はてなキーワード: フラストレーションとは
読んでいると若干モラハラ入ってるように感じる。
もちろん夫のやってることは良くないことだ。
でも一方的に相手の自由を制限することは好ましくないなんでそんなことになったのかはっきりと言葉にして解明されてないし、理由は何にせよ扱える金銭が少なくなって夫はよりフラストレーションを溜めるわけじゃない?
相手の過失を出汁にして自分が夫にかけてる圧力を正当化してるんだよ増田は。
夫は結婚した当初から仕事で行き詰まりを感じていた。脳と心が疲弊し、私の出産を機に閑職へ異動。年収とともに忙しさも減って私は嬉しかったが夫は寂しそうだった。
なんで夫が寂しそうにしてる横で喜んでんだよ。家族なんだから孤立さすなや。
ゲーム内の紳士的な仲間たちは「リアルが大事ですもんね」と言っていた。彼らは大馬鹿者である。ゲームとリアルは綺麗に分けられていて、それぞれ別の世界だとでも思っているのか。この世は常にリアルしかない。心をすり減らしながら労働し、液晶画面の絵や文字を変えるのに金をつぎこみ、その金を得るためにまた心をすり減らす。その醜悪な構図はどこまでもリアルだ。なぜ分からない。大脳が溶けてる。
その醜悪な構図の中に増田も組み込まれてるんだよ、自分の気がつかなかったうちにな。
夫の大脳が溶けてくのを放置するどころかそれに拍車かけてたんだよ。
将来への不安、死ぬ事への恐怖、結婚できるかどうかとか、そういったものだけを普通の人は「つらいきもち」として認識しているらしいことにここ数年やっと理解が至った。自分の場合はそれとはまた別の正体不明の「つらいきもち」も存在していて、これも含めて一般的な「つらいきもち」だと認識していた。みんなもそうなのかなぁと思っていたけど、違ったっぽい。これじゃ普通の人とは微妙に話が噛み合わない上に誤解されるわけだなぁと。
自分も自分で、なんでそんな斜め下の解釈するんだと腹が立つ事がよくあったけど、その「斜め下」の解釈がむしろ一般的であって、自分が運悪く例外的な経験をしてきた事で認識が違ってしまっていたらしい。
そしてこれまでは、自分のこの「つらい」の正体を正確に把握できた事がなかった。何故かと言うと、気持ちの原因を思い出すことが精神的に非常に苦痛だったため。
原因というのは家庭環境、養育環境のことで、学生時代にもこれについての問題意識はあった。
ふとした切っ掛けでスーザン・フォワードの「毒になる親」と出会って実際に読もうとしたけど、冒頭の数ページ読むだけで精神的に不安定になってしまい、結局その時はそのまま先には進めなかった。大学卒業後も同じことを4年くらい繰り返していた。
でも一人暮らしを始めて2年経ち、転職をしてという直後から半年間立て続けに起きた出来事に対処する一環としての取り組みの結果、最近では「つらい」の比較的ちゃんとした輪郭と、具体的な内容と原因が把握できつつある。「毒になる親」も最後まで目を通すことが出来たし、関連する他の書籍にも手を出せている。
自分の「つらいきもち」の正体は自分の歴史的経緯から来るものだという事が確信できた。ただ、その歴史的経緯を自分に対して現在も無意識に適用しているのは自分自身だという事も段々分かってきた。
一言で表すなら「毒親の影響」ということになるけど、もう少しちゃんと表現するなら次みたいになる。(まだちょっと分析甘い)
今認識できている範囲の話だけど、これらが自分の「つらい」のキモのように思っている。
「毒親」ってワードを使うとすぐケチ付けてくる人間がいるから面倒だし、言葉が暴力的にストレートだから別の表現が必要だと思わなくもないけど、それでもこの単語は凄く的確な表現だと思う。
幼い頃から刷り込みで自己否定などの「毒」を植え付けて、親と同じ空間におらず暴言を吐かれていない瞬間でも、自主的に自己否定を繰り返すよう教育することで、大人になったり独り立ちした頃には苦しみのたうち回り…みたいな。のたうち回るような元気が残ってる人がどれだけいるのかって話だけど。
虐待によるトラウマを除くと、毒親による影響で特に大きなものは親を自分に内在化してしまうことだと思う。これにより何が起こるかというと、自己否定をデフォルトとしてしまうことが挙げられる。
この自己否定はポジション的には超自我とかにあたるもので、本来なら自己否定なんかじゃなくて規範としてどちらかと言うとポジティブな物として機能しなくちゃいけないんだけど、親が精神的に未成熟だったり自分の人生の課題に対して答えを出せていないとかで不安定な場合は、「毒」を規範として植え付けられる結果になってしまうのかなと。
それがどのようにして植え付けられるのか、憶測込みだけど文字に起こしてみると案外悲しい感じになった。
思考するだけだとそんなでもなかったけど、文字に表してみるとやっぱりこう、悲しいというか、しょうもないというか、酷くがっかりする。
休日に少しでも長く寝てたり、病欠したり、平日に休暇を取ったりすると
とか頻繁に怒鳴られてたけど、あれは完全に自己紹介だったなと思う。当時はそう思う余裕は無かったなとも改めて気が付いた。
うちの場合は問題の中心は父親だったんだけど一方の母親は何をしていたかというと、俺をかばうどころか、フォローするどころか、傍観をするどころか、「あの人がおかしな事をするのはお前のせいだ」と罵ってくるタイプの人間だったので、自分の両親は味方ではないという認識だった。問題のある人間は問題のある人間とくっつくんだな、という気持ち。
兄弟は妹がいるけど、妹は味方というよりは共通の敵を持つ他勢力みたいな認識だったな…。
去年会って話をした時には、当時俺に対して「哀れだな…」と思っていたらしい。それは俺を庇って同様の被害を被るよりずっと利口だと思うし、去年妹と会話をして結果的に問題の改善が進んだし、妹が逞しく成長してくれていてむしろとても助かったと思ってる。「こっちに来るんじゃねえぞ、そのままいけ…!」みたいな。ありがとう。
少し前まで、どんな些細なことであっても何か考える度に最終的に「死にたい…」という結論に結びついていた。
去年あたりから「自分の親は毒親だった」と認識でき始めて、更にここ1,2ヶ月は「毒親」と濁すんじゃなくて、自分が経験させられた事を「親からの虐待だった」と自分に対して説明することができるようになってきた。
昔と比べてかなり進歩したと思う。昔ならそんな認識は恐ろしくて出来なかった。自分はそんな酷い目には遭っていないと思いたかったんだと思う。
そして少しずつだけど、自分のことを大事にするという概念が掴めてきているような気がする。
自分のことを大事にするといえば、最近また新たに気付いた事があって、これは個人的にはかなり収穫だと思ってる。近いうちに効いてくるはず。
初めの方で書いた「その歴史的経緯を自分に対して現在も無意識に適用しているのは自分自身」の事なんだけど、これについての現時点での理解をちょっと整理したいと思う。
大きく2つあって、1つ目は、この記事中で何度か出てきている「自己否定」「毒」という存在の在り方と、これがそもそもどこから来ているかについて。
自己否定が起こるのは自己評価が低いためだと思う。じゃあ、自己評価が低いのはなぜ?という話になってくる。
自分の欲求をちゃんと満たしていないためだというのはあるかもしれないけど、自分の場合はそれよりも重大で根本的な問題として、延々とされ続けた親の否定的な刷り込みの存在が強いと思う。
親から虐待や人格否定を受けることで幼い子供の自己認識は「自分は無力な人間、ダメな人間」となり、それがそのまま人生脚本となり、無意識にそのように振る舞ってしまいそのような人間になる。
それを精神的に未熟な親が自己有効感を得るエサとして利用(虐待、人格否定)し、それにより子供は更に自己無力感に陥り…という、子供にとって悪夢のような悪循環が発生する。このサイクルが「否定的な刷り込み」の実態であり、毒親が子供に植え付ける「自己否定」や「毒」の正体なのだと思う。
この強い自己否定感、自己無力感は、親が自身の無力感や精神的な不安定さをカバーするために押し付けられた親自身の問題であり、こう認識してしまうともう親に対して「ぶっ転がすぞ」という気持ちでいっぱいになる。
以前は親に対してこんな認識を持つどころか「もう人生だめだ…死にたい…」となっていたのでこの気持ちも進歩だと思う。
つまり、自分に対する自分の認識は、無意識に親の自分へのニーズを反映したものであり、自分が自分を正しく認識した上で自分に下している判断ではない。
内面化した親のニーズで自分を見ていたのだ!(強調したい部分)
「毒親を内面化してしまっている」という表現は書籍やブログで何度か見かけていて、ただ実際どういう状況になっているのか全然理解できていなかったけど、この考えに至ってようやく合点がいった。であれば、ひたすらに自己否定をしてしまうのも納得がいく。親の抱える問題を解消できない限り自己否定は続くんだと思う。
親からしたら本来親自身が頑張らない限り親が死ぬまで未達だし、親が死んだ後であっても、内面化した親(のニーズ)から見て未達なので、子供は無限に自己否定し続けることになる。
