2013-12-05

矛盾を許せない人達についての雑感

 私自身、知人さんから「アンタは裏表無くて、ダブスタも無いねぇ」と褒められる事が有りますけれども(苦笑)、内心、「いや……そうではないんですよ、私はダブスタのカタマリなんですよ、『歩く矛盾』なんですよ」とつぶやいています

 進歩的で意識も高い知人さんと、政治の話とかをしていると、「それは・あいつはダブスタだ」とか、「それは矛盾している」という言い回しを、よく聞きます

 逆に、世俗的でのんびりしている人達とは、同じテーマの話をしても、ダブスタとか矛盾という言葉は、ほとんど出てきません。

 前者の人達(「達」と言っても、私の知人さんに限った狭い範囲ですが)からは、「正しい事」は、無矛盾であるはずだという、強い信念のようなものを感じます。 それは、そうかも知れません。 限定された範囲の中においては。

 しかし、原発問題とか、憲法議論とか、国際問題とか、大変に、大きな話については、そうとも言えないと私は思います。 これらは、分割統治していかないと、まるで物事が進まない、巨大な相手ですし、時間のかかる話でもあります。 人ひとり分の生涯の長さでは太刀打ちできない話もありましょう。

 そういう巨大な「人間の話」「社会の話」について、無矛盾であることを重視したり、ダブスタ排除したりするのは、私は、違うんじゃないかな……と思っています

 人が生きるという事は、矛盾を生きるという事だと、私は思います。 我々は、命を大切にと言いながら、生物を殺して食べ続けますイヌブタでは命の重さが違うのでしょうか)。 節電叫びながら、ネットスマホをやめられません(スマホ電池の持ちの悪さは、すなわち電力効率の悪さです)。 年間数千人も殺しておきながら、自動車を使う事もやめられません。

 生き続けるという事は、矛盾を作り出し続け、矛盾の中にどっぷりと身を浸す事です。 矛盾が無くなった状態、それは美しい状態ですが、静止した美しい死体、動かず腐らない死体なのです。 理想として「完全な美」を求める気持ちも分かるのですが、生きている以上、「自身が醜い矛盾として生きている」事を前提にしなければ、「より良い場所」にはたどり着けないと私は思います

 人間の話、社会の話には、矛盾がぎっしりと詰め込まれていて、その大量の矛盾を、どのように形を付けていくのか、その「調整」をし続けなければならないのだと思います。 「これでいいのだ」という決定的な処方箋は、たぶん無いのだと思います

 無矛盾な素晴らしい法律社会体制が仮に出来たとして、それが思った通りに機能するのはほんの一時でしょう。 この世界は、人間の知性と想像力を越えて動き続けているからです。 なればこそ、「今在る矛盾」を「あるがままに受け入れ」て、無数の矛盾を組み合わせつつ何とかうまいこと調整して生き延びていくしか方法論は無いのではないか、と思うのです。

 もちろん、その調整の過程で、矛盾を少しずつ減らしていく事には、大いに意味がありましょう。 矛盾数が少なければ少ないほど、その世界は単純になり、より単純な世界の運営コスト・問題解決コストは、より低くなるでしょう。 これはたぶん、望ましい事です。 しかし、無矛盾を実現しようとするのは、ゼロリスクを求めるのと同様に、「間違っている」と私は思います

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