はてなキーワード: 中央政治局委員とは
その愛弟子である胡錦涛さんもそのマインドを受け継いだのだろう
オープンマインドだった 胡耀邦・趙紫陽の時代(藤村 幸義)2011年4月
最近の中国は経済発展こそ著しいが、自由闊達な雰囲気はあまり伝わってこない。それどころか政治の民主化は遅れ、メディアへの規制は強まるばかり。経済面では国有企業の勢力が再び増している。なにか時代に逆行している印象もある。
これまでの経済発展方式を転換すると言いながら、実際には大胆な改革に踏み切れずにいるのも歯がゆい。改革・開放政策に着手してから30年余り。中国はいまいちど、この政策に着手したころ、胡耀邦・趙紫陽がリーダーシップをとっていたころのオープンで溌剌とした雰囲気を思い起こす必要があるのではないか。
胡耀邦に初めて会ったのは、北京空港だった。筆者が特派員として北京に赴任してまもない1979年の半ばころだったと記憶している。すでに前年末の党中央委員会議で、中央政治局委員・党中央宣伝部長への就任が決まっていたが、我々外国人記者の前には姿を見せていなかった。
背が低くて頭は三分刈りくらい、なんとも貧相な男が、突然筆者の前に姿を現した。にこやかに笑っている。すぐに、これがあの胡耀邦だと分かった。つまり、筆者が復活後の胡耀邦の姿を見た最初の外国人記者だったのだ。気がついた他の記者たちが寄ってきて、たちまちのうちに人垣を作ってしまった。
その後はとんとん拍子で出世していく。1981年6月に華国鋒のあとを継いで党主席に就任した(1982年9月には党主席制の廃止に伴い、新しく導入された総書記に就任)。
筆者がその自由闊達な人柄に直接触れたのは、1984年6月、日本経済新聞社が人民日報との交流をスタートさせ、北京に取材代表団を送り込んだ時だった。人民大会堂で、胡耀邦と会見するチャンスを与えられた。初めて会った時の貧相な感じは消え、頭髪も長く伸ばし、威風堂々としていた。
中国首脳との会見では、相手側に一方的に喋りまくられ、こちらから質問するきっかけを作りにくいのが通例だった。しかし我々は違った。儀礼的なあいさつは最小限にとどめ、日本経済新聞社の初代北京支局長だった鮫島敬治氏と筆者がタッグを組んで、次々と質問を繰り出した。
これに胡耀邦も応えてくれた。会見は予定時間を大幅に超え、1時間半にも及んだ。「今後10年間に外国から500億ドルの外資を導入してもいい」と、手に持った鉛筆を振りかざしながら、対外開放に積極的な姿勢をアピールした。
このやりとりがよほど気に入ったらしい。最後に胡耀邦は、同席した人民日報の秦川社長の方を向いて、「ことし秋に人民日報と日本経済新聞が共催してシンポジウムを開くように」と指示したのだった。秦川社長も驚いた様子だったが、すぐに同意し、その場で日中経済シンポジウムの開催が決まってしまった。
かくて1984年11月に「中国の対外開放政策と日中の経済・技術協力」をテーマにした日中経済シンポジウムが北京で開催された。筆者は当時、国際部デスクだったが、数カ月ほどその仕事を離れ、シンポジウムの準備にかかりっきりになったのを覚えている。シンポジウムのパネリストには、いま日本航空再建に采配を振るっておられる稲盛和夫・京セラ社長(当時)にも加わってもらった。
シンポジウム終了後には、胡耀邦と再び会見できた。年に2回も会ったことになる。メディアが単独で年に2回も中国首脳と会えたというのは、異例中の異例だった。
胡耀邦はこの時、韓国との直接貿易について「南北交流の進展を見ながら」との条件付きながら開始を示唆した。いまや中韓の貿易は大きく発展しているが、当時としてはかなり大胆な発言だった。我々との2回目の会談に胡耀邦も気を許したのかもしれない。
胡耀邦は1987年1月に総書記を解任されるが、日中経済シンポジウムは継続され、1988年11月に北京で第3回目が開催される。この時に会見したのが、胡耀邦の後任として総書記に就任した趙紫陽だった。
趙紫陽も胡耀邦に負けず劣らず、あっけらかんとしていて、オープンマインドだった。ブルジョワ的との批判を恐れずに、いち早く背広を着こなし、ゴルフ場にも通った。
ある時、明の十三陵近くのゴルフ場で趙紫陽とばったり顔を合わせたことがある。アウトの3番か4番だったろうか、ゴルフ場スタッフが駆け込んできて、「中国の偉い人がプレーするので、ちょっと待っていてほしい」と要請された。しばらくすると、趙紫陽がパターを手にしてやってきた。せっかちな仕草で、最後までボールを沈めずに、次のホールへと移動していってしまった。
