はてなキーワード: 世俗とは
※冒頭のお詫びとお断り:検索対策のために、略字を多用することになりました。読みづらくて申し訳ありません。
お勧めいただいた『R』、読了しました。小説を読むこと自体が、わたしには滅多にないことなので、読み出し当初は困惑しつつも、広大な小説世界に潜り浸るという新鮮な体験を楽しむことができました。作者NAの文体も、読み慣れてチューニングが合うようになると、とても心地よく感じました。そんな読書の幸いを少しだけ、感謝を込めて共有させていただけたらと、拙い感想をお届けいたします。ご笑覧いただければ嬉しいです。(わたしには本当に文才がないので、つぶやきの投稿のように、思いついた順番で書き散らかしまうことを、どうかご容赦ください。いわゆる「感想文」を期待されませんように…。)
『R』のなかに見出した、タイトルとなった人物RRと、修史を完成させたSS、そしておそらく、作者であるNAの、幾重にも折り重なった宿命との葛藤が、深く胸に響きました。読書中は熱い臨場感をもって読み進めていたのが、いま、こうして彼らについて語ろうとすると、静かに冷たく研ぎ澄まされた気持ちになるのは、なぜだかわかりません。書きながら、自分の感情を文字にして確認してみたいと思います。
RRが、内に抱えた矛盾を少しずつ自覚し、揺れていく様は、わたし自身も覚えがあり、とても身につまされました。B帝に誤解され、国に残した愛する老母も妻も子供も弟も、みな殺されてしまう。RRは、大いに怒り、忠誠を誓ったはずの国とのつながりを見失う。思い返せば、これまでR家の忠誠に国は報いてくれたことがあったかと疑い、むしろ辱しめを受けただけだと失望する。そして、首を取って戻るという目的を喪失したものの、よく似た身の上で、誰にも認められなくとも、国への愛情と忠誠を抱き続けたSBに、尊敬の念と敗北感を抱く…。
家族を殺された怒りの大きさのあまり、B帝に誤解させたであろう同姓のR将軍の「存在」を怒りの矛先として、即座に彼を殺害したRR。けれど、B帝の誤解の原因が本当にそうであるか、定かでないはず。B帝と同様に、RR自らの誤解の可能性が、R将軍の命を奪い、彼を愛した皇太后を悲しませたかもしれないことに思いは至らなかった。ただ怒りに身を震わせて、衝動的に行動してしまった。おそらくは、B帝がRRの裏切りだと誤解して、衝動的に一族皆殺しを命じたように。
たしかに、身分の違いによる命の重さの違いを当然とする価値観が、受け入れられていた時代だったかもしれません。それゆえ、別の場面では、砂漠の中、戦局が厳しく、少しでも確実に部隊を生き延びさせるために、RR自ら、部隊に男装して混じっていた妻たちを殺害する命令を、冷静に下したこともあった。同様に、愛する妻を殺された部下は、敵に寝返って、RRの部隊の勝機を完全に奪った…。
RRは、自分がされて苦しんだことを、他人に対して無自覚にしてきたということ。それゆえ、RRが直面した苦しみの本質は、因果応報で自業自得というメカニズム、…などでは「決して」ないと、わたしは思います。そもそも、RRの行動は、彼なりに状況に応じて最善と思われる選択をした結果でした。作者も、そんなRRを「悪」として描いてはいません(むしろ、宿命との格闘を活き活きと描写する姿勢には、愛情を感じます)。状況に追い立てられ、もがきながら生き延びてきた選択の愚かさを、もしも誰かが(分析好きのわたし自身が)指摘するなら、それは一生懸命さに対する揚げ足取りにすぎず、そもそも人間はそういう愚かな存在だし、渦中にあったら、わたしもそうしたはずだと(ましてや、さらに低きに流れていた可能性のほうが大きいと)、反論せずにはいられません。
SBと邂逅後のRRは、自らの抱える矛盾や二面性に気がついて、苦しみを深めます。B帝の死後、かつて望んだように、国から彼が認められ招聘が掛かるのですが、それを断る弱々しい(元気のない)声のRRが印象的です。RRは、ここでもまた無自覚で、言葉を結んでいないものの、自らを通じて、人間存在の内にある矛盾や二面性に、また国(人間社会)の内にある矛盾や二面性に直面して、途方に暮れているのではないかと、わたしには感じられました。さらにいえば、SBのように国への想いを貫ける強さも持ち合わせず、そのSBを羨望する弱い自分を恥ずかしく思うRRは、それゆえ人間の矛盾と二面性を丸ごと生きているのでしょう。RRの覚悟が悲壮であるとすれば、そのような自分に気づきつつも、両極に引き裂かれてどちらへも動けない苦しさゆえと感じました。正しい道はあまりに険しくて進めず、かといって居直ってダークサイドに落ちることもできないと自覚した以上、どっちつかずのまま生きながらえます(B帝の死後、7年目に没)。おそらくはRRも、自殺による幕引きを自らに封じた一人でした(文中では、現地での恩義や家族などのつながりをRRはあげていますが、対して、RRの祖父は、親のいない孫を残して、義憤から自死を選んでいます)。
ところで、RRは、自らとSBとを「隔てる根本的なもの」に直面し、自らへの「暗い懐疑」を自覚するに至るのですが、SSとの関係もまた非常に興味深いです。
SSは、RRの名誉を守ろうとしてB帝らに反駁し、結果、死よりも恥ずかしむべき宮刑を受けます。ところが、このことを伝え聞いたRRは、自らの沈む絶望が深く、SSに対して何の特別な感情も抱きません(し、そのようなクールなRRの反応を、SSは伝聞することもありません:そこに作者NAの優しさを感じます)。対してRRは、B帝のため国のために信義を尽くそうとするも、相手から誤解され、罰せられて一族が殺されたことを知り、大いに絶望して反転します。しかし、自らが、為を思って働いた相手に無碍にされることが、どれほど当人を傷つけうるかに、思い至りません(し、それも尤もだと説明を書き添える作者NAには、RRへの深い愛情を感じます)。
そんなSSですが、42歳にしてようやく父の遺言を継ぎ、修史の編纂に取り組むことが叶います。現代の人々に知らせるために記録するにとどまらず、人間の叡智として後世へ伝え残すための歴史、なにより自分自身が書き残したい歴史には、「人間についての探求」が不可欠だと考え、「述べる」と「作る」との違いを熟考する。しかし、真摯に取り組めば取り組むほど、歴史上の人物と自分自身とが渾然一体となるような文章、まるで描き出す歴史上の人物の中に自分が生きているような表現、憑依し憑依される活き活きとした文体が流れ出る。そうした箇所を削除すれば、たちまち修史はいくつもの死人に関する記録に成り下がる。削った字句を戻して、ようやく歴史上の人物たちが「安心してそれぞれの場所に」落ち着くように思われる。
このSSの創作風景に、作者NA自身の創作風景を重ねて見るのは、自然でしょう。わたしは、NAについてほとんど何も知らないけれど、この『R』やその他の彼の短編小説なども、歴史書を下敷きにして創作されたと(文庫巻末の解説に)目にしました。憑依し憑依される関係性のなかで、自らの書く小説の中に(のみ)活き活きとした自由を感じられたのは、SSだけでなく、NAもそうであったと想像します。
先を急ぐ前に、もうひとつSSについて。時代的・文化的な特徴と思われますが、宮刑を受けて「男」でなくなった自分の身体は、「完全な悪」に落ちたと苦しみます。心の傷は癒えても、醜悪な身体は、死ぬまで自分を苦しめる。それは、自分という存在そのものが、悪である証しであり、生きる限り続く恥辱だ、と。これが、「盲目的な獣」としての苦しみの段階です。(が、作者NAの有名な短編『S』では、狼へと変身して初めて思い至った気づきを、数日で通り過ぎてしまうあたり、作者NAが、SSに託した気持ちの大きさを思います。)
その後、SSは、我が身に降りかかった苦悩・人生への懐疑とは別の、意義を疑えない「畢生の事業」である修史に「無意識の関心」が向いており、それゆえ自ら死を選ぶことができないでいるとハッキリと自覚します。ここから、「より意識的な・人間」としての苦しみが始まります。この、獣から人間への飛躍が、とても深いことに感嘆しました!
