先日、息子が私のパソコンでYoutubeを見ていた。私の閲覧履歴から、鉄拳の"振り子"の動画を見つけ、クリックした。私は数か月ぶりかにその動画を見て涙が溢れていたが、息子の眼差しがディスプレイから逸らされることはなかった。息子に気付かれないように涙を拭った。私が涙を流したのは、数か月前にこの"振り子"の動画を初めて見た時以来だった。
その次の日、娘が交通事故に遭った。家に居た妻とケータイで話しながら横断歩道を歩いていた際に、車に接触されたらしい。電話の向こうで何が起こったのか解らない妻は、電話で娘の名前を叫び続けた。現場で事故を目の当たりにされた方が娘のケータイを拾い、妻に状況を報告してくれたのだが、加害者は動揺して娘を自分の車で病院まで連れて行こうとしたらしい。妻は混乱しながらも私に電話をし、娘が交通事故に遭ったこと、足を怪我したこと、加害者が連れ去ったことを伝えてきた。断片的な情報しか受け取っていない私は、まだ記憶に新しい楽天社員による事件を思い起こした。
私は仕事を投げ出し、急いで帰宅した。家に妻は居なかった。後で聞いた話によると、現場の近所の方が救急車を呼んでくれて、加害者に連れ去られることなく救急車に収容されたものの、救急隊員に保護者の同伴を求められ、更には収容先の病院がなく、救急車はなかなか出発しなかった。その間に妻が現場に到着し、家で待機していた私に電話をくれた。電話から聞こえる声は、妻ではなく娘だった。少し話をして電話を切った。娘のはっきりとした口調を耳にして安心したのも束の間、その後の妻からのメッセージに「開放骨折」という言葉が入っていた。妻はそれが意味するところを全く知らなかったようだが、私はそれがどういう状態なのかをある程度理解し、娘は元通りには歩けなくなるかもしれないと覚悟した。
収容先の病院で妻と二人、担当医に娘の状況を説明される。いくつかの幸運が重なり、私が勝手に想像していた最悪のシナリオは否定された。しかし、最悪死に至るような合併症などのリスクはゼロではなく、まずは緊急手術をする事に同意を求められた。選択肢はない。ひとりの人間としてはまだ幼すぎる娘だが、事故からここに至るまで涙を見せることはなく、救急車の中で妻に会い、最初に発した言葉は「ごめんなさい」だった。2時間に及ぶ手術も無事に乗り越えた。ここまで本当によく頑張ったと思う。術後、ベッドに眠る娘を見て、私はようやく人心地付いた。気が弛み、涙した。私が2日連続で涙を流すことなんて、何年ぶりだろうか。
話は少し前に戻って収容先の病院に車で向かう途中、一台の救急車に追い抜かれた。病院の救急医療センターには断続的に患者が訪れてくる。あるいは救急車で運び込まれてくる。事件なのか事故なのかパトカーと警察官も来る。うちの家族に起きた災難と同じようなことが日常的に起こっていることを痛感した。手術が終わるのを待つ間に、警察署からは加害者が直接お詫びしたいと待っているという連絡があったが、会ってもこちらには何のメリットもないどころか自分の中で悪い感情が大きくなることが容易に想像できたため、面会を拒否した。この連絡で加害者には直接我々に会って謝罪する意志があり、まともな人間であることがわかったが、我々から見ればまともな人間などではなく、過失で娘を殺しかけたヒトゴロシのなり損ないに過ぎない。罵倒しようが殴り倒そうが娘の傷が癒えるわけではないし、やりどころのない気持ちを加害者に向けても何も解決しない。その一方、謝罪する機会を加害者に与えることすら拒否したいと考えていることも事実だった。
帰宅途中に警察署から再び電話があった。今回の事故が報道されるかもしれないという。記事になるかどうかは報道機関次第とのことだが、我々に記事掲載を拒否する権利がないなら何故わざわざ連絡をよこすのかと気分が悪くなった。この程度の事故なら日本中で嫌というほど起こっているだろうに。違和感を覚えながらも匿名を希望していることを強く伝えてもらうようお願いした。
事故の翌日、私は仕事に行き、妻は自分のスケジュールを調整して面会時間中はずっと娘の傍に居た。私も仕事を早めに切り上げて娘の元に向かった。点滴による薬投与のせいか発熱のせいかは判らないが、娘はずっと調子が悪そうに寝ていた。人間とは強欲なもので、事故を知った時には生きてさえくれればと神に祈り、娘の声を聞いた時には障害さえ残らなければそれで良いと思い、担当医に完治の見通しについて説明された時には傷跡が残ってしまうことを呪い、完治には十分な時間が必要と告げられた時には今後の予定が全て崩れてしまうことを嘆いた。ずっと我慢していた娘が、事故後に初めて泣いた。妻も私も泣いた。3日連続で涙を流すのはおそらく幼少の時以来になるのではないか。
帰宅後、今回の事故が新聞に載っていることを知った。加害者が報道されるに値するだけの人物だったのだ。なるほど違和感を覚えたあの電話は、こうなることを予期しての予防線だったのか。とある新聞では「重症」と記され、その言葉で妻はことの重大さをもう一度噛みしめてしまい涙し、別の新聞のWeb記事では「骨折」と記され、その言葉の与える印象の軽さに私は怒りを覚えた。娘は今後何か月にも渡り貴重な時間を不自由に過ごさなければならないのだろう。もし元通りに歩いたり走ったりできるようになっても、その傷跡が完全に消えることはないだろう。事故の瞬間を電話で聞いていた妻は、確実に寿命が縮まるほどの精神的なダメージを負ってしまっただろう。それ以外にも、私と妻が病院に通うだけの労力と、通院のための時間を使ってするはずだった経済的な活動、通院のために発生する周囲の人たちへの負担は、誰も補償してくれはしない。
