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はてなキーワード: 歳月とは

2021-09-18

anond:20210918062625

30年という歳月は、不景気を通り越して、衰退。

しかもこの10年、民主党政権からアベノミクスまで、少なくともプライマリーバランスなんて考えていない。

ただお金の配分が間違っていたのは間違いない。

行き先がなくなった円がドルに変えられて円安を招いてしまって、このガソリン高の影響を直撃している。

しか円安なのに、日本はもはや売るものがないので、サービス業に頼らざるを得ない。

その結果、3000万人の外国人旅行客日本にやってくるようになった。

けどこの業界で働く人はもれなく最低賃金

ホテル王、レストラン王、鉄道王、なんとか王のみがますます富を得るどこかの最貧国家になってる。

スメラフリンは森のエルフ言葉で、

直訳すると、愛おしい香り

わたしが19のとしに恋人から贈られた言葉だ。

あれから長い歳月が流れて

わたしには大きな変化が訪れたが

変わらずに恋人わたしをスメラフリンと呼ぶ。

姿形は初めて会ったときと変わらぬあなた

その陽気な言葉と誠実な心は変わらぬあなた

でも変わったものひとつだけ。

その瞳の奥には深い悲しみの光が時折覗くようになった。

それは死せる者の定めを覗き見るエルフの瞳が

わたしとの間もなくの別れを予見させるからなのだろうか?

 

しかし、悲しまないで欲しい。エルフの君よ。

 

そのときが訪れようと私はあなたから離れることはないのだから

そのときに私は風となるでしょう。

そのためにシルフたちから森を吹きぬける風となる術を

わたしは学んできたのですから

から、そのとき

わたしは風になる。

森に流れる風となる。

その風は冬のときあなたそばを離れようと

春の夜には暖かなそよ風あなたのもとへと運ぶのです。

から

もう悲しまないで。

私は風となって再びスメラフリンあなたのもとへと届けるのですから

2021-08-12

死んだと思ったフォロワーが生きてた

「うーん、頭が物凄く痛い……」

そう書き残して以降、ぱったりと書き込まなくなった相互フォロワーがいた。

自分は直接その人と仲が良かったというよりは、同じクラスタの中の所属しつつ友達の友達みたいな空気感だったが、全く会話を交わさない訳でもなかった。

例えるなら小学校クラスメートではあるが、同じグループに属しているわけではないみたいな距離感

ある時ふと、最近そういえばあの人見かけないなと思ってホームに飛んでみたところ、2年前の冒頭のツイート最後書き込みだったことを知った。

それまで廃人並みに毎日呟いていた人が頭痛を訴えるツイート最後書き込みが途絶えている。

大事にしてください><リプライがついていたが、それの返信もなければ既読代わりのふぁぼ(当時はまだふぁぼであった)すらついていなかった。

私は青ざめた。

あっ、もしかして……亡くなってしまった……?

その人とはリアルに会った事もなければ、連絡先も知らなかった。そして焦って連絡先を探すような間柄でもない。

共通フォロワーにこれを伝えて大ごとにする気もなかった。というか2年も経っていたのに今更だ。そもそも確信は持てないただの推測だし。

ただやるせない寂しさを抱えながらホームを閉じる事しかできなかったのであった。

そこからさらに数年が経った。

ネット界隈も老人化が進んだのか、Twitterやってる人が死亡するという話も昨今ではあまり珍しくはなくなってしまった。

そんな話を小耳にはさんでいたある日、ふと、あの人の事を思い出した。

更新があるはずもないと分かっていながら、私はあの人のホームに飛んだ。

おはよう~」

!?!?

更新されている!?!?

半年前の呟きだった。頭痛を訴えて以降失踪してから実に5年近くが経過していた。

生きていた。

とにかく彼女の命があったことが嬉しかった。生きていてよかった。そう喜びに包まれた私は、次のツイートを見た。

「そうだよね、私の事なんてみんなどうでもいいよね……」

メンヘラじみた呟きが続いていた。呟きはここで途絶えていた。

良く見ると前述の5年ぶりのおはようにはリプライなし、いいねなし、当然RTもなし、つまり全くの無反応だった。

5年という歳月を経て、アカウントを消したり変えたりした人、アカウントこそ継続しているが興味の対象や主軸にしているつながりが変化している人が殆どだ。

なんならTwitter現在仕様的に、非時系列順のホームに設定している場合は、久々に呟いた人が上の方に出づらいのもある。

加えて彼女自身は中心人物的なキャラクターの人ではなかったし特別フォロワーが多いわけでもないので、多分誰にも気づかれなかったのだろう。

実際私自身、彼女の呟きに気付くのに半年もかかってしまった。

彼女は生きていたが、それでももうこのアカウントに帰ってくることは多分なくなってしまった。ただやるせない寂しさを抱えながらホームを閉じる事しかできなかったのであった。

非常回路って何

実験室のアルバイトをしてるんだけど

「週末施設の一斉停電があるから対応よろしく」とだけ言い残されて実験室を任されてしまった

いやいやいやいやいや何をどうすればええねん具体的に言ってくれや

「今回やるのは非常回路の点検から全部一般回路に繋ぎなおしてくれればいいから」

いやいやいやいやいや非常回路ってなんやねん避難経路しかわからん

「じゃ、俺は帰省するからよろしく!」

あん実家東京じゃなかったか??帰省するなら帰ってくんなよいやマジで(ここは地方

そんなわけでいま、大変に困っている

直轄の上司強硬帰省し、電話してもぜんっぜん出てくれない。たぶん休み中は出るつもりがなさそう。

施設管理してる事務みたいなところに聞いてみたけど電気配線は各々の教室管理されてますので…と返され俺涙目

実験室には稼働を止めるとまずい機械がたくさんある。分かりやすいところでいえばフリーザー冷凍庫)とか。中の物ぜんぶダメなっちゃうからね。お金もだけど歳月無駄になる。

別に俺はただのアルバイトなので正直今回のことでどんな損益をもたらそうと責任をとらされるいわれはない(と思いたい)。クビくらいは仕方ないが賠償金払えとか言われても困る。明確な指示しないで消える上司が悪いし。

ただ、長年かけて培った実験の成果が、フル稼働中機械の中にはたくさんある。それが無駄になってしまうのはとても悲しい。愛情込めて育てた豚が出荷前に盗難被害にあうようなものかもしれない。豚育てたことないけど。

上司言葉Google知識を信用するのであれば、電源回路を一般と非常で切り替えるだけで計画停電を乗り切れるものなのか?

電気に自信ニキがいたらぜひ教えてほしい。俺はちゃんと豚を出荷したい。

2021-07-17

日本に来て3年経つと、必ず花粉症になる。日本に来て10年経つと、日本食生活から離れられなくなる。

この話は来日したばかりのころ、先輩の在日中国人たちによく聞いた。

日本食から離れられなくなるなんて?!と、とても信じられなかった覚えがある。

留学1年目の冬休み、1年ぶりに帰国した。

実家で母が作ってくれた家庭料理を、とんでもない速さで一掃した。

姉はそんな私の様子を心配そうに見て、「とても先進国から帰ってきたと思えない、まるでアフリカかどこかの貧しい国から帰って来たようね」と言った。

そのとき私はとくに反論もしなかったが、心の中で「中華料理に飽きるわけがないだろう!」と考えていた。

来日当初は間違いなく、食生活にかなり苦労をした。

日本食はいくら食べても、すぐお腹がすいてしまうのだ。

知らず知らずのうち、10年の歳月が流れた。

出張中国に戻ると、わずか1週間ほどで中華料理に飽きてしまい、日本での食生活が恋しくなる私がいた。

ここで私が言う日本食とは、懐石料理などの類ではなく、ごく庶民的ものだ。

朝飯は駅近くの松屋ソーセージエッグ定食を頼みたい、ミニ豚皿の小鉢を選んで、半熟の目玉焼きと焼きノリを一緒にごはんにかけて、少しショウガをのせて、混ぜて食べたい。

昼は会社近くの定食屋で、「私の定番」魚塩焼き定食を注文する。

春はサワラ、夏はうなぎ、秋は秋刀魚、冬はサバ…もちろん、大根おろし味噌汁も欠かせない。

こうしてお昼の定食で、四季の変化を素直に味わうことができる。

夜は同僚たちと仕事の話をしながら「とりあえずビール」、そして焼き鳥

特に少し焦げ目のついた鳥皮、あの香りがたまらない。

帰りに小腹がすいたら満員電車から降りて、帰宅途中にある古いラーメン屋さんで、ネギたっぷり入った豚骨ラーメンを1杯。

これは1日よく頑張った自分への最高のご褒美だ。

そんなことを妄想しているうちに、中国出張に同行している日本人の同僚は、マーボー豆腐ご飯にかけ、おいしそうに食べている。

「本場のマーボー豆腐日本の味と全然違うね!スパイスが効いていて日本人にはちょっと辛いけど、たまらないな!」と言う。

さて、日本人が中国10生活するなら、中国食生活から離れられなくなるのだろうか?彼のような人に聞いてみたい。

それよりも何よりも、帰国したら成田空港でまっ先にザルそばを食べよう、私はそう心に決めた。

2021-07-14

anond:20210707004204

初出レシピに独占権を与えよ、じゃなくて、リュウジが初出を秘匿してオリジンを名乗ってるのが問題なんだよ。

著作権がないなら堂々と「僕なりにアレンジしました」でいいんだよ。

料理研究家の僕が20年の歳月をかけて…」とか「遂に生み出してしまった」とか虚飾してるからダメなの。

まぁ、ダメって言ってもどうせ「著作権ガー」ってネットで拾った浅い知識反論するんだろうけど。

2021-07-12

日常系アニメって現状維持が基本で何も進まないことが多いんだけど

日常系の中で恋愛やらが進んだり歳月が進むのを見ていたい

2021-07-02

習近平さんの講話日本語訳

6月25日午後には、党中央政治局委員(トップ25)を全員引き連れて、北京西郊北京大学に乗り込んだ。ここの「紅楼」で開かれている「光輝な偉業、紅色の序章―-北京大学紅楼と中国共産党早期北京革命活動主題展」を参観するためだ。

 後述するように、100年前の中国共産党指導者たち――陳独秀、李大釗は、北京大学拠点にしていた。中国共産党創建は、1917年ロシア革命1919年の大規模抗日運動「五四運動」が基点になっているが、「五四運動」は北京大学が「震源地」となっている。私はかつて北京大学留学時、構内の学生寮一年住んでいたが、5月4日大学創立記念日になっていて、特別な日である

 習近平一行は続いて、豊沢園の毛沢東故居を参観した。毛沢東主席1949年9月21日(建国10日前)から17年、仕事生活の場にしたところだ。

 毛沢東主席を崇拝してやまない習近平総書記は、そこに飾られた毛沢東の服や読んでいた本などを、感慨深げに見つめていた。そして24人の中央政治局委員を狭い部屋に入れて、またいつものように後ろ手に組んで、腹を突き出し説教を始めた。