「獣」と書いていますが、つまりは世俗の社会的価値観のなかで「盲目的に」生きている段階のことです。ここでは、「身体=身」と「心」という対比が支配しています(「身/心」という二元論で捉えられています)。舞台となった漢の時代的・文化的な特徴として、名誉や忠誠といった「心」を守り通すためには、人々は死を恐れず、むしろ喜んで「身体」を自ら差し出します。SSも、死刑を恐れてはいませんでした。しかし、醜悪な「身体」となったSSは、その恥辱から「心」を解放すべく死を願うも、それを押しとどめるものの存在を予感します。自宅に戻ると、それは父に託された修史編纂の完成であることを理解します。自らに刻み込まれた「宿命的な因縁」として、「肉体的な」仕事とのつながりを放棄できないことに改めて気づかされます。ここから、「より意識的な・人間の苦しみ」へと飛躍するわけです。
ところで、世俗の社会的価値観(=知覚や意識)は、SSの「心」=「我」と、「身体=身」とを形成してきたものです。しかし、託された使命への自覚は、既存の価値観にとって、おめおめと生き恥をさらすような人生を続けることを求めます。SSの抱く既存の価値観(=知覚や意識)にとっては、耐え難く、非情な要請です。そのため、「知覚も意識も」持たない、修史編纂のための「機械」に過ぎないと、(既存の価値観=知覚や意識で)自分を定義しなければ、自らに言い聞かせなければ、生き続けられなかったのだろうと思います。SSがSSであるという意識の土台となる「心」=「我」も、そのために捧げる「身体=身」も、当時の社会的解釈の上に成立してきました。この解釈にいつまでも安住できたら、まだSSの苦悩は浅かったかもしれません。「宿命的な因縁」、すなわち、いにしえから脈々と受け継がれて自分に生命(魂)を与えた血統のように、時代を超越した「肉体的な」つながり=使命(魂)への自覚は、SSに当然視してきた当時の社会的解釈に安住し続けることからの飛躍を求めたわけですから。「心/身」という二元論を越えて、使命を抱く「魂=肉体」として自らの存在そのものを捉え直すことは、当時の社会的解釈から、漢の時代的・文化的制約から、身を引き剥がすことでもあります。それは、昭和の時代から当時を見つめる、超越的な作者NAの視点でもあります。
ここで描かれたSSの姿は、作者NAの解釈したSSの苦悩であり、おそらくは、昭和の現実を生きて苦悩したNA自身の苦悩の姿であるのかと思います。作者NAもまた、病床のなか不遇のなかで「心」も「身体」も傷つきつつ、作家として生きる使命によって、自らの小説の中に「魂=肉体」を解き放したのかなと思いました。(ちなみに、「魂」という単語は、作者NAは使っていません。でも、明らかに、「身体」=「身」と、「肉体」というのを使い分けています。その差を強調するために、わたしが勝手に補ってみました。)
そういうわけで、困難な戦場を生き延び、また自らに暗く懐疑するRRも、自らの信じる正義を貫き、恥辱に苦悩しながら使命に生きるSSも、その抱えた宿命の重さにも関わらず、活き活きと自由に躍動する姿には、作者NAが重ねられているのだと思います。NAにとって、小説を書くことというのは、憑依し憑依されてその世界を生きることなのだろうと感じました。事実、『R』のなかで、RRとSSの二人について「だけ」、歴史上の人物としての事実の描写だけでなく、その場にあって思い感じたこと、彼らの知覚と意識まで作者は思い描き、詳細に語っています。(わたしは、新潮文庫を購入したのですが、その文末の解説に、『R』はRRとSSとSBの三人の物語だと紹介されていて、そりゃちょっと違くないか?と違和感を覚えました。それもあって、今回の読書では、基本的に予備知識なく、勝手に読んでいます。)
だからこそ、冒頭に書いたような「静かに冷たく研ぎ澄まされた気持ち」を抱いてしまうのかなと思います。RRやSSが抱えた宿命の重さも悲壮な覚悟も、作り物としてのフィクションではなく、また単に歴史を題材にした半分史実・半分フィクションといったものでもなく、作者NAが抱えたであろう実体験を(ノンフィクション、と片仮名で書くには軽すぎる経験を)、わたしはそこに感じたからだと思います。
作品は、読者の能力に応じて・読者がそこから読み取れるものしか、読むことができないのだろうと思います。(それゆえ、例えば同じ聖書であっても、子供が、若者が、大人が、死を前にした老人が、それぞれが自分に必要なものを、そこから読み取ることができるのだと思います。) だから、わたしが読むことができた『R』は、私の興味・関心に限定された、豊穣な作品全体のごくごく小さな断片に過ぎないと自覚しています。きっと、H.H.さんからしてみれば、幼い読み方だと笑ってしまわれるような感想だったかもしれません。それでも、この作品に出会えて、とても嬉しいです。作品を作ることに込める覚悟のようなものを、改めて考えるキッカケをもらえました。ありがとうございます。
最後に、『R』を読みながら、H.H.さんがそこに読み取ったであろう痕跡をいくつか感じました(例えば、存在することが悪であること、それでも書写機械として生きる覚悟をしたSSの中に)。そんな大切な小説を、紹介してくださって、本当にありがとうございます。とても光栄です。でも、もしかしたら上述した私の感想は、そんなH.H.さんの想いを、まるで現国の試験問題に答えるかのように切り刻み、分析し、曲解した失礼なものと映ったかもしれません。もし、不快な気持ちにさせてしまいましたら、本当に申し訳ありません。(あなたの真摯さに敬服するファンとしては、自分の正直で素直な感想を真摯に伝えるべきで、あなたのご機嫌を取るために媚びを売るような接し方こそ失礼なのでは、と勝手に考えてしまいました。決して、あなたを否定するものではありませんこと、ご理解ください。)
自分について思索する道を、Kさん=H.H.さんに教え導いてもらえたように感じています。あなたの魂=肉体の存在に、感謝します。(勝手なファンの願いであり、余計なお世話かと思いますが、だからこそ、どうかご無理をされず、くれぐれも心と身体を大切にしてください。) あなたの幸いを心からお祈りしています。
h_s
・同化パリーン→総士の目が金色になってたけど総士さんの身体って今どうなってんだろ…
・160cm45kgってみかみか細すぎない!?
・居心地悪げな一騎さん
・咲良「エースパイロットから激励の言葉があります!」一騎「嫌な命令なら聞かなくていい」
・島を信じられなくなって家出した人は言うことが違うぜ!
・シナスーを性的に見ちゃうの微笑ましい…そんないいもんじゃねえぞ…
・「みみかはあたしの宝物なんだ! おかしいだろ子供に守らせるなんて!」
・生還させられなかったどころか「一騎は皆城総士の仇を取って死ぬつもりだ!」とか見送ってたもんなお前
・痛みは皆城総士の祝福で、命は皆城乙姫の祝福というのがHEでの結論。では真壁一騎の祝福は?
・ああ~ホラ一騎さんの自殺志願始まったよ~総士をはよここへ!
・特にやることないからフラフラして家で土こねてるとかさすが史彦の息子! カレー作ってろお前は!
・KY「姉がこれ同じもの乗らってました! L計画のときに!」芹「」
・みかみかさんこれ最後の晩餐になるやつですねぇ~
・好きな女の写真をお守りに…礼央さんこれあれだわ道生フラグだわ
・鏑木さんち家族関係いびつすぎるだろ…もうこの子は島を守って早々に死んだほうが幸せだよ…
・でも総士がニヒト乗るんだからKYはジークフリードシステムなんだよなあ
①自分たちが不滅で不可欠だという感覚 「自らを批判し改革できない法王庁は病気だ」
③心が石のように頑固になること 「泣いている人と共に泣き、喜ぶ人と共に喜ぶ。人間的な繊細さを失うのは危ない」
④計画しすぎること 「計画を変更しない方が楽かもしれないが、神のみ心に従う自由を失ってはいけない」
⑤調和なく動くこと 「和が乱れれば、雑音が混じる楽団のようになる」
⑥妄執や誤った考えにとらわれること
⑦張り合ったり虚飾に走ったりすること
⑧現実に向き合わないこと 「聖職者の役割を放棄して官僚主義的な仕事に収まり、自分たちだけの別世界を作る」
⑨陰口を言うこと 「はっきり物の言えない臆病者の病気だ。『陰口というテロ』に警戒を」
⑪他者への無関心
⑫お葬式のような深刻な顔 「伝道者は喜びを伝えなければならない」
⑬物欲
⑭閉じられた「内輪」を優先すること
ぼくがかんがえたさいきょうのモチベーション管理。それはクリアするまで寝ないことである。「○○するまで眠れま10」と言ったほうがわかり良い御仁もおろう。くるしゅうない。
テレビの前のみんなもどうすればゲームに対するモチベを保てるかを模索していることだろう。俺もゲーマーとしてちょっと人とは違うエリート意識を持っててね。
こだわり続けてウン十年。ついに見つけたぞこの管理。詳細を語るにあたり、石川ぷよらーのしろまさん(http://com.nicovideo.jp/community/co63347)は自他ともに認めるジャンキーだが、
100万点出すまでは眠れない縛りを設けていることでも知名度が高い。通称寝るチケ。寝るためのチケットである。以前増田でもとある人物がぷよぷよスコアアタックの秘密を暴露していたが
私はその人物とは別人であることをここに銘記しておく。俺と文体が似ててびっくりしたんだよ。だからわざと文体を変えてあり不自然さを感じるかもしれないが別に疚しいことはないのである。
次に紹介したいのはゲームとゲーム外を分けるというものの考え方だ。僕達は現実とゲームを混同してはいけないとよくPTA会長みたいな顔した大人にガミガミ言われる。
なるほど、ゲームみたいな性犯罪行為を現実で実行したらエロいことになる。エロいこっちゃエロいこっちゃで大パニックになる。しかしよく考えてみてほしいと続くわけだ。ゲームは現実の模倣・改作という面もあり、
そこでの経験は現実に役立つことだってないわけではない。というか役立つゲームがあってしかるべきなのだ。だから現実とゲームを混同はしちゃ駄目にしても関連性は大いに認めるべきという微妙な結論に至るわけよ。
ここらへんで曖昧にしてしまうのが通常のゲーム論。だけど俺は思うんですよ。ボトラーじゃないけど真のゲーマーならゲーム以外の世界は最小化すべきであると。これが俺の主張。
