はてなキーワード: 宗教団体とは
このPの智絵里ほんとすき、ずーーーっと見ていたい。
導入回なので前置きのノベマス中心。
モンハンが題材の架空戦記はそこそこ見た事あるけど、このPの千早はかなり独特だから楽しみ。
このPのこのカプは安定感あるから大好き。
シンデレラの卓マス。
このPすごいな、連日更新してる。
ニュージェネとポジパでカップリングを作ると1人余る日野ちゃんだけど、前回のノベマスがあるから安心して見れる。
ノベマス。
アイマスの話じゃないけど、このPの周りのTwitterで「ありがとうの会」とかいう最早宗教団体のような理念が語られてて怖かった。
将棋の動画はどれも面白いんだけど、幸子が重要な役でどれも出てて、いつも混乱するので、気に入った回を繰り返し見て、設定を理解してる。
なるほどね。
最初は戦後の名前を引き合いにだしてるのか思ったが、グーグル先生で調べてみるとどうもそれとは違った「大日教」が存在したようだ。
同じbotのつぶやきには「大日教祖杉本と信者某との質疑応答」とあるので、教祖の名前が違うからだ。
あとは戦前の「天津教」皇祖皇太神宮天津教 - Wikipedia
(現 皇祖皇太神宮天津教)が戦後の一時期は「宗教法人大日教」という名称だったのでこれかと思ったが、教祖名も違う。
とにかく、一次ソースが気になる。
んで、色々とネット上の情報だけで調べてみた結果、@hukei_botは「昭和特高弾圧史」からの抜粋であることは間違いなさそうだ。
Googleブックス(書籍検索)で「昭和特高弾圧史, 第 4 巻」を引き出し、書籍内検索で「杉本」と検索すれば同じ内容が引っ掛かる。
現在のGoogleブックスは著作権のある書籍は全文表示ができないから(開始当時は見えちゃった気がする)ブツ切りのような情報しか得られないのが難点。
同じく「特高外事月報」と合わせて見ると、全日教教祖は1942年当時60歳、起訴時東京在住、滋賀県出身の大日行者、杉本金治郎というのが裁判記録らしきものから分かる。
108 ページ
... は神去り給ひてより其の誠が大日如来に包摂せられ其の如来は宇宙に瀰漫せる大
自然の誠にして人類並に一切の物を創造し且永遠に之が霊的及現実支配を為たりと
称し、大日教なる教理を創説し爾後之が宣布に努め来たりたるものなる処、該教理たる
や大 ...
「特高外事月報」
59 ページ
... 知得したりと構し、大日教なる教理を創説し衛後之が宣布に努め来たりたるものなる
慮、該教理たるや大日如来は宇宙に瀬夏せる大 ... 四月頃道了奪が大日如来なることを
CiNiiでも引っ掛かった。
CiNii 論文 - 内務省による宗教弾圧 : 創価学会の場合を事例として
CiNii 論文 - 宗教法人法の改正をめぐる問題点 : 宗教団体に対する管理の要素の導入の有無と是非(松本保三先生退職記念号)
1942年の治安維持法違反・大日教事件として記録されている。
しかしまあ、通常のGoogle検索では引っ掛かららんのだね。
戦前・戦中期日本の言論弾圧 (年表) - Wikipedia
↑これにも出てこなくって、忘れられた宗教みたいだ(前述の竹内文書教のせいもあるだろう)
疲れたのでこれまで。
(追記)
(追記2)
↑当時60歳というのが厳しいだろう。
宗教団体法とか治安維持法について知っていたけど、ちょいちょいググってみて、改めてこのあたり軽く考えてたな、と思ったりした。
追加の情報としては
28 ページ
明石博隆, 松浦総三 て、此の大日もその為に行を積んでゐるのである、その修行も半ば
「大平山大日教」ともいう様子。「大日教」が「大日経」の意味で使われる事が多いからかな。
https://www.google.com/#tbm=bks&q=%E5%A4%A7%E5%B9%B3%E5%B1%B1%E5%A4%A7%E6%97%A5%E6%95%99]
網羅系なる新単語が登場してきたので、乗じてこれに当てはまりそうな来期アニメを紹介してみる
5つの世界が融合していろんな属性の美少女がてんやわんやという。
原作はTCG。TCGはそもそもキャラ数が膨大で、複数の世界観が融合してるってのも珍しくないけど
カードゲームのプレイヤーじゃなくてカードゲームの世界観そのものがアニメになるってのは近年になって出てきた形式かも。
余談だが監督は今作が初監督。キャラデザも兼任してて結構入れ込んでるっぽい?
キャラ数は普通だけど、複数のラノベ作家がシェアワールドとして一つの世界観を扱っていく
という企画概要は普通のメディアミックスともちょっと趣が違う感じだし、網羅系といえるかもしれない。
ちなみに自分がラノベ全く読まないからなのか、書いてあるあらすじが全く把握できない。
2期だしショートアニメだけど、これはまさに網羅系だよなってことで。
原作だとガールズバンドのプラズマジカを中心に、V系和ロックエレクトロニカ部活動と
様々なジャンル×様々な世界観のバンドが登場するまさに網羅系。
男性アイドルは女性アイドル以前から複数人グループがメジャーだっただけあってか
ワンパンマンはまさに網羅系って感じだったけど、
「次々と現れるニセ霊能力者に宗教団体、不良番長、謎の秘密組織」とあるのでコレもどうやらその様子。
制作はボンズ。監督がデスビリヤードの立川譲。キャラではハガレンなんかで大活躍してた亀田祥倫。
ストーリーは分からんけど、ワンパン同様よく動きそうなので個人的には期待。
http://www.lovelive-anime.jp/uranohoshi/caststaff.php
今更って感じだけど一応。
公野櫻子はこの手の美少女がいっぱい出てくるコンテンツの先駆者、とは言わずとも立役者だよなあ。
しかしラブライブはスクールアイドルって軸がある分、他のアイドルアニメよりはフルコースって感じはしないかも。
こんなところかなあ。
神のために人がいるのであって、人のために神がいるのではない
沖縄県うるま市の女性殺害事件以来、いろんな誤報がネットのあらゆる所で広まっている
先日58号線で炎天下に「沖縄と共に悲しんでいます」というプラカードを持って頭を下げるアメリカ人の行動が報道された
そんな彼らにはオスプレイファンクラブと幸福実現党(宗教団体 幸福の科学)が絡んでいる
http://www.geocities.jp/hs_cult/
あそこにいたアメリカ人達は全員自発的に純粋に頭を下げていたのか?それとも皆が幸福実現党と演じていたのか?