自己否定の原因を正しく特定して認知を変えないと死ぬまで自分を否定し続ける。
こんなの「毒」じゃなかったら何だっていうんだ。現代の呪いじゃん。洗脳とも呼べるのかもしれない。まぁ「刷り込み」って「洗脳」の呼び方変えたようなもんだし同じようなもんか。
2つ目は、やり場のない感情とその矛先について。
ここひと月ちょっとは、過去に親との間にあった出来事と当時の自分の感情を、出来る限り思い出して言葉として書き出すという事をやっていた。
これによって狙っていた事は、自分の意思だけでは思い出し切れないトラウマ記憶に近い時系列の記憶に迫り、文字に起こして認識することで「過去の出来事、終わった事象」として自身に印象付けようとしたのと、あわよくばトラウマを芋づるで掘り当てて、当時の自分の解釈を現在の自分の解釈で認識を上書きすることでトラウマを軽減、解消する事だった。
精神的な負荷が高いから嫌だったんだけど、EMDR以外では1人で出来るもので現実的っぽそうなのがこれしか無かったので、今の自分であれば精神的に安定している時なら回復にそれほど苦労しないと判断して挑むようにしている。
結果的にはまだ解消に至ってはいないけど、認識できていなかった事を認識することが出来た。
自分で自分の感情を無視していた事に気が付いた。これ文字にすると厨二臭くていやだな。
無視していた感情というのは、具体的にはある期間の横暴を働く親とそれに対抗できない自分に対する強い憤りなんだけど、当時の自分はストレス発散の手段を親に奪われた挙句に愛玩動物の延長みたいな扱いを受けていたので、感情を解消したり発散する機会が無い状況だった。
自分の意思を表現すると「立場を思い知らされる」ので、あまりの怒りと無力感から自分の机に伏してバレないように動物みたいな唸り声を上げたりしていた。趣味も生き甲斐も取り上げられ仲間とも断絶されて、ストレスから肌も顔も荒れ放題、耳は切れて黄色ブドウ球菌に侵されてリンパが垂れ、首筋もあかぎれのように切れてしまい、腕の皮も荒れて剥け落ちてという有様で、生きているのがひたすら苦しかった。
病院には行っていたけど、治癒のスピードよりもストレスによる身体の破壊が早くて当然なかなか治らなかった。鼓動が早くなっていて体温も通常時より高く感じていたので、自律神経失調症にもなっていたなと思う。これまでで一番白髪が多かったのもこの頃。友達からは「お前、なんか覚醒するんじゃねえの」みたいな軽口を言われてちょっと救われた。高2〜3の頃だったと思う。
これを書いていると、今すぐ家を飛び出し実家に乗り込んで、徹底的に仕返しをしてやりたいという衝動を自分の中に確認できる。この期間は同じく家庭環境が複雑な友達が支えてくれていたお陰で、問題を起こさず自分も生き延びる事ができた。その友達との連絡は今はもう取れなくなっている。まだ生きていてくれると嬉しい。
この記憶を思い出した事で付随する感情も引きずられて出てきて、この時に気が付いたのがここ数年ほとんど自分の怒りらしい怒りを認識していなかったという事で、なんというか新鮮な気持ちになった。感情が揺れ動くのがなんだか嬉しくて、ちょっとワクワクした。
「怒りを感じていなかった」というのが実は大問題だったと思う。
この怒りの矛先は本来親に向けて抵抗するために利用すべきだったものなんだけど、利用できていなくて、そして最近ありありと思い出せたという事は当時のフラストレーションが解消されず残っているという事になると思う。解消できていないのならそれを感じなくなってしまっていたという認識はおかしくて、じゃあ認識できなくなっていたそれはどこに向かっていたかというと、これはまだ検証中ではあるんだけどどうやら自分自身に向かってしまっていたっぽい。怒りの矛先が自分に向かうことで、自己否定を一層強化してしまっていたんじゃないかと思う。
「しんどいのは親に向かうはずの感情の向き先が自分になってしまっていたため」と考えてみるようにした所、体が以前よりも軽くなり、洗い物が出来ない、風呂に入るのがつらいなどの恐らく精神的な問題が急に改善されだしたのは大変嬉しいんだけど、ネガティブな側面として最近色々な事にすぐイライラするようになってしまって困った……。これは多分……親に向けるべきものが溢れてコントロール出来ていない的なものかな……と思ってる。
でもこれは創作活動に転用できるエネルギーだと期待しているので、自己否定の改善と併せて、またしょっぱいながら活動を再開していけるんじゃないかと自分には期待をしてる。
つまり何が言いたいかというと、動けない、簡単な事ができない、しんどいという状態は何かしらのネガティブな強い感情が無意識に自分に向かうことで強いストレスを生じ、そこから起こる精神的な問題なんじゃないかと思う。と書いたところで気が付いたけど、よく見かけるような文になったし、そんなに発見ではなかったかもしれない。でもこれまでの情報との紐付けができたので、これはこれで知見かもしれない。
最近の取り組みは方向性は間違っていないと思う。例え間違っていても、死ぬまでに目的を達成するためにも引き続き認知の歪みを直す取り組みを続けたい。
「やりたい事をやらないのが苦しい」のは当然だけど、「やりたい事をやるのも同じように苦しい」というのは異常だし、このままじゃ今度こそ気が触れるかもしれないので、出来るだけ早く絶対にこの状況を脱したいです。おしまい。
一人暮らしを始めて転職して、そしてまた引っ越した際には保証会社を使ったので住所を自分からは伝えていない。確認は可能らしいけど。
ゴミ親父は前々から借金していた事が去年発覚して、その際に出向いて縁を切ってきた。俺のこの先10年間と俺の収入を返済に充てたかったらしい。ぶり転がすぞ。
母親は発覚直後もほとぼりが冷めてからも、問題には触れようとしない他力本願ぶり。あんたは昔から自分にとって都合の悪い事はどんな些細なことからでも逃げるよな。いや、借金は父親の独断だからその点だけは間違っちゃいないけど自分が住んでる土地?家?が担保にされてるのにそれは無いでしょう。
みたいな状態なので、実家はもうどうにでもな~れという気持ち。妹ちゃんも脱出がんば。応援してる。
早く人間になりた〜い
結婚して子供は二人。妻は専業主婦。都内の持ち家に住んでます。
よほどの物好きでなければ読みもしないでしょうが、よほどの物好きのために書き起こします。
少し年の離れた兄が2人。
父親は高度経済成長期に鉄くずで一山あてて、わたしが物心ついた頃には外車を乗り回して手広く商売を始めていたいわゆる実業家だった。
兄たちは私立高校に通うも大学には行かずに親が与えた飲食店のそれぞれのオーナーになった。
学校が終わると遊びに出かける友人たちを尻目に店を手伝わされる毎日。
日付が変わる頃家に帰ることもあって遅刻の常習犯。授業中も居眠りが基本。
ところが与えられた商売がうまくいくはずもなく、飲食店はいつも閑古鳥。
それをいいことに給料はろくにもらえず、そのくせ毎晩の様に遊び歩く兄を見てフラストレーションを貯める毎日だった。
エスカレーター式で高校に行くも、そんな生活サイクルでは勉強がうまく行くわけもなく高2で単位をとれず留年せずに中退。
ところが世はまさにバブル崩壊直後。
手堅い商売だけを続けていればいいものを、株式投資に手を出した父親は持ち家から事業の全てを一瞬にして失う。
兄たちの飲食店も当然のように廃業。兄弟それぞれがそれぞれに肉体労働を始める。兄弟とはこの頃に絶縁状態になった。
修行期間という理由でボロアパートの一室を与えられた以外に、給料は3万円のみ。
免許を持っていなかったので現場までの移動はかろうじて眠ることが許された。
ところがこの仕事も、1年後に職人がこぞって夜逃げしてしまったために職人部隊のみ解散。
退職金(とはいっても今まで手渡されてなかった自分の給料だが)を80万受け取って、補償もなしに家を追い出される。
財産を失ってから口を利かなくなった両親が住む葬儀場のようなアパートに身を寄せるも、口を開けば喧嘩が始まる両親に挟まれることが限界になり自室に引きこもる。
ダイヤルアップとテレホーダイでインターネットを始めて昼夜の生活が逆転する。
引きこもりを始めて1年。夜間の日雇いで食いつないぎつつも20歳になったときに貯金が底をついてしまったために日中の就職を考える。
まだ個人でパソコンを持っているのが珍しい時代だったために、ハッタリだけでソフトウェア系の会社に入社。
プログラマーではなく営業職だったために、そこでタイピングから文書作成などの基礎をみっちり教わる。
しかし務めていくうちに社長がキャッチセールス(ソフトウェア抱合せ販売系就職斡旋詐欺)方向に傾倒しはじめ、会員からの指摘で警察が介入する事態になりあえなく倒産。
22歳にて再び露頭に迷う。
その後再び1年間引きこもり。フレッツISDNが始まった頃で、起きたいときに起き、寝たいときに眠る生活をするうちに日にちの感覚を失う。
