はてなキーワード: 世俗とは
いや、作曲家すごーくたくさんいて、宗教曲も世俗曲もどんどん新曲作られてたよ。
1人で何百曲も書く作曲家だっていたし、有名無名合わせて一時代に何百人と作曲家はいたから、新しい音楽はいくらでも溢れていた。
昔から伝わる民謡だとか、伝統的なグレゴリオ聖歌ばかりを延々歌ってたわけじゃなくて、その時代の作曲家がその時代に作った音楽が普通に歌われていたんだよ。
当時の音楽はパトロンが大枚はたいて作曲家に書かせるものだったから、そりゃあ確かに"ヒット曲"なんて概念は存在しなかったね。
EMが存在し、その効果を信じる人々の信仰は誰にも排除できないのだ。
EMは老人会、婦人会、町内会といった市井の人々の素朴な信仰なのだ。
彼はらEMで金儲けをしようとしているわけではない。純粋な善意で、EMの啓発を行っているのだ。
そこにいくら非科学的だ、オカルトだと正論をぶつけたところで、彼らには通じない。
彼らにEMの非科学性を信じさせるには、一つの方法しか無い。彼らにEMが科学的に万能だと信じ込ませた人からの否定の言葉だ。だが、それは絶対にありえない。
もはや彼らにとって、EMは、それぞれの地域にある鎮守、稲荷、天神、観音といった世俗・習俗文化と同一のものになっているのだ。
はたして地方の小さな自治体が、その素朴な信仰を無下にできるだろうか。
幼稚園、保育園、小中学校は、地元と密接に関わらざるを得ないのだ。
地元の婦人会や老人会、町内会との良好な関係が、そこに通う児童生徒の教育・養育環境に大きな影響を及ぼすのだ。
EMの否定は地域コミュニティの否定に繋がるようになってしまったのだ。
EMに肯定的な意見をネットに流出させてしまえば、袋叩きに遭ってしまうからだ。
EMが宗教だと、広く認識されていれば、役所の人間は公然と排除できるのだが。
実は、EMの正しい使い方というのがあるのかもしれない。
将来、ある条件下において、EMに含まれる菌の相互作用で、ある効果を発揮することが解明されるのかもしれない。
しかし、その解明されたものは、彼らにとって、もうEMでは無いのだ。
彼らにとって、EMとは、曖昧模糊とした存在でありつづけなければならないからだ。
このような存在になってしまったEMは、健康や生命への危険性が立証されない限り、その存在を否定することはかなわないだろう。
今回はとなりのヤングジャンプ
今までは嫌がらせレベルだったけれども、とうとう殺しにかかってきたか。
ただ、突き飛ばしがすり抜けて、そのまま幽霊が社畜の体にひっかかったみたいな状態に。
事実上、社畜が取り憑かれしまった形になってしまい、地縛霊が外に出てしまうと。
社畜は気の毒だが、話が広がってきたなあ。
隼人の言い分は、ある意味ではとても誠実なのだけれども、それに対してのプロデューサーらしき人からの答えは、「ファンに対する『愛してる』の信憑性が薄くなるから」と。
warpというアイドルグループは成熟しておらず、故にそのファンの多くも「愛してるよ。恋愛をしている彼女は君たちとは別にいるけどね」で納得できる状態ではない。
まあ、一理あるのかもしれないけれども、この回答は世俗を意識した話であって、滋郎はだったら彼女を選んでアイドルを辞めるという。
そもそも隼人が芸能界に入ったのは好きな人のためなのだから、そりゃあ恋愛禁止だってなんならそうせざるを得ないわな。
そして、4人中2人も抜けたら、もう続けるのは無理だとして解散の話に、というところで次回か。
メタ的にみて、多分このまま解散なんてことにはならないだろうけれど、これを存続するとなった場合、私の予想では陰鬱な展開にしかならなさそうで嫌だなあ。
今回は「技術の不足をファンタジーパワーで無理やり補ったらどうなるか」という話か。
需要のある属性を扱う術師になる人が増えて、結果買い叩かれやすくなったり、魔法よりも効率的な機械が導入されて術師が食いっぱぐれるという描写も、現代社会を意識している感じがするね。