純粋な気持ちで現場にいたアメリカ人もいたはずと信じたいところだが
幸福の科学との関与が明らかになった
https://twitter.com/atsushi_mic/status/736950122358022145
http://ameblo.jp/saikyounohosyu/entry-12151640052.html
ネットのあちらこちらで「あの人達は日当を貰っている」と基地反対派に対し、批判グループ(オスプレイファンクラブ)によるデマや誹謗中傷が絶え間なく拡散されて続けている
問い詰められると不気味な作り笑いでごまかしたボギーてどこん
ボギーてどこんらは証拠として後日さっそく、日当のお金が入っていたとされる封筒を自作自演で撮影し写真をアップした
最近は基地反対派をわざわざ撮影しに出向き、自ら期待通りに彼らにもみくちゃにされ、自発的に転び、これを反対派に突き飛ばされたと訴え、それを捉えたこっけいな映像と言葉巧みに綴った記事などをボギーchannelにアップした
辺野古付近路上での一部の反対派によるアメリカ人の車を止め窓を叩いて罵声を浴びせるなどの過剰な行動を隠し撮りしてネットにアップ
それを見たネットユーザーは、それがすべてだと思い込み、「基地反対派は酷い!過激だ!異常だ!今回の女性殺害事件に便乗してやりたい放題やっている!」などとネットで拡散してばらまいている
県議会議員選挙前もあってか、反対派に対するバッシング記事の拡散が最近はかなりヒートアップしてきた
この批判グループオスプレイファンクラブの目的は一体何だろうか
アメリカ人の前では誇らしげに正義の味方を振る舞う様子とは違って、次の映像ではとても気味が悪く、善良な人とはとても思えないオスプレイファンクラブ
幼稚に反対派をおちょくり挑発し、揚足を取り、批判記事を作りあげネットで広める事をとても楽しんでいるように見える
オスプレイファンクラブはその反対派の人達を「ゾンビ」だの「基地外(キチガイ)」だのバカにしている
基地反対運動のやり方、その人々の風貌や人格について批判するのではなく、その人達の目的、本質を見極めるべきではないのか
その人たちは子や孫の為に基地縮小や辺野古移設反対、そして基地撤去を願い残りの人生を費やすと話している方もいる
復帰後、戦争の恐ろしさも知らずに平和に幸せにヌクヌクと育ってきた私達世代、何もしない、何も出来ない私達に代わってお年寄りや県内外からの応援家達が、炎天下や悪天候の中、今現在も体を張って座り込み辺野古基地新設反対運動をしている
自分の先祖、家族、恋人、友達やその知り合い、これまでに何度も沖縄県民の大切な人々を米軍人による事件や事故で失った
消える事の無い深い悲しみ、苦しみ、怒り、魂の叫び
そして今現在も基地や米軍機、ヘリコプター等に生活を脅かされている人達の苦悩など、戦後70年以上も代々延々と続く県民の負担を全く親身になって考えてもくれない、軽減してくれない日本政府
これまでにも沖縄県民の悲痛な叫びを無視し続け、水面下でアメリカ側と話し合いを続ける日本政府に対しての不信感
県民の声が届かない、どうする事もできない中、限界を超え爆発した怒りを直接アメリカ軍に向ける手段しかない現状
過激な行動を取ってしまう彼らにすると、何十年と積もり積もった悲しみや苦しみの果てに取った仕方のない方法だったのではないのか
中国や北朝鮮などからの沖縄占領や脅威に対し防衛策としてアメリカ軍を存続させたい
しかし日本の自衛隊の防衛策だけでは本当に簡単に沖縄は他国に占領されてしまうのか
もしアメリカ軍基地が全面撤退になったとして、他国からの脅かされるような事が起きたとしても、日米安全保障条約でどうにかなるんじゃないのか
もしトランプ氏が大統領になった場合すぐ戦争始めるんじゃないか
どっちみち心配は尽きない
軍雇用員や軍用地主などその他アメリカ軍人に関わる商売などで生計を支える人々のジレンマ
防衛の為に掛る軍資金など経済的方面からも改めて考えてみるとまた別の未来予想図も見えるのかもしれない
一方ではただアメリカ人が大好きで、米軍基地のイベントやアメリカ人との友好関係を楽しむ等、そんな歓楽的な事を基地賛成理由にするパーリーピーポー的な人もいる
考えは皆様々だと思うが、「辺野古のジュゴンやウミガメを守りたい」「沖縄の青い空、青い海を守りたい」と県内外関係なくそう願う人々は「できればこれ以上米軍基地はいらない」と訴えている
一部の過激な反対派と一部の過激な賛成派の内戦を見て心を決める事はしないで
終戦後、沖縄県民の子や孫の為に平和を願い、平和を訴え続けながら人生を尽くした、たくさんの人々がいる事を忘れてはいけない
その思いをどう受け継いで行くのかが私達県民の課題ではないのか
http://sanderppp.hatenablog.com/ ←(詳しい動画付のサイトはこちら)
池上氏関連のホッテントリがここ数日あがってたので、自分の思うところを書いてみる。
自分は一応、新卒で池上氏と同じ業界に就職(といっても、自分は紙媒体)し、記者という肩書をもらっていた経験がある。
7年ほど現場にいて、体壊して、ちょっと内勤の管理部門にいさせてもらったのだが、なんか、内側から会社を見ているうちに
もともと、あんまり向いていなかったかな?と思っていた業界がさらに嫌になって転職して
10年ちょっとになる。
普通、あの業界では、最初の何年か地方で修行して、いずれ東京や大阪に戻ってくるパターンが多いが、
自分の就職先は、いわゆる経済紙で(ってもう社名明かしたようなもんだが)地方支局が貧弱な会社だった故、
新卒が地方支局に行くという制度がなく、入社から退社まで東京で過ごした。
池上氏の凄さは、なんといっても、情報を取捨選択してわかりやすく伝えるプレゼン能力と、守備範囲の広さだと思う。
で、あれだけのことを伝えられるには、背後に相当の知識があるのであろうと思われている。
その「相当」がどの程度なのか、というと、たぶん、世間一般の人が想像するよりは、かなり浅くて、
けっこうぎりぎりのラインでしゃべっているのではないか、という気がする。それでももちろん、かなりのレベルではあるだろうが。
いわゆる大手のメディア企業の記者にまず最初に求められるのは、
「昨日聞きかじったばかりのことを、あたかも以前から詳しく知っているかのようにしゃべったり書いたりする能力」である。
なにしろ、日々、いろんなことが起こるのだ。
なかなか深堀している暇などない。
そうこうして、キャリアを積んでいくうちに、それぞれの専門分野ができていくわけだが、
大半の人は、きちっと専門分野を確立する前に、デスクや管理職になったりして、だんだんと現場から離れていく。
記者職としてキャリアを全うする人(編集委員とか論説委員とか解説委員とか)は少数派だ。
池上氏の経歴を見ると、NHKで地方局や通信部を回った後、東京の社会部で気象庁や文部省、宮内庁などを担当した、とある。
東京では、悪名高き日本の「記者クラブ」に所属し、最優遇される立場で、役人から懇切丁寧なレクを受けて、
それをニュース原稿に仕上げるのが、まず最初の基本的な仕事だったと推測する。
NHKの記者は特に、「特ダネ」を取ってくることよりも、「報道されるべき情報を落とさない」ことをなにより求められるらしいので、
多分、想像以上に、定例記者会見に出席したり、資料をチェックしたり、他社の報道を確認したり、
思いのほかルーティーンワークが多いのではないかと推測される。
(なお、NHKスペシャルなどのドキュメンタリー番組は、主にディレクター職の人が担当しているので、
一つのテーマを深くじっくり追いかけるのは、あまり記者の仕事ではないらしい。
実は自分もNスぺ作りたくてディレクターを第一志望にしてNHK受けたのだが、見事に落ちた)
で、そんなに知識が深くなくても記者が務まるのかといえば、そこそこ務まる。
自分は、そのさして長くない記者のキャリアの大半を、メーカーを中心とした企業の取材で過ごしたのだが、
正直、最初は、「貸方」「借方」もよくわかってなかった。(大学は政治学選考だったし)
それでも、入門書片手に勉強しながら記事書いて何とかなっていたし、
そもそも「大手メディアの記者」が企業の広報部を訪ねると、結構いろいろ懇切丁寧に教えてくれるのである。
多分、NHKの記者というのも、それなりの対応を受けるはずである。
もちろん、伝えてほしいことは積極的かつ懇切丁寧に伝え、触れられたくないことは隠しながら、だが。
中には、「たいてい経験の浅い若手が担当する企業」というのがあって、そういう会社の古参の広報さんの中には
「今、編集委員の何々さんねえ、あの人が新人のころ、私がいろいろ教えてあげたものだよ、わっはっは」なんて言ってたりした。
もし、あなたの会社の広報部に、なんだか大学出たての記者ばっかりくるようだったら、
もちろん、教わってばっかりでは舐められるので、こっちも勉強していくわけだが、
相手はその会社一筋なわけで、知識の深さでは、敵わないのが通常だ。
知識を深めるのは、そこそこにしておいて、知らなくてもはったりかませる胆力をつけたほうが役に立つ。
そうこうしているうちに、正面から取材を申し込んだり、正規の記者会見に出席したり、
