はてなキーワード: 存在意義とは
増田ではもう多分おなじみで飽きられてる例の話題における「女性の表象」について。
今週いろいろ考えていたことを書いておきたい。
多分この文章は文脈的にも時期的にもアンチフェミだとみなされると思うんだけど、自分j心にはそんなつもりはない。そもそもあの変な議連をフェミだとも思ってないし。
むしろ自分としてはクリエイターとしての違和感と普段の気持ちのメモとして残したい。
文章畑とはいえ自分はクリエイターでいわゆるオタク界隈でくらしていて商業化もコミカライズもしたっていう立場だけど、多分立場そのものとはあんまり関係ない。
はじめに感じたのは「なんか雑だな」という気持ちだった。
「女性の表象」というざっくりした単語の選択と、そこに込められた視線についてだ。
昨今のオタク界隈クリエイターとして女性キャラはいっぱい作ったし書いてきた。ヒロインとしてサブキャラとしてモブとして。それぞれに主入れを持って作り込んできた。それって「女性の表象」なのか? 自分は「女性の表象」を描いてきたか?
その答えは一般的にはYesではあるけれど、自分自身の中ではNoだ。
一般的なボリュームのラノベをささっと書くのに、自分は調子が良ければ大体三週間くらいかかると思う(念の為にこれは完成に要する時間ではない)。もちろん作中ではいろんな事が起きるし、ヒロインやヒロインとの関係は重要ではあるけれどパーツの全てではないので、この時間はそのままヒロインを描くのに使った時間ではないけれど、ひとつの参考としてそれくらいかかる。
そして読むのは早ければ二時間弱とかじゃなかろうか?
つまり作るのにめちゃくちゃ時間がかかってさっくり消費できる。これは文章畑に限らずコンテンツは何でもそうだと思う。むしろ文章畑なんてすごく素早く手軽に作れるジャンルで、映像やゲームは桁違いに時間がかかるだろう。
実際そういう現場に協力することもあるけれど、気が遠くなるくらいの人手と時間と、つまりはリソースが消費される。
それだけの時間を投下して、「女性の表象」をつくって、満足できるかといえば、自分はできない。
嫌われるかもしれない言葉をつかうけれど、正直に言う。
現実の女性の方々に訪ねたいけれど、たとえば大好きな人ができて、そのひとと来週デートするとする。初めてのデートだとする。
胸がはちきれそうなほど嬉しいとともに、膝が震えるほど怖い。なんだか冴えない一日になってしまうのが怖い。がっかりされるのが怖い。思ったよりうまくしゃべれないと思うと怖い。相手の期待ほど可愛くない自分だったらと思うと怖い。
そんなときはないだろうか? そんな時何らかの努力をしないだろうか?
自分の知る限りの知己もいままでめぐりあいのあった女性も、すごい何かをしていた。正直男性である自分からは理解しがたいほどのエネルギーをそこに注ぎ込んでいた。
その日その瞬間を「いい感じ」にするために、髪型や服を整えて、時には体型やら自分の好みまで変えて、とっておきを提供しようとしていた。そういうのを見ると恐れ多いような頭が下がる様な気持ちになったのを覚えている。
デートの時にやってくる「一番好的な彼女」というのは上記のような女性の努力の、つまりはクリエイトの結果だと自分は思っている。
ディズニーのいうありのままの自分がなんだかよくわからないけれど、彼女たちは、確かに自分自身を超えた自分を顕現させようとして、いっときそれに成功する。
自分はそれを偉大だと思う。女性だからとかそういう理由ではなくて、クリエイターとして尊敬する。言語化出来ているかどうかは定かではないけれど、彼女らはなりたい自分をクリエイトして作ったからだ。
創作物には、描きたいものがある。その描きたいものが例えば出会いとか、別れとか、嬉しいとか悲しいとか楽しいとか懐かしいとか、恋とか、そういうものがあって、その過程で必要となってヒロインがいる。
卑俗なところで言えば、可愛いとかもっと見ていたいとか、エッチなことをしたいとかでも良い。とにかくそういうエモーショナルな何かを伝えたくて創作物を作る。
女性のキャラは、例の言葉を借りれば女性の表象は、そのための道具に過ぎない。大事だし思い入れもあるけれど、過程に過ぎない。読者に伝えたいもののために必要であれば何かを盛るし、邪魔であれば削る。
それは現実の女性には不可能だ。だって現実の女性は主人公のために、あるいは読者や視聴者のためにだけは生きられないでしょう? 現実の自分の生活があって、趣味もやるべきこともたくさんあって、理想の魅力的な自分だけでは生きられないでしょう?
世の中で言われている萌キャラなんてものは、愛されるために生まれてきたものだと自分は思う。自分が関わった仕事は、全てそのつもりで仕事をしてきた。現実の女性と違って、彼女らはそれに全力投球だ。なぜなら、それが彼女らの存在意義で、全てだからだ。そのために生まれたからだ。
それ以外の私生活なんてものはない。あるように見えたとしたら、それは覗き見される前提で作られた、いわば公開用の私生活だ。飾り気のない普段の姿、という形態の作り込まれた物語にすぎない。
つまり、創作物のキャラは、現実の女性がデートの瞬間ほんの一瞬だけできる「すごい自分」でいるのをフルタイムで続けられる存在だし、それが存在価値だ。何ヶ月も、場合によっては何年もかかって産み出されて、一瞬で消費される。その巨大なコストを代償にして、現実を超えるために産み出されるのが創作物のキャラクターだ。
自分は、「現実を超える」使命を持った創作物が、そのために悩んでカロリーを叩きつけた創作物が、「女性の表象」だなんて、そんなふうに単純化されるのを我慢できない。
たとえば、あるヒロインの不安と絶望を表現するのに、創作者は雨を降らせることができる。人気のないコンビニの駐車場の暗がりを作ることも出来る。つながらないSNSを登場させることも出来る。それらは舞台背景であって舞台背景ではなくて、彼女の内面を表す暗喩だし、読者に感情移入してもらうための動線だ。
そのキャラクターが気高くて必死で尊敬に値すると伝えるために銃弾の降り注ぐ戦場も用意できるし、水晶の花咲く庭園でのダンスシーンも描ける。
彼女の魅力を伝えるためなら、そこまでやる。女性としての魅力を伝えるためにもし必要だと判断するならば、女性の体さえ抹消する。耳やら尻尾やら砲塔やらを生やす程度なら序の口で、人面蛇身にすることもあるし、なんだったらAI宇宙船の金属筒に収められた脳髄だけの少女なんて世界観にすることも出来る。
雨やコンビニや水晶の庭園が女性の表象かといわれれば誰もがNoと言うだろうと思う。でも創作者の中でそれは渾然一体で不可分だ。その時それが必要ならつくるまで。舞台だけじゃなくて、演出も、エピソードも、言葉選びも、同じ語句をひらがなで書くか漢字にするのかさえ、伝えたいものを伝えるための道具であって、ヒロインと等価で同じものだ。
読者や視聴者の人に、紙面やモニターの向こうで、恋をしてもらえるなら、涙してもらえるなら、どれだけカロリーがかかってもそれら全部はやるべきことだ。
つまりやっていることは「女性の表象を作ること」なんかじゃないのだ。青椒肉絲定食を作ってるのに対して「ピーマン切るのは許可されるか」「いやピーマンは不許可だろ」みたいな議論をされてる置いてけぼり感。
こちらはピーマン千切り業者をやってるつもりはないし、ピーマン千切りを提供したつもりもない。もっといっちゃえばお前らがいじくり回してるその皿には、パプリカは入っててもピーマンは入ってないよまである。あるいはししとう叩いて大喜びだな、なんてのも。
以上で率直な感想は終わりだ。フェミがどうこうとか性的搾取とかは、自分にはよくわからない。
でもこっちは現実の女性を周回遅れにする純度のために何かを描いてるので、現実の女性の投影であるとか、模造であるとか、そういう雑な用語選びは好きになれない。という話だと思う。
例の地方議員の騒動を見てて、ああいう人が議員になってしまうのは、そもそも定数が多すぎるからではないのかと思った。
うちの町でもそうだが、多くの市町村で、立候補者数が議員定数とあまり変わらない。
だから、例の議員が住民が求めてない活動をしたとしても、なあなあで終わってしまう。
それなら、「地方議会いらない」という声が出ても仕方ないと思う。
2年前にやってた、地方議会に関するNHKの番組では、議員自ら「地方議会は、もういらない」と言っているようだ。
なので、議会の廃止は極論だとしても(法律的にも困難であるし)、議員定数削減は積極的に実施すべきと思う。
意見の多様性を確保するために定数を増やしたとしても、例の件のように、住民と関係ない活動で自治体ごと批判を受けるようでは本末転倒だと思われる。
その代わり、そういう人でなく優秀な人が立候補できるように、議員報酬は今よりも上げるべきだろう。(少なくとも、他業種と兼業しないと食っていけないレベルではおかしい。)
敬礼(`・ω・´)ゞ
上記増田への回答のため、社員寮もしくは兵舎にて居住するものを派遣せよとの命を受け、召喚されたものであります!
