「出兵」を含む日記 RSS

はてなキーワード: 出兵とは

2021-04-10

北支事變と陸戦法規

外交時報 第八十四巻』昭和十二年、外交時報社、pp.47-56

北支事變と陸戦法規

篠田治策

 明治四十年(千九百七年)十月十八日海牙に於いて調印せられたる開戦に關する條約第一條によれば、一國が他國と戦争を開始するには理由を附したる開戦宣言形式又は條件付附開戦宣言を含む最後通牒形式を有する明瞭且つ事前の通告をなすことを要す。故に現在北支及び上海方面於いて進展しつゝある日支両國の戦闘は、理論上之を日支戦争又は日支戦役と称すべきものに非ずして、事變即ち北支事變、又は上海事變と称すべきものである。我が政府公文にも新聞紙報道にも総べて事變の文字を用ゆるは之れが為めであると思はる。換言すれば宣戦の布告を見るまでは、戦争又は戦役と呼ばずして軍に事變と称し、両國間の國交は断絶せざるのである。之れを先例に徴するも、明治二十七・八年の清國との戦、明治三十七・八年の露國との戦、世界大戦参加による青島攻撃戦等は、之れを日清戦争(戦役とも称す以下同じ)、日露戦争日独戦争と称し、明治三十三年の義和団事件、近年に於ける済南出兵上海出兵満州出兵等は、総べて之れを事變と称したのである

 此の招呼は従来何よりて定まりしか詳知せざれども、現今に於いては確然明白に区別せらるるは、政府公文或は法規等にも「戦時事變に際し」云々等の文字を用ゆるも明らかである。故に日支両國の何れかより

<四七>

宣戦の布告若くは條件附開戦宣告を含む最後通牒あるまでは、如何に大部隊の衝突あるも未だ事變の域を脱せずと謂ふべきである。猶ほ八月二十三ワシントン發の同盟通信によれば、アメリカ國務長官コーデル・ハル氏は、今回の北支事變に際しては終始冷静な態度を持し形成注視しつつあつたが、二十三日午後聲明を發し、日支両國政府に対し「戦争行為に訴へぬよう」要請した由である二十三日は我が陸軍部隊上海附近上陸を開始した日である。即ちハル長官現在の日支両軍の戦闘行為を以て、未だ戦争に非ずと見て居るのである。然れども、我が政府最初宣言したる事件不拡大の方針余儀なく抛棄したるのみならず在外艦隊司令長官支那船舶に対し沿岸封鎖を断行し、支那も亦縷々大部隊を動員して攻撃的態度を採りつゝあるにより、或は近き将来に於いて事變を変じて戦争となるべき可能性ありと信ずるのである

 我が國の國内法に於いては事變と戦争区別せざる場合多く、例へば出征軍人の給奥、恩給年限の加算、叙勲に關する法規など総べて事變と戦争を同一に取扱ふも、國際法上にては事變と戦争は大なる差別がある。

 即ち現在の事變が変じて戦争となれば、日支両國は所謂交戦國隣、共に戦争放棄を遵奉する義務を生じ、同時に中立國に対しても交戦國としての権利と義務を生じ、中立國は皆交戦國に対して中立義務負担するに至るのである。語を換へて言へば事の事變たる間は必ずしも國際法規に拘泥するの必要なきも、一旦戦争となれば戦場於いて総べて國際放棄を遵守すべき義務を生ずるのである。然れども事變中と雖も正義人道に立脚して行動し、敵兵に対し残虐なる取扱を為し、良民に対し無益の戦禍を蒙らしむるが如きは努めて之れを避くべきは言を待たずである。此の點に關しては、皇軍は我國教育の普及と伝統武士道精神により、毎に正々堂々たる行為を以て範を世界に示しつゝあるは欣快である。嘗て済南事變の際支那兵が邦人

<四八>

対する残虐視るに忍びざる殺戮行為、今回の通州に於ける邦人虐殺行為等天人共に許さゞる野蛮行為に対しても、敢て報復の挙に出づることなく、飽くまで正々堂々唯だ敵の戦闘力を挫折するに留めたのみである。故に皇軍には戦場於いて事變と戦争区別する必要はない。何れの場合にも武士道精神に則り行動するが故に、戦争違反問題を生ずることは殆んど無いのである

 従来我が陸軍戦場於いて戦時國際法適用の万全を期せんが為目に戦時國際法の顧問として日清戦争には故有賀長雄博士を、日露戦争には第一軍乃至第四軍に何れも二人づつの國際法学者従軍せしめたのである日清戦役後仏國の國際法学者にして同國大審院検事長たるアルチュール・デジャルダン氏は日本軍の行動を激賞し左の如くに曰つた。

東洋の僻隅に大事業を成就すべき一國あり、之れを日本とす。其の進歩は単に戦争の術に止まらず、戦時公法理想於いて欧州をして驚嘆せしむるものあり。國際法論は欧州於いても漸を以て進みたるものなるに、日本は一躍して此の論理を自得したり。是れ果して高尚なる正義を感得したるに因るか將た又利害を商算したるに因るかは別論に属すと雖も、其の之れを寛行するや極めて勇壮にして、恰も自國の能力覚知する心念の中より適宜に之れを節抑するの嗜好を自然に生じたるものの如し。是れ人類一般利益として祝す可き所なり。

又仏國の國際法学者ポールフォーシル氏も、當時日本軍の行動を評して左の如く曰つた。

此の戦役に於いて日本は敵の万國公法無視せるに拘はらず、自ら之れを尊敬したり。日本軍隊は至仁至愛の思想を體し、常に慈悲を以て捕虜支那人を待遇し、敵の病症者を見ては未だ全て救護を拒ま

<四九>

ざりき。日本は尚ほ未だ千八百六十八年十二月十一日の聖比得堡宣言に加盟せずと雖も、無用苦痛を醸すべき兵器使用することを避け、又敢て抵抗せざる住民の身體財産保護することに頗る注意を加へたり。日本は孰れの他の國民も未だ會て為さゞる所を為せり。其の仁愛主義を行ふに熱心なる、遂に不幸なる敵地住民租税を免じ、無代償にて之れを給養するに至れり。兵馬倥偬の間に於いても人命を重んずること極めて厚く、凡そ生霊を救助するの策は擧げて行はざる無し。見るべし日本軍の通過する所必ず衛生法を守らしむるの規則を布きたるを、云々。

日清戦役にては敵軍は全然國際法を守らざるが故に、我軍にても之れを守るの義務無かりしも、然も四十餘年前に完全に之れを守つて先進國を驚嘆せしめた。日露戦役當時は海牙の平和條約調印後なりしが故に、陸戦法規を守るべき義務ありしも、尚ほ宣戦の詔勅中にも「國際法の範囲内に於いて一切の手段を盡し違算なからしむることを期せよ」と宣せられ、参謀総長は訓令を發して戦規遵奉の趣旨を周知せしめ、更に前期の如く各軍司令部に國際法顧問を配属せしめた。戦役中特別任務を以て米國派遣せられた法学博士男爵金子太郎氏が歸朝の後國際法学会にて為したる演説中に左の要旨の一説がある。

米國人は事實の真相調査せず、動もすれば國際法違反を称するを以て之れに対する材料蒐集中、新聞紙上にて我が第一軍乃至第四軍に國際公法専攻の学者二名宛を配属し、陸戦の法規解釈其の適用参謀部に於いて國際法専攻の学士協議せしめ、公法違反を生ぜしめざることを發見せり。是に於いて各種の集会に於ける演説或は新聞記者との会見に於いて余は毎に「米國人は國際公法提唱日本政府の決心は露國は大國なり腕力於いては或は露國は日本に勝るならん、貴國人が露西亞の聲を聞き戦慄す

<五〇>

る程の大國なれば、日本も恐れざるに非ず、然し國家の危急存亡に代えられざれば全滅を賭して最後の一人まで戦ふにあり、而して此の戦争日本が國際法を破りしことあらば世界歴史汚名を遺すが故に假令戦に敗るるも國際法は遵奉する決心にて現に此の如く専門学者が各軍に配属せられあり、故に余は日本軍に國際法違反無きを保證す」と説明せるに、此の説は次第に傅播して後には日本同情者が各所にて演説等をなす時、日本軍が國際公法家を二名づつ従軍せしめたる事實を述ぶる毎に非常に喝采を博したり。又エールハーバード等の米國國際法大家と会見せる際彼等は各國共に今度日本が外國との戦争に國際法学者従軍性せしめたる如き前例なし、将来日本の新例に倣ふべきことにして、右は一進歩を陸戦の法規に與へたるものなりとして大いに称賛したり。之れ實に日本陸軍の今回の處置は文明國の真價を世界に示したるものと謂ふべし。云々。