 さらにまだ言い足りなかったのか、中南海(最高幹部の職住地)の懐仁堂へ戻って、再び長い重要講話を行った。その要旨は以下の通りだ。

 「紅色こそが中国共産党であり、中華人民共和国の最も鮮明明瞭な色だ。わが国の960万㎢あまりの広大な大地に、紅色資源は星の如く流布している。わが党が団結して、100年の努力の偉大な歴史過程の中で、紅色血脈を代々継承し、中国人民を導いていくのだ。

 第18回中国共産党大会(2012年11月開催で習近平総書記を選出した)以来、私は地方視察を重ね、わが党の重大な歴史的意義を持つ革命聖地紅色旧跡、革命歴史記念場所など、主要な場所をあまねく仰ぎ見てきた。どこへ行っても、栄光歳月再確認し、党の苦難の歴史を回顧し、心が震撼し、精神的な洗礼を受けてきた。

 中国共産党はなぜ能力があるのか、中国の特色ある社会主義はなぜ素晴らしいのか。それらは根本的なことを言えば、マルクス主義が正しいからだ。われわれは党の100年の努力歴史から、真理のパワーを悟り共産党執政規律社会主義建設規律人類社会発展の規律への認識不断に深化させ、マルクス主義を用いた真理の光芒が、われわれの前進していく道を照らすのだ。

 全党は終始、理想の信念を堅持するよう教育し、導いていかねばならない。革命理想は天より高いのだ。100年の党史を振り返れば、千々万々共産党人は、理想の信念を頭に抱き、鮮血を撒き散らしてきた。共産主義はわが党の遠大な理想であり、この遠大な理想を実現させるため、必ずや中国の特色ある社会主義の信念を固めねばならない。

 新時代中国の特色ある社会主義の新たな勝利不断に奪取するのだ。全党の同志は党の100年の努力歴史の中から初心の使命を悟り人民を中心とした発展思想をうまく貫徹し、中華民族の偉大なる復興の実現のため、初志一貫で奮闘するのだ。

 全党が終始、教育的指導で自己革命の推進を堅持するのだ。わが党は100年の風雲を経て、依然として繁茂している。その奥義は具体的な自己浄化自己改善自己革新自己能力の強大化にある。自己革命精神は党の執政能力の強大な支えだ。

 政治性、思想性、芸術性を統一させ、精品を作り出すのだ。史実説話を用い、表現力と伝播力を増強し、生き生きした紅色文化を伝播させるのだ。革命建設改革の各歴史の時期の重大な事件、重大な節目に関する教育を強化しなければならない。

 確定した重要標識の地を研究し、党の物語革命物語英雄物語をうまく語るのだ。それらを青少年の特長が認知された教育活動合致させ、潤沢な特色ある革命伝統教育愛国主義教育青少年思想道徳教育吉を建設し、彼らが小さい頃から心の内に紅色理想樹立できるように導いていくのだ」

https://gendai.ismedia.jp/articles/-/84619

2021-06-10

倍速視聴とSCREENカセットテープ

 映像コンテンツの倍速視聴に関する話題を目にして、ふと思い出したことがある。以下に記すのは、個人的昭和の思い出話である

 歳の離れた兄が買っていた『SCREEN』と云う映画雑誌が、実家本棚に何冊も置かれていることに気づいたのは、私が小学校の高学年になった頃だった。裕福な家庭ではなかったので、我々兄弟は一つの部屋を共有して過ごしていた。だから実際には、もっと以前から、その雑誌本棚に置かれていたことを私も知っていた。したがって、正確に言えば気づいたではなく、興味を持つようになったと言うべきであろう。

 それらは70年代に発売されたもので、ちょうどSF映画オカルト映画パニック映画流行した時期に該当する。だから、これらのジャンル作品のスチール写真を載せたページを眺めるだけでも、子供には十分に楽しめたものだった。

 やがて、そう云うビジュアル記事を眺めるだけでは飽き足らず、活字の部分にも目を通すようになった。最初は、やはりSFオカルトパニック作品関係するところから読み始めたが、それらにも限りが有る。こうして、あまり子供向けではない記事にも、当時の私は目を通すようになっていった。現代とは異なり、地方の非富裕層の家に生まれ子供には、娯楽の選択肢が極めて少なかった。従って、ほとんど已むを得ずと云う形で、元々は興味対象外だったものにも手を出すことになったと云う次第である。私と似た境遇に在った地方の名も無き小中学生も、私と大同小異経験をしたのではなかろうか。例えば、家に置きっぱなしにされた古いジャンプ/マガジン/サンデー/チャンピオンを、何度も何度も読み返し、その結果として、元々は興味が無かった作品の魅力に気付かされたといった、そう云う経験のことである

 話を戻すと、こうして結果的活字記事も読むようになった私は、雑誌SCREEN』に淀川長治連載記事掲載されていることに気づいた。当時の子供でも、淀川長治の顔と名前は知っていた。テレビに出て「サヨナラ、サヨナラ、サヨナラ」のセリフを言うことでお馴染みの、有名なオジサンであった。その連載記事は、読者から質問相談淀川長治が答えるコーナーであった。

 読者から寄せられた「僕は映画監督になりたいのですが、どうすれば映画監督になれますか?」と云う質問に、淀川長治は次のような回答をしていたと私は記憶している。

 「こうすれば映画監督になれると云うような、確実な方法手段は無い。それは無いが、強いて言うならば、同じ映画を十回は観なさい」と。

 馬鹿小学生だった私は、これを読んでも何のこっちゃとしか思わなかったが、世の中には淀川長治が言わんとするところを正しく理解して、きちんと実行した人も存在したのだった。それを後に私が知ったのは、中学生になった頃、GAINAXが初の作品オネアミスの翼』を製作劇場公開した時のことである

 中学生になった私は「何だか凄いアニメ映画が、若手クリエイターたちによって作られて、劇場で公開されるらしい」との情報を知った。知ったは良いが、そこはド田舎に暮らす非富裕層の哀しさである。公開する映画館は近隣に無かったし、そんな映画館が有る都市部まで行く手段も無かった。当時の私に出来ることといえば、劇場公開に合わせて発売されたムック本を、少ない小遣いで買って、それに掲載された場面の絵を見て、実際のスクリーンで動いているところを想像することぐらいであった。これもまた、同じような経験を持つ人がいることだろう。なお、そのムック本には物語最後の場面までしっかり掲載されていたので、話そのものに関しては、当時の私も知ることができた。

 さて、映画の場面を載せたビジュアル記事を読み終えた私は、もちろん活字記事の部分にも目を通した。そこには、本作品監督を務めた山賀博之氏のインタビュー掲載されており、映画監督を目指そうとした山賀氏の若き日の思い出も語られていた。その思い出話こそが、淀川長治の「同じ映画を十回は観なさい」に関する話なのである

 雑誌SCREEN』の淀川長治の当該記事を読んだ当時の山賀博之氏は、その教えどおり、同じ映画を十回観たと語っていた。ちなみに、実際に山賀氏が十回観た作品の例として挙げていたのは、少年野球チームの少年少女コーチ奮戦を描いた、アメリカ映画『がんばれベアーズ!』であるテイタム・オニールかわいい山賀博之氏が語ったことは、概ね以下のようなことであった。

 「最初の2〜3回目は、普通に観客として楽しんで観ているだけ。4〜6回目辺りは、もう観たところばかりだと思って、飽きて退屈する。それが7回目頃を過ぎると今度は、場面場面で作り手が何をしようとしているのか、ココで溜めてココで盛り上げようとしているんだなとか、画の見せ方とか、そう云う作り手の意図気づき始める。同じ映画を十回観ると云うのは、こういうことかと理解した」やはり、何かを成し遂げる人は同じ文を読んでも、凡人とは違い有益な学びを得る能力が高いということなのだろう。

 ここで紹介した淀川長治氏の教えと山賀博之氏の実践エピソードは、あくまでもプロを目指す人たちに向けた話なので、我々一般人とは関わりの無い話に思えるかもしれない。また、現代コンテンツの数量が昔よりも多い時代なので、一つの作品を繰り返し読む/観るという時間的な余裕が無い現代人が大半だろう。しかしそれでも、一つの作品を繰り返し味わうこと、そして運が良ければ、そのリピート鑑賞を通じて何かを気付く/発見することは、貴重で豊かな経験であると私は思う。倍速視聴をしてまで観る作品の数を増やすことにも、一定理由合理性は有るのだろうとは思うが、何かしら自分レーダーに引っ掛かるモノを持つ作品出会った時には、少しだけ立ち止まって、それを繰り返し味わうことも試してみるのも一興ではないだろうか。

 ここまで書いた上に蛇足だが、もう少し思い出を書き残す。昔、Blu-rayDVDレーザーディスクはおろか、家庭用ビデオすら普及していなかった時代の思い出話である。その頃は、アニメ映画作品の音声を収録した、LPレコードカセットテープ販売されていた。(一部では家庭用映写機で上映出来るアニメ映画作品フィルムテープリール販売していたが、これを買って楽しむことが出来るのは、本当の金持ちだけだった。)私は子供の頃、この手の音声収録レコード商品の一つ『ルパン三世/カリオストロの城』を所有する人物から兄弟のツテでカセットテープダビングしてもらい、それを何度も何度も繰り返し聞いて、頭の中では『水曜ロードショー』で観た『カリ城』の映像を想い起こして楽しんでいた。この体験のおかげで、私は今でも『カリ城』の全セリフ暗誦できる。何の自慢にもならないが。

 そして、歳月が流れた。

 後に社会人となって働き始めた兄が、VHSビデオデッキを買ってくれたので、我が家ビデオを利用できるようになった。金曜ロードショーで放映された『カリ城』を録画すると、当然それも繰り返し何度も視聴した。カーチェイス場面などはコマ送り再生作画をチェックしていたので、倍速視聴とは正反対行為である

 ほどなく小さなレンタルビデオ屋が我が町にも出来て、兄がスプラッター映画とかゾンビ映画とか借りてきてくれて、一緒に楽しんだりもできるようになった。古い『SCREEN』の記事を読んで、勝手に凄い作品だと思い込んでいた『巨大蟻の帝国』や『スクワーム』が、実際の映像を観るとショボい作品であることも思い知った。

 大人になって、現在宮崎駿のことは反吐が出るくらい大嫌いになり、ルパン三世作品としての個人的評価も、軍配は『vs.複製人間』の方に上げるようになった。

 子供の頃には観ることはおろか、存在を知ることも叶わなかった様々な作品の数々を、今では視聴して楽しむことが出来るのだから、明らかに子供の頃よりも、現在の私は恵まれている。

 それでも、熱に浮かされたように古い映画雑誌を何度も読み耽って、観たことも無い映画の内容を勝手想像したり、何度も何度も『カリ城』のカセットテープに耳を傾けて台詞暗誦していた子供自体の思い出は、それらが経済的な制約から生じた行為だったにも関わらず、何だか私には宝物のように思えるのである。ただのガラス玉が宝石より愛しく思えるように。

2021-05-26

私が電気ケトルから発射される電磁波追撃を受けたのは,少なくても6年前からだ.私は生まれつきお茶コーヒー特別好きであったわけではない.中学生になる頃には毎日のように飲んでいたが,私が働きに出てから,自分電気ケトルを買った.

