2021-09-30

女性表象

増田ではもう多分おなじみで飽きられてる例の話題における「女性表象」について。

今週いろいろ考えていたことを書いておきたい。

多分この文章文脈的にも時期的にもアンチフェミだとみなされると思うんだけど、自分j心にはそんなつもりはない。そもそもあの変な議連フェミだとも思ってないし。

しろ自分としてはクリエイターとしての違和感普段気持ちメモとして残したい。

文章とはいえ自分クリエイターでいわゆるオタク界隈でくらしていて商業化もコミカライズもしたっていう立場だけど、多分立場のものとはあんまり関係ない。

はじめに感じたのは「なんか雑だな」という気持ちだった。

女性表象」というざっくりした単語選択と、そこに込められた視線についてだ。

昨今のオタク界隈クリエイターとして女性キャラはいっぱい作ったし書いてきた。ヒロインとしてサブキャラとしてモブとして。それぞれに主入れを持って作り込んできた。それって「女性表象」なのか? 自分は「女性表象」を描いてきたか

その答えは一般的にはYesではあるけれど、自分自身の中ではNoだ。

一般的ボリュームラノベをささっと書くのに、自分調子が良ければ大体三週間くらいかかると思う(念の為にこれは完成に要する時間ではない)。もちろん作中ではいろんな事が起きるし、ヒロインヒロインとの関係重要ではあるけれどパーツの全てではないので、この時間はそのままヒロインを描くのに使った時間ではないけれど、ひとつの参考としてそれくらいかかる。

そして読むのは早ければ二時間弱とかじゃなかろうか?

まり作るのにめちゃくちゃ時間がかかってさっくり消費できる。これは文章畑に限らずコンテンツは何でもそうだと思う。むしろ文章畑なんてすごく素早く手軽に作れるジャンルで、映像ゲームは桁違いに時間がかかるだろう。

実際そういう現場に協力することもあるけれど、気が遠くなるくらいの人手と時間と、つまりリソースが消費される。

それだけの時間を投下して、「女性表象」をつくって、満足できるかといえば、自分はできない。

嫌われるかもしれない言葉をつかうけれど、正直に言う。

女性表象とき」では我慢できない。

現実女性の方々に訪ねたいけれど、たとえば大好きな人ができて、そのひとと来週デートするとする。初めてのデートだとする。

胸がはちきれそうなほど嬉しいとともに、膝が震えるほど怖い。なんだか冴えない一日になってしまうのが怖い。がっかりされるのが怖い。思ったよりうまくしゃべれないと思うと怖い。相手の期待ほど可愛くない自分だったらと思うと怖い。

そんなときはないだろうか? そんな時何らかの努力をしないだろうか?

自分の知る限りの知己もいままでめぐりあいのあった女性も、すごい何かをしていた。正直男性である自分から理解しがたいほどのエネルギーをそこに注ぎ込んでいた。

その日その瞬間を「いい感じ」にするために、髪型や服を整えて、時には体型やら自分の好みまで変えて、とっておきを提供しようとしていた。そういうのを見ると恐れ多いような頭が下がる様な気持ちになったのを覚えている。

デートの時にやってくる「一番好的な彼女」というのは上記のような女性努力の、つまりクリエイトの結果だと自分は思っている。

ディズニーのいうありのまま自分がなんだかよくわからないけれど、彼女たちは、確かに自分自身を超えた自分を顕現させようとして、いっときそれに成功する。

自分はそれを偉大だと思う。女性からとかそういう理由ではなくて、クリエイターとして尊敬する。言語化出来ているかどうかは定かではないけれど、彼女らはなりたい自分クリエイトして作ったからだ。

創作物には、描きたいものがある。その描きたいものが例えば出会いとか、別れとか、嬉しいとか悲しいとか楽しいとか懐かしいとか、恋とか、そういうものがあって、その過程必要となってヒロインがいる。

卑俗なところで言えば、可愛いとかもっと見ていたいとか、エッチなことをしたいとかでも良い。とにかくそういうエモーショナルな何かを伝えたくて創作物を作る。

女性キャラは、例の言葉を借りれば女性表象は、そのための道具に過ぎない。大事だし思い入れもあるけれど、過程に過ぎない。読者に伝えたいもののために必要であれば何かを盛るし、邪魔であれば削る。

それは現実女性には不可能だ。だって現実女性主人公のために、あるいは読者や視聴者のためにだけは生きられないでしょう? 現実自分生活があって、趣味もやるべきこともたくさんあって、理想の魅力的な自分だけでは生きられないでしょう?

