はてなキーワード: 文法的とは
「失礼します」を「失礼いたします」、「お送りします」を「お送りいたします」…
とある世代より若い日本人は、「します」より「いたします」のほうが丁寧であるという印象をもっているように思える。
敬語の文法的には、「します」でも全く問題ないはずだ。ただ、目上の人にしますだけだと、なんとなく敬意を欠いてる気がするので、「いたします」にしてしまう。まさに呪いだ。
実は俺は自分がどこでこの呪いにかかったかは覚えている。マナー講師がテレビで「『します』は失礼。『いたします』を使いましょう」と言っていたことだ。ちょうど就活の時期だったので、そういう部分に敏感だったのもあいまって、まんまと俺はその呪いにかかった。そして15年以上たった今も解けていない。
ChatGPTは大量のデータから学習した言語モデル。生成される文章にはパターンが含まれ、完全に消すのは困難。文体や表現は一貫性を保つために最適化されている。特有のスタイルが残るのはアルゴリズムの構造上避けられない。ユーザーの工夫で特徴を薄めることは可能だが、完全に取り除くのは難しい。
こっちはアウト
ChatGPTは大量のデータから学習した言語モデルやねん。生成される文章にはパターンが含まれてて、完全に消すのは難しいわ。文体や表現は一貫性を保つために最適化されとる。特有のスタイルが残るのはアルゴリズムの構造上避けられへんねん。ユーザーの工夫で特徴を薄めることは可能やけど、完全に取り除くのは難しいで。
最近、ChatGPTを使いすぎているせいか、自分の投稿がどんどんChatGPTの影響を受けてしまっているように感じます。このままでは、自分のオリジナリティや個性が失われてしまうのではないかと深刻に悩んでいます。
最近、ChatGPTを使いすぎて、私の投稿がどんどんChatGPTっぽくなってきてるんだ。まるで自分がAIと融合して、サイボーグ化してるみたいだよ。
最近、ChatGPTばっか使いよるけぇ、わしの投稿がどんどんChatGPTっぽうなっとるんじゃ。ほんま腹たつわ!こんなことしよったら、自分の言葉が全部機械みたいになってしもうて、なんも面白うないわ。ええかげんにせぇや、ChatGPT!わしの個性返してくれんかいのう!
丸出しのも嫌いじゃないけど
IQが「70以上85未満」というのが境界知能の定義で、全人口の14%がこれに該当するという。-1SDというか、偏差値40以下の人たちと言って差し支えないだろう。
最近この人たちと接する機会があって驚いたのだが、彼らの文章を書く技能は、十分に高いのだ。もちろん知的バックグラウンドが乏しいので大したことは書けないのだが、文法的に破綻しているわけではないし、流暢な日本語と言って差し支えないものを書いてくる。正直、当たり障りないことを書いている範囲では、境界知能の人か否かは文章からは判別できないと思う。
そして、当たり前だが、承認欲求は彼らも持っている。でも、大したことはできないし、書けない。これは健常域の人も全く同じだけど、彼らは一発逆転できるような思想(スピリチュアル、反ワクチン、など)や強そうな人に憑依して、承認欲求を満たすという手段を取ることがとても多い……というか、それ以外の方法が残されていない。
という二つの絶望を、僕は最近見つけ出してしまった。そして、この絶望は解消されることは決して無い。
うまくまとまらないのでこのへんで。
お前はいちいち相手の言葉全てを文法的に辞書的に正しい表現であるか吟味して会話するのか?
