はてなキーワード: 1954年とは
別当 薫(べっとう かおる、1920年8月23日 - 1999年4月16日)は、兵庫県西宮市出身のプロ野球選手(外野手)・コーチ・監督、解説者。
セ・パ両リーグ分立前後に走れる長距離砲として活躍した外野手で、
1948年から1953年まで6年連続でベストナイン外野手に選ばれた。
1948年に阪神に入団し、藤村富美男とダイナマイト打線の中核をなす。
最高殊勲選手に選ばれる。
1952年と1954年から選手兼監督を務めると、以降近鉄・大洋・広島で20年に亘って指揮を執り、監督としても1237勝を挙げた。
知名度、後世への影響、漫画史的意義などを独断と偏見で考慮した上でサブカルくそ野郎フィルターで濾した二番煎じを俺も作ってみたぞ増田ァ
占領直後の性的暴行や強姦の件数については確定していないが、藤目ゆきによれば上陸後一ヶ月だけでも最低3,500人以上の女性が連合軍兵士によって被害をうけ、その後も1947年に283人、1948年に265人、1949年に312人の被害届けが確認されているがこれらは氷山の一角であり、藤目は占領とは「日本人女性に対する米軍の性的蹂躙の始まり」でもあったと述べている[8]。
その後も在日米軍による犯罪は続き、1952年5月から1953年6月の警察資料でも殺人8、過失致死435、強姦51、暴行704など合計4476件の犯罪が報告されており、1954年2月には宇治市大久保小学校4年生の女子児童が強姦されたあとに陰部から肛門まで刃物で引き裂かれる事件が発生し、ほかにも4歳の幼児が強姦され、危篤状態になった事件や、突然狙撃されて死亡した事件などが多発した[9]。
日本占領後、多くの市民は連合国軍の上陸によって日本女性が強姦されることを恐れていた。こうした懸念から、内務省警保局をはじめ各省庁および都道府県庁は、女性らに自宅待機、避難、日本人男性から離れずいるようにとの注意喚起、また米兵との接触を回避するよう勧告をしている。
米軍が最初に上陸するものと推測された神奈川県では、県警は若い女性や少女に避難勧告をしている[10]。内務省警保局の情報にも「神奈川県ハソノ特質上敵ノ最初ノ上陸地点タルベシトノ想像モアリ「敵ハ十八日ニ神奈川ニ上陸スル」ノ流言多シ」とあり、戦争関連の諸文書が一斉に焼却廃棄されるなか、行政機関当局にも相当の混乱があったことが窺える。主要港湾を擁する横浜市では、幹部職員の全員逮捕処刑を前提として、緊急措置として市民のうちの婦女子の疎開避難、女子職員の全員解雇などを決定し、これをきっかけとして丹沢方面への疎開騒ぎが広まっていた。
これに呼応し、政府は内務省警保局長名で特殊慰安施設協会(RAA)の設立について全国都道府県に打診し、東京都下の料理飲食業組合、芸子置屋同盟、待合業組合連合会など7団体代表者により、特殊慰安施設協会が急きょ設立され、協会を通し「性の防波堤」となる志願女性を募集した[11]。これにより、各所に「進駐軍将兵慰安施設」が設置され、一例として横浜の大阪商船ビル、日本造船大丸谷寮、箱根、江ノ島の新設施設などがこれに利用された。GHQ当局は1946年1月に、「非民主的であり、女性への人権侵害である」との理由から施設の閉鎖と公娼の禁止を宣言したが、占領軍兵士を相手とする「私的」売春は継続され、兵士たちの間で性病が蔓延した[12]。
ジョン・ダワーによれば、特殊慰安施設協会設置の効果もあり、占領軍の規模と比較すると日本政府の想定よりは強姦の発生率は低かったが、同時に性病の集団感染も引き起こした。一例としては、検査の結果1個師団の70%が梅毒、50%が淋病の陽性反応を示したため、これを主因として売春施設は閉鎖されることとなった[12]。
公娼施設の廃止後、強姦の発生率は約8倍に増加し、ダワーの調査によるとRAAが活動終了した1946年以降、日本人女性に対する占領軍将兵による強姦件数は一日平均40件から一日平均330件に急増した[13]。これに対してブルマは、「毎日40件以上の強姦が行われた可能性があるが、ほとんどの日本人は、アメリカ人は恐れていたよりも規律的だと認識していただろう」と述べている[14]。
テレーズ・スヴォボダは、慰安施設閉鎖後に強姦の報告件数が急増した事から、兵士に対する慰安婦の提供が強姦事件抑制に一定の効果があった事を認めている。スヴォボダはまた、一例として慰安施設の営業開始前に、待ちきれなくなった数百人の米軍兵士が二棟の施設に乱入し、そこにいたすべての女性を強姦した事件についても言及している[15]。 また、スヴォボダによると特殊慰安施設協会の廃止後少なくとも二件の大規模な集団強姦事件が発生している。
東京都の事例
スヴォボダおよび田中の調査によれば、1946年4月4日の深夜、3台の軍用トラックに便乗した米兵50人が東京都大森区(現・大田区)の中村病院に侵入し、号令の笛とともに約一時間の間に女性患者40人、女性職員37人を回姦凌辱した[16]。被害者のうち、2歳の幼女は事後床にたたきつけられ死亡したほか、止めに入った男性職員一名が殺害された[16]。
