はてなキーワード: 北條とは
最近観だしたクチだけど朝ドラの最終回選手権で私一番あのはやっぱり『エール』かな。
私があんまりウエブのおすすめ情報に出てくるのを避けているから朝ドラのことを一切検索しないようにしたから
なんかぜんぜん情報が出てこなくなったのが良いんだけど、
世間では今新しく始まったのは評判なの?その感じも全く分からないまま、
『舞いあがれ!』竜頭蛇尾のごとく
最後そうなの?って?
いや意外ではないとは言えないけど、
なんか尻つぼみと言うか、
てっきりパイロットになれるかと思っていたのになれたけど、
なんか言い方が難しいわ。
直接舞ちゃんが呼んだわけではなさそうだけど
まあ『ちむどんどん』の最後全員老人コントばりの特殊メイク最終回よりかはましだとは思うけど。
『舞いあがれ!』の一番の功労者は舞ちゃんのお兄ちゃんの悠人くんだと思うわ。
そこは意外とサラッと流すじゃない。
舞ちゃんもてっきりオープニングのあの勢いでジャンボジェット機を操縦するのか否か!?だと思っていたのに。
うーん、
なんか思ってたんと違うー!みたいな。
あともうちょっとそこ詳しく!って思ったのが
貴司くんの短歌の本爆売れってのと
貴司くんを担当していたクセ強なあの編集者のリュー北條さんが超絶クセが強くて印象的だわ。
でも、
最近の朝ドラの最終回全員メンバー集めがちなのは流行なのかしらね?
あれって途中やっぱり変更とかあんのかしら。
作品によっては
なんか急に慌ただしく最終回?って感じの時もあるし
いかにもの語りを初めて上手く終わらせるかってのもひとつ腕の見せ所なのかも知れないわね。
まあとりあえず『舞いあがれ!』は私も完走したわ!
念願かなってというか最近お店に寄れてなくて寄ってもタマゴサンドがなかったショックがゆえ
あって嬉しいわ!
朝の元気はやっぱりタマゴ!って感じかしら。
いや!そうに決まってるのよ!
緑茶習慣つづけてるわよ。
だんだん暑くなってくるから熱いの飲むのどうしようか問題出てくるけど、
まあまだ今はホッツでも大丈夫よね。
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!
仮面ライダーは孤独に戦う等身大のヒーローだって?いつの話をしているんだい?たしかに今YouTubeで絶賛配信中の仮面ライダーBLACKなんかは確かに孤独に戦う等身大のヒーローだ。なんがしかの組織に属していたり多人数だったりする平成令和に比べると南光太郎はびっくりするほど一人で戦っている。彼が仮面ライダーだって知る人はほとんどいないし、南光太郎はあくまで仮面ライダーの友達で通してて、バックアップしてくれる組織もない。だが平成令和とくだっていくにつれて、孤独でもなければ「職業、仮面ライダー」みたいな仮面ライダーはゴロゴロ出てくる。当然私はこれら全部を書き明かすほど知識も文章力もあるわけじゃないが、コレコレ!コレだよ!っていう仮面ライダーをつらつらあげていこうと思う。
巨大化する仮面ライダーといえばJがあまりにも有名だが、個人的に好きなのはやはり「お前たちの平成って醜くないか?」でお馴染みの「仮面ライダージオウ Over Quartzer」だろう。
回を重ねるごとに昆虫ベースの改造人間からかけ離れていく仮面ライダー。毎年出てくる仮面ライダーは最早改造人間ですらなく改造人間設定はオマージュの対象となり、改造人間よりも怪人の方が強いライダー作品まで出てくる始末。年々ふざけていく見た目、毎年ガラリと変わる作風。あまりにもおふざけが過ぎる仮面ライダーのなかでもジオウはとくにふざけてた。なんだ!顔に!!「ライダー」って!!!2号は平仮名で「らいだー」って書いてあるぞ!ふざけているのか!と思って1年間見てたらもう顔に「ライダー」って書いてないと物足りなくなってしまった!