つまりどういうことかというと、現実とゲームの区別をどうするかとかPTA会長UZEEEとか言ってる時点で現実に執着がありすぎなんですよ。そりゃチカンはアカンよ。犯罪はアカン。
でも留年や一家離散やヘルニア悪化くらいの多少のリアルは犠牲にしましょう。一流というのは本当に大切なことのためにそれ以外の全てを犠牲にできる人間のことである。
また犠牲にしても当人の中ではダメージが少ないような方法を模索にするにつれて、逆説的だがゲーマーとしての成長もしてくる。
ここでリアリストは決まってこう矢継ぎ早にまくし立てる。なんだかんだお前も現実に生きてるんだよ。現実とは無縁でいられないだろうが。今のうちに勉強して手に職つけて将来働かないとやっていけんだぎゃも、と。
俺の地方の方言はともかく、声を大にして言いたいのはお前ら現実と関わりすぎなんだよと。だから二流なんだよ。ちょっとニュースで事件が報道されただけで大騒ぎ、
どこぞの政党の誰々がどうだとかでまた大騒ぎ、友達の姉ちゃんに彼氏が出来たとまた大騒ぎ、いい加減に自分のことに専念しろよと。アホンダラ。とすら普段思わないくらい普段はどうでもいんだけどさ。
せっかくだからもう少し喝を入れておくと、そろそろ現実という荒波に流される側の人間じゃなくて、自分でビッグウェーブを起こす側の人間になれよってくらいかな。
人はまた、非現実的(俺の中では褒め言葉だ)で壮大な話をすると金龍ラーメンのように厨二扱いしてくる。厨二は好きだが俺は厨二といったステレオタイプなものでもないのだよな。
そうやって俺を簡単にカテゴライズするな俺は特別な人間なんだみたいな調子がさらに彼らの中では厨二っぽいことは理解している。これもどうでもいいことなんだがな。
一応さほら、読者の中にもそんな人がいそうだから、そういう人はこの文章を理解できないであろうよという程度の助言はここでしておく。
話を続けるぞ。リアルを最小化してゲームに没頭するのはいいとして、「なんでそれがモチベーションになるんだ?飽きるだろ?疲れるだろ?」と思った人も多いのではないかね。
少しは物事に没頭した経験のある人なら話は早いのだがな。いいかい?リアルを最小化して没頭できた時点で既にモチベーション管理は完成しているんだよ。
トイレ行きたい、ご飯食べたい、寝たい、風呂入りたい、俺からしたらリアルなんてそれくらいだよ。その食欲だってここんところずっと最小限にコントロールしてある。
これがリアリストだったら「留年気になる」「こんな生活してていいのか」とかね。どうでもいい雑念が渦巻いてるみたいだが、そういう滑稽なリアリスト達のことを対岸の火事のように眺めながら我々は悠々自適に生きようではないか。
逆に言えば、それだけ打ち込めるものを見つけることが大事とも言える。1ヶ月だ。1ヶ月そればっかりやる生活ができるような、そういうモノを見つける。こだわらないことが大事。
俺はこれが好きなんだこれをやりたいんだと拘ってたら駄目。何でもやりなさい。本当に好きかどうかは1ヶ月継続できて初めて分かるのだよ。だから食わず嫌いはいけないのだよ。
こうしてモチベ管理が完成すればもうそれ以降は管理しなくていい。だから一流のモノホンの人間はモチベに関しては全くのノータッチ、なーんにも管理してないで自然にできてる。
それを見たパンピーが「好きこそものの上手なれ」と勝手に解釈して自分勝手に好きを貫こうとしても、好きの定義がリアルを捨てて継続できるかとは無縁の単なる「好み」になっちゃってる人が多い。その時点でやれやれ感が凄い。
しかも「天才は努力の天才だ」なんてそれっぽいイデオロギーを掲げて頑張ってもこれまた単純からっぽな根性論でしかありません。
つまり要するに、リアルを最小化すること、それを実際1ヶ月続けること、それをこそ目標にすべきという話です。
じゃあそこまではよく分かったけどどうやって最小化すんだよと。その答えがこれ。クリアするまで寝ない。これなのである。
リアルを極限まで切り詰めた時に残るのは、食事と睡眠とトイレくらいのものだ。食事も最低限な。トイレもボトルで十分。こんなの常識。オナニーは当然御法度。無駄なネットサーフィンもとっとと卒業。風呂も夏場だけ何度か入ればOK。
でも世俗的な君達はそれができない。それなのにゲームに没頭したい没頭したいと欲をかく。欲張りさんにも程がある。そんな欲張りさんにでもジャンキーになれる方法、それがクリアするまで寝ない縛りなのだ。
どうぞニコ生で放送してください。タイトルに「○○全クリまで寝ない枠」と書いてください。簡単なことです。どうしても100時間くらいかかりそうなゲームはやめときましょう(笑)
睡眠というのは生物学的に必ず必要なんで、それを縛りに結びつけるのは非常に有意義だと思いますよ。これがオナニーのようなやらなくても良い行為に結びつけるとよくない。
別にクリアまで自慰しない縛りという明文化された形でなくとも、我々は日常において無意識のうちにそういう「罰」や「縛り」を自分に課しながら生きているじゃないですか?
お菓子食べたいけど宿題終わってからとかね。縛りという明確な意識はなくとも、そういうことやってるから余計にリアルの欲求が膨らんでしまうんだよ。
お菓子なんて生きていくうえで必要ありません。それなのに縛りプレイするうちにお菓子大好き人間から抜け出せなくなるわけです。片一方で甘いものに対する欲求をえっちらほっちら膨らませておいて、
もう片方でダイエットダイエットと大騒ぎしてるんだからいい気なもんです、滑稽なもんです。オナニーにしても同じ。不必要な欲求で縛りプレイするのはただちにやめてください。そうやってリアルの執着が膨らんでも不幸になるだけです。
睡眠のようにどうしても生存に必要なことに対してだけチケットを発行するのが正しい縛りプレイです。つまりね、ゲームがよくできたらポイントがゲットできる。ポイントがたまれば生存チケットがゲットできる。これです。
つまり、余計な欲求を膨らませず、呼びかけられてもシカトを決め込み、生存に直結した欲求の呼び出しにだけチケットという応答方法を与える。チケットはゲームを一生懸命やってクリアすることで得られる。
どれも、単に「行きたくない」という人間の「言い訳」にすぎなくて、「存在意義」ではなくね?
要するに「俺の一票では何も変わんねーべや」って意見。まさに民主主義社会の寄生虫意見であって、そんな意見に「存在意義」があるという主張は理解しがたい。なお、「小選挙区制により、多数の無効票が発生する点にも注目したい。」という考え方については、毎度のことながら目を覆うばかりなのだが、これは簡単に反論できる。
具体的には、選挙は一回で終わるわけではなくずっと続くものであるから、「10万対9万9千」での勝利と「10万対0」での勝利の意味の違いが理解できないような人間が勝利し続けることは不可能なのであり、従って「9万9千票は無効票」という考え方は、自分の意見が当面却下されたことに対する、あまりにもナイーヴな反応としか言えない。
つまり「鼓腹撃壌」論。「鼓腹撃壌(支配者への不満がないから、民衆が為政に無関心)」というのは、古代東洋の理想とする社会ではあったが、民衆こそが支配者である今日の世界で、投票の権利を行使しないことは、たとえれば「支配者が支配への責任感を忘れ、世俗の楽しみにうつつを抜かしている状態」と同じなのであって、とても肯定できる状態ではない。なお、普段からの政治への関心が低い場合にこそ、何か政治に問題があると感じられればすぐ暴動につながるのであって、政治に高い関心をもち熱心に投票する人間が暴動を起こすというのは、明らかなミスリードである。デモと暴動を単純に一緒にすべきではない。
これが唯一「存在意義」に近い主張。ただし、(その2)と同じ理由で却下。「みんなが政治に参加する社会なんて怖いだけじゃないだろうか。」じゃあ、誰に政治をやらせれば「安心」なのか。天皇陛下か? 総書記か? 大統領か? 「どこかの誰かエライひと」か? 憲法には「主権者は国民である」と規定されているので、あなたが責任と権利を放棄すれば、あなたはそれを誰かにひっかぶせることになるだけ。「過激派への緩衝剤」というメリット以前に、国民が責任と権利を放棄しているということのリスクが大きすぎる。
もちろん「不参加」というのは意志の表明である。ただし、「私は、主権者としての責任から逃れさせていただきたい」という主張と同一である。要するに、国民主権の国家においては、たとえば納税の義務を逃れようとするのと同じく、犯罪に近い。極論に聞こえるかもしれないが、たとえば「全員が主権者としての責任から逃れようとして投票しない状況」を考えてもらいたい。誰も税金を納めなくなった状態と同じように、国家は運営できなくなるだろう。したがって、その意思を表明する以上は、自分の意思の罪深さを知り、せめて他者からの批判や非難の言葉くらいは感受すべきである。我々が、投票しないあなたに代わって政治を選択する責任を果たしているのだから、責任を果たさないあなたは文句ぐらい言われるべき。
上と同様である。どのような宗教を信じることも自由であるが、犯罪的な思想をもち犯罪的な行動を行えば、当然犯罪として処罰されるのであって、事実犯罪ではないとしても、批判されてしかるべき信条に基づいた宗教を信仰する以上は、批判されるしそれは当然のことである。
自然 シゼン そのまんまのこと。
本然 ホンゼン 人の手が加わっていないこと。もともとの姿であること。ほんねん。
未然 ミゼン まだ起こってないこと。
已然 イゼン 既に起こってしまったこと。またそのさま。
必然 ヒツゼン 必ずそうなること。それよりほかになりようのないこと。また、そのさま。
当然 トウゼン そうなるのがあたりまえであること、道理にかなっていること。また、そのさま。
蓋然 ガイゼン たぶんそうであろうと考えられること。ある程度確実であること。
偶然 グウゼン 何の因果関係もなく、予期しないことが起こること。また、そのさま
同然 ドウゼン 同じであること。また、そのさま
宛然 エンゼン そっくりそのままであるさま
靡然 ビゼン なびき従うさま。特に,多くの者が同じ傾向をもったり,同じ行動をとったりするさま。
純然 ジュンゼン まじりけのないさま。
粋然 スイゼン まじりけのないさま
渾然 コンゼン すべてがとけ合って区別がないさま。 性質が円満で欠点のないさま。
糅然 ジュウゼン 種々のものがまじっているさま。
雑然 ザツゼン 雑多に入りまじっているさま。
