はてなキーワード: 一部の人とは
2016年8月8日、天皇陛下が生前退位にむけて自身の考えを表明しました。
http://news.yahoo.co.jp/pickup/6210338
これは極めて異例なことではありますが、なぜそんなことをする必要があるのか、なぜ生前退位がすんなりとできないのかよくわからない人もいるだろうからわかりやすくまとめます。
第一条 天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。
第二条 皇位は、世襲のものであつて、国会の議決した皇室典範の定めるところにより、これを継承する。
第三条 天皇の国事に関するすべての行為には、内閣の助言と承認を必要とし、内閣が、その責任を負ふ。
第四条
日本国憲法は敗戦後策定されたものなので、いかに天皇陛下をどうすべきかというのが最重要項目だったというのが想像できます。
(この辺については昭和天皇の戦争責任だ、敗戦国のなんちゃらだとかいろんな見解があります。長くなるし、本筋からずれるのでここでは述べません。)
我々一般人には馴染みがないだろうけど皇室に関わる取り決めはこちらにてより細かくまとめられています
この中の第24条に天皇陛下が崩御された時の取り決めが記述されています
法律で決められているので、なんらかの都合が悪いとなってもやらざるを得ないことになります。
例えば、想定できる内容だと東京オリンピック期間付近で天皇陛下が崩御された時、オリンピックやっているのに大喪の礼を行って良いのか、オリンピックやるべきなのかという議論が出るリスクを抱えます。
(議論が出るだけで法律で決まっているので改正しない限り、やらない・延期する・短く済ますなどの例外措置も緊急で取れません)
もし仮に、イレギュラーな措置をしたい、皇室典範は改正したいとなれば「皇室会議」を開かなければいけません。
議員十人(皇族二人、衆議院及び参議院の議長及び副議長、内閣総理大臣、宮内庁の長並びに最高裁判所の長たる裁判官及びその他の裁判官一人)でこれを組織する。
となっています。
皇室典範は憲法第2条に紐付かれた重要な法律であるため、「立法」の管轄になります。これは国政となります。
の記述があるため、天皇陛下の側から皇室典範に関わる改正を直接お願いすることはできません。
あの人と結婚したいのですがよいでしょうか?と内閣総理大臣はじめとした議会メンバーに認められなければ結婚できません。
皇室典範第十一条 年齢十五年以上の内親王、王及び女王は、その意思に基き、皇室会議の議により、皇族の身分を離れる。
○2 親王(皇太子及び皇太孫を除く。)、内親王、王及び女王は、前項の場合の外、やむを得ない特別の事由があるときは、皇室会議の議により、皇族の身分を離れる。
皇太子及び皇太孫は皇族を辞めたいと思っても離れることはできないと明記されています。
皇室典範の中には天皇陛下の即位については記述がありますが、退位については明確な記述がありません。想定されていなかったということになります。
仮に生前退位を認めたとして、元天皇陛下の立場はどうなるのか、制限はどうなるのか、崩御された時大喪の礼を行うのかどうするのかなど新たに決めなければいけないことが多い。
天皇陛下側から内閣および皇室会議にお願いすることはできません。
してしまえば、国政に干渉することになるので憲法違反となります。
そこで
こちらの記述に則って、「天皇陛下お気持ち表明」という形で「生前退位」をしたいと国民へのお願いがなされました。
天皇陛下のできる範囲で憲法違反せず、憲法や法律を変えて欲しいというお願いをしているわけですね。
http://www.soumu.go.jp/senkyo/kokumin_touhyou/common/pdf/leaflet.pdf
憲法を改正するには国会の2/3以上の承認を経て、その後国民投票の1/2以上で可決されます。
大雑把には決まっていますが、具体的にどう進めるのかこれを取り決めるのも大変な労力です。
天皇陛下の「生前退位」の可決は立法および国政に関わるため、国民の総意を問う必要がある。
だから、「天皇陛下お気持ち表明」という憲法違反しない形で国民に異例のお願いをするという形となった。
戦後初めて「国民投票」および「憲法改正」する重大な出来事になる可能性が高い。
国民の総意を簡略的に認めるとなれば、憲法改正の国会提出や国民投票するまでもなく、皇室典範改正をすることになります。
その妥当性があるかどうか、生前退位を認めてどうしたいのか、議長である内閣総理大臣がその重要性、意義を認めて皇室会議を招集する必要があります。
自分もLGBTのいずれかであるが、カミングアウトすることには相当な勇気が必要なのは理解出来る。
NHKだったり先進的なメディアではLGBTは異常でなく個性であり、分け隔てなく扱うべきというスタンスが目立つ。
それだけを見ているとまるでマイノリティに優しい世界のように見えるが、現実はそこまで進んでいない。
平等に見えるのは企業でもそこそこいいところだけであって、コンプライアンスが昨日していないような会社では平気で差別がある。
ましてや学生のコミュニティでは(一部大人のコミュニティでも)「弱い奴が悪い」という価値観がリア充の中に蔓延しており、
もちろん、頭のいい人間が集まる場合は部分的に慈悲や思いやりを見せる場合もあるが、それは偏屈なコミュニティの中でのパフォーマンスに過ぎず、
本気でそういう人間と関わるのは面倒だから当たり障りのない対応をするというのが基本であり、
関わるほどにマイノリティとマジョリティの溝のようなものはまだまだ埋められないと感じるだろう。
「だってキモイじゃん」というのが正当な理由として扱われているのが現状なのだ。
漫画なり動画なりアニメであっても、同性愛者やトランスジェンダーはネタキャラ、キワモノとしての扱いであり、
受け入れられるのはそれをネタにして道化を演じることができるモノのみである。
努力・友情・勝利には不要なのか、決してそういうサブキャラクターの辛さについて語られることはない。
自分が自分であることの苦痛だったり、正体を隠して生きなければ人狼のごとく批判の対象になってしまうという、
まるで亜人のような、B級な人間であるかのような感覚は普通の人は理解できない。
髪や肌の色が違うこと(もちろんそれによって苦しむ人もいるだろうが)とは違い、そうであるが故に尊厳を踏みにじっていい対象になってしまうことの屈辱と辛さは、目の見えない人に視覚を伝えるようなものなのだ。
この部分は個人の感受性に大きく影響を受けるため、当人がどの程度それに苦痛を感じるかには個人差がある。
そのため、その苦痛が大きい人ほど、アウティングによるダメージは蓄積していくだろう。
彼が弱かったから悪いという意見があるが、それは存在そのものを否定するのに等しい。
受け入れられない人間は受け入れられないのだ。
物理的なアレルギーがあるように、心理的なアレルギーも理解しなくてはいけない。
学生のノリで劣っている人間を嘲笑の対象にし、優越感を得たいという心理も理解出来る。
しかし、それを咎めることができないこの世の中では、こうして裁判になり、世の中に取り上げられ、
人を貶めてはいけないという事実を全員で再認識する必要があるだろう。
一部の人間は裁判までするなんてと、裁判をすること自体がおこがましいという意見もある。
社会に受け入れてやっているのに裁判までして、たて突くのかと彼らは感じているのだ。
性同一性障害の当事者が裁判を起こした時の反応もそれに基づくだろう。
結局、彼らはいつまでも弱者のままで、会社に運良く入れてもそういう事情で文句が言えない環境にあることが多い。
そういう不遇や不平等を解消するためにも、裁判という手段があることを知ることが、弱者にとっての唯一の武器になるのだ。
結局、まだまだこの世の中は弱者を叩き、不条理なことをし、不正を働いたとしても、
それを咎めることで自分に悪影響が及ばなければいいやと考える人間で溢れかえる限り変化はないだろう。
そういう見過ごす者たちが責任を取らされる立場にならない限り、何も変わらないのだ。
きっと、普通の人間はそのリスクやコストから逃げたいばかりで、本当の意味でみんなが過ごしやすい社会なんてものは求めていないのだ。
23歳になってようやく、10歳頃からの慢性的疾患であるところの厨二病が治りかけてきたと思っている。
中二病にも、邪気眼系、暗黒微笑系、尾崎系等色々種類はあるが、ここでは、
「俺みたいな中3でグロ見てる腐れ野郎、他に、いますかっていねーか、はは
あの流行りの曲かっこいい とか あの服ほしい とか
ま、それが普通ですわな
it’a true wolrd.狂ってる?それ、誉め言葉ね。
的類いのものと捉えてくれていい。
2016年6月の終わり頃、Twitterのトレンドに乗じて、「上半期に観た映画ベスト」なるものを自分も投稿したのだが、1位は、「ズートピア」とした。「ディズニーを敢えて1位として褒める、一周回って「アリ」」みたいなひねくれた気持ちでなく、これは純粋に、1位だと思ったからだ。
なので、先日公開された「シン・ゴジラ」も、事前の絶賛感想、また、「庵野…俺の負けだ…」という島本和彦氏のアツいツイートなどを見て、本当に愉しみにしていた。わざわざIMAXの席を取り、また一刻も早く観たいので平日の夜に、そして、若き日の庵野氏が登場する「アオイホノオ」も復習せねば、と息巻いていたくらいである。
という具合に、完全に、自分も、後でツイッターに、「シン・ゴジラ素晴らしかった!!」と書くつもり満々で(観てもないうちから…)、わくわくしていた。
が。
どこもかしこも大絶賛の理由がである。先程の中二病云々の前置きを入れたのは、これは決して、「流行りに反発する俺カッケー」的精神で言っているのではないという但し書きである。
特に不思議なのは、日頃、人権意識の高かったり、リベラル寄りの人も、「日本の戦い方というのを見せて貰った!!」みたいな論調で褒めていることだ。
いいのかそういう着地で?
