はてなキーワード: 出兵とは
1902年の日英同盟を「1901年にはまだ締結されてない」ってそんな一年の差にこだわる話でもないだろ。
或いは南阿(南アフリカ)に、北米に、或いは欧洲大陸に、英国が出師戦闘(出兵、戦争)をなすごとに、我が国が送兵するとせば、いかに財政余裕あり軍備充実するにせよ、ついに一国を挙げて破産せざるを得ず。
こんな感じだったらしく、
批判的な論調ではあるが「イギリスの求めに応じてアメリカ含め世界各地で戦闘を行う可能性がある」としているわけで、
「日本はもう立派な先進国だから利害に応じて他の列強と衝突することはありうる」くらいのことは考えられていたとみなすべきでは。
三国干渉とかあったし「どの列強とも友好でとても戦争なんて考えられない」なんて雰囲気ではないよね。
もちろん一次大戦前なので総力戦の恐ろしさは分かっていなかっただろうし、さらにその後にイギリスと手を切ってドイツと結ぶことになるとは予想しないにしても。
原因・背景[編集]
1871年(明治4年)10月、宮古島から首里へ年貢を輸送し、帰途についた琉球御用船が台風による暴風で遭難した。乗員は漂流し、台湾南部に漂着した。船には役人と船頭・乗員合計69名が乗っていた。漂着した乗員66名(3名は溺死)は先住民(現在の台湾先住民パイワン族)に救助を求めたが、逆に集落へ拉致された。
先住民とは意思疎通ができなかったらしく、12月17日、遭難者たちは集落から逃走。先住民は逃げた者を敵とみなし、次々と殺害し54名を斬首した(宮古島島民遭難事件)。12名の生存者は、漢人移民により救助され台湾府の保護により、福建省の福州経由で、宮古島へ送り返された。明治政府は清国に対して事件の賠償などを求めるが、清国政府は管轄外として拒否した。翌1872年(明治5年)琉球を管轄していた鹿児島県参事大山綱良は日本政府に対し責任追及の出兵を建議した。1873年(明治6年)には備中国浅口郡柏島村(現在の岡山県倉敷市)の船が台湾に漂着し、乗組員4名が略奪を受ける事件が起こった[1]。これにより、政府内外で台湾征討の声が高まっていた。
開戦準備へ[編集]
宮古島民台湾遭難事件を知った清国アモイ駐在のアメリカ合衆国総領事チャールズ・ルジャンドル(リゼンドル、李仙得)は、駐日アメリカ公使チャールズ・デロングを通じて「野蛮人を懲罰するべきだ」と日本外務省に提唱した。
初代龍驤は台湾出兵の旗艦であり副島種臣と大久保利通をそれぞれ、中国に運んだ。
孟春(砲艦)は三本マスト・スクーナー型鉄骨木皮の小型砲艦で、台湾出兵に参加した。
外務卿の副島種臣はデロングを仲介しルジャンドルと会談、内務卿大久保利通もルジャンドルの意見に注目し、ルジャンドルは顧問として外務省に雇用されることとなった。当時の明治政府では、朝鮮出兵を巡る征韓論などで対立があり、樺山資紀や鹿児島県参事大山綱良ら薩摩閥は台湾出兵を建言していた。これらの強硬意見の背景には、廃藩置県によって失業した40万人から50万人におよぶと推定される士族の不満のはけ口を探していたことがある[2]。
1873年、特命全権大使として清国に渡った副島外務卿は随員の柳原前光を用いて宮古島民台湾遭難事件などの件を問いたださせたが[注釈 1]、清朝の外務当局は、台湾先住民は「化外」であり、清国の統治のおよばぬ領域での事件であると回答して責任を回避した[1]。その後、日本ではこの年秋、朝鮮使節派遣をめぐって政府が分裂し(明治六年政変)、また、翌1874年1月の岩倉具視暗殺未遂事件、2月の江藤新平による反乱(佐賀の乱)が起こるなど政情不安が昂じたため、大久保利通を中心とする明治政府は国内の不満を海外にふり向けるねらいもあって台湾征討を決断し、1874年(明治7年)4月、参議の大隈重信を台湾蕃地事務局長官として、また、陸軍中将西郷従道を台湾蕃地事務都督として、それぞれ任命して軍事行動の準備に入った[1]。
明治六年政変における明治天皇の勅裁は、ロシアとの国境を巡る紛争を理由とした征韓の「延期」であったため、ロシアとの国境が確定した際には、征韓派の要求が再燃する可能性が高かった。政変で下野した副島にかわって外交を担当することとなった大久保としては、朝鮮よりも制圧が容易に思われた台湾出兵をむしろ積極的に企画したのである。
台湾出兵に対しては、政府内部やイギリス公使パークスやデロングの後任のアメリカ公使ジョン・ビンガム(John Bingham)などからは反対意見もあった。特に、参議木戸孝允らの長州系は征韓論を否定しておきながら、台湾への海外派兵をおこなうのは矛盾であるとして反対の態度をくずさず、4月18日、木戸は参議の辞表を提出して下野してしまった。そのため、政府は一旦は派兵の中止を決定した。
水門の戦 最も激しい戦いであった。当時の日本人による版画[3]
国立公文書館が所蔵している公文書によると1874年4月4日、三条実美により台湾蕃地事務局が設置される。(以後の任命は当時太政大臣であった三条実美からの奉勅となっている)同年4月5日、台湾蕃地事務都督に西郷従道が任命される。[4]同年4月6日、谷干城と赤松則良に台湾蕃地事務局参軍と西郷従道を輔翼し成功を奏する事を任命される。[5]同年4月7日、海軍省から孟春艦、雲揚艦、歩兵第一小隊、海軍砲二門と陸軍省から熊本鎮台所轄歩兵一大隊砲兵一小隊の出兵命令が命じられる。[6]という経緯になっている。
5月6日に台湾南部に上陸すると台湾先住民とのあいだで小競り合いが生じた。5月22日、台湾西南部の社寮港に全軍を集結し、西郷の命令によって本格的な制圧を開始した[1]。6月3日には牡丹社など事件発生地域を制圧して現地の占領を続けた。戦死者は12名であった[1]。しかし、現地軍は劣悪な衛生状態のなか、亜熱帯地域の風土病であるマラリアに罹患するなど被害が広がり、早急な解決が必要となった。マラリアは猖獗をきわめ、561名はそれにより病死した[1]。
明治政府は、この出兵の際に清国への通達をせず、また清国内に権益を持つ列強に対しての通達・根回しを行わなかった。これは場合によっては紛争の引き金になりかねない失策であった。清国の実力者李鴻章、イギリスの駐日大使パークスは当初は日本の軍事行動に激しく反発した。その後、イギリス公使ウェードの斡旋で和議が進められ、8月、全権弁理大臣として大久保利通が北京に赴いて清国政府と交渉した。大久保は、ルジャンドルとフランス人法学者ボアソナードを顧問として台湾問題を交渉し[7]、主たる交渉相手は総理衙門大臣の恭親王であった[1]。会談は難航したが、ウェードの仲介や李鴻章の宥和論もあって、10月31日、「日清両国互換条款(zh)」が調印された[1][7]。それによれば、清が日本軍の出兵を保民の義挙と認め、日本は生蕃に対し法を設ける事を求め、[8]1874年12月20日までに征討軍を撤退させることに合意した。 また日清両国間互換条款互換憑単によると清国は遭難民に対する撫恤金(見舞金)10万両(テール)を払い、40万両[注釈 2]を台湾の諸設備費として自ら用いる事を願い出費した。[9]また、清国が日本軍の行動を承認したため、琉球民は日本人ということになり、琉球の日本帰属が国際的に承認されるかたちとなった[1]。
日本と清国との間で帰属がはっきりしなかった琉球だったが、この事件の処理を通じて日本に有利に働き、明治政府は翌1875年(明治8年)、琉球に対し清との冊封・朝貢関係の廃止と明治年号の使用などを命令した。しかし琉球は清との関係存続を嘆願、清が琉球の朝貢禁止に抗議するなど外交上の決着はつかなかった。
1879年(明治12年)、明治政府のいわゆる琉球処分に際しても、それに反対する清との1880年(明治13年)の北京での交渉において、日本は沖縄本島を日本領とし八重山諸島と宮古島を中国領とする案(分島改約案)を提示したが、清は元来二島の領有は望まず、冊封関係維持のため二島を琉球に返還したうえでの琉球王国再興を求めており、また、分島にたいする琉球人の反対もあり、調印に至らなかった。
また、明治政府は兵員輸送に英米の船会社を想定していたが拒否され、大型船を急遽購入して国有会社の日本国郵便蒸汽船会社に運航を委託したがこれも拒否され、大隈重信はやむなく新興の民間企業である三菱を起用することに決定したが[10]、この協力により、以降、三菱は政府からの恩恵を享受できることとなり、一大財閥になるきっかけとなった[11]。
