「有馬晴信」を含む日記 RSS

はてなキーワード: 有馬晴信とは

2024-07-26

anond:20240726154243

戦国時代から現代まで、多くのアフリカの人々が、さまざまな理由日本を訪れています。この章では、その一部を取り上げ、日本との関わりをたどります

近世以前~いくつかの足跡

アフリカの人々、日本に来たる

戦国時代ポルトガルスペインなどヨーロッパの船が日本を訪れた際に、黒人が従者や奴隷として連れられていたことが、アフリカの人々が日本を訪れた最初の事例であると考えられています

織田信長の伝記である信長公記』には、イエズス会司祭ヴァリニャーノが従者として連れており、その後信長に仕えることとなった「黒坊主」が登場します。

「彼男健やかに器量也爾も強力十之人に勝タリ」と描写されており、信長をはじめ、当時の人々に高く評価されたことがうかがえます

日本では「弥助」と呼ばれたそうですが、アフリカでの本当の名前はどのようなものだったのでしょうか。

また、第一章の冒頭で触れた天正少年使節団も、『天正年間遣欧使節見聞対話録』【226-29】によれば、アフリカを訪れた際に「今迄にもあの黒い者らが我々の方へ渡つて来るのを沢山に見た事はあるが」と発言していることから日本へと渡ってきた黒人を知っていたことが分かります

しかも、使節団を派遣した大名のひとり、有馬晴信は、その軍がアフリカ人とマラバル(インド)人に助けられたという、次のような報告もあります

フロイスの『日本史』【GB315-21】に、有馬島津軍と竜造寺軍の戦いにおいて、日本人の砲手がいない中で大砲を「一人の(アフリカの)カフル人が弾丸を込め、一人のマラバル人が点火して」発射し、「千人の兵隊を有しているよりもそれらはより効果的に役立った」と書かれています

そのほかに豊臣秀吉が「カフル人」の踊りを見て褒美を与えたなど、さまざまな記録にアフリカの人々の姿が残されています

anond:20240726045230

疑惑ロックリー氏は置いておくとしても、元増田引用してるデイヴィット氏の論文にもポルトガル人宣教師黒人をたくさん連れてきてることは指摘してるから

そこはい

創作にあまり出てこないのは有馬晴信がそうであるように九州キリシタン大名を中心に黒人を雇ってたからじゃないか

大河ドラマでも九州をメインに扱ったのはほとんどないし

から創作時代劇の華である信長の近くにいた弥助が圧倒的に有名なんであって

anond:20240726022621

天正少年使節団も、『天正年間遣欧使節見聞対話録』によれば、アフリカを訪れた際に「今迄にもあの黒い者らが我々の方へ渡つて来るのを沢山に見た事はあるが」と発言していることから日本へと渡ってきた黒人を知っていたことが分かりますしかも、使節団を派遣した大名のひとり、有馬晴信は、その軍がアフリカ人とマラバル(インド)人に助けられたという、次のような報告もありますフロイスの『日本史』に、有馬島津軍と竜造寺軍の戦いにおいて、日本人の砲手がいない中で大砲を「一人の(アフリカの)カフル人が弾丸を込め、一人のマラバル人が点火して」発射し、「千人の兵隊を有しているよりもそれらはより効果的に役立った」と書かれています。そのほかに豊臣秀吉が「カフル人」の踊りを見て褒美を与えたなど、さまざまな記録にアフリカの人々の姿が残されています

などと日本黒人がいた記録は残っているぞ。

 
ログイン ユーザー登録
ようこそ ゲスト さん