多数の有名人たちが登場する中で主役として据えられているのは、内閣官房副長官である「矢口」(ハセヒロ)という人物である。
会議会議で誰もビシっと決断出来ない割にはその会議は最初から「想定内」の結論ありきな形式的なものにすぎないという悪しき日本の慣習に侵された人物が多数を占める中、この矢口という人物だけは、最初から、巨大生物の存在(後にゴジラと名付けられる)の可能性を指摘し、会議と、国民の反感や国際社会からの非難を怖れた日和見で政府が迅速な対応が取れなかったことを悔やみ、
派閥争いとか出世から外れた異端者たちを集めたチームや、石原さとみ演じる米国大統領特使(「意識の高いルー大柴」とか書かれていて笑った)と交渉、根回しすることで、何とか、米国などの言いなりの帰結としての「最終解決法」――「原爆投下」――日本にとっては三度目の――を阻止した上で、ゴジラの被害を食い止めるための解決策へと動く。
これは重大そうで重大でないネタバレだが、私が、ごく少ない素晴しい点だと喜んだのは、中盤あたりで、総理大臣(とその他閣僚数名)が躊躇なくあっけなく死ぬところだ。やな奴だと思っていた総理大臣が、突如矢口に、「君のことは、本当に買っているんだ…」みたいなことを言い始めたり(※補足:これはあくまで死亡フラグの例えで、別に私も劇中で嫌な奴だったとは全然思っていません)、「俺、この戦いが終わったら娘の結婚式に…」みたいな死亡フラグメロドラマもクソもない。あれ、死んだ?程度のタイミングで死ぬ。
「新しいリーダーがすぐに見つかるのがこの国の良いところだな」という劇中の自虐じみたないしは皮肉めいた台詞にあるように、この全然劇的でない死亡劇は、映画の一つのテーマともリンクしていて、国のトップである総理大臣でさえこの国にとっては唯一無二でないところは、しかしある意味では強みになり得るという着地だ。
超越的なカリスマ性や能力を持った人物のみの力で成り立っていたり、「その人だけにしか出来ない事」を抱えた人物が各々バラバラにいる組織は、リーダーや、「その人」がいなくなった途端崩壊してしまう。だから、組織や集団の恒久的な存続の為には、「その人だけにしか出来ない事」「その人でなければならないこと」といった唯一無二性を特定の人物に集中させない仕組み作りが重要なのであり、総理大臣が死んでも替わりがいるというのは、逆に言えば、そうした仕組みが機能しているからこそとも言える。
ゆえに本映画や主人公たる矢口は、徹底して「独占」を否定する。まず通常であればフィクションにとってかなり重要と思われる<キャラクター>の独占の否定。総勢300何人だかのキャストということで、ナントカ大臣とかかんとか色々次々に出てくるが、実質的には3つか4つくらいしかキャラクターは存在していない。誰が文部大臣で誰が防衛大臣でというのはこの映画にとってはどうでもいいことで、口調等微妙にキャラ付けされてはいるものの、「大臣」という一つの役割と行動原理と台詞が、10何人に与えられているに過ぎない。(多分普通の映画だったら2、3人にセリフをまとめるはずである)
「はみ出し者の集まり」とされる、ゴジラの正体究明班だってそうで、「学者っぽいないしはオタクっぽい探究心でゴジラについて調べる人たち」という一つの役割を4人くらいで分担しているだけである。(多分これも通常であれば一人にまとめられる)
これは、多数の人物たちが台詞を次々に言うことでテンポ感を出すという演出上の意味もあるだろうけれど、「チームで一つの役割」を持つべしという価値観の現れでもあろう。
更に、情報や知識の独占の否定。矢口は、本来ならば国の重要機密として扱われるであろう、ゴジラの細胞データサンプルなどの情報を様々な機関や国にばらまくことで、問題の早期解決を導く。三人寄れば文殊の知恵、これは自分ないしは自分たちだけが知っていると独占機密化することで情報の価値を上げるよりも、広く共有することでなるたけ沢山の協力を集めた方が得策である、という姿勢だ。
<超越的>存在であるゴジラに対峙した時、この国を救うのは、同じく超越的な存在や飛び道具ではない。目標を同じくする協力集団であり集合的知識であり、つまり<集合>こそが<超越>を「超える」
でもこれって前半あれだけ揶揄していた、「日本には決定を下せる人がいない」っていうのと紙一重であるから前半部の否定と統合性が取れていないし、
むろんこういうのは、思想的な好き嫌い、価値観の問題で、私は所謂ネット上ではブサヨと呼ばれる方の考えに近いから、ともすれば個の否定に繋がるような着地点に、なんだかなーと思ってしまうわけだけれど、問題なのは、というより、問題だと思うのは、「シン・ゴジラ」は、単なる、「集合バンザイ」を主張しているわけではなく、ともすればっていうかともしなくても命に関わる「有事」に遭遇した際について描いているという点である。
矢口は、一刻も早いゴジラの正体究明に必死になっているチームメンバー達が、カップラーメンのみで食事を済ませ滅多に家に帰らず連日泊まり込み、また帰ったとしても翌朝早く来る様子を見て、満足げに、
「この国もまだまだ捨てたもんじゃないな」
とか微笑み(正直、これだけで元・社畜の自分からしてみれば、けっっっっ、って感じなんだけど)
ラストシーン近く、ゴジラを倒す最終的な作戦の前に、自衛隊その他に向けた、
「今回のヤシオリ作戦遂行に際し、
ここにいる者の生命の保証はできません。
だがどうか実行してほしい!
わが国の最大の力は、この現場にあり、
っつー半ば特攻精神的とも取れる演説。(でほんとに作戦決行中戦車みたいなのが幾つかバカスカやられているような)
そして、国連(だっけか)で決定された、「ゴジラには核落とせ」という判断を、何とか食い止めるための水面下交渉について、アメリカ人(のたぶん偉い人)が発する台詞、
「まさか日本がこんな狡猾な外交手段を取れるとは、危機は日本でさえ成長させるのかもな」(詳細は違うと思うがこんな感じ)
映画の素晴らしさは「共感」にあるわけではない。だからこれが、「完全なフィクション」であれば、私もうるさく言わない。
ファンタジーであれば――たとえば、『進撃の巨人』での出撃前の演説、「心臓を捧げよ!」は確かにアツいシーンである。
しかし、「シン・ゴジラ」の場合は、完全に、フィクションの世界観にあるフィクションの人物の行動原理として切り離すことはできない。明らかに、現在の日本を物語に取り込みそして、あるべき日本の姿を提示しているものだからである。
繰り返すが、断っておくと、これはあくまで個人的な価値観の問題である。
しかし私としては、リベラル寄りの人までも、結構絶賛しているのがよく分からんのだ。
もちろん、放っといたらもっと大勢の人が死ぬっていうのは分かるけど、それでいいじゃないか。それでいいというのは大勢の人が死ねばいいということではなく、多くの命が失われるのを防ぐための方法を、という行動原理で十分じゃないか?
それが、いや、登場人物が内閣とか政治家とかだから仕方ないかもしれないが、国のためとか国民のとかこの国はとかやたらと、まあーーーーうっるさい、しつこいのだ。
国のために個や生活を犠牲にして働くのが美徳で命を落とす覚悟が礼賛されるべきもので、何より、「有事」「危機」こそが、国を成長させる、みたいな価値観?
いいのかそれが「これぞ日本の戦い方」で飲み込んで
っていう些か判断や解釈の分かれる思想的な話の他にも、単純にひとつの作品として、映画やプロットの作りとして、鼻につくポイントは少なくないと思う。
これは多くの人が指摘するように、「シン・ゴジラ」の欠点ないしは一部の人にとっては美点の一つは、
「たぶん(本来怪獣映画を喜びそうな)小中学生が見ても分からない」
ことであろう。
次々に入れ替わり立ち替わり出てくる人物、やたらと専門用語や政治用語を並べ、理解させる気あるのか?というくらい早口の会議、応酬、ゴジラを倒すというよりメインは政治劇
「会議が冗長でなくムダがない」「予告では、おっさん達がやたらと会議して退屈そうだと思ったがいざ観てみたら会議もっとってなった」という内容の感想をよく目にするが、
そうか?