名古屋市の事例
また、田中によると、同1946年4月11日に名古屋市の住宅街に侵入した30人から60人の米軍兵士が地域内の電話回線を切断後、各家屋に同時に侵入し、10歳から55歳の女性を強姦している[17]。
マイケル・S・モラスキー(日本文学、日本語学研究者)によると、日本の警察の報告を読むかぎり、強姦やその他の重大犯罪は海軍を中心に広まっており、横須賀基地と横浜周辺における占領後最初の数週間の犯罪件数が突出しているが、日本本土全体では一般的ではなかった[18][19]。
上述のように、駐留米軍兵士による拉致、強姦、殺人は日本全体には波及していないものの、警察記録と報道記録が示している通り、凶悪犯罪を犯す兵士の多くが、1945年に日本に上陸し、最初の数週間の間に記録的件数の犯罪行為をおこなっており、占領最初の10日間だけで1336件の強姦事件が報告され、その後も9月一か月間の横浜市内での強姦事件は119件にのぼっている[20]。ダワーによれば、被害者が数人以内の場合には警察に報告すらされなかった。[21]
北海道の事例
歴史家の竹前栄治、ロバート・リケッツらは、米空挺部隊が上陸後、札幌市内において略奪、強姦、酔ったうえでの日本人への暴行などを働くことはまれではなく、強姦被害者の中には自殺した者も少なからずいたと述べている[22]。
ロバート・アイケルバーガー第8軍司令官は、非番の兵士から女性を保護するために日本人が自警団を組織した際、第8軍の装甲車に協力を命じ、事件の首謀者を逮捕したことを記録している。しかしダワーによれば、一方で強姦事件の中には警察に報告されないものもあった。
竹前とリケッツらによると、オーストラリア、英国、インド、ニュージーランド軍の一部によって構成され、中国及び四国の9県を占領していたイギリス連邦占領軍 (BCOF)も、また多くの強姦に関与していた。
オーストラリア軍は1946年に広島県呉市に上陸するとすぐジープで若い女性を拉致し強姦していた。被害者がほぼ毎晩助けを求めて泣き叫ぶのを聞いていたが、占領軍による犯罪行為の報道は封殺されていた[22]。中には、一人の少女が20人以上の兵士に回姦される事件もあった[23]。
イギリス連邦占領軍の公式報告では軍所属の将兵が1946年5月から1947年までの期間に57件、1948年1月から1951年9月の間に、さらに23件の強姦を犯し、有罪判決を受けたされる。しかしながら、1946年2月から4月にかけての英連邦占領軍による占領当初の重大な犯罪の公式統計は存在しない[24]。オーストラリアの歴史家ロビン・ゲルスターによれば、イギリス連邦占領軍の重犯罪公式統計は米国と同様に過小評価されているが、これには日本の警察が被害報告を占領軍に提出していない場合があり、これにより英憲兵隊が調査を行わなかった事も少なからず影響していると述べている[25]。
ジョン・ダワーによれば、GHQ当局は1945年9月から1952年の占領終了までの間、幅広い検閲(プレスコード)を日本のメディアに対して実施しており、開始当初には左翼活動や軍国主義、超国家主義的な思想といった思想分野が差し止め対象となっていたが、占領開始から数か月後にはこの範囲を大きく逸脱し、占領軍による強姦などの重大犯罪や社会問題も幅広く検閲の対象となっていた[26]。
竹前栄治とロバート・リケッツによると、占領軍は、1945年9月10日付連合国軍最高司令官総司令部令「占領活動に敵対的な全ての報告・統計発行物の違法化にむけた報道発表と事前検閲に係る規則」を定め、強姦などの重大犯罪に関する報道を統制していた。占領終了後、一部の日本の雑誌はアメリカの軍人が犯した強姦件数を発表している[22]。
真実を伝えたい。約70年前に結婚の約束を交わした日本人女性を探しています。
当時のペギー・ヤマグチさんの写真
アメリカのアイオワ州に住む91歳のデュエイン・マンさんは、海軍時代に駐屯していた日本で出会った女性、ペギー・ヤマグチさんを、約70年間探し続けている。
2人は愛し合い結婚まで約束していたが、ある出来事がきっかけで結ばれることはなかった。
マンさんはヤマグチさん、もしくはその家族を見つけ、真実を伝えたいという。
彼はその願いを込めて、Facebookに自身のストーリーを投稿した。
海軍に所属していたマンさんは、1953年から1954年にかけて日本に駐屯。1952年に日本政府に一部返還され「東京国際空港」(羽田空港)となった「ハネダ・エアベース」で海軍連絡係として働いていた(全面返還は1958年)。彼は空軍の下士官クラブの利用を認められており、ヤマグチさんはそのクラブでクローク係として勤務していた。