毎日のように電磁波攻撃・追撃,を受けていると,そのうち頭がおかしくなるのではないか心配している.特に2年前から毎日のように攻撃・追撃が続くので, PTSD精神的な傷)を負っている.私はそれでも,6年の歳月をかけて,すべての原因が電気ケトルであると知った.

私は犯人は間違いなく,電気ケトル精通した人物であると思っている.

たとえば,ここに水がある.喉が渇いているひとには,とても魅力的だと思う.だが,乾いていない人にはどうだろう.これ以上飲めないと,お腹を抱えた水あたりの病人にはどうだろう.私は後者なのだ.これが,私にとっての電気ケトルの追撃電磁波なのだ.この話が理解できない人は,きっと喉が渇いている人だと思う.私にとっての電磁波被害とは,水でお腹満月のように膨れたひとにしか,共有できないものなのだ.

私は電気ケトルから意図的に発射される目に見えぬ攻撃電磁波によって,少なくとも6年間以上追撃されてきた.

そのせいで,私はいまでもひとりで電車に乗ることも,人込みの町を歩くこともできない.

こよなく利用する喫茶店でも(さまざまな生活必要に迫られたときに,やむを得なく利用する),珈琲を飲めない状態が続いている.電車のなかでは,ある程度の規制が行われているが,それも有名無実なことになりつつある.

2021-05-25

htr同人女ジャンル離れお気持ち吐き出し

追記

htr=ヘタレ

ヘッタクソな創作物しか生み出せないゴミカスのこと、下手くそ創作者の叩きスレ発祥

htr字書きだが、やっとジャンルから離れる決心がついた。

サイト時代を含めて約5年半。1つのカプに執着する期間としては比較的短い方かもしれないが、それでも私のオタク人生の中では最も濃くて幸せな夢を見せてもらった。良い時間だった。

海を見れば潮の匂いを浴びながら夕陽に照らされる夏の終わりの推しカプを想像した。山を見ればキャンプ飯の匂いに腹を鳴らしながらビールを煽る推しカプをそこに登場させていた。

世の中のラブソングは全て推しカプの曲に聴こえていたし、いつも2人のことばかりを考えて行動していた。

24時間365日ずっと日常の全てにカットインしてくるような推しカプだった。腐女子やカプ厨の方なら多少はご理解いただける感情かと思う。

それでも世に出した作品は30足らず。5年半という歳月から見ると相当少ない。遅筆の私は2~3ヶ月に一本新作を出すのが限界だった。どこにも出していないものを含めると100は書いたが、全て納得できずHDしまい込んだ。

なんせhtrなのだ。ここまで読んでいただいた皆様にはバレているだろうが、とにかく文章構成が下手だ。語彙の使い方もダサいてにをはがなっていない。一文が長すぎる。読んでも結局何が言いたいのか全くわからない。

人様に読んでいただく文章として下の下の下である

何よりも私の文はWeb二次小説との相性が悪い。

読み手側は起承転結のついた物語地の文が濃い文章など読みたくはないらしい。

伸びている文、評価されている作品はみな「ほのぼの」「ラブラブ」「わかりやすセリフが多い」「日常を切り取った2000字ほどの短文」これに気付くのに4年かかった。

何なら地の文なしのセリフ劇のほうが伸びる。

私のような作風書き手は本当に上手い人しか評価されない世界だった。

文章力もなく、面白みもなく、萌えもしない文章など誰が読むだろうか。ここ半年作品への反応が一気に落ちた。コメントはおろか、ブクマも二桁止まりという有様。

ツイッター作品アップの告知をしてもいいねは1つも付かない。

もちろん日常切り取り系にも挑戦してみたけれど、どう頑張って削っても8000前後は書いてしまう(普段が数万字であることを考えるとこれでも私の中では進歩だった)。日常を切り取った中でもまた起承転結を付けてしまう。どうしても「物語」を書いてしまう。

htrのくせに伝えたいこと、書きたいもの作風は常に一貫していた。読み手の皆様からすれば検索結果に出てくる邪魔ゴミである

斜陽ジャンルマイカーカプだから仕方ない……ここで書く人がいなくなったらジャンルが衰退してしまう……なんて言い訳自分を奮い立たせながら強がって書き続けていたけれど、先日ついに心が折れた。

普段小説とか読まないから字書きさんのページは正直飛ばしちゃうんだよね」

仲のいいフォロワーさんから出た一言だった。もちろん私が長文htr字書きであることは知っている。そして彼女は神絵師だった。

創作に携わる人間でも普段から小説を読まない人がいる。カルチャーショックだった。

ROMの方なら確かにからなくもないのだが、産み出す側の人間でさえそうなのかと何も言葉を返せなくなってしまった。

最後小説を読んだのは読書感想文課題だったかな。アニメは見るよ。漫画もたまに読む。映画?うーん、推しが出てたら……」

皆、物語のものに対して興味がないのだ。読み手が読みたいのは「ほのぼのでラブラブで誰が読んでも理解できるセリフの多い日常の切り取り短文」であって、私のクソ文ではない。

その頃ちょうど、私はまた1つクソ長htr小説を完成させていた。自分で読み返してもわかる。これも伸びない作品だろう。

一度書き上げた作品推敲したその翌日にアップロードするようにしていた。だけど、今回はそれができなかった。

ジャンルを離れよう。もうここで書き続けていても自分が壊れてしまうだけだ。

今朝、私はサイト支部に投げていた全ての作品を削除した。

ツイッターはちまちまと絵を投げていたけれどそれも全部消した。

絵も描けないわけじゃない。今まで出した本の挿絵や表紙は自分で描いてきた。そちらの道で勝負したほうが良いのではないかと何度も何度も考えた。

だけどやっぱり私は小説が好きだ。

その小説が書けなくなってしまったのならば、もうやめよう。

評価を気にして作品を産み出し続ける作業にはもう疲れた

作品評価に拘る時間を減らして、これから私生活を充実させていくつもりだ。

読みたかった本もたくさんある。家族との団らんを素直に楽しんで、今まで以上に仕事にも打ち込もう。幸い、職場ホワイトを極めたようなホワイト企業で仕事内容も楽しい。もちろん創作だって続けよう。

書きたいときに書きたいものだけを書いて、いつかまた活動したいジャンルが現れたときにオンでもオフでもなにか作品を出してみよう。

ジャンル移動というよりジャンル離脱と呼んだほうが正しいかもしれない。

女性向けジャンル男性向けジャンルとは少し毛色が違い、作家ではなくジャンルに人がつく。ジャンルの切れ目が縁の切れ目である

ジャンル活動者も少なく村社会化しているから、仲良くしていただいたフォロワーさんには少し申し訳ない。ただ、私のようなhtrが消えたくらいで衰退するような場所ではないだろう。

検索するときこの人の作品邪魔だなあ」くらいにしか思われていなかっただろうし。

今参加中のアンソロ(脱稿済)の献本が届いたらツイも支部アカウントを消す。サイトはもう閉じた。

離脱する私が言うのも変な話だが、少しでもジャンルが長く太く息をしてくれることを願っている。これは本心だ。

こんなにもジャンル離脱に体力を奪われるものだとは思ってもいなかった。今から気が重い。いっそのこと、あの人がいなくなってよかったね、くらいに思ってもらった方が気が楽かもしれない。

それも私のわがままだな。

自分わがままで去ることになるのだからジャンル者には失礼のないように努めたいと思う。

2021-05-13

高学歴ホワイトカラー軍団日光猿軍団では組織論がまったく異なることに気が付くまで10年の歳月を要した

2021-04-15

最近YouTube米国中国の軍需企業とか軍需産業動画を観ることが増えた

台湾有事で米中戦が近いかもなあと思って観始めたのだが、不謹慎ながら面白いなあ

お金とか技術の話は民間とも変わらないわけで、軍オタ普段から親しんでいるのだろうけど、

これはこういう理由コストが高すぎて量産できなかった、これはこうやってコストを下げて量産した、

試作は完成したが量産のための技術が足りず量産が困難だったが10年以上の歳月をかけて量産を実現した、

当たり前だが民間製品開発とこういうところは変わらない

から思うのだが、どこか深夜通販番組っぽい軍需企業動画があったりするのも面白い

ロード・オブ・ウォーヨルムンガンドのようなフィクションでは武器商人はどこかコミカルにも描かれているが、

意外と普通大阪商人江戸商人みたいなものなのかもしれないと思えてくる

しかし、YouTube兵器動画最適化されるのが困る

流石にずっと観ていると飽きる

2021-04-07

三浦ローリーだかルーリーだか知らんが、安倍晋三応援団的な立場でありながら、

米国北京オリンピックボイコットを批難するってことは中共の味方なのだろうか?

歴史を知らないどころか、単に逆張り芸人しか思えないのが酷い

自分中国は良くも悪くもスゴい国、

技術的発展の積分値はともかく微分値には目を見張るものがある、

ロケット開発など意外と人命軽視が科学の発展に繋がることもあるのでそのバランス必要

中国国策として意外と地味な所に金と物を大量に注ぎ込むイメージがあるが、

日本クールジャパンだのカジノだの政治家個人献金、保身に浮かれて終わるイメージさえある、

シグマプロジェクトなんかは国内大手メーカー国策追従する姿勢だけ見せて金だけは貰う、

国は頓珍漢なことを言ってるが、ただ追従してる姿勢だけ見せればお金は降ってくるので、

みたいになってた感がある

日本仕事してる感の方が重視される国なのかもしれない

パクリだろうがハリボテだろうが、10年ぐらいの歳月を掛けて量産化するための技術を脇から固めたり、

オリジナルさえも食ってやろうという、少なくとも意気込みだけはあるわけで、

思想だの文化だの人権だのになると疑問の多い国だが、どこかぶっ飛んでるところがスゴい

ライブフェスモッシュダイブをやって血だらけにはなりたくはないが、

から見ていたりビデオとして観る分には楽しいというのに似ているかもしれない

その中国というバンドステージパフォーマンスに良くも悪くもスゴさを感じるのはそういうところだと思う

ただ、ウイグルだのコロナだのは別腹であって、

それによって世界的に反中国的なムード高まるのは、ある意味では好機とも言える

しかし、この国は衣料品食料品中国なしではやってけないだろう

というか、中国の狙いは最初からそうであって、世界工場としてみんなが嫌がる下請け仕事を引き受けることで、

逆に世界中が中国依存するように仕向けることであり、

下請けとしてボケっとしてても物や金が流入してくることからノウハウを盗むということに繋がり、

ひいては完全コピーからオリジナルを食うところまで持っていければ、

そこから中国という国家だけで他国に頼らず経済が完結するようにさえなる

というのが理想であり、その理想へはまだまだ先が長いかもしれないが、そういう意味でも十分脅威である

から米国が中心になってボイコットの機運が高まるのは好ましいようにも思える

自分愛国とかどちらかといえばどうでもいいのだけど、三浦なんとかみたいなのが愛国心があるようにはとても思えない

日本からしても中国ロシアの良い面は学び、刺激されるべきであり、

しかしながら国益に反する点は牽制するべきに思う、当前のことだろう

2021-04-01

引退後の競走馬はどうなるのん

年間7000頭以上生産される競走馬のうち、天寿を全うする事が出来る馬は1%、競走馬以外の形で第二のキャリアを過ごせる馬が10%くらいと言われている。

Q、残りの馬はどうなるのか?