全然 ゼンゼン 余すところのないさま。まったくそうであるさま。
判然 ハンゼン はっきりとわかること。
確然 カクゼン たしかで、はっきりしたさま。
朗然 ロウゼン 明るくはっきりとしているさま
亮然 リョウゼン 明らかなさま。はっきりしているさま。
昭然 ショウゼン 明らかなさま
截然 セツゼン 事柄が、他との対比において曖昧(あいまい)なところがなく、はっきりとしているさま
歴然 レキゼン まぎれもなくはっきりしているさま。
的然 テキゼン はっきりとしたさま。明白なさま。
現然 ゲンゼン はっきりとしているさま。あらわ。
瞭然 リョウゼン はっきりしていて疑いのないさま。明白であるさま
顕然 ケンゼン はっきりと現れるさま。明らかなさま
隠然 インゼン 表面ではわからないが、陰で強い力を持っているさま
燦然 リンゼン きらきらと光り輝くさま。また、はっきりしているさま。鮮やかなさま
爛然 ランゼン あざやかに光り輝くさま
燦然 サンゼン 鮮やかに輝くさま。明らかなさま
楚然 ソゼン あざやかに見えるさま。
灼然 シャクゼン 輝くさま。 あきらかなさま。明確なさま。
赫然 カクゼン かがやくさま
皎然 コウゼン 明るく輝くさま。白く光るさま。
耿然 コウゼン 明るく光るさま
炯然 ケイゼン 光り輝くさま。明るいさま
煥然 カンゼン 光り輝くさま
炳然 ヘイゼン 光り輝いているさま。また、明らかなさま。
俄然 ガゼン にわかなさま 突然ある状態が生じるさま
倏然 シュクゼン にわかなさま。急なさま
突然 トツゼン 予期しないことが急に起こるさま。だしぬけであるさま。突如
驀然 バクゼン まっしぐらに進むさま。また,にわかに起こるさま。
遽然 キョゼン 急なさま。あわてるさま。
忽然 コツゼン 物事の出現・消失が急なさま。忽如(こつじょ)。こつねん
卒然 ソツゼン 事が急に起こるさま。だしぬけ。
驟然 シュウゼン 雨などが急にふるさま
公然 コウゼン 世間一般に知れ渡っているさま。また、他人に隠さずおおっぴらにするさま
油然 ユウゼン 盛んにわき起こるさま。また、心に浮かぶさま。
湧然 ユウゼン 水や声・感情などが盛んにわき起こるさま。
鬱然 ウツゼン 草木がこんもりと茂っているさま。 物事の勢いよく盛んなさま。
森然 シンゼン 樹木がこんもり茂っているさま。並び立つさま。きびしくおごそかなさま。するどいさま。
旺然 オウゼン 物事の盛んなさま。
蕭然 ショウゼン もの寂しいさま
沈然 チンゼン 静かなさま。落ち着いたさま。
闃然 ゲキゼン ひっそりとして静かなさま。人気がなくさびしいさま。
寂然 セキゼン ひっそりとして静かなさま。寂しいさま。
粛然 シュクゼン なんの物音も聞こえず静かなさま。また、静かで行儀正しいさま。
端然 タンゼン きちんと整っているさま。礼儀にかなっているさま。たんねん。
整然 セイゼン 秩序正しく整っているさま。
秩然 チツゼン 物事が秩序正しくあるさま。
昂然 コウゼン 意気の盛んなさま。自信に満ちて誇らしげなさま
断然 ダンゼン 態度のきっぱりとしているさま。また、最後まで押しきって物事をやり遂げるさま
決然 ケツゼン 固く心をきめたさま。きっぱりと思い切ったさま。
敢然 カンゼン 困難や危険を伴うことは覚悟のうえで、思い切って行うさま。
蹶然 ケツゼン 勢いよく立ち上がるさま。跳ね起きるさま。また、勢いよく行動を起こすさま。
奮然 フンゼン ふるい立つさま。勇気・気力などをふるい起こすさま。
慨然 ガイゼン 憤り嘆くさま。憂い嘆くさま。 心をふるい立たせるさま。
毅然 キゼン 意志が強くしっかりしていて、物事に動じないさま
凝然 ギョウゼン じっと動かずにいるさま。
居然 キョゼン じっとしているさま。座って動かないさま。 することがなく退屈なさま。つれづれ。
飄然 ヒョウゼン 世事を気にせずのんきなさま ふらりとやって来たり去ったりするさま
超然 チョウゼン 世俗に関与しないさま。
洒然 シャゼン さっぱりして物事にこだわらぬさま。
平然 ヘイゼン 何事もなかったように落ち着きはらっているさま。
冷然 レイゼン 少しも心を動かさずひややかな態度でいるさま。
恬然 テンゼン 物事にこだわらず落ち着いているさま
悠然 ユウゼン 物事に動ぜず、ゆったりと落ち着いているさま
浩然 コウゼン 心などが広くゆったりとしているさま。
藹然 アイゼン 気分などが穏やかでやわらいださま
優然 ユウゼン 落ち着いてゆとりのあるさま。
綽然 シャクゼン ゆったりとして余裕のあるさま
晏然 アンゼン 安らかで落ち着いているさま
淡然 タンゼン あっさりしているさま。また、静かなさま
厳然 ゲンゼン おごそかで近寄り難いさま。動かし難いさま
孑然 ケツゼン 孤立しているさま
介然 カイゼン 気持ちが堅固であるさま。断固としているさま。 孤立したさま。孤独なさま。気にかけるさま。
怡然 イゼン 喜び、楽しむさま
歓然 カンゼン 喜ぶさま。
徒然 トゼン 何もすることがなく、手持ちぶさたなこと。また、そのさま。つれづれ。無聊
喟然 イゼン ため息をつくさま。嘆息するさま。
索然 サクゼン おもしろみのなくなるさま。興味のうせるさま。
愕然 ガクゼン 非常に驚くさま
瞿然 クゼン 驚いて見るさま。驚いて顔色を変えるさま。
唖然 アゼン 思いがけない出来事に驚きあきれて声も出ないさま。あっけにとられるさま。
呆然 ボウゼン あっけにとられているさま。
爽然 ソウゼン 心身のさわやかなさま。爽快なさま。 がっかりするさま。ぼんやりするさま。
蹴然 シュクゼン おそれ慎むさま。
慄然 リツゼン 恐れおののくさま
恟然 キョウゼン 恐れさわぐさま。恟恟
慴然 ショウゼン 恐れおののくさま
竦然 ショウゼン 恐れて立ちすくむさま
憫然 ビンゼン あわれむべきさま。
暗然 アンゼン 悲しみ、絶望などで心がふさぐさま。気落ちするさま
悵然 チョウゼン 悲しみ嘆くさま。がっかりしてうちひしがれるさま。
戚然 セキゼン 憂え悲しむさま。
悄然 ショウゼン 元気がなく、うちしおれているさま。しょんぼり
憮然 ブゼン 失望・落胆してどうすることもできないでいるさま
潸然 サンゼン 涙を流して泣くさま。
汪然 オウゼン 水が深く広いさま。涙が盛んに流れるさま。
色然 ショクゼン 驚きや怒りで顔色を変えるさま。
勃然 ボツゼン 突然におこり立つさま。急に激しくおき現れるさま。怒りの表情を表すさま。むっとするさま。
怫然 フツゼン 怒りが顔に出るさま。むっとするさま
憤然 フンゼン 激しく怒るさま
頑然 ガンゼン 強情で頑固なさま。
豪然 ゴウゼン 力強いさま。また、尊大なさま
靦然 テンゼン 恥じる顔つきのないさま。
融然 ユウゼン 気分のやわらぐさま。
醺然 クンゼン 酒に酔って気持ちのよいさま。
陶然 トウゼン 酒に酔ってよい気持ちになるさま。
輾然 テンゼン 大いに笑うさま。
哄然 コウゼン 声をあげてどっと笑うさま。
莞然 カンゼン にっこり笑うさま。
艶然 エンゼン にっこりほほえむさま。美人が笑うさまについていう
婉然 エンゼン しとやかで美しいさま
恍然 コウゼン 心を奪われてうっとりするさま
颯然 サツゼン 風がさっと吹くさま。また、風を切るさま
翻然 ホンゼン ひるがえるさま。また、ひるがえすさま
漫然 マンゼン とりとめのないさま。ぼんやりとして心にとめないさま。
漠然 バクゼン ぼんやりとして、はっきりしないさま。広くてはてしのないさま
茫然 ボウゼン つかみどころのないさま。 呆然に同じ
曠然 コウゼン 広々としたさま
廓然 カクゼン 心が広くわだかまりのないさま。
豁然 カツゼン 視野が大きく開けるさま。 心の迷いや疑いが消えるさま。
釈然 シャクゼン 疑いや迷いが解けてすっきりするさま。
渙然 カンゼン 解けるさま
戛然 カツゼン 堅い物が触れ合って音を発するさま
跫然 キョウゼン 足音のするさま
鏗然 コウゼン 金属・石などがあたって、かん高い音のあるさま。
鏘然 ショウゼン 玉・鈴などの鳴るさま。 水がさらさらと流れるさま。
鏘然 ソウゼン 玉や金属が打ち合って澄んだ音を発するさま。
錚然 ソウゼン 金属が打ち合ったり楽器が鳴ったりして音を出すさま。
兀然 コツゼン 山などが高くつき出ているさま。ごつぜん。 じっとしているさま。動かないさま
隆然 リュウゼン 高く隆起しているさま。 強くもりあがるさま。
嶄然 ザンゼン 一段高くぬきんでているさま。ひときわ目立つさま
卓然 タクゼン 高くぬきんでているさま。
挺然 テイゼン ぬきんでているさま
脱然 ダツゼン 超脱しているさま
屹然 キツゼン 山などが高くそびえ立つさま。 孤高を保ち周囲に屈しないさま。
巍然 ギゼン 山などが高くそびえたっているさま。また、ぬきんでて偉大なさま。
猛然 モウゼン 勢いの激しいさま
殷然 インゼン 勢いが盛んなさま。音がとどろきわたるさま。
沛然 ハイゼン 雨が盛んに降るさま。盛大なさま。
囂然 ゴウゼン 人の声などが騒がしいさま
騒然 ソウゼン ざわざわとさわがしいさま
轟然 ゴウゼン 大きな音がとどろき響くさま
爆然 バクゼン 大きな音で爆発するさま。
杳然 ヨウゼン はるかに遠いさま。また、深くかすかなさま。
窈然 ヨウゼン 奥深くかすかなさま。
蒼然 ソウゼン あおあおとしているさま
翼然 ヨクゼン つばさのように左右にひろがっているさま。
尨然 ボウゼン 豊かで大きなさま。むっくりと大きなさま。
眇然 ビョウゼン こまかいさま。小さいさま。とるに足りないさま。
矗然 チクゼン まっすぐなさま。
冪然 ベキゼン おおいかぶさるさま
○山下義信君 先生に伺いますが、私もその点を伺おうと思つてここにチエックしておいたのでありますが、男女の結合が生殖を目的とするということが第一、その立場から愛情の有無と受胎のパーセンテージというものが、学問的にわかるのでありませうか。その点が一つ。それから今松村委員からお尋ねしようとなさつたところは次の点にあるのじやないかと思うのであります。優生学上から愛情の深い者同士の間から天才が生れるということはいわゆる世俗で申しますが、不義の子供には偉い者ができるということをよく世間で申します。そういう意味で、愛情の深い者同士の子供に果してそういう優良兒ができるかどうかということを伺いたいと思います。
