があるかって前提になる話すら無い」というのは、ディオスクロイの説明は誰が書いてもああいう文章になる可能性がある、ということですか?)
ttps://togetter.com/li/1501534#c7674257
クッソめんどくさそう。教科書に同じこと言えるの?
教科書が何らかの著作物の文章を(出典を明記せず著者に無断で)これと同じぐらいそのまんま使ってることが見つかれば、この件と同じかそれ以上に問題になると思いますよ。
ttps://togetter.com/li/1501534#c7674514
本の方、中身を確認してきたけど、1990年に平凡社から、2004年に単行本化。正直、この パクられ になって本の方も解題や注の大元は『Dictionnaire de la Mythologie Grecque et Romaine』とかかなり多数の本による物だが、引用明記はしてないでしょ....。(referenceで一括しては乗って居るけど。)
他人の著作物を参考にするのと、他人の著作物の一部をそのままの形で使用する引用を混同してませんか。
ttps://togetter.com/li/1501534#c7674518
たしかに「必要な事項を抜き出してUIの枠内に収まるようにした」だけかもしれませんが、それはつまり、参考にした著作物の存在が明らかな上で自分の言葉への変換が不十分、ということになりませんか。
ttps://togetter.com/li/1501534#c7674600
ゲーム画面に引用元とか貼られても現実に引き戻されるだけなんで、シナリオ公開後にTwitter公式垢が「なお今回の○○はこちらの方々の協力で完成しました!」て公表すればいいと思う。 ん? 違う? 著作権への対価を支払えって話までやる?
FGOのプレイヤー満足度って、引用の際の出典明記より優先されるものなんですか?
ttps://togetter.com/li/1501534#c7674681
著作権の保護期間は、出版ではなく著作者の死後から70年です。
ttps://togetter.com/li/1501534#c7676622
基本的にFateやメガテン系みたいな明確な原典のあるものでなくとも、今時大規模なゲーム作りや映画作りをやろうとすれば植生とか建造物とか諸々で膨大な参考資料を使うわけですけど。クレジットで書籍名なんて早々見ないでしょ?大体こういうのは「考証」とか「監修」として、そういう諸々を纏めた担当者が載るわけ
他人の著作物を参考にするのと、他人の著作物の一部をそのままの形で使用する引用を混同してませんか。
ttps://togetter.com/li/1501534#c7676920
百田尚樹が剽窃だと騒がれたときにも思ったけど、引用元の文章がそもそも何かの引用だと思わないのかな。歴史的事実だよね。元の文章をオリジナルだということがかなり恥ずかしいんだけど。
たしかに「引用元の文章がそもそも何かの引用」である可能性もありますね。元ネタが見つかったら教えてください(それから、「歴史的事実」と「歴史的事実について解説した文章」を混同してませんか)
ttps://togetter.com/li/1501534#c7677420
仮に、出典を明記するとして、どこに明記すれば良いんだろうね? 部の終了毎にスタッフロールに入れるとしてもそれをみれるようになるまでに何ヶ月かかかるわけで
ttps://togetter.com/li/1501534#c7677424
あのプロフィール?の下に、(沓掛良彦訳『ホメーロスの諸神讚歌』 (ちくま学芸文庫)より)とでも入れるだけの余裕もないんですか?スクロールバーが見えてるから、字数制限は特になさそうな印象ですが(もちろん出典書いても引用部分をカッコで括ったりする必要はある)
ttps://togetter.com/li/1501534#c7677603
というかこれ一部のプロフィールで神話のディオスクロイとは、というあれなんですよねで別のプロフィール覧ではこの物語(fate)、サーヴァントとしてのディオスクロイが語られてるのですのよね
ttps://togetter.com/li/1501534#c7677626
物語上での型月世界にも実在する神話、史実、物語から型月のエッセンスを加えているのでこうややこしくなるんだなぁと、(あとギャグやパロはやりますがこういう世界観解説は大事にするみたいなんで尚更
神話・伝説・歴史由来のFGOのキャラクターに、FGOオリジナルの要素が含まれている(FGOに限らずフィクションなので当たり前)ことは、今回の件とは何の関係もありませんね。
ttps://togetter.com/li/1501534#c7677666
ttps://togetter.com/li/1501534#c7678351
元ネタの解説に参考文献があるのは明白だから参考文献として記載しろっていう意見ならわかるけど、パクリ云々は伝承や歴史の解説だと似たような感じになるんじゃねって気もするしうーん…。
「似たような感じ」にはなるかもしれませんが、細かい言い回しが一致するのは別問題です。
ttps://togetter.com/li/1501534#c7679688
taiheyou 引用がどうたらならパソコンゲームのころから言わないとおかしいんでねえの。そもそも文章コピペとか以前になんらかの文献を参考に設定作った時点で引用が必要な代物なら引用必須たべ?
ttps://togetter.com/li/1501534#c7679708
単語コピペが雑って叩く位ならええけどね。引用要求するならアーサー王の説明した時点で必要だわ。参考文献がないわけないもん。
ttps://togetter.com/li/1501534#c7681687
論文やレポートでも創作物でも、適切な「引用」の要件は基本的に同じです。
ttps://togetter.com/li/1501534#c7682349
翻訳における文章のオリジナル性ってどれくらい? I love you.を「月が綺麗ですね」くらいやればオリジナルだと思うけども。
ハードル高くないですか……?
ttps://togetter.com/li/1501534#c7682850
そもそも古代の神や人物なんてそもそも文献が少ないし ロクに記述がないのでちゃんとした訳文も少ないから 同じ出展を当たったがゆえに同じような文章になるなんてよくあること
つまりFGOの担当ライターは沓掛良彦氏の『ホメーロスの諸神讃歌』(の注釈・解題)を参照したわけではなく、さらにその大元の資料に当たってあのプロフィールを書いた、という主張でしょうか。それで細かい言い回しまで酷似するとは考えにくいのですが。
トビリシ(グルジア語: თბილისი, Tbilisi [tʰb̥ilisi] ( 聞く))はグルジア(ジョージア)の首都。ときにティフリス(Tiflis)とも呼ばれる。
トビリシは「あたたかい」を意味するトビリに由来し、温泉と関係あるとされている。元史には梯弗里斯とも呼ばれる。
人口は約120万人。
5世紀に古代カルトリ王国(後にイベリア王国とも言われた)の王ワフタング・ゴルガサリ(ワフタング1世)がここに町をつくり、
王の死後、息子のダチが遺訓に従い、6世紀の初めにムツヘタから遷都した。
統一したグルジア王国の都ではなく、コルキスを含まない東グルジア(カルトリ)の都であった。ワフタング・ゴルガサリ王が
この地を発見したのには、有名な言い伝えが残っている。王が狩に出かけ、鷹を飛ばした。鷹は雉を追いかけて飛んでいったが、
鷹も雉も行方不明となった。従者たちが探し回ると鷹も雉も温泉の中に落ちていた。温泉を発見したワフタング・ゴルガサリは
それをとても気に入り、この地に町を作るように命じた、という。グルジア語の古語で"Tpili"とは「暖かい」という意味で、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%83%93%E3%83%AA%E3%82%B7