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はてなキーワード: 日本軍兵士とは

2023-08-01

オッペンハイマーバービーミームについて個人的な考え

マンハッタン計画原爆製造に関わった研究者を描く「オッペンハイマー」とバービー人形の実写ハリウッド映画であるバービー」が同日公開されることとなり、

これを知った人々により、オッペンハイマーバービーを演じた役者コラボさせた「Barbenheimer」というミームが生まれた(本記事ネタバレはありません)。

原爆キノコ雲を背景にバービー笑顔で写るミームや、ピンク色のキノコ雲のミーム投稿されて話題になると米国バービー映画公式Xアカウントが反応した。

この動きは瞬く間に日本人の視界に入ることとなり、Xでは「広島長崎原爆投下に対する配慮がない」「ミームに対して公式が触れること自体不適切

9.11ミームを作って何を思うか問いたい」など批判が巻き起こる事態となった。騒ぎからまもなく、バービー日本公式Xアカウント謝罪した上で、

ネットミームに触れた米国本家対応遺憾の意を表明した。

どのミームも明らかに、全く異なるジャンル映画が同日公開されることを揶揄した内容だった。そこに「広島」や「長崎」というキーワードはなかったし、

原爆によって失われた命を揶揄する表現もなかった。(「原爆キノコ雲を背景に半分骨になったバービー笑顔で佇んでいる」というような画像があったとしたら、

それは初めて原爆投下によって被害を受けた人たちを揶揄するミーム認識して差し支えなかっただろう)

それにも関わらず、過剰な批判をしているXアカウントには違和感があった。特に9.11ミームを作って何を思うか問いたい」といった批判は、Barbenheimerよりも明らかに攻撃的なミームを作ろうとする姿勢だった。

米国インターネットRedditや4chといった掲示板からまれネットミームは、そもそも高尚な文化ではない。「フェアユース」を拡大解釈して自由気ままに著作権コンテンツ面白おかしく改変して投稿する文化だ。

著作権肖像権どころか、人権配慮そもそも存在していない。面白事象キーワード画像であれば、ルール存在しない。面白ければすべてよしだ。まともな人間ならミームに触れることすら避けたほうがよいレベルだ。

日本でたとえると「淫夢語録」やそれから派生したコンテンツ全般が該当するだろう)

にも関わらず、「広島長崎への配慮が足りていないミームを作る米国人の原爆に対する知識はこんなもんか」といった批判や「歴史的過去から振り返ると不適当だ」という批判が繰り返された。

これらはナンセンスだ。ネットミームはそういうものなのであり、誰にも伝わらない批判だ。「ナンセンス?いや、そんなネットミームをやるなよ」と感じるのも自然ではある。

だが、米国インターネットにおける一つの文化から、Xにいる少数の日本人がそう考えたとしても消え失せることはないのだ。

一連のミームを見て批判した人たちが感じた苦しみや悲しみは本物だったかもしれない。だが、もう少し、ネットミーム作成者が何をどこまで考えて作っているのか、

考えを馳せてみてもよかったのではないだろうか。またすでにバービー公式アカウント謝罪しているし、これ以上拳を振り上げ続けることは、誰のためにもならないだろう。

そして今回のケースでは、戦争善悪二元論に基づいて批判を展開していたケースが多いのも印象的だった。原爆投下被害を受けた日本が、米国側の民間人大量殺戮批判する「善」であり、

原爆投下した米国「悪」を前提としてミーム批判しているように感じられた。視点を変えれば、日本軍の侵略行為を止められた原爆は「善」であり、民間人犠牲も厭わず防衛戦争を繰り返した

日本軍を「悪」という視点をもとに賛同したり批判したりすることもできるだろう。またこの単純な善悪二元論に基づけば、奇襲攻撃をかけた真珠湾の戦いは明らかに日本側が「悪」であり、

米国側は奇襲攻撃批判する「善」に当たる。中国韓国など東南アジア諸国日本軍が起こしたことは大局的には「善」だったのかもしれないが、被害を受けた人、家族を失った人から見れば「悪」である

