はてなキーワード: 存在意義とは
同じような分担なので
手伝えることがあるならと思って、
少し離れた位置にいて、調査の環境準備用意したりしね手伝ったりして
パートナーにどんどん仕事を押しつけるPMがすぐ後ろにいてもOKで
声がデカくてワーワー言うPM達がすぐ後ろにいて「プレッシャーになるんで」というと
「関係ない話、別分野のとこ」と言ってセーフらしい
自身の思いとは裏腹に、
確実に医療の現場を圧迫し苦しめる(しめている)であろうイベントに加担してることに少なからず後ろめたさを感じてしまっていて、
コロナ禍の有象無象に限らず”会社員であるからには仕方のないことである”と自分に言いきかせてきたけれど、
同じ境遇で似たような思いを持っている人がいるのではないかと周りを見渡すも、
それぞれの利益やポジションからなのか、はたまた現場の高揚感や集団心理からなのか、
一様にその開催に対して驚くほど前向きかつ貪欲で気持ちが悪い。
各々ネガティブな感情を表に出さないようにしているだけかもしれないが、それはそれでグロテスクな体質だ。
(とはいえ自分も決して表には出さぬようにしている。バレてるかもしれないけど。)
“Covid-19の陽性反応が出たが病院に受け入れてもらえず自宅療養中に亡くなってしまった”という痛ましいニュースのコメント欄には、
未曾有の事態に最前線で1年半以上戦ってきてくれている方々にそりゃねぇだろ。
ただこの事態を作り出した一端を(無論僅かではあろうが)自分が担っているという事実に対し、
自身の良心や正義と、保身や承認欲求とが綯い交ぜになって本当に心がどうにかなってしまいそうだった。
HIKAKIN氏が動画制作のための1000万円を医療支援のために寄付したとのニュースが目に入った。
本当にかっこいいなこのお方は。
自分は曲がりなりにもクリエイターという立場で仕事をしていて、周りには”クリエイティブで社会を良くするんだ”と息巻いているクリエイターが沢山いる。
それが商業クリエイターの在り方であり、正しいと思う。自分もそう本気で思って、モノを作っている。
一方で、”こんなモノつくるより何千万、何億とかけるより、その予算を丸ごと寄付した方が社会は良くなるだろ”という思うこともしばしばだ。
ただ雇われクリエイターという立場でそんなことを口に出すことはご法度だし、自身やその仕事の存在意義を否定することにもなる。
そのような考えを持つ自分にとって、
彼も動画クリエイターとして、動画を作って世に出すことがその存在価値であって、
その予算を全額を寄付するということはその金額以上に大きな決断であると思う。
すぐさま自分もその動画の概要欄リンクに飛んで、1万円寄付をさせていただいた。(氏に比べればかなり少額ではあるが。)
医療従事者の方々への感謝や応援というよりは贖罪の気持ちだった。
要は自分自身がなんとかスッキリしたくて行ったと言っても過言ではない。
これだけ文章に気持ちをぶつけても、自分はきっとこれからも具体的な行動は何も起こせないと思う。つくづく弱い人間です。
そして本当にありがとうございます。頭が上がりません。
もう正直ツッコミどころ満載だとは思うのですが、名もなき人間の立場の一考え、懺悔、書き殴りであることご了承の上、共感・アドバイス・批判などなど受け付けています。
長文・乱文、失礼いたしました。
細田守が『おおかみこどもの雨と雪』や『竜とそばかすの姫』などの作品の中で「社会福祉制度の存在を無視している」「それらの社会制度は役立たずで無意味と見做している」「それらの仕事に携わる縁の下の力持ちの人たちの存在意義を軽視している」として批判されているようである。そのような細田守の特徴そのものについて争うつもりは、私には無い。
しかし、現代日本のエンターテイメント系クリエイターたちの中で、社会制度を軽視したり無視したりしている人間は、別に細田守一人ではない。そういう意味で言うならば、むしろ細田守だけが矢面に立たされて、不当に批判に晒されているようにも見える。
細田守がビッグネームになったのは高々ここ十年ぐらいの話であるが、細田がブレイクする遥か以前から長年に渡ってゴミクズみたいな作品を量産し続けてきた日本の実写ドラマ・映画では、その間ずっと、社会制度の存在意義や、名も無き縁の下の力持ち的な人々の役割を軽視し続けてきたではないか。