○松村眞一郎君 私の質問を補充するようなことをおつしやつておりますが、私はそういうことを要望しておりません。そういうものはないと考えております。遺傳学上から考えて極く純粹に考えております。そんなことで大体良い子供ができるということは遺傳学上否認いたします。そういうことでない、もう少し何と申しますか、自然科学の方面から、遺傳学以外に何かありませんかということなんです。環境ということになりますと、遺傳学じやありません。今すでにお尋ねになつた中にも一つあるのですが、例えば両性の結合が愛情のある結合であるならば、ここに生殖ということも或いは行われることがあるか知れません。愛情がなければ、良い結合がなければ成功しないという虞れが起つて來るわけでありますが、そういうことが何かありませんかという考えなんです。
○証人(安藤畫一君) ちよつと私はつまり初めの方の御質問の核心に触れ得ないのですが、私は遺傳学のみからこの問題を論ずるという趣旨で申上げたのでありませんが、一番重大な遺傳学を採り上げて説明の手段にしたのであります。無論人間が良くなるか惡くなるかという問題は、そういうことだけで考えられないので、昔から氏より育ちと言つております。だから、今氏の問題を言つておりますが、育ちの問題が加わることは、当然であります。環境の影響があります。それでありますから、母親の責任を問うた場合に、環境の大部分は母親が重大な影響を持つているということを申上げたのもそれであります。
それから先程ちよつと二度ばかりお話がありましたが、結び付いたものが遺傳学的に良いものでなかつた場合に、それを良くするために良いものを一つ加えてもいいじやないかというお話は、私は不賛成ということを申上げた。人間というものはそういうふうな勝手はできない。一度結び付いた以上は止むを得ない。これは結び付く前にそれを講ずるものであつて、結び付いた後にそういうことをやるべきじやない。言い換えれば、なんぼ遺傳的に良いものを作つても、やはり姦通というものはいけない。こういうふうな立場であります。
○松村眞一郎君 それは法律制度としてはあなたと御意見は同じなんです。法律制度としてはそうだが、医学的に言えないかということをお尋ねしている。
○証人(安藤畫一君) 医学的に言つているのです。医学的にはとにかく生殖というものが限局されている。動物と違つて点は、動物は自由に許されている。人間は二人しか許されていない。その立場からいいと言うのです。
○証人(安藤畫一君) 医学的にも説明できるのです。さつき言いましたように、遺傳という問題をいつも持つて來る。いわゆる雜婚、日本人の間の雜婚の意味で、人種でない。ともかく二人を目的としたのは、そこに純血性を見たのでやはり遺傳を持つて來たのです。それ以外においてやはり医学的にもそういうふうに考えられるのであります。法律学的でなく……
○松村眞一郎君 御趣旨はよく分ります。私の考と一致しているのです。言い方で法律的と医学的となる。意見は一致している。それではもう少し何か物足りないのです。
○証人(安藤畫一君) 愛情と受胎率の関係の御質問がありましたが、私の方でも不妊症に陷つている者に子供を生ませるようにするにはいろいろな因子があります。生れないためにもありますが、生むためにいろいろな因子がある。その中に性交時の性慾の差、これは愛情と同じものでないかも知れませんが、それが何時も問題になるのであります。これは絶対的のものではないのです。無論これは一つの補助因子になりますが、絶対的のものではない。というのは強姦をされておる際でも、受精します。だからこれは愛情というものは絶対的のものではないと、我々は見ておる。無論補助因子だから、愛情だけで以て受胎を左右するということは考えられておりませんが、受精をたやすくする可能性を多くする意味において、その時の、例えばこれはちよつと申上げ兼ねますが、オルガニスムスと快感の絶頂を両者で合せるものとか、性的技巧の中に加わつておるのですが、これは絶対的のものじやない。このくらいの程度のお答えしかできません。
○山下義信君 それから愛情の深い者同士から優良兒が生まれるとか……
○証人(安藤畫一君) ちよつと聽いておりませんが、私の遺傳に関する知識からは考えられないように思います。
○松井道夫君 只今松村さんのお尋ねがありました点について、安藤先生は何処か核心を掴めないでおると思います。私はこれは安藤先生がちよつと誤解しておられるのじやないかという氣がいたしますが、今日は要するに証人という立場で來て頂いておりますので、前回の公聽会とは違いますので、それで純粹に医学上の立場から我々に資料を與えて頂く。こういうことなので、法律制度としての姦通罪を残すかどうかということは、これは我々の方で試みるべきことなのであります。ですからその点の御意見は拜聽しないで結構なのであります。ただこれに対して資料を與えて頂くという趣旨なのであります。それで私の質問に入りますが、純潔ということを只今申されたのでありますが、純潔という観念は、これは宗教上、道徳上倫理上の観念であつて、医学上の観念では普通はないように解釋されるのでございますが、ただ私は医学上も純潔ということを考えていいのじやないかということを考えておりますのは、要するにこれはいわゆる血液が汚れる。こういうことが普通言われておる点であります。例えば梅毒ならスピロヘータが血液の中に滲み出す。それが遺傳因子の方にも作用を及ぼす。これはそういうことがあるかどうか伺いたいことなのでありますが、さような場合に初めて医学上純潔が云々されるのではないかと存ずるのであります。それでその意味におきまして、姦通の子に何らか医学上の純潔を欠く。即ち正常の結婚から生れた子と比較して劣つておるとか……只今山下さんから優れたということを伺いましたが、劣つておるとか、その他医学上純粹の意味で純潔を欠くような場合があり得るか、想像できるかということをお尋ねしたいのであります。
○証人(安藤畫一君) ジユンケツということい今文部省あたりで純潔と書いておるようです。あなたの方はどうですか。
○松井道夫君 私の方はどちらでも結構ですが、実は医学上、生態上、変化を生ずるかという意味です。
○証人(安藤畫一君) これはどうしても、潔いにしても血にしても、どういうことを純というかを医学的の観点から言いますと、純ということは何処までも、先程から何度も申しましたように、許された夫婦間においてのものばかりを純と申します。それ以外を不純と申します。
○松井道夫君 ちよつとその点は分らないのですが、許された夫婦間の性交ということは、これは医学上の問題でございましようか。
○証人(安藤畫一君) 人間というものは正常というものを、或る限局されたものに置かなければならん。
○松井道夫君 ところが支那では法律上は一夫一婦でありますけれども、現実は一夫多妻が行われておるのです。又法律上一夫多妻が認められておる所がある。一夫一婦の法律であるから、それを維持して行くということは普遍の原則でなければならない。日本における一夫一婦の制度に立つた医学でありまして、私のお尋ねしておるのは、普遍の、世界に通ずる医学の原則をお尋ねしておるのであります。
○証人(安藤畫一君) そういうものはやはり決められていないと思うのであります。
○松井道夫君 今の純というのは私の言葉で、血の純で結構ですが、そういつたような純医学的、遺傳学的の関係で、不義の子と、正常の結婚の子と差がありやということであります。
○証人(安藤畫一君) それは血清学上に言う差異はありません。ただ遺傳学的にのみ考えられる。それ以外には考える余地はありません。
○松井道夫君 それならば純血という文字を撤回して結構ですが、医学上、遺傳学上、結婚外の子と結婚内の子と差異があり得るのですか。
○松井道夫君 下世話では、密通の子は何処か素質が惡いとか、或いは体が弱いとか、或いはその後本当の子供ができても、間男に似るとか、いろいろなことを言うのですが。
○証人(安藤畫一君) それは一貫したお答えでいいと思います。そういうことは全然ないわけであります。遺傳的に考えて全然ないのです。さつき鬼丸さんのお答えに説明が足りないで、後を古畑君から図によつてお話になりましたが、犬の場合の説明は隔世遺傳で以て説明できると思うのであります。最初にかけ合せた親が純血種であつたかどうかというときに、それが雜種であつた場合に、そのときに現われないで、幾代か後で現われて出ることはありますから、その点は大いに考慮されないと、解釈の誤謬ができて來ると思うのであります。それで、どうしてもこの問題は、今お話の最後の方の御質問では遺傳的に見るより仕方がないのでございます。その外には、例えばスピロヘータの入つた場合に血を汚すか、それは子供に傳わるかというと、無論スピロヘータは、受胎した後に胎内でスピロヘータは母親の血液から胎兒に移るけれども、遺傳的に見ては血は不純にならない。どうしても遺傳という問題を切り離して、この純潔という問題を持つて行かなければ不合理だと私は信じております。
http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/sangiin/001/1340/00108191340015c.html
どう書いても場所や個人の風評被害につながるのでぼかすけれども、
AKB48握手会で刃物で切りつけられた事件について、芸能界によくあることみたいなのは全く違うというのを書いておこうと思う。
また、現在様々な握手会やイベントが中止や延期になっているのは、(遅すぎたとはいえ)その判断は素晴らしいと思う。
テロに屈するのではなく、そもそも何の対策もしていないありえない状況の是正に繋がると考えるからだ。
今回のAKB48の事件は、当然かけるべきコストをケチった為に起きた人災。
防げないテロが存在することと、防げたはずの凶行とは、分けて考える必要がある。
どうせなんか湧くだろうから本題に入る前に当たり前の事を書いておくが、
当然、斬りつけるようなヤツが悪い。
刃物振り回すようなアレな人間が間違いなく悪くてそいつさえ居なければ良いというのは十分わかった上で、
(根底にはAKBファンにはキチガイ割合多いだろみたいな蔑視があると思ってるが、本題じゃないから省く)
テロの標的になるのは、目立ってるものだろうし、本質的に対策が難しいというのはある。
ただ、程度問題というやつは当然ある。