ただいまより兵舎居住者と個室ビデオ店の関係について解説するであります!
敬礼(`・ω・´)ゞ
現在でも官公庁及び各種民間企業に置いては若年構成員、独身者及び単身赴任のために寮生活を行っている組織が多くあるであります。
中でも自衛隊や自動車工場などの組織では新規採用者はほぼ強制的に寮生活をすることになるであります。
また寮生活でなくともシェアハウスなどで一部屋複数人で生活しているものもいるであります。
そもそも家庭を持たずにネカフェを渡り歩いている日本国民や外国人等も多くいるのが我が国の現状であります。
かような状況下に置かれている者たちは「誰にも邪魔されず安心して事故の性的欲求を発散させるための自慰行為(以下オナニーと呼称)が出来る環境に置かれていない」(以下オナニー弱者と呼称)と言えるのであります。
個室ビデオ店、ビデオ試写室などの呼称をされるテンポ(以下個室ビデオ店と総称)はそういった「オナニー弱者」の駆け込み寺として非常に強いニーズがあるのであります。
ネットカフェでシコシコすればよいという意見は半分正解なのでありますが、やはり本来オナニーのために用意されていない店舗においてオナニーをするのは勇気がいるであります。
また、ネットカフェでオナニーをする際にはオカズの調達に別途料金をかけるか、無料で提供されているオカズで妥協、もしくは監視カメラで見られている状況でXVIDEOSなどの無法地帯に堂々とアクセスなどのハードルが待ち受けているであります。
個室ビデオ点であれば、料金の中にオナニー部屋として使用することやオカズを借りるための代金も含まれているので伸び伸びとオナニーが出来るのであります。
個室ビデオ店最大のメリットは、個室ビデオ店はオナニーをするための場所であるという概念が共有されていることなのであります。
なぜ個室ビデオ店に通うオナニー弱者は、個室ビデオ店の代わりに風俗店を利用しないのかについて解説するであります。
そもそもスケベDVDを見てAV女優で見抜きするのは風俗で見抜きするのとはまた別の行為であります。
どうせ金を払うなら風俗にいけと思うかもしれませんが、それは同時にどうせ金を払うならAV女優で見抜きしたいという回答も想定すべきということであります。
また、現在のようなコロナ禍のみならず風俗店には不潔なイメージがあり敬遠する人も多いのが実情であります。
たとえ個室ビデオ店においても直前にオッサンがシコシコするのに使った部屋であり、エアロゾルの中にオナニー中のオッサンが出したすっぱい汗の成分や空気中に散布された精液のカスが残っているというリスクがあるとしても、直接生身の人間と触れ合うよりかはよっぽどマシと考える人も多いということであります。
人間と触れ合うことにストレスを抱えがちな人にとっては、職場や寮で人間を相手にして疲れているのに風俗でまた人間を相手にしていられないといった考えも広がってきているであります。
結論から言えば、結局金がかかるなら風俗に行けばいいという反論は個室ビデオ店の存在意義に対して投げかける疑問としては穴だらけということであります。
以上で個室ビデオ店がなぜ日本中に存在し、そんな店の経営が成り立っているのかの解説を終了するであります。
小官、これより個室ビデオ店でシコシコしたのち寮に直帰でありますゆえ質問に答える時間はないであります。
あとは他の隊員に任せるであります。
敬礼(`・ω・´)ゞ
30代までは自分が楽しむためだけに生きてもいい。
でも、40過ぎたら、他の誰かの、大なり小なり助けになるために生きるべき。
"べき"というか、そうでないと存在価値がないんじゃない?
例えば、40すぎても独身で会社では万年平社員のやつの存在意義って、何?
頼りにもされない、てめぇの替えなんて優秀な若者がいくらでもいる最中で、何のために生きる?
そんな輩にも寛容な世の中になったもので、"自分の人生を愉しむ"とか"個人の尊厳の尊重"なんて言われてるけど、正直、生き続ける意義ってあるの?
そんな奴らが40代で死んだら、せいぜい年老いた親が悲しんでくれるくらいかな。
他の誰の心にも存在がないんじゃない?
別に死ねとはいわないけど、いい加減、何かに本気になったほうがいいんじゃない?
ヤベェよ、マジで。
id:fellfield です。例の記事 anond:20210909200622 すべてに反論する時間はないので、部分的に反論します。
集団的自衛権は自国を守るものではなく、集団に属する他国を守るものです。自国を守るのは単なる自衛権ですよ。
増田が書いている「台湾サイドに立つ」が具体的に何を指しているか不明瞭だけれど、一般的には集団的自衛権を行使できる状態のほうが、他国からは「台湾サイドに立っている日本」と見做されると思います。もしも集団的自衛権がなければ、たとえ台湾が攻撃されていても日本は手出しできないわけです。言い換えれば、手出しできない日本に対して中国が攻撃する理由がなく、日本にとってはリスクが低いことになる。
そして集団的自衛権があれば、外国の戦争に日本が巻き込まれるリスクは高くなる。増田が書いている「集団的自衛権も行使できない日本が国を守るために~」は前提から誤っているし、ここから野党批判につなげるのは論外、デマというよりほかにない。あるいは日本が自国を守るために核武装すべきだと主張するなら、集団的自衛権とは切り離して議論すべきでしょう。野党共通政策は核武装云々について特に触れていないので、ここでは取り上げないけれど。
集団的自衛権が日本を守るなどと嘘をつかずに、外国の戦争に参加するリスクを負えるかどうかと真正面から問えばいいと思います。なぜ嘘をつくんだ増田。
韓国は最低賃金の引き上げによって云々と、反対派が必ず韓国を持ち出してくるのには飽きています。たまには他の国を取り上げてほしい。
ちなみに菅義偉が重用していたデービッド・アトキンソンでさえ、最低賃金は引き上げるべきだ、「韓国の大失敗」説は間違いだと書いています。一時的には雇用の悪化が生じたものの、長期的には失業率が下がって元の水準に戻ったと、東洋経済の記事 https://toyokeizai.net/articles/-/366243 にあります。
さて、増田は以下のように書いていました。
安倍政権のときに史上最長の好景気と喧伝されていたけれど、多くの人々にとっては実感の薄い好景気でした。たとえ経済成長していたり企業が収益を上げていても、賃金が「自然に」上がっていくことは、ほとんどありません。
賃金を上げないことで従業員が次々やめていく状況なら別ですが、ほとんどの人は低賃金でも我慢して働きます。とくに日本の場合には転職を重ねることがよく思われないから、なおさらです。
そのような状況で一部の企業だけが自発的に賃金を上げることもありません。ほかの企業に先んじて賃金を上げれば、自社だけコストが上がってしまい競争力が落ちるからです。国が強制的に&一律に最低賃金を上げることで、企業はようやく賃金を上げます。「自然に」上がることはありません。
そして経済成長にかかわらず最低賃金は上げるべきです。現状は、憲法25条の定める「健康で文化的な最低限度の生活」を営めない水準だからです。緩やかな引き上げでは、十分な賃金水準に達する前に人生が終わってしまう。経済成長にかかわらず最低賃金の引上げを求める権利が、憲法に定められています。
ちなみにワタミ経営者の渡邉美樹でさえ「経済成長しなかったら国は破産してよいのか。そんな崖っぷちの経営をすべきではない」と言っているよ。最低賃金とは別の文脈での話だけれど。自民党が経済成長ありきかといえば、個々の議員の主張は必ずしもそうではない。
https://www.sankei.com/article/20190213-UC6OKF6KRFPJDNNQQRPMEG6DZA/
さらに言えば、野党は経済成長を目指さないなんて一言も言っていないですよね。そんなソースがあるのなら教えてほしいです。
経済成長を目指しつつ最低賃金も引き上げる、そして賃金が上がれば、さらに経済成長につながる好循環ができる、というのが野党の政策だと俺は解釈しています。
「野党は最低賃金の引上げを目指す = 野党は経済成長を目指さない」と印象づけるのは、悪質なデマじゃないのか。なぜそんなデマを流すんだ増田。
原子力発電はもともと扱いづらい電源です。電力需要への負荷追従運転が難しいから、出力調整のために他の電源と併用する必要がある。
そして廃棄物処理まで含めるとコストが予測不能なほどに膨れ上がるから、まったく経済的ではない。ほとんどメリットのない発電方法です。