 世界大戦の時は、青島攻撃軍に嘗て筆者と共に日露戦役当時第三軍に在勤したる兵藤氏従軍したるを聞きしも、其の職名を詳かにせず。又浦鹽派遣軍には主として外交官をもつ組織したる政務部を置いた。此の政務部は主として外交方面事務従事したるも、亦國際公法適用に關して其の権威たりしは勿論である(筆者も數ヶ月間此の政務部に派遣されて居つた。)

 過去に於ける皇軍の行動は實に右の如く最も鮮かであり、所謂花も實もある武士的行動であつた。斯かる傳統的名誉を有する行軍の行動は今回の事變に際しても決して差異あるべき筈は無い。理論上事變は國際戦争に非ざるの故を以て、節制無き行動に出づるが如きは想像だに及ばざるところである

 唯だ、陸戦法規適用に關し、茲に疑問の生ずるは領土性質である。假りに之れを中華民國

<五一>

領土なりとせば、國交断絶を来さず単に事變たる間は、未だ之れを敵國領土と称するを得ざるが故に、出征軍は如何なる程度に其の権力行使すべきか、又南京政府官吏は既に逃亡し、地方民衆自ら自治政権樹立したりとせば、國家として列國の承認無きも、戦闘地域を其の領土として取り扱ふべきか等の問題である

 宣戦の布告により事變が變じて日支戦争となりたる場合於いて北支一帯が依然として中華民國の領土なりとせば、問題は至つて簡単にして、我軍は之れを支配して軍政施行治安を維持するのみである。然れども事變として繼續中及び新政府領土となりし場合には、其の地域行使すべき軍の権力に多少の差異あるべきは明らかである

 日露戦役の際は戦闘地域性質を異にする三種類の領土があつた。即ち樺太の如き完全なる敵國領土遼東半島及び東清鐡道沿線附属地の如き敵國の租借地と、満州一帯の如き第三國の領土があつた。樺太に關しては完全に我が占領軍権力行使したるは勿論なるも、租借地に關しては租借権其物の性質すら学者間に議論一定せず、如何なる原則に基きて之れを占領すべきかは問題であつた。筆者は遼東半島上陸直ちに此の問題に直面し、又間も無く着手したるダルニー(大連)の整理に際して実際問題に逢着した(拙著日露戦役國際公法第二章三章)。又当時諸國は局外中立宣言したるも、遼東以東は之れを除外し日露両國の戦場たらしめるが故に、所謂喧實奪主の観ありて、交戦國は任意に此の地域活動したるも、其の権力講師には純然たる敵地占領とは自ら異なるものがあつた。

 今回の北支事變に於いても、其の交戦地域領土性質曖昧なるに於いては、日露戦役当時の先例を参

<五二>

考にして之れに善処し、然も恩威併行、皇風をして六合に洽からしむるの用意あるを要す。

 従来北支方面は日・満・支に微妙なる關係を有し、外交政治に極めて複雑なる舞臺であり、事變の原因も一部は其処に在つた。故に平和克復の後は雨降って地固まり、明朗なる新天地を現出して再び颱雨の發生地たること無からしめねばならぬ。従って陸戦法規適用に当たりても緩急宜しきを制し、傍ら戦後政治工作に關する其の地均しの役目を引受lくるを必要と考へられる。固より事變であり、戦争であるに拘らず、我が武士道の精神と殆んど一致する陸戦法規は完全に適用せらるゝは疑ひなきも、其の間事に輕重あり、絶大の権力を有する軍司令官禁止事項の外は自由裁量余地あるかは明かである

 陸戦法規の條項を北支事情と敵軍の素質に対照して一々之れを論究するは、紙面の許さゞるところなるにより、筆者が茲に希望するところを一言に表示すれば、過去の二大戦役にて、克く陸戦法規を遵守して皇軍名誉を輝かしたる如く、此の事變に於いてもこの點に注意を拂ひ、更に占領住民に対しては軍律を厳重にし軍政に寛仁にすべしと謂ふのである

 凡そ遣外軍隊は一地方を占據すると同時に、軍隊安全作戦動作の便益を図るが為めに、無限権力を有するが故に、軍司令官は其の占據地域内に軍律を發布して住民に遵由するところを知らしめ、軍隊安全作戦動作の便益を害する者には厳罰を以て之れに蒞み、同時に一般安寧秩序を保持し良民をして安んじて其の生業従事せしめねばならぬ。固より戦闘に關係なき事項は其の地従来の法規により、其の地方官吏をしてその政務に当たらしめ、以て安寧秩序回復維持瀬しむるを便宜とするも、事苟も軍隊の安危に關するものは最も厳重に之れを取締らざる可からず。假令ば一人の間諜は或は全軍の死命を制し得べく、一條の

<五三>

軍用電線の切断は為めに戦勝の機を逸せしめ得るのである。故に軍司令官は此等の危害を豫防する手段として、其の有する無限権力を以て此等の犯罪者厳罰に處し、以て一般を警めねばならぬ。故に豫め禁止事項と其の制裁とを規定したる軍律を一般公布し、占據地内の住民に之れを周知せしむる必要がある。日清戦役の際は大本営より「占領人民處分令」を發布して一般に之れを適用した。日露戦役の際は統一的の軍律を發布せず、唯だ満州総司令官は鐡道保護に關する告諭を發したるのみにて各軍の自由に任せた。故に各軍區々に亘り第一軍にては軍律の成案ありしも之れを發布せず、単に主義方針として参考にするに止め、第二軍には成案なく、第三軍にては確定案を作成したるもの司令部より統一的軍律の發布あるを待ち遂に之れを公布するの機を失し、遼東守備軍は第三軍の軍律を参照して軍律を制定發布したりしが、後遼東兵站監は之れを改正して公布した。旅順要塞司令部特に詳細なる規定を發布し、旅順海軍鎮守府別に軍律を發布し、第四軍にては一旦之れを發布したるも後に之れを中止し、その他韓國駐剳軍、及び樺太軍は各々軍律を發布した。

 軍律に規定すべき條項は其の地方の状況によりて必ずしも劃一なるを必要とせざるも、大凡を左の所為ありたるもの死刑に處すると原則とすべきである

一、間諜を為し及び之れを幇助したる者

二、通信交通機關を破壊したる者

三、兵器弾薬其他の軍需物件を掠奪破壊したる者

四、敵兵を誘導し、又は之れを蔵匿したる者

<五四>

五、我が軍軍人故意に迷導したる者

六、一定軍服又は徴章を着せず、又は公然武器を執らずして我軍に抗敵する者(假令ば便衣隊の如き者)

七、軍隊飲料水を汚毒し、又軍用井戸水道破壊したる者

八、我が軍軍馬殺傷したる者

九、俘虜を奪取し或は逃走せしめ若くは隠匿したる者

十、職場於いて死傷者病者の所持品を掠奪したる者

十一、彼我軍隊の遺棄したる兵器弾薬其他の軍需品を破壊し又横領したる者

 而して此等の犯罪者を處罰するには必ず軍事裁判に附して其の判決に依らざるべからず。何となれば、殺伐なる戦地於いては動もすれば人命を輕んじ、惹いて良民冤罪を蒙らしむることがあるが為めである。軍律の適用は峻厳なるを以て、一面にては特に誤判無きを期せねばならぬ。而して其の裁判機関は軍司令官臨時に任命する判士を以て組織する軍事法廷にて可なりである

 帝國政府が屢々聲明する如く、我國は決して北支侵略して我が領土なすが如き意圖を有せざるも、今回の事變によりて北平天津地方より支那軍隊駆逐し、現に事實上その地方を占據し、戦局の進展に伴日、占據地域を拡大しつゝある。而して此の地方住民自治政権樹立したるとするも、我軍の支援無くしては一日も安定し得ざるは明かである。故に如何なる外交辞令を用ゆと雖も、此の地方一時的にもせよ事實上我軍の占領である。勿論日支両軍衝突の一時的現象に止まり永久に之れを占領するの意思無きが故に此

<五五>

占領は九國條約に牴觸するものに非ずと信ずる。

 我軍が一時的なりとも北支地方占領したる以上は、我軍は其の地方の人心を鎮撫して Permalink | 記事への反応(1) | 11:41

2021-01-26

anond:20210126012231

皆さん騙されてはいけません。

私も西軍が勝った世界線に住んでいますが、元記事歴史修正主義者が書いた悪質なプロバガン増田です。

順を追って訂正していきます


その後関東には何人か大名が移り住んだが誰も定着せず荒れ野のまま。

関東なんて今もほとんど人が住んでいないド田舎の話は誰も興味がないと思うので話を元に戻す


後述しますが、冒頭から近世日本の歴史観の中で最も悪質なミスリードです。

大名は「定着せず」ではなく「定着させなかった」が正確ですし、「関東なんて今もほとんど人が住んでいないド田舎」は極めて恣意的表現になります


戦争が起こらず、外国との交易も進み商業が発展していったので時代遅れ武士は次第に消えていった。その代わりに交易利益を上げた大名が豊臣を中心に貴族化していく。


この部分はある意味で正しいですが、重要事実が省かれています。確かに日本列島内での大名間の大きな争いは起きませんでしたが、関ヶ原後の豊臣氏はかつて秀吉が行った朝鮮出兵を再開したのです。