町内会長のオッサンがスーパーの開店挨拶で切りつけられた時に、犯人許すまじ、で終わるのなら良いが、
外務大臣のオッサンがどこぞの講演会挨拶で切りつけられた時に、犯人許すまじ、で終わったら正直困る。
警備は何してんだ、って話になってもらわなきゃ困る。
俺は安倍さんは嫌いだが、ぶら下がり取材中にのこぎりでホイホイ切りつけられたら、国益を損なうと思ってる。
だから、ファンが全部で10人の地下アイドル握手会と、CDに握手券つけるAKB握手会では、当然警備の量・質共に段違いであるべきだ。
その上で、芸能界でも今まで多々あってきた凶行と今回の件は、どうすれば防げたかという観点で見直しがいる。
見直さずに握手会を行うのであれば、それは蛮勇ではなくて単なる商行為における人名軽視だ。あってはならない。
美空ひばりが塩酸をかけられた、誰それが誘拐された、ファンが自宅に押しかけた。
だから、「昔から芸能人はターゲットになってきて、今回のAKB握手会の凶行も同じだ」は正しいか。
正しくないのではないか。
移動時でもなければ私生活時でもなく、業として商売として行われている最中の出来事だ。
犯罪者が悪いことに変わりはなくても、興行を行う主催者のミスとして責められるべきではないのか。
総選挙の時にステージに向かってモノを投げつけたわけではなく、直接触れ合えるタイミングで切りつけているのだ。
根本的に状況が異なる。
例えばだ、北海道で島本和彦がサイン会をして、色紙に熱い言葉を殴り書きしているときにファンに切りつけられたとしよう。
ビデオレンタルショップで手荷物検査があるでなく、取り押さえるにも時間がかかったりするだろう。
いずれ漫画にネタとして昇華される日が来るかもしれないから、オイシイとかバカなこと言われるかもしれない。
この場合、それは一過性のものなので、警備の不備を指摘しても、あまり意味が無い。
もちろん島本和彦レベルのビックネームであれば警備を強化すべきとの声もあるだろうが、ファンとの触れ合いを大切にしたい作家の気持ちもある。
そもそも、殴りつけるなら兎も角、切りつけてくるような犯罪者が混じっていることなど、判ろうはずがない。
会えるアイドル、という部分と本質的に異なり、アイドルと触れ合える機会が、偶然ではなく確実にある。
CDを書い、握手券を手に入れ、会場に行けば(体調不良などのアクシデントがなければ)、握手できるのだ。
年に数回、並ぶファンも総勢50人以下なんていう状況とは異なる。
もう一度言おう、そこに行けば確実に直接手と手を触れ合わせることができるイベントが、かなりの頻度で定期的に行われている。
この手の話は、規模や頻度、人気やファン層を無視しがちだ。
セキュリティという観点で見た時、性別年齢職業地域などで、想定する警備体制を見積もるのは当然のことだ。
文化ホールで年中行われるさだまさしコンサートと、ホテルで行われる美輪明宏ディナーショー、ロフトプラスワンの地下アイドルイベント。
のこぎりで斬りつけられるタイミングはそれぞれ違うし、警備体制を同様に論じることは当然出来ない。
ロフトプラスワンの警備体制でジャニーズのコンサートを行ってはいけないというのは、判るだろう。
差別的だというのを十分承知の上で言えば、美輪明宏のクリスマスディナーショーに、のこぎりを持った今回の犯人が紛れ込む可能性は無視できるほど低い。
単純に行きづらいからだ。
さて、テレビにAKBという名前で出る、CDも売っている、ファンも多い。
そんな相手に、1600円で直接触れ合えるイベントがある。
あの規模の握手会で、握手対象者はドル箱たるアイドルそのもので、手荷物検査がザルなんてあってはならないのだ。
クリント・イーストウッド主演の、ザ・シークレット・サービスという映画をご存知だろうか。
あの映画では、ジョン・マルコビッチが金属探知機をすり抜けて銃を持ち込んでいる。
ポイントはそこではなく、アメリカの上流階級が参加するパーティーであっても、礼儀を尽くしたまま警備レベルを上げることができる点だ。
コストは当然かかる。
佐渡金山の労働者のように、一旦全員裸にして、ケツの穴までチェックしてから入場させる必要はない。
手荷物を全て預かり、アクセサリー類は全て外させ、金属探知機ゲートを潜らせてから、手を洗わせて、係員立ち会いのもとで握手させる。
たったそれだけだ。
富士急ハイランドではアレだけの入場者が居るにもかかわらず、メガネはおろか時計まで外させてロッカーに入れさせる。
長机はちゃんと固定しているか?
アクリル壁とか言う前に、やるべきことは山ほどあるはずだ。
時間は今よりかかるだろう。会場も限定されるだろう。置き引きや荷物間違い、つけ爪や服装規定に関しても揉めるだろう。
だが、コミケのコスプレ会場スタッフは乗り切っているし、準備会は柔軟に対応しながら当局の規制を免れてる。
実質的に有料の商業行為である握手会で出来ない理由はないし、コストを掛けないのは良く言って怠慢で、悪く言えば人名軽視だ。
職業暗殺者を防ぐことは出来なくても、自暴自棄になった若者程度ならハジく警備体制になっていなければならないのだ。
今回の事件は、当然行っておくべき対策を怠った為に、起こるべくして起きた事件であって、運営の責任は重い。
防ぎようのないテロではなく、簡単に防げた凶行だ。
防ぐのが難しい高級車窃盗団がいるからといって、鍵をつけたまま車を放置して良いことにはならない。
町内会長の講演と、国家元首の演説で、求められる警備レベルは異なるし、そのコストは省いて良いものではない。
もちろんファンが自主的にできることもある。
握手会にはできるだけ手荷物を持っていかない、時計を含めたアクセサリーは付けない、スタッフの指示には必ず従う。
そういったマナーが浸透すれば、そうでない人物を警戒すれば良く、スタッフの負荷は減る。それはアイドルの為にもなる。
(それをすり抜けるキチガイも当然でるだろうが、現状よりもずっと難しくなる。無策の言い訳にはならない)
わかりやすくするためにきちんと書くが、世俗や習慣、風習という意味ではなく、性風俗の意味を持つ「握手」の事だ。
異性同性に対して何らかのサービスを行う物事は多いし、国や時代によってモラルも風習も違うので、良い悪いは無い。
ただ、今の時代の日本において、少女に握手をさせるというサービスは、どこまで許されるのか?
はっきり書こう。AKBのCD代金の何割かはこのイベントのために支払われている。
つまり「会場に行って、1000円支払って、好みの女性と握手をする」という商形態だとしたら、許容されていたか?
いまはこれを、CD代金に含めることで有耶無耶に誤魔化している。
規模が小さい頃は、ファンサービスの一環という言い方もできるし、実際そうだろう。
大規模になり、十分にビジネスモデルとして回り、実態として握手券のためにCDを買う人間が増えてきた。
法律がなければ何をしても良いわけではなくて、何かあればすぐに規制がかかる。
握手会を無くさない為に、この業界トップランナーであるAKB運営は早急に自主規制を行う必要があるのではないか。
誠に残念だが、「ファンサービス」に戻すための努力をすべき時期に来ていると思う。
ほっとくと、ホントに刑務所の面会室みたいな場所でガラス越しに手を重ねあわせるだけになりかねないと思う。
アイドルなぞ賤業でメンヘルなので、斬り付けられる程度の覚悟はしておくべきと考える人がもし正しいとしても
商売人として運営がアイドルにコストをかけないのは、美術館が展示の目玉の国宝の壷を触れるように展示するレベルにありえない。
これは徹頭徹尾、人間を商品として扱う商売人がかけるべきコストをかけていなかったという、運営の話だ。
そんなコストを掛けてまで握手会は出来ないというのであれば、サービス残業がなければ潰れる会社と同じく、元々出来ないのだ。
正直な処、男性アイドルグループや、無名のグループでは起きなかったであろう犯行だと感じるので、
apes、法華狼あたりのコメ欄にたむろしている
色眼鏡でこねくり回してみるよ
まず辞書。
1 物事に検討を加えて、判定・評価すること。「事の適否を―する」「―力を養う」
2 人の言動・仕事などの誤りや欠点を指摘し、正すべきであるとして論じること。「周囲の―を受ける」「政府を―する」
3 哲学で、認識・学説の基盤を原理的に研究し、その成立する条件などを明らかにすること。
http://dictionary.goo.ne.jp/leaf/jn2/186757/m0u/
やたら攻性な言論スタイルで
論破論破してる人たちが多いように思えるので2の思考モデルにしてみようそうしよう
人の言動・仕事などの<誤りや欠点 A>を指摘し、正すべき<(状態) B>であるとして論じること。
じゃぁ誤Aと正Bになにを代入すればいいか
思いつく限り代入してみればいいんだなんだ簡単なことじゃないか
正B=日本の評価を不当に押し下げないこと
日本は極右化しているかのように思えますが良心的な私達がいるので大丈夫です!ですかね。
おまいらが提示する正しい状態は俺たちの生活に安定か閉息かどちらをもたらすのか?
おいおい正誤が反転してるよってネトウヨギャラリーは思ってるんじゃないかなぁ。
というか俺はネトウヨだなぁ
投射乙ってやつかなぁ
どっちかはっきりしてほしいよね☆
次
政治思惑や野望、外交カードにしたり積年のうらみつらみを晴らすために個人個人が太古から連綿と紡いできた
ただひとつの歴史の真実の重みを軽々しく改編したり弄んだりする不逞な輩は許さんぞ、的な
神の視点でスペシャリストが世俗論を斬って捨てるのって、かっこいいじゃないですかー
あら、屋代聡さん、やだー!
神の視点とやらが常に安定と平和な日々をもたらすかっつったらヤハウェさんたらアレだしねぇ
次
誤A=人権を軽んじる
正B=人権を重く考える
いわゆる朝鮮人慰安婦問題で人権人権ふりかざすなら、慰安婦のうち大勢を占めた日本人や、
シベリア抑留者、満蒙や半島からの引揚者に対するシンパシーを片鱗でもみせたことあるのかしら
日ソ共同宣言やら日中平和有効条約やらサンフランシスコ平和条約やらで
戦時賠償請求の放棄してるから相手国は関係ない?日本政府が悪いですって?
あれー?ずいぶん不平等ですよねー?
おまいらの好きな人権は上の日本人被害者には向けられないのです?
なんでです?差別じゃないんです?なぜ同胞の苦心の労いより他国のそれを拾うんです?