あれから娘は順調に回復し、熱は下がり、点滴も外れ、食欲も出てきた。まだ入院中の娘の笑顔を見て、安心してしまっている自分がいる。過去に事故の加害者や被害者になったこともあり、車を何度もぶつけたことのある私は、自分がいつか今回の加害者と同等の立場に立たされる可能性、自動車を運転することのリスクを見つめ直した。また、被害者という立場に立たされ、被害者にしかわからないこと、「被害」とはどういうものなのかを身をもって体験した。その一方、家族の大切さを嫌というほど再認識させられ、また周囲の人たちからの温かい支援を得られることが嬉しかった。本当に貴重な体験だった。だがそれを学ぶにはあまりに高い代償であり、娘が元気に走れるようになるまでは、まだまだ多くの時間が掛かり、その間にも様々なことがあるだろう。
様々な葛藤を整理し、記し、公開することで区切りをつけたかった。
以上、今日までの出来事と、今現在感じていることを記録しておく。「娘が入院している」という「非常」が、「日常」になりつつあることに恐怖しながら。
先日、息子が私のパソコンでYoutubeを見ていた。私の閲覧履歴から、鉄拳の"振り子"の動画を見つけ、クリックした。私は数か月ぶりかにその動画を見て涙が溢れていたが、息子の眼差しがディスプレイから逸らされることはなかった。息子に気付かれないように涙を拭った。私が涙を流したのは、数か月前にこの"振り子"の動画を初めて見た時以来だった。
その次の日、娘が交通事故に遭った。家に居た妻とケータイで話しながら横断歩道を歩いていた際に、車に接触されたらしい。電話の向こうで何が起こったのか解らない妻は、電話で娘の名前を叫び続けた。現場で事故を目の当たりにされた方が娘のケータイを拾い、妻に状況を報告してくれたのだが、加害者は動揺して娘を自分の車で病院まで連れて行こうとしたらしい。妻は混乱しながらも私に電話をし、娘が交通事故に遭ったこと、足を怪我したこと、加害者が連れ去ったことを伝えてきた。断片的な情報しか受け取っていない私は、まだ記憶に新しい楽天社員による事件を思い起こした。
私は仕事を投げ出し、急いで帰宅した。家に妻は居なかった。後で聞いた話によると、現場の近所の方が救急車を呼んでくれて、加害者に連れ去られることなく救急車に収容されたものの、救急隊員に保護者の同伴を求められ、更には収容先の病院がなく、救急車はなかなか出発しなかった。その間に妻が現場に到着し、家で待機していた私に電話をくれた。電話から聞こえる声は、妻ではなく娘だった。少し話をして電話を切った。娘のはっきりとした口調を耳にして安心したのも束の間、その後の妻からのメッセージに「開放骨折」という言葉が入っていた。妻はそれが意味するところを全く知らなかったようだが、私はそれがどういう状態なのかをある程度理解し、娘は元通りには歩けなくなるかもしれないと覚悟した。
収容先の病院で妻と二人、担当医に娘の状況を説明される。いくつかの幸運が重なり、私が勝手に想像していた最悪のシナリオは否定された。しかし、最悪死に至るような合併症などのリスクはゼロではなく、まずは緊急手術をする事に同意を求められた。選択肢はない。ひとりの人間としてはまだ幼すぎる娘だが、事故からここに至るまで涙を見せることはなく、救急車の中で妻に会い、最初に発した言葉は「ごめんなさい」だった。2時間に及ぶ手術も無事に乗り越えた。ここまで本当によく頑張ったと思う。術後、ベッドに眠る娘を見て、私はようやく人心地付いた。気が弛み、涙した。私が2日連続で涙を流すことなんて、何年ぶりだろうか。
話は少し前に戻って収容先の病院に車で向かう途中、一台の救急車に追い抜かれた。病院の救急医療センターには断続的に患者が訪れてくる。あるいは救急車で運び込まれてくる。事件なのか事故なのかパトカーと警察官も来る。うちの家族に起きた災難と同じようなことが日常的に起こっていることを痛感した。手術が終わるのを待つ間に、警察署からは加害者が直接お詫びしたいと待っているという連絡があったが、会ってもこちらには何のメリットもないどころか自分の中で悪い感情が大きくなることが容易に想像できたため、面会を拒否した。この連絡で加害者には直接我々に会って謝罪する意志があり、まともな人間であることがわかったが、我々から見ればまともな人間などではなく、過失で娘を殺しかけたヒトゴロシのなり損ないに過ぎない。罵倒しようが殴り倒そうが娘の傷が癒えるわけではないし、やりどころのない気持ちを加害者に向けても何も解決しない。その一方、謝罪する機会を加害者に与えることすら拒否したいと考えていることも事実だった。
帰宅途中に警察署から再び電話があった。今回の事故が報道されるかもしれないという。記事になるかどうかは報道機関次第とのことだが、我々に記事掲載を拒否する権利がないなら何故わざわざ連絡をよこすのかと気分が悪くなった。この程度の事故なら日本中で嫌というほど起こっているだろうに。違和感を覚えながらも匿名を希望していることを強く伝えてもらうようお願いした。
事故の翌日、私は仕事に行き、妻は自分のスケジュールを調整して面会時間中はずっと娘の傍に居た。私も仕事を早めに切り上げて娘の元に向かった。点滴による薬投与のせいか発熱のせいかは判らないが、娘はずっと調子が悪そうに寝ていた。人間とは強欲なもので、事故を知った時には生きてさえくれればと神に祈り、娘の声を聞いた時には障害さえ残らなければそれで良いと思い、担当医に完治の見通しについて説明された時には傷跡が残ってしまうことを呪い、完治には十分な時間が必要と告げられた時には今後の予定が全て崩れてしまうことを嘆いた。ずっと我慢していた娘が、事故後に初めて泣いた。妻も私も泣いた。3日連続で涙を流すのはおそらく幼少の時以来になるのではないか。
