はてなキーワード: 張りぼてとは
アファーマティブ・アクションという名の『トロッコ』の下敷きになっている一人であると同時に、
告発の発端となったDMの送り主と同じく、ちゅうしたいしえっちしたい(泣)騒動を当時間近で見聞きしていた一人として、
よくもまあそんなえらそうなことが言えたものだと、かねてより神山翼氏の厚顔無恥なポジショントークを大変苦々しく思っていたのですが、
あろうことか氏が女子学生と不適切な関係にある上にハラスメントの加害当事者である蓋然性が高いだけでなく、
それが事実であった場合に本来その被害者たちの最も心強い味方であるべき(特に同性の)研究者たちが
臆面もなく公然とセカンドレイプを加えているというあるまじき惨状を目の当たりにし、あまりの悍ましさに筆を執らずにはいられませんでした。
研究者といえども所詮一人の人間であり、その高い(ことになっている)論理的思考力をもってしても
認知的不協和を適切な形で解消できるとは限らない、という事情は理解しないでもありません。
しかし、小山(狂)氏へのDM等を通じて今回の件を改めて世に告発した(元)女子学生たちの立場から見た時、
普段は女性の学究環境の改善を声高に叫んでおられる(特に同性の)アカデミアの先人たちが、揃いも揃って、
今まさに実際に不利益を被っている女性であるはずの自分たちを心配し、守り、力になるために立ち上がってくれるどころか、その素振りすら見せず、
あまつさえ印象操作によって加害者を擁護し、稚拙な詭弁によって問題をすり替え、挙句の果てには刑罰をちらつかせて言論を封殺しようとしている様は、一体どのように映るでしょうか。
あるいはこうした人々の振る舞いは、奇しくも以前学内で告発を試みた学生を長時間にわたり監禁・恫喝したとされる教員に女性が含まれることと併せて考えた時、
「女子学生たちは主として男性教員・研究者が『原罪』的に抱えるアンコンシャス・バイアスとやらによって不当な扱いを受けがちであり、
その対策として多少強引にでも女性研究者の数を増やし性別の偏りを均すことは、必要不可欠でありやむを得ない」とする大層立派なご高説と果たして整合しているでしょうか。
「神山氏が本当は潔白であり、悪意をもった何者かによって陥れられようとしている可能性」がゼロではない、と主張するのは結構ですが、
これまで非常に活発に発言してきた神山氏が一転、否認すらせず不自然なほど沈黙を貫いている現状を踏まえたとき、それは
「仮に今回の告発が真実だった場合に、不必要に被害者たちの尊厳を踏み躙り、感情を逆撫ですることになる可能性」や
「今回の告発の真偽にかかわらず、今後もし同様の事態が発生した場合に、最初からその被害者が声をあげる気力を挫いてしまう可能性」と天秤にかけて、
それでもなお積極的に発信・表明するに足ると、本気で信じておられるのでしょうか。
特に、氏の知己を自称しておられる諸氏におかれては、支離滅裂な感想を垂れ流しているような暇があるなら、まず神山氏本人に事の真相を問い質せばよろしいはずで、
それすらしないままご自身の友誼・主観だけを根拠に一方的に告発の信憑性に疑義を呈しておられることの方が、よほど女子学生にとって有害ではないでしょうか。
今回の疑惑に対するアカデミアの一部の人々のこうした反応は、疑惑の真偽以前の問題として到底看過できるものではなく、
「仮に告発が虚偽だった場合に、神山氏並びに関係者の名誉を不当に毀損することになる可能性」を慎重に考慮した上でなお、糾弾を免れないものであると考えます。
彼らがいみじくも『安全地帯からのんびり』指摘なさっておられる通り、万が一告発が全くの捏造であると判明した暁には、
書き手を含む少なからぬ人間が謂れのない誹謗中傷に加担していたことになろうかと思いますが、
そのリスクを負う意義に疑いを挟む余地がないほどに、彼らの振りかざす「正論」の欺瞞は座視しがたいものであり、それゆえ『刺し違える覚悟で』この文章をしたためているというわけであります。
