はてなキーワード: 滋賀県出身とは
オレオレFCは11日、ナゴ大4年生のFW佐々木、西川、下部組織出身でハマ大4年生のDF内田の2025年シーズン加入と2種登録を発表した。なお背番号は佐々木が「41」、内田が「45」、西川が「49」となる。
岐阜県出身の佐々木は177cm73kgのストライカーでスピードに加え、高い決定力と多彩なゴールパターンを持つ。西川は滋賀県出身で186cm82kgのストライカー。高い打点のヘディングと豪快なシュート力を併せ持つ。
内田は神奈川県出身で高校からオレオレFCの下部組織出身。MF鈴木亮とはチームメイトだった。188cm85kgの大型センターバックで高さと強さ、速さに足元の技術を併せ持つ。
佐々木「オレオレFCに加入する事になりました佐々木です。このクラブでプロ選手になれた事を嬉しく思います。ここまで来られたのは両親や指導者、チームメイトの支えがあったからだと思います。感謝の思いを胸にプロで活躍して、恩返ししたいと思います。宜しくお願い致します」
西川「この度、オレオレFCに加入する事になりました西川です。子供の頃からの夢をこのクラブで果たす事が出来て、嬉しく思います。自分を育ててくれた両親、指導者、チームメイトに感謝の気持ちを持ち、日々向上心を持って戦います。応援宜しくお願い致します」
内田「この度、オレオレFCに加入する事になりました。高校から、このクラブにはお世話になり、大学在学中も恩返ししたい思いは人一倍強く思っておりました。これまで自分に携わって頂いたチームメイトや指導者の方々、両親に感謝して、チームの勝利に貢献出来るように頑張ります。応援宜しくお願い致します」
高校生の時に都立青山高校っていう東京都ど真ん中の高校に通ってた実情を書いてみる。
都会にいるっていうのが、どういう文化レベルなのかの一例となれば幸い。
青高は東京メトロ銀座線の外苑前駅の近くにあって、ヤクルトの本拠地の神宮球場の目の前の高校。
高校生クイズ選手権時の予選会が神宮球場にあったりしたんだけど、そこで一番近い学校だっていう事で注目されてた時もあった。すぐに敗退してたけど(笑)
国立競技場も近くて、僕は高校生の時はサッカー部だったんだけど、「いま一番国立近い学校だから(物理)」みたいな冗談はことは友達には言ってた。
まぁ、もっと近くに國學院高校っていう学校があって嘘なんだけど。
僕は大江戸線の国立競技場前って駅から青高まで歩いてたんだけど、国立競技場の敷地内を歩きながら学校に通ってたのは、なんか誇らしかった気持ちがあったかな。
あと高校生の時はお金がまじでなかったから(お小遣いが月3000円〜5000円だったから)滅多に行かなかったのだけど、ホープ軒で食べるラーメン美味しかった思い出がある。(今思うと全然美味しくないが)
立地はこんな感じ。
次にイベントについて書いていく。
確か5、6月ぐらいに体育祭があってその一環とし、応援団を作って、応援合戦みたいなのをやるのがあった。
応援団をやる人は2、3週間くらい応援団の練習をするんだけど、練習場所が代々木公園だった。
定期がある人は電車乗っていくんだけど、みんながみんな定期あるわけじゃなくて、代々木公園までは歩いていくってのが恒例になってた。
外苑前から原宿超えて代々木公園まで行く道ってのは結構面白くて、
インテリアショップとか眼鏡屋とかブラジル大使館とかあったり、
表参道を歩いたりとか、原宿の竹下通を歩いたりとかしながら、代々木公園まで行ってた。