前半部の会議会議会議は勿論、指示手続き実行までのリアリティを出すためとかこれだけのプロセスを踏むことの提示とか必要な部分もあるが、社会的風刺になっているシーンも幾つか存在している。主人公が指示を出すと、「それどこの部署に言ったの?」と返されるタテ割り行政とか、とりあえず識者を集める時間の無駄とか、直前までスーツだったのに記者会見を前にして、総理「防護服を持ってきて」というあざといわざとらしさとか、面白いものもあるけれど、風刺したいなら、別に、それだけで、つまり、そういう戯画化したシーンを見せれば十分ではないか。
が、本作では、<その上で>、また、「この国では~」とかいちいち誰かが台詞で言うのだ。これもしつこい。
いや、分かったよ、わかるよ。だって、それさっき見たって。
「難しくて分からないだろうな」とは言うが、わざわざ台詞で補足してくれているところも結構あって、中途半端に親切なのである。その半端な親切さが観客の理解を助けるという方向ではなく、「この国ではあの国ではうるせえ!!」って感じに作用している。自分は、筒井康隆なんかが好きなので社会風刺物はむしろ好物な方なのだが、こういう見せ方はぜんぜん、スマートではないように思う。
更に、後半の最終作戦までの会議やり取り部分は、もっと無駄なような気がする。
物語として分解したときに、小難しい専門用語でなんか凄いものを観た気にさせるないしは(本当はよく分からないが分からないというとバカだと思われるので)褒めておこう!という方向に感想を誘導させる効果しか持っていない。
というのは、2時間映画の構造基本には、
が組み込まれていることこそが、フィナーレのカタルシスを呼ぶ。
小・トラブルとは、物語の世界観を示したり、人物たちの関係性を深めるためにプロット上に用意される障害だが、「根本的に解決されねばならない」問題は別にある。物語として最後に乗り越えるための壁が大・トラブルである。まやかしの勝利、からの喪失とは、今まで向き合ってきた、そして倒して喜んでいた障害が単なる「小・トラブル」で、大・トラブルは別にあることに気付いてしまったり、大・トラブルを解決したないしはできそうだと一旦は歓喜するものの実は全然間違っていたり、
「シン・ゴジラ」の場合、自衛隊が次々に攻撃することが小・トラブル、そして米軍がやってきてダメージを与えられたように見えるのがまやかしの勝利のように見えるが、そうではない。っていうか見えるがって書いたが見えない。
だってあれ見て、誰も「米軍やってきたやったー勝てる」とは思わんだろう。
突き詰めると日本は最終的に日本が守らなきゃねって映画なんだしっていうのがなかったとしても、
根本的なプロット上の問題として、主人公矢口とそのチームが、比較的最初の方で、最終的解決方法にほとんど気が付いてしまっているのである。
ゴジラの動力源が核融合であること、そのために生まれる熱を放熱するために冷却が必要なこと、おそらく血液の循環が冷却として作用しているので、血液を固めてしまえば、ゴジラは活動を停止するのでは……
っていうのが主人公サイドから割と早めに示されてしまって当初は矢口プランとか呼ばれている以上、
「これが正解なのだな」
と思う。思ってしまう。
だから、どんなに自衛隊とか米軍とかミサイルとか出てこようが、それでやっつけられるわけはない。それだと主人公が出てきた意味がない。
これは我々に組み込まれてしまった、フィクション鑑賞時のルールである。
故に、制作者は、その予定調和的思い込みを覆さねばならない。むろん、米軍が出てきて解決しちゃいましたチャンチャンという方向でなく、だ。
というプロット構造に則って言えば、ゆえにこの、当初気付いた解決策は後半部で本来、「覆される」べきなのだ。主人公ないしは主人公サイドは、「解決策」を握り、幾つかの妨害や無理解そのほかに合いながらも、なんとか実行直前ないしは実行に漕ぎつける。やった!!というつかの間の悦びを得るが、そのうち、それが無意味・不正解、根本的解決ではないことを悟り、絶望に陥る。
で、
からの。この、「で、」からが、ラストに向けた助走なのである。
これが、例えば、当初は主人公たちは全然別の方法を思いついてしかし失敗、再度のなんとか成分がとか原子構造がとか動力源がとか分析のアイディアの出し合いにより、「血液固めればいいんじゃね」ということに気づく…とか、苦労してバトルして血液凝固剤注入したけど無駄でした⇒博士の残したデータの解析⇒凝固だけじゃ足りないのかもとか注入方法の工夫が足りないとか試行錯誤して最終決戦、
など少なくとも順番が入れ替わっていれば、
専門用語を並べ立てた応酬、会議会議、チーム内の協力…の配置が、物語に機能していると言えるし、純粋に映画としてのカタルシスと、内容を理解できる者にとっては、そうだったのか!と、謎解き的、知的カタルシスをも生む。
しかし最初に、後半の最終作戦までの部分は、もっと無駄、と書いたように、実際はそういう構造ではない。
主人公たちが序盤の方で気付いた最終解決策がほぼそのまま最終作戦なのだ。博士の残したデータの分析で抑制剤がプラスされはするが大方まあ正解なのだ。そしてちょっとやられたりはするが成功しちゃうのだ。
だったら後半部の、なんとか成分がとか原子構造がとかなんとか博士の分析が云々という難しげなやり取り、本当はいらないじゃん。だって序盤に示された正解が正解ということを補強しているだけである。
つまりほとんど、「米国が核爆弾落としちゃうかもヤバい!どうする!」という物語の都合上、(間に合わないかも!)という時間稼ぎに配置されているだけだが、そんなの、間に合うのは分かる。フィクション鑑賞時のルールとして。
ラストの作戦がショボい、という感想はちらほら見かけるが、本当は、作戦がショボいことがカタルシスを生んでいないのではない。ほぼ最初に示された正解通りのまま終わるから、あれ?となるんである。かつ、人物たちの早口の分析から判明していく真相に、なるほど、そういうことだったのか!という知的快楽も得られない。
以上の理由から、「難しいから子どもには面白くないかも~」と言っている人こそ、本当に理解しているのだろうか、煙に巻かれているだけじゃないの、という感じだが、
「小難しい」というだけで、煙に巻かれて何か凄いものを観た気になる一部の人間、ないしは、凄いものを観た、観客に媚びてない=芸術的=作品の価値が高い と「思いたがる」(言いたがる)(だってつまらないと言ったら理解できなかったと思われる、バカだと思われる)類いの鑑賞者にとっては、演出上の効果はあるのかもしれない。いや、あった。
けれど、
やれ家族の絆だ恋愛だお涙頂戴だ感動だの分かりやすい浅い作りにしなくても、クリエイターが作りたいものを大衆に媚びずに作っても、観客はちゃんと素晴らしいものを評価できることが~
みたいな、自分が一番「一般人」(こういう言い方をする映画マニア、てめえもただの一般人だろって感じだよなマジで)を馬鹿にしている上から目線の物言いで、無邪気にキャッキャッと、ハリウッドに勝ったとか邦画も捨てたもんじゃないとか喜んでいる場合だろうか。いまだに。
同時に、分かりやすいことは必ずしも、「浅い」ことを意味しない。
むしろ、近年、「マッド・マックス」とか、「ズートピア」のような、戯画化によって現在蔓延る社会問題の構造を鋭く炙った作品でありつつ、かつ、子どもでも純粋に楽しめるくらい映画として高いエンターテイメント性を持った作品が海外から出て話題を呼んだ中で、
まだ、大衆に媚びてないから一般人は難しくてついてけないだろうけど~チラッチラッ みたいなことを言ってはしゃいでいる段階って、それこそ完全に「敗北」だと思いますけどね。
良識ある人間は、ワクチンを打たずに大勢の人間死ぬのを回避するために
ワクチンを打って一部の人に副作用が出るのは仕方が無いと考えていると思う。
だが、このワクチンの怖さは、その副作用によって、知能や運動能力を奪われ生涯苦しみ続ける点にある。
今まで元気だった子供が、突然、死んだ方がましと言えるくらいの重い障害を負うのである。
副作用の仕組みは、添加剤である免疫活性化剤によって低確率ながら免疫が極端に活性化=暴走し、
自己免疫疾患(免疫機能が本人のカラダを攻撃し続ける)状態になると言われている。
私は、特別、障害者に対して差別意識を持っている人間なわけじゃない。
生まれて初めての「発作」は、かれこれ30年ほど前、まだ8歳だったときに遡る。
それ以来、騙し騙し生活してきた。
食べ物を受け付けなくなり、倒れて、点滴に通ったりもした。
それでもなんとか大学まで進み、もうすぐ卒業か、っていうところで限界に達した。
車に乗れない。
当然、電車にも乗れない。
大学は1年休学後、退学せざるを得なかった。
精神病棟は怖かった。
昼夜問わず聞こえる奇声、隣のベッドの女の人は寝てるとき以外は始終ぶつぶつと独り言を言っていた。
こんなところにいたら余計頭がおかしくなる、と思って、早々に退院した。
今は、家族の運転でなんとか通院して投薬治療を続けている、けど、未来に対する希望はない。
大学に通えてるときは、このまま順調に大学卒業して、就職して、普通に生活できるのかな、なんて思っていた。
大学は、県内でも一番の国立大学に通っていた。いわゆる、「旧帝国大学」のひとつだ。
でも今では、引きこもりだ。
重度の引きこもりってわけじゃない。母にくっついて買い物くらいは行く。
でも、一人ではどこにも行けない。
いつくるかわからない発作に怯えて、通常飲む薬とは別に処方されてる頓服を肌身離さず持っている。(家の中でも)
夜中に、発作で飛び起きることもある。
過呼吸と動悸、幻聴なのか幻聴じゃないのかはっきりしない話し声。
家の前で誰かが立ち話をしてるのが聞こえて何度も確認にいくけど、もちろん人影はない。
でも、少しでも生活サイクルが狂うと、たちまち具合が悪くなる。
だから、季節の変わり目なんかは怖い。ちょっとした気候の変化が体調にダイレクトアタックしてくる。
もうすぐ38歳になるのに、結婚はおろか、ちょっとしたバイトさえ出来ない。
だから、生きてることに罪悪感を感じている。
高齢の親は、自分たちがいなくなった後の私の心配ばっかりしている。
1歳年上の兄は、親の死後は自分が面倒を見なきゃいけないと思っていて、長く付き合った彼女との結婚を諦めた。
そんなことしなくてもいい、生活するだけならなんとかなる、と言っても、たぶん家族の心情としては、放置出来ないんだろう。
私が、明らかに重荷になっている。
友達はいない。もうみんな結婚して家庭を持っているから、連絡は絶えた。
彼氏なんているわけない。そもそも外に出ないんだから、出会いがない。
そんな情報をネットで見たから。(精神疾患の場合は駄目っていう情報もあるけど)
日本だって、そろそろ、安楽死を認めてもいいんじゃないの、って思う。
死にたいとは思わないけど、自分がいなくなれば少なくとも家族の負担は減らせると思っている。
だから、病気だとかそういう理由のある人には、安楽死、認めてもいいんじゃないの?