以上は脱炭素社会とは別の話だけれど、一刻も早く原発を手放さないと未来はない、という話です。原発にお金を吸い取られていたら、それこそ経済成長どころじゃなくなるんですよ。
そして脱炭素社会と原発は、その二つだけを天秤にかけられるような単純な話ではないです。
あらゆる発電方法を検討すべきだし、残念ながら、環境に負荷をかけない発電方法というのは存在していません。
火力は言うまでもなく、石油も石炭を燃やせば温室効果ガスが出る。気候変動や海面上昇のリスクを考えれば、将来的に縮小を目指すしかない。
風力・水力・潮力・太陽光などはクリーンなエネルギーのようでいて自然環境への負荷がかかる。プロペラやタービンに生き物が巻き込まれたり、ダムを作ったり山林を切り開いたりする。環境負荷を低減した発電方法の開発と、電力需要を充たすほどの発電所開発には、時間がかかることは確かです。
原子力発電は破滅的な災害のリスクと、先述のとおり廃棄物のリスクがある。それも段階的な縮小ではなく即時停止しないと、国の存続にもかかわる。
それではどうすべきかといえば、「原発の無い脱炭素社会を追求」しかないと思います。
まずは電力需要の緩やかな削減を目指すべきでしょう。リニアモーターカーなんか新設している場合ではない。あとは、たとえば消費地に近いところで発電すれば送電ロスを減らせる。そういう細かな改善も積み重ねていく必要がある。
風力・水力・潮力・太陽光などは環境負荷とのバランスをとりつつ増やしていくしかない。火力発電を一気に断つことはできない。2050年までのゼロは難しいだろうけど、ゼロに近づける努力をするしかない。
脱炭素社会を実現するには原発の存続しかないと思わせるような書きぶりは、デマや嘘とは違うにしても、二者択一でないものを二者択一のように見せかけていて不誠実だと思います。いかがでしょうか増田さん。
studio-conquer ちょっとググれば分かるが、最低賃金は自民党政権下でも上がり続けてるから、自分がデマや嘘をばら撒いてるのだが、何がしたいの?
自民党政権下で最低賃金が上がっているのは知っているし、だからこそデービッド・アトキンソンの記事にリンクしています。
問題は、緩やかな上昇でしかないことです。最低限度の生活に必要な水準へ達するまでに、このペースでは何十年もかかるし、そのあいだにも海外ではさらに賃金と物価が上がっていく。国内の格差解消のためにも思い切った引き上げが必要だし、海外との格差解消のためにも必要です。
augsUK 「手出しできない日本に対して中国が攻撃する理由がなく、日本にとってはリスクが低い」これを堂々と主張できる人でないと野党連合を支持することは難しいと。香港で何があったか知った上でこれ
香港のことも含めて、中国共産党の横暴に対しては、野党(とくに日本共産党)は強く批判しています。中国政府に対して腰が引けているのは、どちらかといえば自民党のほうですよね。アメリカでも派手に動いていたトランプより、むしろバイデンのほうが中国に厳しい姿勢をとっていたりします。
自民党は中国に対して強いことを言えないのに、集団的自衛権があれば急に強くなって、武力行使できるのでしょうか。
kuro_pp "電力需要の緩やかな削減を目指すべきでしょう。リニアモーターカーなんか新設している場合ではない" 由緒正しきオールド左翼という感じがする。老朽化した東海道新幹線の代替とか考えていないのだろう。
老朽化対策工事のため東海道新幹線を全面ストップするわけでもないですよ。日本中に老朽化したインフラはたくさんあるけれど、代替ルートを開通させないと対策できないなんて話はない。みんな運用しながら工事している。
リニアモーターカーを作ってしまえば、あとで老朽化対策の必要に迫られるインフラが無駄に増えるだけです。
iyashi33 日本の集団的自衛権は存立危機事態に限定されるので他国を守るだけでは不足で自国を守るためのもの。台湾有事が存立危機事態になるかは別として、一行目から日本と異なる制度を説明して何がしたいのか。
存立危機事態かどうかを恣意的に解釈されうるから問題なんだと思います。自国の領土を守るためなら個別的自衛権で十分です。そして仮に集団的自衛権が必要な事態になったとしても、それは現在の憲法では行使が許されていない。最高裁がちゃんと違憲立法審査権に基づいて審査する国なら、日本の集団的自衛権の行使は認めないはずです。
rag_en “まずは電力需要の緩やかな削減を目指すべきでしょう”…いきなりトンデモでわろ。まぁ、根っこの部分に『「資本主義的な消費社会」の否定』でもあるんですかね。
2030年度の総発電量の1割削減を目指すと経産省が言っています。原発を推進してきた経産省が、ですよ。
https://www.jiji.com/jc/article?k=2021071301042&g=eco
wapa 前回陰謀論のトップコメの方の反論。デマ云々の流れが若干強引。普通に意見ぶつけ合えばいいのに。原発無しでの脱酸素推進は、現実的にはかなりハードル高いと思う。原発無しなら脱酸素はある程度妥協すべきかと
普段から少しでもエネルギー政策に関心を持っている方であれば、脱酸素という誤字は書かないかなと思います。
monotonus 一般市民は意外と外交・安全保障政策にも強い関心があるってことを左派は理解した方がいいかもね。中国が日本を殴る理由がないとか馬鹿にするのも程々にしてほしい。
上にも書いたけれど、中国に対して自民党はべつに強硬な態度をとっていないし、台湾にも香港にも目をつぶっているんですよ。日本共産党のほうが、よほど中国に対して強い態度で批判していますよ。
Hige2323 驀地に陰謀論に走る輩に相応しい知能の持ち主だった様子
「驀地」が読めないくらいの知能ではあります。まっしぐら、と読むんですね。
high-speed-soba 安保・格差の論は”なぜだ増田”と強い調子で締めているが、原発の話題は柔らかく増田「さん」付けという文章に、自己の原発論の弱さを自覚している姿が見え隠れしてかわいい
褒めてくれてありがとう、かわいいんですよ俺。ただし「原発論の弱さを自覚」は誤りです。
最初の文章中に書いたとおり、「二者択一でないものを二者択一のように見せかける」のは不誠実な態度なんですよ。だから本当に俺は怒っているし本気で書いています。いくらかでも和らげるために敬体で書いているんです。
あの文章を要約して「とにかく頑張る」になってしまうなら圧縮新聞のほうが優秀だと思います。
以上です。あとでまた続きを書くかもしれません。
naga_yamas リニアまでちゃんと反対する事で典型的なオールド左翼とわかりやすくて良い。こいつらにむちゃくちゃされない様にきちんと選挙行く必要がある
インバウンド需要が消滅したり生活様式が変わったことで、新幹線もリニアも存在意義が問われている昨今、リニア建設反対は普遍的な意見になりつつあると思います。「典型的なオールド左翼」の枠に無理やり押し込んで解釈するのは勝手ですが、価値観のアップデートができていない印象はあります。
上に何度か書いたとおり、中国共産党の「リアルな弾圧」に対して強く抗議しているのは野党です。自民党ではありません。
peta0227 集団で攻められづらい状況を作るより、台湾見捨てて中国に見逃してもらうことを是とするの、さすがに人道的にも合理的にも低レベルすぎんか?マジで言ってるのか?普段人権に一家言ある人達が?そういうとこだぞ。
「台湾見捨てて」が具体的に何を指しているか分からないんですよ。仮に台湾と中国が戦争を始めたとして、日本が何をすべきと言っているのでしょうか。
海外で戦争が起きて、日本に逃げてきた難民たちを強制送還したり、入管に閉じ込めたりしている非人道的な国なんですよ日本は。あなたが言う「人道的」は具体的に何をすることなのか教えてほしいです。
まずは難民を受け入れて、対等な人間として接する。この最低限のことができないかぎり人道的云々だなんて話はできないです。
daigan この人の頭では、尖閣諸島に何千もの中国船団が突っ込んでるニュースは無いことになってるんだろうか…?まぁIDを書いてるだけでも潔いけど、工作員を疑う前に自分の頭を疑ったらとは思う。
尖閣諸島は日本の領土ですよ。個別的自衛権で十分じゃないですか。
flowing_chocolate 元増田はアレだけど、これはこれで雑な気がする。これ、立憲の主張と合ってる?