会見では終始、ハイテンションだった。すでにこの頃になると、批判勢力の攻撃にさらされ、趙紫陽の政治的立場はかなり苦しくなっていた。会見が始まって間もなく、趙紫陽は付き人にビールを持ってくるように要求した。外国人との会見で、中国首脳がビールを飲むというのは、おそらく前例のないことだろう。約1時間の会見中にコップ2杯を飲みほした。ビールに力を借りなければ、思い切ったことも言えなかったのであろうか。この会見の半年後に、趙紫陽も天安門事件にからんで失脚してしまう。
●改革に前向きだった両首脳
胡耀邦失脚の際に、日中経済シンポジウム開催を独断で決めてしまったことが失脚の一つの理由になった、との報道もあった。しかしその後もシンポジウムは隔年開催で続けられ、日中交流の促進に役割を果たした。
胡耀邦、趙紫陽ともに、中国の古くからの悪弊を取り除き、新しい枠組みを作り上げようと一生懸命だった。やや性急なところがあったにせよ、常に前向きの姿勢を失わなかった。
中国はいま、経済成長の維持、インフレ抑制、投資から消費中心への構造転換、という3つの難題に直面している。ところがこの3つの中で、どうしても優先しがちなのは、経済成長の維持である。国際金融危機に際しても4兆元という巨額の財政投入によって、成長率を維持しようとがむしゃらになった。
その結果、GDPが日本を抜いて世界第2位となるなど、世界から大いに注目を浴びたのだが、半面でその後遺症ともいえるインフレに手を焼いている。ましてや、投資から消費中心への構造転換になると、対策が後手に回りがちで、ほとんど効果をあげていない。胡耀邦や趙紫陽のあの改革へのチャレンジ精神をいまいちど、思い返すべきだろう。
特に胡耀邦は清廉潔白なことでも知られていた。昨年4月、人民日報は温家宝首相が執筆した、胡耀邦を評価する論文を掲載している。その中で温首相は、「70歳を過ぎた胡耀邦が、食事や睡眠の時間も惜しんで人々の暮らしぶりを知ろうと、対話などに努めた」と胡耀邦の地方視察に同行した時の思い出を披露している。暖房が効かない宿舎に泊まって風邪をひき、高熱を出したが、それでも仕事を続けたという。胡耀邦がいま存命ならば、腐敗・汚職が蔓延している最近の中国政治に何と言うだろうか。
ふじむら・たかよし 1944年生まれ 67年日本経済新聞入社 北京特派員 論説委員などを経て2000年退社 現在 拓殖大学国際学部教授 著書に『老いはじめた中国』(アスキー新書)『中国の世紀 鍵にぎる三峡ダムと西部大開発』(中央経済社)など
※習派以外はほとんど引退という人事になった。習近平の独裁的地位が確立されたと見て良いのか?
ソースの記述は、wikipediaといくつかのニュースサイト、及び個人的観測に基づく。
習近平(最高指導者。中共総書記、国家主席、中共・中国中軍委(中央軍事委員会)主席)習近平派
王滬寧(中共中央書記処常務書記、中共中央精神文明建設指導委員会主任。党内の理論担当で元々は江沢民に抜擢された)習近平派
趙楽際(中共中央規律検査委員会書記)党大会代表資格審査委員会主席
この他に4名又は6名補充される?
韓正(国務院常務副総理)反対派?
※通常、元老として扱われる。元老としての序列は不明だが、おそらく栗戦書と李克強は温家宝の次、汪洋と韓正は末席に列するのではないかと思われる。
4 中央政治局委員以上(留任) ※記載は姓氏の簡体字画数の順
丁薛祥(中共中央書記処書紀、中共中央弁公庁主任、総書記弁公室主任、国家主席弁公室主任、中央・国家機関工作委員会主席)習近平派
張又俠(軍人(人民解放軍上将)、中共・中国中軍委副主席)習近平派
5 中央政治局常務委員会参加者(二十大以前の状況。この対偶が続くかは不明。王岐山は元老として扱われる資格がある)
王岐山(元常務委員、国家副主席)反対派?(元は習近平派)党大会開会式欠席
王晨(全人大常務委員会副委員長(序列1位)、元中共中央宣伝部副部長、元「人民日報」総編集)習近平派→引退
楊暁渡(中共中央書記処書紀、中共中央規律検査委員会副書記、国家監察委員会主任)習近平派
陳希(中共中央書記処書記、中共中央組織部部長、中共中央党校校長、国家行政学院院長。習近平とは大学で同室の親友)習近平派、党大会代表資格審査委員会副主席
陳全国(元新疆ウイグル自治区委員会書記、元新疆生産建設兵団党委書紀)団派(胡錦濤派)?習近平派?