自分が苦しいって言うのもあるけど、それ以上に、家族の、とりわけ兄弟の人生まで奪うのは、辛い。
いっそ血も涙もない兄弟で、こんな出来損ないの妹なんて気にせずさっさと家を出て結婚するような人間ならよかった。
そんなふうに思ってる障害者もいるってことも、知ってほしい。
-------------------------------
手足がないわけじゃないからさっさと自殺しろ、という人がいるけど、これ以上家族の負担になりたくないから(法的に認められた上での)安楽死を望む、という意味を理解できませんか?
もちろん、自殺は難しい。
世間の目、ご近所の噂話。
死んだあとまで家族の負担になりたくないと思うのは自然なことじゃないかな?
でもね、行動が極端に制限される中、そこまでたどり着けなかったよ。なんとか新幹線まで乗り込んだものの、新幹線の中で意識失って、気がついたのは病院。
ブコメした本人が、自殺したいけど手足がないから(不自由だから)自殺もできない人だったのなら、同じように安楽死が認められるように頑張っていこうよ、と思うけど。
------------------------------------------
○朝食:なし
○昼食:鯖ご飯(滅茶苦茶美味しかった。セブンイレブンの鯖ご飯です。ちょっとあまりにも美味しくて、今から夜食に同じのを買いに行くか悩んでるぐらい美味しかったです)
○夕食:まだ食べてない
○調子
朝の九時から定時までズーーーット喋りっぱなしなのは、ツラかった。
別にがなったり怒鳴ったりするわけじゃないのに、ノドが痛くなってきた。
今のお仕事は、大きく分けて三チームに別れてて、
Aチームの偉い人二人が出張でいないから一番の古株が僕の状態な上に、四月入社の人が三人(まだ半年も立ってないのに早くも彼らの中での序列が生まれてるの社会の縮図感があって恐ろしい)も加入して、
かつ、Bチームの人が1人長い長い有給をとることになって、その穴埋めで僕はBチームの仕事もしてて、
その上、AチームとBチームのことを両方のことをしってる希少な人という立場のせいで、
Cチームの人から色々質問がきて、(本来ならAチームの人とBチームの人2人呼ばないとわかんないことが、たまたま僕がこうなったから僕1人呼べば良いやって感じで、凄い気軽にしょうもないことでも呼ばれるようになってる気もする)
という、あっちいったりこっちいったりで、元々それなりに忙しかったんだけど、
遂に、僕の手で全部やるのが無理なんじゃないの? って感じになってきてる。
っていうか、なんかもう嫌になってきた。
何が嫌って、なんかこう偉い人が適当に決めたスケジュールに振り回されるのが、嫌になってきた。
うーん、なんか違うな。
偉い人が決めたスケジュールに、ちゃんとした理屈を持って反論しない「ちょい偉い人」のことが嫌いになってきた。
あー、なんか、ちゃんと文章にすると、ますますイライラするだけで、なんの得もないな。
ようするに「ちょい偉い人」が、上から振られたスケジュールをただ、下に回すだけで、
このスケジュールでやると、結局出戻りがあるとか、今このタイミングでしても意味がないとかを、ちゃんと僕以外の人も含めて皆が言ってるのに
「やれって言われたから……」っていう消極的な態度で、やろうとするのが気に食わないんだ。
「やれって言われたからアリバイ作り的にやる」なら、そうと言ってくれれば、こっちも力を抜いて適当にして、後から帳尻を会わせるとかするのに、
闇雲に全部を全力でやらせようとするから、無茶苦茶になってくるんだよなあ。
で、ますますムカつく原因として、一番大本の「偉い人」は、ちゃんと話すとわかってくれるタイプの人なんだよなあ。
むしろ、これを話さずに無理矢理終わらせてクオリティが低い事や、このタイミングですることの意味の無さを相談しないことを凄く嫌がるタイプで、
たびたび「なんでもっと早く言わないんだよ!」って怒ってるわけなんですよ。
じゃあ、僕が頭越しにそれを忠言するのは、間違いなく違うから、僕としては我慢するしかないんだけど、
「ちょい偉い人」の自己防衛としても、ちゃんと一回会話した方が良いと思うんだけどなあ、
なんかこの人、会話を凄くいやがるんだよなあ。
こう、全員に言わないといけないことなのに、一部の人しか言ってなくて面倒なことになったりとかさあ。
しょうがないんだけど、
しょうがないんだけど、
はあ……
疲れた……
明日いきたくないなあ……
っていうか、お腹空いた。
今は共働きっていうけども、相手も自由にセックスしたい人間とするし、浮気できるって事だからね
イニシアチブは保ったまま利益だけは得たいなんて都合のいい事はできない
まあ結局のとこ、人間顔だよね
金で結婚した人はどこまでいっても金、金でしか愛されない、無理
金で愛されたいってんならまた違うのかもだけど、普通の感覚じゃない
あ、運命です、おそらく
イケダハヤト @IHayato
「本来◯◯はこういうものだ、◯◯を汚すな!」みたいな批判のカッコ悪さは異常。本来も何も、それは単なるあなたの思い込みでしょう、という。
クラウドファンディングとはこうあるべき、起業とはこうあるべき、なんて「あるべき論」が、その手段の可能性を狭めるというのは、歴史を見ても明らかなんだよな。高尚なものに仕立てたいのかも知れないが、それでは一部の人しか恩恵を受けられないものになってしまう、それはインターネット的では無い
イケダハヤト @IHayato
これもいいですね〜。学生が旅行資金をクラウドファンディングで調達。ちゃんと集まってる!/ 喜びの対価として集めたお金で旅行がしたい!欲望全開のクラウドファンディングを始めました - いわタワー
イケダハヤト @IHayato
すばらしいですね! / クラウドファンディングに本気で取り組んで190万円以上集めたぼくが伝えたいこと。 - 未来は変えられるの? http://bit.ly/2adyv3o
イケダハヤト @IHayato
整地用にミニユンボほしいし、クラウドファンディングでお金集めようかなw リターンはぼくが作る小屋への宿泊チケットで!私利私欲のためにクラウドファンディングを活用だ。
イケダハヤト @IHayato
ほしいものがあるけどお金が足りないなら、クラウドファンディングやればいいと思う。集まらなければそれまでだし、集まればもうけもの。自分を切り売りしてみれば、マーケット感覚もつかめるしね。
イケダハヤト @IHayato
クラウドファンディングが面白いのは、二人の「MacBookほしいです!お金ください!」と語る人(Aさん、Bさん)がいたとして、まったく同じ内容を投稿しても、集まり方が違うところなのです。Aさんは一瞬で集まるのに、Bさんは1円も集まらない、みたいな状況が起こる。
やぎぺー(八木仁平) @yagijimpei
「小さなアクションを起こしていいんだ」という空気感が大事なんだよ
最初に踊り始める人がいるからこそ、周りの人も踊っていいんだと気付き、可能性の輪は広がっていく
やぎぺー(八木仁平) @yagijimpei
「焼肉を食べたい」でも「沖縄に行きたい」でもクラウドファンディングを使って良い
関わってる人同士が納得しているのでいれば周りの人がどうこう言うものではない
すごい(小並感)
太鼓持ちとか自分の思考がないとかそういうちゃちなレベルじゃねえ。もっと恐ろしい地獄感を味わったぜ。
頭と心を整理するためにここに書こうと思います。
毒親と連絡を断って一年が過ぎたのだけど、最近になって、毒親から、わたしの旦那と旦那実家へのコンタクトが増えてきた。
着信拒否をしてくれ、と何度も話したのだけど、旦那としては「時間が解決してくれるだろう」という期待があるようで、わたしが実親と連絡を断っていること自体は責めないでいてくれるのだけど、一方でつながりを完全になくしてしまうことには抵抗があるらしい。
旦那がそうなので義母にも連絡を断ってくれなどと言えるはずもなく、遠方なのでお中元お歳暮のやり取りぐらいだが親どうしの交流は続いている。
そんで毒親がこないだ義母に切羽詰まった様子で泣きついてきたようで、義母はやはり同じ母親としておおいに共感するところがあったらしく、わたしに対して「なんとかほどほどの距離感で付き合えないものなのか」と説得をしてくるようになった。
これがなかなかにしんどく、まあ子持ちの友人とかから内容自体は言われ慣れていることなのだけど、義母から言われると動揺する。