その後、パソコンを使えるという話を聞きつけた親戚(工務店とは別の親戚)からぱちんこの事務を頼まれる。
急遽事務員が長期間の入院をすることになり替わりの人間を探しているとのこと。
当時、ぱちんこそのものを見下してはいたが、寮を与えられ正社員として採用してくれるという言葉に心が動いた。
一日でも早く家を出たかったし、高校中退引きこもりの自分が正社員として働ける日がくるとは思ってもいなかったからだ。
入社して早々にわかったことは、会社全体としてかなり管理が杜撰ということ。
オーナーはものすごく人がよいのだが、その人の良さにつけ込んで働いている人間かかなり好き勝手やっている状態だった。
一応引き取ってもらった恩があるのでできることから少しずつ改善を始めるも、当たり前のように古参と衝突した。
人は人、自分は自分の精神で、自分の受け持った仕事だけはきっちりと無駄なく効率化した。
当然働いているふりをしていた人間はそれが明るみになり、オーナーも少しずつおかしいことに気づき始める。
入社して1年で事務周りの全てを見直して最低限度の効率化を達成。
それと同時に働いているふりをしていただけの人間は勝手に居場所を失いいなくなった。
その頃には自分がいなくても事務が回るようになっていたので、その実績を買われてか今度は店舗に異動。
20店舗近くのチェーン店を持つグループ企業の、旗艦店のリニューアルがあるということだった。
いざ入ってみるとここも上から下まで相当腐敗していることがわかる。
ぱちんこ業界としては最も隆盛の頃で黙っていてもお金がどんどん入ってくるような時代だった。
とはいっても競争が激化してきていることもあり、そのままでは当然おいていかれてしまう状況だった。
リニューアルを目前にして、やらなければならないことは山積みのまま。
オープン直前の2週間は職場で数時間の仮眠を取るだけの生活が続いた。
リニューアルはなんとかうまく行ったもの、オープン後も課題は山積みのままで誰よりも早く出社して誰よりも遅く帰る日々が続く。
当時はなんて無責任な!と憤ったものだが、今思えば働いているフリをしていれば守られていた地位が突如脅かされたのだから当然のことなのかもしれない。
ここだけの話だが、教えられる相手もいないまま手探りでぱちんこの釘を担当することになったことで、この旗艦店ではしばらくの間、全くの素人が釘を担当していた期間が存在する。
当然毎月の利益は破茶滅茶で、リニューアルの人気だけで売上が保たれていたような状況だった。
ただ、そのせいで、今度はとうとう休みすらまともに取れなくなってしまった。
毎日出社して数百台の釘の打ち替え、勤務日はホールのシフトに組み込まれてしまうため、事務作業は公休日に行った。
(一応断っておくが、釘の打ち替えは直ちに違法ではない。無承認変更にならないために適正を維持することもホールの義務といえるからだ。)
広告の手配から店舗の販促、部備品の発注からセキュリティまで事務作業のほぼ全てを一人で行っていた。
休み無し、一日の労働が17時間を超える日が3年ほど続いた頃、とうとう身体を壊した。
その頃には店舗のナンバー2まで歴代最速で上り詰めていたが、逆を返せばまったく後戻りができない状況に追い込まれていた。
その後は一ヶ月間自宅療養になった。
絶対に休めないと追い込んでいたのは自分だけで、休みから明けてみると(満足できるか出来ないかは別として)業務のほとんどは滞りなく行われていた。
それをきっかけに、部下を信じて、6割の完成度でも容認できるようになったことで、やっと休みを取ることができるようになった。
そのさらに1年後、28歳のときに新店舗立ち上げのリーダーに選ばれた。
準備期間を経て新店オープン直前の1ヶ月から1年間、再びまともに休めない生活が始まったが、以前のように一人で背負い込むのはなく、部下たちにうまく割り振ることで精神的な負担はうまく分散することができた。
営業も安定したオープン2年目、十分に下が育ったと実感できた31歳のときに本部に異動になり店舗業務から外れ、グループ全体のマネジメントを担当することになった。
家族手当や住宅手当などを含めて初めて年収が一千万円を越えた。
ただ、結婚するまで貯金はなかった。ほとんどが部下たちとの交際費で消えてなくなっていた。
自分が上り詰めると同時に居場所をなくした上司達が次々に辞めていったために、今では親族役員を除けば実質社内で1番の地位、本部長を務めている。
ただ、ぱちんこ業界の先行きは暗く、今のままではこの収入を維持することは難しいだろう。
ここまで目を通してくれた物好きな方はお分かりの通り、わたしの人生から学べることなんてものはない。
学歴なんてものは持ち合わせていなかったし、かと言って中退後に真面目に働いたわけではなく、むしろ社会と断絶した生活を送っていた。
成人した後、必要に迫られてがむしゃらに働いた時期はあった。しかし、今思えばそれは行き過ぎていたし、実際に身体を壊す直前には死ぬことばかりを考える毎日だった。
あの時、ぱちんこを見下したまま誘いを断っていれば、今の自分は絶対に存在していないだろう。
ただ、自分の後にも先にも、この会社でこんな働き方をした人間は一人としていなかった。
それが自分の生き方が他人の模範にはならなかったことを端的に表していると言えるのではないだろうか。
言いたいことは一つ。
どんなに成功していようとも年寄りの話なんて良くも悪くも半分も聞いていれば十分だということだ。
なぜなら、彼らは努力の結果生き残ったのではなく、生き残った結果、自らを肯定しているだけだからだ。
どんな道を進もうとも、そこには必ず運がいたずらをする瞬間が存在する。
そのちょっとしたいたずら次第で、人の人生なんてものは簡単に変わってしまうものなのだ。
努力が無駄とは言わないが、努力に見返りの約束を求めることだけは無駄だと断言できる。
ただ、もし付け加えるなら、何かの選択を迫られた瞬間、それが自分にとって燃え上がることのできる選択かどうかを考えて欲しい。
その覚悟がなければ、運によってもたらされた結果に後悔を繰り返す人生になってしまうからだ。
自分にしてみれば、今の生活がどうであれ、青春時代を親兄弟に台無しにされたことが今でもくやしくてならない。
あの時あの瞬間しか味わえないものはいくらお金を積み上げようとも買い戻すことはできないからだ。
なぜあの時にもっと親兄弟と戦わなかったのか。その結果が例え無駄だったとしても、戦うという選択をしなかったことだけが今でも一番の後悔として自分を苦しめ続けている。
他人は関係ない。自分がより輝ける選択を続けられることが、辛くても苦しくても、例え早々に死を迎えることになったとしても、幸せと言えることかもしれない。
当方オッサン。女がセックスで感じすぎるのが必ずしも気持ちいい訳ではないということが、今更ながら理解できるようになった。理解できるようになった契機については心当たりがなく、ある日そう思うようになっていた。一方で長らく気付けなかった原因は分かっていて、男が出したらセックスそのものが終わることが多いから、いってからもセックスが続けられる頻度が女性に比べて少ないことが理由だろう (全く無かった訳ではないが)。
感じさせすぎないようにしてからはパートナーとの関係性もさらに良くなったように思う。オナニー程度の軽い疲れ具合で事後が楽なのだそうだ。ただし男としてはややフラストレーションがたまるのが難点。たまに激しいのをリクエストされるのでいいんだけど。
ハリルの解任を悲しむサッカーファンの1人です。
解任そのものについては様々な見地からの記事がありますが、解任に至った理由の1つとして挙げられることのある「代表人気の低迷」についてなぜ起きたか、どうしたら回復するかはあまり語られていないと思うので、1人の意見として書きます。先に結論をいうと、本田・香川を起用したら回復する、華麗なパスサッカーを体現したら回復すると、もし万が一協会が思っているのなら、こんなに人を馬鹿にした話はない、という話です。
まず、私はハリル時代の代表人気は、ザックや岡田監督の時代より低迷していたと考えています。(異論のある人は少ないでしょうが、念のため。)
私の周りで起こった事象としては、まずコアファンが代表戦(特に親善試合)を楽しめなくなり、それによって特にサッカー好きではない一般層も徐々に離れていきました。もう少し具体的にいうと、代表戦のたびに実社会やSNSでお祭り騒ぎをしていたコアファン層(試合中にずっとスタジアムかスポーツバーかtwitterで叫んでいるような)がお祭り騒ぎをしなくなって、そこに混じるのを楽しみにしていた一般層が「あれ?今日お祭りじゃないの?お祭りどこ?」となったという話です。「オフサイドとかよくわかんないけど、代表戦の日はコンビニでビールを買って帰ってテレビで観てtwitterでみんなと盛り上がるのが楽しみ」という友人が何人かいましたが、彼らは一様に「あれ??いつもすごい盛り上がってる人達がみんな急に静かになったんだけど、なんで?今日サッカーの日だよ?」と戸惑っていました。コアファンが盛り上がらなくなって、「お祭り」という一般層の楽しみが奪われたのです。それが視聴率の低迷に結びついていると私は考えています。だから、「普段サッカーを観ない層にも浸透しているスター選手が出ていれば視聴率は上がる」という意見には納得し難いと感じます。