俺は無党派層で、選挙では共産か立憲に入れることが多い人間です。どこの党派に属しているわけでもない個人ですので、立憲の主張と合っている必要もとくにありません。
njamota 「出力調整のために他の電源と併用する必要がある」のは原発よりむしろ太陽光風力なのでは。太陽光なんて夜になるだけで出力0%だから。原発はベースライン電源として使う分には負荷追従できなくてもいいんじゃね?
ベースライン電源の「ベースライン」がどのくらいなのか、って問題はありますね。原発がたくさん動いていたときは夜間に電力が余ってて(ベースラインを超えていて)、調整のために揚水発電を利用していたので。
太陽光の発電量が夜にゼロとなるのは、その通りです。水力や風力と併用する必要はあります。それも自然条件によっては発電量が大きく上下するから、いかにして安定させるかが課題ですよね。
turanukimaru 立憲やリベラル勢力は台湾を見捨てる気だってぶち上げられると枝野さんが困ると思うんだけど…あと単に集団的自衛権は判断の問題なのに嘘とかデマとか言うの良くないよ。最近みんな対立意見をデマ認定しすぎ。
日本を守るために集団的自衛権があると書いていた元増田は、明らかにデマです。対立意見だからデマ認定しているわけではありません。
そして上にも書いたけど「台湾を見捨てる」って具体的に何を指していますか? 難民を強制送還している自民党と、難民の人権尊重を呼びかける野党、戦争が起きたとき台湾の人にやさしくできるのはどちらの党だと思いますか?
日本には核はありません、中国には日本を狙える中距離弾道ミサイルが2000発以上ありますが、アメリカ軍基地も含めて日本から中国を攻撃できる中距離弾道ミサイルは一発もありません。
日本が既にQUADに参加し、日本自身が自由で開かれたインド太平洋戦略で、対中包囲に参加して国を守ろうとしてる時に、集団的自衛権が行使できないとか正気の沙汰じゃない。
日本に核はないので、日本が集団的自衛権を行使できようができまいが関係がない。(中国から見て日本からの報復攻撃は脅威でない。)
相互確証破壊の観点から中国が恐れているのは、日本を核攻撃したときにアメリカが核による報復を行うことだけれど、
アメリカの軍事行動に関して、日本が集団的自衛権を行使できるかどうかは関係がない。
安保法制以前から、日本はずっとアメリカの核の傘の下にいる。安保法制があるから守られているわけではない。
(日本が核を保有し、台湾有事に日本が中国に核攻撃を行いたい、というのなら、集団的自衛権の行使が必要になるけれど、そんなことを望む国民がどれだけいる?)
最低賃金の引き上げ
アメリカの経済学者を対象とした調査で、「時給15ドルの最低賃金によって、雇用は大幅に減少する」と考える経済学者の割合は1978年には90%だったけど、2015年には26%になっている。
経済成長を目指すことには当然同意するにしても、内需への依存が大きい日本で賃金を抑えたらむしろ経済は冷える。デフレの原因が何だと思ってるんだ?
これはまぁ難しい目標だとは思うが、例えば発電費用で比較しても原発と太陽光発電の差は年々縮まっており、調査によっては太陽光発電のほうが安いという主張さえある。
電気自動車が(というか高効率で安価な蓄電池が)普及すれば需給バランスの課題も解決できる可能性がある。
太陽光だけでは無理で火力を増やすしかないにしても、将来的にCCSなどの技術が活用できる見込みがないでもない。
1965年の最初の商用原子炉以来、実に50年以上も使用済み核燃料の最終処分をどうするかを決められないでいる政策的失敗を思えば、いい加減原発を見限っても良いと思う。
いずれにしても、別に原発はマストではない(原発産業は東芝にとどめを刺したし、日立も別に原発で儲けていないのでは。ご存知の通り、東電も福一の事故で傾いて、一時は国有化の議論まで出たし。)
そもそも、(選挙における)野党の存在意義は与党に対してオルタナティブを提示することにあるわけだし、政策がダメなら単に選挙で負けるだけでしょう。
去年4Kテレビを買ったんだよね
なんなんあれ
カメラワークはひどいしナレーションも全然入らないしなんじゃこれ?ってなった
まぁナレーションに関してはジャニタレのコメントなんていらんから良い部分もあるけど
流石に今何をやってるとか紹介されないと分からんよね
最初は気付かなかったけど地上波はちゃんとした感じになってたから途中で切り替えた
パラリンピックはどうかな?って思って最初見てたけどやっぱりひどくて途中で変えた
そんで調べてみて分かったんだけど、NHKは4Kで違うコンテンツを作ろうとしているらしいね
例えば紅白歌合戦でも同じ映像はあんまり使わないで観客席から見たような映像にしているらしい
4Kの映像を活かして臨場感を高めたいとか、そういう取り組みだそうな
って思った記憶がある
オリパラの開会式でも同じことがあったんだけど、同じように観客席から見たような映像を目指してるってことらしい
だからカメラワークは遠くからばっかりだしナレーションは全然入らない
そういや途中のカットインの映像ですら競技場のスクリーンを映してたね
なるほど
控えめに言ってアホなのかな
今やテレビ買い換えたらほぼ4Kになるしマンションとかケーブル系ならBSも普通に入る
4K映像は特殊な用途で使われていなくて映画とかゲームで普通に高画質な映像として使われてる
だから普通にクオリティの高い映像コンテンツとして4Kを提供すればいいし
そうすれば4K/8Kに投資し続けてきたNHKが民放より優位に立てる
NHKの存在意義も際立つ大きなチャンスだったのに4Kでクソみたいな映像垂れ流して
とか言ってて完全にズレてる
本当にそう思うんならVR向けにでも配信すればいい 見ないけど
普段テレビ見てるところで定点カメラっぽい映像流されたら単にクオリティ低い映像にしかならんよ
これが初めてじゃなくて既に紅白ではやってたんでしょ?しかも2,3回もうやってる。ネットで検索してみたらそのたびに酷評されてるよね?
ワクチン打った時点で既往歴とかアレルギーとかの所謂カルテが作られることになると助かるよね
カルテはかかりつけの病院だけが持ってるものだから病院移るときには紹介状って形で申し送りされるよね
それを
一度は医療行為を受ける場所に足を運ぶことで前提条件をある程度明確に社会に共有できるようにしておいてから病気の際は病院に診療を受けに行けるとしたらまるっきり最初から検査する人間の初診より早く済むんじゃない?
それが増えたらベッドが埋まる率も抑えられるよね
今現在コロナが病院の入口をせき止めるような形になっているから、その門前でせき止めてる人数を減らすためにも症状が重篤化しない人間が多数になるように、受診歴のある人間が多数になるように接種をすすめてるよね
そして
接種した人間が、いざ診療が必要となったときには初動が楽になるので病気になる確率がすこし高くなる行動範囲まで足を伸ばしてもよいという判断には妥当性がでてくるよね
人が活動しないので消費も生産もされていなかった自粛エリアに人が立ち入ることができれば、消費もすこしふえて生産、産業がすこし復活するよね
そのすこし危険だけど少し復興のために拡張したいエリアに「受診したこともないワクチンを接種してない抗体のない人」を入れるメリットは、パスポートとして確認できるように発行した接種者と混在させるところにあるかな?