ニュースリリースを原稿に仕立て上げているばっかりでは通り一遍の記事しか書けず、
社内的にもマイナス点はつかないものの、プラス点がつけられることもないので、
独自に夜討ち朝駆け(アポなしで取材対象のところに押しかける)したり、独自ルート作ったりし始めるのである。
そんなことをしているうちに、自分のような、結局途中で業界を去ってしまうような木っ端記者でも、
ごくごくたまには、取材担当企業の株価をストップ安にしちゃうような記事を書くチャンスが巡ってくることもある。
まあでも、ぶっちゃけいえば、そこそこキャリアを積んでいる先輩の中でも
減価償却費が資金繰りにどういう影響を与えるのかよくわかっていないまま、
それでも企業の経営危機について記事を書いているような人はざらにいた。
(まあ、自分も経験積みながらようやくわかるようになったクチで、
当初はなんのことやらわからなかったのだから、偉そうなことは言えないが)
それでも、首にはなりはしない。
そういえば、思い出したことがある。
今の若い人にほ想像もつかないだろうが、その昔、世界のエレクトロニクス業界をリードし、
今でいえばappleと同じくらいのブランド力で各種製品を生み出していたSONYという会社があった(今もある)。
当時はまだまだ、かつての威光が残っていた。
自分は、そこのメイン担当になるほどの能力もキャリアもなかったが、
たまたま、SONYの会社が取り組んでいる内容が、自分の取材テーマに関わっていたことがあって
取材を申し込んだことがある。
いわゆるストレートニュースではなくて、連載コラムのような記事を書くためである。
で、SONYに行ってみて驚いた。
膨大でかつ、非常にわかりやすくまとまった資料をお持ち帰り用に用意していたのである。
なんかもう、取材しなくても、この資料テキトーにまとめたら記事書けちゃいそうな。
もちろん、そんな手抜き仕事をして相手の思うツボにはまってはいかんので、
きちんと担当者さんに話を聞いて、自分なりの記事を書いてみたのだが、
やっぱり資料に引きずられなかったかといえば、影響はあったわけで、
まあ、恐ろしい会社であった。
かつて「メイド・イン・ジャパン」の強さの象徴として流布されたSONY伝説は、
もちろん実力の部分もあったけれど、伝説を伝説たらしめようという広報戦略によって
かさを増されていた側面も多かったというのは、そこそこ業界で有名な話である。
なんだか、大分、話がそれた。
多分、池上氏は、NHKでそこそこの社会部記者だったのだろうと思われる。
そんな彼の経歴の中で異彩を放っているのは、そろそろ管理職か専門記者か、という分岐点にさしかかったあたりで
キャスターに転身し、その後10年以上にわたって「週刊こどもニュース」を担当していたことだろう。
(すごい優秀な記者と認められていたら、ここいらで、海外支局あたりで経験つんでいるはずである)
「衆議院と参議院って、どう違うのですか?」とか「比例代表制ってなんですか?」とか、
「どうして輸出が中心の企業は、円高ドル安になると困るんですか?」とか
あらためて、そういうレベルからニュースを解説する仕事を10年以上も続けたジャーナリストは、
少なくとも今の日本では皆無に等しいんではなかろうか?
普通、そこそこキャリアを積んだ記者は、あらためてそんな仕事をしたがらないし、
そもそも、そんなレベルことは、真っ当な社会人ならば学校で習っているはず、というのが日本社会の建前で、
読者や視聴者を、そんなこともわからないヤツらと想定して記事や番組を作っていたら、
ある意味、「お客様をバカにしている」ことにもなりかねない(と、みんな考えていたのだろうと思う)。
まあ実際、そのレベルで作ってみたら、予想以上に受けたわけだが。
「こども向け」の番組というフォーマットを得ることで、池上氏はそういう稀有な仕事を追及していった。
その結果、得たのが、あのたぐいまれなるプレゼン能力だと思うのだ。
多分、池上氏程度の知識や取材能力をもった記者は、NHKや全国紙にはゴロゴロしていると思う。
(自分のかつての勤め先でも、そこそこキャリアがあって、東京でそれなりに仕事している先輩は、皆さんそれなりに凄かった)
でも、その知識や取材結果を子供にわかるレベルでよどみなくしゃべれる人は、そうはいない。
池上氏のニュース解説番組をたまに拝見すると、自然災害のメカニズムから、最新の科学上の発見、日本の選挙から世界経済まで
だが、自分が見る限り、その解説は一般紙や新書本で得られる知見を超えるものはほとんど見ない。
「いや、それは、視聴者に分かりやすいレベルにしているからで、その背後には物凄い知識が・・・」という見方もあるが、
果たしてどうだろうか?
多分、毎日6紙読むという新聞をベースに、ひたすら横に広くいろいろな情報を取り入れておられるように見える。
海外取材などの映像を見ることもあるが、どうも、テレビ局とコーディネータによるセッティングが透けて見えてしょうがない。
多分、その経歴からいっても、海外取材に独自のルートなどはそんなにお持ちではなさそうだ。
やはり、「あまり深くないレベルで次々とあらゆる分野に取り組んでいく」ことがこの人の真骨頂だと思う。
それが悪い、ということではなくて、それがこなせる凄さがある、ということである。
著書を読んでも(といっても、ほんの数冊目を通しただけだが)、たとえば同じNHK出身の元ワシントン支局長の手島龍一氏とか、
あるいは日経の元スター記者で週刊ニュース新書の田勢康弘氏の著書のような、深い取材と鋭い洞察に支えられた
凄みのようなものは感じられない。
やはり、この人の存在価値は「広く入門レベルの知識を提供する」以上でも以下でもないのだろうと思う。
(なお、今、軽く検索してみたらどうやらニュース英語の本まで出されているようだが、
膨大な著書のどこまでご自分で書かれているのだろうか?という疑問は置いておく。
出版業界では、驚くほど「著者が適当にしゃべったことを編集者やライターがまとめた本」というのが、世間で思われている以上に多い。
あと、池上氏が英語を話しているところって、あんまり見たことないような。
NHKの採用試験を突破するくらいだから、読むことに関しては、そこそこのレベルと推察できるが)
さらに、分かりやすさの理由の一つとして、「子供のような素朴な疑問にも正面から取り組む」というのがあるように思う。
巷間よくいわれる、選挙特番の「池上無双」の象徴ともいわれる「創価学会の話題」についても、
タブーへの果敢な挑戦というより、素朴な疑問を追求していった結果なのかもしれない。
「どうして自民党は公明党と組んでいるんですか?」という質問は、大人はあんまりしない。
それは何となくタブーであると感じているせいでもあるが、一方で「そりゃ、理由はみんな知っている」からである。
ましてや、「政治記者歴何十年」を売りにするような政治ジャーナリスト諸氏は、
そんなことよりも、自分の掴んできた独自情報を話したくて仕方なかろう。
「それは、公明党には創価学会という支持母体があって、固定票が見込めるからですよ」と優しく語りかけるのだ。
で、「では、公明党と創価学会の本部がある信濃町に行ってみましょう!」と、女子アナを連れてツアーを組んだりする。
実際、やってみれば、放送しちゃいけないタブーというほどのこともない。
そりゃそうだ。
ある程度、日本の政治に関心を持っている人ならば、普通に知っていることなのだから。
公明党の側だって、連立与党として大臣まで出す立場になった以上、その程度の取材を拒否するはずもなく、
「創価学会の人たちが、選挙は功徳だなんていう仏教用語を使っていたりしますが、政教分離の観点からみて
「創価学会は、大切な支持団体ではありますが、創価学会と公明党は全く別個の組織です。
政教分離というのは、政府が宗教活動を行ったり、宗教活動に介入したり、宗教団体が政治に介入することを禁じておりますが
宗教団体が政党を支持することを禁じるものではなく、現在の公明党と創価学会の関係は問題と思っておりませんが云々」
「そうはおっしゃいますけれども、ここに創価学会の名誉会長が、公明党に指示した文書がありましてね・・・」
などと、爆弾情報でもぶっこんで来たら、それは多少「タブーに斬り込んだ」ことになるだろうが、
そこまでのことはしない。
多分、そこまでの取材もしていないと思う。そもそもが、そういう役割の人ではなくて、そこは、
「はい、そうですか、よくわかりました」と視線を投げかけるという、
「子供にも分かるように語ること」「子供の持つような素朴な疑問をゆるがせにしないこと」
を常に追求し実践してきた所にあるように思われる。
これは、なかなかに難しい。
多分、そこには、「相手(子供)が、何がわかって何がわからないのか」を推察する想像力や共感力と
「限られた言葉で複雑なことを説明する」ことを可能にする、優れた言語能力が必要なのではないかと思っている。
ただし、限られた言葉で語りえることは、やはり、ある程度、限られているわけで、
http://anond.hatelabo.jp/20160413013038
言及いただいたkato19です。大変遅くなりましたが地震の影響はありませんでしたでしょうか?