次
これがいちばんしっくりくるのは俺がネトウヨで自己投影/投射行為だからっすねぇ
原発再稼働反対で、新自由主義反対で、経済格差反対で、秘密情報保護法も反対で、靖国参拝反対で、
おまいら反対ばっかじゃないっすかー
反対するならおまいらの思う正しい状態をまずはわかりやすく提示したらいいんじゃないかな
現体制がフラフラ不安定になるようになるようにおまいらが足を引っ張ってるように思えて
俺の日常生活、家族や社会が不安定になるのが不安で不愉快だけど
ここは日本、
私自身、知人さんから「アンタは裏表無くて、ダブスタも無いねぇ」と褒められる事が有りますけれども(苦笑)、内心、「いや……そうではないんですよ、私はダブスタのカタマリなんですよ、『歩く矛盾』なんですよ」とつぶやいています。
進歩的で意識も高い知人さんと、政治の話とかをしていると、「それは・あいつはダブスタだ」とか、「それは矛盾している」という言い回しを、よく聞きます。
逆に、世俗的でのんびりしている人達とは、同じテーマの話をしても、ダブスタとか矛盾という言葉は、ほとんど出てきません。
前者の人達(「達」と言っても、私の知人さんに限った狭い範囲ですが)からは、「正しい事」は、無矛盾であるはずだという、強い信念のようなものを感じます。 それは、そうかも知れません。 限定された範囲の中においては。
しかし、原発問題とか、憲法議論とか、国際問題とか、大変に、大きな話については、そうとも言えないと私は思います。 これらは、分割統治していかないと、まるで物事が進まない、巨大な相手ですし、時間のかかる話でもあります。 人ひとり分の生涯の長さでは太刀打ちできない話もありましょう。
そういう巨大な「人間の話」「社会の話」について、無矛盾であることを重視したり、ダブスタを排除したりするのは、私は、違うんじゃないかな……と思っています。
人が生きるという事は、矛盾を生きるという事だと、私は思います。 我々は、命を大切にと言いながら、生物を殺して食べ続けます(イヌとブタでは命の重さが違うのでしょうか)。 節電と叫びながら、ネットやスマホをやめられません(スマホの電池の持ちの悪さは、すなわち電力効率の悪さです)。 年間数千人も殺しておきながら、自動車を使う事もやめられません。
生き続けるという事は、矛盾を作り出し続け、矛盾の中にどっぷりと身を浸す事です。 矛盾が無くなった状態、それは美しい状態ですが、静止した美しい死体、動かず腐らない死体なのです。 理想として「完全な美」を求める気持ちも分かるのですが、生きている以上、「自身が醜い矛盾として生きている」事を前提にしなければ、「より良い場所」にはたどり着けないと私は思います。
人間の話、社会の話には、矛盾がぎっしりと詰め込まれていて、その大量の矛盾を、どのように形を付けていくのか、その「調整」をし続けなければならないのだと思います。 「これでいいのだ」という決定的な処方箋は、たぶん無いのだと思います。
無矛盾な素晴らしい法律や社会体制が仮に出来たとして、それが思った通りに機能するのはほんの一時でしょう。 この世界は、人間の知性と想像力を越えて動き続けているからです。 なればこそ、「今在る矛盾」を「あるがままに受け入れ」て、無数の矛盾を組み合わせつつ何とかうまいこと調整して生き延びていくしか、方法論は無いのではないか、と思うのです。
もちろん、その調整の過程で、矛盾を少しずつ減らしていく事には、大いに意味がありましょう。 矛盾数が少なければ少ないほど、その世界は単純になり、より単純な世界の運営コスト・問題解決コストは、より低くなるでしょう。 これはたぶん、望ましい事です。 しかし、無矛盾を実現しようとするのは、ゼロリスクを求めるのと同様に、「間違っている」と私は思います。
自分も含めて友達のあんなところも、親のあんなところも、あの漫画のあの雰囲気も、コマ割りも、
あの曲のあんなギターのアレンジも、ドラムも、あのバンドも、世俗気取りをしながら斜に構えるあんな思想も、
あのジュースの味も、甘さも、辛さも、苦さも、酸っぱさも全て嫌いだった。許せなかった。
だけれど。
今は全て許せる。くだらない日常も、嫉妬と我欲にまみれた自分に沁みついてるこの汚い考え方も、
果てはあんなに許せなかったあのくだらない会話さえも。今は全てが許せる。くだらない会話なんて張りぼてで、
本当の意味なんて会話の内容になんかなかったんだって、そう思う。
別に全てが嫌いになったわけではない。別に全てが好きになったわけではない。
決して自分が好きになったわけではない、けれど。
今は全てが許せる。なるようになれと思う。今が最高だなんて口が裂けても言えないけれど…。
そう、けせらせら。
http://anond.hatelabo.jp/20130923225019
昨晩の年賀状子供写真時期論争だが、自分の記憶では、80年代じゃなく90年代にようやっと普及した気がする。
これは私見だが、80年代に写真入り年賀状が普及しなかったのは、「ハガキ写真印刷が高価だった」という費用面の制約もあるが、
それ以上に、80年代には「年賀状で子供自慢するのは、ハシタない」という保守的な文化が、まだ世間に残ってたからではないか?
当時はまだ、自分の子供を「愚息」とか「豚児」とへりくだるのが通常だった。
そういう「謙譲の美徳」を日本人が忘れた頃と、年賀状に子供写真掲載時期はシンクロしてる気がする。
さらにいえば、「年賀状を作るのが、旦那か?奥さんか?」という点も重要。
80年代は、まだまだ亭主の方が年賀状作りの主導権を握っていて、「会社の上司や同僚に子供写真送るなんて、こっ恥ずかしい」的感覚があったと思う。
それが90年代に入り、奥さんの権力が強まり、「そんなハシタナイ真似は止めろ」のダンナの声を無視して、
子供写真年賀状の大量印刷が始まる・・・てな仮説は、考えられないか?
そもそも、70年代80年代だと、専業主婦が多かったり、奥さんの学歴も高卒や短大止まりが多かったりして、
それが90年代になると、奥さんも共働きになったり、奥さんが大卒になって同窓人脈が増えたりして、
「年賀状の半分は、奥さん人脈」となっていく。
俺ではなく嫁の話。
結婚する前は、非正規というか、まあ高校の非常勤講師をしていたわけだ。
嫁は28歳、俺は29歳。
先生って、身の回りにいたらわかるかと思うけど、教科の内容だけ詳しけれいいわけじゃなくて教育論とかも知ってなきゃならん。
なので、いま教師を目指してる人って、かなり熱心に教育のことを考え、真剣に努力している人が多いわけだ。
別に、そこまで教師になりたいわけじゃないそうだ。
のんびり、生徒に興味をもってもらえたらいいや、程度。
なので、今までも職場では、あの先生若いのになんで非常勤なのかしら、というような目が気になっていたし、私なんかが本気でなりたい人と混ざって仕事してていいのかな、
それが自分の思い込みか、本当に思われていたのかはわからないけど。
何か新しい仕事を探してもいいし、パートでもいいし、またやりたくなったら教師やってもいいし、と。
でも4か月たったが、やっぱり気は進まないようだ。
結婚して、隣の県に引っ越しはしたけど、学校はどこでもあるわけだし、職場は変われど続けようと思えば続けられるのだけどね。
まあ、俺も嫁にはしたいことをして元気でいてほしいので、必ず働けとか、○○しろ、とか、そういうのは言ってはいないからいいんだけどね。
嫁は、最近、かなり悩んでいるようだ。
実は何もしたいことがなかった、ということに。
あんまり家庭環境も恵まれなかったので、これまでも生きるために働いていただけで、したいこととかあまり考えなかったみたい。
俺の収入で生きれるようになったから、いざ何かしよう、と思っても何していいかわからないし、何かする気がまるで消えたようだ。
そして、何もする気がない、っていうのが怖いレベルにまで達してきた。
家をきれいにしたい、と普段言いながらも、1時間で済むような片づけをしなくなった。
先日、生理前にちょっとヒステリーになったので、俺が全部家を掃除した。
1時間で済んだようなことだった。
嫁の言うしたいことがない、は、「きれいな部屋のほうが嬉しいけど、別に1時間かけてきれいにしたくはない」「おひるごはんも別に食べたくない」くらい、
何もしたくないみたいなんだ。
それにだんだん気が付いてきた。
この人は、世間でいうぐうたら嫁や、浪費嫁とも違って、生きる活力がない嫁だったようだ。
鬱に近いというのかな。
しかし、人間の欲って醜く、際限のなくあるものと俺は思っているので、もっと動物的なというか、世俗的な欲求をかなえてみてはどうか、という話をした。
○○になりたい、とか、○○をできるようになる、とか、○○師の資格をとる、とか、○○を習いにいく、とか、高尚な「したいこと」でなくさ。
金がほしい、旅行にいきたい、おいしいものを食べたい、とか、そういうものをどんどん出していけばいいと思うんだ。
どうすれば嫁に、世俗的な欲求をもっと高めて、がつがつ動いてもらえるんだろうか?
元気なお嫁さんになってもらえるのだろうか?