(それに、女子学生・女性研究者の数的不利を補うためなら、無辜の男子学生・若手男性研究者の人生が犠牲になるのもやむなし、とされてきた神山氏のことですから、
今まさに女子学生たちを脅かす理不尽を非難し連帯を表明するためなら、たとえ氏が無実であったとしても、その名誉が一時的に損なわれるくらいのことはきっと甘受してくださることでしょう。)
返す返すも恐るべきことに、上に挙げたような、被害者であるはずの女子学生たちのことを慮っているとは微塵も思えないような仰天発言・行動の主たちの多くは、
平素は女子学生・女性研究者の味方を謳い、女子枠や女性限定公募をはじめとする積極的性差別とそれに伴う犠牲の正当性を主張し、神山氏の高邁な志にも強く賛同しておられたはずの方々です。
傍から見ていると皆様それらとは随分とかけ離れた振る舞いをなさっておられるように見受けられるわけですが、
むしろそれが本性であり、普段のご立派な発言の数々はその実アカデミアに蔓延るとされる不公正に苦しむ女性のためなどではなく、
ファッションとしてお仲間同士で高尚な御託を並べて、単にご自分の承認欲求を満たして気持ちよくなっていただけだった
——という「誤解」を招きかねない言動は慎まれた方がよろしいのではないか、と僭越ながら愚考する次第でございます。
神山氏が関係するものに限らず、今回告発されたお茶の水女子大学におけるあらゆるハラスメントに遭われた皆様の悲しみや怒りは、察するに余りあります。
その上、本来自身を守ってくれるはずの仕組みが張りぼてでしかなく、手を差し伸べてくれるはずの人間が案山子でしかなかったことの絶望に至っては、計り知ることもできません。
そのような苦しみの中でも、まず毅然と立ち上がり相談室へ向かった勇気ある方々、違和を鋭く察知し強力な証拠となる録音の準備を怠らなかった如才ない方々、
数多の困難・逆風に屈することなくOchatやSNSで粘り強く声をあげてくださっている方々を、心から尊敬します。
匿名であることは決して、証言の真正性を不当に減じたり主張を忽せにしたりする理由たりえません。
それを攻撃するのは往々にして自身の立場が保障されているがゆえにその必要がない「強者」であって、
学生(や任期付き研究者)という、単位・卒業・キャリアを人質に取られ「弱い」立場にある我々にとっては、歴とした自衛の手段です。
『下劣な』口撃に怯み惑わされる事なく、このまま堂々と突き進んでください。
どうか、正義がなされんことを。
全然崩れてない。理系は、ほぼ物理的技術的要件を達成しに行こうとする。つまり化学/物理学の理屈で動く。一方で、文系は、コストとペナルティを天秤にかけ発注者にOKもらえば達成!として接待したり賄賂を出したり試験記録を偽造したりして懐柔してサボる。お金や心理学やコミュ力の理屈で動く。なので、文系がトップに来る組織では張りぼての建物やコンクリの薄いトンネルとか実際には試験に通っていない自動車ができる。一方で理系の理屈で正面からやっていてはリソースが持たない面もあり、上手にサボらないとダメな場合もあるが、いざというとき用をなさないか、あとの事故処理でより多くのリソースが必要になる場合がある。この2つの価値観は決して相容れない
この1年くらいの個人勢Vtuber、やってることが全員同じすぎて気持ち悪すぎる
デビュー前にTwitterでひたすら営業、デビュー時期が近いVtuberと仲良し営業、全く面白くないshortsや流行りに乗っただけのshortsを毎日投稿、登録者が数千人行ってから初配信
化けの皮が剥がれてないから初配信は同接が数百人行ったり再生回数も数千回行くものの、初配信でトークが上手いわけでもなく歌が上手いわけでもなく飛び抜けて可愛いわけでもなくVtuberの皮を被っただけのただの普通の女だということがバレてその後はどんどん同接も再生回数も落ちていき、登録者は多いもののファンは全然いなく同接も数十人、再生回数も300程度になり、引退