石田三成が中心になって行われたこ出兵、いわゆる「元和の唐入り」は簡単に言ってしまえば外敵を作ることによる諸大名の結束を図るものでしたが、結果として成功を収めてしまます

朝鮮半島支配下に置いた豊臣政権は、万暦の三大征で国力を失っていた明との間に戦わずして講和条約を結びます。その後朝鮮半島現在に至るまで日本領地となっており、そのため元和の唐入り対外戦争ではないという風潮(沖縄北海道みたいな扱い)が強いのは事実ですが、現代人に都合のいい歴史観ではないかという議論存在します。

こうしてアジア大陸進出した日本が当時の国際貿易において強い存在感を発揮し商業により発展していくのも事実ですが、ここでも重要な部分の言及が省かれていますキリシタン大名南蛮豪商存在です。

当初は秀吉バテレン追放令を引き継ぐ動きを見せていた豊臣政権ですが、交易重要性が増すにつれてキリスト教宣教師活動制限することに無理が生じていきます。またこの頃、日本での貿易事業で一旗揚げようとポルトガルスペインから移住してきた事業家、いわゆる南蛮豪商が急増したことキリスト教信仰の活発化につながっていきます

政権はなし崩し的にキリスト教を認めていくことになりますが、そうした流れで力を付けていくのがキリシタン大名です。彼らは表立って政権や4大大名権力争いをすることはありませんでしたが、着実に海外とのコネクションを強めていき、国内キリスト教勢力の強固な後ろ盾となります


武士がいなくなっていくにつれて神道儒教は消えていった。後述のように、近隣のアジア諸国でも儒教は消えていった。今でも神社の残骸のようなものは残っているが参拝する人は誰もいない


冒頭の部分にも関係して、ここも悪質なミスリードです。たしか武士消滅神道儒教の衰退は同時期に発生しましたが、そもそもこの2つ事柄に直接の因果関係はありません。

しかしこれらが同時に発生したのには明確な同一の原因があります。それが前述したキリシタン勢力の台頭なのです。

政権貿易政策キリスト教容認に対して、元よりキリスト教対立していた朝廷はもちろん、元東軍を中心とする従来の武家社会に重きを置く大名勢力は当然反感を高めていました。これは感情的な部分だけではなく、元西軍派が中心となった貿易事業利益享受できなかったという側面もあります

そんな中、細川家、井伊家を中心として天皇を旗印に政権を打倒しようとする動きが見られるようになり、寛文になる頃には挙兵寸前まで緊張感が高まっていたと言われますしかし、そのタイミングで寛文近江若狭地震が発生し、天皇の住む京都も大きく被害を受け、挙兵どころではなくなってしまます

それに対してすかさず政権が取った対応は、表向き地震被害から避難理由にした江戸への遷都(寛文の遷都)でした。遷都といっても移ったのは天皇住まい形式上朝廷機能だけで、政権機能大阪を中心とした関西圏に残ったまま…つまり政権は目の上の単瘤だった朝廷を体よく遠ざけた形になります。元東軍はこれに乗じて江戸に集結・再度の挙兵を試みますが、キリシタン大名による牽制南蛮豪商による経済的妨害もあり叶うことはありませんでした。この頃から旧来の武家勢力神道信仰は急激に衰退していくことになります

ではこれで豊臣政権キリシタン勢力の共同支配は盤石のものになったかといえばそういうわけでもありません。形式上の都である江戸やその近辺の関東では都野伏(みやこのぶせり)、隠れ神道といった形で反南蛮勢力が生き残りつづけます。そして18世紀入ってしばらくした頃、天皇不可侵元首とする「大和帝国」として独立を果たします。その後も色々ありましたが、現代において大和帝国はの国際社会にも認められた独立国家となっています。そういう背景がありますので、現代日本領土として残っている関東地方には「ほとんど人が住んでいないド田舎」という表現が当てはまりますが、関ヶ原当時の関東地方の大部分は現代においては大和帝国領土となりますので、そこを隠すのは悪質で不誠実な表現であると言わざるを得ません。

他にも訂正が必要な部分はありますが、長くなってしまったので今回はこの辺にしておきます

東軍世界線みなさんは西日本人の悪質なプロバガンダには騙されないように気をつけてください。

2020-12-06

日本競馬史上の重要事件並びに記憶されるべき事件(画期となる出来事) 1854-1980

https://anond.hatelabo.jp/20201219095651

出来事

1854 日米和親条約締結、下田函館開港

1856 日米修好通商条約締結

1859 函館横浜長崎開港

1860 横浜外国人居留地において、競馬が行われる(居留地競馬

1867 大政奉還王政復古

1868 明治改元戊辰戦争開始

1869 戊辰戦争終了

1870 東京招魂社(現・靖国神社)において、初めて洋式競馬が行われる(招魂社競馬1898年まで)

1874 台湾出兵

1877 西南戦争開始~終了

1894 日清戦争開始

1895 日清戦争終了/馬匹調査会設置

1904 日露戦争開始/臨時馬制調査委員会設置

1905 日露戦争終了

 桂太郎内閣による馬券発売の公認(黙許)(公認競馬中央競馬ルーツ

 馬政第一計画の制定(第一期:1906年1923年、第二期:1924年1935年

 帝室御賞典(横浜)創設(当初の名称皇帝陛下御賞盃)

1906 内閣総理大臣直轄の機関として馬政局が設置される

 帝室御賞典(東京)創設

1907 小岩井農場種牡馬インタグリオーと20頭の繁殖牝馬小岩井農場の基礎輸入牝馬)をイギリスより輸入する

1908 馬券発売の禁止馬券禁止時代の始まり

1909 ウラジオストックにおいて日露競馬会が行われる

1910 韓国併合

 馬政局陸軍省外局となる

 改正競馬規程(閣令)を根拠として、産牛馬組合による競馬が開催されるようになる(地方競馬ルーツ

 主要競走に騸馬(せん馬)が出走不可に。芦毛、月毛、河原毛が出走不可に(毛色の制限1928年まで)

 帝室御賞典(阪神)創設

1911 優勝内国産馬連合競走(連合二哩)創設(ラングトンが第1回の勝馬となる)

1912 大正改元

 宮崎競馬場において、商品券付き勝馬投票実施される(事実上馬券)。1914年までに全ての競馬倶楽部実施するようになる

1914 第一次世界大戦開始

1918 第一次世界大戦終了/シベリア出兵1922年まで)

1922 帝室御賞典(札幌)創設(1937年秋まで。1922年1924年は春のみ。1925年1937年は秋のみ)

 帝室御賞典(福島)創設(春のみ。1922年春~1937年春)。帝室御賞典(函館)創設(秋のみ。1922年秋~1936年秋)

1923 関東大震災/旧競馬法制定(馬券発売再開)/馬政局廃止

 帝室御賞典(函館)創設(春のみ。1923年春~1937年春)。特殊ハンデキャップ競走創設

1925 濠抽混合創設(当初の名称は各内国抽籤濠州産馬混合競走。1932年より目黒記念

1926 昭和改元

 下総御料牧場が2頭の繁殖牝馬(種正・稙道)をアメリカより輸入する

1928 横浜特別創設(1943年秋まで)/連合二哩(牝馬)創設(1928春~1941秋)

1931 満州事変

 下総御料牧場が3頭の繁殖牝馬(星旗・星若・星友)をアメリカより輸入する

1932 東京優駿創設(1950年より「日本ダービー」の副称が付く。ワカタカが第1回の勝馬となる)

 下総御料牧場が3頭の繁殖牝馬(星濱・星谷・星富)をアメリカより輸入する

1934 中山大障害創設

1936 二・二六事件

 旧競馬改正

 馬政局再設置/馬政第二次計画実施1945年まで)

 各地の競馬倶楽部統合し、日本競馬会発足

1937 日中戦争開始

 天皇賞(帝室御賞典)創設(連合二哩並びに各競馬倶楽部で行われていた帝室御賞典を統合。当初秋2600m、春2700mで施行され、第3回から春秋共に3200mで施行ハツピーマイト(ハッピーマイト)が第1回(1937年秋・東京)、ハセパークが第2回(1938年春・阪神)の勝馬となる)