A、「肥育」=つまりは食肉になる

馬はたしか可愛いが、牛だってだって知能もあれば感情もある可愛い動物だ。だから可愛い馬を肉にして食うなんてとんでもない、などと寝言を言うつもりはない。

馬主=飼い主には、動物愛護法に則って命を責任をもって養う義務があるのだ!最後まで飼えないのなら飼うな!などと犬猫と同じような理屈(それはそれで正論だが)を言う気もない。

馬を飼育するための費用は膨大で、牧場などに預託する場合は、1頭につき年間100万円近くを要するし、広大な土地必要であり個人飼育する事は多くの場合難しいだろう。

しかし、引退する競争馬と他の食肉になる動物たちの違いは、競走馬には自分自身人間なんかよりも大金を稼いで来たし、これからも馬として働いて稼げる可能性をもっているということだ。

馬たちの持つ経済力可能性を活かして、馬たちの福祉に利用する道が拡大できないのか?ということを考える方がいい。

生産牧場現実と功労馬

年間7000頭もの競走馬は、全国に800ほどある生産牧場誕生する。

牧場生産した競走馬の余生を過ごさせることが出来ればいいかもしれないが、生産牧場も非常に厳しい。2000年初頭には1600くらいあった牧場が、この20年余りでおよそ半分にまで減少している。

競走馬は、飼育している牝馬に数千万~数十万円もする種付け料を支払って交配する事で生まれる。セリに出すまでの2年間に、生産から競走馬としての基礎を調教されるが、

仮に1頭に生産者1人が付きっ切りで面倒を見た場合人件費2年分が乗る形になる。

セリ市は、毎年高値が出たと報道されるセレクトセールセレクションセールがあり、それぞれ平均売却値が異なるがセレクションセールでの売り上げ平均額1400万程度となることも多い。

飼育必要費用設備投資資金、2年と言う歳月を考えれば、1400万円は高いとは言えないだろう。生産者が全ての引退馬のことを考える余裕はないはずだ。

大きなファームともなると、有力馬を生産し、著名なレースを勝ち1億円以上の賞金額を稼いだ功労馬を繋養していることはある。

種牡馬繁殖牝馬引退し、馬主牧場に多額の利益をもたらすと同時に自らの老後の資金をも稼いだ馬たちだけが

清潔に保たれた専用の馬房と広大な放牧地を与えられ、時折訪れる往年の競走馬時代を知るファンたちに敬愛眼差しで愛されながら余命を全うさせてもらえる。

馬の世界にも人間以上の格差社会存在するのだ。

リゾートファームNPO

競馬ファンから気にかけられる成績を残せなかった馬たちの中にも、馬主が年間100万円以上にもなる預託料を支払って、養老牧場で過ごさせてもらえる馬主に恵まれ幸運な馬もいる。

預託料の相場としては年間60万円~120万円くらいといったところのようだ。個人で馬を飼育しようとすると、牧草をロット単位しか売ってくれず割高になるというが、月々8万円くらいらしい。

牧場でまとめて購入する場合は安くなるとしても、日々のケアにかかる時間と手間を考えたら1頭当たりの月々の手間賃は高くはない。

受け入れれば長期に渡って、安定した売り上げが期待できるとは言え放牧地や厩舎を用意するなら、仔馬の生産に使った方が利益になるし、養老牧場生産者の善意や馬への愛情で成立してるようなものだろう。

同様に馬への愛情善意のみで成立しているものNPO団体や、馬と関係があった人、担当厩務員や調教師など、が立ち上げた「○○の会」の様なグループ存在する。

共通するのは一口数千円/月の会費や寄付金によって年間100万円にもなる預託料を得て養老牧場で繋養してもらうという方式だ。

具体名はださないけど、某地方競馬場で連敗記録で有名になった馬も現在はかつてのファン善意で老後を過ごしていたりする。

NPO団体会計をみると、100万円のうち会費と寄付で40万円、助成金で60万円ほどを得てギリギリで回していたりするので、こうした事業も難しいのだろう。

乗馬に転身する

競走馬というのは、非常に気性が激しくて速く走る為の訓練を受けているアスリートで、これをすぐさま乗馬にするということは難しいらしい。また全ての馬が乗馬にむいている訳でもないとも。

かつては数億円を稼ぎ、種牡馬としても活躍した馬が、最後乗馬として売られる事も珍しい話ではない。非常に幸運な馬になると、警視庁騎馬隊の乗馬に転身することもある。

乗馬になる馬は、乗馬クラブなどに1頭あたり200万くらいで競り落とされて、そこで訓練を受けたりするようだ。

岡山には引退馬の乗馬訓練を行って、それをオークション販売しているような乗馬クラブもあったりするそうだ。

競馬場競馬学校などで働く

誘導馬として、あるいは観客をもてなすマスコットとして、競馬場で働いている馬もいる。これは本当にまれなケース。

ただ、東京競馬場には、誘導馬乗馬を含めて40頭程度が生活している。JRAも、引退馬の事はかなりきにかけているのだというのが分かる。

馬事学園や、全国の農業高校競馬学校などで、教育目的学生が実習に使う馬もいる。それも決して数としては多くない。



ざっとこんなところか。

7000頭も毎年生産されるのに、馬として最後まで人と共に生きる事が出来る馬は少ない。多くは馬肉になるという現実を知って競馬への接し方や見方は変わってしまうだろうか?

馬はとても可愛いし、賢い動物だ。俺は馬が好きだし、競馬も好きだけど、だからと言って馬肉を食べる事を否定しない。

今後、1頭でも多くの馬が最後まで生きていける為に、人間はどうすればいいのだろうということを考えてしまう。競馬なんてなければ・・・本当は一番なのかもしれない。

だが、農耕馬だって、財布にされるために殺される現実もある。きっと人間の都合で殺される馬がゼロになる事はないんだろう。でも、1頭でも少なくなればいい。俺はそう願ってる。

馬券販売価格に初めから引退馬の繋養費用に使う金を10%でも20%でも乗せてもらってもいいくらいだし、競馬ファンとしてはそれくらいはしたいって気持ちもある。

そのお金で、海外にでも繋養できる土地を持って、最後まで命を全うさせられる頭数だけを毎年生産するように生産を絞る。それくらいはしてもいいと思うよ。

anond:20210401104724

引退馬に関しての動画

https://www.youtube.com/watch?v=r2WQDU8DWpo

https://www.youtube.com/watch?v=HVUKxeKg4WQ

https://www.youtube.com/watch?v=Dht7iQtzDV4

映画今日もどこかで馬は生まれる」

https://creempan.jp/uma-umareru/index.html

2021-03-22

結婚を前提にお付き合いしてる相手と、やっぱりダメかもって話

カネの暴力で全部解決してしまいたいが、甲斐性なしでは好きな相手幸せになるのも難しいネっていうのを

ただつらつらと愚痴らせていただきたいだけである

以下、便所の落書き

惚れた腫れたと、この先一緒にずっといるっていうのは、別のことだとわきまえていたつもりで

結婚を前提としてお付き合いをしませんか。と伝えたときには、このあたりのこちらの認識は共有していたつもりだった。

相手は、詳細は伏せるが国の難病指定はもらえてないが、実際難病くらいつらい症状で、定職についていなかった。

だけど、可能な限り症状と向き合いながら、なるたけ早い内に自立できるようになりたいと

その前向きな姿勢に感銘を受けて、支えてあげたいと思い、お付き合いを申し出た。

実際、性格があうとか、一緒にいて楽しいとか、恋愛的な話はクリアしてのことである

さて、そんなところから現状で数年の歳月が流れている。

相手はまだ定職についておらず、近年の情勢もあるが、自分収入は特段伸びず、自分以外の人間そっくり養えるだけの金銭状況にはない。

時折将来の話をすると、ムッとされたり、今はその話をしたくないなどはぐらかされて、イマイチ具体的な話に進んでいかない。

少々差別的思想であるが、これが健常者相手であれば、怠けるなと罵ってやったり、ひったててハロワにつれていくなりしてもいいくらいと思っている。

ただ、相手には身体事情もあるため、無理強いは出来ないし、可能な限りしたくない。

現状、世間的にはまだお付き合いをしているだけの状態なので

自分自分収入でほそぼそとくらし、相手生活保護を受けて、離れて暮らしている。

月に数度会うが、それもどちらかといえばこちらが経済的時間的に不利を許容している状態だ。

自分現在仕事に誇りを持っており、幼少から憧れていた職業でもあるため

結婚相手子供のために、職業を変えて収入を増やして、全て自分がなんとかするぞ!という部分までには至れない

これははっきりいって、ワガママといわれても仕方のない部分ではあると思う。しかし曲げるつもりはない。

副業をしているが、これについてもほそぼそとした貯金を補助する程度のものであり、

どれだけ考えをひねっても、宝くじ一等でも当たらない限り、相手にも月に数万円だけでもいいので、なんらか収入を得てもらわなければ

これから一緒に暮らして、子供をもうけて、まともな教育をうけさせて…という、フツーの幸せは望むべくも無いだろう。

(なお、これは自分が考えるところのフツーの幸せであり、幸せとはなにか、という議論をしたいわけではないのはご留意いただきたい。)

お互いの趣味をやめる。好きな職業も捨てる。金を暮らし次世代のことのためだけに使う。

こういう選択肢をとれば、生きていないこともないが、それは果たして幸せなのだろうか。昭和歌謡世界でもあるまいし。

そんなことを話し合いたくて、ついこの間も些細な話題きっかけにやりとりをしたが、結局暖簾に腕押しであった。

そこから連絡が途絶えて、メッセージ既読無視状態だ。

ここまでの経験から、これは怒ってこちらを無視しているのではなく、鬱症状で他者とのコミュニケーションを断っている段階だということは知っている。

というか、怒って言い合いになるならまだいいものの、塞ぎ込まれしまって、ちっとも話し合いにならないのだ。

正直言って、まるで10代の若者交流しているかのような、不安定かつ計画性の無い生き様に、ココ数日でほとほと愛想が付きてしまった。

ガラスよりも脆いそちらの気持ちを気遣って、真剣な話をするのは今ではないとか、今だとか、そんな愚にもつかない思慮に脳のリソースを使いたくない。

というか、そういうタイミングを待ちつつ、すでに年単位で停滞した時間を過ごしているのである

いっそこの書き込みを見て、自分のことだと確信して、悔い改めなくてもいいから、

こちらを悪口いいの人でなしと罵り、きっぱり縁を切るきっかけにでもなればいいと思う。

結局自分としても、ここで相手を直接的に傷つける言葉を使って、

自分たちには将来がないからコレ以上は時間無駄だ。別れよう。

こういったことをこちらが切り出して、罪悪感を抱えたくないというのも、踏ん切りをつけられないことの一因なのだと思う。

収入面を除けば、素直でいい人なので、誰かオカネモチの方はあの人を幸せにしてあげてください。

自分人の力ではきっとムリなので。

数日後、なにかのきっかけで和解しないとは限らないが

いつまでも将来へと抱えた不安ごまかし続ける状態改善されるとは、到底思えない。

現時点で今はただ、こんなことになってしまって、お互い時間無駄にして申し訳ないと嘆くばかりである

2021-03-17

anond:20210317171544

時間概念というか歳月の積み重ねを忘れてない?