もしくは名前やアカウントはそのままで今までの皮を捨てて全く新しい皮を被り、新人Vtuberと騙って上の内容と同じことをしたり
あとは引退してからまた皮を変えて転生して上の内容と同じことをしたり
何回頑張っても最初だけ人気で配信するごとにどんどん数字落ちてくよ、だってお前ら面白くも可愛くもねーしやってること全員ずっと同じだから
図太く引退しない奴らはしない奴らで、ひたすら歌枠、エロASMR、流行りのゲームや数字が取れるゲームだけを擦り、知らねー個人勢Vと自分たちが楽しむだけのクソつまんねーコラボ、謎の案件配信、固定コメントで「高評価押した?」のアンケート、初見が来る度に必死に自己紹介して高評価と登録するように圧かける
マジで最近の個人勢Vtuberは登録者だけはやたら多いのに同接も再生回数も引くほど低い奴が多すぎる
見かけだけは立派だけど中身が無さすぎるってことだぞそれ…
登録者の9.9割はなんとなくとかお願いされたからで登録したけど他と比べて面白いわけでも可愛いわけでもないから定着してファンにならないってことだからな……
全員やってることが同じでつまんねーんだよ
皮と声が違うだけで全員やってること同じじゃねーか
もっと人と違うことやれよ
お前らはVtuberっていうアニメキャラの皮を被ってるだけ、皮を被ってるのにキャラを演じるわけでもなく普通に喋ってるだけ、顔を出したくないだけのそこら辺にいるただの普通の女だよな
登録者を増やしまくって承認欲求を満たしたい、スパチャで金稼ぎたい、案件で小銭稼ぎしたいだけだろ?お前らは
ほんとつまんねー奴ら
実家は地方都市で自営業を営む、今思えば中の下くらいの家庭だった。木造二階建ての家は古く、黒ずんだ柱には飼っていない猫の爪跡がついていた。襖で仕切られた居間の奥には、標準的サイズの仏壇があった。同じ部屋には祖父母の写真や、商売繁盛を祈るための神棚があった。
子どもの頃、家の中で姉と遊んで玩具の取り合いになったり、はしゃぎすぎると仏壇の前に正座させられた。先祖に謝れ、みたいなことも怒鳴られて、ゲンコツをくらった。そういう時代であったとは思う。しかし子どもの自分には理不尽で、なぜ何も言わない、何もしてくれない祖父母の写真の前で、長い間正座をして、大きいだけで何の価値もなく見える張りぼての仏壇に向かって、ごめんなさい、と言わなければならないのか、まったく理解できなかった。子どもながらに説明を求めたが、まともな回答はない。親にとって、こうした道具や方法は、先例に倣って子どもを叱るためのフォーマットでしかないんだな、と理解した。
10歳を超える頃には、仏壇の前に座ることを拒否し、中学生頃からは法事や墓参りも極力欠席した。馬鹿らしかった。親の良かった点は、子どもがそれらを馬鹿らしいと思う気持ちや発言を(苦々しくも)認め、暴力で無理やり従わせようとはしなかったところ。親にとってもそれらは、信仰心ではなく伝統であり習慣、時代の中で失われていくものである、という思いが、どこかにあったのかもしれない。
誰かに話したくなってきた。
まだ二十歳ほどの頃、地元の広島で特に定職に就くこともなくアパート暮らしをしていた俺は、昔からの繋がりの先輩に誘われて、客から高い金を踏んだくる店で働いていた。
福山駅の付近にある繁華街だった。福山といったら知名度はほとんどないが、桃太郎電鉄の青マスとして出てくる程度には良いまちのようだ。当時の俺は、そのへんのアパートで暮らしながら、昼はコンビニアルバイトで、夜はそのバーで働いて、それで明け方に自宅に帰って昼過ぎまで寝る。そんな毎日だった。
地元が懐かしい。もう6年は帰っていない。来年には帰ってみようか。増田民で、もしお勧めのスーパー銭湯とかラーメン屋とか焼肉屋とかあったら教えてくれよ。
すまないが推敲はほぼしていない。変な字があったらごめんよ。
ちょっと自分語りをさせてほしい。滅多にない機会なんだ。いいだろ?