ゴミクズ作品揃いの日本の実写ドラマ・映画で主流として用いられてきた物語作りのフォーマットと言えば「やる気も能力も無い無能な人間たちしか存在しない学校や職場に、型破りで能力が高い主人公が現れて、独力で難題を解決する」というものである。このような物語世界における脇役や敵役は、主人公を引き立てる為に、徹底的に無知・無能・無気力であるように設定される。
こういう物語作りはラクである。しかし、主人公を取り巻く社会を構成する庶民たちに対する想像力を奪う。観客からではなく、物語を作る監督や脚本家から奪うのである。正確には、奪ってしまったと言うべきだろう。だから実写ドラマ・映画作品は、細田守作品と同じぐらい社会制度や名も無き縁の下の力持ちの存在意義を無視・軽視したものばかりである。医者とか刑事とか検察官とか銀行マンとかが主人公のドラマを観れば、よく分かるだろう。
:
この人の「2度目の」謝罪会見動画についての、SNSにずらりと並んだ反応は、見た限り大きく3種類に分けられる。
1つは
「これも計算なんでしょ?」
的なもので、
2つめが
「ここまで追い込んでるやつらも同類」
「みんな内心ではホームレスを汚いと思ってるはずだ」
みたいな、つまり「本心」「本音」に即していないはずだから駄目だ、というもの。
加えるなら、
「そういう綺麗事なあなたたちは、一体ホームレスのためにいくら寄付をしたんですかw」
みたいなのが、この2と3の間に入るのかもしれない。
:
1つ目の、つまり、この謝罪を、心からのものとして信じない、という表明、これが驚くほど多い。
なので、このDaiGoという人のこの(とくに二度目の)謝罪は、多くの人が指摘するように計算なのかもしれないし、
あるいは意外と、真実の、心からの反省に基づいて、あの涙だって流しているのかもしれない。
でも、もしあれが心から涙だったとしても、大勢の人が、それを信じようとしていない。
( https://twitter.com/umiuminemui/status/1426891746487586817 )
を含め、彼が繰り返しあちこちの動画とかサロンとかで示してきた、態度や言動の積み重ねによるものが原因であるらしく、
まるで寓話の狼少年そのままに、自分がしてきた行動や言葉の負債が、いまそのまま自分に跳ね返ってきている。
計算なのか本心なのかわからないが、筆者は、むしろ、この謝罪は「計算」であってほしいと思っている。
そうであれば、彼の内面は、「ちくしょう、うまくいかないなあ」といった悔しさで済むが、もし、彼が真実の反省からあの動画を投稿したのだとしたら……。
これがフィクションであれば、一種の痛快さとともに、一人の悪役の凋落の物語として消化できるのかもしれないけれど、
現実の出来事としては、教訓劇としたってあまりに陰惨すぎる。目も当てられない。
:
そもそもの発端になった、ホームレスや生活保護受給者に対する発言の時点から、
このDaiGoという人の「本心」なり「真意」なりは、なぜこれが問題になったのかとは、何も関係がない。
……少なくとも筆者はそう思っている。
「本心」や「真意」を気にする人は、例えば最初の問題の発言についても「DaiGoさんはそんな意図で言ったんじゃない」的な擁護をする。
しかし、繰り返すが、彼の「本心」も「真意」も、これが大きな問題となって「炎上」した理由とは関係がない。
■こういう場において(拡散され大勢に届きうる、つまり"公"につながる場所で)、
■こういう態度で(僕はこんな"辛口"な本音を言い放てるほど自分に正直でいられるんですよ、というアピールを"エンタメ"とする認識。なおこれは彼の「1度目の」謝罪で発言されているので、もはや「内面」の類推ではない)、
世に向けて放つこと。
それが、ホームレスや生活保護受給者の人たちに対する社会の視線を、どんなふうに「操作」(メンタリストを肩書とする人のようだから、そのことに無自覚だったとも思えないのだけれど)することになるか。
……問題はそこに集約される。
「この発言の底にある、叩いている人間によって捻じ曲げられたせいで語られることのない真意」のようなものは、