そんなジオウの劇場版、ISSAが演じる敵ボスは、そんな毎年毎年作風が変わりまくってデコボコな平成ライダーに一石を投じるべく仮面ライダージオウに戦いを挑む男である。それゆえの「お前たちの平成って醜くないか?」というパワーワードだ。彼も仮面ライダーに変身するが、仮面ライダーBLACKがベースの仮面ライダーバールクスに変身してジオウと戦う。平成の力を無効化する能力。忠臣だと思っていた男が実は敵方の人間だった衝撃の事実。囚われの身となったジオウを励ましにサプライズ出演する仮面ノリダー。憲武が!仮面ライダーの映画に!出てくるのだ!パロディライダーが本家の劇場版に出てくる!劇場で見た時、これはもう青天の霹靂であった。最後は巨大化して戦うISSAことバールクス。小渕の平成のパロディまでやってくれる!エピソードファイナルやパラダイスロストも名作だが、ジオウたちが巨大化したバールクスとどう戦うのか、是非とも見てほしい!
特定組織に属した仮面ライダーが増えていくのは先ほど書いたとおりだが、もはや書くことがいっぱいありすぎる!まず組織とは!というところから始めないといけないが、巨大組織との軋轢、という面でいうと、ショッカーから始まりゴルゴム、スマートブレイン、BOARD、ZECT、ユグドラシル、野座間製薬、果ては警察まで出てくる。
クウガに出てくる仮面ライダーは平成にしては珍しくたった一人である。どこの組織にも属さない。一応警察と協力して戦っているが、あくまで協力であり言ってしまえば業務委託のようなものだ。OPでも「英雄はただ一人でいい」と歌われているが、敵の暴力に暴力で対抗できる人間は自分一人だけでいいのだ。ある時、芝居の先生を敵に殺されたヒロイン(奈々がヒロインかどうかは民意に委ねる)に暴力の虚しさを説くクウガ。日夜暴力を振るっていることなどつゆ知らず「あんたの言ってることは綺麗事ばっかりやんか!」と言われ悲しい顔をするも「そうだよ、本当は綺麗事が良いんだもん。暴力でしか解決できないなんて悲しすぎるから!」と悲痛な返答をするクウガ。警察や世間からは「未確認生命体第4号」と呼ばれ他の怪人と同じく当初は射殺対象となるも、日々の戦いのなかで警察と協力して戦うようになっていく。少しずつ警察や世間の信頼を勝ち得ていく流れを、敵の暴力を暴力でしか解決出来ない最終バトルまでの悲哀を、是非とも見てほしい。
そのほかにも、所属している組織が1話でいきなり壊滅して、「オンドゥルルラギッタンディスカ」と叫ばざるを得ないなか、訳の分からないストーリーや勝手気ままに敵対して回る先輩ライダーなど、滑舌しかネタにすることのなかったのに、いざというときしか役に立たない男、肝心な時にしか役に立たない男、平成の善逸、強敵にしか勝てない男、などさまざまな異名を持つ男や、最終回の自己犠牲が後続のライダーの最終回に大きな影響を与えた男など、信じられる組織が初回で消滅してしまった男たちの生き様を、ぜひ見てほしい。
アギトのG3は未確認生命体第4号を模した警察のパワードスーツで、G3ユニットを巡って警察内部でずっと争いと諍いがあったのは見ての通りだ。なんなら最終回までずっと揉めてたからな、あいつら。イヤミなエリート刑事北條さんにずっと付け狙われるG3ユニット、あかつき号事件をネタにG3に変身するも敵前逃亡キャストオフでクビになり、めげずにギャバンみたいなシステムで対抗するもG3Xとの模擬戦でボコボコにされ、最終的にアギトは人類の敵認定されて怪人活動保護組織に成り下がりかける警察。これもぜひ見てほしい。