病気になったらまず入口をせき止める人が病気になる可能性がすこし高くなる所に、それを考慮した人が対策をしてきているところに来るのは、そうせざるを得ない特定の個人でない場合以外は、メリットはないと感じるね
そういう意味において
ワクチン打ったかどうかという具体的なフラグをたてた人にパスポートを渡すというのは単純でわかりやすくよいと思うけど厳密にいうと「病院に行ったら対処しやすい人」とか「抗体をもってる人」のほうが適切なのかもしれない
今はたしかにワクチン接種を受けるだけなので初診がとかカルテがみたいなことはないと思うけど、注射にあたって個人的にあらためて自分の健康状態とかを人に伝えられるような状態レベルまで確認することになる人は多いでしょ
それだけでも助かると思うんだよね
初診で問診を受ける人数がそれぞれ数分でも減るとそれはいい事なんじゃないかな
そういう前提があった上で
①お店はどう分けたり対処したりするの?
これはお店が損しない程度でそれぞれに努力すればいいのでは
人員の数として割ける限界もあるだろうし、広さや設備の問題もあると思う
お店も感染者を増やして客数の分母を減らすことが結果として出るのなら長期的な経営プランは建てられないよね
だと短期間に感染するリスクをもちつつまとまった分だけ営業して、あとは維持費を極力おさえて休業して協力金とか申請するほうがいいかも
どちらにせよ無策で長期的に営業を考えると客を自分で減らすか、策を講じるためなどの対応コストでジリ貧になるかじゃないかな
②接種しないできない人はどうするの?
どうしようもないのでは?
そもそも目的が「打ったか打ってないか」という動作の選別といういわれなき不利益・利益のためのものではなくて、打ったことで得られる選択肢の実質的な分岐なわけで
ワクチン打ったところで抗体がなければパスポートは取り消しになるべきだろうし、ワクチン打っただけでなんのデータもなく病院を目詰まりさせてるのはパスポートもって活動してる人となればそこに規制が掛かるべき
ワクチンは体質的にうてないので、免除をするが、それには理由があるので「感染して病院でまず初診の行列をつくる事になる要因」の人も行動範囲を対策済みの人と同じにする、だとパスポートの存在意義とか意味とかないよね
どこまでワクチンで行動ができるのか、接種の有無で別れるのはどんな状況なのか、そういった事はわからないし、たぶんはっきりしてない
ただ、わからないから無策で、無策だから境界をなしで、とするわけにはいかないから想像される境界線を定義するひつようがあるよね
まずデータがなくても見当でつくらないとデータが出そろうのがいつになるのかわからないし、仮にいつなのかと日程をきめたらわかっていようといまいとその日の判断がそれらを分かつ基準になるよね
実質あとからデータがあってた間違ってたとなるかもしれないけど、まずやってみないとどちらも結果はでないよね
間違っていたので繰り返すべきじゃないとかあってたから推進すべきとか、まず間違いだとしても間違いだったというデータが得られるようしてみないといけないよね
しないで間違ってるだろうからあとでよかったらしなくてよかっただろって言いたい、でもやってみて結果が同じだったらやってよかったとはいいたくない、そんな理由より「ただデータを集める時期である」として実施する意味はあるんじゃない?
そのためにはしっかり「データを取る対象」は限定しないと判断に足りるデータはあつまらないと思うよ
③パスポートの終了条件は
いろいろあってもいいと思うけど「未接種で未受診の人の初診がスムーズに受けられる程度に病院の占床率が下がる」とかでもいいのでは?
基本的に「病院の前が行列になっていて関係ない病気や怪我の治療が受けられない」ような状況を回避できたらいいと思います
④他の病気は?
行列になって検査が受けられないようなものはみんなそうしたらいいと思う
ほかに行列が出来てたり先生が予約制になってるような疾患は、予防してその先生や病院に見てもらわないといけないようなものはしたほうがよさそう
たとえば糖尿病とか高血圧とか、検査したら検査したっていうパスポートみたいなのを交付して飲食店で割引をうけてもいいかもしれないね
増田は間違っている。親父殿は、高級車に乗るべきだ。民間企業は、価値を提供することで対価を得るのだから、高級車に乗って「満足していただければ、それだけで SDG 」なのだ。高級車に乗って「買って良かった」と思えるものを作れたなら、製造側も嬉しいのだ。
そうだよ。レクサスはトヨタ自動車だよ。でも、レクサスというバッジをつけるために「良い素材を利用して、販売店に投資して、顧客に『本当はトヨタなのに、トヨタの車以上の満足』をしてもらう努力」をしているのだ。トヨタ車に、プラスαでいくら払えるか?、という疑問を増田はしているだろうが、親父殿が「プラスαで満足したら」何が問題なのさ?
ちゃんと、レクサス車の下には「製造はトヨタ自動車です」って書いてあるよ。ただし、レクサス車は、レクサス店でしか買えないけどね。
不満なら、レクサスのリセール額をみせてみろよ。それに、レクサスはレギュラーでもいける車種多いから、レギュラーを入れとけって。LFA を除いて。ハイオクなんて、レースでもしなきゃ不要でしょ。
買った後も車にビクビクしながら運転することになるのではなかろうか。
ビクビクしてて良い。むしろ、その不安に打ち勝って「もう一回レクサスを買おうという満足を与える」って思えるものをレクサスは提供していくのだ。
レクサスは日米貿易摩擦の果に、トヨタ車をリターンの高いレクサスで売り出そうと 1989年に豊田英二は志したのだから、「トヨタ車じゃないの?」という疑念を超克させることは、レクサスの存在意義だ。俺は、益田の父ちゃんが「レクサスを買わなかったのに後悔して死ぬくらい」なら、「レクサスをもう一回 買おうかなー」って思って老後をレクサスに乗って過ごしてほしいね。むしろ、葬式を派手にするぐらいなら、レクサスにでも乗って QOL を上げて欲しい。
最後に、親をガキ扱いするな。お前も、同じことされたら嫌だと思うぞ。ほとんどの人は、レクサスを買えないのであって、買えるなら「買わせろ」よ。
1(https://anond.hatelabo.jp/20210828215226)のつづき
第九話では、トップジョイの正体と過去が明らかにされる。もともとダークスポーツ財団で「作られた」トップジョイは、ショックサーキットという枷を掛けられ、スパイ行為を「ほとんど」強制されていた。これまで意思を持ち、それを自由に行使できると思われていたロボットが、実はそうではなかったということが、ここで明らかになる。
もちろん、ショックサーキット自体は第一話の時点でマッハウインディに埋め込まれた形で登場している。ダークスポーツ財団がロボットたちに背反を許さないようにし、彼らの自由を奪っている事実は、物語の冒頭から提示されていた。
だが第九話から続くトップジョイの物語は、マッハウインディがショックサーキットに苦しみ、そして克服した第一話・第二話とは少し様子が異なる。マッハウインディが自らダークの元を去り、早々にショックサーキットを切除して完全にダークとの絆を絶ったのに対し、トップジョイはそこから第十三話まで、「自らの意思で」ダークとの関係を持ち続けているのである。
トップジョイが――シルバーキャッスルに好意を抱き、マグナムエースから手を差し伸べられていたにも関わらず――なぜ十三話までダークとの縁を切らなかったのかについては、明確な描写がなく、少々解釈が難しい。ここから先は憶測の比重が非常に大きくなるので、ご容赦いただきたい。
第九話で、トップジョイはフェアプレーを重んじるシルバーキャッスル、及びそれに共感する子どもたちを「理解できない」と言った。「ラフプレーをすれば客は喜ぶ」「客を喜ばせるのがアイアンリーガー」だと。
これは、シルバーキャッスルを内部から撹乱するというスパイ行為による言葉ではない。トップジョイの本心だ。彼は本心でラフプレーを正しい行為と捉えているのである。同じ本心で、第八話でキアイリュウケンとオーナーの絆に涙し、子どもたちと純粋に交流を楽しんでいる一方で。
同時に、九話ではトップジョイの過去と思いが垣間見える。「楽しむ」ことを大切にした結果、バスケットチームから放逐された過去。それでも忘れられない、バスケットリーガーである自分に向けられた観客の歓声。あの場所に戻りたいという思いが、トップジョイの根底にある。
彼がぎりぎりまでダークとの絆を絶てないでいたのには、この思いが大きいのではないだろうか。トップジョイがダークに従っているのは、ショックサーキットだけが理由ではない。もっと根底の、自分の存在そのものに関わる意思ーーあるいは、心ーーである。