帰宅後、今回の事故が新聞に載っていることを知った。加害者が報道されるに値するだけの人物だったのだ。なるほど違和感を覚えたあの電話は、こうなることを予期しての予防線だったのか。とある新聞では「重症」と記され、その言葉で妻はことの重大さをもう一度噛みしめてしまい涙し、別の新聞のWeb記事では「骨折」と記され、その言葉の与える印象の軽さに私は怒りを覚えた。娘は今後何か月にも渡り貴重な時間を不自由に過ごさなければならないのだろう。もし元通りに歩いたり走ったりできるようになっても、その傷跡が完全に消えることはないだろう。事故の瞬間を電話で聞いていた妻は、確実に寿命が縮まるほどの精神的なダメージを負ってしまっただろう。それ以外にも、私と妻が病院に通うだけの労力と、通院のための時間を使ってするはずだった経済的な活動、通院のために発生する周囲の人たちへの負担は、誰も補償してくれはしない。
あれから娘は順調に回復し、熱は下がり、点滴も外れ、食欲も出てきた。まだ入院中の娘の笑顔を見て、安心してしまっている自分がいる。過去に事故の加害者や被害者になったこともあり、車を何度もぶつけたことのある私は、自分がいつか今回の加害者と同等の立場に立たされる可能性、自動車を運転することのリスクを見つめ直した。また、被害者という立場に立たされ、被害者にしかわからないこと、「被害」とはどういうものなのかを身をもって体験した。その一方、家族の大切さを嫌というほど再認識させられ、また周囲の人たちからの温かい支援を得られることが嬉しかった。本当に貴重な体験だった。だがそれを学ぶにはあまりに高い代償であり、娘が元気に走れるようになるまでは、まだまだ多くの時間が掛かり、その間にも様々なことがあるだろう。
様々な葛藤を整理し、記し、公開することで区切りをつけたかった。
以上、今日までの出来事と、今現在感じていることを記録しておく。「娘が入院している」という「非常」が、「日常」になりつつあることに恐怖しながら。
先日、息子が私のパソコンでYoutubeを見ていた。私の閲覧履歴から、鉄拳の"振り子"の動画を見つけ、クリックした。私は数か月ぶりかにその動画を見て涙が溢れていたが、息子の眼差しがディスプレイから逸らされることはなかった。息子に気付かれないように涙を拭った。私が涙を流したのは、数か月前にこの"振り子"の動画を初めて見た時以来だった。
その次の日、娘が交通事故に遭った。家に居た妻とケータイで話しながら横断歩道を歩いていた際に、車に接触されたらしい。電話の向こうで何が起こったのか解らない妻は、電話で娘の名前を叫び続けた。現場で事故を目の当たりにされた方が娘のケータイを拾い、妻に状況を報告してくれたのだが、加害者は動揺して娘を自分の車で病院まで連れて行こうとしたらしい。妻は混乱しながらも私に電話をし、娘が交通事故に遭ったこと、足を怪我したこと、加害者が連れ去ったことを伝えてきた。断片的な情報しか受け取っていない私は、まだ記憶に新しい楽天社員による事件を思い起こした。
私は仕事を投げ出し、急いで帰宅した。家に妻は居なかった。後で聞いた話によると、現場の近所の方が救急車を呼んでくれて、加害者に連れ去られることなく救急車に収容されたものの、救急隊員に保護者の同伴を求められ、更には収容先の病院がなく、救急車はなかなか出発しなかった。その間に妻が現場に到着し、家で待機していた私に電話をくれた。電話から聞こえる声は、妻ではなく娘だった。少し話をして電話を切った。娘のはっきりとした口調を耳にして安心したのも束の間、その後の妻からのメッセージに「開放骨折」という言葉が入っていた。妻はそれが意味するところを全く知らなかったようだが、私はそれがどういう状態なのかをある程度理解し、娘は元通りには歩けなくなるかもしれないと覚悟した。
収容先の病院で妻と二人、担当医に娘の状況を説明される。いくつかの幸運が重なり、私が勝手に想像していた最悪のシナリオは否定された。しかし、最悪死に至るような合併症などのリスクはゼロではなく、まずは緊急手術をする事に同意を求められた。選択肢はない。ひとりの人間としてはまだ幼すぎる娘だが、事故からここに至るまで涙を見せることはなく、救急車の中で妻に会い、最初に発した言葉は「ごめんなさい」だった。2時間に及ぶ手術も無事に乗り越えた。ここまで本当によく頑張ったと思う。術後、ベッドに眠る娘を見て、私はようやく人心地付いた。気が弛み、涙した。私が2日連続で涙を流すことなんて、何年ぶりだろうか。
話は少し前に戻って収容先の病院に車で向かう途中、一台の救急車に追い抜かれた。病院の救急医療センターには断続的に患者が訪れてくる。あるいは救急車で運び込まれてくる。事件なのか事故なのかパトカーと警察官も来る。うちの家族に起きた災難と同じようなことが日常的に起こっていることを痛感した。手術が終わるのを待つ間に、警察署からは加害者が直接お詫びしたいと待っているという連絡があったが、会ってもこちらには何のメリットもないどころか自分の中で悪い感情が大きくなることが容易に想像できたため、面会を拒否した。この連絡で加害者には直接我々に会って謝罪する意志があり、まともな人間であることがわかったが、我々から見ればまともな人間などではなく、過失で娘を殺しかけたヒトゴロシのなり損ないに過ぎない。罵倒しようが殴り倒そうが娘の傷が癒えるわけではないし、やりどころのない気持ちを加害者に向けても何も解決しない。その一方、謝罪する機会を加害者に与えることすら拒否したいと考えていることも事実だった。
