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2022-06-15

anond:20220615134604

庶民はアッナが何をしたかちゃんと見とるんやで

家康と共に畿内を脱しようとするが、宇治田原で郷民一揆の襲撃を受けて亡くなった[4]。

家忠日記』では自害[21]、『信長公記』では、一揆により生害されたと伝え殺害自害の両方の意味がある[注釈 5]。

2021-07-15

anond:20210715150820

小山田 信茂(おやまだ のぶしげ)は、戦国時代武将甲斐武田氏の家臣で譜代家老衆。甲斐東部郡内領の国衆武田二十四将の一人に数えられる。

信茂の勝頼離反から滅亡

岩殿城

天正9年12月織田信長徳川家康武田領攻めを開始し(甲州征伐総大将織田信忠副将滝川一益)、信濃木曽郡国衆木曾義昌が離反する。また、これに伴い相模後北条氏武田領への侵攻を開始した。義昌の離反を契機に信濃領国は動揺し、翌天正10年(1582年)2月2日に勝頼は信濃諏訪上原長野県茅野市)に出兵し、『甲乱記』に拠れば信茂もこれに従ったという。2月29日織田信忠伊那郡高遠城仁科盛信(信盛)を攻め、信忠は矢文で盛信に降伏を促し、信茂らが勝頼から離反したと伝えているが、この段階で信茂が勝頼から離反していることは虚報であると指摘されている[15]。

勝頼は天正9年に新府城山梨県韮崎市)を新たに築城甲府から本拠移転しており、『信長公記』によれば同年3月3日に勝頼は新府城放棄し、小山田氏の郡内へ逃れたという。『甲陽軍鑑』によれば勝頼嫡男の信勝は新府城における籠城を主張したが、これに対して信濃国衆真田昌幸上野岩櫃城群馬県東吾妻町)への退避を提案した。しかし勝頼側近の長坂光堅小山田を頼り郡内の岩殿城大月市岡町)へ逃れることを主張したという。一方、『甲乱記』では信勝や昌幸の提案を記さず、勝頼が信茂に対し郡内への退避を諮問したとしている。

なお、岩殿城小山田氏の詰城とされているが、小山田氏の本拠である谷村城(都留市谷村城)から距離があることから岩殿城小山田氏の城とするか武田氏の城とするかで議論がある[16]。なお、天正9年3月20日岩殿城武田勝頼が在番衆派遣している事実も注目されている[17]。

武田勝頼一行が郡内領へ退避するさなか信茂は勝頼から離反。勝頼は田野(甲州市大和町)において織田方の滝川一益軍勢と戦い、武田宗家は滅亡した(天目山の戦い)。

信茂離反に関して、武田側の史料では、まず『甲陽軍鑑』に拠れば勝頼一行は郡内領への入り口である鶴瀬甲州市大和町)において7日間逗留し信茂の迎えを待っていたが、3月9日夜に信茂は郡内領への道を封鎖し、勝頼一行に対して木戸から郡内への退避を呼びかけると見せかけ、信茂の従兄弟小山田左衛門と勝頼の従兄弟武田信堯(のぶたか)が信茂の人質を郡内へ退避させ、信茂は勝頼一行に虎口から鉄砲を放ったという。信堯は正室御宿友綱の妹で、信茂とは相婿の関係にある。なお、『武田三代軍記』『理慶尼記』でも同様の話を記し、『理慶尼記』では信茂の離反を7日の出来事とし、信茂が郡内への入り口を封鎖した地を笹子峠大月市甲州市)としている。一方、『甲乱記』では信茂離反の日付を記さず、勝頼は柏尾甲州市勝沼町)において信茂を待ち、駒飼(甲州市大和町)に移動したところで信茂の離反を知ったとしている。

甲斐善光寺

一方、織田徳川方の史料として、『信長公記』では勝頼は小山田の館まで辿り着いたが、信茂は勝頼の使者をはねつけたと簡潔に記している。『三河物語』では小山田左衛門が登場し、勝頼が郡内領へ逃れる途中に小山田左衛門を信茂のもとに派遣したが帰還せず、信茂離反を知ったという。

織田氏・徳川氏勢により甲斐が平定された後、信茂は嫡男人質として差し出すために信長拝謁しようとしたが、織田信忠から武田氏への不忠を咎められ処刑された。

信長公記』では3月7日条に成敗した「小山田出羽守(信茂)」の名を記し、『甲陽軍鑑』では武田信堯や小山田左衛門らの名も記している。一方、『甲乱記』、『甲斐国志』に拠れば、3月24日甲斐善光寺で嫡男、老母、妻、女子とともに処刑されたという。享年44。長生寺『月日過去帳』・森嶋本『甲斐国志草稿』に記される伝存しない同寺所蔵の位牌によれば戒名は「青雲院殿武山長文居士」。信茂の命日は『甲乱記』、長生寺『月日過去帳』に「24日」と記され、『甲乱記』では3月11日の勝頼自害から13日後としている。