※意味不明な一般の方へ:一連の流れは下記のブログに記載されています。
じっくり読ませてもらいました。批判文っていうのは読むのにもなかなかエネルギーを消費してしまいますね。増田の文章は論点も多いのでなかなか大変です。自分の知らない分野についても検索しながらできるだけ理解できるように努めました。とはいえアニメ化以前をリアルタイムで追っていない以上は本当の意味での理解は難しいなと思いました。増田が本当に細かい所まで気にしている所に驚かされますが、これがまさに増田の拠り所であるんだなと感じましたね。
今回増田の疑問に逐一回答する事はあまりに労力が大きのでご容赦ください。総論的な内容になります。それに以前も書いたように、そもそも回答した所で増田が納得するとは到底思えないのです。増田も同じような事を書いていますが、結局それぞれが重要だと思う所を重要だと思えないのです。
それを踏まえた上で今回のやり取りの感想を書かせてもらいます。
私が、批判派に対して当初思っていたのは、あの作品を観て面白くなかったんだろうか?それとも面白かったんだけど細かい所が気になってしまってダメだったのか?もう全てがダメで良い所はほとんどないのか?という所でした。
増田の文章を通読してみて感じたのは、やっぱり原作・原案問題がなければこんなにこじれる事はなったんだろうなぁという事。増田ですら『カップヌードル』程度には面白いと思ったわけで。『見たい作品が見られなかった』という点については批判派の方からもツイッタなどで一定の賛意をいただけた所です。
さらについでに言うと、僕はこの映画を観たとき、涙もろいタイプなのもあってちょっと泣いたんだよね。その意味では、その程度には感動した。でも、あの劇場版が駄作だという評価、特に脚本が極めて稚拙だという評価はまったく変わらないし、それは普通に両立することだと思っている。— おりあそ (@oriaso) 2016年4月11日
批判派のおりあそ氏が劇場版で泣いたってのも自分にとっては結構衝撃的な事実で驚いたんだけど『μ'sが解散するんだから涙くらい出るよ』という事なんでしょうね。もちろん自分にも当然そういう所はあるのだけど、今回はそれだけではない感動があったんですよね。
自分は『ガルパン』劇場版でも大変感動して涙が止まらなかったんだけど、あれは決して大洗女子学園が存続してよかった!という事で感動したのではないのです。あの映像と演出自体に感動させられたのです。心底すごいと思いましたしその凄さに当てられて感動しました。話の筋で感動したのではなかったのです。
参考 http://kato19.blogspot.jp/2015/11/girls-and-panzer-movie.html
劇場版ラブライブ!の感動はそれによく似ていると思いました。技術レベルと前衛的な演出、それと当然ストーリー上の感動が合わさって強い感動を得られたんだと思います。自分は少数派になる事が多いので自分の意見が絶賛派の主流ではないでしょうけど。
増田はおそらく劇場版ラブライブ!はガルパンより論理的妥当性がないからダメと言うでしょうが、自分にとっては十分に許容範囲であったという事です。しかしこの点については程度問題としか言いようがありません。
『もっとも、絶賛派の多くは作品において即時的で表面的である所の彼らがいうところのアニメならではの表現内容への思い入れを拠り所にしていて、前後や総合的なつながりや辻褄の考察を要する物語性やキャラクター性については考えたくないようなので難しいかもしれませんが…。』- 絶賛派の負のエネルギーを和らげたい より引用
『考えたくない』のではなく『気にならない』というべきですが、上記のように互いの主張は『糠に釘』状態なわけです。お互いを説得する事は出来ないよね。実際、増田はなぜ絶賛派が絶賛するのか?その理由を理解できていない。その結果『ラブライバーの自己愛』などという荒唐無稽な理由で論じている。自分は前回から増田はもっと前向きな方向にエネルギーを使うべきだと主張してるのだけど、それはこの問題については相手の考えを変える事は無理だからです。もしも増田が絶賛派に対して『本作が駄作だと改心』しなければ納得しない・・・とすれば残念な事です。
増田は初期作品の良さも述べているというが、アニメ版への恨みつらみが主となってしまっているのは間違いないですよね。増田が単に虚空に向かって文句を叫びたいだけなら仕方ないですが、初期作品の良さを知ってほしいのならその方法があるはず。増田で絶賛派を無能呼ばわりしていてもしょうがないわけです。
増田の意見を読んで公野櫻子さん関係を少し勉強しました(増田から見ればまだまだでしょうけど)その中で上記ブログの公野櫻子論で印象的だったのは、公野さんの特徴として読者参加型作品を得意とする事でした。ラブライブ!の初期作品も読者参加型であった事を考えると増田もその影響を強く受けているのかなと。やはり自分達で作り上げた作品という感覚が他の作品よりもずっと強く、それがアニメ版に対する『歪められた』という感覚につながっていると推察しました。そこが単なる原作改変問題とは違う根深さなのかな。
自分は『参加型』とは真逆の鑑賞者。京極・花田氏の作家性が強く出ていても何の問題もありません。ガルパンのように映像作品としての演出・技術に感動し『物語』は当然必要だけれどもそれは作品の一部を構成しているにすぎない。それがつまり『構成・演出・楽曲すべてが一体となって表現』の意味なのです。増田にとっては物語(や、それを含むキャラの設定)が重要なテーマであってそれ以外は物語をよく見せるための添え物であるべきなんだろうと思う。そしてラブライブ!においては公野さん以外の作家性が見える事は不快感につながっているんでしょう。
ちなみに私だって物語重視の作品は大好きですよ。『ここさけ』なんて感動しすぎて3本も感想書きましたし・・・。
参考 http://kato19.blogspot.jp/2015/10/kokosake.html
ラブライブ!については原案の先入観なくアニメに入っているだけの違いです。増田は先入観でまずハードルがあり、さらに細かな物語重視の点でさらにハードルがあった。その二つに加えて大事にしていた公野作品が汚されたという感情的な問題が不快感を増幅させているのだと思います。
本当の数はわかりませんが、初期作品からのファンの全てがアニメ版を否定しているわけではないですよね?おそらく増田が一番怒りを感じているのは、初期作品からのファンのくせにアニメ版・劇場版を礼賛している人間でないでしょうか。アニメ版以降の人間はただの無知蒙昧だから啓蒙する必要があるが、初期作品からの人間はなぜ礼賛するのか理解できない。だからラブライバーとしてのアイデンティティを維持するためだけに礼賛している害悪だ。完膚なきまでに叩く必要がある・・・と。
増田氏は絶賛派を宗教的などと揶揄するけれどそれはお互い様でないですか?というより、この議論そものもが神学論争である事を自覚していないのだろうか。私は自覚しています。この問題は宗教論争やイデオロギー論争と全く同じです。
(初期作品群を)肯定をしている様子も殆ど見受けられません。ただ踏み台として蹴落とされるべき歴史としての存在を認めているだけに過ぎないでしょう。先述のメディアミックス理論の持ち出し方にもそれが現れているように思います。 - 絶賛派の負のエネルギーを和らげたい より引用 カッコ内筆者付加
原案作品群を否定していないだけでは飽き足らず積極的に肯定しなければ満足しない・・・踏み絵でしょうか?折伏でしょうか?『目を覚ま』さねまばらないなど過激な宗教団体と同じではないでしょうか。少なくとも私は初期作品群を『踏み台として蹴落とされるべき歴史』とは思っていません。そもそもよく知らないだけですから。
まあ、そういう人もいるでしょう、誰もが議論に慣れているわけではないでしょうから。もちろん私は『批判する奴が悪』なんて思っていません。しかし好きな作品をけなされる不快感は原案派の人だって同じでしょう。貶して凹ませるのが目的なんでしょうか?そうであるなら品がない行為だなぁと思いますが、実際には増田にとって大切な『初期作品群』を不当に扱われている事を質したいという趣旨ではないですか?