これは完全に僕の推測であるが、第八話で示唆された「ロボットは、人間に役割を与えられ、それに相応しいように設計・プログラムされて生み出される」という事実を踏まえると、トップジョイのこの「意思(心)」もまた、ある程度製造者によってプログラムされたものではないだろうか。
作中で、ロボットの意思や思考、心が人間にプログラムされたものだという直接的な言及は(現状)ない。だが彼らが「注文に応じて製造される商品」としての一面を持つ以上、ロボットが人間の赤ん坊と同じようにまっさらな状態で納品されるとは思えない。彼らは製造された時点である程度の機体性能、そして知能と知識を有し、そこには人間の意向が相当程度反映されていると考えるのが自然である。
「トップジョイ」という名前であるがーー彼らがある程度完成された状態で世に出るとしたら、彼らの名前は、その機能・性能にちなんだものであるのだろう(もちろんまったく関係のない場合もあるかもしれないが)。ロボットの機能・性能は、つまりは製造者が彼らに込めた役割と期待である。「ジョイ」つまり「喜び」。彼は、人に「喜び」をもたらす存在としての役割を期待されたのではないか。故に、ああいった明るい性格に設定され、他者の喜びを自分の喜びとするような性格にプログラムされたのではないか。そして、そのプログラムされた心でラフプレーに喜ぶ観客たちを見て、それを自分の喜びとして、そして正しいこととして学習したのではないだろうか。
(製造された時点でラフプレーを正しい行為としてインプットされていた可能性もあるが、第九話のトップジョイの「教わった」という言い振り的に、その可能性は薄そうである。)
だが、その期待は裏目に出た。明るく楽しくを第一義とする性格はチームメイトの反感を買い、彼は本来活躍するはずだったバスケットコートに立つことができなくなった。その後、シルバーキャッスルにおいてはーー彼自身の純粋さから、本来のスパイという立場を越えて、彼らに好意を抱いているにも関わらずーー逆にラフプレーを許すことができないシルバーキャッスルの皆の心を理解できず、孤立してしまう。
そして、ダークから虐待を受けても、マグナムエースたちから手を差し伸べられても、本当に自分が望むことに気づきかけても、プログラムされた心で過去に学び、感じた喜びを忘れることができず、ダークとの繋がりを断つことができなかったのではないか。
人間の都合によってプログラムされた「心」によって、トップジョイは傷つき続けていたのではないか。
人間と全く同じように喜び、悲しみ、悩み、傷つく「心」を、人間の都合によって作り出すというこの世界の不気味さが、トップジョイによって突きつけられる。
そして、第十一話でのS-XXXの結末が、それを決定的にする。
S-XXXはこれまでのロボットたちとは違い、意思や感情の乏しい存在として描かれる。それは本来、僕たちが「ロボット」と聞いて思い浮かべるイメージに近い。
S-XXXはテンプレート的な「ロボット」として、命令だけを忠実に実行し、サッカーのフィールドで「戦争」を繰り広げた。そして最後は、マグナムエースによって破壊される。
第十一話では、これまでよりも明確にロボットが「商品」であることが語られる。S-XXXはアイアンソルジャーという「商品」として、敵を殲滅する者としての役割として与えられ、その破壊力を期待され、品定めされる。彼のロボット然とした意思や感情の薄さは、兵士として忠実に命令を実行することを求められ、そうプログラムされた結果なのではないだろうか。
しかし一方で、S-XXXは「敵を倒す」という目的に対し非合理的なシルバーキャッスルの行動に困惑し、動揺する。そして、マグナムエースの「新しい道」という言葉に、ほんの一瞬であるが、本来あるはずのなかった「迷い」を見せた。
S-XXXにも、心は存在した。
なぜS-XXXの製造者が「兵器」であるロボットに「心」が生まれるような知能を搭載したのか、その理由はよく分からない。スポーツ選手であるアイアンリーガーであれば、人間がある種のカタルシスを得るための機能として、人間と同じような心や感情を搭載する理由もある程度理解できるが、迷いが命取りとなる戦場に送り込む兵器に、それは不要のはずである。
もしかしたら「心」というものは、それは製造者の意図的なものではなく、自分で学習し、アップデートしていくことができるほど高度な知能には、逃れられない副産物なのかもしれない。
いずれにしても、例え人間にほとんどをプログラムされたものであったとしても、兵器であったS-XXXにさえ、心は存在した。そして僅かに、けれど確かに「新しい道」へと進む可能性があった。
にも関わらず、第十一話の商人たちは、彼を徹底的に「商品」として扱った。そしてS-XXX自身も、「戦場でない場所には存在不可能」と語っている。
ロボットは、人間によって役割を定義されている。そしてその役割を果たせなければ、彼らは自らの存在意義すら失いかねないのである。
この『アイアンリーガー』の世界に横たわる現実を受け止めるのに、相当な時間を要した。いや、実際まだ受け止められてはいないのかもしれない。人間は自らの都合によって、自分たちとほとんど変わらない心や感情を持つロボットを役割という枠に押し込めて生み出し、その存在をも人間の都合によって左右する。この神の模倣とも思える傲慢さに、幾たび怨嗟を吐いたかしれない。
一方で、自らの意志で生き、誇りを持って戦っているロボットたちを哀れみ、同情を寄せるようなことは、彼らに対する侮辱ではないかという思いもずっとあった。
僕の心は千々に乱れ、分裂し、二転三転し、自己矛盾に苦しむ日々が続いた。「ロボットがスポーツをする子ども向けのアニメ」を観てそんな感情に取り憑かれるなど、一体誰が予想できよう。
しかし、である。一通り憎悪と煩悶に身を投じた後に、ふと気づいたことがある。
ロボットたちが置かれた現実は、結局、僕たちの生きる現実と同じなのではないか、と。
僕が七転八倒している時、僕に『アイアンリーガー』を教えてくれた先達は、一つの問いを僕に投げかけた。「ならば、アイアンリーガーはどうなったら幸せなのか」と。
頭を殴られたような衝撃を受けたせいで、僕がその時どのように答えたのか、正確には記憶していない。「彼らが、やりたいことをやりたいようにやれる」のようなことを言ったような気がする。
月並みな言葉を振り絞りながら、僕はぼんやりと「どこかで聞いたような話だな」と思った。よくある話。人間の幸せを語るときに、よく言われるような言葉だと。
そして、僕の思考は再び振り出しへと戻った。『アイアンリーガー』に最初に感じた、違和感にも似て、それでいて温かかった感覚。人間とロボットが、同じ意志や心や感情を持つ存在として、同じように生きている世界。
第一話でマッハウインディはこう言った。俺たちロボットも「人間と同じなんだよ」と。
それはつまり、人間もまたロボットと同じであることを意味する。
この国で生まれれば(その実態はどうあれ)、僕たちは一応、自由意志(ここでは各種の哲学定義を無視して、単に「他から強制・拘束・妨害などを受けないで、行動や選択を自発的に決定しうる意志」という意味で用いる。)を認められた存在である。
しかし、完全に自由な人間など存在しない。人間もまた、さまざまな制約の中で生きている。親、夫、妻、上司、部下、教師、学生、老人、若者、友人……そういった役割や立場を与えられ、家庭環境、ジェンダー、経済力、文化、時代、価値観……そんなあらゆる枠に押し込められながら、社会の中での「あるべき姿」「あるべき意志」を定義され、それに応える「社会人」に育てられてゆく。それは、人間、あるいは「社会」の要請で意思や心をプログラムされるロボットと、実はそう大差ないのではないか(語弊を恐れずに言えば、教育とは一種のプログラミングである)。
真に自分の望むように生きている人間などほとんどいない。皆、社会の中で折り合いをつけながら成長し、社会の中で生きている。そして、労働市場の中で自らの価値を計られ、自己の存在意義を証明し続けることを要求される。
(そうあるべき、と思っているのではない。ただ事実として、それが資本主義社会の一側面であることは否定できないとも僕は考えている。)
その姿は、役割を与えられ、商品として売買されるロボットに重なる。
もちろん、『アイアンリーガー』においてロボットたちが置かれている状況は、僕たち人間より深刻だ。彼らは自らの存在の前提として役割がある。役割がなければ彼らは存在し得ないし、その役割への期待に基づいてプログラムされた意志や心の拘束度は、人間のそれよりも遥かに強い。
しかし、あらゆる寓話がそうであるように、度合いが強いからといって、それが全く違うということにはならない。制約の中で、それでもなお自らの意志を貫き通そうとするロボットたちの姿に、僕たちは僕たちの姿を見るのである。