今はなき原宿のコンドマニアで「お前買ってこいよ」「やだよ、お前いけよ」「なんでだよ!じゃあ一緒に行こうぜ」みたいやりとりをやってたりした。結局買わないんだけど、当たり前だけど。しょうもないけどそういうの楽しかったような気がする。今思うと全然面白くないが。
11月には外苑祭っていう文化祭があるんだけど、外苑祭では1年生から3年生の全部のクラスが劇だったりミュージカルをやるってのが伝統になってて、夏休みから外苑祭の前までは、「神宮外苑の絵画館」前のちょっとした広場的な場所で練習をしてた。
正直僕は外苑祭に乗り気じゃなかったから、全然練習参加しなくて数回だけしか行ってないくても、なんか思い出にはなってるね。
文化レベルって観点では、絵画館の建物自体がすごい美しい建物だったし、絵画館と銀杏並木の風景っていうのはすごく美しかったのは、高校生でも感じる部分があった。
イベント的にはそんなもんがメインで、その他の時期は普通に駅と学校を行ったり来たりするだけの生活してた。
個人的には、学校に自転車を置いたのもあって、学校サボって自転車乗って、原宿行ったり、246を赤坂方面まで走らせて、皇居らへんまでいったりとかは楽しかったな。
あと僕は部活やってたからバイトはしてなかったけど、周りの人とかは学校周辺でバイトやってる奴もいた。そういう奴は結構大人な世界を垣間見えたんじゃないかな。お金も増えるしね。
僕は遊ぶ金なんて全くなかった。だから高校生の場合、都心のど真ん中にあったとしても、そこまでは楽しめてなかったんじゃないかな。
まぁでも表参道とかの建築を見て、建築学科に進むっていう決断をしたので影響は大きかったのかもしれない。
あと仲良かった奴が、「スイスでヘルツォークアンドドムーロンの建築観てきて良かった!青山にもあるから観に行くと良い」って言ってくれたりして、周りの人間の文化レベルたけぇなって思った。
お金が無いなりに楽しんだって思えるのは、原宿の古着屋でHanjiroっていうお店が全盛期だったんだけど、そこで100円になってる服を買ってた。てかそれしか買えなかったんだけど、あれは楽しかったな。
あとはまぁ、今はもうない明治公園でフリマがやってて、そこで 安く売られてる服とかを買ってたりしたな。
もちろん高校時代を都会で過ごした影響はかなり大きかったんだけど、僕の中で影響が大きかったのは、やっぱり大学ですね。100倍くらい大きいんじゃないかな?
高校の時は受動的にやること っていうのが多くて、能動的には動けなかった記憶があるけど、
大学生になったらぼぼ全部自分で考えて、行動するから大学生の時の方が、濃密な時間を過ごせたと思ってる。
まぁ今なら、文化ってインターネット発なのが多いし、都会にいなくても、最先端な文化に触れられるのじゃないかな?
僕が好きなVtuberのぽこぴーとか滋賀県出身で電車ない土地に住んでそうだけど、最先端いってる。
僕が高校生の時は、まだスマホとかなかったし(シャって開くタイプの携帯とか、インフォバーとかが流行ってた時期だったし)、高校生の時は家族パソコンしかなかったし、ニコニコ動画も知らないし2ちゃんねるも知らない。パソコンの授業の時に友達が「スーパーマリオのTAS動画」見せてくれた時も「おもしれー!TASさんって人まじで超マリオ上手いやんけ!!!」って思ってたレベルだったから、住んでる場所の影響大きかったと思うが、今はどんどん差が縮まってきてる。
・西川貴教を愛している
・でもあまり知られていない
・ひこにゃんも県の誇り
・安土城が残ってたらよかったのにとふと思う
・世界遺産の延暦寺は住所が滋賀県なのに、京都のものにされてて悲しい
・明るい廃墟と言われたピエリ守山は今は賑わっており、温泉もある