今は旦那がわたしの側に立ってうまくかわしてくれるからまだ救われているのだけど、その「ほどほど」が通じない人達だから手の届かないところまで距離を置いているのだということをどうすれば理解してもらえるのか、理解は難しくてもまあうるさく言わず黙っといてやるかぐらいに思ってもらえるのか、しかしまあ要するにわたしに連絡がつかないのに周りに連絡がつくから連絡してくるのであって、それで周りが困惑するのも当然であって、周りからすれば、お前んちの親子喧嘩に巻き込まれても困るんだけど、ってなもんだろうし、でも着信拒否はしないということで、わたしはどうすればよいのか悩んでいる。毒親の過去の悪行などを訴えると、そのときは「なるほど」と言ってくれるのだが、それこそやはり時間が経てばそのときの印象も薄れるようで、そのたびに彼らがいかに付き合うのに難儀な人種なのか具体的なエピソードとともに訴えることもできるにはできるが、「でも、親子なんだから」論者にはそれもいずれ効かなくなるように感じている。
旦那と義母のやり取りをよくよく観察すると、お互い結構きつい口調で言いたいことを言い合っているのだけど、なんというか、ちょっとした言い方とかにイラッときてもお互いすぐ流せてる様子だし、ささいなことにこだわらないおおらかな愛情があるんだなあ、というのがしっかり感じられる。羨ましい。うちの毒親は、そのちょっとしたイラつきを毎回徹底的に掘り下げて相手の人格を否定するタイプなので、幼少期からいかんなくそれを浴びせられてきたわたしは自己肯定感駄々下がりな半生だったのである。
そういう圧倒的な環境の差異を見せつけられたのちに「あなたを産んでくれた親なんだから」などと言われると本当にダメージがでかい。
追記
その義母とも「ほどほどの距離感」で付き合えばいいんだろうけど、実はもうじき義母と同居を始める予定だ。義父が他界しており、一人暮らしの義母を我が家に迎え入れようという話をしている。わたしも毒親の親であるところの祖父母を介護し最期を看取った経験から老人介護のなんたるかはわかるし、時期が来たらプロに任せるべきであるという持論も旦那と共有している。普段あまり自己主張しない旦那が、義母を呼び寄せたい、と話してくれた気持ちを大切にしたいし、元気なうちに少しでも親子の時間を持ってほしい。それは本心だ。嫁としてはそりゃ面倒だけど、でもまあ、毒親の件さえなければ、嫁姑としてはそれこそ「ほどほど」でやっていけそうに思っている。中学生のころから実家を出るまでも三世代同居だったので、実際同居が始まってから、予想もしてなかったような悩みやトラブルがいろいろ噴出してくるのもわかってるんだけどね。やはり問題は毒親の件だ。旦那と義母が連絡を断つことに積極的でない以上、わたしがどうにか処理するしかない。これ以上迷惑をかけるわけにはいかない。でもどうすればいいのかわからない。わたしにとって彼らはストーカーと同じなので、ストーカー被害のように警察に訴えることができたらどんなにいいかと思う。でも、まだ警察に相談したことはないけど、まともに取り合ってくれるわけがないというのはさすがにわかる。毒親相談窓口とかないんですかね。あるいは、娘そっくりの人工皮膚をかぶせたペッパー君を送りつけるのでもいいと思う。数百万で済むなら喜んで依頼する。「なんだかんだ言っても、親なんだから」と言う人は頼むから、少しでいいから、世の中には一見普通に見えても実は裏で大変な思いをしている人もたくさんいるんですよということを考えてほしい。
追記
毒親ネタ大好きなはてなで全然話題にならず寂しいので、小町なトラバへの返信でも書いて見ようと思う。
・友達の中で説教をかましてくるのは、既婚子持ちの、さらにごく一部の人たちです。
いずれも学生時代からの友人だが、当時はグレておかんを泣かせていた人達に限って今のわたしを非難してくる。
わたしは家を出るまでずっと親の期待通りに育ってきた、いわゆる「いい子」ですよ。
でもまあ、幼少期のわたしをそういう見せかけの「いい子」に仕立て上げたのは彼らだしな。
自業自得なんじゃね。
・ペッパー君を買うための数百万はわたしは自分で稼いだお金から出しますよ。
いや買わんけども。
なんかしらんけど、このトラバの人、偏見とか思い込みがすごいよね。
何がそんなにこの人の逆鱗に触れたのかわからんが、よほど現状に不満が溜まって心に余裕がない状態なのでしょう。
気の毒だと思う。
そんなふうにならないためにわたしは自分に害をなす人からは極力距離を置くことにしています。それがたまたま親だったというだけの話。
菅野完さんから性暴力被害を受けたというXさんからの依頼で、7月14日に「菅野完 noiehoie の性暴力」というエントリーを上げました。
http://c71.hatenablog.com/entry/2016/07/14/153922
これは自発的に書いたものではなく、一部の人の思惑に沿って書いた作為的なエントリーでした。善意からとはいえ係争中の案件を裏取りもせず、頼まれるまま無責任に書いてしまったことを関係者の方々、ならびに読者のみなさまにお詫びしたいと思います。
この件には私が知る限りでも週刊金曜日編集者の方、係争事件の弁護士の方、濁山ディグ太郎さん、中島岳志さん、山口智美さん、いとうせいこうさん、朝日で女性問題を多く取り上げている林美子記者始め多くの方が水面下で結束しています。私はこの繋がりが純粋に性暴力被害者を救済し、再発を防止するためものなのか、菅野完さんの日本会議批判と関係があるのか、疑問を持っています。
7月14日、Twitterフォロワーであるfさんから性暴力事件についてのエントリーを被害者を助けるために書いてほしいという連絡があり、被害者を名乗るXさんとグループチャットでお話しました。私は自分自身が性暴力被害者であるため、そこで聞いた話と発売前の週刊金曜日のキャプチャの内容に強い衝撃を受け、フラッシュバックで正常な判断力を失ってしまいました。Xさんとも菅野完さんとも面識がないにも関わらず、被害に遭ったというXさんとかつての自分が重なり、無条件で力にならなければならないと思い込んでしまったのです。
見ず知らずの方の係争中の案件に関わることは軽率なのではないか、発売前の雑誌の紙面を大きく掲載したキャプチャの使用が著作権の侵害に当たる場合、その責任は誰が取ることになるのか、そういったことについてさえ十分に話し合うことなく、とにかく発売までにエントリーをアップして拡散させなければと必死で記事を書きあげました。
パートナーは私が本業の準備、食事や持病のための休息時間も犠牲にし、フラッシュバックでふらふらになりながら、ひたすらテキストの加筆修正を繰り返す様子を見て、とても心配しました。彼は当初から先方がこれだけの依頼を出しておきながら、執筆料の申し出を一切しようとしないことにも疑問を持っていたようです。
長文のテキストであることに加え、Xさんと彼女の支援者を名乗る人たち、また弁護士や週刊金曜日編集部からの要望が後からいくつも追加され、私はその度に細かい修正に応じました。加筆修正の度、何度も何度もおぞましい性暴力のについて読み返すことで自分自身の性暴力被害が蘇り、吐き気と動悸と冷や汗でとても苦しかったです。でもそのときは「性暴力被害を許してはならない」「被害者に自責の念を持たせてはならない」ということしか考えられませんでした。
ようやくOKをもらったエントリーはXさんの支援者ではなく、紹介者のfさんを通じてリツイートしてほしいと頼まれました。私と同様事件と無関係のfさんがなぜ?と疑問思いましたが「被害者探しを避けるため」といわれ、「被害者を危険に晒す気ですか?」と脅されているように感じ、何も言えませんでした。
また「フェミのお仲間を通じてリツイートしてほしい」「互助会!互助会のノリで、お願いします!」という言葉には(フェミの仲間なんていません。一人一人が自分の考えで発言しているんです)(互助会なんてありません)と思わずにいられませんでしたが、言い返すだけの気力もなく、上手く言葉にすることができませんでした。
パートナーはXさん、濁山ディグ太郎さんらに新規はてなidを取得してブログを書いたり、増田を使って匿名エントリーを上げてみたりしてはどうかとすすめましたが、誰一人それに応じた人はいませんでした。憔悴している私を傍で見ていた彼は私一人が矢面に立たされることに強い憤りを感じており、それを見ているうちにようやく私も「これは何かおかしい」と自分の感覚の異常に気付くことが出来ました。