帰宅途中に警察署から再び電話があった。今回の事故が報道されるかもしれないという。記事になるかどうかは報道機関次第とのことだが、我々に記事掲載を拒否する権利がないなら何故わざわざ連絡をよこすのかと気分が悪くなった。この程度の事故なら日本中で嫌というほど起こっているだろうに。違和感を覚えながらも匿名を希望していることを強く伝えてもらうようお願いした。
事故の翌日、私は仕事に行き、妻は自分のスケジュールを調整して面会時間中はずっと娘の傍に居た。私も仕事を早めに切り上げて娘の元に向かった。点滴による薬投与のせいか発熱のせいかは判らないが、娘はずっと調子が悪そうに寝ていた。人間とは強欲なもので、事故を知った時には生きてさえくれればと神に祈り、娘の声を聞いた時には障害さえ残らなければそれで良いと思い、担当医に完治の見通しについて説明された時には傷跡が残ってしまうことを呪い、完治には十分な時間が必要と告げられた時には今後の予定が全て崩れてしまうことを嘆いた。ずっと我慢していた娘が、事故後に初めて泣いた。妻も私も泣いた。3日連続で涙を流すのはおそらく幼少の時以来になるのではないか。
帰宅後、今回の事故が新聞に載っていることを知った。加害者が報道されるに値するだけの人物だったのだ。なるほど違和感を覚えたあの電話は、こうなることを予期しての予防線だったのか。とある新聞では「重症」と記され、その言葉で妻はことの重大さをもう一度噛みしめてしまい涙し、別の新聞のWeb記事では「骨折」と記され、その言葉の与える印象の軽さに私は怒りを覚えた。娘は今後何か月にも渡り貴重な時間を不自由に過ごさなければならないのだろう。もし元通りに歩いたり走ったりできるようになっても、その傷跡が完全に消えることはないだろう。事故の瞬間を電話で聞いていた妻は、確実に寿命が縮まるほどの精神的なダメージを負ってしまっただろう。それ以外にも、私と妻が病院に通うだけの労力と、通院のための時間を使ってするはずだった経済的な活動、通院のために発生する周囲の人たちへの負担は、誰も補償してくれはしない。
あれから娘は順調に回復し、熱は下がり、点滴も外れ、食欲も出てきた。まだ入院中の娘の笑顔を見て、安心してしまっている自分がいる。過去に事故の加害者や被害者になったこともあり、車を何度もぶつけたことのある私は、自分がいつか今回の加害者と同等の立場に立たされる可能性、自動車を運転することのリスクを見つめ直した。また、被害者という立場に立たされ、被害者にしかわからないこと、「被害」とはどういうものなのかを身をもって体験した。その一方、家族の大切さを嫌というほど再認識させられ、また周囲の人たちからの温かい支援を得られることが嬉しかった。本当に貴重な体験だった。だがそれを学ぶにはあまりに高い代償であり、娘が元気に走れるようになるまでは、まだまだ多くの時間が掛かり、その間にも様々なことがあるだろう。
様々な葛藤を整理し、記し、公開することで区切りをつけたかった。
以上、今日までの出来事と、今現在感じていることを記録しておく。「娘が入院している」という「非常」が、「日常」になりつつあることに恐怖しながら。
おっと、Haskellerの悪口はそこまでだ。
デザイン・・・かな・・・。
・パッと見た瞬間、「何が出来る/何をするサイトなのか」が分からない。
→更新通知やお知らせの前後に、「~なサイトです。」といった説明文があるといいかも。
・ランキングの視認性が悪い
→最低でも各行毎の余白と、奇数偶数別の(とても薄い)背景色を加えたほうがいい。こんなの → http://2ch-c.net/
・古臭い
→・・・何が、といわれると困ってしまうが、全体的に「昔のファンサイト」感が強い。はてな民には多分ウケない。
とりあえず、リンクの文字色をデフォルトで無くすところから始めよう。
※素人意見です
数年先輩の公務員ですが
基本的に地方公務員の仕事はルーチンワークなので、作業が正確で早ければ良い
資格を無意味って言われたのは、別に資格が必要な仕事じゃないからです。それは個人的なものでおさめてください。
正直、上の人に評価されるためにはその人たちの好みがわかってないといけないので、飲みニケーション()でもタバコミュニケーションでもするしかないです。
公務員は場の空気がなぁなぁになりやすいので(民間を詳しく知ってるわけじゃないけど)、特に空気を読む力が必要です。
君を知らないから的確なアドバイスはできないけど、しいていうならやることは業務上の勉強・資格とかの個人的な能力に関することではなくて、周りを見てツテを作るってことかな。バカらしいと思うかもしれないけど、評価されたいならそれしかない。
考えてみれば、贅沢な話なのだけどね。
先日、仕事の年度契約更新はされたけど、去年までと違い、正直感慨もなにも浮かばなかった。
給料は給与表の天についてるからこの先も昇給しないし、手取りは公務員改革と復興税で下がったし。
正職員への転換は見通しがないといわれている。(本部の意向、というかやる気がない。)
35歳独身実家暮らしで週4×7H、手取り15万(通勤費2万円込なので実質13万)年収で税込み180。200万超えないのが…。
大卒で勤めたときの初任給が残業やら出向手当やらで税込400だったのでそこからのギャップがいまだに埋め切れてない。
それはもはや過去の幻影でしかないのだけど。
今のところは残業がないのと気楽なのと、躁うつ病もちで正職員職場に不安があったのは確か