高められすぎて浪費嫁になったら困るのだが。
俺も給料安いしね…
どうアドバイスしてあげたらいいのかなあ。
最近「坊コン」とか言うのが流行ってるらしい。坊主=お坊さん との合コンらしい。
ニタニタと卑しい顔した坊主どもが、自分たちのお寺にメス共を集めて、ノンアルの酒を飲んでいた。
一人の坊主は巨乳の参加者に声をかけて、ワチャワチャしていた。
出家とは、世俗を離れ、家庭生活を捨てて仏門に入ることのはず。
本来ならば。
海外で孤独だった時に、ふと立ち寄ったお寺で救われた経験があるからだ。
俺は愛欲のない生活をしている。
人生で一度も合コンをしたこともなければ、素人とはセックスをしたこともない。
巨乳を目の端に捉えながら鼻の下長くしてノンアルコールビールを注ぐ坊主より、俺のほうが絶対に清らかな生活をしている。
テレビ局の話はよく分からないけれども、いじめとかに興味のある人ってどう見ても友達になんかなりたくない子にすごい時間と気力を使って構い続けてるよね。
いじめられっこがネットの森の奥深くに逃げれば逃げるほど、すごい勢いで追っかけていくのな、いじめっこって。
まるで自分がいじめられっこに見捨てられるのが怖いかのように。
何かに似てると思ったら、ネットの世界のアングラってのがどのようにして一般化するのかって話題を思い出した。
トルコの例のあれ。主要道路を封鎖して火炎瓶投げつけるなんて、もうデモじゃなくて暴動だよね。治安部隊に制圧されるのも当たり前だ。大統領も公園の中だけで収まる平和的なデモ活動は認めているわけだが、どうにも「デモ隊」の中には暴力的に政権を転覆させたいという輩がいるらしい。
あんなのが日本で起こってみろ。真っ先にデモ隊が批判される。ネット上もデモ隊批判で溢れかえるだろう。トルコ暴動の象徴的なあの写真。ドレス女性に催涙スプレーかける警察官の写真な。あんな写真見ても「トルコ警察ひでー」なんて微塵も思わなかったね。なんでドレス女性が警察とデモ隊が緊迫している現場にいるのかってことを、まずは疑問に思えよ。ドレス女性もデモ隊の一人で警察を不必要に煽って催涙スプレー賭けられたんじゃないの?日本で同じ写真が出まわっても女の自業自得としか思われないだろ。
トルコじゃ世俗派とムスリムが対立しているっていっても、民主的な選挙でムスリムが勝ったわけだ。ムスリムのほうが多数を占めるわけ。大統領派のほうが多いんだから、いくらでも暴動への批判の声を拾うことができるだろ。それこそ日本で同じ事が起きたら、デモ隊の声だけじゃなく、デモ隊を批判する声をこれでもかというくらい取材するはずだ。ニュースを見てるだけでは、正義の一般民衆VS腐敗した大統領という構図に見える。このまま革命が起きてほしい勢力がいるんだね。政権転覆してほしいと。
飛行機のトランジットを待っていて暇なので、ちょっと昔のことでも書いてみようと思う。数年前、この空港にはじめて来たとき、僕は今とはまったく違う人間だった。あの頃の僕は、希望と理想と好奇心に満ちあふれていた。でも今は? 僕の心は冷たく凍っている。そしてこれには訳があるのだ。
僕は父親を早くに亡くし母子家庭で育ったが、まじめに勉強したので成績はいつも一番だった。そのまま東大法学部に入ったあとも、僕は常に一番だった。東大を主席で卒業したとき、母はどれほど喜んだことだろう。その後、僕は外務省に入省し、上層部の大きな期待をうけて、ドイツの大使館に派遣されることになった。当時のベルリンはいまだ東西ドイツ分断の爪あとも生々しく、その一方で、新たな統一国家を創りあげるのだという若々しいエネルギーにもまた満ち満ちていた。その高揚感に僕は目を見張り、自分が今歴史のまっただ中にいるのだということに感激を覚えた。僕はドイツ語とフランス語がとてもよくできたので、大使館でも重宝された。そして、これはすでに上層部の許可を得ていたのだが、大学に籍を置き、仕事の合間にはさらなる勉学に精を出した。
あっという間に三年がすぎた。僕は相変わらず真面目に働き学んでいたが、心の何処かに落ち着かないものがあった。激動の時代を経たベルリンの大学にはさまざまな思想が渦巻いていた。その気風にあたって、僕の心になにがしかの変化が生まれたようだった。それまでの僕は、ただ真面目に生きてきただけだった。母親は僕を歩く辞書にしたかったのだろうし、今、官僚となった僕は歩く法律書であることを求められている、そんな気がした。僕が、自分の頭で物を考えること、そんなことは求められていなかった。そのことに気付き、僕は少しずつ別のことを学び始めた。歴史や文学を学ぶことで、自分なりの思想を作り上げようとしはじめた。
上層部の人間がそれをおもしろいと思うはずもなかった。彼らは僕が機械の歯車であることを望んでいたのだから。そもそも僕は同僚たちの間でも受けがよくなかった。彼らが飲み歩いて遊んでいるとき、僕はそれに加わらず、ひたすら勉強していたのだから。上層部の不興と、同僚たちの嫉みによって、大使館のなかでの自分の立場は危うくなってきていた。
僕が遊び歩かなかったのは、実のところ、僕が臆病だったからというだけだ。僕は子供の頃からずっと優等生だった。僕はまるで処女みたいなものだった。僕はただ極端な臆病者だったのだ。少しでも道を踏み外すのが怖かった。だから敷かれたレールの上を必死で走ってきたのだ。ばかにされてもしかたがないと思う。だが、うらやまれるのは納得がいかない。僕は遊ぶことができなかった。旧東ベルリンのすさんだ地域で、けばけばしい化粧をした娼婦たちに声をかけられても、それを買う勇気すらなかった。
ある日のこと、家に帰る途中ベルリンの壁に程近い、そんな貧しい地域を通りかかった。教会の廃墟の前で、一人の少女が泣いていた。十五、六歳に見える。ジーパンはは着古されているけれど清潔で、パーカーのフードからこぼれる髪は、明るい金髪だった。僕の足あとに気づいて振り返ったその顔を、どう表現したらいいのだろう。真っ青な目は清らかで憂いをたたえていて、その長いまつげからは今まさに涙のしずくが滴り落ちようとしていた。
僕は思わず声をかけていた。
「どうしたのですか。なにかお助けしましょうか」
彼女は驚いて僕を見つめたが、僕が真摯なのがわかったのだろう、こう答えた。
「助けてください。パパが死んだのに、お葬式をあげるお金がないの。私が言うことを聞かないから、ママは私を殴るの」
「こんなところで泣くのはおやめなさい、人目もあることだし」
「ごめんなさい、あなたはいい人ね。頼りにしていたオーナーに、借金を断られたんです。私は彼のところでもう二年も働いているのに。身体で払えと言って来ました。ねえ、お金を貸していただけませんか。かならずお給料からお返ししますから……」
彼女は涙ぐみながら上目遣いに僕を見た。なんともいえず色っぽかった。
僕は財布にたいした現金を持っていなかったので、時計を外して彼女に渡した。
「これをお金に替えなさい」
彼女は感動してポロポロと涙をこぼしながら、僕の頬にキスをした。
その後、彼女は僕が渡した名刺を頼りに僕のアパートを訪ねてきた。僕たちは頻繁に会うようになった。やがて、このことは同僚たちにも知れ渡るようになった。僕が場末のストリッパーと交際していること、もともと僕を快く思っていなかった連中は、それをあることないことで脚色して大使の耳に入れた。僕が学問をつけ生意気なことをいうようになったことが気に入らなかった上層部はこれをいい機会と僕を免職した。
本当は、このころ僕たちはまだ身体の関係をもっていなかった。彼女とその家族は社会主義下の東ベルリンで貧しくも慎ましく生きていたが、壁崩壊後の資本主義の流入で食べるにも困る状況に陥った。そんな時新しくできたストリップクラブでストリッパーとして働かないかと声をかけられたのである。昼は稽古、夜の舞台とこき使われて、そんななかでも努力が実り二番人気まで上り詰めたが、それでも少ない給料で家族を養うのにはとてつもない苦労があったようだ。
僕が首になったことを伝えた日、僕たちははじめて結ばれた。はじめて見たその日から僕は彼女のことを愛していたのだけれど、その気持ちを抑えこもうとしていた。僕の免職をきいて悲しみに震える彼女の姿をみて、僕ははっきりと自覚したのである。彼女を愛している、と。
僕は困窮した。給料はとめられ、滞在許可の期限も切れようとしていた。そんなとき僕を救ったのは、Aという友人だった。
Aは大学時代の同期で大蔵省に勤務していたが、僕が困り果てているのを人伝てに聞いたらしい。知り合いの新聞社の編集長に頼んで、僕をその新聞社の特派員という形にしてくれた。なんとか滞在許可を延長できたものの、給料は雀の涙であった。今度は彼女が僕を助けてくれた。僕はアパートを引き払い彼女の家に転がり込んだ。僕は彼女と、彼女の母親の住む部屋で、互いの少ない給料を持ちあってそれでも楽しい日々を過ごした。僕はもう学問にも本にも見向きもしなくなった。けれど、いわゆる世俗的なもの、今まで見向きもしなかった、見ないようにしていた世界が、僕の前に広がった。
冬が来た。ある日僕はAから電話をもらった。今、大蔵省の次官に同行しベルリンに来ているという。「君の名誉を回復するチャンスだ」、彼はそう言った。彼女にそのことをいうと小躍りして喜んで、戸棚に仕舞いこんであった僕のスーツに念入りにアイロンをかけて着せてくれた。Aが与えてくれた仕事は次官の通訳と翻訳だった。そして、ロシアへの出張の同行を打診された。まとまったお金が入ったので帰ってくるまでの生活費として、僕は彼女にそれを与えた。彼女の体調が優れないようなので、それが気がかりだった。
ロシアへの出張はすばらしいものだった。なによりも国際政治の舞台に再び立っているということが、僕の心を高揚させた。彼女のことを忘れていたわけではない、けれども、僕は迷い続けていた。日本に帰ってふたたびキャリアを積み重ねることができたなら……
ようやく出張から帰ったその瞬間まで、僕はそんなことを考えていた。けれど、彼女が戸口から飛び出して抱きついてきたその時、そんな迷いは吹き飛んでしまった。彼女とともに生きよう。僕は彼女を愛しているんだ……部屋のテーブルには、編みかけの靴下があった、それも、ミニチュアのような靴下だった。彼女は幸せそうに微笑みながらいった。「どう?」
数日後、僕は次官に呼ばれた。彼は言った。君の能力はすばらしい。ポストを用意するから、日本に帰ってこないかね。
僕はとっさに思った。このチャンスを逃したら、僕はこのまま落ちぶれて、日本に帰ることもできず、異国に散ることになってしまう。その瞬間、僕は、「光栄至極です」と言っていたのだった……
真冬のウンター・デン・リンデンを、僕はさまよい歩いた。僕の肩には厚く雪が積もった。固く凍った路面で、何度も滑り膝を着いた。ようやく家に帰ったとき、僕はまるで死人のような有様でそのまま床に倒れこんでしまった。
それから数日間の記憶はない。高熱を出してうわ言をいっているのを、彼女は必死に看病してくれていたらしい。そんなときAが訪ねてきて、僕が次官に帰国の約束をしたことを告げた。意識を取り戻したとき、僕は彼女の変わり様に驚愕した。Aは彼女を精神的に殺してしまったのだった。彼女は、「なんていうこと、そこまで私を騙していたなんて」と叫び、倒れてしまったのだという。ふたたび目をさましたときには、もう正気を失っていて、僕の名を呼んで罵ったり、髪をかきむしったり、小さな靴下に頬ずりをしてさめざめと泣いたりするばかりだった。
僕のほうの病気はすっかり治った。日本に帰国する際には彼女の母親に、幾ばくかの金を与え、可哀想な彼女の胎内の子供のことも頼んでおいた……