 連合二哩はこの年限りで廃止。各地の帝室御賞典はこの年春限りで廃止

 ヒサトモ牝馬として初の東京優駿制覇

1938 軍馬資源保護法制

 菊花賞京都農林省賞典四歳呼馬)、優駿牝馬オークス)(阪神優駿牝馬)創設

 ヒサトモ牝馬として初の天皇賞(帝室御賞典)制覇

1939 皐月賞横浜農林省賞典四歳呼馬)、桜花賞中山四歳牝馬特別)創設(五大クラシック競走が成立)

1941 太平洋戦争開始/セントライトが初のクラシック三冠を達成

1943 クリフジクラシック三冠(変則)を達成

1944 競馬開催の一時停止。この年の競馬能力検定競走として施行される(戦前競馬はこの年限りで終了)

1945 太平洋戦争日中戦争終了/日本占領/馬政局廃止

1946 競馬再開/地方競馬法制

1947 天皇賞再開(この年春は「平和賞」の名称施行

1948 新競馬法制定。日本競馬解散国営競馬時代の開始

 2歳(旧3歳)競走が競走体系に加わる

1949 朝日杯3歳ステークス1991年から牡馬及び騸馬(せん馬限定レースとなる。現・朝日杯フューチュリティステークス)創設

 阪神3歳ステークス(1991年から阪神3歳牝馬ステークスとして牝馬限定レースとなる。現・阪神ジュベナイルフィリーズ)創設

1951 中央競馬における重勝馬券の発売(1961年廃止

 トキノミノルが無敗で二冠を達成

1952 日本独立占領時代の終了)

1954 高度経済成長の開始(1973年まで)

 日本中央競馬会(略称1986年までNCK。1987年からJRA)発足(国営競馬時代の終了)

 啓衆社(競馬予想紙を発行)が啓衆賞を設け、各年に活躍した競走馬表彰することを始める(1972年から優駿』(日本中央競馬会の機関紙)の主催による優駿賞、1987年から日本中央競馬会の主催によるJRA賞となる。最初年度代表馬ハクリヨウ(ハクリョウ))

1955 日本中央競馬会が英国ジョッキークラブとの間に騎手に対する制裁相互実施協定を締結する(国際交流の始まり

 東京大賞典(秋の鞍)創設

1958 ハクチカラ戦後日本調教馬として、初めて海外遠征する

1956 有馬記念中山グランプリ)創設(メイヂヒカリが第1回の勝馬となる。八大競走成立)

1962 日本中央競馬会が優駿誌上でフリーハンデ公表

1963 中央競馬において8枠制が導入される

 メイズイとリユウフオーレル(リュウフォーレル)の2頭が年度代表馬に選出される

1964 東京オリンピック。東海道新幹線開業

 シンザン戦後初のクラシック三冠を達成

1965 シンザン天皇賞秋・有馬記念を制覇し、五冠を達成(当時牡馬が出走できる大レースを全て制覇)

 シンザンが2年連続年度代表馬に選出される

1967 栗東トレーニングセンター開場

1968 中央競馬における繋駕速歩競走はこの年限りで廃止される

1969 競走馬輸入自由化

1970 大阪万博

 スピードシンボリが初めて有馬記念を連覇し、1967年以来2度目の年度代表馬に選出される

 競馬ブックより「合同フリーハンデ」が発表される

1971 ニクソン・ショック

 地方競馬における繋駕速歩競走はこの年限りで廃止される

 貿易自由化に伴い国内生産者への保護政策実施されたことにより、持込馬有馬記念を除く八大競走への出走権を失う

 トウメイ天皇賞秋・有馬記念と連勝し、牝馬として初の年度代表馬に選出される

1972 沖縄返還

 地方競馬における騎乗速歩競走はこの年限りで廃止される(中央競馬では戦前限り廃止

1973 第1次オイルショック高度経済成長の終了)

 ハイセイコー中央競馬移籍し、好成績を挙げ、国民的人気を集める(1974年有馬記念2着(勝馬タニノチカラ)を最後引退

1974 単枠指定制度の導入(1991年10月5日廃止最初指定馬は同年の皐月賞におけるキタノカチドキ最後指定馬は1991年セントライト記念におけるレオダーバン

1977 テンポイント有馬記念トウショウボーイとのマッチレースを制し、年度代表馬に選出される(3着はグリーングラス

1978 美浦トレーニングセンター開場

2020-09-13

anond:20200913091840

戦争に女が兵士として出兵してる世界

毎月使い物にならない日がある兵士とかどうなんだろな

2020-08-15

日中戦争従軍した祖父

過去記憶を頼りに書いているため、情報の正確性を保証できません。それを了承の上でお読みください。

前置きを飛ばしたい場合引用ブロック部分へ

今は亡き私の祖父は、日本軍兵士として末期の日中戦争従軍した。

10年前、祖父は私にその時の詳細を一度だけ語った。

第二次世界大戦が終わって75年、その話を自分記憶がこれ以上劣化しないうちに書き留めておく。

祖父1920年12月まれ1944年頃〜1945年従軍体験を語った当時90歳(認知機能正常)

・私 …1990年まれ、話を聞いた当時21歳

私は幼い頃から祖父中国戦争に行ったことを知っていた。

しかしそれ以上のことは何も知らないままだった。

大学2年のGW、私は両親、妹と共に父方の祖父母宅へ遊びに行った。

祖母と母が台所食事の片付けをし、祖父、父、妹、私が居間で団欒していたその時だった。

祖父が何の前置きもなく、そして極めて淡々と、幼少期から戦争体験を語り出した。


祖父淡路島の山深い農村で生まれた(長男ではない)。

高等小学校卒業後、街の酒屋で奉公した。

将来なりたい職業兵隊だった。

こんな田舎の子供でも「兵隊になる」と思わせる学校教育がなされていた。

奉公が終わった祖父本州民間企業就職した。

そして、徴集がかかった(徴兵検査1921年春?)。

戦地へ赴くよう命令されるまでは、日本国内で訓練を受ける。

兵隊には任期があり、その任期を過ぎると、戦場へ行かなくても良くなる。

任期陸軍・常備兵役現役の2年間?)