(2回再就職して短期離職をやったのでトラウマ。今は残業には耐えられる日とそうでない日があると思う)。
今も治療中。だいぶかんかいしてきた。少なくとも年単位で見たときに2,3年前よりはよくなっていると思う。
最初は行く途中の地下鉄で休む電話を入れる(で、そのまま一日まちなかのベンチでヘタる)ことも多かった。
それでもなんとか持ちこたえられた。1回2週間休職したけど戻れた。
だから愛着もあるし、何とかしていきたい。けど、この給料では生活は、まして結婚はと考えると、それではよくないだろうと思う。
いい加減次のステージに行く時期なんだろうか。次のステージとは違う職場なのかな。
こないだ占術師に見てもらった。
(あなたはサラリーマンで終わる人じゃないけど、独立はこの3年はおよしなさいと言われた。ペースダウンしてと。)
四柱推命は向こう3年は空亡(いわゆる大殺界)。前回はこの時期に鬱で会社辞め田舎に帰った。今でも後悔している(いっそ倒れて入院してれば…それでも
やめる時期が違っただけかもしれないと思ってるけど、8年たってもそのころの仕事が夢に出てくる。結局好きだったんだよね。)。
今度はそういうことがないようにと思ってるのだけど、今度は今のところにしがみつくことが逆に後悔になるのではないかとそこが不安である。
ただ、占術氏いわく空亡の時期はがんばったことは空回り、思わぬところから恩恵が来るという時期らしいので、じっと耐え忍びつつも動きを止めない、ぐらいの方がいいのかもしれない。
(たとえば一発屋が売れる時期が空亡の時期なのだそうだ。3年たつと元の状態(売れてない)に戻るので、空亡中に売れてもで謙虚に過ごすことが大事)
結局自分はどうしたいのか。今の職場を逃げたところで次のところでもまた逃げる羽目になるのではないか。
それならば今のところで適当によろしくやりながら趣味などをつらつらつまみ食いしてやってみてもいいのではないか。
株のスキルを磨いて合法的に副業するのもありだろう。(なんだかんだで10年やってきた。今のところ累積赤字だけど徐々に解消してきている)
やってみたいことが浮かぶならやってみればいい、といわれたのでつらつら書いてみると、乗馬、ダイビング、大学院、海外旅行、一人暮らし、東京に住む、
ただ興味あちこち向いているのと神経質な分ノイズを拾いやすいので、あんまり深堀りしたらいけないのかも。
まあ、書いていると大局的には今(むこう半年くらい)はこのままじっとしてる方がいい気がしてくる。動物的勘。
時々実家じゃないところ(安いビジネスとか)に泊まって一人の時間を取ることが大事と友人が言ってくれた。
その通りだと思う。あてなくぶらり旅でもいいんだけどね。最近してねーや、ぶらり気まま旅。行くとしたらこだまで東京ばっかり。
電車好きだから行きたいように行ってどこでも民宿とかビジネスとか泊まればいいんだよね。
書いてたらなんかちょっと元気出てきた。明日からまたちょっとだけがんばれそうだ。
いつものことながら、増田という「場」には本当に感謝してる。ありがとう。おやすみなさい。
大学を卒業し、1年の就職浪人の後、地元の県庁に採用されて5年になる。
同い年の人(俺は大学に入る時にも一浪しているので、職場では2年先輩だったり、同期でも修士卒だったりする)は、部長やら局長やらに同行して泊まりで東京の会議に出席してるような奴もいる。
しかし俺は相変わらずバイトでも出来るような雑用とルーチンばかりである。
自分に割り当てられた仕事はどれも期限までにきちんとこなしているつもりだ。大きなミスをしたことはない。
ただ、おそらく評価されるためには、言われたことをやるだけじゃダメなのだろう。自分から仕事を見つけて率先して提案して取り組まなくては。
そう思って自分なりに考えていろいろ提案してみた時期もあったが、全て却下された。
受け持った分野の基本的な知識を身につけ、興味とやる気をアピールするために、ちょっとした資格をとってみたりもした。(環境課にいるとしたら、環境検定みたいなのを2つほど取った)が、これも無意味だと言われた。
すごく社交的な性格というではないが、コミュ障ではない。普通に遊ぶ友達は何人もいるし、彼女も最近まではいた。酒は弱いが、職場の飲み会は断ったことはない。
一体俺には何が足りないんだろう。
評価されている同期を見ると、内部事情やら庁内の暗黙のお約束みたいなのに異様に詳しい。どこで学んでいるのだろう。当然だけど、そんなことが書いてある本などないし。管理職同士の折衝の場とかに同席していれば徐々に覚えるだろうけど、そもそも同席させてなんてもらえない。
あと、部屋の反対側で部長と課長がボソボソ話していた内容とかをなぜかみんな知っている。そんなの四六時中聞き耳立てていたら本来業務に支障が出ると思うのだが……。
Facebookでこんな話がシェアされて回ってきた。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
◎バスの中で言葉の暴力を喰らった
10歳の息子がある病気を持っており、車いす生活で、さらに投薬の副作用もあり一見ダルマのような体型。
知能レベルは年齢平均のため、尚更何かと辛い思いをしてきている。
本日、通院日でバスに乗ったとき、いつも通り車いすの席を運転手が声かけして空けてくれたんだが、どうやらそれで立たされた人がムカついたらしく、ひどい言葉の暴力を喰らった。
・ぶくぶく醜い
・何で税金泥棒のために立たされなきゃならないの
・補助金で贅沢してるくせに
・役に立たないのになんで生かしておくかなあ?