他にも555、剣、カブト、鎧武など、ベルトが組織の持ち物、ライダー対組織、という構図が年々強めになっていく。シンゴジラほどじゃないにしても組織描写は多いわけだ。賛否両論激しいゼロワンのお仕事五番勝負も会社対会社の争いで、あれも組織対組織の争いと言える。幹部同士の諍い、組織の中の揉め事、そういうの俊樹の十八番だな。組織描写が庵野の十八番なら、より面白いストーリーにしてくれることは期待できるだろう。
そんなわけで仮面ライダーのコンテンツはとても膨大なので私の知識と文章力では書ききれない。みなさん是非とも仮面ライダーの面白さをブコメなりトラバなりで語っていってほしいと思う。
「この世界の片隅に」のドラマ版が今週日曜最終回を迎えた。自分にとっては呉旅行に行く前日に見てドハマリし道すがら原作コミックも買い、舞台となった街を散策できた思い出深い作品だった。
映画版では尺の都合から削除せざるを得なかったリンさんとの物語もしっかり描かれ、さらに原作であまり描写されなかった近所の人々にもしっかり焦点が当てられ、よりボリュームのある物語に仕上がっていたと思う
各話も緩急を付けて見どころを設けすずさんと周作さん、二人の関係性も深く描くことに成功していた
アイスクリームのシーンは二人の仲睦まじさが伝わり絆が深まる姿を丁寧に描いていて「砂糖の配給が停止になって、闇市で配給の50倍の金額で取引されてる時期にアイス食うのはいくらなんでも不自然すぎる」という違和感もまぁ気にならないレベルに収まっていたと思う
いままで現代編については否定的な意見もあったが、最終的には今現在そこにいるすずさんを描く形に集約し映画とは違った余韻のある良い最終回を迎えたと思う
途中どうしても見ることができなかった回はあったが
概ねドラマとして大成功の部類だろう。ネットでの評判も上々でツイッタで感想を検索しても「泣いた!」「感動して目が腫れ上がった」「ラストにはほっこりした」と大絶賛だ
実に素晴らしい作品になったと思う
…これが「この世界の片隅に」でなければ
実のところ第一話が始まってから猛烈な違和感を感じてこれは本当に「この世界の片隅に」なのか疑うくらいだった
最初の違和感は兄洋一の出兵が決まったシーンでの家族のやり取りで母親であるキセノが涙を流したことだった、ここで泣くのは「この世界の片隅に」としては違和感があった
それ以降でも北條家へ嫁ぐことが決まった前日に不安を母親に漏らし泣き始めるすず
2話以降でも、広島産業奨励会館前で周作が子供の頃ばけもんに誘拐されたとき一緒にいた少年だったことに気がついてすずは涙を流し
それ以降も母親との別れを告げるすずの甥に当たる久夫が帰り道涙を流し、洋一の戦死の報を受けて石一つしか入ってない骨壷を抱きかかえて母親が号泣し
毎話毎話何かにつけて涙を流していた
自分にはこれが猛烈に違和感に移り最終話前の話まで見るのを止めてしまった
原作で涙を流したシーンはギャグとしてオチに使った空襲で義父円太郎がすずさんと晴美さんを庇ってそのまま寝てしまった回を除けば
晴美さんが亡くなった時限爆弾の回と終戦のときだけでそれは意図的にそうしているのだ
戦中においては、自分たちが正しいことをやってるからこそ理不尽な暴力には屈しないって共通した考えがあったからこそ人前で泣くことはせず(時代的に人前で泣くと反戦を疑われてしまうって事情もあった)