それなら絶賛派に対して『自分の感動はまちがっていました。この作品はご指摘の通り駄作です』と言わせる事で目的は達せれれるのでしょうか?私には単なる当てつけのようにしか感じません。
増田とは確かに感じ方もキャリアも違いますが、同じラブライブ!というコンテンツを楽しんでいた者としては、互いを排除しあうのではなく包摂されるべきだと思う。
増田氏がアニメコンテンツの流れに大変造詣が深いだろう事は一連の文章を読む事で推察されます。であるからこそ、ラブライブ!が『もはや好きとは言い難い作品』などと離れるのではなく、その想い・知識を残すべきだと思うんですよね。
それは、ネガティブな文章を増田で埋もれさせるのではなく体系的に整理された作品案内を提示するべきでなないですか。増田の思う本当のラブライブ!の楽しみ方を、初期作品の良さを記録に残す方がずっと目的にかなうと思います。確かに旬は過ぎてますが、ワンテーマのブログだとしても増田で埋もれるよりはずっと有益だと思う。注目されやすいアニメ版にくらべて原案作品群は実際のところ目立たないし、新たなファンには見る事すら困難になっているわけです。サンシャインが出た今はなおさらμ'sの初期情報は検索しにくい状況です。だから意味はあると思う。
個人的には、この一連の投稿はすごいと思うし、内容についての賛否は別にしても、ただ増田で埋もれるのは残念だと思う。でも別の形で発表するにしても、ぜひ否定だけではない前向きな批判。つまり好きな作品を広めるために使ってほしいと思うんですよね。
増田は原案作品が軽く扱われている事に不満を持っていますが、増田にとっては自明の事でもアニメ以降のファンにとってはその周辺知識は非常にわかりにくいのは事実です。サンシャインが始まるとはいえ、これから再放送や配信でオリジナルを見るファンも多いでしょう。実際私もちょっと調べただけでは意外と整理されていない事に気付きました。作品紹介、見る順番、その魅力など、いまからでも整理して発信する事は無駄ではないはずです。はっきり言って知識の乏しい自分には無理です。
それなら読んでみたいと思うし、こんなマイナスのエネルギーで文才を消耗する事はないと思う。もしそんなページを作ってくれたら是非私のブログにリンクしてお知らせください。こちらからも紹介させてもらいますから。
こんな事書くとまたね『上から目線』みたいな批判がツイッターでされそうですけどね。ツイッターで深い議論のやり取りはむずかしいですが、このように長文を書ける人の意見は真意が分かりやすくエネルギーを使う意味があると思います。自分も今回の事で劇場版の良さを変更する気は全くないのですが、初期作品群の事を詳しく知るきっかけになりましたし、批判派の真意というのも(ある程度ですが)理解できてよかったと思っています。
いいじゃん平和で!と思ったけど、まさに批判派にとっては戦争状態なのだな・・・その心中がわかりますね。平和に絶賛を謳歌している絶賛派への怒りを感じます。
海未はアニメ以降特に不遇だと囁かれるキャラの一人であったため制作陣の悪意や、または慢性的な配慮の怠りの結果だと感じる人も多かったようです。
そうなんだ・・・でも海未ちゃん不遇かなぁ・・・アニメ版でもすごく人気あるじゃないですか、自分もかなり好きですよ。でも一番好きなのは花陽ちゃんですね。批判派の人はアニメ版の花陽ちゃんを『ただの米好き女』に貶められた怒っているみたいですけどね。あのキャラ設定良くないですか?アニメ版の花陽ちゃんすごく良いと思うんだけどなぁ。
※以前指摘されたメディアミックス論の『出自』部分については訂正しました。
『ラブライブ!』は私達に何をもたらしたのか? http://kato19.blogspot.jp/2016/01/lovelive.html
追記:最後になって申し訳ないんですが、『絶賛派の負のエネルギーを和らげたい①』http://anond.hatelabo.jp/20160413011057 を見逃してたみたいです!ごめんなさい。読んで改めて追記で補足しますね。(2016/5/1)
レイアウトの問題もありますけど長すぎると区切らなければならなくなるので長文は増田に向かないかもしれませんね。
多少機械的になりますが、考察と反論を兼ねた返信をさせて頂きたいと思います。
まず「楽しめなくてかわいそう」という感想の持ち方については、先の記事でも既に見解を述べていたので、それに対する反応らしい反応がなく内容として変わらないことを繰り返されてしまうと、改めて反論を頂いた意味がなく、勿体なく感じました。
一応、どうしても楽しめない境遇を可哀想だと同情して頂けるのであればそれは有り難いのですが、本当にそのような同情したいという気概があるのであれば、さらに相手の感情や思考の深い所まで歩み寄り、踏み込んで頂いた上で検討するのがよいかと思います。
また、「かわいそう」といえば、自分はアニメ前のキャラクター達がかわいそうでなりません。光を浴びれば必ず輝ける素質があったのに、アニメ以降ないがしろにされ、隠蔽されるように扱われてしまったのがどうしようもなく可哀想です。
そして自分の思いの最も大きな原動力はそこにあるかもしれません。特に自分が思うのは矢澤にこです…。
ところで、
とありますが、自分が記事を投稿したのも最近の間に留まる話ですし、そんなに熱心な批判派が存在するような心当たりがないのですが…。どこかには一定数存在するのでしょうか。ファンの大半と同様にろくに考えもせずとりあえず批判というアンチなら確かに沢山いるのは分かりますが…。
また、互いの意見は『交わる事がない平行線』と仰っていますが、交わらないというより、そちら側は交わろうとする気がないという印象を強く持ちました。
勝ち負けとかはどうでもいいのですが、せっかく会話や意見交換をした上で中枢部分の内容を読み飛ばされると寂しい気持ちになります。
おりあそ氏やkato19氏は自分の考察や批判を読んで、「自分の記事を読み込んだ上で書いている」と畏れ多くも評価して頂けたようですが、自分としては読み通してはくれたようですが、内容をしっかり考えながら読んでくれただろうか…?という疑問を抱いてしまいました。
個人的には反論されて論破されても構わないので、一度は自分が書いた作品内容批判の論理を受け止めてほしかったと思います。特に盗作問題についての考察は、何故か他の方の評論などを読んでみてもパクリかどうかの比較はあっても、その行為の中身と影響に突っ込んだ考察がなかなか見付からないので、最も伝えたいことというわけではないですがもう少し考えながら読んで頂きたかったと思いました。
様々な紆余曲折の後に結局議論はどこまでいっても平行線のまま続く…となるのであれば分かるのですが、前提から交える気がない態度で、主に作品内容や作品の展開内容に踏み込んだ議論をしようという場において、その話題になるとこちらの意見にはあまり踏み込もうとしてこない状態に受け取れるので、そのような中途半端な態度で反論をする意味にも疑問を抱いてしまいました。
例えると、本来議論が平行線という場合はどこまでも平行な線が二本伸び続けているという状態のように思います。対して、今回の場合はある長い線に対して平行ではあるが短く途切れている一本の線が寂しく添えられている、という状態のように思います。
結局の所、絶賛派は作品内容の是非がどうであれ布教をしたい、ファンである状態を共有したいというのが強く、作品を批判する人を減らしたいというのが最前面にきているのではという疑念が深まったような感があります。
とありますが、そもそも最近はいろいろなことがありましたが、未だ以て絶賛派の(根拠も中身もない)ブログや書き込みの方が圧倒的多数であり、未見の人への影響力は強いですから、その辺りの説明がなくこのように書くと違和感を抱きます。
おりあそ氏の劇場版批判記事に寄せられた反論記事でも、氏の記事を見て作品に対して安易に判断を下す未見の人が大勢現れかねないことを危惧しておりあそ氏に反論するという記述がありましたが、既に多少批判派が増えてもうんざりするほど思考停止の絶賛派のファンであふれかえっている状態で何故絶賛派は未見の人がアニメラブライブ批判派になることについてそこまで敏感になり、怖がる態度を見せるのかという部分が気になりました。
