はてなキーワード: フラストレーションとは
オリラジあっちゃんの記事に、憤りしか感じない。それはおそらく、自分が似たような行き違いを夫としているから。肝心なのは、中田さんは、福田さんの気持ちをわかろうとしたか?ということだと思う。
中田さんは、アレをした、コレをした、ということを言っているけど、じゃあなぜ妻がそうして欲しかったのか、わかろうとしたか?なぜ妻が子どもを先に拭いてくれと言ったのか。子どもが冷えてしまうことを心配していた母親心を、中田は理解したのだろうか。
中田さんの主張を見ていると、自分は我慢して、自分のやりたいことができていない!と仰せだけど、奥さんは?
「それぞれの夫の長所を伸ばしてほしい」
奥さんは?あんなに可愛くて素敵な奥さんの笑顔をどうして伸ばしてあげなかったの?あんなに可愛かった奥さんを、わがまま若手女優にしてしまったのは、誰?
奥さんは?奥さん、タバコは?お酒は?趣味は?オシャレは?仕事は?
当たり前だ。奥さんだって、子育てなんかしてるより、綺麗に着飾ってて面白いこと言って、みんなに素敵って言われる方が向いてるし楽しいに決まっている。
男性は、「やーめた!」で投げ出せる。
でも奥さんは?奥さんは子育てを投げ出せるの?子どもたちはどうするの?
本当に自分のことしか考えずに、わがままを言っているのは、誰?
「シッターを雇えばいい」
結論的にはそうかもしれない。でもね、奥さん んは、まず旦那さんにわかってほしかったんじゃない?自分のやりたいことぜーんぶ我慢して子育てしている自分の気持ちを。
同じ我慢をしろとは思っていない。ただ、わかってほしい。子育てのタスクの多さ、自分のことなんて考える余裕もない日々。追い詰められた気持ちを、分かって、助けてほしかったんじゃないかな。
どうやら、ここに男女の行き違いが生じるらしい。男性は「問題解決」、行動で解決したがる。妻がああ言うから、やった。言われた行動をとれば満足してもらえると考える。
でも女性は違う。女性が求めるのは、「感情の共有」。自分のかかえる悩みやフラストレーションを、とにかく「わかってほしい」。わかってほしいから訴える。
けれど、女性から何かを訴えられたとき、男性は「じゃあこうすればいいんでしょ」と行動をとる。あれもやった、これもやった、と主張しているあたり、中田さんもそれに当てはまるのではないかしら。
けれど、女性が本当にしてほしかったのは、「気持ちをわかってもらうこと」。いくら行動をとっても、気持ちをわかってもらえない、自分の本当にしてほしいことが解消されないから、エスカレートする。そして男性は、こんなにやっているのに!なんで!?となる。
うちの場合はそうだった。
もちろん、男性でも他者の気持ちを慮ることのできる人もいる。でも、男性の中には他者の気持ちに共感するということが本当に苦手な人もいる。それこそ、個々の得意不得意、の範囲であって、どちらがいい悪い、ということはない。
ただ、女性にとっては、出産・育児の大変さは、その向き不向きに関係なく、女性というだけで降ってくる。その人生の大変な時期に、パートナーである夫に寄り添ってほしい。ただそれだけのことなのだ。
そのあたりの男女の行き違いは、お互いに自覚することが欠落していると思うし、もう一つは、女性にとって出産・子育てというのがどれだけ大変で、どんなサポートが必要か?という社会全体の知識不足にあると思う。
ここまでボロクソに書いたが、実は中田さんの感じている事は間違いではない。自分の好きなことを我慢して、仕事も制限され、自分の向いてない家事育児をしなければならない。それはとても大変でつらいこと。
しかし、多くの女性はその困難を背負うことを「当たり前」とされているのだ。中田さんの奥さんもそう。中田さんが「やーめた!」と言った家事育児は誰が担うのか。間違いなく中田さんの奥さんだ。そこをどう考えるか。
「奥さんが作り上げたいい夫像を押し付けられる」と言っているが、自分はどうか。「子育ては女性のするもの」という「いい奥さん像」を無意識のうちに押し付けているのは中田さんのほうなのではないだろうか。
つまり、足りなかったのは「出産・育児が女性に与える負担」の知識。奥さんも中田さんも、ぼんやりと家事育児は女性がして当たり前、という前提があって疑わなかった。けれど実際蓋を開けてみたら趣味も仕事も我慢するばかりで育児って大変。
もうこれは日本社会全体がそういう空気だし、女性の出産・育児ということへの知識が足りなさすぎるのだ。本当はこんなに大変なことなのに、何の疑問もなく全部女性におっかぶせてきた。そこに問題があるのではないだろうか。
夫と妻、それぞれどの程度負担していくかは、各夫婦で落とし所は違うかもしれない。それで構わない。けれど、芸能人である中田さんが「いい夫やーめた」と声高に言うことで、それがモデルケースのように扱われることに怖さを感じる。
ちょっと待って、それでいいの?