年間300作品✕60年でもだいぶ範囲広がるでしょ

2021-03-13

拝啓ブサヨ

私が中国ウイグル問題周辺国への侵略行為など問題視し批判しはじめてから早十数年の歳月が過ぎました。

他国、とりわけ中国韓国批判する人間是全てネトウヨ也と息巻かれていた御仁方本日もお元気にされてますでしょうか。

さて、私達の出逢いと致しましては、私が中国の脅威を口にすればネトウヨ妄言だの中国脅威論()だのと小馬鹿にされたところからでした。ネトウヨ低所得層中年中国韓国の目覚ましい経済発展嫉妬してるだけと言ううんこがなぜか定説となったり、本当に輝かしい良き時代でしたね。

ですがそれがここ数年、世界的に中国悪事問題視されてしまうと言う情勢となりまして、大変嘆かわしい事に御仁方はすっかり変わられてしまいました。

今日にはもはや中国の脅威を批判するだけの人間ネトウヨと罵る御仁は居ないばかりか、左派は昔から中国批判しているとアリバイ作りさながら鞍替えされる様や、何故だかネトウヨと言う人間は『トランプ元大統領安倍元総理を盲信するあまり彼らが行いたかった独裁政治を実現させている中国嫉妬で叩いているだけの存在』とよくわからない時空を超えた糞ニッチ集団ネトウヨとされる様が見られ、散々ネトウヨ認定して頂けた私と致しましてはそのブレ様、大変遺憾に思います

過去ネトウヨの定義ではネトウヨを叩けなくなったからと言ってフレキシブルに且つセレクティブにネトウヨの定義を変え、過去ネトウヨとした人間一方的に見棄てるのはあまりに身勝手ではないでしょうか。

かに仁方ネトウヨ批判すると言う芯だけは強く感じられますが、文言そのままに解釈を変えて運用すると言うどこかで聞いた悪事に御仁方も手を染められてしまったのでしょうか。

どうか昔のように中国批判ネトウヨと息巻いてくださいませんでしょうか。

あの頃のように世界が息巻く中国脅威論をネトウヨと見下してくださいませんでしょうか。

どうか糞ニッチ集団心中なされる前に、ご再考よろしくお願い申し上げます

P.S.

私もトランプは糞野郎だと思ってました

コロナ禍ではありますが、これが明けた際には上手い酒でも酌み交わしましょう

親愛なるネトウヨより

2021-03-08

[]エヴァンゲリオンを終わらせられた

シン・エヴァを観た。

自分はちょうど14歳ときエヴァンゲリオンのTVシリーズを見た。エヴァ自体存在とすごいらしいということは知っていて見るのが楽しみだった。実際すごかった。その後友達に旧劇を借りて見た。すごかった。全然意味からなかったけど。でもすごかった。

そこからエヴァゲームやったり二次創作創ったり読んだりとかは特にしなかった。貞本義行漫画版は4巻まで買ってそこで止まった。

新劇序が公開されるときも偶々友達に誘われて初日に観ることになった。エンタメに寄った内容で好みだった。

破が公開されたとき初日に一人で、映画館近くの漫画喫茶に泊まって5時ころから並んだ。そこまでした理由は覚えてない。このときはまだエヴァンゲリオンというコンテンツにそこまで囚われていないと思う。破は結局劇場で3回、地上波で2回観た。

Qも一人で初日に観た。破が大好きだったのでQはどうにも刺さらなかった。乳の大きなマリエッチだなと思う。

そこから約8年経ち公開されるかと思いきや延期され、さらに延期され、ついにシン・エヴァンゲリオンが公開された。ついに終わるということでやっぱり楽しみだった。すんんごく楽しみだった。

ここからネタバレ





シン・エヴァはQの直後からまり、Qには出てこなかったトウジケンスケ委員長が出てきた。えっ、死んでたんじゃ……?しかもトウジと委員長結婚して子供まで?アスカケンスケをケンケンって呼んでる。

…………。………………。

……え?え??まって?ケンケン呼び???何があったの????14年の間に何があったの??シンジくんに対するアスカ思春期を感じるのに、ケンケンの前じゃアスカはなんだか大人だし、14年の歳月を感じる関係性だ。村に居づらいっぽいアスカなんでも屋をやっててちょっと離れたところに住んでるケンケンの家に居候している。ケンケンアスカの裸を見ても一切動じない。父性すら感じられる。シンジくんは裸見て吐いたのに(語弊がある)。なんならアスカケンケンセックスしてるまである?いやケンケンの方に父性を感じたので個人的にはないかなぁと思ったけど。Twitterでそう言ってる人がいたので。あとアスカさんパンツ見せすぎですよ。えっちですね。

シンジくんたちが回収されたコア化してない村には1000人くらい住んでて他にもそんな感じの集落があるそうな。意外にしぶといな人間って思った。そこで綾波は猫を知ったり田植えしたり田植え中に転んで泥まみれになったり蕪を洗ったり絵本読んだり赤ちゃん背負ったりプラグスーツのままお風呂に入ろうとして止められたりおいしいを知ったりありがとうを言ったり握手したりして人間性を得ていくんだけど、2021年綾波田植えしたりする衝撃映像を観ることになるなんて思う???かわいい!!!!!!!!!!!!!!!ポカ波もかわいいけどこっちの田植え波もかわいい!!!

凹み続けてるシンジくんを綾波が立ち上がらせてシンジくんはケンケンお仕事を手伝うんだけど、コア化解消実験みたいなことしてるとこでミサトさんと加持さんの息子が出てくんの!!!息子の名前リョウだってさ!14歳だって!!!ミサトさん破のときには妊娠してんじゃん!!!!!!でも加持さんはニアサーインパクトを止めるために死亡確定だってさ!!つら!!!!!!

ネルフで調整しないと長生きできない綾波シンジくんの目の前でLCLになって死ぬんだけど、シンジくんはこれまでのように激凹みをせず、ヴィレに戻ることを決意する。強くなったねえ。シンジくん強くなったよ。目元が赤くなってたからすごい泣いたんだろうにアスカケンケンの前では気丈で本当に強くなった。おじさんその強さに泣いちゃったよ。代わりに泣いちゃったよ。

ヴィレに戻ってからは鈴原サクラビンタされたり、艦隊戦やったり(燃えるぜ)、エヴァインフィニティと新(真?)弐号機と八号機が戦ったり、初号機の方から指先が2本くっついたようなキモい敵と戦ったりした後に、弐号機が十三号機に緊急停止プラグみたいのを刺そうとしたら弐号機自身が怯えてATフィールドプラグを止められちゃったらアスカ自身使徒化して結局プラグ刺せなくて、アスカの原型に魂持ってかれて、うんうんアスカと弐号機ってひどい目に合うのがいいよねニチャァってなった。

そんでまあミサトさん対話したシンジくんのとこで隣の人が泣いてた。私も泣いた。色々あって十三号機にのったゲンドウと初号機のシンジくんが槍を持って特撮のセットみたいな感じの世界で戦った後にシンジくんが対話選択するの。そこでゲンドウがどんな人間だったか、どれだけユイを好きだったか愛していたか、失ってから気付くユイによって色付けられた世界シンジくんへの贖罪と後悔がラフな画面と共に語られる。そしてシンジくんの向こう側にどれだけ探しても見つけられなかったユイを見つけ、電車を降りるゲンドウ。ああ、彼の物語はここで終わりなのだなと思った。そしてこれまでのエヴァンゲリオンは母の物語であり、シン・エヴァンゲリオンとは父の物語なのだなとも思った。

電車を降りたゲンドウに代わり、カヲルくんが出てくる。世界を作り変える力を持つ新しい槍でシンジくん(ごめんここ適当に言ってる)はカヲルくんを救済し、アスカを救済し、レイを救済する。このときTVシリーズ、旧劇などの要素を引っ張って本当にすべてのエヴァンゲリオンを終わらそうとする。私はこれを公式が出している旧シリーズ新劇漫画ゲームだけでなく二次創作に対してもエヴァンゲリオンは終わりだよ、卒業しようって言われてるように思った。カヲルくんは加持さん(とレイ)、アスカケンケンカップリングだよって言われちゃった気がした。私はCP厨ではないのでみんなが笑顔だったらそれでよかった。うん、よかったんだよ。きっとみんな幸せになってくれると思う。

そして、シンジくん。シンジくんはニアサーインパクトを止めた加持さんや新しい槍を送り出してくれたミサトさんのように、自身犠牲にして世界を作り変えようとするが、ユイが身代わりとなってシンジくんは現実へ送り出される。その後青くなった(青くなったんだよ!)海の前で座ってるシンジくんのところにマリがやってくる。10数年後、大人となったシンジくん(CV:神木隆之介)が駅のホームマリと一緒に歩き出す。そこがカップリングになるの!?とびっくりしたところでエンドロール

シン・エヴァンゲリオンを観て心がグチャグチャになって、観てからはふと涙が出そうになった。一度涙が出るとボロ泣きしそうだったか我慢した。そのときに思った。自分エヴァ呪いに掛かっていたんだって。そしてそれが解呪されたこともわかった。それがわかったらグチャグチャになってた心がスーッと楽になった。エヴァンゲリオンは終わったんだって思った。そしたらなんか書きたくなった。これ書いたら自分の中のエヴァンゲリオンが終わる。終わらせられる。やっぱり呪い掛かってたんだな。そんなことないと思ってたんだけどな。

記憶が怪しいし途中で力尽きてるし文章下手でここまで読んだ人いないと思うけど駄文時間使わせて申し訳ない。


以下思ったこと箇条書き

ニアサーインパクトを劇中で殆どニアサーって略してて、フフッとなった

清川元夢先生間に合ってよかった。本当によかった

・予告に使われた映像が本編でも使われてたのがおもしろい。見たことあるやつだ!!ってなる。いや世の嘘予告いい加減にせーよw

エヴァ世界やっぱりループしてたね

マリイスカリオテマリアって冬月先生に呼ばれてたけどなんて???