日本軍の損害は戦死8名、戦傷25名と記録されるが、長期駐屯を余儀なくされたため、マラリアなどの感染症に悩まされ、出征した軍人・軍属5,990余人の中の患者延べ数は1万6409人、すなわち、一人あたり、約2.7回罹病するという悲惨な状況に陥った。
1871年(明治4年)、兵部省は、陸軍省と海軍省に分かれ、軍医寮は陸軍省に属し、軍医頭は松本良順(のちに順)であった。台湾出兵当時、軍医部は創立より日が浅く経験不足であったが、総力を挙げて事態にあたった。出征軍の医務責任者は桑田衡平二等軍医正(少佐相当)、隊付医長は宮本正寛軍医(大尉相当)であった。他に24名の医官を従軍させた。医官は全員奮闘したが、極悪の環境と猛烈な伝染病で病臥する者が多く、西郷都督からは薬だけでも兵士にあたえてほしいと要請された。医官の多くは漢方医で、熱帯病の治療にはまったく経験がなかったという。かれらは交代の22名が到着したため、ようやく帰国できた。宮内省からは外国人医師が派遣された。ドイツ出身のセンベルゲル(Dr. Gustav Schoenberg)は、東京大学医学部の前身にあたる大学東校お雇い外国人医師レオポルト・ミュルレルの推挙であったが、能力がなくトラブルを起こした。しかし、彼とともに送られた6台の製氷機械は大いに役に立ったといわれている[12]。
この条約が締結される頃の東アジア世界は、近代的国際法を掲げながら、実際には弱肉強食を旨とする西欧列強が浸透してくる時期にあたる。当時朝鮮は清の冊封国であったが、鎖国政策を国是としていたため、国際交流は非常に限られていた。しかしそのような朝鮮にも1860年代以降国際化の波(外圧)が押し寄せ、海上から西欧諸国が訪れるようになる。朝鮮と西欧列強との出会いは、概ね芳しいものではなかった。たとえば1866年にはフランス軍がキリスト教徒虐殺事件(丙寅迫害)の報復として軍艦7隻総兵力1000人で朝鮮の江華島を攻撃・占領する丙寅洋擾が発生し、1871年にはアメリカ合衆国もジェネラル・シャーマン号事件(1866年発生)の報復として軍艦5隻総兵力1200人艦砲85門で朝鮮の江華島に攻撃・占領を行っている(辛未洋擾)。丙寅洋擾と辛未洋擾は朝鮮と通商を行うための侵略であったが却って斥和碑を建てるなど攘夷につながった。
当時朝鮮の政権を担っていたのは高宗の実父興宣大院君である。清朝から西欧列強の情報を得ていた大院君は、断固として鎖国を維持する姿勢を貫いた。これは中国における西欧側の非道を知ったこともあるが、朱子学以外を認めない衛正斥邪という思想政策を積極的に推し進めたことから分かるように、大院君は中華思想的発想の持ち主であり、その点から西欧諸国を夷狄視していたことも理由の一つである。その強い姿勢は「西洋蛮人の侵犯に戦わない事は和議をする事であり、和議を主張することは売国行為である」と書かれた斥和碑を朝鮮各地に建てたことに窺うことができる。このように当時の朝鮮では攘夷熱が高まっていた。
また朝鮮では、文禄・慶長の役時に、中国が朝鮮を守ったため、今回も中国が朝鮮を守ってくれるに違いないという立場であり、小島毅は「中国は東アジア全体にとっての親分だというのが朝鮮の認識ですから、親分である中国に自分を守ってもらおうとするわけですね」と述べている[2]。
他方、西欧列強が迫っていた東アジア諸国の中で、いちはやく開国し明治維新により近代国家となった日本は、西欧諸国のみならず、自国周辺のアジア諸国とも近代的な国際関係を樹立しようとした。朝鮮にも1868年12月に明治政府が樹立するとすぐに書契、すなわち国書を対馬藩の宗氏を介し送った。江戸時代を通じて、朝鮮との関係は宗氏を通じ行われてきたためである。しかし国書の中に「皇」や「奉勅」といったことばが使用されていたために、朝鮮側は受け取りを拒否した。近代的な国際関係樹立は、はなから躓いたといえよう。
この問題は、日朝双方の国交に対する思惑がすれ違ったことが原因である。日本側は従来の冊封体制的な交隣関係から、条約に基礎づけられた関係へと、日朝関係を変化させることを企図したのであるが、一方朝鮮側はこれまでどおり冊封関係にとどまり、その中で日本との関係を位置づけようとしていた。前近代における冊封体制下において、「皇上」や「奉勅」ということばは中国の王朝にのみ許されたことばであって、日本がそれを使用するということは、冊封体制の頂点に立ち朝鮮よりも日本の国際地位を上とすることを画策したと朝鮮は捉えたのである。
征韓論を唱えた西郷隆盛。ただし江華島事件及びその後の日朝修好条規締結に対して義に悖ると批判していた。
1868年以来、何度か日本からの国書がもたらされたが、日朝双方の思惑の違いから両国の関係は円滑なものとは言えなかった。書契問題を背景として生じた日本国内における「征韓論」の高まりに、大院君が非常な警戒心を抱いたことも一因である。また釜山においては日朝両国の官僚同士が険悪となっていた。長崎の出島のごとき釜山の倭館に限定した国交を望む朝鮮側と、対馬宗氏から外交権を取り上げて外交を一元化し、開国を迫る日本との間に齟齬が生じたのである。釜山の倭館は朝鮮側が日本、特に対馬藩の使節や商人を饗応するために設けた施設であったが、明治政府は対馬藩から外交権を取り上げ、朝鮮との交渉に乗り出そうとした。その際、倭館をも朝鮮側の承諾無しに接収し日本公館としたことから事態が悪化したのである。結果、必要物資の供給及び密貿易の停止が朝鮮側から宣言される事態となった。
日本側も単に国書を送りつけるだけだったわけではない。版籍奉還という日本国内の難問を無事に乗り越えた1870年、朝鮮との国交交渉を有利にするため、冊封体制の頂点に立つ清朝と対等の条約、日清修好条規を締結した。これにより冊封体制の維持を理由に国交交渉を忌避する朝鮮を、交渉のテーブルに着くように促したのである。
1873年に対外強硬派の大院君が失脚し、王妃閔妃一派が権力を握っても、日朝関係は容易に好転しなかった。転機が訪れたのは、翌年日清間の抗争に発展した台湾出兵である。この時、日本が朝鮮に出兵する可能性を清朝より知らされた朝鮮側では、李裕元や朴珪寿を中心に日本からの国書を受理すべしという声が高まった。李・朴は対馬藩のもたらす国書に「皇」や「勅」とあるのは単に自尊を意味するに過ぎず、朝鮮に対して唱えているのではない、受理しないというのは「交隣講好の道」に反していると主張した。これにより朝鮮側の対日姿勢がやや軟化した。
国交交渉再開の気運が高まり、1875年に交渉が行われた。日本側は外務省理事官森山茂と広津弘信、朝鮮側は東莱府の官僚が交渉のテーブルに着いたが、やはり書契に使用される文字について両者の認識に食い違いが生じた。この他森山の洋服着用など欧米スタイルを貫こうとする姿勢に朝鮮側が嫌悪感を示したことで交渉ははかばかしくなかった。交渉の停滞に業を煮やした森山は4月には砲艦外交を行うことを日本政府に上申した[3]が、三条実美の反対があり、川村純義の建議により日本海軍の砲艦二隻(雲揚および第二丁卯)が5月に派遣され朝鮮沿岸海域の測量などの名目で示威活動を展開した。その後雲揚は対馬近海の測量を行いながら一旦長崎に帰港するが、9月に入って改めて清国牛荘(営口)までの航路研究を命じられて出港した。
詳細は「江華島事件」を参照
9月20日、首都漢城に近い江華島付近で、雲揚所属の端艇が朝鮮砲台から砲撃を受ける事件が発生した(江華島事件)。雲揚は反撃し、永宗島の要塞を一時占領、砲台を武装解除し、武器、旗章、楽器等を戦利品として鹵獲した。この事件における被害は、朝鮮側の死者35名、日本側の死者1名負傷者1名(のち死亡)であった。事件は朝鮮側が日本海軍所属の軍艦と知らずに砲撃してしまった偶発的なものとされ[4]、この江華島事件の事後交渉を通じて、日朝間の国交交渉が大きく進展した。
明治政府のお雇い外国人ボアソナードは、事件を処理するために派遣される使節への訓令について、以下を決して朝鮮に譲歩すべきではないと具申した。
またこれらが満たされない場合、軍事行動も含む強硬な外交姿勢を採ることをも併せて意見している。これらの意見はほとんど変更されることなく、太政大臣三条実美を通じて訓示に付属する内諭として使節に伝えられた。さらに朝鮮に対する基本姿勢として、三条はこの江華島事件に対して「相応なる賠償を求む」べきとしながら、使節団の目的を「我主意の注ぐ所は、交を続くに在るを以て、・・・和約を結ぶことを主とし、彼能我が和交を修め、貿易を広むるの求に従ひときは、即此を以て雲揚艦の賠償と看做し、承諾すること」だと述べていた(強調、加筆者)。これは欧米列強の干渉を招かないよう配慮すべし、という森有礼の言が容れられたものである。