きちんと奥さんと話し合って。納得した上で決めてほしい。
シッターを雇うにしても、奥さんの気持ちを聞いた上で「そんなに負担に感じているんだね。それならシッターを雇うのはどうだろう」と話し合うのと、「やーめた!そんなに不満なら稼いでくるからシッターでも雇えばいい!」と突き放されるのとでは全然違う。
イクメンがもてはやされ、男性の育児参加が進んできた時代、揺り戻しがくるのは仕方のないことだと思う。でもそれは、女性からしたら「やっと育児の大変さに気付いてくれたのか!」という段階。
そうなんだよ、仕事も趣味も酒もタバコも付き合いもぜーんぶ我慢して向き合わなきゃいけないんだよ。すごく辛いことなんだよ。
だからこそそこで、「やーめた」となってしまうのではなく、もう一歩踏み込んで、「この負担を減らすために、夫婦2人でどうやって協力していったらいいか」という視点に持っていける社会になってほしい。
それはインターバル中にサイン等のコーチングを防止するためである
そして試合中もコーチングをしていないか陣営には固定カメラがありそこで監視されてる
大坂なおみとの対戦でセレナはコーチングによりペナルティを受けた
たとえサインでなかったとしても警告は免れないほどのわかりやすさである
と言っても、証拠もないし陰謀説でしかないがこういうストーリーが成り立つ
ちょっとしたミスから落ち込み調子を崩すことが多々あった(この全米オープンでは克服されていた)
そこにつけ込もうと、一芝居打ったわけだ
まず、わかりやすいコーチング行為でペナルティをもらうことで審判への言いがかりができ
ここで鋭く審判へ抗議することにより大坂を動揺させられると目論んだのではないか、と
フラストレーションが溜まってラケットを地面に打ち付けるには顔を反らし防衛反応を示している
要はそれも芝居と言いたい
そんな大げさな話でもないけど。
無駄に長いし読みづらいよ。
私は友達が少ない。
長期休み明けなどで「友達とライブに行った」「恋人と旅行に行った」など数少ない友人が話ているときに、私は相槌を打ちながらも少し羨んでいた。
そもそも自分が人ごみが極度に苦手・乗り物酔いしやすく酔い止め薬を飲みすぎて効かなくなった・敷布団と掛布団が違うと安眠できない…という旅行というか人付き合いに全く向いていない体質なのと、人と壁を作る性格なのが原因なので、それを人のせいとは思わないし、自分でももう慣れた。
それでも、羨ましいという感情が多少生まれてしまうことはしかたがない。
私の友達は、私がそういう体質であることを知っているから、気を使ったが故に誘わないという心理も理解している。
そこで卑屈になって気を遣われることも面倒なので、基本的にはぼっち・恋人いない=年齢を自分の軽い持ちネタのように扱って喋っている。
そんな中、最近友達の友達といった感じで知り合った人と、なんとなく馬が合い何度か会って話すようになった。
趣味の話ばかりしていたけれど、大学の同学年ということもあってプライベートな世間話も多少するようになった。
いつものように私は重くならない程度の軽め重めのぼっちネタを多少使いつつ談笑する。
相手(仮称:A氏)の話を聞く限り、A氏は恋人がいて友達もそこそこにいるという、人とのコミュニケーションを平均程度にとっている普通の人だった。
A氏は、私の軽め重めのぼっちネタに様々な反応を示しつつも笑顔だった。
私の家族はとりたてたエピソードがあるほど仲がいいわけではないけれど、決して悪いことはない。私と父に関しては、ほんの少し過剰なくらい仲が良かったかもしれない。
なので、そんな話をだらだらと話した。その時も基本的にA氏は笑って聞いていた。
そして2人で会って喋って5回目くらいの時、A氏が切り出した
「自分とこはもうほんとびっくりするくらい仲悪くてさー。家族で外食なんて行ったことない。ていうか中学くらいからは挨拶だって怪しいくらいだった」
「大体家だと親とか兄弟が喧嘩してるからうるさいからずーっとヘッドフォンつけて生活してたんだ」
「大学だって行かせてもらえそうになかったけど、中学の時からずーっと説得して何とか学費全額自分で払うってことでOK貰ったんだ」
驚いた。友達の旅行や恋人との出来事をあんなに楽しそうに話していたA氏が、自分の家族不仲の話を卑屈に顔を歪めて喋っていた。人との談笑としてではなく、自分の鬱憤を晴らすかのようにとめどなく。
多分、私がA氏の地雷を踏んでしまったんだと思う。A氏の地雷は他人の家族仲の良い話だったのかもしれない。