祖父任期満了の直前に「中国・石家荘」への出兵命令を受けた。

祖父の話しぶりからは、小学生頃は兵士に本気でなりたいと思っていたが、

いざ徴集される段階になってからは、出兵せずの任期満了を願っていたように感じられた。

ちなみに祖父JR国鉄と呼ぶノリで、中国全体を「満洲」と呼んでいた。

そのため私は石家荘を旧満洲国の都市勘違いしていた。


祖父日本から中国沿岸部まで船で移動し、その後陸路にて石家荘に到着した。

石家荘で祖父はある鉄道の警備を任された。

この鉄道を走る汽車日本軍の物資を運んでおり、これを中国側に妨害される恐れがある。

そのため駅だけではなく途中の線路も警備する必要があり、

祖父担当箇所は山あい農村に近い線路であった。

日本軍は農村占拠し、逃げ遅れたり抵抗した現地の民間人捕虜として捕らえ、使役していた。

しか日本軍に捕まっていない現地人もいて、

彼らが日本軍を襲ってくることがあった。

祖父は彼らに応戦し、山中を駆けずり回った。

当然ながら地の利日本軍より現地人にある。

それに山は樹木で覆われ視界が悪く、敵の姿が見えず、どこから襲ってくるかがわかりにくい。

彼らは銃を含む武器を持っており、しか自分たちの生活基盤を取り戻すべく必死こちらに向かってくる。

木と木の間からは、壮大な万里の長城が見えた。

祖父が戦ったのは民間人のみだったのか、民間人擬態した軍人だったのか、それとも両者混ざっていたのか」

という、かなり重要情報が私の記憶から抜け落ちてしまっている。


ある日、祖父は仲間達と共に銃の撃ち合いをしていた。

もちろん敵から銃弾自分達に向かって飛んでくる(祖父は「プププププッ」という効果音と共に

親指と人差し指でつまむようなポーズをとり、右から左に水平に移動させることで弾道を表現した)。

その時、横にいた年上の兵隊に弾が命中し、彼は息絶えた。

そしてその後、祖父の片脚にも弾が当たった。

祖父は山の中を担架で野戦病院へと運ばれた。

運んだのは、中国人の捕虜達だった。

銃創のでき方によっては、当時の医療技術では脚を切断しなければならなかった。

しか祖父場合銃弾は膝上を貫通しており、脚の切断は免れた。

ただ、祖父の傷の縫合は無麻酔で行われ、激痛が伴った。

祖父野戦病院入院している間、祖父のいた部隊中国側の総攻撃に遭った。

結果、部隊の多くの兵士犠牲となった。

祖父は小柄で屈強ではないため、戦友会では「あの時入院していなかったらお前も死んでいただろう」とよく言われたという。

祖父はその後、1945年8月15日太平洋戦争終戦」を現地で迎えた。

一ヶ月後に日中戦争終結したが、他の任務があったらしく、

祖父帰国は1945〜1946年の冬頃となった。

この部分を聞いた時、私は色々なショックを受けた。

戦争リアル、穏やかでニコニコしている「おじいちゃん」の抱える痛み、そして父や自分誕生紙一重だったということ。

私は祖父の膝上・その裏の傷跡をこの時初めて認識した。


祖父による戦争体験の話には後日談がある。

実は、祖父は膝上の銃弾貫通と同時に片足の小指を失っていた。

このことは、祖父葬儀喪主の伯父(祖父長男)が挨拶の場で初めて語った。

喪主挨拶では他にも、祖父が夜中に大声を出して飛び起きていた(のを幼き日の伯父が目撃した)ことが明かされた。

祖父戦地体験を引き金としたPTSD発症していた可能性がある。

これらの話を祖父がすることはなかったし、裸足の祖父を何度も見ているはずなのに、指が無いことに全く気がつかなかった。

銃弾効果音まぬけさといい、「自分中国人を撃った」経験を話さなかったことといい、

祖父の語りは孫娘用にかなりマイルドになされていたに違いない。

祖父がなぜあのタイミング戦争体験を孫に話したのか、その意図を聞くことはもうできない。

話に圧倒されてしまい、また深堀りを戸惑ってしまい、曖昧情報確認や疑問の解決ほとんどできなかった。

90歳で突如戦争体験を語った3年後、祖父は93歳で他界した。

2020-08-12

anond:20200811170757

西(南)側勝利

神武東征(日向挙兵して大和征服する)

壬申の乱吉野挙兵して近江朝廷を倒す)

元弘の乱山城大和河内などで挙兵して鎌倉幕府を倒す)

山崎の戦い備中から駆け戻って天王山明智光秀を倒す)

賤ヶ岳の戦い(京から出兵して越前から出てきた柴田勝家を倒す)

戊辰戦争薩長挙兵して江戸幕府を倒す)

東(北)側勝利

・治承寿永の乱(伊豆挙兵して京の平氏を倒す)

承久の乱鎌倉から出兵して京の上皇を倒す)

関ヶ原の戦い会津征伐から反転して大坂西軍関ヶ原で破る)

大坂の陣(江戸から出兵して大坂城を落とす)

それ以外(挙兵場所勝敗曖昧

建武の乱(鎌倉挙兵したが一旦敗れて九州で再起)

応仁の乱(ぐだぐだのまま和睦して決着つかず)

小牧長久手の戦い(戦術レベルでは東、戦略レベルでは西が勝利

こんなところじゃねえの。

少なくとも一方的東側が勝ってるとは言い難いわな。

2020-06-26

anond:20170809013919

メモ感想

.

>なぜ立ち止まれなかったのかを考える材料提供してほしい。

加藤陽子の本(『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』等)が参考になるかも

.

>そりゃ大きく変わったのは事実だけど、ずっと前から変わっていたんじゃねーの?

そのへんを考えると、日露戦争終結あたりから歴史を見ていった方が良さそうだな

他のコメントブックマーク含む)を参照してみると、結節(ターニングポイント)としては例えば、以下が挙げられるようだ

開国ペリー来航)

征韓論

台湾出兵

日清戦争

日露戦争

シベリア出兵

世界恐慌

満州事変

・五一五事件

盧溝橋事件

・第二次上海事変

トラウトマン工作

.

>ここから既に国内人材物資徴発が始まっていたわけで、いわゆる戦時下体制内閣は挙国一致内閣

マスコミは1937~1941年もっとスポットあてるべき。

1940年体制』(野口悠紀雄)ってやつかな?

.

https://b.hatena.ne.jp/entry/s/anond.hatelabo.jp/20170809013919

ブックマークコメントで、

>それを言ったらペリーが来たときから

日中戦争満州事変帰結で、満州事変日露戦争ロシア革命辛亥革命の延長線上にあり、日露戦争日清戦争維新の不平士族征韓論が背景にあり、維新関ヶ原の… つまり卑弥呼黒幕だったんだよ!

とある

こういうような考え方をして、信長時代から維新まで歴史を説き起こしたのが徳富蘇峰近世日本国民史』だったような気がするな(ふと思い出した)

.

anond:20170809013919

まあ、日中戦争だけなら、日本民間人ほとんど死なずに済んだわけで

先の戦争日本をめちゃくちゃにされた悲惨戦争、という文脈なら、対米戦争だけしか見ないのは仕方ないかもね

日本対外政策の腐りっぷりは、第一次世界大戦から後、シベリア出兵山東出兵張作霖爆殺とずっと続いて

日中戦争もその延長上って感じだからなあ

2020-01-06

出兵世代の俺が戦争に思いを馳せて

戦争が起こりそうです。まさか自分が生きている時に第三次世界大戦現実味を帯びるとは考えていませんでした。

自分は今21歳。まさに出兵世代です。おそらく徴兵制がこの国に導入されたとしたら、出兵することになるのでしょう。

よく友人と、「出兵するか、足を切って逃れるかどちらを選ぶ?」という話をします。大変不謹慎なのかもしれませんが。

そうするといろんな意見が出ます。「国のために出兵する」「敗北して屈辱を味わうのなら死んだほうがまし」「足を切って逃れたい」

私達世代には戦争とはそのようなものだと思います

平和平和平和戦争反対、戦争反対、戦争反対。そういう声でしか教育されてこなかった私達には戦争は逆に現実からかけ離れたものです。

しろ、自らの国を被虐的に見てきた教育は、敗北の屈辱を私達世代押し付けてきたのかもしれません。

かくいう私もこの国を守るためなら喜んで出兵します。

誤った愛国心だと言う人もいるかもしれません。あなたが人を殺すことになるんだと非難する人もいるでしょう。

それでも私は、この国という形と国に住む多くの大切な人のために盾になることもあるでしょう。

からこそ、願います。決して無駄な命が消えていかないように。

今一度戦争について、この国について、愛国心について考える時期ではないでしょうか。

中身ない戦争反対は、何も生まないことを知るべきです。

2019-08-20

戦争してもいいぞ日本

さっきふと、「あ、戦争してもいいな」って思いついた。

戦争になったら、徴兵があるだろう。

徴兵されたら、衣食住は保証されるし。ごはんも食べられる。衣食住なら刑務所でもいいけど、刑務所前科ついちゃう。それは嫌だ。でも戦争なら勲章やらもらえる機会もあるしさ。少なくとも前科はない。

それに免許とか色々取れるんじゃないかな。戦車重機だし。

それに最悪、前線行方くらましたり、PTSDになったり、シェルショックになって病院に担ぎ込まれたりすると楽だし。

死ね家族に恩給出るかもしれないし。

刑務所で死んでもお金もらえないしね。

まぁ、生活にどんづまったわけだよ。

行き詰ったら兵士。これ鉄板

別に他国の人に恨みがあるわけでも、愛国心があるわけでもない。

でもこれはそろそろ戦争したいな。

戦地に行きたい。

まぁ大変なことは分かってるよ。俺も2本指ないし。ああいう痛みが日常にあるのだということをわかっている点では、これを読むあなたよりはよく想像しているよ。

とはいえ相手の国の人も大変なことになるのは辛い。

しかしあれだ。前の戦争の時も一般の人ってこういう感覚戦争行ったんじゃないかね。

兵士になれば白飯たらふく食えるってんで志願した人も多かったんだろ。

愛国心よりも飯よ。

で、まぁ戦地に行けばそれなりにムクムクと愛国心だとか使命感とか湧き上がってくるだろうしさ。部隊の人らと一体感を感じたり。それで飯が食えるならまぁ別に

もちろん日本はクソだから自衛隊の奴らとかがここぞとばかりにリトル牟田口みたいになって新参をイビりまくるんだろうけど、俺はそこそこガタイもいいし、動物的なコミュニケーションも苦にならないから向いてると思うんだよな。まぁ最悪、いじめの標的にはならないくらいの知恵と体力はある。

理想宇宙人とか地底人侵略してくることだけど、奴らを撃退しても金はもらえない気がするんだよな。文永弘安の役とか秀吉の明出兵みたいな感じで、石油とか資源とか領土を得られないと生活は苦しくなるだけだ。