ではなぜコアファンは一歩引いてしまったのかというと、それは(1)世代交代の失敗、(2)協会・監督・選手の関係への失望、(3)選手(や協会)の思う「面白いサッカー」がファンの思う「面白いサッカー」とずれていたという3点があると考えています。
(1)世代交代の失敗
過去のW杯で日本はセンセーショナルな世代交代に成功してきましたが、今回は失敗しました。岡田監督が「外れるのはカズ(三浦知良)」と発表したり、南アの本戦前に台頭した本田が中村俊輔からポジションを奪ったり、同じ頃にキャプテンが当時まだ若かった長谷部に交代したり。あるいは中田英や内田がまだまだ惜しまれながら代表引退を宣言したり。サッカーファンはそうやって、一時代を担った中心選手の席がニューヒーローの物になるストーリーを見てきました。それは去った選手のファンから見れば遣る瀬無い、苦しい思い出かもしれませんが、ファンの大部分にとっては寂しさと共に、新たな時代への期待を抱かせるシーンだったと思います。時に寂しさが勝る時もあったでしょうが、その一方で先に世代交代を失敗していたオーストラリア代表を見て「まだケーヒルが主力なの?平均年齢も高いし大変だね」と「あれは無いわー」と思っていた人が多いのでは無いでしょうか。しかしそれが今、南ア、ブラジル、ロシアと3大会続けて、私たちは「本田、香川、岡崎、長友」のサッカーを見ることになろうとしています。彼らが良い選手か悪い選手かに関係なく、単純に選手が変わらないことは飽きるのです。一時期、原口や浅野がニューヒーローとして台頭するのかな?とワクワクしてハリルジャパンを見ていたこともありますが、結果としてはそんなことにはなりませんでした。
(2)協会・監督・選手の関係への失望(繰り返される失敗への失望)
兵隊が指揮官の言うことを聞かず好き勝手に動く軍が強いと思う人は少ないと思いますが、日本代表チームにその問題があることを知らしめたのはザックジャパンでしょう。予選や親善試合の頃から「なんで試合の序盤は面白いことやってるのに、いつの間にか狭いところを通そうとしてボールロストってシーンばっかり繰り返してるの?」と不思議に思っていたファンは多かったと思いますが、W杯後にザッケローニの通訳をしていた矢野さんが出した「通訳日記」という本(元々はNumberの連載)がその答え合わせになっていました。どういうことかというと、そういうサッカーを好む選手がいて、違うサッカーをしようとする監督に「これがやりたい」と直談判しにくる。ザックの世界では戦術は戦術の専門家である監督に裁量権のある物なので、戦術の専門家でない1プレイヤーから口出しがあることに驚き却下する(当然だと思います)、選手の不満が溜まる、選手が勝手をしだす、という話です。そこまでは100歩譲ってまだ理解できるものの、度重なる選手の陳情を一応は聞いて帰してを繰り返していると、そのうち協会の偉い人がやってきて「選手の主張を取り入れてほしい」というようなことを言ってくる。それを読んでギョッとしたサッカーファンは多いと思います。選手に監督のいうことを聞くようにと諭すのではなく、監督に選手の言い分を飲むように伝えるのが協会の技術委員の仕事なんです。選手と協会が戦術を決めるなら、なんで優秀で高年俸の監督を引っ張ってくる必要があるのでしょうか。今回協会が「次も日本人監督で」と言ったのは「監督はお飾りでいい、選手と協会が戦術を決めて監督が反対しなければ成功するはず」と考えているとすれば整合性があるのでしょう。ばーかばーかそんなわけあるか!って感じですけど! ともかく、最高の頭脳を外から呼んできて、彼が最高のパフォーマンスをできるように協会がサポートして、彼の戦術が選手たちによってピッチに表現される、その先に成功がもたらされる、という絵からは非常に遠いところに実態があったわけです。これもまたファンにとっては失望であったと思います。
(3)選手(や協会)の思う「面白いサッカー」の感覚がずれている
当たり前ですが、サッカーは点を取り合うスポーツです。大多数の人にとって一番面白いのは得点が入るシーンでしょう。次点は「決定機を作れたのにあと一歩で入らなかった」「決定機を作られたのに最後の最後で防げた」シーンになるはずです。それ以外は各々の趣味で順位が決まる話でしょう。ある選手は南アの大会後に「勝つために仕方がなくあんなつまらないサッカーをしていたが、自分が観客ならあんな退屈な試合は観ない。もっと華麗な見せ場を作らないと」というような発言をしていました。見せ場というのはつまり華麗なパスワーク、華麗な突破なのだと思いますが、私はこの発言がファンの思う「面白いサッカー」と大きくずれていると思っています。一番観たいのは得点シーンで、彼のいうその「つまらない試合」ではそれが観られなかった。でも、最後の最後で点を入れさせないように決定機を防ぐシーンは沢山あって、沢山の人が手に汗を握って、感情移入しながらそれを観ていた。華麗な見せ場はなかったかもしれないけれど、あれはつまらない試合なんかじゃなかった。以降、一部の選手たちが拘っていく「自分たちのサッカー」がこの「華麗なパスワーク」「華麗な突破」と同じものだと私は認識していますが、少なくとも、点が入るシーン以上に華麗なパスワークのシーンが面白いわけがないので、「戦術のプロである監督が考えたもっとも点が取れそうなプラン」を阻害してまで華麗なパスワークをしようとされても、フラストレーションが溜まるファンが多かったと思います。
これらが合わさって、10年近く君臨する主力選手が、監督の言うことを聞かずに、華麗なパスワークをしようとしてうまくいかない、というシーンをファンは見せられ続けているのが代表人気の低迷の本質だと私は考えています。なのでもし一部で言われるように、協会が「本田・香川を起用」「日本らしいサッカー」で代表人気が回復すると考えているならば、こんなにふざけた話はないと思うのです。そして、世代交代をしようとして何らかの原因でうまくスパッとやれなかったことはハリルのミスと言えばミスなのかもしれませんが、サポートがあたかは疑問ですし、それ以外は彼に責任があるものとは全く思えません。なので、世代交代終わったら応援する、まだかなまだかな、と思っているうちにハリル解任の報を聞いた1サポーターとしては本当に悲しい気持ちになりますし、人気が低迷したからハリルが切られたという言説を見るたびにさらに悲しく感じるのです。私がサッカーにハマったのは20歳前後ですが、80まで観戦を楽しめるとして、生涯に楽しめるW杯は全部で15回くらいでしょう。その貴重な1回が今回こんな形になったのは残念でたまりませんが、残りが全滅しないように、できれば次回からまた熱狂できるように願ってやみません。
DVがあるわけでも、とても悲しい事件があったとかではないんだけど、人として駄目な家族
小さい頃から家族に容姿や頭の悪さを馬鹿にされてきたから、未だに自分に自信が持てない。
可愛がられてきた記憶もあるけど、物心つく前から両親はギャンブルに出掛けて、その間はフラストレーションの溜まった兄から軽度だけど暴力振るわれる毎日。
小学校中学年辺りからは晩御飯も用意されなくなって、両親が深夜に帰宅してからのご飯が殆ど。我慢出来ない場合はカップ麺を食べろと言われていた。
そんな状況の中育った私はとても捻くれた。心もいつだってギスギスしてる。
生きていく内に多少成長は出来た。昔は誰かと一緒じゃないと行動出来なかったけど、今は一人で外食出来るまでになった。
常に誰かに馬鹿にされてるんじゃないか、気持ち悪いんじゃないかと思って、人の目線を気にしていたけど、今は人の目線を余り気にしなくなった。
外見も髪を伸ばし続けて顔を見られない様にしてたけど、前髪も短くしてオシャレもする様になった。
友達も沢山ではないけど、両手以上には出来た。
自己顕示欲の塊。すぐに怠ける。
こんな自分が本当に嫌。
なんでイライラするんだろう。なんで嫌な気持ちになるんだろう。なんで広い心を持てないんだろう。
それを全部家の所為にして逃げ続けてる。
全部じゃない。全部じゃないし、自分が成長する努力を怠っているからだというのもわかってる。
でも今から性格ってどう変えればいいの?どうやったらイライラしなくなるの?常識やモラルを理解して自分の価値観は変えられても、心を明るくする方法がわからないよ。
知り合いに裕福な家庭でずっと褒めらて育った子がいるけど、とてもポジティブで心が健やかなんだなって感じる。性格もさっぱりしてるし、人生楽しそう。
褒められる事って良いな。自分を肯定してもらえるのって羨ましい。
全部じゃないかもしれない、でも、本当に、親からの影響って多少はあるんだよ。
同じ状況の中でも私と違ってしっかり前向いて進んでる人もいると思う。