私は自己評価が低く、記事の作成を依頼されたときも「なぜ私が?」という思いがありました。そのことについてXさん、naeさんらから「自己評価が低いからこそ被害者によりそういい記事が書けた」といわれたとき、限界が来ました。私自身は自己評価の低さと戦うため、これまで命を削ってきたからです。個人差はあると思いますが、性暴力被害者が自分を無価値であると考えるのは謙虚さとは違います。この苦しさは「だからよかった」といえるものではありません。
記事を書いている間の緊張とエントリーの反響、そして休息や食事を後回しにしていたこと、何よりフラッシュバックで普通の状態でなかったことが重なり、私はXさんの支援者の皆さんに感情的な反応を返してしまいました。そのことはお詫びしたいと思います。
しかしようやく少しだけ判断力を取り戻したいま、パートナーをはじめ友人たちに話を聞いてもらい、この件を伏せておくことは良心的に出来ないという結論に達しました。私は知らずに政治的な駆け引きに加担し、証拠不十分な係争中の事件について、言われるままに一方的な宣伝をしてしまいました。裏で糸を引く大勢の人たちの思惑に従い、とても公正とはいえないやり方で日本会議批判を攻撃する立場に立っていました。
このような事情によってあのエントリーを書いたことを読者のみなさんに知っていただきたいと思います。このような結果になったのはひとえに私の迂闊さと甘さによるものと反省しています。今後は利用できそうな人間は誰彼かまわず利用する人の餌食として踊らされないよう健全な自尊心を持ち、自分と他人の心の境界、責任の所在を明確にしていきたいです。他人の回復の前に自分自身の安全を守ることが、私を大切に思うパートナーや友人たちへの愛情だということを忘れないでいたい。またXさん、菅野完さん、そして日本会議に対する思想や立場について、感情的な思い入れに流されない視点を持ちたい。都合よく踊らされるのはもうたくさんです。
-----------------------
50円前払いの人の話とか、40社受けて内定ゼロの人が本名でブログ書いていたとか、そういう話をきいて、
Webって実験して経験値を積んでいくって場がどんどんなくなってきてるなーと感じてる。
今回のは脇が甘いというのはあるかもしれんが、自分以外の人が書き込むリスクもあるわけで。
自分に関する情報を常にエゴサーチして誰よりも早く検索エンジンから排除するようにしたり、
他の誰かが発信している意見を集めてでしか意見表明できないとか、そういう流れになっていくのだろうか。
昔、匿名性を担保しつつもアイコンによってアイデンティティは獲得できるということだったが、
YouTuberよろしく、人は顔を出していないと情報を発信してはいけなくなってきているところに、
流石にこの流れはよくないんじゃないか?と思うのだ。
どっちの案件も炎上する前は、一部の人は知ってたかもしれないが、事件が起こってから知った人の方が多いように、自分には見える。
ネットで人が成長するための仕組みだとか、入れていかないとダメじゃないかとか、
成長するまで別の実験場用意するとか、そんなことを考えてしまう。
公でするから問題あるんじゃという話もあるかもしれんが、LINEでしたプライベートなやり取りも公開しちゃった方が
注目集められるとしれたらやられるわけで。
一部の人に大人気のパック入りの業務用水ようかんを食べてみたんだが、まぁ美味しい。
美味しいんだけど、なんかちょっと「小豆くさい」気がする。後味が少し残るというかなんというか・・・
人によってはかなり気になるかもしれないから、最初から大量に購入するのはおススメしないぞ。
1本お試しで食べてからにしよう。
投票日まであと僅か。
三宅洋平氏の演説を聞いてその情熱に動かされる人が後を絶たない。
演説には支持者が大勢詰めかけ、一部の人達が迷惑だと言っているがそんなものはどうでもいい。
三宅氏のファッション、音楽をうまく使い、全身のアクションを使った特徴的な演説はこれまで政治に興味なかった若者たちを惹きつける。
youtubeやSNSを巧みに使い現場に来れなかった人たちへの宣伝活動も巧みだ。
国内外の不安が広がる中現れた三宅氏は時代のスターとなっていくに違いない。
現政権に反対する人たちは現在が第2次大戦前と似ているという。
http://politas.jp/features/10/article/501
どうやら同い年なので、政治不信とか氷河期を生きてきた時間は同じなのだろう。
まぁ言いたいことはわかるが、消去法で民進党はやめた。もちろん共産党なんか論外だ。
連中はちょっと票が集まっただけで努力をやめてしまう。集まらなかったときも努力をやめる。
つまり毎日権力闘争で切磋琢磨し、世間で実績を上げ、地元に(一部の人達だけでも)利益を還元し、
気を配っている自民党の新人から叩き上げの議員に遠く及ばないからだ。
票が集まったのは他人の不幸のおかげ。議員になればでかい顔をし権力をかざし、社会のシステムを
破壊することだけが自分のアイデンティティだと勘違いしてる連中が闊歩してる。そんな連中の
寄せ集まりが民進党であり、独裁のみが力だと信じるてるのが共産党だからだ。
なので、今回はそんな勘違いをしている候補のみなさんと、それに騙されている有権者のみなさんを
ことごとく落胆のズンドコまで叩きのめすために自民党とその候補に入れた(期日前投票で)。
なぜ落ちたのか支持を得なかったのか心の底から総括し、泥臭い努力をしたうえで数十年後再び
立ち上がれる自信と体力あるやつのみ政治屋さんを続ければいいと思うし、それに耐え切れない
「ジミンガー」ジジババはとっとと絶命してくれればよろし。吉報を待ってる。
あまりサボりすぎると周りに影響が出るからとたしなめられ、面倒だからやめることにした。
やーめたって思った日に事業起こして、1週間で今の会社1月分の収入は稼いだ。
まだ後任が見つからなくてやめられてないけど、副業OKだからいいっしょ。
サボりながらテキトーにこなしていたとしても、普通の人の3倍は働いてたっぽい。
サボりに怒っていた人がそれに気づいたのは最近で、補填が1人じゃ足りないから焦ってるらしい。
俺すげーっていいたいわけじゃない。
収入よりも楽を選んでいたのにはそれなりの理由もあるし、サボってたら周囲の士気が下がるのもわかるよ。
ただ給与も安かったから、働くギリもないな、サボろ、みたいな。
それでも働き過ぎてたっぽいけど。
で、いつ退職できるんだろ。
それなりにお世話になったから、せめて引き継ぎしてやめたいんだけど。
コンピュータ言語って世の中に山ほどあるけれど、それぞれの言語ごとに特徴がある(特徴のない言語は廃れていく)。
あまり言語に詳しくない人相手に、俺の考えるそれぞれの言語の特徴を書いてみようと思う。
なお、取り上げるのはある程度広く使われている言語に限りたいと思う。
言語名 | 概要 |
---|---|
C言語 | 高速動作するバイナリ生成を目的としたコンパイル言語。だいたいどんな環境でも使えるがバグ出やすい |
C++ | マニアック言語、高速、習得大変 |
Java | サーバで高速かつ安定に動作するコンパイル言語、大規模でよく使われる |
C# | 主にWindowsクライアント用のバイナリ生成に使われるコンパイル言語 |
Perl | 広く使われていたが今は若干時代遅れのスプリクト言語。汚い |
Python | Perlにかわって主流になりつつあるスクリプト言語。綺麗 |
PHP | Web開発にフォーカスされたスクリプト言語。一世を風靡した。 |
Ruby | とても綺麗なスクリプト言語 |
JavaScript | ブラウザで実行出来る唯一の言語。言語自体はいまいちだが、ブラウザの事情で需要あり |
Go | サーバサイドで安全かつ高速動作するバイナリ生成を目的としたコンパイル言語 |
メモリに直接アクセスして書き換えるといったコンピュータの機械語に近い言語構文を持つため、高速な処理が可能な言語。
コンパイラの歴史も古く環境も整っており、組み込み系などを含むほぼ全ての環境で利用可能な万能言語。
一方で、メモリの確保や解放といった基本的なことも自前で処理する必要があるため、コーディングの効率が良くなく、多種多様のバグを生みやすい側面も持つ。
ある程度以上のエンジニアであれば常識として知っておきたい言語だが、初めて覚える言語としてはあまり適当ではない。