悔しいくらいにファンが多いのに何故そこまで余裕がないのかが不思議です。
また、普通は相反する立場の相手と意見を交わす際には自分の意見と相手の意見の比較を先に考える人が多いはずですし、そのように互いの意見の内容自体に向き合うべきだとも思いますが、アニメラブライブの絶賛派は自分の意見の説得力の有無などよりも、相手の意見による批判派の増加を怖がりながら意見交換に臨んでいるように映ります。
そしてその点に、彼らが作品のどこがどう好きかというより、自分や自分たちがファンであるということのつながりや広がりを最重要と感じており、作品内容自体を捉えて論じる個々の姿勢としては多少の問題があるように思います。もちろんそのような楽しみ方は自由ですし悪ではないのですが、作品内容自体の評価を行う上ではズレが生じていると思われます。
また、そのような態度を見ていると自分自身が切実に内容に感動したから賛美したい擁護したいというよりも、宗教団体のスポークスマンのように便宜上賛美、擁護の立場をとっているかのような胡散臭い軽薄さを感じます。
一方で、自分やその他の原案やアニメ前の状態を持ち出してアニメ以降の展開を批判する人達(一体何人存在してくれているのだろう…?)の意見の根拠の概要としては、kato19氏の推察は大ざっぱに捉えた形としては大体正しいと思います。
その上で、
コミック版・小説版があるとはいえ、メディアミックスとは単なるアニメ化決定ではないはずです。μ'sという架空のアイドルがアニメに出演している、そういうものですよね?
と氏の記事にも言及があるように、ラブライブがメディアミックス作品であることを理解しているならば、そのあるべき在り方についても考察して頂きたかった気がします。
原案の良かった部分を根こそぎ取り除いてしまったアニメ以降の内容を批判すると、アニメ絶賛派はメディアミックス理論を持ち出してきますが、普段はそんなことは関係無いアニメと声優ライブこそラブライブで他は二次創作の延長線だくらいの勢いで見ているくせに、都合のいい時だけメディアミックス作品だと持ち出してきているように感じます。
それはつまるところ、「アニメもメディアミックスの一部だからそれぞれと違っていてもいいでしょう?だから原案を蔑み破壊しているアニメを許してくれ」という論理なわけです。
実際にそのような形で、それぞれのメディアミックスの各種媒体の独立性が保たれていたならば、原案厨(とアニメ絶賛派は呼ぶのでしょう)がアニメ版がどうおかしくなってようと酷いけど仕方がない、作品の下らない一部に過ぎないからとスルーしつつ、基本的にポジティブなままプロジェクト全体を捉えて各種展開を見守っていきたいという姿勢になることも容易だったでしょう。
しかし、PVやCDドラマなどもアニメ以降、設定が侵食されるようにアニメ版の設定で統一されていきました。
メディアミックス作品だったのにもう好きだったかつての姿には出会えなくなるという危機感を抱かずにはいられません。作品の、キャラクター性の内容、中身が好きなので当然の態度だと思います。
しかもスクフェスやスクパラ、ドラマCD、PV、ライブで流れるアニメなど声優が付いている媒体は全てアニメ系設定に統一、侵食されているのです。(スクフェスにはSIDコラボもありましたが、残念ながらおまけのようなものです)
いきなり横入りをして住処を奪い、穢した側が、自分も同じファンの一人だから尊重してください、十人十色だから許してくださいと言い出しても説得力を感じられません。
つまり、そのような棲み分けが十分であれば別物として積極的に評価できる可能性も大きくなっていましたが、そのような状態にないためにメディアミックスだから許しなさいという理論は説得力が弱いのです。公式運営が抱える大きな問題点の一つですね。
また、アニメにおいて原案の方向性から改変改悪された内容の根拠が、例のglee盗作によるものであったり、人気があり改変する必要のないキャラを粗雑な配慮と見解の下に設定改変していたり(説明は先の考察記事など)と、正当性を感じがたいものであるため、ただ単に変わっているとかただ違っているというレベルの浅い問題ではないことは先の記事でも指摘しています。
glee盗作騒動は自分の絶望とアニメ制作陣への憎悪を深める決定的な出来事でした。ただでさえ2期のにこのキャラクター描写の凄惨な状態に打ちひしがれていた所にそのことが発覚して、制作陣や作品内容という結果だけでなくそれに携わる動機や姿勢の時点で重大な問題を抱えていたのだと分かり、どうしようもなくやるせない気持ちになりました。
また、その点がアニメラブライブの内容や展開の是非がただ好みというだけの問題では片付けられず、作品やキャラクターを扱う上での倫理的な善悪について重大な問題があることを検討するべき根拠となる部分でもあります。
絶賛派の方は盗作問題にはまともに向き合わずに軽く済ませようとする人が多い感がありますが、そのような根深い問題から目をそらしながらの朦朧とした感情と論理から、批判派の体験や感情は全て妄想だから目を覚まそうと訴えかけても特に響くものがありませんし、ポジティブになれる気もしません。
仮に全てが好き嫌いで済む問題だとしても、絶賛派からはパッケージへの思いは伝わってきても内容自体に対する好きという気持ちはあまり伝わってきません。好きな作品が批判されたくないとか、好きな作品がパッケージとして表面的に認められている状態が保たれて欲しいという気持ちは伝わってきますが…。
kato19氏や自分が思い当たる絶賛派の何人かもアニメの作品表現や演出を評価していることが多いように思います。そのような部分を評価する場合、表現が曖昧にならざるをえない部分に対する「好き」なので言い表すのが難しい部分もあるかもしれません。しかし、結局その作品がラブライブでなければいけないほどの理由というのが見えて来ません。
先の記事でも書いているように絶賛派が評価している表現法や演出などそれ自体については殆ど否定していません。それが物語性だとか本来のキャラクターの持つ魅力の描写と両立されていたら良かったのにと思っています。
ただ、絶賛派が作品の物語性とキャラクター描写の酷さの免罪符にしたがるくらいに賛美する作品の演出などが安易なパクリだという可能性と、その場合に失われる効果がどれほどかというものは多少審議する価値があるでしょうけれども…
たとえば、人間的にでも性的にでも構いませんが、自分が大好きな人を指して、この人は「顔が美人だから好きだ」、「身長が高いから好きだ」「優しいから好きだ」というように好きな根拠をアピールする場合、じゃあ顔が美人なら、身長が高いなら、優しいなら他の誰でもいいのでは?という指摘ができます。
kato19氏やラブライブ絶賛派の好きだとする根拠、評価する根拠を読んでいると、その作品がラブライブという作品群であることの意味や価値が殆ど考慮されていないように思います。簡単にいえばそれが原案や原作、物語性やキャラクターの軽視や蔑視につながっているのでしょうが…。
おりあそ氏の批判や先の自分の考察や反論にもあったように当初のコンセプトを否定して廃棄しまっているのがアニメ以降のラブライブという作品でした。
絶賛派はそれらの問題があってもアニメラブライブは素晴らしい表現が魅力だからいいんだと主張しますが、ラブライブがラブライブである所以を廃棄してもアニメでくっつけた魅力があれば全く問題がないと思えることが狂気的に思います。
そのような評価の仕方は、どんな作品を見ても表現や演出その部分だけを見て論じる第三者的な評論家のすることのように部分的には真っ直ぐでも冷たく短絡的です。
その評価の仕方を否定するわけではないですが、その評価は他の評価を全て飲み込めるほどの影響力や説得力には著しく欠けていると言わざるをえません。