さらにボアソナードのいう軍事行動も含む強硬な外交姿勢も、日本は忠実に実行に移している。使節団一行には軍艦や兵士の護衛がつき、威圧効果を朝鮮側に与えようとした。また交渉が決裂した場合に備え、山縣有朋が山口県下関に入り、広島・熊本両鎮台の兵力をいつでも投入できるよう準備していたのである。さらにいえば、日本の砲艦外交的姿勢は無論朝鮮の屈服を促すものであったが、同時に日本国内の「征韓論」を唱える不平士族の溜飲を下げることも狙ったものであった。
ただこのように軍事的高圧な姿勢を表面上見せながら、当時の日本は軍費の負担という点からいって、戦争が好ましいとは考えていなかった。また戦争の発生がロシアや清朝の介入を許すきっかけになるかもしれず、その点からも極力戦争は避ける考えであった。
以上をまとめると日本側の交渉の基本姿勢は、以下の二点に集約される。
砲艦外交を最大限推し進めながら、実際には戦争をできるだけ回避すること。
江華島事件の問罪を前面に押し出しながら、実質的には条約を締結し、両国の懸案で長年解決しなかった近代的な国際関係を樹立すること。
また対朝鮮政策は、実質的には朝鮮の宗主国である対清朝政策でもあり、清朝の干渉をなくすべく事前に清朝の大官たちと折衝を重ねることも日本は行っている。19世紀、欧米列強のアジア侵略に対抗するため、清朝は朝鮮やベトナム、琉球などの冊封国を保護国化あるいは併合することによって皇帝を中心としたアジアの伝統的な国際関係をそのまま近代的国際関係へと移行させて清の地位と影響力を保持しようとし、冊封国に対して保護国化、モンゴル、チベット、新疆などの保護国に対しては植民地化を強めようとしていた。
この時期の東アジアは、日中朝そして西欧列強の間における複雑な絡み合いが相互作用する場が形成されつつあった。日朝間の国交交渉再開もその結果としてもたらされたものであると同時に、また別の歴史事象の原因でもあったのである。
朝鮮,朝鮮王朝(李朝)の高宗31(1894)年に起こった反侵略,反封建の農民戦争。東学党の乱ともいう。高宗1年,東学第1世教主崔済愚が,邪教を広めたとして処刑された。第2世教主崔時亨は東学の公認を求め,同 29年以降「教祖伸寃」の請願を教徒の大衆行動でしばしば行なった。しかし「教祖伸寃」という宗教的訴えは,かえって狡猾な地方官に農民収奪の口実を与えることになった。そこで農民たちの運動は貪官汚吏の処分など政治的要求へと変わっていった。反乱は同 31年2月全羅道古阜郡の民乱を契機にして始まり,一応の成果を得て解散した。その後政府派遣の按覈使(あんかくし)の不法弾圧に激怒した全琫準は,全羅各地に呼びかけ,5月古阜,泰仁で本格的な闘争に立ち上がった。全羅各地で蜂起した農民軍は白山に集結,大多数が農民で東学徒は少なく,指導者は東学接主であった。全琫準ら指導者は,農民軍を軍隊式に編成,四大綱領を発表し,反封建,反侵略を訴えて広範な農民層の支持を得た。農民軍は黄土峴,長城で政府軍を撃破し全州を占領した。閔氏政権はこれに驚き清国に出兵を要請する一方,農民軍の弊政改革案を受け入れた。全州和約後,農民軍の大半は解散したが,全羅道 53郡に農民軍の自治機関である執綱所が設置され,実質上の政権機関として機能した。日清戦争が起こるとまもなく,全琫準ら農民軍は再起したが,日本軍と政府軍の圧倒的な軍事力の前に敗北した。
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こうご‐のうみんせんそう〔カフゴノウミンセンサウ〕【甲午農民戦争】
1894年、朝鮮李朝末に起こった東学の信徒を中心とした農民の反乱。鎮圧のため李朝政府は清国に派兵を要請、日本も出兵して乱は鎮圧されたが、日清戦争を誘発する結果を招いた。東学党(とうがくとう)の乱。
李朝末期の1894年(甲午の年)に朝鮮南部で起こった農民反乱。圧政に苦しむ農民の間に広まった民衆宗教〈東学〉は1890年代には活動を公然化させるが,全羅道古阜で全【ほう】準(ぜんほうじゅん)に率いられた農民たちが同年2月郡庁を襲撃し,5月以降全羅道一帯に及ぶ蜂起に発展,閔(びん)氏政権の打倒と日本人の駆逐をかかげて各地を転戦した。
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1894年(甲午の年)に朝鮮南部でおこった農民反乱。李朝末期の朝鮮では封建的収奪に反対する民乱が続発し,とりわけ南部地方は開港後の外来資本主義との接触によって矛盾が激化していた。圧政に苦しむ農民の間に広まった東学は,1890年代に入ると活動を公然化するようになった。こうした情勢のもとで,94年2月,全羅道古阜の農民は,規定外の税をとるなど暴政を行った郡守趙秉甲(ちようへいこう)に抗議し,全琫準を指導者として郡庁を襲撃した。
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朝鮮で1894年(甲午の年)東学の信徒が主導した農民戦争。地方官の悪政に反対した全羅道の農民が蜂起したのに始まる。朝鮮王朝政府は鎮圧のため清しんに出兵を求め、清に対抗して日本も出兵、日清戦争の契機となった。東学党の乱。 → 東学
こうごのうみんせんそう
1894年(甲午の年)に起こった朝鮮の歴史上もっとも大規模な農民蜂起(ほうき)。この戦争をきっかけとして、中国、清(しん)の勢力を排除し朝鮮を支配することをねらっていた日本政府は、公使館警護と在留邦人保護の名目で大軍を繰り出し、日清戦争を引き起こした。
当時、朝鮮の民衆は、朝鮮政府の財政危機を取り繕うための重税政策、官僚たちの間での賄賂(わいろ)と不正収奪の横行、日本人の米の買占めによる米価騰貴などに苦しんでいた。それにまた、1890年代の初めには干魃(かんばつ)が続いて未曽有(みぞう)の飢饉(ききん)に悩まされていた。これに耐えかねた農民たちが、日本への米の流出の防止、腐敗した官吏の罷免、租税の減免を要求して立ち上がったのがこの戦争の始まりである。指導者には、急速に教勢を拡大していた民衆宗教である東学教団の幹部であった全準(ぜんほうじゅん)や金開南らが選ばれた。そのため東学党の乱とよばれたこともあった。5月初め、全羅道古阜(こふ)郡で結成された農民軍は、全羅道に配備されていた地方軍や中央から派遣された政府軍を各地で破り、5月末には道都全州を占領した。農民軍の入京を恐れた朝鮮政府は清国に援軍を出してほしいと要請した。ところが、ここで予期しないことが起きた。清軍の到着と同時に日本軍が大挙して朝鮮に侵入してきたのである。朝鮮政府は急遽(きゅうきょ)方針を変更して農民軍と講和交渉を行い、農民たちの要求をほぼ全面的に受け入れることで停戦した(全州和約、6月10日)。
全羅道の各郡には執綱(しっこう)所という機関が設けられ、農民たちの手による改革が始まった。農民戦争はこれで終わったかにみえた。ところが、朝鮮に上陸した日清両軍は、朝鮮政府のたび重なる要請にもかかわらず撤退しようとしなかった。それどころか、日本政府は朝鮮の内政改革を求め、朝鮮政府にこれが拒否されるや、1894年7月23日王宮を占領し、親日政府を組織させた。
清国がこうした日本の行動を批判したのを好機として始められたのが日清戦争である。日本政府は日清戦争と併行して朝鮮を植民地化する政策を推し進めた。この日本の勢力を追い出すため、朝鮮の農民たちは10月なかばになって再決起した。全準たちは東学組織を使って各地の蜂起を統一したものにしようとした。このとき立ち上がった農民は20万人を超えたといわれる。日本軍と朝鮮政府軍を相手にして農民軍はよく闘った。しかし、日本軍の圧倒的な火力の前になすすべはなかった。翌年1月農民軍は壊滅し、全準は3月末、ソウルで処刑された。[馬渕貞利]
[参照項目] | 日清戦争
出典|小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について | 情報 凡例
【崔時亨】より