いや待て、地底人なら領土増えるか。いきてえな、地底出兵テレスドンとかゴモラかいるのかもな。

靖国で会おう!」とか絶対面白いだろ。靖国とか知らねぇし行ったこともないけど、戦地の高揚感で俺は絶対言う自信あるよ。

めっちゃかっこいい遺書とか書くしな。そりゃ書くよ。腹は減っても脳内物質。ここぞとばかりに文例探しに精を出すよ俺は。

あれだよ、普段奥さんに何にも言わない奴が病気かになったらいきなり感謝手紙書くやつ。あれよ。

短歌とか詠んじゃうかもしれねぇ。やべぇな。飯も食えて短歌も詠めるんだぜ。半端じゃねぇよ戦争

まぁまじめな話をするとさ。

つまるところ戦争って無能な奴でもそれなりに名誉と一体感と成し遂げた感を得られるからすげぇシステムなわけよな。それが封印された現代はそりゃあもう鬱屈してくるわけでさ。モヤシ野郎が金稼いでウェヒヒやってるわけだし、ウェヒヒ野郎と俺とで最前線に出て平等に死のリスクさらしてほしいもんだ。

まぁ無理だな。

ウェヒヒ野郎はなんとしてでもリスク回避するし。政治屋どもはゴミカスだし。自衛隊野郎はイビるしか能がないしな。つーか当たり前だな。戦争を上手くやれるような能のあるやつらが舵取りしてりゃ、こんな史上最高の好景気なんて来ないわな。

リトル牟田口跳梁国家ジャパンにようこそってな。カモンベイビームタグチ。

牟田口もやべぇよな。余裕で現代でも通用する男だぞ。河辺も忘れちゃいけねぇ。河辺-牟田口の最強ラインに東條からの最凶指令が飛んでくるんだぞ。完全にやべぇな。

断言するが、牟田口が現代に転生するとめっちゃ出世するよ。むしろ森あたりが生まれ変わりかもしれねぇ。安倍河辺だな。

でもやっぱ森では役者不足だな。凄みが違う。森はゴルフだが牟田口は前線芸者遊びだからな。サラリーマンとしてのモノが違うわけよ。

一周回って牟田口が好きになってきている。やべぇ。

なんかかわいいだろ牟田口ってさ。目がしょぼしょぼしてて、まるで自信も能力もなさそうな小男。髪の毛はやして髭そったら普通サラリーマンだろ。

そんな小男が8万人だったか兵士殺戮した超将軍サラリーマン牟田口やべぇ。

ちょっと値段の張る車に乗ったら途端に態度でかくなるサラリーマンいるだろ。あれだよ。そいつ牟田口だ。

牟田口がそこら中にいる。昔も今もな。

適当上司を思い出してみろ。そいつ牟田口だ。髪の毛そって適度に太らして髭はやしてみろ。リトル牟田口の完成だぞ。

逮捕された宮崎(どっちの宮崎を思い出してもいい)な。あれも同じ画像処理すれば牟田口だぞ。ああいうのも牟田口になるんだよ。もちろん俺も、お前の上司も、お前もさ。

牟田口やべぇよ。エージェントスミスだよ。

全国の牟田口さんすみません

そろそろ「牟田口学」とか創設してデビル風見鶏・東條とか見つめ合うと素直におしゃべりできない河辺とかごく普通日本サラリーマン牟田口とかを徹底的に研究すべきじゃねえか。

まぁ話は逸れたな。

戦争なー。

まぁしたい気持ちとしたくない気持ちは半々だな。能動的な理由あんまりないんだよ。飯食えたり、人生リセット(電源落ちるかもな)したり、いろいろできるだろ。ゴミカス戦争責任でいなくなるかもしれんしな。

でもまぁリスクはあるよなぁ。相手の国の人に申し訳ないしな。

軽く考えてるように見えるけど、やるとなったら結構ガチでやっちゃうよ俺は。

というか否応なしにそうなるだろうな。高揚感と愛国心ブーストめっちゃかかるから、今じゃ考えられないほどシリアスになるだろう。

「昔の人は立派だった」なんてことは一切ないわけよ。その場にいれば誰だってそうなる。

ウェヒヒモヤシ野郎も女を抱いて金を稼ぎ始めたらいっぱしの哲学語り始めるだろ。あれと一緒だ。

戦争してみりゃわかる。みんなすごい立派に見えてきて、「たとえ負けても日本大丈夫だ」みたいにシリアスになるよ。そのシリアス空気と、飯が食える環境と、名誉が欲しいんだな俺は。

そして残念ながらこの現代社会ではこの3つは保証されない。

やはり俺は戦争したいな。

と言うわけで、表現言論の自由行使してみましたよ。

-------------------------

書いてみて思ったんだが、俺めっちゃ左翼だな。

ここまでキープレフトだと煽られることもないんじゃねえかってくらいに左翼だわ。

でも戦争はいから安心してくれ。同期の桜とかめっちゃ歌うよ。斉唱ちゃうよ。

2019-06-01

戦争は人の心を美しく研ぎ澄ます

日本会議とかネトウヨおっさんあたりが好きそうな話題に、「戦争は人の精神を崇高なものにする」というものがあるよね。

靖国で会おう」とか、知覧特攻隊とか。

戦争モノの創作も、そういう戦場で美しく散った人のことが多いようだし。

従軍慰安婦問題も本当はどうであったかはわからないけれども、そういう戦争が人を美しくしてくれる論者にとっては「日本人としてあってはならないこと(→だからやったのは中韓)」てことになってるし。

そういう話をしてるオッサン・オバハンたちを見てると正直すんごく鼻白むんだけど、そんなときに思い出すのが昔に読んだベトナム戦争出兵した作家さんのアメリカ小説短編で。

ざっくり説明すると、従軍中にやっぱり「戦場で起こるつらいことは人の心を美しくする」というふうに信じてた迷惑隊長がいたそうな。

そいつはわざわざ現地までの道順を悪路にしたり、重たい荷物を持たせたりして精神論をあれこれ語っていたという。

そんなときトコン(今は死語?)の隠れ家があるという情報があり、人の体一つ通れるかどうかという狭い穴を通っていかなければいけなくなる。

危険なので隊員は誰も行きたがらず、誰にするかうだうだもめているとその隊長がしびれをきらして自分が行くと言い出す。

行き際にも自分いか勇気があるかについてぶってから中に入っていくのだが、姿が見えなくなったと同時に一人が手りゅう弾を取り出してくる。

そこで隊員みんなに手りゅう弾を触らせて一周したところでうなずきあってピンを外して穴の中に投げ込んだ。

帰還してからは勇敢な隊長が一人で隠れ家に偵察に行き、そこでおしくも撃たれたと説明をした、という落ちだった。


その話が本当かどうかわからないけど、たぶん日本でも同じようなことしてたんじゃないかなあというような気がするし、今もそうしたいと思ってる職場とかあるんじゃないかなあと思ったりする。

2019-05-13

ババア非モテかいう謎

本当に男が求めてるのは、お母さんなわけ。

スナックママとかさ。

  

本当に男は辛いのよ、正面から社会というか、自然の厳しさ。

人間が苦しむことを神に決定ずけられているところで、兵士にならなきゃいけない。

  

そういう人間が求めるものは、奥さんからの安らぎだったり、子供とか。

  

だけど、現実は厳しい。頑張っても結婚できない、彼女ができない層がいる。自分がそうなんだけど。

そういう時に、じゃあ、キャバクラ行って、若いねーちゃん熟女キャバクラ?行くんだけどさ。

楽しくねーの。

そら、会話はあるよ。それはまあ欲しいけど。

違うのよ、マジでつまんねーの。

フランダースの犬とか、ムーミンとか、ルパン三世とか、下手したらナメック星が通じないの。

  

別にさ、サーストン幾何とか、フレアーコホモロジー理解しろとは言わないよ。そこまでの趣味は無理だと思う。

でもさ、共通見解というか、世界観というか。

自分の子供の頃は、洋物とかい海外エロが貴重扱いだったとか、

世代空気感」とかは、せめて共有したいのよ。

  

若者文化に合わせて、バンギャだの、リズリサだの、マイメロだの、あいみょんだの、賭ケグルイだの、勉強しますけどね。

でもさ、無理やり合わせても、それはさ、浅いのよ。

僕の知識も浅いし、女の子人生も浅い。

  

一方、スナックママ。会話面白いねえ。おじいさんが出兵した時の話とか聞いてね。

そういう事なんだよなー。

これは、若い子は一生かかっても共有できないところ。

  

普通は、結婚相手とそういうのやるのかもしれないけど、

結婚できないオッサンは、ババアを求めるけどねー。

まあ、優良ババアは、優良オッサンがとっくに妻としちゃってるけどねー。

2019-03-31

織田信長海外出兵臣下処分をもくろんだのを察知されて殺された

anond:20190331201029

平和時代になって武闘派集団不要になったか外国で死んでほしかったけど部下に察知されて逆に殺された

同類項なんだ

2019-02-01

anond:20190201021510

その回数へのこだわりが心底気持ち悪いんだけど、白村江と第二次世界大戦を同じ「一回」としてカウントすることが異常だと思わないなら手の施しようのない馬鹿だとしか言いようがない。

あと、日清戦争とか日露戦争とかシベリア出兵とか第一次世界大戦とか知ってる?