その日常を支えていた信念が飛び去ってしまい、自分たちの耐えてきた日々が誰かを犠牲にした上に成り立っていたことに気がついてしまったからそこで涙を流し
戦後は居なくなっていった人たち会えない人のために自分が笑顔の入れ物になりたい、なによりも泣いたら勿体無いという気持ちから泣くことを止めるのだ
それは作中物交で漁村に向かう帰りの道すがら刈谷さんと話す中で
「生きとろうが死んどろうが もう会えん人が居って ものがあって うちしか持っとらんそれの記憶がある
「晴美さんとは一緒に笑った記憶しかない じゃけえ笑うたびに思い出します」
という会話でも明らかで
辛い時代の中戦中耐えてきた理由、それが飛び去った後また泣くのを止めた理由
そこは物語を描く上でいちばん重要なポイントで原作を読んだ人や映画を見た人なら違えることはない
翻ってドラマ版だ
ドラマは泣く、事あるごとに泣く、誰もが皆辛い時には涙を流す
ドラマで泣いて泣いて泣く理由が一般視聴者向けにわかりやすい表現にしたから、とか実写にするにあたって原作や映画の通りだと不自然に見えるからという改変なら良かった
脚本担当が原作をあまり理解していなくて、分かりやすいドラマに組み直した結果だったのなら許せたかもしれない
脚本家は原作の内容を理解してそのテーマもわかった上でそれに対してダメ出しして改変したのだ
「泣いてええよ、我慢せんでええ、ここはあんたの家なんじゃけえ、我慢したらおかしくなるよ」
ここで理解った
脚本家はテーマを違えてたわけでも、分かりやすい安易な改変をしたわけでもない
テーマについて理解したうえでそのテーマに、「この世界の片隅に」が「この世界の片隅に」である根幹にノーを叩きつけてるのだ
はっきり言えば脚本家は「この世界の片隅に」が嫌いだったのでは無いかとさえ思う、少なくとも作品の重要なファクターの一つについて否定的だったのは間違いないだろう
結果的に見ればドラマは大成功の部類で多くの人の心に残る名作となった
でもこれは「この世界の片隅に」ではないし、「この世界の片隅に」を否定する物語だ
もちろんそれが必ずしも悪いわけではないし原作が好きな人にもドラマ版に満足してる人もいるだろう
ひょっとしたら原作が嫌いだったからドラマ版の改変でようやく自分の求めてるものが出てきたって人もいる
少なくとも真逆のことをやって多くの人の心をうった名作を作った脚本家の実力は極めて高い
たとえば、ヴァイスシュヴァルツのラブライブ勢とか、
あるいはコラボ企画(アルテイルの初音ミクコラボやら、ゼクスの日本一コラボやら)、
TCGとは違うが、パズドラのコラボイベントなんかでもこういう問題は発生する。
それらのカードゲームには、純粋に武力・魔力を持った生粋の戦闘キャラが跋扈しているにもかかわらず、
アイドル活動をしてるような普通の女子高生がそいつらと渡り合えてしまう。
一方では、学園都市最強の「“超能力者”一方通行」がパワー7000であったり、伝説の魔法少女である「“エース・オブ・エース”なのは」がパワー8000であったりするのに比べると明らかに強い。
もちろん、カードゲームとして成り立っていないかというとそんなことはない。
パワーが違っても、コストやトリガー、効果、ほかのカードとの兼ね合いなどで単純に上位下位の関係にならないようになっている。
だが、パワーはパワーだ。
歌で戦うの?マクロスみたいに?