人物

武田家において信玄の「弓矢の御談合七人衆」に両職の山県・馬場重臣と共に名を列ねている。

武田の小男と恐れられた山県昌景に「若手では小山田信茂、文武相調ひたる人物はほかにいない」と評される。

設楽ヶ原の戦いにおいては、早々に撤退して戦線を崩した武田信廉・穴山信君ら一門衆とは反対に、山県昌景隊の後備として最前線で戦い続けている。

鉄道唱歌(作詞福山寿久)には「川を隔てて聳ゆるは 岩殿山の古城蹟 主君に叛きし奸党の 骨また朽ちて風寒し」と詠われており[20]、小山田信茂は「奸党」とまで蔑まれている。

2021-07-07

歴史上の人物は何をもって実在と見做すか

例えば織田信長なんかは、今生きている人は誰もその姿を自分の目で見たことがないはずであるが、実在していたことは疑いようのない事実である認識している。

これがスティーブ・ジョブスだったりすると、ウェブテレビ新聞など様々な媒体で目にしたことがあるので、実在していたことは疑いようがない。

しかしながら、だんだん過去に遡っていくと、文献など客観的傍証しか確認できなくなっていくはずである

wikipediaを見てみると、天皇についても「実在を認められないか強く疑われる名が多い」とあり、どこかの段階で実在非実在の線引きがなされている。

 

先程の織田信長の例だと、我々は例えば歴史教科書記載されていることを事実として受け止めているはずである

しかし、その教科書記載されている事実についても、何らかの客観的な文献等に基づいて事実認定されているはずである

 

その辺りの判断について確認できるような資料書籍はないだろうか(調べてない)

 

追記(2021-07-11

ここで問いたかったのは、哲学的認知論的な観点ではなく、学術的な観点である

歴史学の研究は「史料」に対して行われるということをコメントから読み取れたので、以下wikipediaの「史料から引用する。

一次史料[編集]

一次資料」も参照

一次史料とは、当事者がその時々に遺した手紙文書日記などを指す[2]。記述対象について「そのとき」「その場で」「その人が」の三要素を充たした文献を「一次史料」と呼び、そうでないものを「二次史料」と呼んでいる[1]。代表的な一次史料日記、書翰、公文書がある[1]。コイン新聞記事は通常、一次史料ではない。

二次史料[編集]

二次資料」も参照

二次史料とは、上記三要素を満たさない文献史料を指す。第三者が記した物や、後の記録が該当する[2]。二次史料は、一般に一次史料より重要性が劣るが、必ずしも信頼性に乏しいとは限らない。例えば、太田牛一の『信長公記』や小瀬甫庵の『信長記はいずれも織田信長に関する二次史料であるが、前者が高い信頼性を有していると考えられるのに対し、後者史料としての価値ほとんどないとされる[3]。

史料の中でも「そのとき」「その場で」「その人が」の三要素を充たした文献について「一時史料」と呼び、歴史的な情報重要価値を持つらしい。

ただし、一次史料自体が正しいかどうかの検証必要(「史料批判」と呼ぶ)とのことである

 

現在は、巷に溢れる情報いくらでも入手することができる世の中になってきているが、陰謀論似非科学など公衆衛生に対して有害になり得る情報が氾濫している。

どういった情報が信頼できるものであるかを判断するためには、史料批判のアプローチ活用できるのではないだろうか(調べてない)。

2020-06-02

織田シナモン信長を見ていて、ここでも信長は「であるか」と言っているので(ドリフとかでも言ってるよね)

出典があるんだろうなと思ってググってみた。

…あるんだね。

このアニメ輪廻転生を繰り返してる太田さんによる信長公記に普通に載ってるのな。

関係ないけど、信長のお子さん「人」って名前格好いいな。

現代のアレな名前でも「人」って聞いたことないなあ。

斯く言う自分も「一人」っていう糞みたいな名前になるとこだったんだけどな(候補にソレがあったそうだ)

「人」はよくても「一人」はねえよ。ぼっちかよ。ざけんな。

まあ、実際の自分名前も糞気に入らねえがな。改名しようかな。

事程佐用自分名前は気に入らないもんなのである

つーか、一定の年齢になったら自分改名して良い法律にしてくんねーかな。

まれたのも嫌なのに、名前まで勝手に決められて。なんの罰ゲームだって話よ。

 
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