高級レストランに行って、「ここは、料理は高いくせに不味いが、内装や外装、食器が素晴らしいから料理が美味い他のレストランよりあらゆる意味で最高だ」と言うようなものです。デザイナーや建築家などであればそう評価をするのも分かりますが、レストランや料理の包括的な意味でのファンや評論家としては問題があるのではないでしょうか。いわゆるナンセンスというやつですね。高級レストランが高級レストランであることの価値は高品質な料理を提供することだと思います。ただ内装外装が素晴らしいことを売りにして全てのマイナス面を打ち消したいなら宗教的建築物にして料理を出さずに見物料をとればいいでしょう。
レストランにける内装外装などの美しさはどんなに素晴らしくても評価する場合には料理の不味さを打ち消せるほどの価値はありません。独断偏見の好きでいいならば、他が全てどうしようもなくても格好いい、可愛い店員がいるから一番好きなレストランだと言い張るのは自由ですが、その場合その店員のファンというだけであって、レストランに対する大きな好きの評価として直結させるには弱いと思います。
この例えにおいては料理の種類や味というのが作品の物語性やキャラクターにあたる部分で、内装外装食器店員などの外的な部分が表現演出や声優スタッフなどにあたるでしょうか。
『金持ちになる方法はあるけれど、金持ちになって君はどうするの?』作者: 堀江貴文,西原理恵子,夏野剛,西村博之,藤沢数希,船曳建夫を読み終えた。
まず「はじめに」で「収監中は、もちろん静かに自分の罪を反省」とあるが、ホリエモンの証券取引法違反というのは冤罪だと考えています。これで罪ならもっとたくさんの社長や役員が罪に問われないといけません。
「コンビニダイエットパック 1日の摂取カロリーをコントロールする1セット買うだけの食事制限」これはどこかのコンビニで販売し、結果にコミットしてもらいたい(笑)
「安定収入なんてクソ食らえですよ。まずはプライドを捨てましょう。好きなことをやりましょう!」とてもスッキリした回答。
「やりたいことが見つかるまでダラダラします。でも、やりたいこともないのに金持ちになってどうするんですか?」私もやりたいことがないのでダラダラすることにする。
「「ビジネスの4原則」という金科玉条のようなものではなく、単純に起業する時にリスクが少なくなる方法」私が一例をあげるとすれば「空き家を2万円で借りて5万円でリフォームして4万円で貸す廃墟不動産投資家、村上祐章さんの本が出たよ!」で紹介されている方法。
「世の中を引っ張っている人の多くは、そういう普通の人とは違った人生を送っていると思います。」その通り。
「英会話はオンライン英会話スクールで済ませてください。」フィリピン人とSkypeでやったことがあるけどコスパ高いよ。
(サラリーマンの)「【デメリット】給料安い。出世に時間がかかる。意味なしの権力争い、足の引っ張り合い。【メリット】なし。」メリットなしが清々しい。
「堀江さんに質問する人たちは向上心が強い反面、自分で満足する結果が出せてない人たちが多いような気がする」そういう人たちこそ、まずこの本を読むべし。
「企業の終身雇用制で守られた世代は、せいぜい戦後十年の間に生まれた人たちぐらいです。」もう終身雇用何てあてにならない。
「英語なんて堪能な人はいくらでもいるから「そんなの喋れるの?」という言語の方がバリューは高い。」小池百合子のアラビア語みたいな?(笑)
「宗教団体メルマガ課金ビジネス」そういえば何で無いんだろう?自分が新興宗教の教祖だったらやるよ(笑)
「自分で小さくても何か実際に実行していれば評価されますけどね。」そう、アイデアがいくらあっても実行に移して結果を出してないとね。
「自分が今、「何でこんなサービスがないんだろう?」って不満に思うことを解消するサービスを作ればいいんだよ。」他に不便に感じていることや恥ずかしいこともビジネスになる。
「ビジネス原理主義者だからこそ、特定の業界のおかしな構造は見過ごせない。」既得権益の壁をぶっ壊そう!
「今なら訪問24時間診療をやりますね。」在宅医療ネットワーク|全国在宅療養支援診療所連絡会のサイトを参照。
「あ、あと英語に関しては、楽天に就職すれば英語が公用語になっているのでバッチリです(笑)。」爆笑。
「てか、そもそもなんでわざわざ不動産という固定資産に、現金のような流動性の高い資産からチェンジしようとするのかが理解不能です。」『インベスターZ』という漫画を読めばマイホーム志向何て作られたバカバカしいものだと分かる。値下がり確実な商品を借金して買う無意味さ。
「堀江さんは、「金で買えないものはない」という発言などで、金の亡者とマスコミに叩かれていましたが(この発言は、金で買えない血筋だとか家柄だとか肌の色だとかは差別につながってしまい、金という世界共通ののフェアな物差しで競争するのが社会にとって健全なことだ、という主旨」マスコミお得意の切り取り手法だったわけ。
「医者がスマートフォンを持ち歩きどこでも処方箋を出せるシステム」前述の全国在宅療養支援診療所連絡会とコラボして実現してほしい。
「既存のメディアの情報だけを受け取っていては、洗脳されますよ。」ネットで情報シャワーを浴びよう。
「豊かで幸せな人生を送りたいなら、好きなことをして、好きなものを学び、いまを積み重ねて生きてることです。」ホリエモンの師匠のお言葉。
「捕まって投獄されているのは、ごく普通の人がほとんど。」「常識」の恐ろしさ。精神障害も誤って理解されいるよ。
以上だが、まだ感じたことの100分の1も書いていない。
好きなこと、得意なことを見つけ、それが結果として多くの人に貢献できればお金は後からついてくるということ。
しかし、脱会の方法についてまとまった文書があまり見つからないのでメモとして残しておく。
宗教が嫌になって辞めたい人は参考にして欲しい。
しかし、自分の宗教は自分で決められるというのが大原則である。だから、それに反する行為は全て人権侵害に当たる。
人権侵害を許すような宗教からは、なおさら一刻も早く脱会すべきだろう。
おおよそ考えられる攻撃手段は、まず何らかの形で法に触れていると思われるので、証拠を保全して警察に相談することを薦める。
また、家族が信者で、脱会すると関係が悪化してしまうということも考えられる。
とはいえ、いくら家族であっても、個人の心に踏み込んで信仰を強制するのは度が過ぎている。
それは物心のついた人間に対する態度ではない。脱会しなくとも、遅かれ早かれ、関係は取り繕えなくなる。
そのような家族を気にするよりも、自分自身の人生を気にしていただきたい。
基本的に、退会届をその宗教の本部に内容証明で送付すれば脱会できる。ただし、どの程度紛糾しそうかに応じて、取るべき手段は多少異なる。
これが一番安上がりな方法。身体・精神的な危害など、トラブルの可能性がない場合はこれで十分だろう。
後に退会の有無でトラブルにならないよう、退会届は内容証明で送りつける。こうすると証拠が残る。
退会届本文には
・退会するという宣言
の三点を明記する。申し入れに対し、違反があった場合の措置については書かなくともあまり差し支えないだろう。
ネット上に例文は多く落ちているので「宗教 脱会届」などで調べると良い。
また、内容証明を引き受けてくれる郵便局は限られているので事前に調べる必要がある。集配局なら問題ない。
電子内容証明というのもあり、これを使えばいつでも退会届を送付できる。
自分で送付するのが不安、あるいは誰かに文面を考えてもらいたい場合、それなりに出費はあるが司法・行政書士に頼むのも悪くない。
しかし、法律相談はできないので、なにか法的問題がある場合にはおすすめできない。
ここまでする必要があるケースはあまりないが、実際に脅されているなど、身の危険がある場合や、財産などを巡って法的な争いになる可能性があるときは弁護士を雇ったほうが安心かもしれない。
争点となるのは、脱会の可否ではないので、宗教問題を専門とした弁護士を雇う必要はない(どうしても脱会させてくれない場合は別)。
万が一、脱会してもその宗教団体が何か危害を加えてくる場合には、警察に相談することを薦める。
また、精神的被害について弁償を求めたい場合は訴訟を起こせばよいが、費用などの面から難しいかもしれない。
その宗教による被害者が多い場合、集団訴訟が行われていることもあるので、調べてその関係者に連絡してみるのも良いだろう。
そのイメージはどこで培ったんだ?