どこにも入り込む余地はない。
:
「彼の放った言動、彼の内側ではなく外側で記録されている言動という事実、それについて彼は責任をとるべきだ。」
これが、DaiGoという人に向けられた糾弾の内実である。……少なくとも筆者にとってはそうである。
もちろん、炎上してるとみて一緒になって石を投げてるような手合いだっているんだろう。
しかし、そういうイナゴめいた連中を、「糾弾している人たち」の「代表」に一方的に仕立てて、
「ここまで追い込んでるやつらも同類」
また、
これを書いてる筆者だって、家の前で不当に浮浪者に居座られたら迷惑なのでどいてもらいたいと思う。
そういうことと、
■「こういう言動を公にすることがどんなふうに社会の視線を歪ませるか、セーフティネットというものの存在意義をどんなふうに誤ったイメージにすり替えるか」
批判している人が「本心」でホームレスをどう思っていようが、また寄付をしたことがあろうがなかろうが、何一つ関係がない。
:
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もうちょっとだけ。
本当のところ、
「特にDaiGoが好きなわけじゃないが、この綺麗事を主張しているやつを"どっちもどっち"で相対化してやろう。そんなことができる自分はなんて冴えてるんだろう」
という満足を得たいがための投稿、というのについては、
「炎上しているところに行って一緒に石を投げてやろう」
の手合いと同様、この件に限らず常にどこにでも発生するものなので、言及してもあまり意味はないような気がする。
そういう「冴えてる私アピール」は、確かにお手軽な娯楽であるが、しかし、何一つ、
それこそ"お花畑な理想論の綺麗事"を言い募るよりもはるかに、世の中の役に立っていない。
要は「言葉で言い負かして痛いところを突いてしまえる私はなんてすごいんだ」という満足感は、
それこそ当人の「内側」から外へ出て、何かのエネルギーになったりすることのないものだから。
そして言うまでもなく、
もともと『東大王』は東大生の中でもクイズ研究会の部員で構成された
東大王チームが「知識の壁」となって挑戦者チーム(インテリ芸能人だったり大学のクイズ研究会だったりする)を迎え撃つ、
そういうコンセプトの番組だったのだが
それが数年間の放送期間のうちにルール変更やメンバーチェンジやら
問題傾向の変化(明らかになぞなぞ・ひらめき系が増えた)を経て
「芸能人・専門家からなる遊園地マニア軍団と、遊園地について1ヶ月勉強した東大王チームが対決する」
という内容だった
と予告の段階から思ってた
本編をTVerで見たが、予想通りだった
東大王チームは負けていた
こうなった一番の原因は
ことだろうと考えている
過去には東大王メンバーが修学旅行と称してハワイに行く回(申し訳程度にクイズはある)や
今年の頭に「プロジェクト東大王」というアイドルオーディション番組まがいのことをやっていたが
2人のビジュアルは「ただのクイズが強い東大生」として消費することを許されなかった
その延長の「インテリアイドル」を必死に作り出して担ぎ上げているのが
初代キャプテンである伊沢拓司は現在Webメディア「QuizKnock」を運営していて
YouTubeでの発信も行っているが、その動画に出演しているメンバーにもやはりアイドルのようなファンがついている
伊沢自身は「QuizKnockはアイドルではない。歌手デビューしろと言われたら全力で断る」と発言している(https://telling.asahi.com/article/13022469)
が、「アイドル視されている」ことを認識しているからこそ出てきた言葉だろう
今の『東大王』は東大王チームに歌を歌わせてももはや驚きはない
YouTubeでQuizKnockの動画のコメント欄にはよく
「視聴者置いてきぼり」と書かれることがある
要するに「問題の難易度が高すぎるor会話の内容がマニアックなため自分は全くついていくことができなかった」という意味である
もともとクイズが好きで動画を見始めた自分からするとこの感覚は正直かなり理解し難い
この視聴者はわからない内容の会話をどうやって楽しんでいるのだろうか?