それもこちらに言ってくるのではなく、雑談のように数人でこそこそ。
それがまだ小さい子連れの母親のグループだった。
息子が気付いて「お母さん降りようか?」と言ってくれたんだが、実は耳が聞こえにくいため、声が大きく発音が不明瞭な息子に今度は普通の声で「きも!」と言われたよ。
あまりのことに切れて「何か息子の件でご迷惑でも?」と言ったら、笑いながら「何か?だってwwうけるwww」と嘲笑された。
さらに「うちは娘だから、あんなのに目付けられたくない」「アタマがないからレ●プされても泣き寝入りだもんね~」とも言われた。
さすがにもう降りようとしたら、運転手さんがバス停に止まって「えー、奥さん、ここで降りてください」と言われる始末。
『あーもーいいや、苦情だけ入れて二度とこの路線使うもんか』と思いながら車いすを外そうとしたら「あ、お母さんじゃなくて」と私を見て運転手さんが続けた。
「後ろの奥さん方、あなた方が乗ってること自体が他のお客さんに迷惑ですので、こちらで降りてください」
私ポカーン、息子もポカーン、指された子連れママたちもポカーン。
そしたら後部から「さっさと降りろ!うざいんだよ!」「食べこぼしは片付けて行きなさいよ!」「ほらさっさと行きなさい!」との声が聞こえてきた。
さらに降りるときに運転手さんに「クレーム入れてやる!おぼえとけ!」と言ったら「はいどうぞ。乗車賃いりませんからさっさと降りてください」と言われてた。
その人たちが降りてからお礼を言ったら「迷惑行為排除は私たちの仕事ですから気にしないでください」と言われてしまい、もう私涙目。
冷たい視線ばかりと思ってたのに、世の中捨てたもんじゃないと思った。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
読んでゾッとした。
2chとかでよくあるイイ話系のコピペで、この話自体嘘八百だろうな、と思う。
悪口の内容もありえないし、小さな女の子を連れた母親が、「アタマがないからレイプされても泣き寝入りだもんね〜」なんて、言わないと思う。
ちょっと、信じられない。それから、後ろに座ってた人達の罵声による応戦。・・・感覚的に、信じられない。
そしてまあお決まりのようにかっこいいバスの運転手。・・・どうしてこの手の話って、バスの運転手やタクシー運転手が、
殊更に美化されとるんだ。
この話がもし本当にあったのだとしたら、酷いし、この母子の気持ちを考えたら本当にやるせないのだけど、
バス運転手が途中で子連れお母さんグループを降ろすのはちょっとやり過ぎだし、(小さい子いるんだよね?)後部座席の人達も酷いし、
その人達が降ろされた後に本当に気まずい思いをするのはこの母子だと思う。
で、この手の話がほぼ間違いなく嘘であるという事を前提に、なんでこーいうイイ話が作られて、
たくさんの人に絶賛されることが気持ち悪いと思うのか、考えてみる。
こういう勧善懲悪系の話って、完全なフィクションで、現実にはありえないような(漫画、アクション映画、ヒーロー物など)設定だったり、
バイオレンス物や復讐系の話で悪役が極悪非道だったりしたら、私は受け入れて感動したり楽しむ事ができる。(あまり好きではないけど)
でも、現実に起こりそうな話で、しかも悪役は普通の一般人で、咎められる事は暴力や犯罪行為でなく「悪口」や「マナー」。
そして、そういう現実的な勧善懲悪である「イイ話」の作り手は、それを「フィクションです」と言う事はなく、あくまで「実話です」という体でこちらに提供してくる。
恐らく、元から「フィクションです」なんて言うつもりはなくて、あくまで作り手は「実話」を作ってるんだと思う。すごく手の込んだ、限りなく実話に近い実話。
その魂胆には、「障がい者やお年寄りや人種被差別者を尊重する」気持ちなんて微塵もなくて、
「悪役、実際の社会に存在する自分にとって好ましくない人達(なぜか女子高生、女子大生、子連れ母親、ヤンキー、お年寄り、気の強い女性が多い)をとにかく乏しめたい」
という気持ちが見え見え。こういう話で、悪役側が普通の男性サラリーマンとか男子高校生とかっていうの、全然見ない。
悪役にされる女子高生は、進学校に通う真面目そうな女子高生ではなく、あまり偏差値の高くない私立の女子高に通う茶髪でスカートが短い子、とかね。
ものすごーーーく偏ってる。
それに、なんか知らんけど「障がい者」や「お年寄り」や「真面目そうな女子」や「黒人」を勝手に弱者、被害者に仕立て上げて、勝手に罵倒を浴びせ、健常者で男である「バスの運転手」
や「客室乗務員」や「サラリーマン」を勝手にヒーローに仕立て上げて、憐れみを施すかのように「弱者」を「助けてあげてる」。
もーこれが胸糞悪い意外の何かだったら一体なんなんだ。
本当に真面目に、社会的弱者の支援や、病気や障害や人種や性別や年齢による差別を失くそうと考えてる人は、こんな話を作らない。
そういう考えや行動の基本は、「全ての人が幸せに暮らす」ことなのだから、悪役を仕立て上げる必要なんてはなからない。
有川浩の「阪急電車」で、電車の中でごく普通の一般人が繰り広げるこのコピペと似た「イイ話」も、すごくすごく気持ちが悪くて、
小説だからまあフィクションなんだけど、やっぱりなんか許せなかったのを思い出した。
有川浩好きな知人二人が、この手のイイ話もシェアしたりしてるんだけど、なんか変だな。って思ってしまう。
こういう話を絶賛する人って、恐らく「自分は絶対的に正しい」とか、「自分は良い人だ」って、思って疑わないんじゃないかな。