自由時間にはそこでスロットマシンの修理係としても働いていた22歳のマンさんは、ヤマグチさんとダンスを通じて仲を深め、恋に落ちていった。
約14カ月の交際を経て、式の準備が出来しだい結婚しようと計画していた2人だったが、当時、アメリカの軍人と日本人が結婚するのは容易なことではなかった。
そんな時、予定より数カ月早くマンさんに帰任命令が出た。結婚する間もなく、マンさんはアメリカに帰る飛行機に乗ることになった。
残されることとなったヤマグチさんはその時、妊娠していたーー。涙する彼女にマンさんは「心配しないで。貯金があるから、すぐに君をアメリカに呼び寄せるよ」と話した。
しかし、帰宅すると思いもよらぬ事態が起こっていた。すべての貯金が父親に使われていたのだ。彼はヤマグチさんに手紙でその旨を説明し、仕事を見つけて必ず早く呼び寄せると伝えた。
マンさんは高速道路の建設会社で仕事を見つけ、週6日必死に働いた。その間ヤマグチさんと手紙のやりとりをしていたが、約1カ月後には返信が来なくなった。
約3カ月後、妹が渡してくれたヤマグチさんからの手紙には、赤ちゃんを流産してしまったこと、そして日本で出会ったアメリカ軍人の男性と結婚したことが書かれていた。
実は、その間実家に送られてきていたヤマグチさんからの手紙は、日本人との結婚に反対だった母親によって燃やされていたのだ...。
会って真実を伝えたい
母親に手紙を焼かれて彼女の連絡先を失い、連絡の方法がなくなってしまったマンさん。それから約70年たった今も、未だにヤマグチさんを探している。
「彼女にもし会えたなら、見捨てたんじゃない、ということを1番伝えたい」とマンさんはハフポスト日本版の取材に答え、ぜひこのストーリーをシェアして欲しいと語った。
5月2日に投稿されたマンさんのFacebookポストはすでに700回以上シェアされており、400件以上のコメントが寄せられている。その中には、「見つけられますように」などの応援メッセージだけでなく、情報提供や捜索手段のアドバイスも多くある。しかし、未だに確実な情報は得られていないとマンさんは語った。
彼はすでに2度結婚を経験しており、6人の子どもと18人の孫、そして6人のひ孫がいる。彼らも今回の調査を手助けしている。
【ヤマグチさんの手がかり】
現在ペギー・ヤマグチさんの手がかりとしてわかっていることは、
・1953年~1954年に「ハネダ・エアベース」(東京国際空港)の空軍の下士官クラブ(Air Force Non Commisioned Officers Club)でクローク係(Hat check girl)として勤務していた。
・当時の写真(↑)
・当時、「ハネダ・エアベース」(東京国際空港)すぐ近くの寮に住んでいた。
残念ながら、マンさんは 彼女を「ペギー」と呼んでおり、正確な日本語名を覚えていない。Facebookで彼は「Iyackoだったと思ったが...」と述べており、コメント欄ではAyakoやIchikoではないかとの憶測がなされている。結婚後の姓もわかっていない。
現在、アメリカでもこの投稿は広くシェアされ、ニュースでも取り上げられ調査の輪が広がっている。
【ヤマグチさんは米軍の男性と結婚したとのこと。その後、渡米しアメリカにいる可能性も高いですが、もし何かご存知の情報があれば、件名に「ヤマグチさん情報」と記入し、news@huffpost.jpにぜひご提供ください。編集部からマンさんに連絡いたします】
https://news.yahoo.co.jp/articles/27578dd76d48b1fc7dfe50e37769b7f496f77c7c
1/12(水) 13:09
今年秋に開催される第20回党大会で習近平の三期目が決まるが、建国以来の中国の動きから見れば異例ではなく、むしろ鄧小平個人の指名による江沢民政権と胡錦涛政権だけが異例だった。鄧小平神話が中国の真相を見抜く目を曇らせている。
1949年に中国(中華人民共和国)を誕生させた毛沢東は、事実上、1976年9月に逝去するまで実権を握っていた。途中で国家主席の座から降ろされてしまった時期があったが、それでも中共中央委員会主席(現在の中共中央総書記)と中央軍事委員会主席のポジションだけは維持し続けたので、27年間にわたって実権は毛沢東の手の中にあった。
鄧小平は最終的には1977年7月に開催された第10回党大会三中全会から復権し、職位としては中共中央副主席、国務院常務委員会副総理、中央軍事委員会副主席と、「副」でしかなかったが、1981年中共中央軍事員会主席、83年からは国家中央軍事員会主席になるなどして「軍」だけはトップの職位を要求している。
職位が何であろうと、実権を握っていたのは鄧小平で、鄧小平の一言は「神の声」として恐れられていた。
1994年に健康を害して政治の舞台から退いたが、それまでの17年間は、実際上の実権を握った最高指導者として君臨していた。