それでも、少なからず傷付いてるよ。
こんな自分だからこそ、子供に同じ様な事をするのが怖いから。一生子供を産む気にはなれない。
母親を出来る気がしない。
ずっと、ずっと思ってるけど早く死にたい。
社会のゴミみたいな自分が年老いても幸せになれる気がしないから早く死にたい。
今がね、一番幸せなんだよ。幸せのピークって言っても良いかもしれない。
自ら死ぬ勇気も無い臆病者だから、早く死ねる事をずっと祈ってるよ。
長くなったので分割したやつのつづき。前のは → https://anond.hatelabo.jp/20180402204454
11話まで。
「よりもい」ってのは「宇宙よりも遠い場所」のひらがなの部分だけを読んで「よりもい」。この手の略称は「はがない」以外に定着した試しがない。
正直にいうとストーリーはそれほど好みじゃない。序盤で「わたしを馬鹿にしやっがって、ざまあみろ!」みたいなシーンがあったけれど、なんとも思わなかった。
ツイッターで「抑えるべき感情をあらわにした、その正々堂々たる姿勢に感動した」という旨の感想を見て、なるほどなあと思った。
あのシーンに感動しなかった理由はふたつ。ひとつは、単純にああいうストレートな物言いをあまり好まないこと。
もうひとつは、情熱に満ちた人を小馬鹿にする人間というのは、自分の言ったことをたいして覚えていない、深く考えないことがほとんどだから、「ざまあみろ!」と言ったところで、「クソ!してやられた~!」なんて思わないということ。何事もなかったかのようにスルー。いじめられた側はいじめの記憶が脳に焼きついているけれど、いじめっ子はまったく覚えていないことがよくある、というのに似ている。
こんな考えだからか、ストーリーにはあんまり入っていけなかったし、最後どうなるかがそんなに気にならない性格なんでラスト一歩手前で視聴終了。じゃあ、なにを観ていたかというとアニメーションの出来の良さとギャグシーンだ。
まず、キャラデザ。美形のキャラと美形じゃないキャラがちゃんと描きわけられている。かといって、美形じゃないキャラもちゃんとかわいく描かれている。このバランスの良さがすごい。
つぎに、テンポの良さ。軽すぎず重すぎず、適度にギャグシーンが挟まれ、見やすさと納得感をうまく両立させている。最後に映像の鮮やかさ。地味なシーンでもアニメーションの鮮やかさが加えられ、青春の輝きがうまく描写されている。
まあ一言でいうと、マッドハウスのアニメーションが好きだなあ~!ってことだ。マッドハウスは好きなんだけど、なかなか好みの内容のものをやってくれないからフラストレーションがたまる一方(森見登美彦はもういいよ……)。でもマッドハウスにはこれからも期待してるし楽しみにしている。
七話まで。
アクションシーンは手間がかかっているわりに楽しくないし迫力もいまいち、もっさりしているように感じた。コクピットの露骨なエロ要素は、変に視聴者を絞っているだけだからやらないほうがいいし、やるならもっと徹底してやってほしい。
一話から六話までのストーリーは主人公の挫折と苦難と達成の話でそれはいいんだけど、スランプに悩んでいてそれを解決しようと積極的に行動している主人公が、うじうじしているように見えるのはもったいないと思った。
設定をつくり込んでいるのは好意的に見ると察することができるけど、画面からその設定の奥行きが匂ってこない。なにかのメタファーっぽい設定(パラサイトと呼ばれるパイロット、男女がエロ態勢で操縦するロボ、パパと呼ばれる上層部など)もそんなのもういいよ……としか思えない。
いまどき、うじうじして許されるのはシンジ君くらいだし、メタファーをやって許されるのはイクニ監督だけだ。つまり九十年代の覇者の特権だ。
あと、キスってなあに?ってのは古臭いしEDのセンスもちょっと古い。大人と子供がどうたらってのもどうでもいいし七話の展開はいまさら一話みたいな展開をしてどうするさっさと話をすすめてくれ一話完結だとしてもおもろくねえよ次回予告を見ても話がすすみそうにないしもういいや。
たぶん深夜アニメを見慣れていれば見慣れているほど中途半端さを感じるんじゃないかと思う。
七話まで。
留年という萌えにまったくつながらない設定をどう調理するんだろう?という興味で観つづけたけど、余計な設定でしかないというのが結論だ。
留年設定もそうだけどキャラの関係性もいまいちだし、話の起点が留年以外になにもなく、その結果、下ネタに頼らざるを得なくなるという始末。日常系で露骨なエロは悪手だ。
あと、無駄にもにょもにょ動いてたのはなんだったんだろう?その八割以上がかわいい動作でもないし、演技でもなかった。手間をかけていたわりに作品の魅力に全然つながっていない。
この作品は、かわいければそれでOK!という萌え玄人にしかおすすめできない。
六話まで。
バトル系のラノベアニメとしてよくできていると思った。展開は少年マンガのように熱いし、将棋のことをほとんど知らないから解説の多さも鬱陶しくないどころか、ありがたく感じる。
ローキューブが切り開いた(?)ネタ系のロリも貪欲に吸収していて、作品のエッセンスになっている。念のためにいっておくが、作者はロリコンではない。将棋とロリ系作品を研究した成果がこの作品だ。
でも、いまいち好みじゃなかった。窮屈さを感じた。
どういうことかというと、ありえなさそうな、おもしろい設定・状況のほとんどに現実の将棋界の根拠があるのがなんか嫌だった。
たとえば、マントをつけて試合に挑む棋士。ありえねえ~とおもしろがっていたら、どうもこれは将棋ファンならだれでも佐藤天彦名人が元ネタになっているとわかるらしい。
ほかにも、試合中に喋りまくったりするのも一応は可能らしいし、一番ありえなさそうな、女子小学生が住み込みで弟子入りですら実例があるらしい。用意周到すぎる。
なんでこんなに用意周到に現実とリンクさせてるかっていうと、現実の将棋界がおもしろいからってのももちろんあるけど、ネット上でのツッコミ(叩き)を避けるためだ。
ありえない設定・状況・展開に「こんなのありない!現実的ではない!このアニメは糞!」となんの考えもなしで書き込む輩が大量発生するけれど(ここ五、六年でさらに増えたような気がする)、それを避けるためだ。こういういまの状況は窮屈だ。木を見て森を見ないどころか、木も森も見ず、枝がたった一本折れているのを見ただけで、みんなで寄ってたかって糞!糞!と叩きまくる。SNSの時代の窮屈さ。それに巧みに順応している原作小説ひいてはアニメ作品にも窮屈さを感じてしまった。
七話まで。
一言でいうと萌え以外のポテンシャルが低めのダリフラ。設定を詰めこみすぎて、うまく回せていない。
とくに序盤はダメで、いちおうフックらしきものはあったけれど雑然とした展開の犠牲になっていたし、急な展開に無理やりキャラが動かされている印象があった。やっぱ序盤でコンセプト・ストーリーの展望をはっきり打ち出すのは大事だよ。
それでもなんとな~く観つづけたのは古き良き萌えアニメの匂いを感じたからであって、途中からストーリーや設定が見えてきたものの、なんとな~く観るのをやめてしまった。
でも嫌いじゃないし録画はまだ残しているし、春アニメがつまらなかったらなんとな~く視聴を再開するかも。
五話まで(一話未視聴)。
ネットでの評判がよかったのでひさしぶりにプリキュアを観てみたけれど、なんかいろいろテーマ性やらメッセージ性やらが、これでもかとてんこ盛りで鬱陶しかった。
力のプリキュアがフィジカルの問題で苦悩する、つまりみずからの強みが強いがゆえに自分自身を苦しめる、というのは女児向けアニメには難しすぎるよ。
でも、今年のプリキュアが世の中の大半の教育者よりもまともなのはよくわかった。道徳教育よりは断然まともなんで、作中キャラと同年代の中学生に観てもらえればいい影響があるんじゃないかと思う。
こういうことを書くと、子供を馬鹿にしすぎだ、完全に理解はできなくともなにか大切なものは伝わるはずだ、とか言う人がいるけれど、ガキの頃に観た「オトナ帝国の逆襲」になにか大切なものを感じたかと問われれば「とくに感じなかった!」と言い切ることができる。たしかに、しんちゃんが東京タワーを駆け上るシーンは印象に残ってたけど、ただのお涙ちょうだいモノとの区別がつかなかった。まあガキだったからしかたない。「オトナ帝国」で感動・感心するのは大人だけの特権だ。
子供が楽しんで観れて、大人も唸るテーマ性・メッセージ性を組みこむバランスは、女児向けアニメのなかではやっぱり「プリパラ」が頭ひとつ抜けてうまい。とくに、このあいだ最終回を迎えた「アイドルタイムプリパラ」の後半部分の夢を巡る物語はとくにうまかったと思う。
アニメ作品としては良作になるのかもしれないけど女児向けアニメとしてはちょっと間違っていて、キャラデザが萌えに寄っていて好みだっただけに残念だった。
【小泉さん】二話まで。食べるとき不必要にエロい顔するのいい加減やめてください。ラーメン屋行ってとなりにああいう奴がいたらどう思うよ?