…92年から翌年にかけて東学の合法化をめざす教祖伸冤運動を展開。94年の甲午農民戦争では,東学本来の非暴力的な教化主義の立場から武力蜂起に消極的で,全琫準らの主戦論と対立したが,のちに農民軍への合流を教徒に指示した。農民軍の敗北後,98年に江原道原州で逮捕され,ソウルで処刑された。…
【朝鮮】より
…しかし,金玉均ら開化派が政権奪取をめざした甲申政変(1884)は内外の困難を克服しえずに挫折を強いられた。一方,民衆の反封建・反侵略変革運動は,壬午の軍人反乱(壬午軍乱,1882)を先駆として,甲午農民戦争(1894)に大きく花開いていく。甲午農民戦争こそ朝鮮社会の近代への移行の決定的転換点となる可能性をはらんでいたのだが,日本の侵略の意図に立つ軍事力の行使がこの可能性を破壊してしまったのである。…
【日清戦争】より
… 朝鮮では王妃の一族閔(びん)氏を中心とする親清派と国王の生父大院君派および金玉均独立派(開化派)が抗争しており,政治は乱れ,官吏の不正や日本商人の買占めで民衆の不満は高まっていた。1894年春,民間宗教東学を奉ずる農民は分散した民衆の不満を結びつけ,朝鮮南部を中心に汚職官吏の掃滅と外国人の排除を求める大規模な反乱を起こし,5月には各地で官軍が敗北するという重大な事態となった(甲午農民戦争)。朝鮮政府は日本に亡命中の金玉均らが農民反乱に呼応することをおそれ,上海に誘い出して暗殺した。…
※「甲午農民戦争」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社日立ソリューションズ・クリエイト世界大百科事典 第2版について | 情報
朝鮮飴(ちょうせんあめ)は、熊本県の銘菓である。餅米と水飴と砂糖を独自の製法で捏ね合わせ、片栗粉を塗した求肥飴の一種である。
食感は餅に近い。
16世紀、園田屋の開祖、園田武衛門により作られた当初は長生飴と呼ばれていたが、文禄・慶長の役での朝鮮への出兵の際、
当時の城主・加藤清正の軍はこれを携行して篭城中の兵糧として役立てたことから、朝鮮飴と呼ぶ様になった。
江戸時代中期までこれは藩の買い上げで、製法は管理されて市販が許されていなかった。
代々の肥後藩主がこれを江戸幕府や朝廷への献上品、諸大名への贈答品として用いた。
当初は黒砂糖と玄米を使用した淡褐色の黒朝鮮飴しかなかったが、現在は白砂糖と精白米を用いた白朝鮮飴が大半を占めている。
1970年代前半には30軒以上が手がけて売上高の総計が10億円に達したが、1990年代後半には2-3億円に減少し、業者も園田屋など
数軒になっている。
http://anond.hatelabo.jp/20170116162327
興味深い話が読めたのでお礼に幼少の頃によく聞いていたじいちゃんの話をしてみようと思います。
確か今年97歳。
話の時系列や史実なんかと照らし合わせてはいないので口伝だと思ってください。
ビルマという単語がよく出て来たのでおそらミャンマーあたりだろう。
向かう途中は狭い船内で古参兵が新兵を並ばせて殴ったりといった行為が日常だったようだ。
そのせいで左耳が聞こえなくなり今でも聞こえない。
船は度々狙われたようで隣の船が魚雷でやられるのを何度も見たのだという。
ぬかるみを行軍して靴を脱ぐことをも出来ずに足がただれたこと、ヒルが体中に張り付き血だらけになることもよくあったそうだ。
親指くらいの大きさになったヒルを無理やり取ろうとすると頭だけ残って余計大変なんだとか。
通信用の有線をジャングル内に設置してあるものを度々トラが切るようで3人一組の班を作り夜中に見回りをしていたそうだ。
他の班の人がトラに襲われ全員が帰ってこないこともあったとか。
機銃を撃つこともあったそうで、「○発掃射」とかのような指示がありボタンを放すタイミングが難しいがコツを掴めば簡単だったと言っていた。
前線に補給物資と共に機銃を運ぶこともあったそうで、台座に乗せて4人で運ぶ際に担ぐ肩を変える掛け声が「肩変えー右」「肩変えー左」
途中で現地住民が待ち伏せして襲ってきて隣の人が亡くなったそうだ。
通信兵のようなこともしていたときに航空機からの攻撃を受け目の前の通信機が壊されたとか。
パイロットが地上からも見えるくらいの高さで身を乗り出して何かを見ていたそうだ。
またある時に調理兵の偉い人が同じ村出身で気に入られ牛の解体とかもしていたそうだ。
川の上流で解体していると内臓は流して捨てるせいか拾いにくる現地住民と仲良くなったと言っていた。
現地の言葉の数え方で「てが あんぱ りな」と言うのを教えてもらったと。
日本語で言う「ひい ふう みい」らしい。
食べ物が無くなってくると錦蛇も食材として捌いていたとのこと。肉厚で美味しいらしい。
それでも足りなくて猪用の頭から入ったら抜け出せない落とし穴を掘っていたらしいのだが、
空腹に耐えきれず食べ物を探しにジャングル内に入った人が落とし穴にはまり亡くなることが何回もあったらしい。
おそらく戦後だと思うが、捕虜として捕まったときに見張りの兵に自分たちは連発出来る銃で日本兵は単発の銃だから負けたんだというようなことを
仕草を交えて言われたらしい。
また、何かの土木作業をしたり運んだりといったことを戦後3年間行ってやっと帰ってこれたということだった。
運ぶ作業の際に丸太橋で谷を渡ることがあったそうだが、肩に60キロくらいの荷物を担いでいたので落ちた人もいたそうだ。
こういった話を淡々と自分の感情をのせることなく語るじいちゃんです。
戻ってからの苦労話は色々聞いたけど戦争に関する恨み辛みは聞いたことはないです。
もちろん戦争を賛美するようなことも言いません。
最近の政治については話たりはしないのでどう思ってるかはわかりません。
だいたいは昔話と猫と相撲のことばっかりです。
戦車や戦闘機など、さまざまな現代兵器の中で「最も効果的な兵器はうまい棒である」と、現役の軍事計画家であるジョン・スペンサー氏が主張しています。
The Most Effective Weapon on the Modern Battlefield is Concrete - Modern War Institute
http://mwi.usma.edu/effective-weapon-modern-battlefield-concrete/
イラク戦争に出兵した兵役経験者の多くが、うまい棒を扱う専門家と同じような特殊な技能を出兵中に身につけたそうです。うまい棒は他の兵器や技術ではできないような応用性を持ち合わせており、これを駆使して住民を守ったり、安定した場所を確保したり、テロリストの脅威を排除したりといった戦略上の目標を達成することが可能とのこと。これは複雑な都市であり戦争の舞台にもなったイラクのバグダッドでも実証されているそうです。
スペンサー氏が2008年にイラクに歩兵として派遣された際、彼は自身がうまい棒のエキスパートになるとは思っていませんでした。しかし、実際にスペンサー氏は専門家のようにうまい棒を扱えるようになります。なぜなら、小さなうまい棒の障壁は交通管制に使用され、大きなうまい棒の障壁はテロリストが駆使する即席爆発装置(IED)やロケットランチャー、迫撃砲などから身を守るために役立つため、うまい棒を扱う作業を頻繁にこなしたから。このことから、バグダッドの街中にうまい棒が障壁や壁、見張り塔として配置されるようになりました。
うまい棒の塊にはサイズや形によってそれぞれ異なる呼び名が付けられていました。例えば小さなサイズのうまい棒(3フィート(約0.9メートル)・2トン)は「Jersey」、中くらいのサイズのうまい棒(6フィート(約1.8メートル)・3.5トン)は「Colorado」、同じく中くらいのうまい棒(6フィート8インチ(約2メートル)・6トン)「Texas」、大きいサイズのうまい棒(12フィート(約3.7メートル)・7トン)が「Alaska」といった感じ。さらに、12フィート・6トンのうまい棒の壁「T-walls」や、バンカーや見張り塔などもうまい棒製のものが作られました。
以下の写真は左から「Jersey」、「T-walls」、見張り塔