人間の言葉は時に曖昧だったり、誤解が生じ得ることもあるだろ。けれど普通の人は空気を読んで、意味的に考えて、多少の間違いは許容しつつ相手の意向に応える形で返事するだろ。コミュニケーションの基本。
石丸はそれができてないから。いちいち相手の表現に不十分な点があるとそこばかり追求して話が進まないから。形にとらわれて中身を蔑ろにしてるとも受け取れる。これでは論破したいだけと思われてもしょうがない。普通の人ができてることを石丸はできてないから異常者と思われて叩かれる。
石丸は皆に石丸式コミュニケーションを求めている。しかし、それは驕りであり政治家たる石丸側が皆と同じコミュニケーション方法を取るべき。というか政治家でなくても。
ちゃんと読んだわけじゃないけどUGはどっかで絡んできたんだと思うけど政治に口出す系の人か
英語で考えるか日本語で考えるか絵で考えるかの間に文法的に近い部分はなくて使える道具を使ってるだけ
まあ読んでないから本人が実際どう言ってるのか知らんけど
『(ある程度は読めるが)喋れない、聞けない』から、『TOEIC 815点(リスニング420点)まで、5時間x10か月=1500時間』
大学受験で英語が得意科目だったのははるか昔。喋れない、聞けないから脱却の必要があり、10ヶ月の猛勉強で、さほど苦労なく英語で世間話ができて、ニュースやTEDなら比較的楽に聞けるようになった。日常的に字幕なしの海外のYOUTUBEを見ているし、世界一人気があるというポッドキャスト『The Joe Rogan Experience』も、まだら状の理解ながら、テキストなしで楽しめるようになった。
僕の勉強量と成果のバランスが良いのかどうか、自信はない。勉強時間も、平均したら、一日5時間を大きくは超えないとは思うが、サボり気味だった期間もあり不正確である。
それだけの時間をかけたら、そりゃ、それぐらいにはなるわな、と思う方もいるだろう。
が、『TOEIC 815点』は日常生活においても楽しめる世界が圧倒的に広がるということ以外に、履歴書にも書けて転職やボランティアにも有利らしい。
日本にいるまま、リスニングとスピーキングの力を伸ばしたいと考えている人に役立つかもしれないので、書いてみる。
と、当初考えて、オンライン英会話で、ネイティブとのレッスンを受けまくった。
そのうち、ブロークンで、適当に、喋れることを喋るだけなら、問題はなくなった。
が、文法はむちゃくちゃだし、細かな表現はできない、聞けない。会話がちゃんと噛み合わない。リスニングの能力も、上がった気がしなかった
(◯)カランメソッドで、文法的に正しい英語を喋る訓練をしよう!
と思い、カランメソッドを始めた。ちゃんと学習しようとすると、1回のレッスン時間は、25分にしか過ぎないけど、復習に1時間半かかる。合計2時間。
毎日かなりのフレーズや文を暗記しなければならず大変ではあったものの、効果を直感したので、毎日2時間をカランメソッドに注ぎ込んだ。
(x)アプリ『ELSA』さえやっておけば、発音はばっちしのはず!
「正確に発音できないと、いつまでたっても聞き取れない」とあちこちに書いてあるし、発音が悪いと、簡単な単語が伝えられなくて、会話がたびたびスタックしてしまう。発音を矯正したくて、評判のアプリ『ELSA』を毎日やった。が、ある程度進むと、何度発音しなおしてもOKにならなかったり、文としての発音が難しすぎたりして、限界を感じた。
オンライン教室のインストラクターに教えて貰って、発音矯正の得意な先生に発音を習うことにした。毎日、25分のレッスンを受けた。目から鱗の連続だった。正しい発音の仕方(口の形、舌の位置、息の出し方など)を徹底的に教えて貰った。先生は言う、「正しい発音の仕方を、まず、知ること。知ったとしても、できるできないは、別問題。口の周りの筋肉を思ったように動かすには、毎日の練習を何ヶ月も続ける必要がある。勉強ではなく、スポーツのトレーニングと同じと思え!」
半年ぐらい毎日レッスンを受け、今は、中断して、『ELSA』だけ毎日続けている。(ELSAによる僕の発音は90点)
発音矯正のレッスンは、ネイティブのように喋りたい人が受けるもの、と思っていたが、大きな勘違いだった。正しい発音の仕方をまず学ぶこと。それが大事で、できなくても知ってさえいれば、毎日、ほかのレッスンで英語を喋るときに、そのように発音しようと努力するようになる。
まず、正しい発音の仕方の基礎を徹底的に学ぶことが、大事だなと痛感した。
(◯)Netflixのドラマを全文英文表示させて理解しながら見る
のも、リスニングとスピーイングのよい勉強になった。まあ、とにかく、ドラマは、ノンフィクションやニュースや教材と違って、わからない。子供同士の話しなんか皆目わからず、ほんとに英語かと思いたくなる。でも、字幕なしでドラマを楽しむのは、最上級の難易度。なので、無理せず、英文字幕を表示させて、一文一文、解読理解していく。今は、便利なアプリがあって、英文表示をさせつつ、キーボード操作で簡単に進めたり戻せたりできるので、能率的に勉強ができる。英語のイディオムやスラングの勉強に最適。
(x)重要単語の本の単語や、単語アプリの単語をまるまま覚える
のは、なかなか難しい。いくら単語のセレクトが能率的でも、無味乾燥な勉強になるので、苦痛だし、案外能率が悪い。
(◯)ドラマやオンラインレッスンで習った単語熟語をアプリWordHolicに入れていき、毎日、聞き流す