正直、あまりいい門地の生まれじゃない。大きい河川沿いで生まれた。加茂、という地域だ。歴史のある地域に付けられる名前らしい。
幼稚園の頃は、今頃の時期になると数日に一度は木造の家が床下浸水していた思い出がある。江戸時代はいわゆる部落というやつだったらしい。小学校の頃から家の近くにある集会所に近所の子どもらと一緒に夜集まっていた。学校の先生が来て普通に勉強を教えてもらうこともあれば、平和活動やら差別糾弾やら総括やら、物騒な単語が飛び交う学びを体験することもあった。
官公庁の前に100名くらいで出かけていって、平和活動(という名のデモ)をしたこともあったっけ。市役所や県の事業所の前で大きい横断幕を持って、大声でシュプレヒコールをやっていた。
それで、くだんの集会所には、たまに偉い雰囲気の人が来て「昔は食べる物にも遊ぶ場所にもトイレにも困る環境でしたが……君たちは我々を含んだ先人のおかげで……君たちも皆のために必要あらば社会と戦って、これからもいい時代を作りましょう」みたいな話をしていた。
なんでも、その先人が高校生の頃、県立府中高等学校の先生が授業中に被差別部落のある辺りを指さして、「あそこにのう、四つが住んどる!」と大きい声で生徒に注意を促したことがあったらしい。それで、キレたその先人は、その先生に何度も何度も何度も挑んで、巧緻を尽くして作戦を練り、仕舞いには証拠を突き付けて皆で糾弾して転勤させてやった、というのがその偉い人(当時国会議員。故人だけど一応伏せる)の話だった。
当時の自分は目ヤニを擦って話を聞いていた。自分達が隣保館に通っていた最後の世代だ。中学生になる頃には学習活動はすっかり無くなっていた。今ではただの地域集会所になっている。
親は、あんまりよくなかったかもしれない。言うことを聞かなかったら暴力や暴言は当たり前だった。内容的には、農業の手伝いや畑の草刈りや洗濯物を畳むなどのまっとうな義務もあれば、親の張りぼての見栄を張るためのアイテムになることも多かった。要するに、母親の親戚や友達の前では『優等生』でなくてはならなかった。
ちょっとでも問題発言をすると、家に帰ってからボコボコに殴られ蹴られする。あれは今でも覚えている。小学校5年の時、叔母にからかわれてキレてしまった時、母が木刀で俺の後頭部を強打したのだ。今でも頭を触ると分かる。あの時殴られた箇所が凹んでいる。あれは痛かった。
というわけで、そんな環境で育った人間がまともになるはずもなく。中学校に入る頃には、すっかりと暴力癖のあるキッズへと成長していた。
当時の地元中学校は、荒れに荒れていた。原動機付自転車で通学する者や、青い髪で授業を受ける者や、卒業式で特攻服を着る者や……。学校のトイレは○○の場になっていた。月一くらいの頻度で、女子中学生が体を売っているか、無理やり犯られているかのどっちかだ。オリジナル制服としてセーターを作って着用する女子生徒もいた。けっこう可愛かった記憶がある。
先日、母校のホームページを見てみたが、当時とはまったく違った様子で驚いた。無邪気に笑って学校活動をする中学生達が映っていた。平成10年代の当時は、あんな中学生は少なかった。ヤクザみたいな見た目の男子だとか、娼婦みたいな目つきの女や、死んだ魚の目をしたような(≒いじめを受けている)雑魚どもや、無敵の人の予備軍みたいに無気力になってる奴とか、そんなのばっかりだった。
それで、ついにある時、新築に近い状態の体育館がタバコの不始末が原因で全焼してしまう。いやあ、あれには参ったね。体育館での授業や部活動、好きだったんだが。
中学生がごく普通に喫煙していた。あの日、俺が4時間目に体育の授業でバレーをしていた(※だらしない恰好をして髪も染めていたけど、授業はちゃんと受ける方だった)ところ、3年連中がステージ上の柔道場でタバコにしけ込んでいた。先生に止める様子はない。当時の中学校では、校内でタバコを吸うのは暗黙に認められていた。