【バイオレット】二話まで。京アニの高級感ただようアニメーションが好きな人は好き、嫌いな人は嫌いってだけの、ある意味とってもわかりやすい作品。
【シトラス】二話まで。百合という枠・様式に甘えすぎ。内輪で評価されても外では通用しない。
【ビートレス】二話まで。この原作小説をアニメ化するのに必要なクオリティが全然足りていない。まあディオメディアだしね……。原作ファンには同情する。
【たくのみ】二話まで。こういう雑学系のやつはマンガで事足りる。あと不必要にエロくするのはいい加減やめてください。
【戦記】二話まで。硬派なの?軟派なの?どっちかに振り切ったほうがいい。サクサク進みすぎて戦記物なのにあっさり感がある。
【ハクミコ】三話まで。マンガ喫茶で既刊全巻読んじゃった。そのほうが手っ取り早いしおもしろい。
【恋雨】三話まで。マンガ喫茶で既刊全巻読んじゃった。そのほうが手っ取り早いしおもしろい。
【メルヘン・メドヘン】二話まで。ダメなアニメ化の典型。二話までの展開は20分あれば余裕でやれる。「俺様ならもっとおもしろくアニメ化できるぜ!」なんてズブの素人に思わせちゃいかんだろ。
ッあぁ~~~これ書いたら大人の人にめっちゃ怒られるかもしれない。でももういいや。もういい。もう嫌だ。だから書きます。 口調とかもあまりきれいじゃないかも、ごめんなさい。 私は自分が絶対に正しいとは思わないし自分と違う考え方の人に対してどうこう言うつもりもないのでそこだけご承知願います!
人間って生まれてからたくさんのものを獲得して生きていくものだと思ってる。 たくさん選んでたくさん捨てて積み重ねてきた時間がその人を作る、よく聞く話。そんな中で生まれた瞬間から決まっていてどうしても覆せないものって一つだけある。
親
って言われているもの。誰から生まれるか、どこで生まれるかなんて誰も選べない。
逆に親も子を選べないのもまた事実で、これを皮肉って『ガチャで出てきたはずれが自分だ』みたいなこと言う人もたまに見かける。
そういうわけで『親を好きになれなかった』話について。
その引っ越し、自立とかきれいごと抜かしてるけど親との同居に限界を感じて決行したものだった。 実家がどういうところだったか、少しだけ書くと 2017年夏(当時20歳)の時点で
•自分の部屋がない
•昼間は机が置いてある2.5畳の仕切りのないスペースで生活
•就寝は祖母と一緒の布団
•窓を開けてはいけない
•カーテンも閉め切る
•オーブントースターの温度設定は使い終わったら母親の使う温度に戻さなければならない
などなど。
母親も祖母も私がいうことを聞かないとすぐに怒鳴り散らすのでとにかく怒らせないように生活するのに必死だった。それで今でも大声で人を怒鳴りつける人が苦手。
これでも成人してよくなったほうで小学生頃なんか今思えば地獄度段違い。
母親が19の頃にデキ婚で私が生まれて小学生のころに離婚していて、次の男が一時期実家に住んでいたこともあった。いわゆる『ママの彼氏』。
「これから私たちの生活を支えてくれる人」って紹介されたこと。
誰だったんだろうあいつ。
見た目的にはホストっぽかったけど今となっては素性はよくわからない。 私が8歳当時なら母親はちょうど30手前くらいで離婚もしてまだまだ遊べる年だったんだろうな、と。
最初のほうは仲良くしてたと思う。私の目の前でいちゃついてて、それ見てたら男が母親いじめてるみたいに見えて止めに入ったら怒られてのけ者にされたりした。懐かしいなぁ。 そんな生活も長くは続かず1年経たないうちに仲が悪くなって男は出て行った。
そっから家に男が入ってくることはなかったので本当に父親という存在を知らずに育ってきた。 だから好きになった人や付き合った人に父親みたいな安心感を求めがちなんだって最近になって気づいた。
祖母も同居することになったのはそのあとで働く母親の代わりに家事全般をやってくれた。 それだけでも本当は感謝しなきゃいけないというか、感謝はしてるんだ。それは本当。 働いて私を育ててくれたのは母親で、そのことも理解しているつもり。
祖母は祖母で私が拒食症になって口に入れたもの目の前で全部吐き出してしまった時はブチ切れて木の棒で全身あざだらけになるまで殴ってきたけど書くとさらに長くなるから割愛。(重視すべきは体調不良よりも作ってくれた親への敬意 という考え方)
そういうわけで『産み育てた恩があっても殺す権利はない』というのが持論で、言ってしまえばこの世に生まれた瞬間から、 へその緒を切られたその瞬間から私は母親の体の一部ではない一人の人間になったはずなんだ。 その事実を『感謝』とか『育ててくれた恩』とかとごちゃまぜにして見えないところに押し込むことは私にはできなかった。
そして労働に費やした分子供と親が触れ合う時間が減ることで親子という関係に不具合が生じるのもまた事実だ。
私は本当に親がわからない。
親もしばしば私のことを「わからない」と怒鳴りつける。
今歩み寄れないのは間違いなく幼少期に信頼の基盤がつくられていないからなのにまるで私が親を突き放しているかのような物言いで、 そこに「親不孝者」という便利な言葉を着せてことあるごとに罵られてきた。
母親の中には親子とはかくあるべし、という理想像があって、何もしなくてもそこに収束するのが普通だと思っているようだった。 だから自分は普通で私が異常なんだと言って私を矯正したがった。
生まれて何年たっても私はまるで親の一部かのように扱われていた。 いい学校に入っていい会社に入っていい大人になるための第一歩として幼稚園のころから通信教育の教材をやらされた。 幼稚園の頃病弱で、入院している私のベッドのそばで
「こんなに頭の悪い奴なんか見たことない!」と叫んで帰っていく母親の姿はなぜか今も鮮明に思い出せる。
小学生のころは学校のすぐそばに煙草を買いに行かされて、同級生に見つかって噂されて、勇気出してそれが嫌だと親に伝えたら 「身勝手な奴だ」と怒られ、「親のためにこんなこともできないなんて」と貶されたことがあった。
服は短くても1週間同じものを着せられてた。長いと1〜2ヶ月くらい同じものを着てたと思う。当時皮肉抜きで「その服本当に好きなんだね」って言ってくれた友達のことをたまに思い出す。大人になっても1度着た服を洗おうとするとめちゃくちゃ怒鳴られた。
私はとにかく母親の思い通りにならないと怒られてた。当時はよく泣く子供で泣くとさらに怒られた。 私が大きな声を聴くと自然と涙が出てくるなんてことを親は知らないみたいで、もうそのころからまともに意思疎通をはかろうなんて気持ちすら持てなかった。
中学生になるとひたすら成績を気にしだした。テストの成績はクラス順位5位以内でないと怒られた。「他の人はできるのにお前は何でできないんだ」が常套句だった。
幸いそのころは勉強が楽しかったので学校の成績は良かった。 しかし受験勉強が始まると私は親ではなく私のために勉強しなければならなくなった。過去問は学校のテストよりはるかに難しくて思うように点数が取れなかった。 もう手一杯で親のご機嫌取りのために数字を気にしている暇なんてなかった。数字が下がると怒鳴る頻度は上がって以前みたいに勉強が楽しいと思えなくなった。
結局中学の好成績を生かして公立の高校に推薦で入学した。 ひざ下まであったスカートをひざ丈まで上げたら烈火のごとく怒られた
「そんな恰好をするな!不良め!誰とつるんでいる!」 挙句の果てに「そんなに妊娠がしたいか!」と。 スカートの丈をひざまで上げただけで。 意味がわからなくて怖くてたまらなかった。
親のなかでは
ひざ丈のスカート
=男にもてたい
=恋人ができる
=セックス
=妊娠
という式があるらしい。