では、沖縄本土での総力戦は誰にとっての「善」で、誰にとっての「悪」だったのか? 枚挙にいとまがないが、そもそも戦争において起きた事象をこうした単純な善悪二元論評価し、

それに基づいた姿勢批判するのは問題だと感じた。「勝てば官軍負ければ賊軍」の精神のものだ。敗戦を経て学んだのは、極端な善悪二元論が罪もない人々や、日本軍兵士の犠牲を増やしたことではなかったのか。

ミーム賛同したり批判したりする人たちは、原爆製造に関わったドイツ人オッペンハイマーを「善」あるいは「悪」のどちらで見るのだろうか。

太平洋戦争を起こした日本という当事国に住んでいるのにも関わらず戦争歴史を「善」と「悪」しか見られない人が増えたのだなと残念に思った。

2022-01-07

anond:20220107121530

実際、ヨーロッパでの義務教育学校教育の当初の設立目的は「将来の工場労働者を育てるため」と明言してるし、日本も「将来の日本軍兵士を育てるため」だからな。

2020-08-15

日中戦争従軍した祖父

過去記憶を頼りに書いているため、情報の正確性を保証できません。それを了承の上でお読みください。

前置きを飛ばしたい場合引用ブロック部分へ

今は亡き私の祖父は、日本軍兵士として末期の日中戦争従軍した。

10年前、祖父は私にその時の詳細を一度だけ語った。

第二次世界大戦が終わって75年、その話を自分記憶がこれ以上劣化しないうちに書き留めておく。

祖父1920年12月まれ1944年頃〜1945年従軍体験を語った当時90歳(認知機能正常)

・私 …1990年まれ、話を聞いた当時21歳

私は幼い頃から祖父中国戦争に行ったことを知っていた。

しかしそれ以上のことは何も知らないままだった。

大学2年のGW、私は両親、妹と共に父方の祖父母宅へ遊びに行った。

祖母と母が台所食事の片付けをし、祖父、父、妹、私が居間で団欒していたその時だった。

祖父が何の前置きもなく、そして極めて淡々と、幼少期から戦争体験を語り出した。


祖父淡路島の山深い農村で生まれた(長男ではない)。

高等小学校卒業後、街の酒屋で奉公した。

将来なりたい職業兵隊だった。

こんな田舎の子供でも「兵隊になる」と思わせる学校教育がなされていた。

奉公が終わった祖父本州民間企業就職した。

そして、徴集がかかった(徴兵検査1921年春?)。

戦地へ赴くよう命令されるまでは、日本国内で訓練を受ける。

兵隊には任期があり、その任期を過ぎると、戦場へ行かなくても良くなる。

任期陸軍・常備兵役現役の2年間?)