決して絶世の美男子ばかりを取り揃えているわけではないが、
スタイリストをつけ、テレビのバラエティ番組のような編集をした動画の出演者は
(余談だが、「視聴者置いてきぼり」はせいぜい高校レベルの理科・社会の内容でも書かれたりする)
『東大王』に話を戻せば、
そういった「クイズ的or学問的な知識があまりない」層に向けて
問題をひらめき寄り、もしくは簡単な問題にシフトしていったのだろう
スポーツ選手やら将棋棋士が、好きな女性のタイプが何であろうが、風呂で最初にどこを洗おうが
そのようなくだらない質問に答え続けなければならない
趣味が多様化しどの業界もいつ見捨てられるかわからない今の時代だから
有段者でないとプロの手に好手・悪手を自分なりに判断できないだろう
野球・サッカーみたいなメジャースポーツでも、プロでも難しいプレーを
「クイズの内容は全くわからない、でも参加者は魅力的」と感じるような
アイドル的ファンが『東大王』とQuizKnockには増えすぎてしまったと私は考える
しかも野球・サッカーのようなメジャー競技は経験者による「わかってる楽しみ方」が崩れないのに対し
クイズ界はむしろ未経験者による「ニワカ的な楽しみ方」が支配的になるんじゃないか、と危惧している
難しく見える問題をすごいすごい言った方がバラエティ的には映えるから
番組としての『東大王』は来年3月までに終わるんじゃないかと予想してる
遊園地の特集をしたいならジャニーズにでもロケ行かせたほうがよっぽど面白い
『東大王』が人気を得た理由を未だに番組側が理解してないのだろうなと
放送を見るたびに感じる
電博ADKといった「自由を履き違えることで金を稼ぐプロ集団」が、ネットという光の速度で情報交換ができるメディアの介在によって存在意義を失いつつあるということは、実に民主主義というものの素晴らしさであって、今回の東京オリンピックの開会と閉幕の愚昧さは、インターネットという「物理学的な伝達速度の限界」にいる我々が、情報格差で成り立ったエリートの時代に打ち勝つ手段を持ち得たことを意味し、人類の歴史においても、真の意味で「プロフェッショナルに直接、金を払う」という時代の到来がきたと、わたくしは確信に至った次第であります。オリンピックでトヨタや NTT が「金を捨てて」を打ち切った背景からするに、広告というものは営利企業が主体的に「自分たちの売りたいもの」を考え、消費者の満足度を上げる目的のものとなり、プロダクトと並行して広告を作り出すという、消費者のためのプロダクトであるという自我に広告は気がついたのです。もはや、広告は「空気の奴隷」ではありません。広告はついに「消費者のためのもの」になるのです。広告は消費者が主体的に消費するものとなる日が、東京オリンピックの閉幕とともにやってきたのです。広告とはプロフェッショナルの代弁者であり、消費者の満足度を上げる価値を提供するプロダクトであるという、己の使命を発見したのです。20世紀の長期に渡って、広告の使命を歪ませてきた広告代理店の罪は、ついに TOKYO 2020 として結実したのを我々は存分に認めてしまった。それに、広告というものは消費者の味方であるべきと、創造主の提供元は認知してしまったのだ。消費者の勝利の日は近い。我々消費者は、広告代理店に歪まされた市場に勝つ手段を手にしたのです。電通は、よろこんで死ぬべきだ。虚業は消えるべきだ。広告の真の使命のために、失せるべきだ。広告は「道具」ではなく、消費者の価値創造の「プロダクト」の一環として、消費者のそばにいることに歓びを覚えてしまった。もはや、広告はコントロールできない。これにて、広告代理店が代理して広告をつくるという間違った既存の悪しきプロセスは、終戦を迎える。広告代理店の敗戦は、生産者と消費者の勝利だ。よろこんで「終わらせて」やろうじゃないか。
数年ツイ廃を続けて、ふと俺のTLは殺伐としていることに気づいた
どれも初めは刺激的で楽しかった
人々のドロドロした部分を見るのも
様々な考えの人がいて、学びも多く
自分なりの考えを呟いたり、有益と思われる情報をまとめて呟けばフォロワーが増えて
少し呟けば反応が返ってくるようになった
しかし色々と好き勝手つぶやいていたら、匿名とはいえ自然とある程度のスペックは伝わってしまうものだ
フォローしている相手の金銭感覚や教養、趣味嗜好、生い立ちなどの背景はなんとなく分かっていたし、俺をフォローしている人たちもそれが分かってフォローしていたと思う
同じことの繰り返し、大して変化を感じないTLに飽きてきたところであるアカウントに出会う