一番成績がいいのは1組、悪いのが7組だと信じて疑わなかったので3組になったときも説教された。いくら違うといっても聞く耳は持たなかった。
大学は必ず行け、しかし国立以外許さないと言われた。自分でも裕福じゃないのはわかっているから学費の負担を少しでも減らしたくて志望を国立に絞った。 しかしここでも親の謎理論は炸裂、大学に行ったこともないのに「私大は頭の悪い人間が行くところ。落ちこぼれが金で大卒の資格を買っている。」とご高説を垂れる。 この辺まで来るともう物事の判断がつく年齢になってしまった私には親のめちゃくちゃな説教は気持ち悪くて仕方なかった。 知らないものをぼろくそにこき下ろすのも、進路の悩む私に寄り添うどころか選択肢を狭めて重圧をかけるのも鬱陶しい。
結局興味のある分野に近いコースの国立大に入学して3年が経とうとしている。 実家から離れた大学に通うことも気に入らなかったらしい。 「もっと近くにあるだろうが」
帰りが終電になればまた怒られ、
「美術なんかやって何になるんだ」
といった風な小言も絶えなかった。
掘り返せばきりがないくらいこの手の嫌な思い出は出てくるのでこの辺にしておこう。積もり積もって今の私を形作っている思い出たちだ。
場所もない、理解もない、朝は母親と祖母による自分の悪口で目が覚める。 ストレスばかりが溜まって心も体も限界だった。
2年次の後半はほとんど学校に行けなかった。 家にいると親に対する嫌悪感で頭痛や吐き気が止まらなかったので出来るだけ外にいた。
学校終わりはバイト、予定のない日は大きい本屋をうろついてたまに本を買って近くの喫茶店で読んだ。
もうどうしようもないと思って3年次は休学手続きを取って1年間フリーターみたいに働きながら家を出た。
講評の当日深夜につらくて泣きながら教授に「授業を休ませてください」という旨のメールを送った日からもう1年が経ったらしい。
実家を出ることに関しては強行突破でかまわないくらいの心意気だった。 どのみち自分には帰る場所なんかないのだから居場所を作るしかないと思ってのことだった。
親には一言も伝えずに休学、
お金を貯めて部屋まで決めて、
もう後に引けない状態で家を出ることを伝えた。
自分の判断能力と精神的の限界、苦しみ続けた20年間を鑑みてもうこれが自分に残された最後の、そして最善の手段だと思った。
「自立したくて家出た」なんていうと「行動力があるね」と言われることがあるけれどその実
ただ「実家にいたらいつ精神崩壊するかわからないから生きるために逃げ出してきた」くらいが正しいんだろう。
少なくともこの半年、
「家に帰りたくない」なんて1度も思わなかった。
時間潰すために夜の公園で電池なくなるまでスマホいじることもなかった。
自分だけがいる部屋で誰の目も気にすることなく笑ったり泣いたりできた。
窓を開けて部屋の換気ができた。
たったそれだけの事だ。
私はたったそれだけのことをするのに21年苦しんだ。
春の暖かい風が部屋の中に吹き込んできたとき「生きててよかった」と心から思った。 ようやく自由になれた気がした。
家を出たら出たで大変なことはあるけど、少なくとも今のところは後悔なんかしていないと言い切れる。 誰かが掲げてた『苦労はできるだけ少ないほうがいい』という主張はまったくその通りだと思う。 部屋の窓を開けるのに21年かかるなんてばかばかしくてやってられない。
ただ、21年かけて開けた窓からは確かに未来が見えた気がした。 自分の人生はこの1度きりしかないのだから、自分が幸せになるために生きなければもったいない。
4月から大学に戻る。仕送り0で学びながら働きながら「家賃を払わず整形手術のローンを組む同居人」と共生、というか矯正。それから休んだ1年分の学費を貯めなければならないのでやることは山ほどある。大好きなお絵描きができないかもしれないがそういうフラストレーションは学校の課題へのモチベーションに変えよう。
レールを外れて生きていくっていうのはそれ相応の覚悟が必要で、残念ながら社会はそういう人間には優しくない。
こんな文章垂れ流したら知らない人に「この程度で甘えんな」「自分なんかもっと大変だ」「大学まで行かせてもらってるくせに」って言われそうだけどそれでもいいや。
沈黙の艦隊は自衛隊まったくの無活躍だよ。撃たれても何もできない張り子の虎の憤りは描かれてるけれど。
そもそも沈黙は当時の冷戦下での日本の無戦略やアメリカの世界戦略批判して、
彼(彼女?)の絵を見るたびに、彼が去年の夏頃描いた漫画を思い出す。
少女と父親が花火をした後、「ゼンイ」でゴミを拾い、翌日見て見るとほとんど元の状況に戻っている。少女は父に「私たちのゼンイは無駄だったの?」と涙ながらに問い、父はそれに答えられない。
といったようなね。
まあ善意があっさりと踏みにじられるという展開は非常によくある寓話ですわ。
この漫画を初めて読んだ時から反感をものすごく覚えるんだよな。
この作者が一体どのような目論見でこの漫画を描いたのかは知らんので漫画内の父娘に対しての話になるんだけれども
そもそもボランティアのゴミ拾いは何かのイベント後とかで突発的に大量のゴミが発生した場合を除き、定期的に行われる。
そうでなければ当然再びゴミが溜まる。
じゃあそのたびにボランティアの人たちの労力は無駄になっているのか?
当然違う。ゴミ拾いが行われた後は間違いなくその場は綺麗になっているし、拾った何袋分かのゴミはその場に舞い戻ってきたりしない。
間違いなく"拾った分"はゴミが無くなっている。
この父娘はまずそこを見誤ったのだろう。「今この一瞬この場を綺麗にすればその状況は永続するだろう」というぼんやりした期待を持っていたのだろう。
ただ、「ゴミを拾った」という行為自体を無駄だと考えるのは間違いだ。
それは言ってみれば池の向こうに届かせたいと思って投げた最初の石が沈んでしまったから無駄だと断じるようなものである。
石を投げ続ければ池が埋まって向こうに転がるかもしれない。
「向こう岸に届ける」という目的を見つめ続けるならば、最初の一投は無駄になったりはしない。
勿論諦めてもいい。
「池の向こうに届かせなくてもいいや」と考えたって、やはり最初に投げたことは変わらない。
「ゼンイだからただゴミを拾う」ではきっとあの世界のゴミは永遠に溜まり続けるのだろう。
立て札を立てたり、定期的にゴミ拾いをしたり、人を集めたり。
とにかく「あの場を永続的に美しく保つ」という希望を目的に据え、計画的に努力するという行為に考えが至らなかったのだ。
それもまたよくあることだと思う。最善の希望を目的に据えなければ最善の希望は実現できないのは当然だが、それは最善ゆえに困難が多いだろう。
ここで諦めたっていいのだ。それでもこの父娘が拾った幾らかのゴミは無かったことにはならないのだから。
ところが彼らはどうやら自分たちのした事を無駄にしたいらしい。無かったこととして認めたいらしい。
彼らと同量のゴミを、同じように拾い、同じようにその場に再びゴミを投棄された人にも彼らは哀れみの視線を向けそうなところが非常にムカつくのである。
ここまでだいぶ長くなった気がしたが、まだもう一つの主題が残っているのである。
「ゼンイ」の話だ。
この話の中でたしか父は「ゼンイ」だからという理由でゴミを拾っていたのではないだろうか。
素晴らしいことである。実際その「ゼンイ」によって幾らかその場所は不法投棄という犯罪行為が拭われたわけだしね。
しかし、前述の通り、この父娘は自分たちの行為を無為だと認識した。「ゼンイ」は無駄だったと判断したのである。
ふざけた話だ。そもそも「ゼンイ」が無駄にならないという希望を、顔も見えない相手になすりつけるのはお門違いでは?