自分はヒーローだと信じていて、悪役をこてんぱんにやっつけることで、自分の正しさや優位性を押し付けてる印象。
そういう、「真面目で純粋で優しくて正しい」人の事を、否定するわけではないけど、そういう人達の向ける、そうでない人達への、
無自覚の攻撃性みたいなものが、怖いなーと思ってしまう。
もちろん、電車内なんかで、酷い言葉を浴びせられる事や、酷い悪口を聞いてしまうことは、たまにだけどある。
嫌な思いをしたこともあるし、なんかあの人達、感じ悪かったなーって思う時もある。
でもそこに、物語のように「ヒーロー」が現れることはほとんどない。3年間通学で電車を使ったけど見たことない。
現実の一般人なんてそんなもの。もしマナーがあまりにも悪いときや犯罪行為が行われているときは、注意したり車掌を呼んだり
すればいい話で、「ヒーロー」が生まれる必要なんて全く無い。見知らぬ人を憎んだり、絶賛したり、知らん人の間で対立構造が
生まれるなんて絶対嫌だ。そんな勧善懲悪を、現実にまで望んでいない。現実では、「善」はすぐ「悪」に成り代わってしまう。
ちょっと悪口を言ったりマナーが悪かっただけの一般人を貶め、注意した人を絶賛し正しさを押し付ける、ヘイト満載のイイ話は、やっぱり嫌いだ。
「少しスッとする」気持ちも分からないことはない。だからこそ、こういう話は人気があるのだろうけど。
でもやっぱり、気持ちが悪い。地獄への道は善意で舗装されている、この言葉がぴったりだと思う。
正しく言うと↓こうなる
「日本は薩長系と半島系の連中が婚姻関係を結び支配している、そのボスは欧州の銀行家」
「この連中は戦後日本に渡って来た難民の済州島出身者を手先として利用している。」
「手先として利用する為には帰国・帰化をさせてゃいけないので一方で特権・既得権益を与え、一方で差別し
民族意識を維持しコミュニティーを作らせて同化させないように工作している。」
「帰国・帰化させないように一方で特権を与え既得権益を与え、一方で差別しているのが、WW2前・中に
日本に渡って来て戦後GHQと結託した半島系の帰化した連中や帰化しなかったゴロツキ連中なんだよ・・・この帰化した連中は
真の戦犯の近衛・岸・笹川・児玉・糞文官達と婚姻関係を結んで日本の支配者階級に居るんだよ・・・当時下っ端のゴロツキ達も
今じゃ大会社の社長クラスに昇進したよ・・今の下っ端は済州島の連中だ・・・」
で…移民も同じなの…で対立が生まれる…
だけど移民はどう頑張っても少数派だから淘汰されるか同化させられる…
繋がりはない…
国を捨てて愛国心なんかない…大半がサイシュウ島出身だからな…
共産主義に憧れたわけ出もない、韓国から虐げられていた所を北に囁かれただけ…
だから銀行家に「日本の支配階級にならないか?」と言われた時に飛び付いた…
今現在巷で在日と言われている連中は朝鮮戦争中に済州島から逃げてきた難民だぜ?
コイツ等は糞役人の尖兵か何も知らずに既得権益を与えられ利用されてるだけのアホばっか…
問題は日韓併合後につまり戦前に日本に渡ってきた在日の末裔達だぜ?
戦争を起こした薩長の犬と婚姻関係を結んでエリートとして君臨してるよアホ…
銀行の頭取や政治家や裁判官やエリート官僚してるよ…安倍信三や小泉純一郎がそれだよ…
今ヤクザやってるのは戦後に渡ってきた済州島出身の下っぱ白丁在日だよ…
白丁だからだよ…
日本が半島系に支配されてるって意味が理解できましたか?在日は目隠しなの・・・帰化した連中のコミュニティが出来てるの・・・
WW2が何だったか理解してる?明治維新は銀行家の思惑通り進まなかったんだぞ?で・・薩長連中が銀行家に逆らったから
起こされたんだぞ?で・・今の薩長系の連中はWW2前に軍門に下った連中だ・・小泉・竹中みたいな連中なんだよ・・・この犬と
半島から渡って来た連中が婚姻関係を結んだのが今の日本の支配者階級なの・・・
在日には二種類有る。
1は戦後、大半が帰ったが一部の貴族が薩長系と婚姻関係を結んで現在は支配層になっている。
2は関西の一部に極秘に移住し集落を形成、難民手当てが生活保障に切り替わった
切り替わった理由は済州島から逃げて来た難民である事を知られたくないから。
2の連中を関西の一部に連れてきて今現在も税金で食わせて居るのは1の連中=行政府である。
憲法上外国人に生保を受給さするのは違法なのに普通に受給している理由はこの為である。
現在、在日と言われている連中は大半が2で1は大半が帰化し支配層となり
支配層の支援がなけりゃ不可能である。
だから正しい歴史を知ってる連中は「日本は朝鮮系に支配されている」と言ってるの・・・その裏には銀行家が居るんだがな・・・
銀行家にしたら単なるデコイだ…支店長叩いても意味ないからな…
http://uni.2ch.net/test/read.cgi/kokusai/1343051395/
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/movie/10043/1353851390/l50
教授とか助手とかとの人間関係がなー、ってあると思いますが、今が最後のチャンス。
もう卒業は取り消せないし、就職だって1年あればどうにかなるよ。
院に行かなかったことでグダグダ電話だの押しかけだのしてくるようなら、録音などして、大学の上の方人のアドレスを複数CCに入れてメールで「二度と絡んでくるな」って送ればまず絡んでこなくなる。
あの…ものすごいブクマ数にビビってブコメとかにも沈黙を守ろうと思ってた増田ですが
捨ててませんっ!