恐るべきは、鄧小平の一存で天安門事件後の中国を統率する指導者を江沢民とすると決めてしまい、その期限を10年と定めて、江沢民の次の代の指導者を胡錦涛として決めてしまったことだ。
こうして江沢民政権を基本10年間、胡錦涛政権を基本10年間と、鄧小平の「神の声」が決めてしまったのである。
もっとも、江沢民の場合は、1989年6月4日の天安門事件があったために指名しているので、1992年10月に開催された党大会まで3年間余分に中共中央総書記をしており、国家主席になったのは1993年である。
したがって江沢民は中共中央総書記のポストに「13年間」就いており、国家主席だけ1993年から2003年まで「10年間」就いている。
その意味で、中共中央総書記および国家主席の就任期間「10年間」を正確に守ったのは、中国建国以来、「胡錦涛一人だけ」だったということが言える。
中央軍事委員会に関しても1982年末の憲法改正により国家中央軍事委員会が設立され83年からは「中共中央軍事員会と国家軍事委員会」が一つになり「中央軍事委員会」となったが、江沢民はこの中央軍事委員会主席を1989年(全人代では1990年)から2004年(全人代では2005年)まで「15年間」も務めている。
というのも、中共中央総書記にも中央軍事委員会主席にも任期期間に関する制限がないことを利用して、2002年に胡錦涛が中共中央総書記になったというのに、江沢民は中央軍事委員会主席の座を胡錦涛に譲らず、「駄々をこねて」降りようとしなかったからだ。
しかし反対者が多く、中共中央委員会では2004年に、全人代では2005年にようやく中央軍事委員会主席の座を胡錦涛に明け渡したのである。
その意味で、中央軍事委員会主席に関しては、誰一人「10年間」という期限を守っていない。胡錦涛は江沢民が任期内に食い込んできたために、二期で合計「8年間」しか主席でいることができなかった。
その意味では、鄧小平によって指名されるという異様な事態を、「元に戻した」だけであるとも言えよう。
毛沢東の「鶴の一声」が法律となるというほど人治国家であったことは、今さら言うまでもないだろう。
しかし、毛沢東はたった一人の国家主席(劉少奇)を、その座から引きずり下ろすために、わざわざ文化大革命(1966年~1976年)を引き起こすということまでして、引きずり下ろす正当性を求めようとした点は注目すべきだ。
それに比べて鄧小平はどうだろうか?
いったい何名の国家主席あるいは総書記(当時は中共中央委員会主席)を、鄧小平の一存で引きずり降ろしたか、それをしっかり認識している人は少ない。
拙著『習近平 父を破滅させた鄧小平への復讐』に書いたように、建国後、鄧小平が、毛沢東生存中は陰謀により、毛沢東死後は一存により、失脚に追い込んだ国家指導層あるいはその予定者は数知れない。その名前と時期を以下に列挙してみよう。
1954年:毛沢東が後継者に考えていた高崗を、事実捏造により自殺に追い込んだ。
1962年:毛沢東が周恩来の後継者として大事にしていた習仲勲を、冤罪により失脚させた(16年間、軟禁・投獄・監視)。
1981年:華国鋒(中共中央主席、軍事委員会主席辞任)を失脚へ追い込んだ。
1981年:華国鋒の代わりに自分の思い通りに動く胡耀邦を中共中央主席に就任させる(但し、1982年9月で中央主席制度を廃止し中共中央総書記制度に)。
1986年:胡耀邦(中共中央総書記)を「気に入らない」として失脚させ、趙紫陽を後任に就ける。
1989年:天安門事件のときの言動が気に入らないとして、趙紫陽(中共中央総書記)を失脚に追い込んだ。
1989年:趙紫陽の代わりに、江沢民を鄧小平の一存で中共中央総書記・中央軍事委員会主席に指名した。
いずれも中共中央委員会常務委員会多数決議決制度がある中での出来事だ。この制度は毛沢東時代からあった。そのような中での鄧小平の独裁ぶりは群を抜いている。
だというのに、鄧小平の老獪(ろうかい)な言動に騙されて鄧小平を神格化した日本政府は、「中国を孤立させてはならない」として天安門事件後の対中経済封鎖を積極的に解除させ、鄧小平を応援して今日の中国経済の繁栄と大国化を招いている。
何度も同じ図を持ち出して申し訳ないが、中国の中央行政省庁の一つである商務部が『中国外資統計公報 2021』というのを出していて、その中に「対中投資企業数と外資実行額の変遷(1982-2020)」という図がある。
それを日本語に訳して文字調整などをしたのが以下の図表1である。
図表1:対中投資企業数と外資実行額の変遷(1982年-2020年)
日本が1989年の天安門事件発生後の対中経済封鎖解除に動き、1992年には天皇訪中迄実現させた成果が、赤線で示した中国投資に参入した新規企業者数で如実に表れている(2018年の赤線ピークは香港関連)。