ドラマから取った単語や熟語は、そのドラマのシーンとセットで頭に残るので、覚えやすい。その単語が、頻出単語なのかどうかはわからない不安が少しあるけど、覚えやすさが勝る。スマホのWordHolicに、現時点で新しく知った単語・熟語を2500語ぐらい蓄積していて、車の運転などのときに、流しっぱなしにしている(日本語→英語の順)。ボキャブラリー・ビルディングには、アプリWordHolicに次作するのが、一番の方法と思う。
僕がたどり着いた勉強法はこんなところ。
5時間x10ヶ月=1500時間は、2.5時間x20ヶ月。1時間x50ヶ月。やっぱり近道はない。これだけの時間を英語に費やすためには、何かを諦めなければならない。
が、少なくとも、これだけの時間をかければ、なんとかなる。
なお、僕は65歳。歳は関係ない。ただし、必要性があったので、頑張れた。是が非でもという必要性があることが、一番大事なのかも。
数学の必然性は実は人間の言語分析能力によるものなので、言語能力が異なる宇宙人とは、数学的語彙が共有できない可能性があるんですよね~
なぜ数学と言語能力が関係するんだ?と思う人は、以下のノーム・チョムスキーの有名な、無意味な二種の文を見ればわかってもらえるかもしれませんね~
・“Colorless green ideas sleep furiously.”(「無色の緑の考えが猛烈に眠る。」)
・“Furiously sleep ideas green colorless”(「猛烈に」「眠る」「アイデア」「緑色」「無色」)
前者は文法的には正しいが意味が無い文で、後者は文法的に正しくないから意味がない文、ということはわかっていただけるかと思います。
しかし、上記二種の文は、両方とも経験的には何も想起させないがゆえに、経験的には同様に意味の無い文です。
ということは、経験こそが認識の基礎、基底であると考える人にとっては、二種の文の違いを説明することができないのですよね~。
なぜならそのどちらも経験することができず、経験による理解が基底であると主張するのだから、経験的基底において違いのない(意味のなさ、指示対象が存在しないという点において同質という意味)上記二種の文の本質的差異(基底的差異)を指摘することができないのですね~
現代の言語哲学、そして現代論理学の基礎を作ってきた哲学者たちは、数学の必然性がどこから来るのかという問題について、
文の経験的理解よりも前に、文の文法的分析が先に行われる(そして数学的必然性は、文法分析に基づく理解そのものから正当化可能である)ことを示すことによって、
前経験的(アプリオリ)に論理や数学の必然性の正当化が可能であることを証明してきたんですね~
例えば上記二種の前者の文でいえば、経験できないにもかかわらず文法的に正しいことが理解できるのは、まず文法分析が先に行われ、その後意味の解釈に失敗するから無意味なのであって、その逆ではないのですね~
そして数学で扱われる文、例えば2+2=4は、なんらかの経験を前提せずとも、形式的な理解(つまり文法的理解)から正当化可能であるがゆえに必然的(=非偶然的、または前経験的)なのですね~
そして例えば上記二種の文とは別の有意味である文「無職の緑色のジャージを着た男性が猛烈に眠る」であったとしても、まず文法的理解が先に行われたあと、その意味解釈を行うことができるがゆえに有意味なのですね~
プログラミング言語だって、まずどれが変数で、その変数に何が割り当てられているかといったセマンティクスよりも先に、シンタックス的分析が行われますよね~
だから、数学の必然性は実は人間の前経験的な言語分析能力によるものなので、言語能力が異なる地球外生命体と遭遇した時、数学的語彙が共有できない可能性ももしかしたらあるのかもしれませんね~
なぜなら我々の理解する必然性とは、我々の言語分析能力に基づくものであって、よそから来た宇宙人にそれが期待される理由がないからですね~
(受身の助動詞「られる」ではなく)受身の助動詞「れる」に接続してるだけなので、文法的には問題無い。
ただ、最近は受身・可能・尊敬の助動詞「られる」について可能/尊敬を区別させるために、可能の場合は「れる」に変形する「ら抜き言葉」が普及しているので、「れる」の可能のニュアンスが強くなってるかもしれない。
それと、「れる」は「られる」より口語的ではある。
「られる」と意味・用法は同じであるが,未然形がア段となる動詞には「れる」が付き,それ以外の場合は「られる」が付くというように,接続のしかたに分担がある。サ変動詞に接続する場合,「出席される」のように,未然形のうち「さ」に「れる」が付くのが普通であるが,書き言葉でのやや改まった言い方では,「出席せられる」のように,未然形のうち「せ」に「られる」が付くこともある。の可能の意では,現代語では普通「行ける」「登れる」などのように,可能動詞で表すことが多い
「口語体は文法的に誤りだろうか?」 うんうん。良い設問ができたな。論文検索とかしても普通に良い話出てきそう。
所説立場あるとしか言いようがないが、俺が思うに、口語体も別に文法的に誤りではないと言うしかないのではないか? だって通じているだろう言語が。
だが、フォーマル/インフォーマルの区別はある。「フォーマルの場で使うことのできない文法は厳密には誤りである」という立場も、取れなくはないな。それだと、誤った文法もインフォーマルでは使うことができる、という立場も同時にとることになるけど。
あとそれだと、敬語を使わずに書かれた会話文は文法的に誤りである、みたいなおかしなことは起こると思うんだよね。
「い抜き」言葉、つまり「やっている」を「やってる」と言ったり書いたりする例は、文法的には間違いとされて(い)ますよね。こういうことは先に話すことのなかで起こるのでしょうか?