昼休みのチャイムが鳴った後、俺も先輩方にタバコに誘われた。生意気な1年坊主だったと思うが、可愛がってくれる先輩がいた。が、当時は鬼のように厳しい暴力教師(しかも部活の顧問)がいて、そいつが苦手だったので、見つかるような嫌な直感がして断った。あの時の俺はツイていた。
荒れ放題の中学校だったけど、それでも何とかなっていたから、教師も生徒も油断してたんだろうな。その3年連中の吸ってたタバコのうち、柔道場の畳に押し付けて消し忘れたやつが段々と燃え広がって、昼休憩になると「ジリリリリ……」と自動火災報知器が反応した。
しかし、それでも誰も何もしなかった。なぜなら、週に一度は誰かが校内にある自火報をイタズラで鳴らしていたからだ。感覚がマヒしていた。
昼休憩の中頃、体育館のステージ後ろの屋根から煙が出始めてようやく、教師連中が消火器を持って体育館に突入したが遅かった。昼休憩が終わる頃には生徒は全員校庭に避難していた。体育館を見ると、2階部分の廊下に何十枚と並んだガラスが熱で一斉に割れていく光景があった。なんかもう、凄かった。同じく窓ガラス沿いのカーテンも50m分は並んでいたと思うが、最初のカーテンが燃えたと思ったら、僅か3,4秒ほどで全てのカーテンに火が付いた。
担任の先生が、「いつかは起こると思っとったわ。馬鹿じゃのう」なんて呟いていた。それで、消防車が到着したのを確認すると、校舎への延焼の危険がないとのことか、またみんな教室に戻って、何十分か待たされて、先生が来て、その日は非常階段を通って裏口から下校となった。マスコミが押しかけていたのを覚えている。下駄箱まで進入していた朝日新聞の記者を、先生らが怒号とともに追い払っていた。
なんか、ここまで書いただけで精神力のほとんどを使ってしまった。拙い文章力で恥ずかしい。ほかの長文増田は、明らかにもっといい文を書いてる。
火事があった次の日には、あの3年連中は全員しょっぴかれていた。家庭裁判所で審判を受けて、ほぼ全員が少年院にぶち込まれた。ほかに、彼らと交流があったり、間接要因になったと思われる生徒は裁判所に出向いて証人として発言することになった。俺もその一人だ。最低でも二回はいったか。
その次の年度は確か、校長ほか数名が異動になって、最強に厳しい先生方が教委から強権を委任されて当中学校に赴任し、不良どもを善悪あらゆる手段で抑え込んで、俺が高校生になる頃には不良は全くいなくなっていた。
俺の下の代には、強面の奴とか異常体格の奴がいなかったという事情もある。教師に暴力を働くような狂犬タイプもいなかった。東京卍リベンジャーズの1巻で喩えると、当時はキヨマサ君みたいな中学生が最低5,6人はいた。一方で、俺の下の代のヤンキー(予備軍を含む)は、タケミチみたいな標準体型の子が多かった。
当時の俺ですら、何となくわかってたんだ。背伸びしてタバコを吸ったり、チャンスがあったら酒とか飲んだり、女子にモテたくて喧嘩をしたり、セブンイレブンの前で駄弁ってたりしたけど、本当はわかっていた。勉強するのが一番いいんだって。最善なんだって。
俺の父親は会社の経営者だった。祖父は地元市役所の偉い人で、曾祖父は町長だった。親戚だって、職業はそれぞれ違ったけど、みんな金持ちだった。親戚同士の集まりには、うちの家の駐車場に高そうな黒塗りや真っ白の乗用車が並んでいた。
彼らに共通していたのは、社会が認めるであろう分野で相当な努力を積み重ねていることだ。俺みたいに、学校の先生にとりあえず反抗してるだけじゃなくて。信念があって、そのために動いてる。
法律も慣習も、常識も非常識も、論理的な思考も人間関係の機微も、曲がったこともまっすぐなことも、とにかく何でもかんでも現実をまっすぐに見て、あの人達が何が正しいかをいつも考え抜いていたって、今ではちゃんとわかる。
あの当時の俺も、今の俺も、これらのことができていない。だからこんなに落ちぶれた。血筋はいいのに。俺はくずになってしまった。