結局、資本が人である以上、この問題はファンタジー世界でもありえる、ってことか。
また、恋愛系か。
ただ、こっちはメイン二人の関係性と、それに合わせた描写がメインだね。
後に判明する新事実によって関係性が変わり、そこから紡がれる二面構成は興味深くはある。
読者に衝撃を与えるならば、新事実のネタバラシは早いという気もするが、その分語り手の苦悩などのドラマも丁寧に描けたから、一長一短だな。
ただ、そこに注力して描いた結果、二人がなぜ好きだと思っているのかを読者に追体験させる、いわばキャラクターを魅力的に描く部分が薄くなってしまったきらいがあるね。
このあたり、No.2の方と対照的ながら、オチが似てしまったのが皮肉というかなんというか。
恐らく、どう風呂敷を広げて畳むのか考えあぐねたんだろうな。
投票するかは……う~ん。
ここまで感想書いておいてナンだが、結論としてはNo.2と同じで、「面白い連載を描ける実力を見極めるための作品」としては、適切ではない気がするんだよね。
ここまで大言壮語なタイトルってことは、よほど自信があるか、なにか仕掛けがあると踏んで私は読み続けている。
だが、22話にもなって、未だその期待に全く応えてくれていない。
話進まないなあ。
進まない上に、その中で描かれることがツマラナイってのがまた厳しい。
以前から気になっていた「まおゆう」を見た。駄肉と取り外し可能な角しか知らなかったけど、結構考えさせられるアニメだった。
たぶん、監督は原作で下敷きになっている背景を知らないで作っているのではないかと思った。シーンがぶつ切りでどうなっているのか分からなかったし、特に戦闘シーンはどんな舞台がどこに向かっているのか全然わからずポカーンだった。
物語の下敷きになっているのは歴史なんだろうけど、経済の部分だけよく分からなかった。奴隷の成長は人権の萌芽を描いているんだろうし、その過程で世俗と教会の2重権力を描写してるしとても面白い素材ではあるけどそれを生かしきれてないという印象。
登場人物の役割が職業別にうまく分かれていてわかりやすかったので、この点は良かった。商人、軍人、役人、農民、政治家そして魔王は学者・思想家という立場か。魔王だけはチート技術で未来技術をバンバン導入してるので学者というのはちょっと違う?
特に商人は見方でも敵でもない、儲かることが正義という精神を体現する非常に面白いキャラだった。儲けるためには敵とも手を結ぶ、戦争を商機と見る悪人か、それとも経済交流と相互依存を通じて戦争を遠ざける平和の使者か
この物語を通じてなにが言いたいのだろうか? 魔王が「あの丘の向こう側が見たいんだ」といったことが、「技術と文化の発展によって戦争のない世界を目指す」という意味なら、それには望みがない。技術の発展はむしろ大量殺戮を可能にした。経済発展も貧富の差を作り出し社会の混乱を生み出した。人間の欲望が限りないことを考えれば、戦争は食えないからするというのは単純すぎるといえないだろうか。
なぜか最終話で火縄銃が登場して、はなしの展開を描く気がないでしょと感じざるおえない。史実では火器は歴史を動かす重要な役割を演じているので面白いネタを前にして最終回とは、非常に惜しい。2期がないのはわかっているが、このアニメの面白さに気づいてくれる人が多く現れることを望む。
しかし側室制度がないのは男系男子を残すのに圧倒的に不利だよな。
天皇制は皇位を男系男子によるものとし、どうせ女性差別をしているのだから、
この際、側室制度を復活させるべきだと思ういやまじで。さもなくば、女系天皇を認めるべきでしょう。
男系男子の皇統維持は、「世俗の理解(欧米の価値観と言っても同じこと)」を根拠に、側室制度をなくした時点で詰んでいるんですよ。
「側室制度をなくしたことが原因で、男系男子の皇統維持が難しくなった」
であれば、
もしくは、
「世俗の理解を根拠としたことが間違っていたので、側室制度を復活させる」
どちらかに、一つでしょう。 - q.e.d.