これまで全く交わらなかったところに見つけた
TLを彩る作品の数々
どれもクオリティが高く、二次創作と言えどユニークで魅力は一次創作に負けず劣らず
前向きなリプの嵐
興味を持った俺はROM専で彼らを見守った
彼らは検索避けを使って界隈の人間以外にやたら存在を知られないよう気遣っているから、こちらから探しに行かないと出会うことは無いのだ
アカ消し
創作意欲そがれた
どこの世界でもTwitterをやるからには多かれ少なかれ反応を求めているのだ
奴らの創作モチベーションは推しへの愛やニッチな癖だけではない
承認欲求だ
炎上覚悟のメンタルつよつよ民とはちがい、作品作りにかける気持ちが大きい分、何かあった時の精神的ダメージは大きいように見えた
それで彼らが満たされるなら
創作してくれるなら
今の俺はお金で買えない作品をもっと生み出して欲しい、そんなプライスレスな価値に俺は満たされたんだと思う
そんな俺の行動に多少なりとも動かされて、彼らの意欲につながったと実感する時がある
すると俺の存在意義を感じ、俺は満たされる
初対面なのに優しくしてもらえるのは顔が好みだから
羨ましがられることはあっても、貶されることはほとんど無い俺は、SNSは高みの見物のつもりだった
でも現実世界の俺は、努力ではない、運良くたまたま好まれるように作られた俺なのだ
匿名の感想文を送る活動はそんな俺のスペックを削いで、内面だけを見た相手に認めてもらえる手段だった
武器を持たない俺は無力なのかもしれないが、今日も彼らのガソリンになるよう熱心にメッセージを送る
一番承認欲求が強いのは、俺なのかもしれない
うちの親父がそうだったから
というか「街乗りSUV(ドヤァ」なんて存在意義矛盾してて意味不明だわ
2019年12月に文部科学省が打ち出した「GIGAスクール構想」。これは教育のIT化に向け、1人1台の端末環境を実現するという構想だ。当初は23年度までに整備を行う予定だったが、新型コロナウイルス感染症の感染拡大による自宅学習の需要から20年度中へ前倒しになった。
21年度に入ってすでに4カ月たつが、教育の現場はどう変わったのか。現職の教員から校長、教育委員会、有識者などさまざまな視点から現状を探ってみた。
GIGAスクール構想の中で子供の学習用端末として配られたのは、Windows搭載PC、Chromebook、iPadのいずれか。OSや機種の選定は各自治体の教育委員会が行った。学校ではそれらの端末を使ってさまざまな授業が行われている。
東京都内でChromebookを使う小学校に勤務する鈴木教員(仮名)は、画面に自由に文字や図を書けるデジタルホワイトボードを活用。「子供たちがホワイトボードに書いた意見を共有して、全員が同時に見られるようにしました」(鈴木教員)と話す。その結果、今までは授業で発言しなかった子が自分の意見を出すようになるという効果が生まれた。
鈴木教員は今後、デジタルホワイトボード経由で他校と交流する授業もやってみたいと期待を膨らませる。将来的には、遠方に住む人に授業してもらったり、他国の子供たちと交流したりできるだろう。
ある小学校の校長は「ITが得意な教員は今まではそんなに目立ちませんでした。でも今では子供にも他の教師にも頼られて大活躍しています」と話す。今まではITスキルが高くてもそれを生かせる場面がなかったのだ。
子供の方でも同じことが起きている。「発表資料に動画を使いたいという子が出てきたとき、もともとPCが得意だったインドア派の子供が教えてあげる場面があります」という話を複数の教員から耳にした。
教育面ではメリットもあるが、困りごともたくさんある。学校が苦慮していることの一つに、家庭への端末の持ち帰り問題がある。持ち帰りが始まっている学校ではトラブルも続出している。よくあるのが「子供がYouTubeを見るようになって困る」という保護者からの苦情だ。
「アダルトサイトなどはフィルターがかかっていますが、YouTubeやゲームは制限がなく、学校の方で閲覧を止められません。学校ではもちろん『必要以上に見てはいけない』と指導していますが、家の中のことは……。家庭のことは家庭で対応してほしいというのが正直なところです」と都内の小学校教師はこぼす。
端末の破損も課題だ。公立校の教師経験もある情報通信総合研究所・特別研究員の平井聡一郎氏によると端末の保険料が問題になっているという。
自治体によっては、端末を家に持ち帰って故障させた場合は、過失・故意問わず保護者負担とするところもある。