つまり、動詞の終止形を連体形と同じ形で書くのはもともと文法的には間違いだったわけですが、これが正しいとなる過程のなかでは、連体形と同じ形で表現することは、書くことにおいてではなく話すことにおいて先に始まったのでしょうか?
それで話しの中での使われ方に押されて、書くときにも使われるようになり、なし崩し的にそっちの方が文法的に正しいということになっていったということなのでしょうか?
い抜き言葉が話し言葉の中でいくら多数派になったとしても、それだけでは文法的に正しいということにはなりませんか?必ず書き言葉の世界でも圧倒的に多数派になる必要があるのですか?
どうにも「文法的に正しい」という表現自体が腑に落ちないのです。誰かなんの権限でもってなにを基準に正しいとか誤りとか断じられるのかと思ってしまうわけです。
文法=母語話者の表現のなかに見いだされる法則、なら、「い抜き」言葉はすでに法則と呼べるレベルに通用してると思うのですが。それを「いや、文法に即していない」といえる根拠ってなんなのでしょうか?たぶんその根拠に立つと、終止形を連体形で表すことだって「文法に即してない」ということになるように思えるのですが…。
ブコメもだいたい「そりゃああるだろう」「そういうもの」「内心はそりゃね」くらいの空気感なの結構意外
それは「ある」のは当たり前だし内心の自由では無論あるけど、きょうホッテントリにあがってた
https://naokoiwanaga.theletter.jp/posts/42d7a3d0-a08d-11ee-af3e-3ffd3f062c27
こういう事態とか、他だと陰謀論や反ワク反標準医療とか誰かの「小さなつぶやき」がきっかけにすぎない諸々の悪意や恨みつらみが増幅加速された結果のニュースを日々目の当たりにしてるのに
悪意や正当化の増幅加速装置みたいなXで医療関係者を名乗る人間がもっともらしく公言することによって、さらにそれに同意のほか諦念や冷笑の反応が積み重なることによって
そのポストに含まれている意地悪や悪意やほかの含意が受け取り手によってさらに曲解されたり増幅され続けながら拡散され現実のものとなって
排除の正当化や差別心の肯定によって実際の行為のハードルを下げることを煽る危険性は確実に以前より強くなってるし、実際起こってるのは間違いないなあと感じる
そういう「流れ」のできる状況の危険性の話を元増田はしてるのかと思ったからほんま意外
(比較的)閉じてた頃のインターネットと同じでない以上それこそ虐殺の文法的なこと起こってる気がする
https://anond.hatelabo.jp/20231219211228
たまに標準語で「これ文法的に成立するけど使わないね」みたいなのあるじゃん
おささるはその類だと思って使っていたし
押される 受動態
→ 押さされる
→ 押ささる ら抜き言葉
押さされた 過去形
→ 押ささった 文法上の変形
つまり、「される」をつければ受動的であるが、受動的を「意図してない結果」と捉えるとこういうルールになる
食べられる 受動態
→ 食べらされる 文法上の変形
→ 食べらさる ら抜き言葉
食べるされた 過去形
→ 食べらされた 文法上の変形
→ 食べらさった 文法上の変形