竹田某の家系から天皇を輩出する可能性を除外し、かつ、天皇制の下で皇位の安定性を「保証」せよとまで言うのなら、
上記のような解答になる。
自身が仕掛けた侵略戦争を、非道な兵器の犠牲者となることで敗戦した日本人
自分たちの文脈を持たず、他国からの輸入で自由や平和を知った日本人
僕らはあまりに矛盾を抱えすぎていて、それでいて宗教を持たない僕らは、今さら自分の矛盾を否定するほどの自信も持っていない。
そんな僕らが求める体制VS反体制とは、それはもうありのまま僕らを否定するものと肯定してくれるものの対立で、
「社会的なものVS個人的なもの」「高尚VS世俗」「大人VS子ども」なんである。
政府だろうが市民団体だろうが、あらゆる組織は社会的なものであり、個人的な僕らの敵。
右だろうが左だろうが、自信の思想を持つようなことは高尚なことであり、世俗的な僕らの敵。
ブコメでもいくつか出てきてるけど日本で左右だの階級対立だのの政策論争が出来ないのは
基本的に未だに冷戦が続いていて本来は思想信条と政策で済むはずの話が突然安全保障の層に突っ込んでいってしまって身動きが取れなくなるから。
あくまで世俗的な政策を出すはずの「野党」が実際に言ってることは即時武装解除と下手したら天皇の処刑とかだったんだから話にならない。
日本が戦後ずっと事実上の領導政党体制で民主主義だったことはない、っていうのは皆知っている。韓国だって結局朴王朝になってしまった。
欧米の上半分あたりが一見まだ民主主義が動いているように見えるのはそりゃ素直に羨ましいが、
しかしあちらでもイスラムという形で政策や金ではなく正当性を直接批判する運動が結局出てきてしまったのがやはり心配にはなる。
イエスは律法学者とガチバトルして抹殺されたが、イエスの信徒たちの作った教団にも、聖職者階級が出来て、彼らのものになった。
建て前では出家在家の区別はなく、聖職者という存在はないことになっているが、イスラム法学者が幅をきかせている。
教皇もカリフも、代理人という微妙な位置付けから始まっているが、権威であることは皆が知る通り。
教皇やカリフがいなかったら、組織として成り立たずに歴史の中に消えていっただろうし、リーダーを持つ組織をつくれば、その下に側近、その部下という階級が出来上がり、信徒の平等は実現できない。
イエスはムハンマドの教えは、精神面では教義に原点回帰しつつ(あるいはしたつもり)でも、当時なりに当時の社会情勢にチューニングしていた。
「律法とローマ法でダブスタのところは、ローマ法を優先したっていいよん」
とイエス
「ダブスタがないように世俗の法も宗教の戒律も擦り合わせて一本化しとけ」
とムハンマド。
現代だと問題はアリアリでも、当時はそれなりに柔軟な解釈で改革したつもりだったわけで。
ISも当然だが、S県の顕正会、まじヤバ。
こないだ勧誘を受けたのだが。
日蓮の教えは一語一句正しい!
中国(元)が攻めてくるから天皇を帰依させて国立戒壇をつくって国を守れ。
政教一致は必達!
ちなみに、
日蓮宗から原点回帰を強めて過激すぎて破門されたのが日蓮正宗。
日蓮正宗から原点回帰を強めて過激すぎて破門されたのが創価学会と立正佼成会。
この両会は在家たちの、つまり下からの宗教改革だったが、知っての通り王国を作ってる。
人と関わるのが苦手だ。
人と話すのは好きだし、調子が良ければちゃんと笑いだって取れる。自分のことを話すのは苦手だが、聞き上手と言われることはたまにある。
たまに同じような人の話を聞くが、コミュニティ内の人の前ではキョドってしまうが、赤の他人の前ではあたかも社交的な人のように振る舞えることがある、というタイプのコミュ障だ。
他人が怖いんじゃんくて、自分がどう見られているのかが気になってしょうがないのだ。自分に自信が無いから。
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でもそんな自分の自意識過剰さを正当化して生きてきた。社会的な価値観をそのまま受け入れるんじゃなくて、どこまでも疑って、言ってしまえば捻くれた考えを作り上げてく。
自我が強ければ強いほど他人とは違う自分になれる気がした。所謂リア充の話は、世俗的すぎてシンプルでつまらない。
僕が天才ならそのままでもよかったかもしれない。でもどこまでも凡人で他人の評価から逃げられない自分は何も作れなかった。