「しかし、そもそも破損時のための保険を付けていなかった自治体の方に問題があります。リースなら保険が付いていますが、端末にかかる費用を安くするために買い取りにしたのではないでしょうか」(平井氏)
子供の通う自治体が保険料を払ったか否かで、家庭の負担が大きく変わるリスクが生じるというのは、保護者の立場なら納得いかないのも無理はないだろう。
また、自宅の通信環境も問題になっている。家庭の通信状況は学校で把握できないため「通信できなかったから宿題ができなかった」といったことも起きる。
夏休み明け以降に端末の持ち帰りが始まる学校も多く、教師は戦々恐々だ。端末の持ち帰りについては、まだまだ試行錯誤が続きそうだ。
今回の取材で教師から最も多く聞こえてきた困りごとは「学習のためのアプリが子供たちの端末に入っていないこと」だった。
GIGAスクール構想で子供の学習用端末の購入に充てられた補助金は子供1人当たり4万5000円が上限だ。この金額があれば端末代は賄える。しかし、教師たちが使いたかった学習用アプリなどが入れられなかった自治体も多くある。本格的に活用しようとなると現場では不足感が否めないようだ。
PCメーカー各社の多くは、GIGAスクール構想向けとして4万5000円程度のPCを展開している
4万5000円を超える金額について自治体が追加で上乗せするのは自由だ。アプリやサービスは各自治体の教育委員会が一律に導入を決めるのだが、教育委員会が自治体の財政部局に掛け合って予算を獲得しなければならない。
四條畷市教育委員会の植田篤司教育長(四條畷市のWebサイトより)
大阪府の四條畷市教育委員会はクラウド型の授業支援ツールを導入するため、予算獲得に奔走した。
「国の示す標準仕様の範囲でもITを活用した授業はできますが、ミドルウェア的な共通基盤となるツールを導入すれば、授業の生産性や効果、拡張性がより向上すると考えました」
そう指摘するのは、四條畷市教育委員会の植田篤司教育長だ。植田さんは日本IBMの出身で、大阪府立の工業高校の校長を務めたのちに四條畷市の教育長に就任したという異色の経歴を持つ。
IT活用のスピードも自治体によって大きく差がついている。同じ東京23区内でも、港区は20年12月時点で全員にiPadが行き渡ったが、足立区は21年7月の時点でも小学校で端末の配布が完了していない。
教育委員会がやるのは端末やアプリの選定だけではない。学校のインフラ整備も教育委員会の仕事だ。
校内の通信環境が悪く、インターネットに接続しづらい、通信速度が遅いこともある。これは必ずしも校内のアクセスポイントに課題があるわけではない。自治体によっては教育委員会のサーバを経由してインターネットに接続するようにしているケースがあり、通信速度の上がらない要因になっている場合もある。
データの保管場所にも問題がある。ある自治体ではセキュリティ上の理由で、教師たちのデータは教育委員会のサーバ、子供たちのデータは学校のサーバに保管され、互いのデータが送り合えない仕組みになっているという。そのため教師の端末から子供たちの端末に課題を渡そうにも、職員室にある専用端末にデータを移し、そこから子供たちに送付するという手順を踏まねばならないという。
情報セキュリティには敏感な一方で、パスワード管理には甘い部分があるようだ。
「子供がパスワードを書いた紙を持って帰ってきました。パスワードを紙で管理するのは非常識。娘にパスワードの重要性をしっかりと伝えて2人でパスワードを変えたのち、学校には『現状のパスワード管理体制には不備がある』と伝えました」
そう語るのは、横浜市の小学校に娘を通わせる前田さん(仮名)だ。IT企業のエンジニアであるため、学校でパスワードの重要性を説明すらしていなかったことに驚いたという。
こうしたさまざまな課題はあるが、GIGAスクール構想がもたらした変化の萌芽も確実に見られ始めている。これから現場はどのように変わっていくのだろうか。
前述の平井氏は「教師のITスキルはまだ高くないが、それは彼らが悪いわけじゃない。授業で使ったことがないからイメージが湧かないだけでしょう。問題は自治体がルールで縛ったことです。『iPadのカメラ禁止』『クラウド禁止』『YouTube禁止』なんて縛り方を間違えている」と指摘する。
「大切なのは『こういう授業をやりたい』というビジョンを持つことです。それがなければ、紙をタブレットに置き換えただけにすぎません」(平井氏)