2018-11-06

anond:20181106155253

そりゃあ秀吉出兵倭寇時代の話まで現代法の論理責任追及されて当然なくらいだし、被害者にとって「済んだことだから」と言える日は永久に来ないんだよな。

生麦事件大津事件だってから蒸し返されても我が国反論する手段を持たないし、逆に元寇賠償責任モンゴルに求めることもできるわけだ。

しかし、ソ連による虐殺を訴え出る場合ロシアに訴え出るべきなんだろうか。

それともウクライナ

カザフスタン

ラトビア

古代マケドニア虐殺された小アジアの辺りの民の遺族はトルコ人と見なしていいのか、あとギリシャ現代マケドニアのどちらが賠償するのか。

世界史視野を持った国際裁判所確立が望まれる。

2018-09-20

[]プーと大人になった僕

プーと大人になった僕』を見てきたので感想。いつものごとくネタバレ気にしてないのでそういうの嫌な人は回避推奨。あらすじ解説とかもやる気ないので見た人向け。

総評

これは100点っすな。点数の基準は「上映時間映画料金を払ったコストに対して満足であるなら100点」なので、この100点は大傑作という意味ではない(300点とかありえる)んだけど、ごちそうさまでした、わしゃぁあ満足です。という意味で良作だというのはたしか。損しません。

まあ、家族向けとかカップル向けかと言えば、実はそんなことはなくて、一人で見に行けよおい、しか社会人がいけよ、っていうのはあるので万民向けとはいい難いんすけどね。この映画は、だって学生にはわからなさすぎでしょ。

ざっくりいうと「おとなになって社会人となり企業戦士として毎日ブラック労働をしているクリストファー・ロビン仕事家族の間で板挟み。人生迷子なっちゃったプーさんといっしょに正しい人生を探そう」みたいなあらすじ&テーマであって、それは予想通りだったし、そして予想を満たして十分以上な脚本完成度です。テーマ物語性(増田はここを中心として映画を見ちゃうタイプです。趣味合わない人は申し訳ない)でいえば、非常に満足でした。

がー。そのてんに関してはー。満足だったのでー、逆に満足であったがゆえにー。脇へうっちゃっておいてー。この映画のー。感想についてはー。別の部分をー。述べたいとー。おもいまーす。

ショタクリストファー・ロビンクリストファー・ロビンすぎてやばい

映画冒頭部分では、まだ「100エーカーの森」でくまのぷーさんと遊んでいた頃のクリストファー・ロビンショタ)が登場するんですが、もうね、これがね、非常にこうファビュラスっていうか尊いわけですよ。華奢な白人少年が四分丈の(日本で言う半ズボンよりは少し長いけど膝上の)ズボンから、少し筋張ったくらいの細っい脚をね。伸ばしてね。みどり豊かな森の中をバスケットを持って歩く姿がね。素晴らしいわけです。

わかりますか。美少年なんでございます

シーンはクリストファー・ロビンが寄宿学校へ向かうその直前。楽しく美しく永遠だと思われていた「森でのプーさんとの日々」が終わるちょうどその時。作中では「お別れをいう日(Day to say goodbye)」と描かれるその日なわけですよ。

クリストファー・ロビン楽しい田舎暮らしから、厳しく抑圧的な寄宿学校へ入らなきゃいけない。それは大人への第一歩で、もう今までのように日々をただ日々として楽しく過ごせる時間は終わってしまった。それをクリストファー・ロビン本人もわかってるんですよ。もう自分はゆったり時間を過ごせない、これから時間に追われて毎日何かをしなきゃいけない、大人になるからもう仕方ないんだって諦観してるんですよ。

その「子供としての最後の日」。100エーカーの森で、プーさんピグレットティーガーたち森の仲間でパーティーをして楽しく過ごしたその後、森を見下ろす高台丸太ベンチに座ったクリストファー・ロビンプーさんの二人は、こてんと肩を寄せ合い夕日に向かってずっと座ってるんですよ。

そこで「ぼくのことをわすれちゃうの?」と鼻にかかった声で尋ねるプーにたいして、ショタ大事なのでもう一度いう)美少年クリストファー・ロビンが、優しくて、それでいて困ったような表情で「プーのおばかさん」って言うんですよ。

ほんと。

尊い

わかるか人民どもこの尊さが? 「おばかさん」ですよ。もうね、水銀灯の牙城にいちどの跳躍で飛び込む偉大なシーンですよ。もちろん画面は映画でありフルカラーなわけですけれど、この夕暮れは追憶郷愁の甘さを伴ってセピアにさえ見えるわけですよ。つまり何がいいたいかって言うとクリストファー・ロビン尊い

イケオジクリストファー・ロビンクリストファー・ロビンすぎてやばい

あっという間に幼少期、少年期、青年期を過ごしたクリストファー・ロビン。寄宿学校で父の訃報に接して、社会に出て、将来妻になるべき女性イヴリン出会い求愛して結婚し、子供を作り、出兵(たぶん第二次世界大戦)して、なんとかロンドンに帰ってきて、就職して仕事に打ち込む中年になってるんですよ。

大企業カバン製造部門責任者となったクリストファー・ロビンは、会社上層部からこの部門効率化(予算削減)を求められていて、その要求は−20%。リストラ待ったなしの状況で、大事な部下を切り捨てるかどうかの瀬戸際の日々を送り、その結果として休日家族との時間も奪われているわけですよ。妻からは「もう何年も笑顔を見ていない」と言われ大事な娘のマデリから失望されて、でも、家族を守るために部門を守るために、家族旅行への参加をキャンセルしてまで働かなきゃならんわけです。

予定されてた旅行イヴリンとマデリンの妻子を送り出して、週末も缶詰仕事しなきゃと追い詰められたロンドンのアパルトメントのクリストファー・ロビンのもとになぜかプーさんが現れて助けを求める、というのがこの映画の第二の開幕です。

懐かしい友プー出会ったクリストファー・ロビンは彼の頼み(行方不明になってしまった仲間たちを探してほしい)を叶えるために(どっちかっていうと大都会ロンドンにおいては厄介なお荷物プーさんを森に帰すために)、郊外の美しい故郷に戻ろうとします。そこでプーさんクリストファー・ロビンは一緒に旅をするわけですけれど、相変わらずふわふわ夢みたいなことを言う(まあぬいぐるみなので当たり前だけど)プーさん脳天気っぷりに、時間黄金よりも貴重になってしまったブラックカンパニーソルジャーマシーンクリストファー・ロビンはいらつくわけですよ。プーさんベタベタはちみつで汚してしまった廊下掃除している間にも、刻一刻とリストラタイム期限が迫ってるわけで。「なにもしないをすればいい」とか「ゆっくりすればいい」とかいプーさん言動癪に障るのは、まあ、仕方ないです。

送り届けた「100エーカーの森」で、とうとうクリストファー・ロビンは切れちゃうわけっすね。

「ぼくはもう昔のぼくとは違う」とプーに突きつけてしまう。その時の表情がね、もうね、良い。

良いよね。

良い。

失意のぷーさんは「従業員を捨てなきゃならない(リストラ)」というクリストファー・ロビンに「もしかしてぼくも捨てたの?」と聞いちゃうわけです。

それに対してクリストファー・ロビンは「捨てたんだよ」と答える。

この時の表情も、良いのです。

「ソレ」をいっちゃったら相手が傷つく以上に自分も傷ついちゃうのを自覚していて、それでも言ってしまったクリストファー・ロビンの、ナイーヴな表情が尊いわけです。おっさんのくせに。イケオジつぇえな。

この時クリストファー・ロビンは「いいやプー特別友達から捨てるわけないじゃないか」と適当に言うこともできたわけです。でも、それは事実じゃないわけですよ。現実として30年以上プーさんを忘れていたわけだし、放置していたし、それは客観的にって捨てたと言われても当然なわけですよ。そういう現実を糊塗して「捨てるわけない」とクリストファー・ロビンは言えなかった。特別友達からこそ、そこで嘘はつけず、自分相手も傷つけるのなんてわかっていたけれど、「捨てたんだよ」と答えるしかなかったわけですよ。

40代になったクリストファー・ロビンはもうおっさんなわけですけれど、ロンドン紳士然としたイケオジなんですね。その彼がいろんな現実言葉を飲み込んで、意地っ張りにも露悪的な「捨てたんだ」って告げるそれが、もうね。