『アンドロイドは電気羊の夢を見るか』の訳者あとがきに書いてあったことだが、アンガス・テイラーという人は、フィリップ・K・ディックの書くアンドロイドについて(「機械的な行動パターンに侵された」、あるいは「内面的に阻害された」)人間の隠喩、象徴であると述べたそうだ。そして訳者の浅倉久志氏は、この作品の中に「人間とは何か?」というテーマに取り組んだとしている。『アイアンリーガー』も、それと似たような物語ではないかと、僕は思う。つまり、『アイアンリーガー』に登場するロボットたちもまた、僕たち「意志を持つモノ」、つまり人間の隠喩であり、『アイアンリーガー』は、「意志あるモノが自由を手に入れる」物語ではないかと。
こんなことを考えているうちに、僕は『BEASTARS』のことを思い出した。『BEASTARS』の登場「動物」も、姿形は動物のそれであるが、やはり人間と同じような意思や感情を持つ。彼らを通して描かれているのは、そういった心を持つモノたちのドラマだ。人間と同じ意思や感情を持つモノたちが、しかし肉食・草食動物それぞれの身体的特性、言い換えれば宿命という強制と制約を背負いながら、学校という一つの閉鎖社会の中で苦悩し、ぶつかり合い、時には折り合いをつけながら生きていく。負った宿命の中身や程度は違えど、そこに描かれているのは紛れもなく心を持つモノーーつまり僕たちの物語である。
と、このような書き方をしたが、あくまでこれは『アイアンリーガー』(や『BEASTARS』)という作品に僕たちが心を動かされる「絡繰」、結果論をそれっぽく言い募っているだけである。『アイアンリーガー』は(恐らく)寓話ではないし、アニメスタッフが彼らロボットを人間の象徴、あるいはその苦悩の投影先として選んだ、というのも(なんとなくだが)違うような気がする。正直、単にロボットが好きなだけな気がしてならない。
これについては、象徴や隠喩というよりも、同じく『アンドロイドは電気羊の夢を見るか』の訳者あとがきに引用されていた、次のような表現が相応しいように思う。(原典に当たっておらず申し訳ない。)
「ディックにおいて、人間とアンドロイドの生物学上の、あるいは自然科学上の区別は、まったく無意味である。(中略)ディックは、『アンドロイド』と『人間』の形式上の区別には関心がない。(中略)ディックの世界では、そもそも人間と機械、自然と人工といった単純な二分律は棄却されている」(『銀星倶楽部』12 後藤将之氏「フィリップ・K・ディックの社会思想」)
『アイアンリーガー』に描かれているロボットたちの生き様を語るのに、彼らが生み出された経緯や理由に潜む人間の驕慢さなどは、意味をなさない。彼らの前で、人間が自分たちと同じ心を持つモノを恣意的に生み出すという行為の是非を問うことは無意味である。いかに彼らのルーツに薄ら寒い人間の欲望が渦巻き、彼らの意志が人間によって指向性を持たされているとしても、それは彼らが「その」自らの意志で決断し、戦い、生きてゆく征途の輝きを何ら曇らせるものではない。
彼らは、ロボットとしての宿命を背負う自らの存在を呪うことはない。背負った宿命の中で、心を持つ故に葛藤に苛まれながらも、心を持つ故に抱いた意志で、自らの宿命を乗り越え、未来を切り開いていく。フェアプレーをしたい。スポーツをしたい。道を極めたい。この場所にいたい。君と一緒にいたい。たとえ世界がそれを許さなくとも、世界がそれを笑おうとも、自らの意志で在りたいように在る。その姿は僕たちと地続きのものだ。彼らはロボットであるから尊いのではない。僕らと同じであるから、眩しいのである。
元記事 (Zerohedge):https://www.zerohedge.com/geopolitical/vaccine-mandates-great-reset
執筆者:Philipp Bagus via The Mises Institute,
ワクチンを受けていない人への圧力が強まる いくつかの国では、ワクチンを接種した人たちが、コヴィドの介入によって奪われた自由を取り戻しつつありますが、ワクチンを接種していない人たちはそれほど恵まれていません。彼らは差別の対象となっています。公共の場へのアクセスや旅行が難しくなっています。一部の国では、職業によってはワクチン接種が義務付けられているところもあります。
しかし、なぜ政府は予防接種キャンペーンをそれほど重要視し、これほどまでに圧力をかけているのでしょうか。また、誰が世界的な予防接種キャンペーンに関心を持っているのでしょうか?
これらの疑問に答えるためには、普及しているワクチン接種に関する物語を分析し、そこから誰が利益を得ているのかを問う必要があります。
その際には、国家、メディア、製薬業界、超国家的機関の間の利害関係の連合を取り上げなければならない。
ワクチン接種キャンペーンには、明らかに経済的な利害関係があります。ワクチン接種の普及によって莫大な利益を得ることができるからです。
コビド19の危機において、政治家は恐怖とヒステリーを組織的に増幅させた。これは偶然ではなく、当然のことなのです。国家は、内外の危険から国民を守るという主張の上にその存在意義を築いているのですから。国家は恐怖の上に成り立っているのである。国家の助けがなければ、国民は飢餓、貧困、事故、戦争、テロ、病気、自然災害、パンデミックに対して無防備になってしまうという物語である。したがって、国家は、起こりうる危険に対する恐怖心を与え、それを解決するふりをして、その過程で権力を拡大することが利益になるのである。比較的最近の例では、9月11日の同時多発テロや第二次イラク戦争の後、テロの脅威に対応するために米国で市民的自由が制限されました。同様に、平時には考えられないほど国家権力を拡大するために、市民の基本的権利を犠牲にして、意図的に恐怖心を煽り、コヴィド-19を特異な殺人ウイルスとして描写することは、政府の利益となった。
コロナ危機が始まったとき、ウイルスの潜在的な危険性についてあまり知られていなかったため、政治家は非対称な報酬に直面した。政治家が危険性を過小評価して対応しなければ、過小評価の責任を問われることになる。選挙も権力も失うことになる。特に、死者の責任を問われることになればなおさらだ。集団埋葬の写真はさておき、危険を過小評価して行動しなかった場合の結果は、政治的に致命的なものとなる。対照的に、危険性を過大評価して断固たる行動をとることは、政治的にはるかに魅力的である。
もしそれが本当に前例のない脅威であれば、政治家はロックダウンなどの厳しい措置をとって称賛されます。そして政治家は、彼らの断固とした行動がなければ、実際に災害が起きていただろうと主張することができる。しかし、その対策が大げさであったことが判明した場合、その対策がもたらす可能性のある悪影響は、集団埋葬の写真のように政治家と直接結びつくものではなく、より間接的で長期的なものであるからです。ロックダウンによる間接的かつ長期的な健康コストには、自殺、うつ病、アルコール依存症、ストレス関連の病気、手術や検診のキャンセルによる早死に、そして一般的な生活水準の低下などがある。しかし、これらのコストは、思い切った介入に直接関連するものではなく、政策のせいにされるものです。これらの結果の多くは、次の選挙の後、あるいはそれ以降に発生し、目に見えません。例えば、生活水準が上がれば、平均寿命がどの程度伸びたかを観察することはできません。また、ロックダウンをきっかけに発症したアルコール依存症やうつ病で6年後に誰かが死んだとしても、ほとんどの人はおそらくロックダウンを行った政治家の責任にはしないでしょうし、もし責任にしたとしても、その政治家はすでに退陣している可能性があります。このように、脅威を過大評価して過剰に反応することは、政治家の利益になるのです。
政治家にとって魅力的なロックダウンなどの厳しい措置を正当化し擁護するためには、恐怖心をあおることが必要である。19年のソ連危機の際、政治家が恐怖とヒステリーを煽り、ロックダウンなどの高度な制限措置を実施したことで、経済や社会構造に与えたダメージは計り知れないものでした。しかし、社会は永遠にロックダウンすることはできません。どこかの時点でロックダウンを解除し、正常な状態に戻さなければならないのです。しかし、殺人ウイルスの脅威に対する恐怖心を煽ると同時に、正常な状態に戻すにはどうすればよいのだろうか。
ワクチン接種キャンペーンにより、国家は大きな危機からの救世主としての役割を果たすことができる。国家は国民のために予防接種を組織し、その予防接種を国民に「無料」で提供するのである。この「予防接種レスキュー」がなく、永久にロックダウンされた状態では、市民の権利を制限することによる経済的・社会的な悪影響があまりにも大きいため、国民の間で恨みが募り続け、最終的には不安が脅かされることになります。だから、遅かれ早かれ、ロックダウンは終わらせなければならない。しかし、国家当局が、それ以上の説明もなくロックダウンや制限を撤回し、「結局、危険はそれほど大きくなかった」「制限は大げさで間違いだった」などとほのめかすようなことがあれば、住民の支持と信頼を大きく失うことになるだろう。したがって、政府の立場からは、最も厳しい規制から脱却するための、面目躍如たる「出口のシナリオ」が必要であり、それを提供するのが予防接種キャンペーンである。