・破の「行きなさい!シンジ君!誰かのためじゃない、あなた自身の願いのために!」が劇中使われてて、いいシーンなのにちょっと笑っっちゃったの本当によくない。そしてそれは劇中で昇華されたのがよかった

2021-03-07

村上春樹文章は「うまくはないが読みやすい」(補足あり)

https://note.com/historicalmoc/n/n284957b96801

出したな! 俺の前で! 村上春樹文章の話を! 

村上春樹作品はほぼ読んだので大体同意だけれど、肝心の文章について全く語られていないのは片手落ちしか言いようがない。こういう何かを語っているようでその内実がわかりにくい言葉を並べるからハルキストだのなんだの揶揄られるんだ。ファンなら真面目にやれ。村上春樹以外の人間村上春樹の真似したら中身がない駄文しかならないって小学校で教わらなかったのか。

つーか村上春樹文章別にうまくねえから。特徴的で読解大好き人間ほいほいってだけ。

  1. リズムがあり、断定調である(巧くはないが読みやすい)
  2. 比喩表現を多用し、不思議モチーフをたくさん取り入れるが、書いてることの中身について説明しない
  3. めちゃくちゃはっきりした含意が含まれていることがある(ないこともある)

というこの3点が村上春樹文章もっとも印象に残る要素である。本気で語るなら時期によっての文体の変化とか、もっといえば情景描写についてもまとめたいのだけれど、とりあえず書き散らす。なお、3に関しては他作品に関する読解を含み、ひとによってはネタバレ解釈しうるものも混じるので注意。

1.リズムがあり、断定調である(巧くはないが読みやすい)

実例を挙げてみる。

四月のある晴れた朝、原宿の裏通りで僕は100パーセント女の子とすれ違う。

正直言ってそれほど綺麗な女の子ではない。目立つところがあるわけでもない。素敵な服を着ているわけでもない。髪の後ろの方にはしつこい寝癖がついたままだし、歳だってもう若くはない。もう三十に近いはずだ。厳密にいえば女の子とも呼べないだろう。しかしそれにもかかわらず、3メートルも先から僕にはちゃんとわかっていた。彼女は僕にとっての100パーセント女の子なのだ彼女の姿を目にした瞬間から僕の胸は地鳴りのように震え、口の中は砂漠みたいにカラカラに乾いてしまう。

村上春樹4月のある晴れた朝に100パーセントの女の子に出会うことについて

1文1文が短い。技巧的な表現を使うわけでもない。文章から浮かんでくるイメージ閃烈鮮烈なわけでもない。日常語彙から離れた単語を使うこともない(「閃烈鮮烈」とか「語彙」といった単語が読めない人間は思いの外多いからな。ここでの「外(ほか)」とか/悪いATOKに頼りすぎて誤用なの気づいてなかった。指摘ありがとう)。ただただ「シンプル」だ。わかりやすい。

また、冒頭の1文の次にくるのは「~ない」で終わる文章連続だ。テンポがいい。あと、どのくらい意図的なおかわからないが、↑の文章音読していみると適度に七五調がまじっているのがわかる。そして、大事なところで「彼女は僕にとっての100パーセント女の子なのだ。」という断言を入れる。リズムで読者を惹きつけた上ですっと断定されると、その一文がすっと印象的に刺さってくるのである

まり別にうまい」わけじゃないんですよ。ただ「読みやすい」。それにつきる。読みやすい以外の褒め言葉あんまり信用しちゃいけない。「うまさ」って意味なら村上春樹をこえる作家なんてゴマンといるし、村上春樹の「文章」がすごいなんてことは絶対にない。うまいとか下手とかを語るならナボコフあたり読んだ方がいい。

とはいえ個人的な所感だと、この「読みやすさ」は村上春樹発見あるいは発明した最大のポイントだ。「リズムがよくわかりやす文章で圧倒的リーダビティを獲得する」という、一見してみんなやってそうでやっていない方策村上春樹が徹底しているせいで、誰でも座れそうなその席に座ろうとすると村上春樹と闘わなければならない。

2.比喩表現を多用し、不思議モチーフをたくさん取り入れるが、書いてることの中身について説明しない

で、そのあとにくるのが「彼女は僕にとっての100パーセント女の子なのだ彼女の姿を目にした瞬間から僕の胸は地鳴りのように震え、口の中は砂漠みたいにカラカラに乾いてしまう。」という文章である村上春樹比喩表現は独特で、たとえば『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』を適当パラパラめくって見つけた表現として、「不気味な皮膚病の予兆のよう」「インカの井戸くらい深いため息」「エレベーターは訓練された犬のように扉を開けて」といったものもあった。この、比喩表現の多様さは彼の最大の持ち味であり、真似しようにもなかなか真似できない。

そして何より、「100パーセント女の子である。何が100パーセントなのか、どういうことなのか、この6ページの短編ではその詳細が説明されることはない。ただ、語り手による「彼女は僕にとっての100パーセント女の子なのだ。」という断定だけが確かなもので、読者はそれを受け入れざるをえない。それはこの短編に限らない。「かえるくん、東京を救う」におけるかえるくんとは。『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』における〈世界の終わり〉とは。「パン屋再襲撃」はなんでパン屋を襲うのか。「象の消失」で象はなぜ消失するのか。「レーダーホーセン」でどうして妻は離婚するのか。羊男ってなに。

こういった例には枚挙に暇が無い。文章単体のレベルでは「読むことはできる」のに対して、村上春樹小説比喩モチーフ物語様々なレベルで「言っていることはわかるが何を言っているかがわからない」ことが、ものすごく多いのだ。

3.めちゃくちゃはっきりした含意が含まれていることがある(ないこともある)

じゃあ、「村上春樹作品ふわふわしたものを描いているだけなのか?」と言えば、そんなことはない。村上春樹作品には「答えがある」ものが、地味に多い。

たとえば、「納屋を焼く」という作品がある。ある男が恋人の紹介で「納屋を焼く」のが趣味だという男性出会いふわふわした会話をして、ふわふわとした話が進み、語り手は時々恋人セックスをするが、そのうち女性がいなくなる。読んでいるうちは「そうか、この男は納屋を焼いているのか」という、村上春樹っぽいよくわからないことをするよくわからない男だな……という風に、読んでいるうちは受け入れることができる。

だけれど、この作品問題は、「納屋を焼く」とは「女の子を殺す」というメタファー可能性がある……ということを、うっかりしていると完全に読み飛ばししまうことだ(あらすじをまとめるとそんな印象は受けないかも知れないが、本当に読み落とす)。それが答えとは明示されていないけど、そう考えるとふわふわとした会話だと思っていたものが一気に恐怖に裏返り、同時に腑に落ちるのである

その他、上記の「レーダーホーセン」においてレーダーホーセンが「男性にぐちゃぐちゃにされる女性」というメタファーでありそれを見た妻が夫に愛想をつかした、という読みが可能だし、「UFO釧路に降りる」でふわふわゆきずりの女と釧路に行ってセックスする話は「新興宗教勧誘されそうになっている男」の話と読み解くことができる(『神の子どもたちはみな踊る』という短編集は阪神大震災地下鉄サリン事件が起きた1995年1-3月頃をモチーフにしている)。

勿論、これらはあくまで「そういう解釈可能」というだけの話で、絶対的な答えではない。ただ、そもそもデビュー作『風の歌を聴け自体断章の寄せ集めという手法をとったことで作中に「小指のない女の子」の恋人が出てきていることが巧妙に隠されていたりするし(文学論文レベルガンガン指摘されてる)、「鼠の小説には優れた点が二つある。まずセックス・シーンの無いことと、それから一人も人が死なないことだ。放って置いても人は死ぬし、女と寝る。そういうものだ。」と書かせた村上春樹がその小説の中で実は死とセックスに関する話題を織り込みまくっている。近作では『色彩をもたない田崎つくると、彼の巡礼の年』で○○を××した犯人は誰なのかということを推測することは可能らしい。

何が言いたいか

まり村上春樹は信用できないのである

たとえば、『ノルウェイの森』で主人公自分のことを「普通」と表現する箇所があったが、村上春樹作品主人公が「普通」なわけない。基本的信頼できない語り手なのだ。信用できないからしっかり読み解かないといけないようにも思える。

(なお、なんなら村上春樹自分作品について語ることも本当の部分でどこまで信用していいのかわからない。「○○は読んでない」とか「××には意味がない」とか、読解が確定してしまうような発言はめちゃくちゃ避けてる節がある)

ただ、勿論全部が全部そうというわけじゃなく、羊男とかいるかホテルって何よとかって話には特に答えがなさそうだけれど、『海辺のカフカ』『ねじまき鳥クロニクル』『1Q84』あたりは何がなんだか全くわからないようにも見えるし、しかし何かを含意しているのでは、あるいは村上春樹本人が意図していないことであっても、読み解くことのできる何かがあるのではないか、そういう風な気持ちにさせるものが、彼の作品なかにはある。

このように、村上春樹メタファーモチーフには、「答えがあるかもしれない」という点において、読者を惹きつける強い魅力があるのである

増田も昔は村上春樹を「雰囲気のある作家」くらいの認識で読んでたんだけど、『風の歌を聴け』の読解で「自分作品ちゃんと読んでないだけだった」ということに気づかされて頭をハンマーで殴られる経験してから村上春樹には真面目に向き合わないと良くないな」と思い直して今も読み続けてる。

……なお、それはそれとして、セックスしすぎで気持ち悪いとか(やれやれ。僕は射精した)、そもそも文章がぐねぐねしてるとか(何が100パーセントだよ『天気の子』でも観とけ)(なお「4月のある晴れた朝に~」が『天気の子』の元ネタひとつなのは有名な話)、そういう微妙な要素に関して、ここまで書いた特徴は別にそれらを帳消ししてくれたりする訳じゃないんだよね。

たとえば『ノルウェイの森』は大多数の人間経験することの多い「好きな人と結ばれないこと」と「知人の死を経験し、受け入れること」を描いたから多くの人間に刺さったと自分は思っているが、だけどそれが刺さらない人だって世の中にはたくさんいるのは想像に難くない。

から、嫌いな人は嫌いなままでいいと思う。小説は良くも悪くも娯楽なんだから

余談

マジで村上春樹論やるなら初期~中期村上春樹作品における「直子」のモチーフの変遷、「井戸」や「エレベーター」をはじめとした垂直の経路を伝って辿り着く異界、あたりが有名な要素ではあるんだけれど、まあその辺は割愛します。あと解る人にはわかると思いますがこの増田元ネタ加藤典洋石原千秋なので興味ある人はその辺読んでね。