ローカルタレント、ものまねタレントの松山三四郎が見事落選した。
彼は、安倍晋三元首相殺害事件の遠因になったことで一躍注目を集めた候補だ。
これは、自民党系地元選出の国会議員秘書の弁である。地元議員事務所の重鎮。告示前に既に言っていた。
全くもって同感である。
松山三四郎はかなり初期の段階で、いろいろな所から軽い神輿と見なされていたようだ。
演説では、聞こえの良いことを大げさな言葉をつけて話す。しかし、具体性がない。
質問に乗ってこない。支持者が盛り上げるために投げる奴にもだ。
基本的な知識がないから、質問の意図をつかめていない。上っ面で理解できる単語だけ拾って返す。
良くも悪くも薄っぺらい。中高生を騙すようなラジオそのままのノリで話す。ナチュラルに上から目線でマウントをとろうとする。だから言葉はわかりやすい。
これは敢えてやっているのかと思えば、支援に入った自治体の首長たちの前でも全く同じノリで話をしていた。こいつは駄目だとおもった。
しかし、それでも好感度さえ高ければようし、当選した後に勉強すればいいし、支える秘書を宛がえばいい。しかし、それにもケチが付いた。
最後の方、動員された人々は、完全にやる気を失っていたように見える。この人だったら付いていきます、と言うモチベーションで選挙をしていないから当然だ。
真相はわからないが、安倍晋三氏が来ないと言う事は、もう県連が強く主張しなかっただけではないかとおも思う。
本性とは、下半身のことではない。
松山三四郎は、地元では知らない人がいないくらいの知名度。彼はファンサを欠かさない人なので、熱狂的ファンもそれなりにいた。
さらに、ローカル企業と組んで、低予算のCMや企画などにも出演するなどして地域密着をアピールしていて、好感度は高かったと思われる。
ところが、どうやら演説会で彼の演説を聴くと、良くも悪くもラジオのままで、軽くて薄いと言う事がだんだんとばれてきた感じがある。
選挙前は「あの三四郎が出るぞ!」と興奮気味に話していた知人(50代の男性)は、出陣式に行った後、言葉少なげだった。
広く浅く話をする彼の発言の中から、自分がよく知る専門の話になると、とたんに違和感を覚えるのだと思う。え、それ知らないのに話してるの?みたいな。
俺はもう軽い神輿なのはわかりきってたから、担げば良いと思っていた。
しかし、そう言う政治に関わらないまま、純粋に三四郎のラジオでのイメージで実際に接すると、それが張りぼてだったことがよくわかってしまったのかなと思う。
ものまね芸人というのは、テレビなどのメディアでは細かくて伝わりづらいが、実際に見ると本当に笑わしてくれる人と、上っ面だけ真似をしてメディアに特化しているが、全然だめなのと二種類あるという。
ものまね芸人松山三四郎は、まったくもって後者であり、結局政治家の下手くそなものまねをやっていたにすぎないのだと思う。
県連よ。真面目にやれ。
三四郎じゃなりゃ勝てただろアホが
あめぞう掲示板(からの2ch)で大本営発表をナナメに見るコメントに衝撃を受けた。
マスコミが報道しないニュースが色々な所で起こっている事も知った。
テレビが報じる空気感と別の空気が日本にはあるって事にも気付いた。
オタクと呼ばれ蔑む対象だった人たちがそういった掲示板やMIXIなどで繋がり力を持つようになっていった。
セクシャルマイノリティの人たちの人権ままだこの頃は表立って認められるところまでは来ていなかった。
東京で汚い髪と肌の高校生がパー券を売って実業家ぶっている様子を情報番組で見てバカばっかりだと思った。
東海村での事故で報道より先にネットに情報が上がってる姿を見たり、チャリティー番組の企画をみんなで潰しているのを見てマスコミの張りぼて感がどんどん大きくなっていった。
どうせ実況見て判断してるんでしょ?ツイッターとか事前PVは論外として.