国が提供するワクチン接種によって、国家は大きな脅威の物語を保持し続け、まだロックダウンから抜け出すことができる。それと同時に、ワクチン接種によってある程度正常な状態にしている救世主のように見せかけることもできる。そのためには、できるだけ多くの国民が予防接種を受ける必要がある。なぜなら、国民のほんの一部しか予防接種を受けていなければ、予防接種キャンペーンを開放に向けた必要なステップとして売り込むことができないからである。このように、国民の大部分にワクチンを接種してもらうことが国の利益になるのです。
この戦略が成功すれば、国家は前例を作り、権力を拡大し、さらに市民をより依存させることになる。市民は、国家が自分たちを死の窮地から救ってくれたと信じ、将来的には国家の助けが必要になると考えるだろう。その見返りとして、彼らは自由の一部を永久に手放すことを厭わないだろう。国が主催する毎年の予防接種のブースターが必要であるという発表は、市民の依存心を永続させるだろう。
マスメディアは一線を画し、予防接種のシナリオを積極的に支持している。
国家とマスメディアは密接につながっている。有力メディアによるフレーミングと、国民をターゲットにすることには、長い伝統がある。すでに1928年にエドワード・バーネイズは、その名著『プロパガンダ』の中で、大衆を知的に操作することを提唱していたのである。現代の国家では、マスメディアは、covid-19のような政治的措置に対する大衆の承認を構築するのに役立っている。
マスメディアが国家を支持するのにはいくつかの理由がある。国が直接所有しているメディアもあれば、規制が厳しく、国の免許が必要なメディアもあります。さらに、メディアハウスには国家教育機関の卒業生が常駐している。さらに、特に危機的な状況下では、政府との良好なつながりがメリットとなり、情報へのアクセスが優遇される。また、ネガティブなニュースや危険性を誇張して伝えることで注目を集めることができるため、国家の恐怖物語を伝えようとする姿勢も見られる。
コロナ事件では、ソーシャルメディアで拡散した一方的な報道が批判的な声を封じ込め、恐怖とパニックを引き起こし、国民に大きな心理的ストレスを与えた。しかし、メディアにとって魅力的なのはネガティブなニュースだけではなく、国家が国民を大きな危機から救い出すという物語もよく売れる。このように、ワクチン接種という物語は、マスメディアの思惑通りに動いているのです。
国民国家、メディア、製薬会社に加えて、超国家的組織もまた、世界の人口が確実にワクチンを接種されることに関心を持っている。
超国家的な組織は、世界的な予防接種キャンペーンが重要な役割を果たすようなアジェンダを積極的に追求している。これらの組織には、世界経済フォーラム(WEF)、国際連合(UN)、EU、国際通貨基金(IMF)、世界保健機関(WHO)などがあり、これらの組織は相互に密接に関係しています。
これらの組織の中には、目標として「偉大なるリセット」や「偉大なる変革」を掲げているところもあります。パンデミックや気候保護、ジェンダー、移民、金融システムなどの分野で、これらの組織は世界中のすべての人々の利益のために協調した答えを見つけようとしています。これらの組織は、責任の共有とグローバルな連帯を強調しています。ワクチン接種、気候変動、金融や移民の流れを中央で管理することは、新しい世界秩序の特徴でもあります。例えば、WEFの2019年の年次総会のテーマは「グローバリゼーション4.0」でした。Shaping a New Global Architecture in the Age of the Fourth Industrial Revolution" でした。また、超国家的な計画の例として、国連の "Global Compact for Migration "があります。国レベルでは、ドイツ地球変動諮問委員会のWelt im Wandel - Gesellschaftsvertrag für eine Große Transformation (World in transition: Social contract for a great transformation)政策文書に見られるように、こうした過激なアイデアが支持されています。
Raymond Unger(2021, pp.84-89)は、この超国家的計画の推進を、アントニオ・グラムシやハーバート・マルクーゼが想定した文化戦争の一環として捉えている。意見や怒りをグローバルに管理することが、特に気候変動やコロナの分野における恐怖やホラーのシーンと結びついて、新しい社会主義の世界秩序を確立する。実際、WHO、IMF、国連は元共産主義者が率いている。WEFは、製薬会社や大手ハイテク企業などのグローバル企業が出資しています。WEFは、国連の「2030アジェンダ」にも大きく出資しています。WHOもまた、製薬会社やビル&メリンダ・ゲイツ財団から多額の資金提供を受けており、世界的なワクチン接種キャンペーンを先導しています。コビド19危機の際にも、製薬業界はWHOに影響力を行使した。また、IMFはWHOの勧告に従う場合にのみ国家を支援している。
これらの超国家的組織は、コビド19の危機を自分たちのアジェンダを進める機会と考えている。国連の政策文書「Shared Responsibility, Global Solidarity: 国連の政策文書『Shared Responsibility, Global Solidarity: Responding to the Socio-economic Impacts of COVID-19』は、covid-19を現代社会の転換点と捉えている。この機会をとらえ、世界的に協調して行動することを意図しています。大手ハイテク企業は、このようなアジェンダを支持しています。彼らはWEFのメンバーでもあり、マスメディアと同じように、自分たちのプラットフォーム(Twitter、YouTube、Facebook)で、covid-19に関連する不愉快な情報を検閲している。特にYouTubeでは、予防接種に批判的な動画はすぐに削除されています。
IMFのクリスタリナ・ゲオルギエヴァ理事の基調講演のタイトル「From Great Lockdown to Great Transformation」も、超国家的組織がコロナ危機を自分たちのアジェンダのために利用したいと考えていることを強調しています。WEFの創設者であるクラウス・シュワブは、コヴィド-19の危機は、"経済・社会システムの新しい基盤を築く "ための「貴重な機会」であると主張している。COVID-19: Thierry Malleretとの共著である『COVID-19: The Great Reset』の中で、シュワブは決定的な瞬間について語り、新しい世界が出現すると主張している。シュワブ氏によれば、今こそ資本主義の根本的な改革が必要であるという。
したがって、世界的に調整された予防接種プログラムは、偉大なリセットのための超国家的戦略の構成要素と解釈することができる。
世界的な予防接種の構造が確立され、それがその後の世界的な予防接種キャンペーンに利用されるのである。グレート・リセットを提唱する人たちの視点から見ると、世界的な構造と組織の必要性が強調されています。これらの組織は、「気候変動」に効果的に対処し、グレート・リセットを推進するなど、他の世界的な目的のために使用することができます。要するに、国家、メディア、製薬業界、超国家的組織が密接に絡み合っており、予防接種というストーリーに共通の関心を持っているのです。
帰宅してテレビに目をやると、NHKはパラリンピックを放映していた。そういやオリンピックの頃は民放も同じ時間帯にオリの放映してたよなと思いチャンネルをかえると、フツーにバラエティとかドラマとかやっていた。
オリンピックに出る選手はオリの時期じゃなくてもテレビで人々の目に留まり知名度があるので、そういうのを映せばテレビ局は数字を稼げる。
一方で障害者スポーツを普段から流していないからなのか、民放は本当にガン無視状態。
助け合い とか 支え合い とかなんとかってヒューマニティー溢れる偽善ワードを、タレントを使って吐く民放。
結局のところ、見栄えが良い知名度があるアスリートや、タレントにしか興味が無くて、本当は障害者スポーツにも障害者支援にも関心が無い連中なんだろうなと思った。