恐るべきは、2017年にはトランプ政権が中国に制裁を加え始め、バイデン政権になってからも、あれだけ対中制裁を叫びながら、何のことはない、投資額は年々増えているではないか。コロナにもめげず増えている。
いや、アメリカや日本はそんなことはしてないはずだと言う人のために、念のために2020年における国・地域別の対中投資企業数と金額を見てみよう。
上記公報にある当該図表を新規企業数の多い順に並び変え、日本語に訳したのが以下の図表2だ。
図表2:対中投資新規企業数と実行額の国・地域別トップ15(2020年)
ご覧の通り、アメリカも日本も、キチンと対中新規投資をし続けているのである。ここでは引用しないが、2019年も同じだ。
これは鄧小平を神格化し、その姿勢で習慣づいてしまった対中投資が、どんなにアメリカが制裁を叫び、日本が「アメリカと一体である」かのごときポーズを取ってみたところで、減少することはないのを如実に示したデータである。
ちなみに、香港マカオは「中華人民共和国特別行政区」なので新規企業数が多いのは仕方ないとしても、あれだけ日米に寄り添おうとしている台湾が、香港に次いで多いことも注目される(台湾に関しては別の機会に論じる)。
◆「習近平三期目は異例」より注目すべきは「鄧小平神話」の罪悪
習近平は三期目以降を目指すため憲法改正まで行っているので、中国流ではあるものの、一応、憲法を重視しているということは言える。逆に憲法を改正するところまで持って行っているので、三期目以降は既定路線と考えていいだろう。
若者をはじめ中国の庶民は、「中華民族の偉大なる復興」を政権スローガンとして経済的にアメリカに追いつこうとしている中国共産党政権を、悪くは思っていない。むしろ「強い中国経済」に自尊心を刺激され愛国主義が行き過ぎて、ネット・ナショナリズムに向けて燃えている若者に習近平は手を焼いているくらいだ。
しかし日本は「習近平、異例の三期目」、「習近平の独裁強化」、「習近平の権力闘争と路線対立」あるいは「中国経済は今度こそ崩壊する」といった類のセンセーショナルな報道に飛びついて「安堵する」傾向にある。
気持ちは分からないではないが、現実とかけ離れた情報に喜び虚実空間に酔いしれている間に、世界の投資先は間断なく中国に向けて注がれており、中国共産党の一党支配体制を強靭にすることに貢献しているのである。
1941年中国生まれ。中国革命戦を経験し1953年に日本帰国。中国問題グローバル研究所所長。筑波大学名誉教授、理学博士。中国社会科学院社会学研究所客員研究員・教授などを歴任。著書に『裏切りと陰謀の中国共産党建党100年秘史 習近平 父を破滅させた鄧小平への復讐』、『ポストコロナの米中覇権とデジタル人民元』、『激突!遠藤vs田原 日中と習近平国賓』、『米中貿易戦争の裏側 東アジアの地殻変動を読み解く』,『「中国製造2025」の衝撃 習近平はいま何を目論んでいるのか』、『毛沢東 日本軍と共謀した男』、『卡子 中国建国の残火』、『ネット大国中国 言論をめぐる攻防』など多数。
ざっと調べたぞ
『樅ノ木は残った』(もみノきはのこった)は、山本周五郎の歴史小説。江戸時代前期に仙台藩伊達家で起こったお家騒動「伊達騒動」を題材にしている。
従来は悪人とされてきた原田甲斐(原田宗輔)を主人公とし、江戸幕府による取り潰しから藩を守るために尽力した忠臣として描くなど、新しい解釈を加えている。4部からなり、本編の合間に藩の乗っ取りを企む伊達兵部(伊達宗勝)とその腹心・新妻隼人の密談を対話形式で描く断章が幾たびも挿入されている。
1954年7月20日から1955年4月21日まで、中断の後に1956年3月10日から1956年9月30日まで『日本経済新聞』に連載され、書き下ろしを加え、1958年に講談社(全2巻)で刊行された。1959年に毎日出版文化賞を受賞した。現在は新潮文庫版が刊行されている(改版全3巻)。新潮文庫版の累計部数は100万部を超える[1]。
友人に勧められたウィリアム・ワイラー監督の『ローマの休日』を観てから
(もっと早く気づいていればと後悔)
・ローマの休日(ウィリアム・ワイラー監督、1954年公開)
・大脱走(ジョン・スタージェス監督、1963年公開)
・2001年宇宙の旅(スタンリー・キューブリック監督、1968年公開)
・ゴッドファーザー(フランシス・フォード・コッポラ監督、1972年公開)
・スティング(ジョージ・ロイ・ヒル監督、1974年公開)
など
https://anond.hatelabo.jp/20210212190921
https://anond.hatelabo.jp/20210212214154
これらの問いに対して、人類が歩んできた歴史の視点からの回答が無いので、記しておきます。
お前らって本という物体に対してだけ異常に過保護じゃない?それにしてもお前らの「本を大事にしろ!本を傷つけるな!」的な反応は過敏で異常だよ。宗教なの?