30時間シャイパをプレイした人のまっとうな意見を伝えてあげる.
はっきり言ってダイパリメイクは客観的にクソだよ.それは否定しない.
グラフィックは剣盾型じゃないのが不評だけど,これはさぼったよりかは意図的であろうのでOK.
それよか作りこみが甘すぎる.
3Dだからオブジェクトそれぞれに意味を感じちゃうけど,クリックするとただの張りぼて...
ダブルバトルで味方に抜群技当てて「やったね!」はないでしょうよ.
とまあプレイした結果こんな感じ.手抜きそれはそう.
ストーリーとか追加要素に関しては追加改変したらしたでまた別の勢力が批判するから話すだけ無意味だね.
本題.客観としてはこうなんだけど,主観としては普通に6000円払って黒字だったよって報告.
というのも手持ちポケモンに愛着が湧くための誘導がすごかった.
アブソル♀ NN:ダイアモンド 初めて全然捕まらなかった毛艶のいいイケメンおねえさん.
ドダイトス♂ NN:リリー 最初のパートナー.連れ歩きがとんでもない遅さで愛らしい.
ムクホーク♂ NN:シルヴィ 世界で一番強いムックルを夢見た元Lv2ムックル.ムックル系統には必ずぶつけてすべて勝利.
パチリス♂ NN:くいな 甘いもの好き.シルヴィとはライバル関係?かわいい名前つけちゃってごめんね.
エルレイド♂ NN:ナギ おくびょう.めざめいしを見つけるまでの進化キャンセルでは慌ててた...はず.
サマヨール♂ NN:ガイスティン 名前センスなくてすまん.しかし姓名判断の場所忘れちゃってさ...
なんか途中で足跡おじさんが彼らの考えてることを教えてくれるんだけど,一推しはダイアモンド(アブソル)の
「主人公がどういうやつかはどうもわかりにくいが
案外いいやつなのかもな...
まあだからと言って 主人公の前でニコニコ笑って見せたりはしないが...」
どうすかこれ.最高でしょ.
まあチームメイトからは尊敬されあるいは恋されってかんじだろうね.
ちなみにパルキアとアグノムを殺した”ゴッドスレイヤー”の異名を持つ.
最後のチャンピオン戦でくいな(パチリス)がミロカロスの熱湯を二回こらえたのは胸アツだったなあ.
「くいなは主人公を悲しませないように必死でこらえた!」だってさ.
泣かせてくれるじゃねーかコノヤロー.
進化アイテムをどんなに探しても見つからなかったからサマヨールは進化させてあげられなかったんだけど,最後ガブリアスを倒したのは彼.
最終パーティに入れるつもりはなかったのに,いつの間にかとけ込んじゃってた.
「自分は暗いけど主人公は違う世界を見せてくれる不思議な奴だ」
なんて言われたらもうボックスには戻せないよ.
クソな世界でも手持ちのポケモンが最高なら主観としては最高の世界だといえる.