C言語にオブジェクト指向を導入した言語。C++言語とはあまり呼ばれず、しーぷらすぷらす、もしくは略してしーぷらぷら、しーたすたす、などと呼ばれる。
C言語の速度を維持したままオブジェクト指向やテンプレートなどの効率的な記述を可能にしようとした意気は真っ当だったのだが、
当時最先端だった色々な技術や思想を叩き込んだおかげで、あり得ないほど複雑化した言語としても有名。
「C++を理解しています」という人はほぼ初級者で、本当に理解していくほど「C++には自信がありません」となっていく。
速度を追求する分野では良く使われている。完全に理解するのは難しいとしても、テンプレートくらいまでは理解しておくと仕事上なんとかなる…かもしれない。
サーバサイドで安全にコードを実行する目的でよく使われる言語。長い歴史を持っており、比較的高速に動作する。
当時は画期的だった「バーチャルマシン」や「ガベージコレクション」という機構を備え、CやC++でよく問題になるメモリの解放忘れというバグを生まず、
サーバサイドなどで何千時間と動作するソフトウェアに適した言語として受け入れられた。
必然的にエンタープライズ用途で利用されることが多く、各種ツールなども豊富。人海戦術がしやすい言語という側面も出てきた。
一方でブラウザにHello Worldを出すだけでも大変な労力を必要とするので、スタートアップなどではあまり使われない。
ガラケーのアプリや(ちょっと違うが)Androidなど、クライアントサイドでも使われることがある。
プログラミング言語で最初にJavaを覚えるという人は結構多いが、仕事としてJavaを使うのは大抵SI系の業務になり、なかなか辛い労働を強いられる可能性が高い。
クライアントサイドで安全にコードを実行する目的でよく使われる言語。こちらも比較的高速に動作する。
元々はWindowsのクライアント用の言語であり、Javaとは違ってクライアント向きのAPIが多数ある。
マイクロソフトが開発した言語ということもあり、マイクロソフトの優れた開発環境が利用出来るので開発効率は非常に高い。
Unityなどでも利用可能であるが、基本的にはクライアントの実行形式ファイルを生成する目的が大きく、サーバサイドではあまり使われない。
自作のゲーム開発をしたいのであればうってつけの言語。初めて覚える言語としても十分に良いだろうが、C#を使う仕事は近年無くなりつつある。
ほぼ全てのLinux系ディストリビューションに含まれており、ツールや様々な用途で使われていた。
上に紹介したC、C++、Java、C#のようなコンパイル言語とは違い、(少し語弊はあるが)1行ずつ実行してエラーがあれば止まるスクリプト言語である。
ちょっと開発してすぐに実行ということが出来るのと、コマンドラインでワンラインのコードを読み込ませてちょっとした処理が出来るなど応用範囲の広い言語である。
20年近く前にWebでCGIが普及した時には、ほぼどのようなサーバ環境でも実行可能だったこともあり、Perlを使うことが極めて多かった。
しかし、主に読みづらい言語仕様のせいで、近年新規ではほとんど使われなくなった。既存のコードもどんどん別の言語に置き換えられていることが多い。
日本の大手Web企業の一部が使っているので、そこに就職するために覚えるのもアリっちゃアリだけど、今からPerlをわざわざ覚えるのは強くオススメしない。
後発のスプリクト言語。こちらもほぼ全てのLinux系ディストリビューションに含まれており、それゆえに広く使われている。
インデントまで言語仕様で規定することで、誰が書いても読みやすいコードになるように考えられている言語である。
Perlの代わりに使われることが増えていて、周辺ツールなども充実しており、小規模から大規模までカバーする勢いがある。
ただ、Python2とPython3のバージョン間での非互換性があまり綺麗に設計されていなかったため、そこで混乱を招いていたこともあった。
最近だとマシンラーニング系のライブラリでPythonが使われていたり、海外ではPerlに代わる言語として受け入れられつつある。
Web開発に特化したスクリプト言語。CGIの代わりに使われ始め、一世を風靡した。
以前CGIでWebに何かを表示するには比較的大変な労力を割かなければいけなかったのが、PHPを使うと誰でも即座にWeb開発が出来たので爆発的に普及した。
またphp.netの豊富なドキュメント&スニペットのおかげもあり、開発初期の効率が大変に良い言語である。
残念なことに、言語やAPIの設計がいけていない点が多く、一部の人からは蛇蝎の如く嫌われている。
今でも根強い人気があり、海外でも小規模プロジェクトの最初の開発にPHPを選ぶのは比較的よくある選択肢であるようだ。
Webアプリを開発をしたいという明確な目的を持つ人が、最初に学ぶ言語としてPHPを選ぶのは理にかなっていると思う。
なおこの言語を本気でディスってる人は大体視野の狭いエンジニアであることが多いので、地雷エンジニアを見分けるのにも役立つ。
綺麗なスクリプト言語。日本発で世界的に普及している数少ないIT技術の一つ。
言語仕様が美しく、それゆえにファンが多い。Ruby on RailsというWeb用フレームワークの登場で、Webアプリでの採用例も一気に増えている。
基本的には他のスクリプト言語と同じくサーバサイドでのプログラミングに用いられることがほとんどである。
スクリプト言語で何かを作成するのであれば、Rubyを選んでおけばそう失敗することはない万能言語。
サーバサイドで何かすることに興味を持っているならば、最初に覚える言語としてはとてもオススメ出来る。
一方で、なぜかRubyが採用するWeb側のフレームワーク(具体的にはprototype.jsやCoffeeScript)はいつもクソなので、そちらは深入りしないのが吉。
ブラウザで動くスプリクト言語。ブラウザ戦争が勃発していた18年前、奇跡のようなめぐり合わせでベンダー間の合意が取れ実装された言語。
言語としてはプロトタイプベースのオブジェクト指向という少しめずらしい形式を取っているが、実際にはあまりその特徴は利用されていない。
言語仕様がイマイチで、大変バグを生みやすい言語であり、また関数のスタックが深くなる特性もあり、あまり積極的に使うべき言語ではないが
ブラウザで動く言語が現在これしかないので、大きなシェアを持っている。
一部の物好きがサーバサイドでこの言語を使おうと(主にnode.jsで)四苦八苦している(とはいえ、1つの言語でWebとサーバが完結するのは大きなメリットだ)。
ブラウザで動く唯一の言語のくせにとにかく書くのが面倒ということもあり、多数のAltJSと呼ばれるJavaScriptに変換される別言語を生み出されている。
まあJavaScript本体人が手で書く言語ではない…というのがECMAScript5までの印象だったが、新しい規格が順次導入されており、今後に期待。
Web業界で生きていくならば、好むと好まざるとにかかわらず覚えなければいけない言語である。
最初に覚える言語としては、ブラウザ上でゲームなども作れるし、node.jsでサーバサイドもできるしで、意外とオススメだったりする。
C、C++やJavaと同じでコンパイル言語。サーバサイドで高速かつ安定なバイナリを出力することを目的とされ設計されたGoogle発の言語。
その目的においてはかなり高性能を誇るので、特に速度を要求されるサーバサイドでのプロジェクトでは導入が進んでいる。
それ以外の目的ではあまりこの言語を採用するメリットはないが、ニッチな用途をピンポイントで抑えており、これから広く利用されることも期待される。
コミュニティも活発であり、初めて言語を覚える人が参入すれば喜ばれるだろう。言語としても美しい言語なので、サーバ系のプログラムに興味があればオススメである。
繰り返しだけれど、それぞれの言語ごとに特徴があり、特徴のない言語は廃れていく。
ここに挙げた言語は何らかの特徴があり、何らかの用途で必要なので生き残っている。
その背景を知った上で、ここにある言語は全部ある程度読み書きが出来るようになると素晴らしいと思う。
同じ思想をもつ中で目立つには、より過激な振る舞いが必要となる。
具体的にはIkaMaruさんとかG17さんとかscopedogさんとかなんだけど。
別の思想の人達に対して積極的に手斧投げ始めてるけどちょっとヒートアップしすぎじゃない?