よく元を読んでください
あれ、嫁の友達からの借り物でたとえ内容がガラクタでも4~5万するものです
捨てられるわけないですよ
一度分解して中見ましたけどw
異文化体験した結果、他人の「その人が面白いと思う旅行の仕方」を否定する考えに至ったというのなら、むしろ異文化体験なんて害悪だな。
韓国に嫁いだ日本女性の変わり果てた姿をご覧ください : あじあにゅーす2ちゃんねる-2chアジアニュース-
消費税の戻し税放置で三党合意で可決した民主党案の「税と社会保障の一体改革」だけを見送りにして
金融政策を優先しても景気=国民の生活が良くなることはなく逆に悪化する。
小泉改革で規制緩和=社会保障打ち切り=弱者切り捨て=民には民で政策を行い
金融経済に実態経済の金が一方通行で流れる仕組みを作り方この様になった。
安部内閣はそれと同じことをやっている。
欧米を見たら解るが庶民の社会保障を充実させる事を怠り打ち切りをして
資産家優先政策=金融政策を行っても景気=国民の生活が良くなる訳がない。
消費税増税は規定路線で景気回復は株価やGDPと言うインチ指標で演出して消費税増税を強行するだろう。
大半がそれを忘れているし陰謀論者も御用学者もマスコミも語らない。
三党合意で可決した民主党案の「税と社会保障の一体改革」を見送ると言っているのが証拠である。
自民党の政策は全て中身のないパフォーマンスで喜ぶのは資産家や高級官僚だけだけである。
小泉政権と同じで社会保障放置又は切り捨てで金融政策を優先してるぜ?
おまけにTPPを早く導入しようとしているぜ?
民主党が話し合いに参加した理由は何回も語ったよな?
秘密のベールに包まれたTPPの内容を知る為に話し合いに参加したんだぜ?
民主党のお陰でTPPがどれだけ危険なものか公式に明確に解っただろ?
だからTPP賛成派の自民党=行政府=司法=マスコミ=経団連が批判したんだぜ?
全貌が公式に露見したら「与太話」と一蹴出来なくなるからな。
「知らなかった」は通用ないんだよ?
安部は「知らなかった」で導入して被害者又は愚か者を演じて逃げる気なんだぜ?
民主党のお陰て「知らなかった」は通用しなくなったが
シナリオはそれで行くことになってるから強行しようとしてるな。
http://uni.2ch.net/test/read.cgi/kokusai/1343051395/
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/movie/10043/1353851390/l50
マリンスポーツをやってるわけでもない人がグアムやハワイに行くのってなんでだろう。
リッチなホテルでのんびりしたいだけなら、国内のシティホテルで良くね? 飛行機代がかからない分、マッサージのコースを高いやつにしたり、いいワイン飲んだり、より贅沢できるぞ。
http://d.hatena.ne.jp/AntiSeptic/20130320/p1 を読んで。
相対的に考えると、これって夫婦間の信念の違いが生んだ悲劇だよなあ、と思う。
たとえば。
あるいは。
学会でも支持・不支持のわかれるとある学説があって、夫は支持、妻は不支持。
その学説に基いて効果のあるとされる製品を夫が買い、妻が捨てる。
まあそんなのはどうでもいいんですけど。
夫が集めたフィギュアを、妻が勝手に捨てたら、妻にたくさんの非難があった。
その人たちが非難した理由を考えてみますと、多くの人は「勝手に捨てた」というだけで非難しているわけではないと思うのですよね。
たとえば極端な話、フィギュアに時限爆弾がしかけられているという情報を得て慌てて捨てた。その場合はそこまで多くの非難はされないでしょう。
その妻を非難した人たちの多くは、勝手に捨てた上に、その理由(掃除してくれない、お金の無駄、etc...)に納得がいかなかったから非難したのだと思うのです。
一方で、妻がマルチで買ったマイナスイオン発生器を夫が捨てた事例について考えます。
夫がマイナスイオン発生器を勝手に捨てた理由は「マルチから抜けだして欲しかったから」といったところでしょうか。
「フィギュアを勝手に捨てた妻」を非難した人たちがあまりこれを非難しないのは、おそらくその理由に納得できたからでしょう。
「お金の無駄だからとフィギュアを捨てる」ことを非難し、「マルチから抜けださせるためにマイナスイオン発生器を捨てる」ことに賛同するのは、それほど不整合なことではないと思います。
ちなみに、「フィギュアを勝手に捨てた妻」と「マイナスイオン発生器を勝手に捨てた夫」の両方を非難する人もある程度はいるかと思います。
たとえば「フィギュア集めにはまっていて」かつ「マルチにハマってマイナスイオン発生器を買ったりもしている」ような人です。
また、たとえば「フィギュア集めを嫌っていて」かつ「マルチも嫌っている」人の中には、どちらも事例でも擁護する人もいるでしょう。