世の中で言われている萌キャラなんてものは、愛されるためにまれてきたものだと自分は思う。自分が関わった仕事は、全てそのつもりで仕事をしてきた。現実女性と違って、彼女らはそれに全力投球だ。なぜなら、それが彼女らの存在意義で、全てだからだ。そのために生まれたからだ。

それ以外の私生活なんてものはない。あるように見えたとしたら、それは覗き見される前提で作られた、いわば公開用の私生活だ。飾り気のない普段の姿、という形態の作り込まれ物語にすぎない。

まり創作物キャラは、現実女性デートの瞬間ほんの一瞬だけできる「すごい自分」でいるのをフルタイムで続けられる存在だし、それが存在価値だ。何ヶ月も、場合によっては何年もかかって産み出されて、一瞬で消費される。その巨大なコストを代償にして、現実を超えるために産み出されるのが創作物キャラクターだ。

自分は、「現実を超える」使命を持った創作物が、そのために悩んでカロリーを叩きつけた創作物が、「女性表象」だなんて、そんなふうに単純化されるのを我慢できない。

たとえば、あるヒロイン不安絶望表現するのに、創作者は雨を降らせることができる。人気のないコンビニ駐車場の暗がりを作ることも出来る。つながらないSNSを登場させることも出来る。それらは舞台背景であって舞台背景ではなくて、彼女内面を表す暗喩だし、読者に感情移入してもらうための動線だ。

そのキャラクターが気高くて必死尊敬に値すると伝えるために銃弾の降り注ぐ戦場も用意できるし、水晶花咲庭園でのダンスシーンも描ける。

彼女の魅力を伝えるためなら、そこまでやる。女性としての魅力を伝えるためにも必要だと判断するならば、女性の体さえ抹消する。耳やら尻尾やら砲塔やらを生やす程度なら序の口で、人面蛇身にすることもあるし、なんだったらAI宇宙船金属筒に収められた脳髄だけの少女なんて世界観にすることも出来る。

雨やコンビニ水晶庭園女性表象かといわれれば誰もがNoと言うだろうと思う。でも創作者の中でそれは渾然一体で不可分だ。その時それが必要ならつくるまで。舞台だけじゃなくて、演出も、エピソードも、言葉選びも、同じ語句ひらがなで書くか漢字にするのかさえ、伝えたいものを伝えるための道具であって、ヒロイン等価で同じものだ。

読者や視聴者の人に、紙面やモニターの向こうで、恋をしてもらえるなら、涙してもらえるなら、どれだけカロリーがかかってもそれら全部はやるべきことだ。

まりやっていることは「女性表象を作ること」なんかじゃないのだ。青椒肉絲定食を作ってるのに対して「ピーマン切るのは許可されるか」「いやピーマンは不許可だろ」みたいな議論をされてる置いてけぼり感。

こちらはピーマン千切り業者をやってるつもりはないし、ピーマン千切りを提供したつもりもない。もっといっちゃえばお前らがいじくり回してるその皿には、パプリカは入っててもピーマンは入ってないよまである。あるいはししとう叩いて大喜びだな、なんてのも。

以上で率直な感想は終わりだ。フェミがどうこうとか性的搾取とかは、自分にはよくわからない。

でもこっちは現実女性を周回遅れにする純度のために何かを描いてるので、現実女性投影であるとか、模造であるとか、そういう雑な用語選びは好きになれない。という話だと思う。

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