それは「図書館」っていうシステムが原因だと思う。なんで本だけ特別視されて、自治体が無料で貸出しなくてはいけないのか本当に謎。
これは人類が、本そして情報を手に入れる為に、血みどろの歴史を歩んできたから。
その歴史の教訓によって培われた共通認識を ”宗教” と呼ぶならば、そうかもしれないが。とりあえずは、なぜこうなったのかを紐解いてみましょう。
古来、文字や書物(パピルスや木簡など)は特権階級の軍人や貴族や宗教家のものでした。なぜ特権階級が独占していたかというと、文字を記す為のパピルスや木簡の製造コストが高かった事や、地図や軍事情報など機密に関する内容が記されていたなどが理由です。庶民の識字率も低く、市民が文字を使うとしても帳簿や資産管理としての利用が長年続きます。
しかし15世紀にグーテンベルクの活版印刷機の発明により状況が激変します。書物が大量複製できるようになり、庶民に知識が行き渡るのです。
これまでの世界において、知識や文化とは、口伝や継承によって高いコストをかけて伝承されていく特権階級のものだったのが、複製された本を手に入れることでも誰でも知にアクセスできる時代が到来しました。
当時の特権階級の宗教家達の心情を記した言葉が残されています。
教皇は知識と印刷術を廃止しなければならない。さもなくば、印刷術が最終的には教皇を廃位に追い込むことになろう。
From the Days of Great Dedications - John Fox's Book of Martyrs
印刷術による本の普及により、知が民衆化した。それにより特権階級だったカトリック教会の力が弱まる。
そしてゆくゆくは18世紀にヨーロッパ市民革命に繋がり、ついに貴族の統治する時代が終焉し、民主主義が産声を上がった。
それまで特権階級が保存していた、価値ある美術品や博物品は、市民の手により Museum として共有される事になりました。(英語の Museum が博物館と美術館の両方の意味を備えるのは、貴族から奪った貴重品をいっしょくたに展示した為、美術品や史物の区別をつけなかった事が定着したからとも言われている) 一方、図書館は革命時代より一足はやくに制度化が進んでいたため、 Library という名前で普及していく事になります。
概ね図書館および本という存在が、市民の地道な活動により普及し、普及した成果がさらなる民衆の活動を促した。という見方ができるといえます。
日本図書館協会の「図書館について - 図書館を支える理念」を引用します。これこそが、図書と書籍の歴史を端的にあらわしています。
図書館は、それを生み出す社会の特徴や条件を色濃く反映してきました。戦時下では国家の思想を広める役割を果たすこともありましたし、一方では社会的マイノリティーの権利を守るために働くこともありました。社会の変化の中で、図書館はさまざまな状況におかれてきましたが、いくつもの波にもまれながら、いかなる状況の下でも、すべての人たちに情報を提供するのが「図書館の自由」(Intellectual freedom of libraries)なのだという理念を獲得するに至ります。アメリカでは「図書館の権利宣言」(Library bill of rights、1948年採択)、日本では「図書館の自由に関する宣言」(1954年採択)です。これはあらゆる種類の図書館が守るべき自律的規範として、広く支持を得てきました。また、この原則を守るための専門職の行動規範として、「図書館員の倫理綱領」(Code of ethics for librarians)があります。
私のシンプルな記述だと物足りず不満に思う人もいると思います。興味がある人の為に、図書館の歴史と近代ヨーロッパの歩みについての書籍を紹介するので、それで理解を深めてください(と逃げさせて頂く)
書物の破壊の世界史――シュメールの粘土板からデジタル時代まで
まあ総括して言える事は、本が重要だと長い歴史の中で認められてきた為、今の扱いの重さに至ってるって事ですね。
同じ理屈で、他の疑問にも答えられる。
米とかもそういう節がある気がする(平均的な食品の大事にされ方を遥かに超越して大事にされてる)けど、どういう心情からそれが発生するわけ?