・雄琴に有名な風俗街があり、その横の国道を車で通る時はなんか気まずくなる
・「滋賀県行ったことあるよ!新幹線で通ったよ」と言われて悲しくなりがち
・「滋賀県行ったことあるよ!サービスエリア寄ったよ」と言われて悲しくなりがち
・平和堂のホップカードを県民のほとんどが持っているのは本当の話
・なんだかんだで滋賀県が好き
・車の滋賀ナンバーは「ゲジナン」(滋の字がゲジゲジなので)とバカにされる
・「違う!イナズマナンバーだ!」と言い返す人もいる(参考)http://zombieaso.blog.jp/archives/23357712.html
・JR湖西線はすぐ強風で止まり、神戸線まで迷惑をかけてしまう
・ビワイチという自転車で琵琶湖一周するルートがあるが、気軽に行くと10時間以上かかるので死ねる
・BBCといえばイギリスの放送局ではなく「びわこ放送」を思い浮かべる
・滋賀新聞はなく、代わりに京都新聞に少しだけ滋賀情報が載ってる
・クラブハリエのバームクーヘンは数少ない全国区の名産品なので、滋賀県民の誇りであり心の支えになっている
・滋賀県の面積の6分の1が琵琶湖で、半分は森林。滋賀県4000㎢、森林2000㎢、琵琶湖600㎢。基本的に琵琶湖と山の間の平地に住んでる
・琵琶湖の近くで運動すると琵琶湖虫というユスリカが汗の匂いで頭の上に集まる
・イナズマロックで雨が降ると「なんで台風の時期にやるんだろう」と思う(西川貴教の誕生日)が、滋賀でフェスやってくれることは感謝してる
・ブラックバスを食べたことある人が多い。給食に出ることがあるし琵琶湖博物館でも食べられる
・たくあんマヨネーズか入ったサラダパンが紹介されることがあるが、あれは基本的に湖北の人しか食べたことがない(他ではほとんど売ってない)
・ぽこピーは甲賀市なので滋賀県民にはそこまで知られてない(気がする)。応援してる
・5年生になると、「うみのこ」という船に乗って他学校の生徒と船上で一泊する
・ちなみに4年生は「やまのこ」といって山の施設に一泊する
なるほどね。
最初は戦後の名前を引き合いにだしてるのか思ったが、グーグル先生で調べてみるとどうもそれとは違った「大日教」が存在したようだ。
同じbotのつぶやきには「大日教祖杉本と信者某との質疑応答」とあるので、教祖の名前が違うからだ。
あとは戦前の「天津教」皇祖皇太神宮天津教 - Wikipedia
(現 皇祖皇太神宮天津教)が戦後の一時期は「宗教法人大日教」という名称だったのでこれかと思ったが、教祖名も違う。
とにかく、一次ソースが気になる。
んで、色々とネット上の情報だけで調べてみた結果、@hukei_botは「昭和特高弾圧史」からの抜粋であることは間違いなさそうだ。
Googleブックス(書籍検索)で「昭和特高弾圧史, 第 4 巻」を引き出し、書籍内検索で「杉本」と検索すれば同じ内容が引っ掛かる。
現在のGoogleブックスは著作権のある書籍は全文表示ができないから(開始当時は見えちゃった気がする)ブツ切りのような情報しか得られないのが難点。
同じく「特高外事月報」と合わせて見ると、全日教教祖は1942年当時60歳、起訴時東京在住、滋賀県出身の大日行者、杉本金治郎というのが裁判記録らしきものから分かる。
108 ページ
... は神去り給ひてより其の誠が大日如来に包摂せられ其の如来は宇宙に瀰漫せる大
自然の誠にして人類並に一切の物を創造し且永遠に之が霊的及現実支配を為たりと
称し、大日教なる教理を創説し爾後之が宣布に努め来たりたるものなる処、該教理たる
や大 ...