郭声琨(中共中央書記処書紀、中共中央政法委書紀。司法のトップ)江沢民派。反対派?
胡錦濤(元最高指導者)団派(胡錦濤派)。反対派?党大会閉会式直前に追い出される
宋平(元常務委員。1917年生まれで建国以前からの共産党員。周恩来の秘書。胡錦濤や温家宝を抜擢。胡錦濤を江沢民の後継者に推薦)保守派。反対派?
張高麗(元常務委員)江沢民派。2021年に性スキャンダル発覚
8 その他
6月25日午後には、党中央政治局委員(トップ25)を全員引き連れて、北京西郊の北京大学に乗り込んだ。ここの「紅楼」で開かれている「光輝な偉業、紅色の序章―-北京大学紅楼と中国共産党早期北京革命活動主題展」を参観するためだ。
後述するように、100年前の中国共産党の指導者たち――陳独秀、李大釗は、北京大学を拠点にしていた。中国共産党創建は、1917年のロシア革命と1919年の大規模抗日運動「五四運動」が基点になっているが、「五四運動」は北京大学が「震源地」となっている。私はかつて北京大学留学時、構内の学生寮に一年住んでいたが、5月4日は大学の創立記念日になっていて、特別な日である。
習近平一行は続いて、豊沢園の毛沢東故居を参観した。毛沢東主席が1949年9月21日(建国の10日前)から17年、仕事と生活の場にしたところだ。
毛沢東主席を崇拝してやまない習近平総書記は、そこに飾られた毛沢東の服や読んでいた本などを、感慨深げに見つめていた。そして24人の中央政治局委員を狭い部屋に入れて、またいつものように後ろ手に組んで、腹を突き出して説教を始めた。
さらにまだ言い足りなかったのか、中南海(最高幹部の職住地)の懐仁堂へ戻って、再び長い重要講話を行った。その要旨は以下の通りだ。
「紅色こそが中国共産党であり、中華人民共和国の最も鮮明明瞭な色だ。わが国の960万㎢あまりの広大な大地に、紅色の資源は星の如く流布している。わが党が団結して、100年の努力の偉大な歴史過程の中で、紅色の血脈を代々継承し、中国人民を導いていくのだ。
第18回中国共産党大会(2012年11月開催で習近平総書記を選出した)以来、私は地方視察を重ね、わが党の重大な歴史的意義を持つ革命聖地、紅色旧跡、革命歴史記念場所など、主要な場所をあまねく仰ぎ見てきた。どこへ行っても、栄光の歳月を再確認し、党の苦難の歴史を回顧し、心が震撼し、精神的な洗礼を受けてきた。
中国共産党はなぜ能力があるのか、中国の特色ある社会主義はなぜ素晴らしいのか。それらは根本的なことを言えば、マルクス主義が正しいからだ。われわれは党の100年の努力の歴史から、真理のパワーを悟り、共産党の執政の規律と社会主義建設の規律、人類社会発展の規律への認識を不断に深化させ、マルクス主義を用いた真理の光芒が、われわれの前進していく道を照らすのだ。
全党は終始、理想の信念を堅持するよう教育し、導いていかねばならない。革命の理想は天より高いのだ。100年の党史を振り返れば、千々万々の共産党人は、理想の信念を頭に抱き、鮮血を撒き散らしてきた。共産主義はわが党の遠大な理想であり、この遠大な理想を実現させるため、必ずや中国の特色ある社会主義の信念を固めねばならない。
新時代の中国の特色ある社会主義の新たな勝利を不断に奪取するのだ。全党の同志は党の100年の努力の歴史の中から初心の使命を悟り、人民を中心とした発展思想をうまく貫徹し、中華民族の偉大なる復興の実現のため、初志一貫で奮闘するのだ。
全党が終始、教育的指導で自己革命の推進を堅持するのだ。わが党は100年の風雲を経て、依然として繁茂している。その奥義は具体的な自己浄化、自己改善、自己革新、自己能力の強大化にある。自己革命の精神は党の執政能力の強大な支えだ。
政治性、思想性、芸術性を統一させ、精品を作り出すのだ。史実説話を用い、表現力と伝播力を増強し、生き生きした紅色文化を伝播させるのだ。革命、建設、改革の各歴史の時期の重大な事件、重大な節目に関する教育を強化しなければならない。
確定した重要な標識の地を研究し、党の物語、革命の物語、英雄の物語をうまく語るのだ。それらを青少年の特長が認知された教育活動と合致させ、潤沢な特色ある革命伝統教育、愛国主義教育、青少年思想道徳教育吉を建設し、彼らが小さい頃から心の内に紅色の理想を樹立できるように導いていくのだ」