お米は長らく税として徴収されてきた歴史がある。つまりお金と同じ価値でした。
宗教なの?
同じ理屈で返すなら、あなたの財布に入っている一万円札。これはただの紙切れなはずですが、破いて捨てないのはどうしてですか。社会的・歴史的に一万円札の価値と通念が形成されてるから、大切に扱うわけでしょう。ただの紙切れなのに。
本も、米も、お金も、同じことです。
図書館基準で考えるなら、体育館の施設利用自体も無料にしてほしい。図書館は法律がそうだからというのは理解している。それなら体育館もそうすればいいのにってこと。オリンピック的な勢いでそうならないかなぁ。運動する人のことも考えてほしい。
図書館にも有料のものも多くありますが、まあ置いておくとして。この理屈は分からなくはありません。
しかし図書館と同じように、社会に必要とされる意味合いが重くなるなら、きっと体育館も無料になるでしょう。
実は歴史の上でも先例が多数あります。オリンピック繋がりでスパルタの例を紹介しましょう。
古代オリンピック発祥の地にも近い、ギリシアのスパルタ。7歳になった子供はスパルタ国家の寮で生活し、毎日運動がさせられます。費用はもちろんスパルタ国家が全部負担してくれます。無料です。立派な運動教育のすえ、子供は屈強な戦士としてスパルタ国を守る存在となりました。めでたしめでたし。
これはスパルタ教育という言葉で現代にも伝わっていますね。大げさな例を出しましたが、このように社会に必要とされ価値が認められれば、無料になる例には事欠かないと言えます。
日本も高齢化社会が進んでいますし、健康寿命を気にした予算投入も珍しくありません。スパルタ国ほどオーバーな例はないにしても、無料になるところは今後増えると思いますよ。社会に必要とされていますから。
高校1年生の1953年に、冷蔵庫、洗濯機、トースターなどがようやく登場する。
32歳の1969年に、第32回衆議院議員総選挙に立候補する。
選挙直前の一族会議中に、近隣の家から出火した。この時、森は決死の覚悟で家にとびこみ、仏壇を抱えて出て来たという。当時の北陸地方は仏教への信仰が篤い土地柄であったこともあり、この行動は風向きを変えることになった。
51歳の1988年に、日本が初めてIPインターネット接続をする。同年、リクルート事件発生。森は約1億円の売却益を得ていたとされ、一時謹慎する。
63歳の2000年に、当時の小渕首相が脳梗塞で倒れる。その3日後に第一次森内閣発足。日本国の長となる。
前任者の急病による就任であり、総裁になるための正式な準備無しでの登板だったため、内心「正直いってえらいことになったな」と思ったという
64歳の2001年に、えひめ丸事故発生。森はプライベートでゴルフ場におり、第一報が入ったとき関係者からその場を離れないよう指示されていたらしいが、第三報が入るまでプレーを続けた。ゴルフを続ける映像が繰り返しテレビ放送されかなりの悪印象となる。
同2001年、森は総理大臣を辞任する。約1年の任期期間だったが支持率は低く、前述のえひめ丸事故の印象やたびたびの「失言」が支持率低下の原因だったとされている。
73歳の2010年に、育ての母が亡くなる。
76歳の2013年に、アルゼンチンのブエノスアイレスで行われた第125次IOC総会に現地入りし、東京オリンピック (2020年)開催決定の瞬間に立ち会った。
77歳の2014年に、東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会会長に就任する。
84歳の2021年に、失言により、東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会会長を辞任する。
森が物心がついたのはいつ頃だろうか。仮に小学1年生の頃として、この頃は1944年である。母が亡くなった年である。
森が小学2年生のときに第二次世界大戦が終結している。どんな時代であっただろうか。戦後教育なので、今よりはるかに奔放な教育がなされていただろう。有り体に言えば体罰や、現代の倫理観では時代錯誤とされることが、当然の教育としてなされていただろう。
そのような教育を通して、森は育ったのだ。
日本にインターネットが誕生し、私達がWindows98でテレホタイムをしていたころには、既に森は61歳で定年を過ぎている。
森は内閣時代もとにかく失言が多いイメージであった。生来の性格とみるか?育った時代、教育、環境も影響しているはずだろう。
私達の感覚では、「時代に合わせて感覚をアップデートできないものは置いていかれる」「アップデートできないものが悪い」というのが通常だが、森にこれが可能だったとは到底思えない。
特別に森がというより、一般論としての森の世代がである。Twitterが誕生したころには70手前の世代である。