文章うまい」に関する長い補足(「小説文章」に限定

「うまくない」って連呼しながら「『うまい』のは何かって話をしてないのおかしくない?」 というツッコミはたしかにと思ったので、「この増田が考える『うまい』って何?」というのを試しに例示してみようと思う。村上春樹に対する「別に文章うまくない」とはここで挙げるような視点からの話なので、別の視点からのうまさは当然あってよい。

小説家の文章が読みやすいのは当たり前だが、「文章が読みやすい」なら「文章が読みやすい」と書けばいいのであって、わざわざ「文章うまい」なんて書くなら、そこでの文章」は「小説じゃなきゃ書けない文章であるはずだ。

じゃあ、増田が考える「(小説の)文章うまい」は何か。読んでる間にこちらのイメージをガッと喚起させてくるものが、短い文章のなかで多ければ多いほど、それは「文章うまい」と認識する。小説のなかで読者に喚起させるイメージ情報量が多いってことだから

具体例を挙げてみる。

 長い歳月がすぎて銃殺隊の前に立つはめになったとき、おそらくアウレリャーノ・ブエンディーア大佐は、父親に連れられて初めて氷を見にいった、遠い昔のあの午後を思い出したにちがいない。

 そのころのマコンドは、先史時代怪獣の卵のようにすべすべした、白く大きな石がごろごろしている瀬を澄んだ水がいきおいよく落ちていく川のほとりに、竹と泥づくりの家が二十軒ほど建っているだけの小さな村だった。

ガルシアマルケス百年の孤独』の冒頭。大佐子どもの頃を回想して大昔のマコンドに話が飛ぶ際、「先史時代の」という単語を選んでいることで文章上での時間的跳躍が(実際はせいぜいが数十年程度のはずなのに)先史時代にまで遡るように一瞬錯覚する。

津原泰水バレエメカニック』1章ラスト昏睡状態のままで何年も眠り続ける娘の夢が現実に溢れだして混乱に陥った東京で、父親世界を元に戻すために夢の中の浜辺で娘と最期の会話をするシーン。

「お父さんは?」

「ここにいる」君はおどける。

彼女は唇を尖らせる。「五人兄弟の」

「さあ……仕事で遠くまで出掛けているか、それとも天国かな。お母さんがいない子供は いないのと同じく、お父さんのいない子供もいない。世界のどこか、それとも天国、どちらかに必ずいるよ」

 彼女は君の答に満ち足りて、子供らしい笑みを泛べる。立ち上がろうとする彼女を、君は咄嗟に抱きとめる。すると君の腕のなかで、まぼろしの浜の流木の上で、奇蹟が織り成したネットワークのなかで、彼女はたちまち健やかに育って十六の美しい娘になる。「ああ面白かった」

 理沙は消え、浜も海も消える。君は景色を確かめ自分腰掛けていたのが青山通り表参道形成する交差の、一角に積まれ煉瓦であったことを知る。街は閑寂としている。 鴉が一羽、下り坂の歩道を跳ねている。間もなくそれも飛び去ってしまう。君は夢の終焉を悟る。電話が鳴りはじめる。

作中の主観時間にしてわずか数秒であろう情景、ありえたかもしれない姿とその幸せ笑顔から夢のなかで消えて一瞬で現実に引き戻すこの落差、そこからまれる余韻の美しさですよ。

あるいは(佐藤亜紀小説ストラテジーから受け売りで)ナボコフ「フィアルタの春」という小説ラスト

フィアルタの上の白い空はいつの間にか日の光に満たされてゆき、いまや空一面にくまなく陽光が行き渡っていたのだ。そしてこの白い輝きはますますますます広がっていき、すべてはその中に溶け、すべては消えていき、気がつくとぼくはもうミラノの駅に立って手には新聞を持ち、その新聞を読んで、プラタナスの木陰に見かけたあの黄色自動車がフィアルタ郊外巡回サーカス団のトラックに全速力で突っ込んだことを知ったのだが、そんな交通事故に遭ってもフェルディナンドとその友だちのセギュール、あの不死身の古狸ども、運命の火トカゲども、幸福の龍どもは鱗が局部的に一時損傷しただけで済み、他方、ニーナはだいぶ前から彼らの真似を献身的にしてきたというのに、結局は普通の死すべき人間しかなかった。

ふわーっと情景描写ホワイトアウトしていって、最後にふっと現実に引き戻される。この情景イメージの跳躍というか、記述の中でいつの間にか時間空間がふっと別の場所に移動してしまうことができるというのがナボコフの特徴のひとつである

散文として時間空間が一気に跳躍して物語世界を一気に拡張してしまう、この広がりを「わずかな文章」だけで実現していたとき増田は「文章うまい」と認識する。自分村上春樹文章を「うまくない」って書く時、そのような意味での「小説としての文章」を判断軸にしてた。

村上春樹は下手ではない。村上春樹に下手って言える人いるならよっぽどの書き手だし、その意味村上春樹に関しちゃ言うことはないでしょう。しかしごく個人的私見を言えば、「文章」って観点だと、文章から喚起されるイメージに「こちらの想像を超えてくる」ものがめちゃくちゃあるわけではないと思う。

日本語文法に則りシンプルで誤解の生まれにくい文章を書くことは高校国語レベル知識可能で、その点村上春樹文章プロとしてできて当たり前のことをやっているに過ぎない。平易な文章を徹底しつつその内実との間に謎や寓話モチーフを織り込んで物語を構築するところがすごいのであり、そこで特段褒められるべきは構成力や比喩表現の多様さだろう。その際に使うべきは「構成力がうまい」でも「比喩表現うまい」であって、「文章」などという曖昧模糊とした単語で「うまい」と表現することはない。小説=散文芸術において「文章うまい」と表現しうるときもっと文章としてできることは多いはずなので。そして、このことは、村上春樹がしばしば(「小説」ではなく)「エッセイ面白い」と言及されることと無関係ではない。

ちなみに、増田津原泰水ナボコフ文章技巧には翻訳村上春樹じゃおよぶべくもないと思ってるけど、面白いと思うのは圧倒的に村上春樹ですよ。技巧と好き嫌いは別の話なので。

ここで書こうとした「うまさ」は佐藤亜紀がいうところの「記述運動」を増田なりに表現したもので、元ネタ佐藤亜紀小説ストラテジー』です。

2021-03-04

エヴァは25年の月日に潰された

1月22日、娘の前でエヴァ一挙放送の「破」を見ていた。

エヴァについて色々質問してくる娘に答える。昔流行ったアニメであること。今も作られ続けていて、今度ようやく完結すること。画面の中で動くキャラ名前兵器のこと。あれこれと説明していく私の横で、娘は一言こう言った。

面白い?」

私は答えられなかった。あらためて新劇場版を前にして、序を見ても、破を見ても、浮かんでくるのは「懐かしい」「キャラかわいい」という感想だけで、「やっぱり面白いな」という感覚が私の中になかったのだ。1995年テレビ版と2007年の序を観た時には確実に心にあったものが、今はすっかり抜け落ちていた。

一体私は、あのアニメの何を楽しんでいたのだろうか?

1995年当時、エヴァ社会的にヒットした理由は「新奇性」なのだと思っている。暗い世界観、謎に満ちたストーリーコンプレックスを抱えたキャラクター、迫力の戦闘シーン、人間ドラマ、そして何より「空気感」。

後世に残る大ヒットをかまし作品は、往々にしてその時代の空気感を反映している。エヴァというものは今までに無かったもので、そこに震災やらオウムやら世紀末やらといった「世相」が絡まっていた。1995年に生きた人間しか分かり得ない何かがあって、でもそれは2021年からは振り返れない何かであって、その熱量が本物だったから、エヴァ時代を超えるアニメになったのだと思う。

当時小学生だった私は、エヴァの裏にある複雑なストーリー理解していなかったが、「何か凄い」という感覚だけは頭の中にずっと走っていた。それは私よりずっとずっと大人の人も同じ感覚だったのだろう。「〇〇みたいなアニメ」という枠で語れない、それが新世紀エヴァンゲリオンであった。

新奇性がそこにあった。時代先駆者となれたからこそ、25年も続くアニメリーズが作られ続けたのだ。

しかし、今は違う。エヴァンゲリオンフォロワーは世の中に多く溢れかえり、設定も、キャラクターも、その後に続くフォロワー達の中に埋もれていった。アニメ表現自由になるにつれて、「エヴァっぽさ」は1995年という文脈から独立して一人歩きを始め、当時の世の中を取り巻いていた空気は、25年の歳月の中で霧散していた。

スペースオペラ金字塔を打ち立てたスターウォーズが、新三部作で散々な評価を受けたように、またオープンワールドの先駆けたるシェンムーが、20年の時を経てリリースされた3で大ゴケしたように、時代先駆者は、往々にしてその後のフォロワーから突き上げあい自分立ち位置時代性を見誤る。オリジナルからブラッシュアップを得たフォロワー達は、技術進歩と数の恩恵を受け、先駆者時代遅れへと追いやっていく。

それでも、先駆者は死なない。死ぬのは2番手以降の粗製品だ。一番乗りにはブランドと、話題性と、そして神話があるのだ。

その神話エヴァにおいては非常に重かった。定期的(と言えるか微妙な間隔)に公式から供給がある。あのころファンは存命で、まだ強い熱量を持っている。そして何より、エヴァはまだ完結していないのだ。

しかし、序からでさえ14年経った。もう時代遅れなのではないだろうか。2021年空気感を捉え、エヴァを完結へと導くには、あまりに長すぎる時が経ってしまったのではないだろうか。私は一挙放送でそう感じてしまったのだ。

それは私が大人になったからなのかもしれない。色々な作品を観てきたうちに、珍しさも目新しさも感じなくなり、エヴァのものへの興奮が薄れてきたからかもしれない。

隣に座っていた娘におそるおそる聞いて見た。「エヴァ面白いと思う?」

「うん、面白いよ、きれいですごいし」

私が子どもときに抱いた感想と同じであった。娘は娘で、エヴァを「なんかすごい」ものだと思っている。

子ども面白さに敏感だ。面白いものを前にしているときは、外から分かるぐらいはっきりと目がキラキラする。しかし、画面の前に座っていた娘の目は、Youtubeを見ているいつものときとあまり変わらなかった。

娘は派手なシーンでよく「すごい」と言う。それは恐らくアクション映画を観る感覚であり、一瞬一瞬のパーツの面白さを味わっているのだろう。TwitterTikTok動画のようなインスタント面白さが、ハイテンポで繰り返される、その状態をすごいと表しているのだと思う。

「〇〇とどっちが面白い?」口にしかけた言葉はすんでのところで飲み込んだ。

Twitter散見された感想も、ほとんどはキャラクターへの感情だけであり、ストーリーや、世界観や、その他色んな「エヴァらしさ」に触れている人はあまりいなかった。ハッシュタグを追って見ても、あのころを懐かしむ意見ばかりで、新たにエヴァ世界に参入してきた人は見かけなかった。

もう、そこには「新奇性」は無いのだ。世界観も、メカニックも、専門用語の羅列によるバトルシーンも。何なら綾波アスカといったキャラクターすら、無数のフォロワー達によって「よくあるもの」となっていた。新世から20年経ち、時代エヴァを完全に置き去りにしていた。

でも、エヴァはまだ死んでいない。新劇場版4部作、中でもアニメと大きく異なる3、4作品目、ここにまだエヴァが残されている。エヴァらしさのほとんどは時代によって風化したが、まだ、一番大きなものが残っており、ファンもそれを強く求めていた。

そして、その期待を受けて出来上がったのが他ならぬ「エヴァQ」であったのだ。

私は、エヴァQは残された「エヴァらしさ」を極限まで追求した結果生まれものだと思っている。その純化した素材は、考えられる限り最悪の料理を作り出したわけだが。

その「エヴァらしさ」とは何か?それは「意味不明さ」である

何も描かれていない背景の下でぐりぐり動くメカ声優と口調以外に面影のないキャラクター、そして「難解」というよりも「支離滅裂」なストーリー最先端だったアニメ表現は当たり前のものとなり、1995年空気感どころか、2012年当時の空気感すら作れていなかった。

エヴァとは何か?メカか、キャラか、ストーリーか?