実はサンムーンまでWCSダブルガチ勢だったからストーリーをこうやって楽しんだのそれこそプラチナ以来だったんだよね.
ランクマがあったら「ストーリーはチュートリアルデュフフ」と今頃言ってただろうなあ.
もう言いたいことはわかると思うけど,実況なんかでこの愛着は生まれようがないよ.
そもそも子供向けのコンテンツなのが自分がプレイしないことで情報に成り下がるときた.こりゃ批判もしますわな.だって僕ら「大人(泣)」だもん.
プレイしようよとりあえず.思い出補正・サンクコストとかのバイアス上等.バイアスがかかって「楽しかった」って言えるなら主観としてはOKじゃん?
てか20歳になった今だからわかるけど,ダイパのストーリーって割とふつうだよね.
神話的な壮大なスケールが成功しているけど,物語の構造だけで見ればいささか陳腐.
「あれストーリーこんなつまんなかったっけ?」って思っちゃった.
今となっては「ストーリーだけは神」っていうのもよくわからない.
P.S.
一人が買わなくても意味ないって.
買えばいいのに.何も変わらないんだから.
売れる売れないじゃなくて,作り手が「どこまで妥協できるのか」を試されてるだけ.
あるいは「我々がフィクションに対して求める『リアリティ』なる安っぽい感傷が人類の持つ可能性を狭めていることを今一度思い出すべきだ」。
ここで「トップクラス」という表現を使い「頂点」と言わないのは、藤井が置かれている環境が藤井にとって有利だった部分も含めてのものであり、天才という表現が「環境を含めて」のものであると勝手に定義することを筆者が咄嗟に避けたからである。
もしも、藤井の前に今まで現れたライバルの強さがもっと強かったり逆にもっと弱かったら、もしも藤井が生まれたのがあと10年早い、または10年遅かったら、彼の天才はこのような形で開花できたのか、それは誰にもわからない。
「RPGの勇者が誕生する条件の一つはLV1でも倒せるモンスターが村の周りにいることだ」というジャパニーズな湿っぽいジョークがあるが、これが完全に間違っているとは言いきれいない部分が現実において天才が生まれる過程に多々ある。
程よいライバル、強敵、敗北、勝利、それらに恵まれ続けることが育まれるのに必須となる才能の形が数多くあるのは歴代の天才たちを見るに疑いようもない。
藤井もまた将棋界という世界の中でこそ花開いた天才であり、もしもこの世界で将棋を指す物が藤井聡太だけだったとして、彼が生涯をかけて残す詰将棋の数と質が今と同じであっただろうか。
藤井がこれだけの天才となった背景を現実はこれでもかと入念に組み上げてくれる。
フィクションにおいてそれだけの天才を描くとき、人は多数のごまかしを加えながらも、張りぼてであったとしてそれなりの背景を描くに迫られるだろう。
だが待ってくれ。
フィクションにおいて天才が天才であることに対して「天才である」の一言で済ませることがなぜ許されないのだ。
「物語にはたった一つ大きな嘘をついても許される」とは誰の言葉だったのか、もちろんこれは数多の鑑賞者が勝手気ままに作品論をぶち上げ続けたはてに巷で生まれた有象無象の戯言の集合体その一つである。
何故か。
簡単だ。
たった一度しか嘘をつけぬのなら、「この棋士は天才である」などという部分に使いたがらぬのだ。
まったくもって同感である。
新たなジャンルの創作物が生まれたばかりの原始の海であれば「この主人公は天才である」の一言で作品は成立するが、今はもうそんな時代ではないのである。
主人公の天才なぞは作中であれこれと理由をつけてリアルの一つとして読者に飲ませ、別の部分で嘘をついてこそフィクションは成立する。
情けない話だ。
それもこれも読者が「面白ければ大きな嘘をいくらついても俺が許す」と言えなかったばかりに、安い作品論を解くことを面白い作品を読むことより優先させたものばかりだったばかりに、こんなことになったのだぞ。
よーく恥じるが良いぞ