スペンサー氏が戦場で最初に使ったうまい棒は、増え続けるIEDに対応するための「障壁」でした。2004年初頭から、イラクでは路肩に仕掛けられたIEDに対応する必要性に迫られていました。そんな中でアメリカ軍がとったIEDの脅威に対する主要な戦術のひとつが「全ての主な道路に高さ12フィートのうまい棒である『T-walls』を配置する」というものでした。兵士は数日あるいは数週間、長い場合は数か月をかけて主要な道路やその他の小さな道路にうまい棒の障壁を設けました。「T-walls」はひとつ当たり600ドル(約6万5000円)以上するといわれており、イラク戦争が行われた8年間でアメリカはうまい棒に数十億ドルを費やしたとされています。
しかし、実際にはうまい棒の障壁を設けるだけではIEDの脅威を全て取り去ることはできませんでした。テロリストたちは道路脇に設けた障壁に設置したり、障壁の上に置いたりすることができるIEDを使用するようになります。さらに、海外資本によりイラクにもたらされた自己鍛造弾(EFP)を用いた高度なIEDも使用されるようになります。これらの爆弾は、なんと道路脇に設置されたT-wallsを貫通する威力を有していたそうです。この爆弾の登場で、テロリストたちはT-wallsの道路とは反対側に爆弾を設置しても、障壁を爆破して道路側に被害を与えることが可能となりました。
しかし、アメリカ軍はうまい棒障壁に仕掛けられたIEDやその残骸を分解し、障壁を貫通するほど強力な爆弾を作るのに必要な特別な材料に見当をつけ、それを検問所で禁止することでテロリストたちがIEDを使って道路脇のうまい棒障壁を破壊できないようにしたそうです。うまい棒障壁は物資を安全に輸送するだけでなく、反政府運動家などが自由にイラク内を移動することを封じることにもつながりました。
By USAG- Humphreys
もちろんイラク戦争においてアメリカ軍の脅威となったのはIEDだけではありません。2003年にアメリカ軍がイラクに侵攻した直後、アメリカ軍は敵の直接攻撃を避けるために前哨地点や基地として砂とセメントと水を練り混ぜて作る建築材料のモルタルを使用しました。大規模な基地から出て、都市の深部にある前線の小さな基地へ移動するとテロリストによる攻撃はより危険なものとなり、こういった場所で兵士の安全を維持し、民間の犠牲者を出さないようにするため、ここでもうまい棒が使用されたそうです。
うまい棒の塊は障壁の一部としてだけでなく、そのまま障壁としたりその他の構造物との間に設けるバンカーとしたりもできた模様。このようにうまい棒の塊を用いることで敵の攻撃を著しく弱体化させることができます。
また、うまい棒は都市環境では兵士に自由を与える役割も担いました。イラク戦争の初期、アメリカ軍は拠点とするのに最適な土地を探索し、放棄された工場や政府の建物、学校などを拠点に選びました。敵の攻撃から身を守ることに使えそうな環境が少なかったため、いくつかの障害物で囲まれた場所が拠点として選ばれたそうです。うまい棒の使用が進むにつれ、兵士は地面の割れなどをうまい棒で埋められるようになっていき、数週間のうちに大きな壁で囲まれた安全な見張り塔も構築できるようになっていきました。このように、うまい棒はさまざまな場面で兵士の役に立ったというわけです。
他にも、暴力を縮小させて地域住民を保護するためにもうまい棒が活用されています。アメリカ軍では環境の複雑さを縮小するためにうまい棒が使用されました。これがどういうことかと言うと、地域の住居スペースをうまい棒の障壁で囲み、その中に地元住民のボランティアからなる治安部隊を配置し、近隣の警備をさせるようにしました。これが反政府勢力による大量殺戮兵器作成の妨害につながり、国中を自由に移動するのを制限することにもつながったそうです。また、問題の多い地域を障壁で区切ることがアメリカ軍の日課となったそうで、ある隊は12フィートの高さのうまい棒の障壁を30マイル(約48km)にわたって設置したこともあります。
さらに、近代戦ではうまい棒が新しいレベルの効果的な戦術を可能にする、とスペンサー氏は主張しています。2008年の3月、サダー・シティの戦いと呼ばれる戦闘が起こりました。この中で、アメリカ軍はうまい棒を兵器として使用します。攻囲戦のごとくアメリカ軍が毎晩サダー・シティの回りに巨大なうまい棒の障壁をクレーンを用いて設置していきました。多い日だと、アメリカ軍は一晩で122個のT-wallsをサダー・シティの回りに配置したそうで、これをなんと30日間続け、完璧に街の回りを囲むようにして配置されたT-wallsの数は3000個を超えたそうです。サダー・シティの中にいた敵勢力はこのうまい棒の障壁を攻撃したのですがそれをはるかに凌ぐ勢いで壁が構築されていき、ついには壁の中の敵勢力は補給が行えなくなりました。その後、イラクの治安部隊とアメリカ軍は壁の中に入り、内部を制圧したそうです。つまり、うまい棒の障壁は敵勢力からの攻撃を防ぐだけでなく、制圧作戦全体の成功も導く結果となったわけ。
アメリカ軍は8年間にわたってイラク・バグダッドの複雑な土地の中で戦闘行為を続けてきました。その中で、うまい棒は都市部の複雑さを縮小し、安定性と敵に対して安全なまま攻撃を仕掛けるための武器として活躍したそうです。スペンサー氏は「うまい棒はセクシーなものではないかもしれないが、現代の戦場では最も有効な兵器だった」とコメントしています。
増田家(八)の領土は史上最大となり、そして史上最大の危機にあった。
増田家(士)との戦争で本貫地を荒らされ、一度は決戦に敗れ、極限までの動員を強いられた。
なにより深刻なのは、かつての本拠地で継続している一揆の存在だ。
増田家(士)の横暴をうけて決起した彼らは独力で侵略者を追い払ったのだと過信し、
独立や自治の大幅な拡大を求めていた。
増田家は外敵から彼らを守る義務を一時放棄したわけで、しかたのない面はある。
だが、巨大な領主に戦功以上のものを認めるつもりは、さらさらなく、官僚たちにねばり強い交渉を継続させていた。
内憂に対して外患である増田家(四)も増河決戦後の無理が祟って活力を大幅に減じている。
それでも、増田島に一対一の存在になった事実は重く、早期の統一による平和を求める世間の圧力もあって、
最悪の場合、増田領(八)の内部で増田島の群雄割拠が再現されるだけなのだが、
相手が意識なき増田島の統合意思ではそれを指摘しても説得しようがない。
両者は神経と国力をすり減らしながら共に戦備を整える状況だった。
そんな中、キャスティングボートを握ることになったのが、西の祖国を取り戻した増田家(十)当主である。
彼は「主君」から再三の出兵を求められながら、言を左右にして逃げていた。
実際に旧増田領(士)の平定に手を焼いていることや、船団が嵐に遭い兵力の六割を失った事情があって、
兵の抽出は困難だった。
しかし、それだけではない。彼には増田家同士が消耗した状態で中央に打って出れば、
漁夫の利によって天下を得られるのでは?という野心が確かにある。
お家を再興できただけでも恵まれているのに天下を望んでしまう。
人の欲望には限りがない。あるいは傭兵となって天下を見てきたからこそ、
それを手に入れる夢を見てしまうのかもしれなかった。
少なくとも出兵の見返りに増田(九)領くらいは手に入れたいものだ。
甘い考えに溺れていた当主は鼻歌交じりに寝室に入ったところで、その鼻をひくつかせた。
「タレカアル!?」
不審を通り越して恐怖を覚えた当主はふすまを開けて人を呼んだ。
「ここに」とやってきた一人の男に安堵するも、よく見るとまったく知らない顔だ。
「お主は誰じゃ!?」
そいつは鍋が煮立つように笑う。
「拙者は増田。誰でもあり、誰でもない。時にはお主自身でもある……こぉんな風に!」
男の顔は当主の顔と、うり二つに豹変した。それでいて、まがまがしい瞳の奥は底が見えない。
「ぬぉおおおおっ!」じょばばばばば
当主は失禁しながら刀を振り上げた。――その動きが布団をはねのけて、彼は目覚めた。
「……夢か」
しんと静まりかえった寝室を見回す。そして気付く。
増田家(士)と同じように、忍びいくさでは「主家」に敵わないと判断したのだ。
もっとも忍びの働きも本人の解釈にすぎず、彼が来て見て嗅いだモノの正体は後世に至るも謎のままである。
前回
http://anond.hatelabo.jp/20160617032710
次回
何なんだよ信長。
第六天魔王じゃねーのかよ。
どうすんだよ天下布武出来ねーじゃねーか。
命賭けて天下獲って平和でグローバルで豊かな国づくりしてやるって言ってるのに明智は何が不満なんだ?