制作者が出した答えは「意味不明さ」であった。

Qを観て、私は思ってしまった。目の前で繰り広げられる群像劇の一つひとつが、キャラクターの心情を深掘りするのではなく、制作者の考えたオ○ニーを少年少女に代弁させているだけのような気がしてしまったのだ。ただただ意味の無いセリフが飛ぶ奇妙な寸劇を眺めて、言い知れぬ不快感を覚えてしまったのだ。17年の集大成が結局ただのキャラ萌えであり、もうエヴァはとっくに時代に耐えられないのだと、そう感じてしまったのだ。

だけど、エヴァがどこかに向かって逸れていくのは、きっと仕方がないことだ。エンディングをぶん投げてから25年、今さらシンジ君がサードインパクトを止めて世界を救いました」では、ファンが許さない。時代が進むにつれエヴァは古くなっていき、それに反比例するようにハードルは上がっていく。

もう一度エヴァが築き上げたものを再構築し、あの熱狂を甦らせようと、制作者はエヴァらしさを突き詰め続けた。ただ、その先に、未来が無かっただけなのだ


一体私は、このアニメの何を楽しんでいたのだろうか?


3月8日、いよいよ新劇場版最終作が公開される。私も娘を連れずに観に行くつもりだ。

しかし、正直きちんと完結するとは思えない。毎週更新され続けたテレビアニメ版ですらまとめきれなかったのだ。たった4作で綺麗に締められるわけがない。

ただもし完結することがあったなら、ファンがかける言葉はきっと、「面白かった」や「つまらなかった」よりも、「完結おめでとう、お疲れ様なのだと思う。それはまるで野球選手引退試合のように、時代と戦い続けた者を称え、時代に敗れた者を見送る、そんな言葉がたくさん注がれるのだと、私は強く思っている。

2021-03-02

anond:20210302184157

いや、すべての日本人が9年もの歳月をかけて読むことになっている教科書という書物には、わかりやすい伝え方だの載ってるぞ

問題学校であって、国語時間に伝え方を訓練させる教員なんてごくごくごく少数で、だってその教員だってそんなこと習ってないし

何年前から同じ教育してやがると思ってらっしゃいますか、と

大学生になってから?おせーんだよどうせ意味も分からコピペで済ませるんだろ、めんどくさいんじゃねぇ、できねぇんだよ

はぁ詰んでんな

2021-02-06

彼氏セフレと会ってるかもしれん

彼氏には大学の時分から10年近くダラダラ繋がっているセフレがいる。

言うても元々私も男から告白スルーして身体関係から入って、それでも付き合って欲しいと言われて交際開始したぐらいだから割れ鍋綴じ蓋的な感じではあるけれども。

実は交際はじめる数日前に、後の彼氏と件の10セフレが外を一緒に歩いているのを見ている。

しかもその翌日男の家に行ったら風呂場にブラとパンツが干してあった。これは流石に笑った。

さすがにブラとパンツは隠した方がスマートでしょ笑、みたいな話をしたら焦って「あの子はただのセフレみたいなもので、別に好きとかないけどただ関係いから、なんとなく繋がってるだけ。年単位で会わないこともあるし。下着は知らなかった。向こうが勝手に洗って干してた」みたいに墓穴掘削しまくる言い訳をしてきた。

その時点では私とも付き合ってないから、別に他に女がいようといいっちゃいいんだが。

その付近で何度目かの交際打診をうけて付き合い始めた。

結局ブラパンは後日、本人が取りに来たらしい。

しかもその時家に泊まっていったと。でも男いわく何もしてないらしい。

まらせる時点でどうなんだと思ったが、何もしていないというならこれ以上言及するのも面倒くさい。

そもそも泊まったということを聞いてもないのに話すということは、本人がそれがアウト行為であるという認識がないと思っている可能性がある。

たまに特になにもしてなければ女友達家に泊めるぐらい問題なしって本気で思ってる男いる。余談だが。

10年続くってことは、それなりにウマがあって、超面食いの彼が会うだけの容姿があって、まぁ勝手家事されてもいいぐらいの、いい意味空気みたいな関係性なんだろう。

彼曰く、自分から会おうということはないし、何よりセフレとのセックスバカほどつまらない。暇な時に会おうと言われたら会うだけで、恋愛感情とかは何も無い、なんとなく長いからそのままズルズルいってるだけ、だそうだ。ふーん。

お分かりの通り、彼女にこんな話をしてしまうぐらいなので彼の下半身は緩い。

男は浮気する生き物って主張あるぐらいだからまぁお察し。

そしたらある日、彼のLINEトーク履歴一覧が見えてしまった。私と共通の友人とのトークを見せた時、一覧画面も見えた。あの10セフレからメッセージが入っており(LINEプロフ写真だけ酔った時に見せた貰ったので覚えていた)名前と部屋番号が入っていた。

息をするように自然に彼はそのトーク非表示にした。その不自然行為でうっかり目が釘付けになった。私は瞬間的にものを見て覚えるのが大変得意なので、すぐ10セフレであると気がついた。

特にその場では言及せずに、あとでさらっと「さっきトーク履歴消した〇〇ってあの10セフレ?」と聞いた。

え?あー、たまに飲もうってLINEくるんよ。間違えて既読つけたくないか非表示にした。

そうだ。へえ、ふーん。

てことは、彼女ができた旨を伝えていない可能性がある。もうここでピンと来たので、風呂を借りる時に洗面台の引き出しを開けた。

前見た時には無かった化粧品ジップロックに入って追加されていた。クロだ。何となくだけど、そのセフレのものだと思った。女性なら分かってくれると思うけど、その女が使っていそうなブランドのものなのだ

行為が始まろうと言う時に「最近、家に女の子泊めた?」と聞いた。当然、「泊めてないよ、なんで?」とばっくれたが、「ちょっとトイレ」と行ってその場を離れた。トイレと洗面台のチェックをして来たのだろう。

すまんが引き出し開けたわ、外には何も出てないか安心して欲しい。

何事も無かったように行為は再開したが、好き好き言われて毎日LINEきて、向こうから週5で会おうって言われてもまだセフレとは繋がってるんだなと思って、‪( ˙-˙ )スンッ‬となった。

そもそも向こうの部屋番号控えてあるということは自分から行くこともあるんだろう。

たまにLINE来る、という発言から何気に定期連絡はとっているのだろうし、そもそもどこかのタイミングで家に招いてる。

正直、10年続いたセフレってある意味元カノより厄介。もはや妻みたいなもんだ。

ぶっちゃけ自分も8年近くだらだらセフレと続いたことあるから感覚は分かるが、さすがに彼氏がいる時は連絡取らないし会いもしない。

とはいえ実際に現場を見たわけでもないし、化粧品も引き出しの整理したら元カノの出てきたって言われればそれまでだ。追求しても泥試合になるから何も言わない。ワンナイトの方が幾分かマシだ。でも10年という歳月はあまりに重い。

彼が私の事好きなんだろうなと言うのは、行動を見れば伝わるし、彼の友人からも言質とれているか特に疑ってはいない。人の気持ちなんて推察しかできないので疑っても詮無きことである

それでも会うのだから、余程なんだろうな。

最近彼のことが結構好きになってきていたので、普通に悲しい。

2021-02-05

anond:20210126022247

あの歌に共感してる側も叩く側もかわいいと思うよ?

叩いてる連中も共感性羞恥?=同調おこしてるんだと思うし

かわいい若者歳月の重みで例外なく擦り切れていくんだと思うとうれしくなってくる

弱者ジジイの俺がいるこっちまで堕ちて来いよ

見届け終わるまで長生きしないとね

2021-01-03

年賀状几帳面さを計る手段になっている。

今だに紙の年賀状を出しているが、もはや親しい相手に出しているというより真面目に返事をくれる人に出している状態になっている。

気がつけば20年以上前の元同僚とか、大学卒業してから一度も会っていない元クラスメイトとか、リアル全然会っていない人が多い。昔は職場で住所録が配られたので、同僚とかに出せたのだが、今は緊急連絡網などでお互いの携帯番号を知るのみとなっている。義理で出したくもない上司年賀状を出したりしなくて良いのはいいんだけど、人事異動とともに切れてしまうつながりが多すぎて、過去の知り合いだけに出している状態になっている。

中には私がしつこく毎年出すから仕方なく印刷したままで手書きメッセージなしの賀状を寄越す人もいる。そういう人は無理に出してくれなくても良いのだが、全然年賀状が来ないのも寂しいのでそのままになっている。私は家庭持ちの人が子どもと一緒の写真入りの年賀状を送って来るのがわりと好きで、「〇〇さんの家の子どもはこんなに大きくなったんだなぁ…」といつも感心する。自分子どもがいないので、子どもがいる人と歳月認識がかなりずれているんだろうとは思う。

リアルで会う機会の多い人は何かしらSNSでつながっていることが多いので、そこに新年の挨拶投稿して、お互いに「イイネ!」を押して新春の挨拶に替えてしまう方が早い。そこでも義理で「イイネ!」を押してくれる人や、私が「イイネ!」を押したからお返ししてくれる人が多い気はするが、年賀状に比べると手間も金もまりからないのでその点は良いと思う。

…ということで私の何となくそれなりに友だちがいそうな環境几帳面年賀状を送ってくれる人と何となくSNSで「イイネ!」を押してくれる人々に支えられている。特段の理由もなく、サシで「会おうよ」とか「遊びに行こうよ」と誘える人は全然思いつかないのは私の不徳の致すところなんだろうか。

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