祖父任期満了の直前に「中国・石家荘」への出兵命令を受けた。

祖父の話しぶりからは、小学生頃は兵士に本気でなりたいと思っていたが、

いざ徴集される段階になってからは、出兵せずの任期満了を願っていたように感じられた。

ちなみに祖父JR国鉄と呼ぶノリで、中国全体を「満洲」と呼んでいた。

そのため私は石家荘を旧満洲国の都市勘違いしていた。


祖父日本から中国沿岸部まで船で移動し、その後陸路にて石家荘に到着した。

石家荘で祖父はある鉄道の警備を任された。

この鉄道を走る汽車日本軍の物資を運んでおり、これを中国側に妨害される恐れがある。

そのため駅だけではなく途中の線路も警備する必要があり、

祖父担当箇所は山あい農村に近い線路であった。

日本軍は農村占拠し、逃げ遅れたり抵抗した現地の民間人捕虜として捕らえ、使役していた。

しか日本軍に捕まっていない現地人もいて、

彼らが日本軍を襲ってくることがあった。

祖父は彼らに応戦し、山中を駆けずり回った。

当然ながら地の利日本軍より現地人にある。

それに山は樹木で覆われ視界が悪く、敵の姿が見えず、どこから襲ってくるかがわかりにくい。

彼らは銃を含む武器を持っており、しか自分たちの生活基盤を取り戻すべく必死こちらに向かってくる。

木と木の間からは、壮大な万里の長城が見えた。

祖父が戦ったのは民間人のみだったのか、民間人擬態した軍人だったのか、それとも両者混ざっていたのか」

という、かなり重要情報が私の記憶から抜け落ちてしまっている。


ある日、祖父は仲間達と共に銃の撃ち合いをしていた。

もちろん敵から銃弾自分達に向かって飛んでくる(祖父は「プププププッ」という効果音と共に

親指と人差し指でつまむようなポーズをとり、右から左に水平に移動させることで弾道を表現した)。

その時、横にいた年上の兵隊に弾が命中し、彼は息絶えた。

そしてその後、祖父の片脚にも弾が当たった。

祖父は山の中を担架で野戦病院へと運ばれた。

運んだのは、中国人の捕虜達だった。

銃創のでき方によっては、当時の医療技術では脚を切断しなければならなかった。

しか祖父場合銃弾は膝上を貫通しており、脚の切断は免れた。

ただ、祖父の傷の縫合は無麻酔で行われ、激痛が伴った。

祖父野戦病院入院している間、祖父のいた部隊中国側の総攻撃に遭った。

結果、部隊の多くの兵士犠牲となった。

祖父は小柄で屈強ではないため、戦友会では「あの時入院していなかったらお前も死んでいただろう」とよく言われたという。

祖父はその後、1945年8月15日太平洋戦争終戦」を現地で迎えた。

一ヶ月後に日中戦争終結したが、他の任務があったらしく、

祖父帰国は1945〜1946年の冬頃となった。

この部分を聞いた時、私は色々なショックを受けた。

戦争リアル、穏やかでニコニコしている「おじいちゃん」の抱える痛み、そして父や自分誕生紙一重だったということ。

私は祖父の膝上・その裏の傷跡をこの時初めて認識した。


祖父による戦争体験の話には後日談がある。

実は、祖父は膝上の銃弾貫通と同時に片足の小指を失っていた。

このことは、祖父葬儀喪主の伯父(祖父長男)が挨拶の場で初めて語った。

喪主挨拶では他にも、祖父が夜中に大声を出して飛び起きていた(のを幼き日の伯父が目撃した)ことが明かされた。

祖父戦地体験を引き金としたPTSD発症していた可能性がある。

これらの話を祖父がすることはなかったし、裸足の祖父を何度も見ているはずなのに、指が無いことに全く気がつかなかった。

銃弾効果音まぬけさといい、「自分中国人を撃った」経験を話さなかったことといい、

祖父の語りは孫娘用にかなりマイルドになされていたに違いない。

祖父がなぜあのタイミング戦争体験を孫に話したのか、その意図を聞くことはもうできない。

話に圧倒されてしまい、また深堀りを戸惑ってしまい、曖昧情報確認や疑問の解決ほとんどできなかった。

90歳で突如戦争体験を語った3年後、祖父は93歳で他界した。

2019-04-14

anond:20190414185100

いつも日本人にペコペコしている台湾人メンタル

大陸人は台湾人を見て「植民地にされて奴隷にされるのは悲惨」と学んでいる。

アジア各国も「優秀な奴隷を目指して競い合っている台湾人」を見て驚愕している。

「どんだけマゾなの?」と。

 

マゾを通り越して、奴隷こそ最高の人生と開き直っている。

もはや大陸人には台湾人メンタル理解不能だろう。

2017-08-12

https://anond.hatelabo.jp/20170812003759

だめだこりゃ全然、こっちの示した違いの話は目に入らないようだ。じゃあもっと具体的に聞いてみよ。アメリカ日本軍兵士慰霊碑はつくられるけど、テロリスト慰霊はされないのはなぜ?

 
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