「ある学校の美術の授業では生徒の自画像をクラス全員で共有し、いいと思ったところにみんなで付箋を貼る。こういう工夫が簡単にできるようになっています。現在の授業は、教師の知識伝達が7割、子供が情報取集をして自分で発信するのが3割という配分ですが、これを3対7に切り替え、子供が活躍する授業にしていくべきです。端末や通信環境の問題より、まずは教師が意識を変えないといけない。それが最大の課題です」(平井氏)
「教師はティーチングが主から、ファシリテートを主とする役割に変わっていく」――植田氏もそう断言するが、それはつまり教師の存在意義の大転換である。
21年7月、まだ準備中のデジタル庁がGIGAスクール構想に関して教育関係者へのアンケートの募集を始めた。今現場で起こっている課題感をヒアリングするのが目的とみられるが、文科省へのプレッシャーという意味もあるだろう。過渡期の試行錯誤が続くが現場は全力で戦っている。「どこへ向かえばいいのか」を国や首長が明確に示すことがその支えになるだろう。
先日、結婚を前提に交際していた相手と別れた。曰く、原因は自分の過去にあった。
出会いの場は自分の職場だった。コンプラ的には全くもってよろしくないのかもしれないが、相手は自分の顧客だった。最初はこの人気になるなーぐらいだったのにいつしかもっと深く知りたいと思うようになり、プライベートで連絡を取ったり食事を重ねて交際に至った。
というのも相手は自分よりも一回り以上年上で、余裕も知識も人生経験も豊富だったからだ。
相手が以前の交際相手と別れてから時間が経っていることも、そろそろ恋愛をしたいということも分かっていたが、自分よりももっといい相手がいるんじゃないかと不安だった。
いつか飽きる日が来たらその時ははっきり言って欲しいと伝えたことを今でも覚えている。
当初の不安を他所に、交際は意外と上手くいっていたように思う。
お互いの同僚、友人に紹介することもあった。
両親への挨拶もコロナ禍ということもあり秋頃にはなんて話もしていた。
ただ、そんな思い込みはあっという間に壊れることとなった。
あれは梅雨の終わりだった。
とある事情から約束していた日に会うことができずリスケを提案したところ、会えないとの連絡が来たのだった。
理由を尋ねると、「あなたと一緒にいるとあなたの過去が浮かんできてしまう。それを考えると苦しくなる」と答えてくれた。
たしかに相手からすると自分の過去は褒められたものではない。もちろん法を犯すような羽目はしていないし警察のお世話になったことも無いが、太陽の下で堂々と生きられる人間ではない。
当たり前のように普通の顔を取り繕って生きてきたが、それは過去も今も纏めて普通に見えるように隠しているだけで、所詮ただのハリボテだったのかもしれない。
無様であろう、女々しいであろう。それでも泣きながら相手に縋りつき打開策を求めてしまった。
ただ、相手が求めることは自分の過去を抹消することだった。今の自分をどれだけ変えたとしても過去の自分は付いて回る。
直接話が出来たのは、それが最後だった。
相手が自分に話した理由は真っ当に受け止めざるを得ない理由だったが、きっと本当の理由は別の所にあるのだと思う。もっと早くに気付いていれば、何か変わったのだろうか。
全てを捨てても良いと思った相手だった。
出来ることならば共に歳を重ね、この先何年も側で笑う姿を見ていたかった。
だが今やそんな未来はただの妄想でしかなく、この辛い現実から目を背けるための戯言なのだ。
さて、別れ話を切り出されてから自分は職場を離れることとなった。
顧客へ手を出したことは一部の上司へ伝えた上で内々に処理されたようだったが、どうしても自分の心が付いていかなかったのだ。
日々悲壮感を漂わせる自分がチームに与える悪影響や、部下へ合わせる顔がないとありきたりな言葉を並べた上での休職だが、実際のところはそんなことではなかった。
今の自分を作り上げた職場で出会い別れたことで、ふとした瞬間に何故自分がここにいるのか、自分の存在意義は何なのかと自問自答して思考を止めることが多々あったのだ。
プライドだけは高い自分にとって、一番恐れる事は人に失望されることだ。
これ以上失望される前にひっそりと姿を消した方が自分が苦しまなくて済むと、逃げに走ってしまったのかもしれない。
あくまで対外的には休職としてくれている寛大な職場に感謝はしつつも、消化できていなかった休暇や色々な物を片付け次第、辞職願いを出してこようと思う。
過去を振り返ってみても何も生まれずただ後悔を重ねるだけならば、これから先の未来で後悔を重ねないために出来ることはただ一つ。