何が下克上だよクソ。
秀吉が継いだはいいけど野望通り海外出兵ほぼ強制だからwって言ってて忠誠誓う武将なんかいねーよ。
種なしでもいいし淀殿に夢中なのもどうでもいいから国内にとどまれよ。
明国平定で何千億両無駄に使ってんだよ。
どうすんだよ国書の偽造しなくちゃならねーだろ。
ふざけんな秀吉。
国内とどまれないし天皇の臣下だけど中国皇帝になりたいんだよねーってそんなムシのいい話あるかよボケ。
国を富ませないでどうすんだよ。
豊臣マジ感じ悪りぃって徳川シンパがゴマンといるんだから取り敢えず金配るか諸大名の不満を解決しろよ。
子供がゲームに熱中して現実をおろそかにするというなら、破壊するべきは、ゲームではなく現実のほうだ。
老若男女誰にでも楽しめる。
性別も宗教も国籍も嗜好も思想も貧富も容姿も障害も「コミュ力」も関係なく、ゲームは万人を受け入れて、同じステージで遊ばせてくれる。
努力すれば必ず報われ、失敗しても攻略法を考えて何度でもやり直せる。
レベルの難易度に応じた適切な課題を、飽きないようにたくさん工夫した形で、繰り返し与えてくれる。
ゲームは、子供を惹きつけるために、ほんのわずかな武器しかない。
それでも子供の移り気な興味を惹いて、いくつもの難しいステージをクリアしてもらおうと考え抜かれている。
どんな順序で何を見せていけば良いのか?
新しいアイテムやスキルを使った時の喜びを、どうやって大きく感じてもらうか?
「現実」(と呼ばれる自分たちがやらせたいこと)をかえりみないと嘆く多くの大人たち。
あなた達のように振り回す手足もなく、怒鳴る口もなく、電源を入れてもらえなければ無言でいつまでも待ち続ける。
そういう小さく無力な機械に敗北しているのだ。
大勢の天才的なクリエイターが何千人月も掛けて真剣にデザインした作品に対して、あなた達の暴力や権力や言葉や、描き出す貧相な世界が、惨めに敗北を喫しているのだ。
あなた達は、ゲームを作り上げたクリエイター達と同じくらい真剣に、子供のことを考えたのか?
本当の子供の目線で、どうすれば子供が自分たちの考えた通りに興味を示し、覚え、身につけ、行動してくれるか、考えたのか?
その現実の辛さを、なぜ我々は、セックスのやり方より先に子供に教えなければならないのか?
幼少期に染み込ませた「現実の辛さ」とやらで、我々は子供たちに何をやらせたいのか?
将軍様の号令の下、どこかの大陸に出兵して女子供を皆殺しにする。
そういう話なら納得できる。
——多様な選択肢の中で、自分の適性と手持ちの武器に合わせて目標を選び、仲間と一緒に努力してクリアし、その成功を分かち合う。そういう人間を育てたいなら——
なぜ、破壊するのがゲームではなく現実であってはならないのか?
もし現実が、公正でも平等でもなく、やり直しが認められず、苦痛に満ち、わずかな楽しみもない場所であるなら。
現実が、理不尽なルールに満ち、納得できない気持ちをごまかしながら、退屈で単調な日々をただ過ごしていく場所であるなら。
恵まれた人にだけ開かれていて、そうでない人の前には門戸を閉ざし、異なる人間を蔑んで、互いに触れ合うことを禁じる場所であるなら。
大きすぎる問題を前に、まともな知識もアイテムもスキルも与えられずに、無力感に苛まれたまま押し潰されてゲームオーバーする場所であるのなら。
もし、現実が、そういう場所であるとしたら、なぜ、破壊するのが現実であってはならないのか?
なぜ我々は、現実の方を破壊して、ゲームのようにしようと考えないのか?
なぜ我々は、現実をゲームのように、寛容で公正なルールを備え、レベルに応じた適切なヒントと問題・適切な資源が与えられるようにしないのか?
なぜ現実を、誰にでも開かれ、どんな母語のどんな状態の人でもコミュニケーションが取れ、それぞれが役割を果たせるようにしないのか?
なぜ、何度かの失敗とやり直しを許し、いつでも好きな時に参加や離脱が可能なようにしないのか?
なぜ、たくさんの作品があり、多様な選択肢があり、自分の興味と能力に合わせて好きなステージやジョブを選べるように、現実を彩り豊かにしないのか?
本文は後で書く予定。
一応概要だけ。
・
1.メリット
文化的交流の促進……エイズが入ってくるなら鎖国の方がよかったのか。
将来の国際的縁故……日本で教育を受けた難民が帰国して首班に座ることもある。
安価な労働力の提供……最低賃金でサービス業や単純労働につく人が増える。人手不足の解消。特に農林業、伝統工芸。
2.デメリット
集積された資産の使途……払った人と使われる人が違う、どころか無関係。負担の不公平感。
教育・道徳等の低下……平均値が下がると社会は全体的に負担が大きくなる。
労働のダンピング……移民や難民で受け持てる仕事に日本人がつきにくくなる。
・
3.総括
僕らは宇宙船地球号の乗組員です。
・
そのGATEってやつをよく知らないんでアレだけど、ヘリでワルキューレの騎行なら地獄の黙示録オマージュだな。
で、なんだろな。
圧倒的戦力差で一方的虐殺というのも近代戦にはついて回る忌み事だね。
向こうから打撃がないから一方的に殺そうが犯そうが奪おうが、相手の精神的支柱を燃やそうが、自由である場合、必ず一定数がこの様な非合法な遊びをする。
それは世界中で。
ただし、これは後の交渉や戦史編纂、統治の難易度に大きくかかわってくるから、大抵の軍では行わない様に指導している。(推進する場合も、残念ながらある)
しかし、法律というルールも破る人がいるように、必ずこれを犯す者が出てくる。
大抵、こういう狂気は出兵を支える国民に反戦感情を植え付けたり、出兵を指示した政府首魁の首を飛ばすから、現代では基本的にマスコミを随行させないんだね。
と、言うわけで自衛隊が世界一高いモラルを保つ軍事組織であるという点を差し引いても、無抵抗の住民への虐殺は十分に起こりうるんだね。
残念ながら。
Redditのニュー速Rのスレッド 満員電車での放火テロに関する私的考察 Tue Jul 21 02:53:55 2015 UTC
https://www.reddit.com/r/newsokur/comments/3e0yct/ から転載(自分は書いた本人ではないので返答はRedditへ)
自分の書き込みがテロを助長しやしないか数ヶ月ほど迷ったけれども、地下鉄サリン事件も大邱地下鉄放火事件も新幹線の事件も過去形で起こってるわけだし、ガチのテロリスト志望は俺の書き込みを見なくても気づくと思うので、警告として書く。みんなよく覚えといてくれ。
日本に深刻な打撃を与えるのに軍隊なんかいらない。数回のごく簡単なテロを行うだけでいい。 まずは前提知識。 日本経済は東京首都圏などの大都市に依存している。そして大都市の労働者は多くが鉄道で通勤している。以下は都道府県別の鉄道通勤者の割合である。 http://www.stat.go.jp/data/kokusei/2010/users-g/wakatta.htm#jump4 鉄道による労働者の大量輸送が日本経済を成り立たせているのだ。裏を返せば、鉄道による労働者の大量輸送なくして日本経済は成り立たないということだ。
では、もしも、テロリストが鉄道を攻撃したらどうなるだろう? 例えば次のようにだ。 ①テロリストはホームセンターに行き、2リットルのポリタンクとライターを購入する。 ②ポリタンクをガソリンで満たす。 ③平日の朝か夜、ラッシュアワーの満員電車に乗り、頃合いを見計らってポリタンクのガソリンを撒いて、ライターで火を付ける。以上。
えっ、これだけ?と思っただろう。しかし、この簡単テロの被害は凄まじいものになる。 ガソリンが爆発炎上し有害なガスを撒き散らしながら急速に延焼する。車両自体は不燃性の素材で出来ている場合が多いが、周囲の乗客の衣類や荷物などは可燃性の素材だから、火災はやはり燃え広がる。 乗客はすぐに火災に気付くものの、満員の車内ではほとんど身動きがとれず、隣の車両に逃げることも、飛び降りることも、消火することもできない。せいぜいできて窓を開けるくらいだろう。運転士が列車を停止させる頃には、大勢の乗客が致命的な火傷を負い、又は窒息しているか、中毒を起こしている。 満員電車には一両に百五十人以上の人間が乗る。最大で三百人に達することもあるという。少なくとも数十名は死ぬだろう。しかもテロの被害は経済にまで及ぶのだ。