ほんと。

尊い

わかるか人民どもこの尊さが? 「捨てたんだ」ですよ。そんでもってさらに終盤になってね、途方に暮れて懺悔をするようにつぶやく「ぼく迷子なっちゃった」ですよ。いつも迷子になったプーさんを探しては連れ帰る、森の英雄だったショタロビンが、社会人になって人生迷子なっちゃったわけです。大事大事で何よりも大事な娘を守るために頑張ってるはずなのに当の娘にがっかりさせて心配させて、もう何が正しいんだかよくわからなくなっちゃったわけですよ。大人になったクリストファー・ロビンにこそぬいぐるみプー必要なわけです。

まり何がいいたいかって言うとクリストファー・ロビン尊い

結論

クリストファー・ロビン尊い

2018-09-19

anond:20180919152109

建前では平等社会であり、大学受験などでは「平等」な実力勝負、ということになっている弊害は大きい。

例えば親の経済力によって下駄を履かせてもらっているボンボンが、その自覚もなく、親の経済力に恵まれずに学歴収入を得られないものを「自己責任」と否定したりな。

そしてそういうのが社会の中枢で制度に影響を及ぼしているわけだ。

そういうボンボンたちにノブリス・オブリージュを自覚させるためにも階級社会であることを公的に認めるべきだろうな。

英国貴族男子戦争の際、出兵しないと末代までの恥になるそうで、それぐらいの自覚を持ってほしいものだ。

2018-09-17

ドラマ版「この世界の片隅に」素晴らしい作品でした...「この世界の片隅に」でさえなければ

この世界の片隅に」のドラマ版が今週日曜最終回を迎えた。自分にとっては呉旅行に行く前日に見てドハマリし道すがら原作コミックも買い、舞台となった街を散策できた思い出深い作品だった。

 映画版では尺の都合から削除せざるを得なかったリンさんとの物語もしっかり描かれ、さら原作であまり描写されなかった近所の人々にもしっかり焦点が当てられ、よりボリュームのある物語に仕上がっていたと思う

 各話も緩急を付けて見どころを設けすずさんと周作さん、二人の関係性も深く描くことに成功していた

 アイスクリームのシーンは二人の仲睦まじさが伝わり絆が深まる姿を丁寧に描いていて「砂糖の配給が停止になって、闇市で配給の50倍の金額取引されてる時期にアイス食うのはいくらなんでも不自然すぎる」という違和感もまぁ気にならないレベルに収まっていたと思う

 いままで現代編については否定的意見もあったが、最終的には今現在そこにいるすずさんを描く形に集約し映画とは違った余韻のある良い最終回を迎えたと思う

 途中どうしても見ることができなかった回はあったが

 概ねドラマとして大成功の部類だろう。ネットでの評判も上々でツイッタで感想検索しても「泣いた!」「感動して目が腫れ上がった」「ラストにはほっこりした」と大絶賛だ

 実に素晴らしい作品になったと思う

…これが「この世界の片隅に」でなければ

実のところ第一話が始まってから猛烈な違和感を感じてこれは本当に「この世界の片隅に」なのか疑うくらいだった

最初違和感は兄洋一の出兵が決まったシーンでの家族のやり取りで母親であるキセノが涙を流したことだった、ここで泣くのは「この世界の片隅に」としては違和感があった 

それ以降でも北條家へ嫁ぐことが決まった前日に不安母親に漏らし泣き始めるすず

2話以降でも、広島産業奨励会館前で周作が子供の頃ばけもんに誘拐されたとき一緒にいた少年だったことに気がついてすずは涙を流し

それ以降も母親との別れを告げるすずの甥に当たる久夫が帰り道涙を流し、洋一の戦死の報を受けて石一つしか入ってない骨壷を抱きかかえて母親号泣

毎話毎話何かにつけて涙を流していた

自分にはこれが猛烈に違和感に移り最終話前の話まで見るのを止めてしまった

原作で涙を流したシーンはギャグとしてオチに使った空襲で義父円太郎がすずさんと晴美さんを庇ってそのまま寝てしまった回を除けば

晴美さんが亡くなった時限爆弾の回と終戦ときだけでそれは意図的にそうしているのだ

戦中においては、自分たちが正しいことをやってるからこそ理不尽暴力には屈しないって共通した考えがあったからこそ人前で泣くことはせず(時代的に人前で泣くと反戦を疑われてしまうって事情もあった)

その日常を支えていた信念が飛び去ってしまい、自分たちの耐えてきた日々が誰かを犠牲にした上に成り立っていたことに気がついてしまたからそこで涙を流し

戦後は居なくなっていった人たち会えない人のために自分笑顔の入れ物になりたい、なによりも泣いたら勿体無いという気持ちから泣くことを止めるのだ

それは作中物交で漁村に向かう帰りの道すがら刈谷さんと話す中で

「生きとろうが死んどろうが もう会えん人が居って ものがあって うちしか持っとらんそれの記憶がある

うちはその記憶の器としてこの世界にあり続けるしかない」

「晴美さんとは一緒に笑った記憶しかない じゃけえ笑うたびに思い出します」

「泣いてばっかりじゃもったいない 塩分がね」

という会話でも明らかで

このセリフは「この世界の片隅に」のテーマだと思う

辛い時代の中戦中耐えてきた理由、それが飛び去った後また泣くのを止めた理由

そこは物語を描く上でいちばん重要ポイント原作を読んだ人や映画を見た人なら違えることはない

翻ってドラマ版だ

ドラマは泣く、事あるごとに泣く、誰もが皆辛い時には涙を流す

ドラマで泣いて泣いて泣く理由一般視聴者向けにわかやす表現にしたから、とか実写にするにあたって原作映画の通りだと不自然に見えるからという改変なら良かった

脚本担当原作をあまり理解していなくて、分かりやすドラマに組み直した結果だったのなら許せたかもしれない

脚本家は原作の内容を理解してそのテーマもわかった上でそれに対してダメ出しして改変したのだ

最終回をすずさんと義母のやり取りでこんなセリフがあった

「泣いてええよ、我慢せんでええ、ここはあんたの家なんじゃけえ、我慢したらおかしくなるよ」

原作のやり取りとは真逆セリフ

ここで理解った

脚本家はテーマを違えてたわけでも、分かりやす安易な改変をしたわけでもない

テーマについて理解したうえでそのテーマに、「この世界の片隅に」が「この世界の片隅にである根幹にノーを叩きつけてるのだ

はっきり言えば脚本家は「この世界の片隅に」が嫌いだったのでは無いかとさえ思う、少なくとも作品重要ファクターの一つについて否定的だったのは間違いないだろう

結果的に見ればドラマ大成功の部類で多くの人の心に残る名作となった

でもこれは「この世界の片隅に」ではないし、「この世界の片隅に」を否定する物語

もちろんそれが必ずしも悪いわけではないし原作好きな人にもドラマ版に満足してる人もいるだろう

ひょっとしたら原作が嫌いだったかドラマ版の改変でようやく自分の求めてるものが出てきたって人もいる

少なくとも真逆のことをやって多くの人の心をうった名作を作った脚本家の実力は極めて高い

からこそ原作否定するのならオリジナル戦争ドラマ勝負すればよかったと残念でならない

おそらくそちらのほうがずっと名作になったのだろうから

2018-05-06

トリューニヒトは安倍晋三

と書くと足を止めてくれる人も多いかと思う。

銀河英雄伝説の話である

ここで、さんざん過去に話し尽くされたジェシカ理論についてどうこう言うつもりもないが、

実際問題現代政治家で誰が一番トリューニヒトっぽいかという話をしたい。

個人的意見では、まず、20年前であれば鉄板小泉純一郎氏であろうと思う。

そして現在ではその子である小泉進次郎氏ではないだろうか。

トリューニヒトは作中でも「顔がいいだけで偉くなった」と言われ、巧言令色と、狡猾な立ち回りで支持を伸ばした政治家である

この立ち回りというのが、出兵の失敗を見越した現政権との逆ポジを取って結果的に支持を伸ばすというものだけれども、親子ともども政権が揺れると支持が伸びる様は本当に被るものがあるなぁと思うのです。

今、憂国騎士団に相当するのがネトウヨサヨクかという話題が出てますが、現状はどっちも当てはまらないと思っていて、進次郎氏を担いで過激化する集団がいれば、それが当たるんじゃないかなぁと思いますが、いかがか。

2017-09-03

もう第三次朝鮮征伐しかない

すぐに西国諸藩は兵を門司の港に集めるように。

余は出兵勅許をもろうてくる。

ログイン ユーザー登録
ようこそ ゲスト さん