「ゼンイ」とかいう何となく偉そうな行為を何となくして、何となく裏切られた気がして、何となく失望しているのだ。
まあ娘は仕方ないかもしれないな、子供だし。この作者の描く人物はあまり年齢による区別がないからあやふやだが、多分小学校の中学年とかだろう。
「ゼンイ」が無駄になってしまったのかと泣いてる娘に対して何だその態度は。お前の頭も小学生女児か。
せめて昨日の行為は消えたりしないことは分かるだろ。慰めることもできないのか。親として子どもの心を守ることもできないのに他人に対して「ゼンイ」振りまいてる場合か。いやそれはまあ人によるだろうけどさ!!
そもそも「ゼンイ」が必ずしも良いことみてえな言い方自体が俺は非論理的だと思うんだけどさ。
人に感謝してもらおうとしてする「ゼンイ」は感謝を求めない「ゼンイ」と比べて劣っていやしない。
しかし、「ゼンイ」に限らず、目に見えないものが認識され、更には感謝されるのは非常に難しい。
だから人目にさらされなかった娘の「ゼンイ」がもし父にだけ見えているなら、父が娘にしてあげられることはあるはずだ。
それもしね〜で(以下繰り返し)
まあ、漫画の中の話に何マジになってんのと思う人もいるだろう。気持ちわかるよ。
でも、ある表現の中の仮想的な話に批判をすることは無意味ではないと思うんだ。
実際この漫画すごい拡散されただろう?いろんな人が関心を持ったのは間違いない。俺は俺の関心の持ち方をこんな形で表現したんだよ
この作者のイラストだの何だのがTwitterで流れてくるたびにこれを思い出してイライラしてたからその整理ってのもある。この人が作ったイラストとか動画で好きなのあるし、それ見るたびにフラストレーション溜めてちゃ世話ないしね。
自分が本当にしたいことは何なのか確認しながら行動をしたほうがぼんやりした失敗や失望をせずに済むということと
「ゼンイ」を目的に据えるということは他者に目的決定権を委ねる原因になること
彼らは若者や団塊ジュニアが刑務所並みの食事を強いられている中、豪華な食事を取っていて若者や団塊ジュニアを見下しています。
彼らは若者や団塊ジュニアが貧困的な生活を強いられている中、のうのうと生活しています。
彼らの貧困によるフラストレーションはこれまで、富裕層や赤の他人に向けられていました。秋葉原の通り魔や相模原の障碍者殺戮事件と同じです。
しかし、彼らの怒りのフラストレーションはとうとう理性をも破壊し、政治家はおろか日本の天皇制にまでも向けられつつあります。
このまま放置していけば、次は天皇制に対する誹謗行動、やがては暴動につながりかねません。
統計的には日本人の8割は天皇制を支持していると思われますが、内心では天皇制そのものに憎悪を抱いているはずです。天皇制そのものが日本最大の不公正であると考えているからです。
先日、スマホゲームfate/grand order(fgo)で復刻版空の境界のイベントが開催された。その際、空の境界のキャラクター浅上藤乃がサーヴァントとして実装された。
私は友達から借りた月姫からタイプムーンにハマり、初めて劇場で見た空の境界が痛覚残留のエピソードだった。それもあって彼女の実装は嬉しく、ガチャも引いた(宝具レベルが3になった、ハッピー)。
しかし、ツイッターを見ていると不満の声も散見されているようだった。
どうやら、不満の元はfgoの主人公と、実装された浅上藤乃や、復刻の2人の式(説明したいがここでは割愛)が仲良くする事や、これに関する創作にナーバスになっている人がいるのだ。(今の所そのような創作はほぼ見ないが)
そもそもの話、この「fgo主人公が他の媒体で出たキャラと仲良くする事、またそういった創作」を好ましく思わない層がいる、というのは今に始まった事ではない。
他の例を挙げると、fate/EXTRAで登場したキャラクター達。ほんの数年前は赤セイバー、キャス狐と呼ばれ親しまれたキャラクター達だが、彼女等がfgo主人公と仲良くしている事や、それを描いた創作を毛嫌いする人も一部にいる。
要は「他媒体でカップリング対象になるキャラがいるのに、別キャラ(この場合fgo主人公)とくっつける事が許せない。」という事なのだ。所謂カップリング論争の一つである。
古くからある、FE、スレイヤーズ、その他ビアンカorフローラ、ティファorエリス、などという他のゲームや漫画のカプ論争ならいざ知らず。
今回のこの話の違和感、それは他媒体でカップリング対象がいるという、影響力の高い「教典」がある事だ。
これは、別のカップリングを目にしただけで、自分の愛する者を陵辱されているが如く感じる程のものなのだ。
(すごい。そこまでその作品に傾倒できるなんて、すごい。そういう人と比べると中学生の頃学校を休んで月箱を買いに行った私の作品への愛などは足元にも及ばないのかもしれない。)
彼等にとっては、fgoなぞ教典にとって邪魔なもの。教典を汚す大罪品、見える情報の汚物だろう。(その教典と同じ作家が設定やボイスを考えてたりするのだが)
懐が深いのと節操がないのは違う。
カップリング論争なんかで毎日フラストレーションを溜めているような人に、懐が深い人間になれとは言わないし思わない。今の時代便利なものでブロックやミュートなんて機能もある事だし。
ただ、きょうびそういった教典に縋り、熱い信仰を持っている人がいるジャンルというのも珍しい。そういう人達がいるならしばらくそのジャンルは安泰だろう。
東方やひぐらしが大流行した時代にタイムスリップして、型月が今一番のブランドだぜ、一月に何億も稼いでるんだぜ。と言っても誰も信じまい。
こんな毒にも薬にもならないカップリング論争で揉めているのを見ると、そンな風に改めて実感する自分が、昔の自分の片割れを見ているようで微笑ましく思うのだった。
俺が席を立とうとした、その時。
「じゃあ契約書見せて」
「え?」
「あるやろ。そんな高いもん売ってるんやから」
完全に騙されていると思っていたが、実は先輩は勘付いていたのか。
「いや~、ペアルックなんて気恥ずかしいけど、やってみると案外ええかもなあ」
……というわけでもないらしい。
持ち前の金の煩さと恋愛下手っぷりが作用しているだけのようだ。
「ほら、はよ契約書ちょうだい」
カン先輩の威風堂々とした立ち振る舞いは、カモがネギでしばいてくるような恐怖を感じさせたのだ。
「あ……ごめんなさい。親戚から母が危篤だってメールが来たみたい。だから今日はこれで……」
この場から体よく立ち去るため、ケータイから連絡がきたようなフリをしているようだ。
「え、お母さんは前に死んだって言ってなかった?」
「そ、その時に死んだのは、育ての親の方だから」
「血の繋がった方も、既に死んでいるって聞いたけど」
カン先輩の質問攻めに耐えられなくなり、相手は半ば逃げるようにその場を後にした。
「はあ~、いけると思ったんやけどなあ。ちょっと金に対してセコすぎたんかなあ~」
先輩はまたフラれたと思っているようだが、今回はそういう話じゃない。
だがカモられていたなんて真実を伝えても、何の慰めにもならないだろう。
「……いや、今回ばかりはもう相性が悪かったというか、元から脈がなかったというか。むしろフラれてよかったのでは」
「なんやそれ! じゃあワイはどうすればええねん」
どうにもならないということだってある。
恋愛含めて人間関係は、正解を一人で導き、たどり着けるようには出来ていない。
先輩が間違えても間違えなくても、成否に関係があるとは限らないのだ。
「別にいいじゃないですか。人生、恋愛が必須事項ってわけでもないですし。他にもやるべきことや、やりたいことはいくらでもありますって」
「んなことは分かっとるわい! 問題は、ワイは恋人が欲しいのに出来ない、出来ても上手くいかないという事実や!」
言葉が見つからないからといって、この慰め方は我ながら悪手だと思った。
恋愛を求めている人間に、「恋愛はそこまでいらない」なんて言うのはナンセンスだ。
それにつけても、先輩の落ち込みようは過去最大だ。
それとも、ことごとく上手くいかないフラストレーションが爆発したのか。
「あーあ、バレンタインも近いってのに。今年こそ恋人からのチョコを手に入れられると思ったんやけどなあ……」
バレンタインって。
まさか先輩の気がはやっていたのは、それが理由だったりしないよな。
「そもそも先輩は何でそんなに恋人が欲しいんです? そして、なぜ恋愛をしたいんですか」
「……ん?」
俺がそう疑問を投げかけると先輩は固まってしまった。
ごく個人的な漠然とした答えでもいいのに、何も出てこない様子だった。
「……何でやと思う?」
そんなことまで俺がアドバイスしても仕方ないだろう。