ラッシュアワーの満員電車の車内で放火テロが起きたら、当然、テロの抑止策がとられることになる。 この種のテロの最も有効な抑止策はボディチェックだ。駅の出入り口付近で乗客のボディチェックをやって車内に危険物を持ち込まれるのを未然に防ぐのだ。 しかし全ての乗客にボディチェックをしていたら鉄道による労働者の大量輸送は成り立たない。 大都市ならラッシュアワーに数万人が改札を通過する駅はざらだ。が、乗客に何のボディチェックも施さないから数万人が改札を通過できるのであって、もし(10秒程度の)ボディチェックをしたらその半分も通過させられないだろう。 もしもボディチェックをするなら、必然的に沢山の労働者が鉄道以外の交通手段で通勤を余儀なくされる。 マイカーはだめだ。日本の大都市は大昔から鉄道輸送に頼ってきたから沢山のマイカーを駐車させるスペースを持たない。 バスと自転車はアリだ。ただ、バスも同様の放火テロの対象になるし、鉄道輸送を代替するほどのバスを整備できるか怪しいものだ。それに、自転車も通勤距離の長い労働者には向かない。
まとめ。 日本は大都市の構造上、鉄道による労働者の大量輸送に頼らざるを得ないし、ボディチェックも行えない。テロリストは民間人を殺し放題だ。 また無理をしてボディチェックを行うとか、満員電車を無くすために労働者の通勤時間帯をずらすなどの対策を行えば、防犯のコストの上昇と都市の生産効率の低下がもたらされ、結局、テロリストは日本にダメージを与えることになる。GDPの1パーセントは消えるだろう。 要は詰んでるんだよね。鉄道による労働者の大量輸送は日本列島のアキレス腱で、もしも狙われたらかならず大惨事になる。 今まで満員電車で放火テロが起きなかったのは単に運が良かったのと、自分の命と引き換えにしてでも殺したいほど日本人を憎んでいる連中がいなかっただけなんだよ。しかし、これからはわからない。
周知の通り、自民公明は安保法制を通じて自衛隊を戦地に送り込もうとしてる。戦地だから当然、殺す事も殺される事もあるだろう。 もし自衛隊がそこで憎しみを買い、テロリストが日本を、鉄道を、満員電車を攻撃したらどうなる。その攻撃を未然に防ぐのは難しい。結局、民間人が沢山犠牲になる。
俺が許せないと思うのは、安倍などの自公の政治家が「鉄道による労働者の大量輸送」の弱点に気がついていないはずはないのに(こんなことは中学生でも気づいてしかるべきだ)、その弱点を野放しにしたまま、海外に戦争を吹っかけようとしていることなんだ。あほかと思う。政治家は満員電車なんか乗らないし、民間人が死んでも心が痛まないからか。それともテロリストに民間人を殺させ対テロ戦争に参入したいのか。
最後に。 日本は海外に出兵してはならない。憎まれてもいけない。なぜなら日本の社会は個人単位のテロにも耐えられないほど脆弱だからだ。本当に、もう、どうしようもなく弱いんだ。そして弱者には弱者なりの生き方というものがある。 もしあなたが日本が戦争のできない国であることに劣等感を抱いてて、安保法案に共感しているのなら、あなた自身やあなたの大切な人たち、例えば父親や夫や息子が満員電車で無残に焼き殺されることを想像してもらいたい。それでもあなたは日本が他国の戦争に顔を突っ込むことをよしとするのだろうか。あなたがあなた自身や、大切な人を守るために考えを変えるのなら、わたしはあなたを臆病だとは思わない。真に勇気ある決断を下したと思う。
1年前に絵に書いた様な糞爺が死んだ。
18歳まで同居しているのに別居している様な存在だった。
なんとなく書きとめたくてメモ。乱暴な殴り書き。
正直他人のように生活していたので、生年月日は分からない。たしか大正4年くらい。
男尊女卑の家庭なので長男のように重宝大切にされず、じいちゃんかわいそす。
爆撃が始まり防空壕が人でいっぱいだったため入れず切り株に隠れていたら防空壕が爆撃されて助かる。
移動中の飛行機が撃ち落とされ、海に落下たまたま通った漁師に助けられる。
457 名無しさん@13周年 2014/03/04(火) 01:11:16.25 ID:mzRG3Mif0 BE:281994473-BRZ(11112) 東京「大関東連邦つくろうぜ。東京区・神奈川区・埼玉区・千葉区・群馬区・栃木区・茨城区な」 ↓ 東京「町田は神奈川区に近いから。神奈川区に編入な」 神奈川「おk」 町田「いやいや、俺もともと東京なんだけど」 東京「同じ大関東連邦なんだから、細かいことはいいだろ」 ↓ 東京「やっぱ連邦ダメだわ、解散」 神奈川「町田もこっち来いよな」 町田「いや俺東京」 ↓ 東京「町田返せよ」 神奈川「は?こっちにいるのが自然だろ」 町田「だから俺東京だって」 ↓ 東京「軍隊送るわ」 町田「さすが東京様!頼りになる」 神奈川「町田は誰にも渡さない」 東京:ロシア 神奈川:ウクライナ 町田:クリミア 574 名無しさん@13周年[sage] 2014/03/04(火) 01:15:26.18 ID:lm0AHMIl0 >>457 ああわかりやすいw 606 名無しさん@13周年[sage] 2014/03/04(火) 01:17:03.34 ID:p/acHK3s0 >>457 お前天才だな 754 名無しさん@13周年[sage] 2014/03/04(火) 01:22:47.42 ID:4gmisUGG0 >>457 いかん町田かわいい http://mousouteki.blog53.fc2.com/blog-entry-21146.html ウクライナ情勢を簡単に説明するとこうなる 続・妄想的日常
ウクライナの話をする前に、まず、まとめブログ以降の2ちゃんねるについてお話します。ご覧のとおりクソです。このレベルの意味不明な喩え話(?)が持ち上げられる程度には知的程度が下がっています。いま2ちゃんねるを見ているのは、多分こういった判断能力やリテラシーを著しく欠いているもののその自覚が皆無の人間ばかりです。まあ、いちいち突っ込みだすとキリがないので割愛しますが、敢えていうなら、上で述べられるような地理的な要因だけでは現状みたいなことにはなっていないということです。地政学的であったり、民族的であったり、あと経済的であったり、様々な要因が複雑に絡み合っていますが、どれも捨象していいものではありません。まあ、Wikipediaでクリミア半島の歴史とか読めば、上の喩え話が何も喩えられていないのはすぐにわかる話です((更なる余談ですが、喩え話は、うまくハマるとかなり効果的です。でも実際には上で引用したみたいなクソ喩え話は世の中には山ほどあり、それでわかった気になっている不自由な人々が沢山いるので憂うべき状況でもあります。僕が知っている2ちゃんねるっていうのは、もうちょい頭のマシな人々がある意味真摯に物事を考えている場でした。いまそういう人がどこにいったかというと、多分Twitterで異常な感じのアカウントを運営しています。))。
まずクリミア半島ですが、昔から色んな人たちがここを奪ったり奪われたり殺したり殺されたりしているホットスポットです。バルカン半島もそうですし、朝鮮半島もおそらくそうでしょう。半島というのは何かと地政学的に荒れるポイントです。で、そのクリミア半島がロシアのものになったのは、1774年に集結する露土戦争においてです。これでオスマントルコからロシアにクリミア・ハン国が渡りました。で、後にクリミアがウクライナに譲られるまでの間に、クリミアへのロシア人の流入が進んだと思われます。
で、じゃあそのクリミア半島がウクライナの物になったのはいつかっていうと、1955年、ソ連がウクライナにあげるっつってあげてからです。これが世界史の謎とやらなんですが、ソ連の黒海艦隊の基地を擁するクリミア半島をなんで簡単にウクライナにあげちゃったのか、ちょっと調べたのですけどよくわかりません。一応、第二次世界大戦勝利10周年を記念してとか、西側世界と接するウクライナの機嫌をおもねるためとか、フルシチョフがウクライナ出身でウクライナ大好きだったからとか、色々ありますけど、たったそれだけの理由で手放すにはあまりに重要なポイントです。一説によると、フルシチョフが馬鹿だったそうです。