元がオリジナルのキャラを使ったカードゲームであって、企画で他作品とコラボするような時はさらに大問題になる。
ヴァイスシュヴァルツでは、あるいは「パワーとは、力ではないのだ」と言い張ることもできるかもしれないが、
たとえばゼクスなんかでは、パワーとは戦闘力のことである、としっかり定義済みである。
ソースは見つからないが、武装した人間のパワーはおよそ1000相当である、という基準値もあったと記憶している。
さて、この世界にコラボ企画で放り込まれた「流行り神」の主人公「風海警部補」のパワーは、2500である。
拳銃と警棒くらいしか装備していない一介の警官が、武装した人間の2.5倍のパワーを持っている。
さらに言うと、「真 流行り神」の主人公「北條紗希」は、パワー6500。
拳銃すら持っていない一介の女子高生が、武装した人間の6.5倍・・・。
別に、こういうコラボをすること自体は良いことだと思うし、非戦闘民を戦闘民より強くするな、と言いたいわけじゃない。
けど、パワーの上では劣るけど効果で圧倒するとか、やりようは幾らでもあるんじゃないかな。
歌を歌うキャラなら、味方のパワーを上げるとかライフ回復とかだったらすごいそれっぽいじゃん。
そもそも版権作品を使っておいて、そのキャラに全く関連のない効果とか与えられるのがすごく嫌。
これは戦闘民でも同じことで、一方通行なら攻撃の反射とか効果で再現してほしいし、なのはなら戦えば戦うほどスターライトブレイカーの威力が上がるのを再現してほしい。
そういう所こだわらないんなら、版権キャラじゃなくて良くない?テキストそのままで、名前とイラストだけ別のキャラに変えても通用するようなカードは作らないでほしい。
元増田とは少し考え方が違いますが、選ばれなかった過去という話を明確に打ち出しているので、「あり得たはずのもうひとつの世界」というのは重要な要素だと思います。
原爆で母を失ったヨーコは母の左手を握っていたために助かりましたが、すずさんが「晴美ちゃんのことを左手で引いていたら…」と後悔する際に出てくる映像と重ねることができます。
終盤にあの凄惨な親子のシーンを唐突に挿入する演出も、かなり意図的なものと思います。
もしすずさんが左手で手をつないでいたなら、晴美は助かっていたのかもしれません。
分岐ということで考えるならば、北條周作の求婚以前に水原哲とすずさんが結ばれていたら娘が産まれ、もしかしたら親子は広島で被害を受けたかもしれません。
ヨーコはそうした「ありえたはずのもうひとつの世界」の住人のようにも思えます。
そして、おりんさんという人も、すず=りんという名前から、すずさんのもうひとつのあり得た姿だったのかもと考えられます。
また、もしかしたら兄要一も南洋で生き延びて、ワニのお嫁さんと暮らしていたかもしれません。
それらのあり得た世界が選ばれなかったのは時代や状況のせいで、ただの偶然にすぎません。
無数の可能性から偶然選んだひとつの結果をどう受け止め生きるのか、ということを語った作品なのだと思いました。
そして最後にヨーコという(どこかの世界ですずさんの娘だったかもしれない・もしくは晴美のような)少女がすずさん・周作夫婦と出会います。
昔おりんさんがすずさんから西瓜の赤いところをもらったように、ヨーコはすずさんから海苔巻きをもらって、無数の世界が収束し重なり合います。
このラストは、冒頭で「海苔を巻いた望遠鏡」を覗いて眠ってしまったバケモノ、失くした右手が描いた鬼イチヤンが結んでくれた縁かもしれないね、と考えるととても素敵な結末に思えます。
私はこの原作である漫画が不朽の名作であると思っていて、それを2時間の間口の広い映画として結実させた片渕監督は素晴らしいし、
映画は大変な傑作であるなと思いながらも、原作ファンとしてやはりどうしても白木リンの物語が割愛されていることが残念に思う。
そして、こちらのブログを読んで、ユリイカを買ってきて読んだ。
ユリイカ「この世界の片隅に」 感想 【片渕監督の込めた「すず」という少女への愛】
http://www.club-typhoon.com/archives/8332896.html
短く綴られた理由にとともに
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「そこをつくらないと話にならないよ」って文句を言う人が出てきて、また続編をつくれるかもしれない(笑)。