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最近思うのは、人は動物でしか無いということだ。ただ欲望を満たすだけ。
何をしても満たされずに心に穴が開いているように感じるのは、行動の規範を与えてくれる宗教的なものが無いからだと少し前までは思っていた。だから不安を覚えてしまう。
でも多分違っていて、人間は常に欠落感があって、それを起動力に穴を埋め続ける。三大欲求も承認欲求も。利他的な行為は他人の穴を埋めてるだけだ。
そう考えれば人間だって動物となんら変わらない。彼らも承認欲求があるは知らないけど、利他的な行為はするものね。
理屈をこねるというのもそうした欲望の一つに過ぎないと思う。例えば、オタクは女に相手にされないから、女を叩いて満たされない欲望を回収する。
どう頑張ってもモテない人はいるから、そういう人にミソジニー辞めろっていうのも酷な話だけれど、やっぱり気持ち悪い。イケメンになっても同じ貞操観念を持ってる自信があるものだけまーん(笑)とか言ってほしい。
自分の自意識がこういうオタクの正当化と同じ機能を果たしてることはわかっていたけど、それを越えた正しさを信じて生きてきた。でも、もう信じられない。
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人からの評価が過剰に気になるというのも一つ大きな問題点だが、理屈っぽいというのももう一つの問題点な気がする。
何をするにしても言葉で考えてしまう。美味しいものを食べても、料理の蘊蓄のほうが気になるし、映画そのものよりも批評が読みたくなる。社会的意義とか意味を考えてしまって全てが取るに足らないくだらないものに感じられてしまう。好きだったものも色あせて、何も好きじゃ無くなっていく。
自分の友達も大抵、理屈っぽいがだいたい不幸せそうだ(自分の友達が理屈っぽくて不幸せそうな人ばっかりってだけかもね)。世界を言語で分節することなく、ありのままそのまま感じたい。
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これからどうやって生きて行こう。幸い、いいとこに内定もらえそうなので食べては行けそうだけど、今の状態で働き続けられるんだろうか。卒表間際に何もわからなくなってしまった。
考えすぎてしまう性格も今更変わる気がしない。ここ十年くらいは何かに集中することができなくて常に上の空だ。世界をフィルターを通してみている気分。
そもそも理屈をこねてしまう自分を変えようと理屈をこねるというのが根本的に間違っている気がする。
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と、とりとめもない長文をすみません。意見やら、参考になる本とか教えてもらえると嬉しいです。
読んでくれてありがとう。
イスラム教が女性を蔑視していない理由という記事があって要約するとこういうものだった。
1.イスラム教は成立当時の社会において極端な男性支配から女性を救う革命的な考え方を持っていた。
2.しかしコーランの記述には、現代において普遍的な人権等の概念にそぐわない部分があることも事実である。
3.そうした記述についてイスラム教徒のフェミニスト等は、再解釈に取り組んでいる。
4.性差別はイスラム教の教義じゃないからイスラム社会においてこれから改善していくだろう。
2はわかる、ムハンマドは昔の人なので世界人権宣言に着想を得てコーランを執筆したということはありえない。齟齬はたくさん出るだろう。
コーランを文字通り読んでいくのは理解できる。ISは異教徒や女性に対する蔑視を所与のものとしてイスラム的に振舞っている。
でもコーランに対して、現代のイスラム外世界の規範に基づいて、執筆当時決して存在し得なかった解釈を試みるというのは意味がわからない。
コーランの記述は神の啓示を書きとめたものだから価値があるんじゃないの?現代の社会学者による創造的な再解釈は何がその価値を担保しているの?
これ当のムスリムに受け入れてもらえるの?世俗的な地域ならいけるけど、そこ以外は仕方ないという考えなの?
あと現代における人権概念も日々変質し拡張してるわけで、それとの差異が広がるその都度再解釈を試みていく予定なの?コーランってそういう性質のものなの?捨てたらダメなの?