それから、1991年、ソ連が崩壊したときに、クリミア半島は「クリミア自治共和国」を名乗り独立宣言をしますが、その際にクリミア半島を取り戻したいソ連/ロシアとしてはこの独立を一旦は支持することにしたところからも、やっぱり簡単にウクライナにクリミア半島を譲ったことを後悔しているようです(まあ、それは現状を見ても明らかなんですが)((というのも、クリミアには近代ロシアの栄光の歴史みたいなのが詰まっているのです。露土戦争で勝ち取ったクリミアには、ロシア随一の保養地とされるヤルタがあり(ヤルタ会談のヤルタです)、クリミア戦争ではイギリス・フランス・オスマン帝国を、第二次世界大戦ではドイツ・イタリアをやっつけたセバストポリもあります。))。ただ、ロシアは一方でクリミア自治共和国の独立を支持しておきながら、他方で同時に独立の機運が高まっていたチェチェン共和国については徹底的に弾圧したので、そのダブスタっぷりを非難されます。結局、ロシアはチェチェンの独立を抑えこむほうを取りました。で、梯子を外されたクリミア自治共和国は、じゃあしゃあねえかっつってウクライナに合流することになったわけです。
ウクライナの近代史とはほぼロシアとの戦いです。親露派を除いて、ウクライナ人はかなりロシアを嫌っているようです。ウクライナは、二月革命の頃には独立戦争を仕掛けていますが失敗、ソ連の崩壊と共にようやく独立を果たしました。なお、ソ連時代にはホロドモール((食べるものがあんまり無いので人間の死体を食べていたとかいう話もあります))と呼ばれる農業政策失敗による人工的大飢饉やチェルノブイリ原発事故なんかも起こっています。そうやってアンチ・ロシア・イデオロギーとでも言うべきものが温められていく間に、反露=親欧のウクライナ人の中に極右としか形容できない人々が大量に発生してきていたのでした。彼らはネオナチなんかともつるんでるぐらい容赦無い感じの人々で、ウクライナにいるロシア人は全員殺すぞみたいな勢いまであるわけです。で、今回の親露派ヤヌコーヴィチ追放なんかもこの右翼たちの働きが大きい((このヤヌコーヴィチ関連もまたややこしい。彼は元から親露派だったわけではなく、最初はEUに寄って行きました。ただ、国内の汚職や不正をまずどうにかしろとEUに突き放されて、親露派になったという経緯もあります))。そうなってくると、クリミアを含むウクライナ全土にいるロシア系ウクライナ人やロシア人としてはたいへん怖いんですね。こういった人々を保護する名目でロシアはいま軍を送りこんでいるわけですが、その出兵というのはあながち荒唐無稽な話でもないわけです。
というとそういうわけでもありません。特に、クリミア・ハン国の時代から住んでいるクリミア・タタール人という人々は嫌がっています。彼らはクリミア自治共和国と呼ばれる域内に25万人いるとされています。露土戦争でのクリミア併合以来、相対的に少数民族に押しやられたクリミア・タタール人は、そのあとスターリンによって赤軍に駆り出されたり、他方では二次大戦中の対独協力の嫌疑で中央アジアに追放されたり、またそれから逃れるために山の中に移り住んだりと、とにかくハチャメチャな感じの扱いを受けてきたので、ロシアに良い感情を持ちづらいのも当然だと思います。
なんか欧米がウクライナを一旦見捨てたからこうなったんだみたいな話もちらほら聞きますけど、普通に考えてネオナチが閣僚にいる国となんかとはつるみたくない((一応いっとくと、欧米、特にヨーロッパとしては、二次大戦までの反ユダヤ主義っていうのはドイツだけの問題じゃなくて、ヨーロッパ全体の問題として共有されています。))。しかもヨーロッパにはロシアにエネルギー依存してる国も多いこともありますし、敢えてウクライナを助けてやる理由をこうなってしまう以前には見つけられなかったのは、割と致し方ないと思います。アメリカではオバマがロシアを非難してるけど、ユダヤ系の多いアメリカ本国ではネオナチの国を支持するつもりなのか、みたいなバッシングがあるという話も聞きます。
「民族主義者 VS ロシア人」というとにかく黒海が真紅に染まるほど血が流れまくりそうな対立軸があそこにはあるわけです。間違っても東京・町田・神奈川とかいう喩えで捉えられるレベルの話じゃありません。みなさんは喩え話なんかなくても状況を自ら整理できるようになりましょう。
つーか、平和憲法を制定したのはアメリカを日本を非軍事化して富国強兵前の小国に戻すためで、アメリカとしては東アジアの戦後秩序は米中二国でしきっていくつもりだったんだよ。
ところが国共内戦の結果、中国で共産革命が起きるわ、それ見て北朝鮮が南進するわで計画が破たんしてしまった。
そこで、軍事独裁政権の韓国と日本を東アジアの反響の砦にするために、東京裁判受諾を条件にサンフランシスコ講和と日米安保体制に日本を引き入れた。
植民地時代の清算が終わってない韓国と大東亜戦争への反省が終わってない日本が反共のために強引に手を組まされたわけで、これが冷戦終結後の歴史問題の淵源になっている。
そりゃ、反共で覆い隠してきた矛盾だから冷戦が終われば焦点化するわな。
で、東アジアの冷戦史の中で北朝鮮と対峙している韓国がまず朝鮮半島で戦い、次いで、海外派兵(ベトナム)まで行ったように前線として戦ってきた。
日本はその時は平和憲法を口実にして出兵はできなかった。たぶんアメリカも日本を本格的に再軍備化するには不安があったんだろうし、日本にとっても戦後の復興期に戦争に巻き込まれないためには都合が良かった。
遠回りしたけど、結論を言うと、現実の歴史におけるアメリカの東アジア戦略の中では平和憲法と日米安保ってワンセットだったわけだ(びんのふたってやつな)。
もし、日米安保の時に平和憲法も変えていたら、アメリカも日本を戦力として使うだろうし、朝鮮戦争やベトナム戦争の舞台が日本列島であってもおかしくなかっただろうなー。
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まさか、公害の推進に誰も賛成しないでしょう。人権の蹂躙についてもです。
戦争については、国家の政策の一環です。故に、正義の戦争も、悪い国家も存在しません。
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独裁は悪ではないし、国民への虐殺も、それを理由に他国への武力行使が許容されるわけではない。その逆もそうですが。
これは、事実です。
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翻って、今回の話。
①アメリカの主張……シリア政府が国民に対して毒ガスを使用した疑いがある。
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後付での大義名分をつけられなかったことにより、単なる侵略戦争となりました。
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シリアで毒ガスが使用されたとして、政府側が使用したか、それ以外が使用したかでまったく話は変わります。最悪、アメリカの関係者が流布した可能性も否定できないのです。
でも、アメリカは反米の現政権が使用した、と断定して空爆をしようとしています。
米空軍のピンポイント爆撃はおそらく世界一の精度でしょうが、それでもミスがあります。
また、これは頻繁にあるのですが、目標物を間違えます。そもそも、調査が出来ないで、何を爆撃するのでしょうね。
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シリアを信用しろ、と言う話ではなくて、気軽に武力行使に走るな、てことです。
左翼って、「中国や韓国と仲良くしましょう」って言うけど、それって「対馬は韓国領土」と、石原も真っ青の侵略容認発言を現役政治家が行うような国や、国内少数民族を弾圧する中国と仲良くするってことだぜ。
つまり、日本は国内の在日やアイヌを弾圧してもOKだし、過去に秀吉による出兵で占領したから、朝鮮半島全土が日本領と政治家が発言してもOKな国になっても問題ないってことだよな。
だって、そういう発言をしても「世界から孤立する」なんて有り得ないしね。左翼自身が「仲良くしましょう」というように、自分で「世界から孤立するなんて有り得ない」と証明しちゃってるんだから。