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という一文があった。
そうか、そうであれば存分に、めんどくさい原作ファンとして「話にならない!」と言わせてもらおうと思う。
以下、原作と映画のネタバレどころか個人的な妄想まで含まれるので、未読・未見の方は読まないことをお勧めします。
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すずは、絵を描く人である。
基本的にはおおらかで、健やかな人であるけれど、少しぼんやり天然なところがある人として描かれている。
たぶん絵を描く人には同意してもらえると思うけど、絵を描くのが好きな人の一部は、現実と自意識の間に透明のキャンバスというかレイヤーを持っていて、現実をそのレイヤーを通して見ているようなところがある。
それがない人と比べてほんのわずかタイムラグがあったり、レイヤーのおかしな働きのせいで見えている世界が違ったりすることがある。
ただ、それは彼女が現実を直視できないということではない、表には出さないがむしろ人一倍繊細に世界を感じる感受性を備えているのである。そのことは波のうさぎや白木リンとのエピソードなど、随所に現れていると思う。
ほんの少し運命が違えば(具体的には周作の母が足を悪くしなければ)「北條リン」であったかもしれない女性である。
周作はどうやら上官の付き合いで遊郭にあがりリンと出会い、そして良い仲になった。ただ、おそらく身請けのための支度金の問題や、親族の反対にあい、そうこうしているうちに母が足を痛めたために、家に女の働き手がどうしても必要になった。そこで周作は「幼い頃出会ったあの女性であれば」と無茶を言ったのだと思われる。半分以上、探し出せなければそれでよい、という気持ちもあったのではないか。
それがすずに対し後ろめたい北條家の秘密であり、何も知らずそれを受け入れるすずに対する周作の姉、径子の苛立ちの原因でもあっただろう。
径子は、おそらくその性格からしてこうした企みに反対だったのだろうと思う。(映画の径子は本当に良かった)
結局のところ、原作においてその秘密はバレるのだが、すずは「代用品」であったことをただ心にしまう。
それはのちに明らかになる、すずにも水原に対して秘めた思いがあったことと対となっている。
けっきょくそれは周作とすずの初めての喧嘩、という形でお互いに秘密をかくしながら本音を晒すという場面に行き着く。
それまでのすずはどこかまわりへの遠慮や壁を感じさせるところがあったが、それ以降、すずはリンに(周作がどうやらリンの嫁入りのために準備した)リンドウの茶碗を渡すまでに強くなる。この場面、そしてそのあとの桜の中のすずとリンは本当に美しい。
その後のリンとすずの交流は微笑ましくも緊張を孕んだもので、戦火が激しくなってくる状況と相まって本当に言葉にならない。家と家族をめぐる問答など、これらの場面はやはり2時間の映画に収めるにはあまりに複雑で美しくも悲しく、どうやっても難しかったと思う。
ただここにこそ、この物語の奥深い、それでもこの世界の片隅に生きていかねばならない悲喜こもごもの、この物語の核があったのではないか。
舞台である戦時の状況はより深刻になってゆき、やがて大きな悲劇がおきる。
映画はそこにフォーカスをあてて、話をわかりやすく整理している。それはおそらく興行として正しく、そして映画から原作へというルートを大きく開いているのだろう。それはおそらく、成功している。
ただやはり、原作を読了したあとに、北條リンと水原すずだったかもしれない「もしも」を思いつつ再読した時に感じた、大きな驚きと感動につながっている部分、それが映画にないことが、私はやはり残念でならない。
エンドロールで原作に近しいコマ形式の紹介はあったし、おそらくそれは「ゼイタク」な話なんだろう。
ただ、私はやはり「この世界の片隅に」には白木リンのエピソードが必要で、文字どおりそれがないと「話にならない」と思う。
私はこの作品が大好きで、映画も素晴らしかった。この素晴らしい作品が、この世界にあってくれて良かった。
ただ、やはりこの作品に映画から触れた人は、原作も是非読むべきだと思う。ぜひ、リンさんの強さと美しさに触れて欲しい。
つまりですね、第二回クラウドファンディングまだっすか?