誰か詳しい人おしえてもんじゃ
自慢話は男の得意科目などとよく言われる。
そんな俺にとって一番辛い現実は、彼女候補の女性が恐ろしく限定的になってしまうことだ。
事実として、俺は興味や関心が非常に狭いというか、偏りまくっているというバックグラウンドがある。
なんとも物騒な例えで恐縮だが、暗殺事件だったら犯人が使った銃の形式や構造や歴史、弾薬の種類や威力とか、そういうことばかり細かく覚え込んでしまう人間である。
銃に限らず一事が万事そんな感じで、他に音楽だったら珍しい楽器が使われていたら喜ぶとか、明らかに世の大多数とは喜ぶポイントがズレている。
物心ついた時からそんなノリで生きてきたのだから、「薀蓄が人生」みたいなオッサンが出来上がるのは、殆ど必然だっただろう。
おまけに自然言語よりもプログラミング言語のほうが得意だったり、なんでもパターンでしか覚えられない、それ以上の融通が効かないなど、物事の認知においても色々おかしい。
あと目を合わせるのも苦手だしな。
とはいえ、女の知り合いが一人もいないのは寂し過ぎるので「あれ美味しいよね」「わかるわかる」「ま、何とかするけどねw」に終始する会話はこなせるようになったし、「増田さんには悩みとか話しやすい」と評価をもらえる程度に聞き上手は意識するようになったし、バカ話でウケを取ることもそれなりにサマにはなった気がする。
おかげさまで、女の知り合いや友達は何人かできた。全く自慢にならないのを承知で言えば、中には二人で遊びに出かけたり、メールもLINEも盛り上がる仲に持っていけた相手もいる。
しかし、今のところそれ止まり、女友達と女の知り合いしかいない。
俺のイカれた生い立ちからすると、どうしたって会話の中に薀蓄が紛れ込んでしまう。
というか会話に薀蓄を含めるなと言われるなら「出家して世俗を捨てろ」と言われるほうがマシ、それくらい俺には苦しくて無理だ。
でも当然というか、薀蓄が出てきた途端、相手の反応は決まって「へーそうなんだー」である。
そこで我に返ってすごすご話題を変える。その繰り返し。
そして薀蓄が出てくるたびに、お互いのしっくりこない感も繰り返され、結果友達枠が妥当という結論になってしまう。
勿論、それだって友達がいるのは一人より寂しくないというだけで大いに意味がある。
でも、そうやって誰かと親しくなるたび、絶対に彼女になり得ないこともハッキリ示されるのだ。
こんなに虚しいことはない。
悲しくてやりきれないと言ってもいい。
恐らく、そんな俺を彼氏枠に入れてくれるのは、男の薀蓄を「やっぱり増田さんて博識~、話してて楽しい!」と目を輝かせる女性だろう。
これが最低条件というか、多分そうじゃないとお互い辛い。
なので、俺がするべきはそういう女性との出会いの機会を増やすことだと認識しているのだが、こういう女は本当に希少というか、滅多にいない。
自分たちの権利が社会的に抑圧されていると思ったら活動するのは真っ当なことで、フェミニストはその意味で十全に活動しているだろう。
そこに相乗りさせてもらえずに嘆くばかりの連中が弱者男性だと言うのなら、それこそ遺伝的に淘汰されてしかるべきだ。
フェミニズムが弱者男性に敵視されるのは、結局フェミニズムが強者男性との取引に見えるからだと思う。
フェミニズムで女性は強者男性から権利を与えられ、強者男性は「女性に優しい強者男性」と見なされてモテることができる。
フェミニズムがそれなりに実効性を持ててきたのは、割とこの構造に負っている気がする。
(弱者女性については、男性フェミニストはどんな女性にも優しくあるべきという規範が強力なので、多少恩恵に預かる)
(弱者男性に優しくする規範は男女ともに脆い。男性フェミニストはいかがわしい男から女性を守るという規範もあったりして、架橋できない)
フェミニズムのこういった構造から抜け落ちているとはいえ、弱者男性の問題は女性抑圧よりも本質的な、ジェンダーだけの問題ではないと思う。
キモくて金のない人格破綻した中年女性という人もやはり存在するだろうし、ほぼ弱者男性と同様の問題を抱えている。
この問題はフェミニズムというより実存主義の問題で、実存主義を超える男性哲学がまだ生まれていないことによる問題だろう。
誰にも愛されず評価されず、大した楽しみも目的もなく、ただ時間だけが過ぎてやがて遺伝的淘汰を迎える。
それでも良いという世俗的な言い訳は叩き潰されてきたし(「家族」「村」「国家」「会社」「共産主義」)、新しい言い訳はまだ見つかっていない。