自分の母親や父親、職場の上司に「感覚をアップデートしろ」というレベルではない。それよりもっと上の世代の人間である。学生時代に戦後を経験した世代にである。
PCが使えなくて当たり前だろう。スマホが使えたら上々だろう。その世代の人間は、感覚をアップデートするのが嫌なのでなく、どう感覚をアップデートすればいいのかわからないのではないのか。
この世代の人達は恐れているのではないか。自分の古くさった感覚をアップデートできてないことは自覚しつつ、言葉ひとつで多くのバッシングが飛んでくるこの時代を恐れているのではないか。
哀れと思うこそすれ、責められないと思うのだ。私達も、いずれきっと行く道である。
1964年から1967年まで4年連続二桁勝利。スワローズ通算48勝。
1966年から1969年まで4年連続二桁勝利。スワローズ一筋で通算70勝。
V9を謳歌する巨人とは対照的に、1967年から1974年までの8年間で5回の最下位。
1965年に広島カープへ入団して、プロ初勝利がノーヒットノーラン。
1968年に21勝を挙げてエースとなると、1976年まで8回の二桁勝利を挙げる。
カープ一筋で通算131勝。キャリアで3回のノーヒットノーランを達成した。
1982年に12勝を挙げると、そこから6回の二桁勝利を挙げた。スワローズ一筋で通算112勝。
尾花と並ぶエースとして5回の二桁勝利。スワローズ一筋で通算85勝。
1997年に10勝して以降、ベイスターズ一筋で7度の二桁勝利。通算184勝。
90年代のゲーム雑誌を「懐かしいな~」とめくっていてね、花形クリエイターのインタビューとか読んでてね、「あれ、こいつら、この時代めっちゃ若くないか?」ってことでゲームクリエイターの年齢を調べてた。
はあああああ~~~若い。業界自体がほとんど80年代に興ったような若い業界だから作り手も若いのは当たり前なんだけど、それにしたって若い。
神童みたいな存在だった中村光一や中裕司が若いうちから代表作を残しているのは当たり前としても、あんな清濁併せ呑むような作風の『タクティクスオウガ』作ったときの松野泰己が20代なんだよ。「ガキが...舐めてると潰すぞ」ってならんか?ならんか?
あと何気にショッキングだったのは、堀井雄二と広井王子ね。元々ゲーム業界外の出身であるこのへんは年齢も高く、ゲーム雑誌を熱心に読んでいた90年代中盤の自分にとっては「おじさん」っていうか殆ど「初老」って感じだったんだけど、年齢みたら40歳前半くらいなんだよな。全然若いなオイ、ソシャゲのディレクターとかのが全然年齢上だぞ、ってなる。
だから年齢の問題はともかく、橋野さんや外山さんに比べて一回り遅れている気持ちが、どうしても僕の中にはあります。若い頃に芽が出なくて、やっと32歳のときに『ドラッグオンドラグーン』でディレクターでしたから。
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ニーア、ペルソナ等の人気ゲーム開発者が激論! 国内ゲーム産業を支える40代クリエイターの苦悩とは【SIE外山圭一郎×アトラス橋野桂×スクエニ藤澤仁×ヨコオタロウ】
ヨコオタロウの「やっと32歳でディレクター」というのは、現在の感覚からすると随分順調なように思えるが、2003年(『ドラッグオンドラグーン』のリリース年)であっても、なおそれくらいの若々しさが残っていた業界だったということだ。この座談会のなかで、外山はコナミで3年目、橋野はアトラスで5年目で初ディレクターを任されたと語っている。
現状に対する(悪い意味での)新しい変革となる
・一刻も早く変革を元に戻して従来の現状が戻ることを期待
ところが早期段階で皆がマスクをするようになったのに加えて
志村けんがお亡くなりになった影響で
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となると後者を求めることになる
それでもいつまで経っても「非常時感」が消えない
2011年の311の時は非常時感が国民の結束を促す方向にも働いた
隣にいる同じ日本国民が潜在的な脅威(感染者かも?)とされてる
「悪い変革を元に戻す」感は乏しかった
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ちな、「大衆的保守は現状維持(≠戦前復古)」という観点に立てば
そして保守的な大衆には性急な変革は(復古的な変革でも)望まれない
竹島奪還も、拉致被害者の奪回も、とりあえず口にしているだけで
心底から本気そうには思えなかった
大学生のころには1970年代には、すでに大学はレジャーランドと呼ばれ
ユーミンのようなニューミュージックが流れる消費文化のまっただ中
2010年代になっても嬉々として「私をスキーに連れて行って」ごっこをしてる