たしかにブッダは妻子は投げ出したけど国に戻ってるし、妻子ともども弟子にしてるし、彼の国は(ブッダが生きている間は)滅びてないし、そもそも特定の宗教に傾倒したわけでもない。実際のところ仏教を創始したわけでもない。今の言葉でいえば、哲学者、社会運動家、心理カウンセラーみたいな存在だったんだよ。輪廻とか解脱といった言葉づかいは宗教的だけど、2500年前の世の中だから、そもそも多くの語彙が宗教的な響きがある時代だ。後世の人々が尊崇の念のあまりブッダを神格化して、後に宗教になっていったんだけどな。
日本によくいるよな。宗教=危険みたいな考え方で、「(俺が考える危険な)宗教」らしきものを目の敵にして、実物を全く学ぼうとしない。学んだら信仰心が目覚めてしまうかも、とか怯えてんのかな。
ブッダは死ぬ前にこう言ってんだよ。死後、俺を頼りにするな(=神格化するな)。俺の教えを参考にして自分自身を頼りにして生きていけ、ってな。そもそも自分が宗教団体を主催してるという意識もなかったから、晩年は教団を離れて少数の弟子と放浪の旅に出てる。実際、ブッダの死後に「ブッダも死んだし俺たちの好きなようにやってこうぜ」って考えた一派が後の北伝仏教、つまり日本仏教の祖先にあたる集団だよ。彼らはオリジナルからどんどん離れていった。「菩薩」「般若心経」「空」「禅」「隻手の声」といった仏教的な思想の多くは、北伝仏教が勝手に主張し始めたものだ。
というわけで、世界三大宗教とはいえ、オリジナルの頃からイエスやムハンマドとはだいぶ趣が異なる教えだったんだよ。
ついでに言えば、よく誤解されてることだけど、ブッダは欲望を否定したわけじゃないからな。欲望をなくしたいという考えをやめたんだ。そもそも、欲望をなくしたい、ということ自体が一つの欲望だろ? じゃあ、ブッダは何を語ったのか。もし気になるなら後は自分で調べな。
何やら物騒なエントリですまないが、わら人形と五寸釘は使わない。とにかく呪いの話をしよう。
私は今、親友を呪っている。
書くだけでも恐ろしい響きを放っているが、まず私は、私の家系は、ひいばあちゃんから4世代ほど続いている某宗教の信者でいて、4世ともなると私の信仰心は全く無く、それどころかオウムだのイスラム国だののイメージのせいで宗教団体=テロも辞さない超ヤバイ奴らの集まりという認識でいて、母らが熱心に信仰するそれもとてつもなくヤバい何かを内包する凄く不気味で気持ち悪いものとして幼い頃から拒否反応を示しているのだが、そもそも宗教っていうのは心の中の悩んだり嫌な思いを考え方や行いで少しでも軽減するものであって、祈ったり念じたりする事が非常に強い力を持っていて、それで救われたり救われなかったりするんだっていう概念は、宗教キライだけどなんとなく分かって生きてきたつもり。
ま、宗教の話をしたいわけではなくて(私は嫌いだし)呪文を唱えたり、黒魔術の紋様を描いたりするのは全て雰囲気作りでしかなく、強く念じる事がキーだということ。引き寄せの法則とか自己暗示とかもそうで、要するに自分の気持ちが本心からどこに向いているか。呪いも恋のおまじないも紙一重だ。おまじないって変換するとお呪いだし。
Aには息子が大病するように。
Bには持病が悪化し一生不幸でいるように。
どちらが叶ったでしようか。
最初はBが健康診断で引っかかったと騒いでいるから精密検査すすめたら癌だったんだって。めっちゃビックリした。そして恐ろしくなった。
Aも本当に息子が入院してざまあと思ったんだけど、Aも欠勤するので私の仕事も倍になってしまった。
呪いって自分に返ってくるっていうでしょ?スッゴイ怖い。Aは仕事量で済んだかもしれないけどBの分が。。とりあえず恐ろしいから禊をする予定(チキン)
ここで「私、呪い、かけれる!」と思った私は友人にも呪いをかけることにした。
友人には何をされたっていうといろいろ嫌な思いしてるんだけども、とても大事な友人だから死なれちゃ困る。路頭に迷ってボロボロになっても困る。呪いをかけるとしても力加減には注意したい。可愛さ余って憎さ百倍というか…嫉妬だとか愛憎とか一言で表せない複雑な感情の矛先を呪いということで一旦消化したい。と、身勝手に思った。
彼女には一回不幸を味わってほしい。
呪いの内容は書かないでおくが、怖いかな。呪い殺すわけじゃないから地獄には落ちないよね。地獄、信じてないですけど。
呪いをかけつつもきっと私は笑顔で接するでしょう。同僚にしたように。
人間って怖いなあ。腹ん中で親友すら呪ってるんだもんな。ここで私が誰かを恨んでるということは、私もまた誰かから恨みを買い呪われるくらい強く怨まれてるってことだ。くわばらくわばら。
ちなみに親友への呪いが完了したら穢れを落とすつもりで冷水でもかぶる気ではいるんだけど、今度は陽な気持ちで幸せになーれという念でもおくりたいですね。バランスとって。禊のつもりで。
最初に断っておくが、神社本庁と日本会議が企んでいる憲法改正の「具体的内容」に関しては、私は与しない。
憲法はリバイアサンである国家権力の横暴を縛り国民の自由を守る最後の砦であり、憲法で道徳を規定するのは近代国家として恥ずべきことであると考えるからだ。
この憲法改正の是非はともかく、一方で、この運動をめぐって「政教分離に違反するんじゃね?」的な、「政教分離に関する誤解」が、少なからず蔓延していることに驚いた。ここでは、この論点について明らかにしたい。
そもそも、日本国憲法には「政教分離」の言葉は無いが、以下の条文がその根拠とされている。
[第二〇条]
一 信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。
三 国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。
[第八九条]
公金その他の公の財産は、宗教上の組織若しくは団体の使用、便宜若しくは維持のため、……これを支出し、又はその利用に供してはならない。
つまり、憲法で禁止されているのは、(1)国が特定の宗教団体に対して特権を付与すること、(2)宗教団体が政治権力(=国がも独占すべき統治権力)を行使すること、(3)国が宗教活動を行うこと、のみだ。
これまでの判例によれば、国や地方公共団体などが公費で神社に玉串料を納めること、市が市有地を神社に無償提供すること、総理大臣が公費を使って公式参拝を行うこと、などが違憲に該当する。
一方で、「宗教団体が政治活動を行うこと」は憲法では禁止されていない。実際、公明党-創価学会、幸福実現党-幸福の科学、真理党-オウム真理教など、特定の宗教団体が政党を結成して政治活動を行っており、これらは「政教分離」には違反しない。
むしろ、「宗教団体が政治活動を行うこと」を禁止した場合、思想・良心の自由(第十九条)、結社・言論の自由(第二十一条1項)、国政選挙における信条による差別の禁止(第44条)といった規程に違反することになる。つまり、「宗教団体が政治活動を行うこと」の禁止の方こそ憲法違反だ。