一旦落ち着いた方がいいんじゃないか。
なんか俺が来た時に比べるとどんどん攻撃的になってる。
はてなに来た当初は同じ思想の人達のブログで固まって議論したり、指摘する場合もまだもうちょい冷静だった気もするんだけど。
実は参院選とか終わったら落ち着くのかな。
だいぶ前はてブ等で長年同人をやられてた方がTwitterをはじめとしたSNSに疲れ同人を卒業したり距離を置いたり…という記事を何個か見ました。
自分も同人ではないのですが、2.5次元界隈でTwitterがしんどくなり、専用アカ消したりしたなあ…ということを思い出しました。
何がしんどくなったのか最初に箇条書きすると、
①色々な人と繋がり、共通のフォロワーさんが増えたことにより、Aというフォロー外だけど苦手な人が出来た。フォローされないようブロックで自衛していたが、Aがアカウントを変えたタイミングでフォローされ、無視してたら、ほんのりフォロバを促すようなリプが来てしまった。(これが大きな理由)
②2.5次元や2次元界隈でよく見られるゆるふあアイコンに拒絶反応
③金銭感覚の違い
とかですかね…。
これらは未成年の若いフォロワーさんに多かったように思えます。
自分はアニメや漫画といった作品に対しての熱は冷めにくいのですが、俳優や声優さん、アーティストさんといった人に対しての熱は元々熱しやすく冷めやすいタイプでした。ところが、あるきっかけでとある俳優さんのことが気になりだし、気づけばめちゃくちゃブロマイド買っていたり、自分の人生史上最大の沼に陥ったのです。こんなにハマった人始めてだしこんなハマり方したのも始めてだったのです。
そこで調子に乗った私は自分以外にもこの俳優さんのことが好きな人と知り合いになりたい!現場で出合い厨とかしてみてぇー!と思って勢い余ってよくある繋がりたいタグでたくさんの方々と繋がりました。(といってもフォローは2桁でしたけどね!ちゃんと自分で見極めてフォローしたはずなんだけどね!)
最初はとても楽しかったです。毎日幸せハッピーって感じでした。推しに囲まれた生活最高ー!ってなりました。
でもこの頃から自分の性格上②みたいなアイコンの人はあまりフォローしなかったしプロフもゆるふあ〜な感じの人はブロックしてたかな。
(ていうかぶっちゃけた話、ああいうゆるふあアイコンってどこが良いんですかね…はっきり言って痛いしダサいしセンスない。本当にコラージュ上手くなりたいならそこらへんのアプリじゃなくてフォトショ使えば?写真の切り抜きとか透過とかスマホアプリよりフォトショやGIMPのようなパソコンのソフトのほうが優秀だと思うんですけどね。小さい画面で操作するのイライラしません?成人してもあんなのやってる人とかみると大丈夫?て思ってしまう…)
ところが、自分がフォローをしている人達が段々と相互フォローで繋がっていき、⑥のように身内のノリみたいな変な馴れ合いが増えてきた頃から、少しずつ、居心地が悪くなっていきました。
元々「構ってちゃんタグ」とか「私のこと好きな人ふぁぼ」とかいうの好きじゃありませんでした。この頃からリプをURL引用したりする人とか出始めて、「なんで@でリプしないの?面倒臭すぎない?あんたと私の知らない人との会話とか興味ないし他所でやってくれ」って思ったり。あと内容のない薄っぺらいリプ合戦とかね。素で「〇〇好きあいちてる❤️」「私もやで❤️」みたいなリプ送りあってる人達よりも、「うんこ黙れ」みたいなリプ送りあってる人達の方が絆が強い気がします。(あくまでも個人の見解です)
また、③で前述した通り、どの界隈にもいると思うのですが、お金をたくさん使うのにお金にだらしない方はあまり良い印象を抱きません。
別に現場全通したりグッズをたくさん集める人全員嫌いという訳ではありません。が、現場行き過ぎたせいで、次のイベント代のお金を親から借りたりするのはどうなの…って思いました。このような発言をしている相互さんを見かけてかなり引きましたしそこからこの人のこと好きじゃなくなりました。趣味のお金は自分のお金で遣り繰りしろよな。
④も2次元、2.5次元界隈ではあるあるではないのでしょうか。イベントってたいがい東京なんですよね。時々関西も少しあって、たまに福岡や名古屋とか。アニメイベントだとほぼ首都圏ですね。当たり前ですけど、東京に住んでいる方はイベントに行きやすいですよね。
それに対し地方に住んでいる人は、チケット代以外にも交通費や宿泊費もかかって、イベントが終わる時間が曖昧だとドギマギしますよね。イベ終わりどうしよう、新幹線や飛行機乗れるかな、いや一泊しようかな、夜行バス間に合うかな、最終じゃないと無理かな。とか。財布との戦いでもありますよね。公式よりも交通機関のほうにたくさん貢いでる…?!と気づいて絶望したり。TL見てるとイベントに行きまくる関東組とお留守番の地方組とで闇を感じたりしました。
…え?関東に引っ越せばいいじゃんかよって?それが出来たら悩まねえよ!!東京家賃高すぎ!!いや家賃だけじゃなくていろんなもん高すぎ!!
このような事からだんだんTLを追わなくなっていき、裏垢に引きこもりがちになりました。
そしてある日、私は推しの動画付きツイートをRTしたのですが、そのツイート主こそが前述したAでした。
私がリツイートした後「RTありがとうございました、もし良ければ相互になりませんか?」という内容のリプが来たのです。突然のことにびっくりした私は、そのままスルーしたのですが、②のようなゆるふあアイコン、そしてその人のツイートの雰囲気が苦手で無理で…。
共通のフォロワーさんが多かったのでいつかフォローされないように先に自分からブロックしました。
そして、数日後、Aがアカウントを移行した時にフォローされてしまいました。どうやらリプから察するに、少し前から私の事が気になっていたみたいです。フォローされた時はうわ、しまった…と大きなショックを受けたのを覚えています。プロフィール欄も詳しく書かれていなかったため、フォロー返すのやめよう、無視しよう、気づいていないフリをしようと思ったのです。実際それで昔自分が苦手なタイプの人からフォローきても何人かやり過ごしてたし。
ところがそのまた数日後にAから「すみません!!!!フォローさせて頂いたのですけど!!!」みたいな内容のリプが来てもう恐怖しかありませんでした。ツイート一字一句覚えてませんけど!が異常に多かったのを覚えています。
今思えば普通にブロックしちゃえば良かったのにと思うのですが、その頃の私は共通のフォロワーさんにAをブロックしたことをAに言いふらされでもしたら面倒なことになりそう…と変な考えを起こし、フォロバ後速攻ミュートしました。
これあるあるだと思いませんか。共通のフォロワー多すぎる苦手な人にフォローされてブロックしづらいの。
え、ないって?それはすまん。
色んなことが重なって重なって、もう大好きだったこのアカウントやTLが嫌になって、フォローしてる人も嫌になって、気づけばこの俳優さんを好きな気持ちも少し薄れていることに気がつきました。今までと同じポテンシャルでその方を応援できなくなってしまって、すごく残念な気持ちになりました。そしてフォローしてる一部の人に失礼な言動をして傷つけてしまった…。もうこれは本当に申し訳ないと思っているし、人間疲れが重なると言動が酷くなるんだなって痛感しました。
自分と同じ俳優さんが好きな人と繋がって想いを共有したいと思ったのに繋がった人が嫌いになってその俳優さんへの熱も薄れるなんて本末転倒じゃねえか!!くそ!!なんかとても悔しい。なんでこんなことで好きなものが離れちゃうんだろう。
その後私と同じような悩みを抱えていた付き合いの長いフォロワーさんと傷の舐め合いをしたり、やばいそれウケるめっちゃネタに出来るじゃんと励まされたり(?)したのは良い思い出。
この一連の流れから私が学んだことは、
・Twitterで誰かをフォローする時はとにかく慎重に!石橋を叩きすぎることはない!
・なるべく年が近い人をフォローする!
・共通のフォロワーが増えすぎるのは危険、複数人とのリプは楽しいがその分リスクを背負うことになる
……てところですかね。
結局今でもTwitterで長い付き合いがあるのは2.5次元にハマる前に繋がった2次元界隈の人ばかりです。
皆様も、TwitterやSNSで少しでも疲れたなと思う時は早めに手を打たないと大変なことになりますのでお気をつけ下さい。
ちなみに⑤は、嫌になった方のフォローを整理して大丈夫な方だけ相互を続けていたらこんな感じの状態になってた。相互フォローの関係がいつの間にかなくなって、片方がアカウントを変えて悪口言ってた。これもあるあるじゃなかろうか…
あっちなみにAに前垢ブロックしてたのバレてたみたいです。もう最近のツイッタラー怖い。
※こいつ誰が好きだったんだろうみたいな詮索は呉々もお控え下さいませ。