「特高外事月報」
59 ページ
... 知得したりと構し、大日教なる教理を創説し衛後之が宣布に努め来たりたるものなる
慮、該教理たるや大日如来は宇宙に瀬夏せる大 ... 四月頃道了奪が大日如来なることを
CiNiiでも引っ掛かった。
CiNii 論文 - 内務省による宗教弾圧 : 創価学会の場合を事例として
CiNii 論文 - 宗教法人法の改正をめぐる問題点 : 宗教団体に対する管理の要素の導入の有無と是非(松本保三先生退職記念号)
1942年の治安維持法違反・大日教事件として記録されている。
しかしまあ、通常のGoogle検索では引っ掛かららんのだね。
戦前・戦中期日本の言論弾圧 (年表) - Wikipedia
↑これにも出てこなくって、忘れられた宗教みたいだ(前述の竹内文書教のせいもあるだろう)
疲れたのでこれまで。
(追記)
(追記2)
↑当時60歳というのが厳しいだろう。
宗教団体法とか治安維持法について知っていたけど、ちょいちょいググってみて、改めてこのあたり軽く考えてたな、と思ったりした。
追加の情報としては
28 ページ
明石博隆, 松浦総三 て、此の大日もその為に行を積んでゐるのである、その修行も半ば
「大平山大日教」ともいう様子。「大日教」が「大日経」の意味で使われる事が多いからかな。
https://www.google.com/#tbm=bks&q=%E5%A4%A7%E5%B9%B3%E5%B1%B1%E5%A4%A7%E6%97%A5%E6%95%99]
http://anond.hatelabo.jp/20070416183656
これはどこの地域でもあることだろうけど、学校行事・式典で国家を歌わない。
小学校卒業間近となったある日、教師達は口々に「歌いたくないなら歌うな」と言ったり、「私達(教師)は歌う事を強制されている」と被害者ぶった口調で言ったり。
卒業式では、「国家を斉唱します」→「起立してください」→「国家斉唱」という流れだったから、歌おうという人は立たねばならなかった。
歌うために起立した人には当然冷たい視線が送られたわけですけども。
それ以前に、「歌いたくなければ立たなくていい」と教師に言われていたので、立つ生徒は皆無に等しかったのを覚えています。
自分のときは小渕が首相だったかな、なのでこのエントリーを書かれた方と同じ年代だと思うんですけど、
滋賀県の某市立小学校に在籍していた僕は君が代斉唱のときに愉快な経験をしていて。ちょっと書き込みたくなったので増田にぽちっとな。
??????
――この方と同じように、僕の小学校でも卒業式のリハ前に、教師が君が代っつーか戦争の歴史を語って、「歌いたくないなら歌うな」ということを言っていた。
5年生の時だったか、1時間ぐらい割いて学年集会としてそういう「平和教育」をした記憶がある。
ただし、「国家斉唱」するときは「起立してください」がその前になく、ずっと立ちっぱなしだったので、
国歌をうたわないという意思表示をするには「立たない」ではなくて「座る」ことをしなければならない。
これがクセモノで、「歌うために起立」すると目立ってしまうけど、「歌わないために座る」ということは、
立っている人の中に埋もれるということになるので、まったく目立たない。
というか目立つ目立たないはどうでもよく、当時純朴まっしぐらだった小学生たちは教師たちの言うことを頭のてっぺんから足のつま先まで信じ込んでしまった。
そして卒業式のリハーサル。「国家斉唱」と言ってまず座ったのが全体の1割(ちなみにこのなかに僕も居た・笑)、そしてそれを見て
立っているのが恥ずかしいと思ってしまった残り9割の一部が、斉唱中にばたばたと座ってしまった。
結局、歌い終わるまでに3割ぐらいが着席して、かなり慌しく騒がしいリハーサルになった。
リハーサルが終わったあと、先生が国歌斉唱について苦言を呈した。
「国歌斉唱の途中で座るのはよくない。騒がしい。中途半端な気持ちや、みんなが座っているからといって座るのはよくない」
みたいな注意だったと思う。
「中途半端な気持ち」。確かに座ったほぼ全員の人が「中途半端な気持ち」で座った、のだろう。
戦争の被害が??とか言われてしまって、悪いレッテルを貼られたらそりゃもう、歌う訳にはいかないし、何より教師にとっていい子であるために、僕は座ったんだ。
だけどもし、今その時に立ち返って教師に質問できるとしたら、子供がそんな「硬い意思」を持てるのだろうかと僕は反論したい。
子供がそんな強い意志を持っていいのか。子供に覚悟決めさせることが教師の、大人のすることなのか。
子供は未熟で、あやふやな存在だ。だから大人を見て育つ。その為に教師たちのいる学校にも行く。
大人の模範である教師に「君が代には血塗られた歴史が??」みたいなことを言われたら、誰でも不安になってしまうんじゃないだろうか。
不安という予感はあやふやで不確かで、つまり「中途半端」な気持ちだ。
ホームルームで僕は思った(もちろん↑みたいなかしこまった考え方じゃなくて、なんとなくもやもやとした気持ち悪さを感じていただけだが)。
「中途半端な」存在に押し込めた責任は、先生たちにあるんじゃないか、っていうことを。
結局、当日の国歌斉唱では誰も座らなかった。