私は本当に驚いた。
大体、ネット上で炎上するのは恋人関係のネタだと感じていた。つい先ほども、男性恐怖症だった女性が男性の恋人ができてそのラブラブな思い出を日記のようにしてSNSに投稿していたということが炎上していたらしい。
家族みんなが仲いいというエピソードを絵や漫画にして炎上したなんてことは、私は聞いたことが無い。
でも、それは私が聞いたことがない、あるいは見えていなかったというだけの話で、家族仲がいいという話を聞いてフラストレーションが溜まっている人間だって数多くいるはずだ。
別にだからといって、自分の恋人仲や家族仲の話をする時は相手に気をつかえ!とは思わない。そんなのは私の勝手だし、やめてほしければ下からお願いすればいいと思う。
ただ、順風満帆に生きているように見えても家族の話をつつくと一気にニートみたいに卑屈な笑みを浮かべる人がいるということを、自分の目の前で見て「あぁ、本当にあるんだなぁ」と思った。
個人的には、恋人や友達が多いなら家族仲とかどうでもよくないかと思う。
でもその後A氏と話してみたら、A氏は、「他の人は知らないけど、自分はいくら他人と仲良くしてたって満たされない。肉親と仲良くできないから盆にも正月にも帰りづらいし、親戚はうちの一家を煙たがってるし、それでも小さい頃怪我したとき本気で心配してくれた時のことは覚えてるし…」
まぁA氏は私とは真逆で、いくら恋人や友達がいようと家族仲が悪いんだったら意味がない、という考え方をもっているらしい。
結局のところ、簡単な結論 ないモノ強請り 隣の芝生は青く見える それだけ。
まぁ、個性が個性がとか叫ばれる現代社会で価値観の相違というはなしはよく流れてくるけど、それが身をもって目の前で発声してびっくりしたって話です。
ラケット破壊による二回目のペナルティにより、ポイントペナルティをセレーナ選手が受けた
しかし、セレーナ選手はその一回目のペナルティに関し納得していなかったし
私は試合中にそんな卑怯なことをする選手だと思っていないという抗議によりペナルティになっていないと
そして二回目のペナルティである、感情をコントロールするためのラケット破壊でペナルティを受けた際
ポイントペナルティを受け、感情をコントロールするどころか激高してしまった
つまり、一回目までならポイントペナルティが無いので警告を受けてもいいという考えのもと
男子ではそれが顕著に見られる
当たり前のように破壊されるラケット見苦しいという理由だけではなく
なぜ日本人も在日もメディアも政治もみな必死になって創価を守ろうとするのか不可思議にみえるが、あれは宗教を守ろうとしているのじゃなく、ただ自分のコミュニティを守る為なのだと思う。もし創価が日本から消えればいままで彼らが生きてきた生活が虚構だとバレる。だからつぶす訳にはいかない。そういう事だヨ
もう少し深く掘り下げると、仮に今カルトやヤンキーやオタクや怖いお兄さんや民度の低いネット市民や古臭いテレビ社会が日本から一瞬でいなくなると、その瞬間から社会が不安定化し、過去に経験したことがないほどの日本の犯罪大国化が鮮明になる。日本の人間がおそれているのはこの重大事態だ。それほどそういう連中というのは必死に沸騰するなべのふたを押さえつけているという事。いずれは吹き飛ぶが一日でもその日を先に延ばしているだけ。
そりゃそうでしょ。だって、オタク文化の存在というのは団塊ジュニアからゆとり世代初期のカースト的な意味で恵まれていない人のフラストレーションを吸収しているのですから。ここでその流れ止めて、極端に正しい社会になったら多くの人の不満が爆発しますよ。え?まさか、オタク文化は真っ白な文化と思ってた?
精神的に幼いんだね
もう、二十代後半だけと、お姉さんが相手にしてくれないと、不安になる
かまってほしくて、いろいろするんだけど
もう、フラストレーション溜まって爆発しそうだ
わけもなく先輩にいろいろお願いしたり、パートの奥様方にくっついたり、アプリで年上彼女探しては、ご飯行ったり…
「ちょっとまっててね」
「ごめんね、いまいそがしーの」
いつもそうだよ
はー、なよなよして頼りないのか、見た目が幼いのか、言動が子供っぽいのか…
優しくはしてくれるけど、つき合うとかはないよなぁ
ただ、いっしょにいたいだけなのになー
おれは、精神的に異常なんだろうな
男らしさとかないし、イケメンでもないし
多分、ずっとこのままだな、あー、もう
みんな大人でいいなー、はー
たまに「絵がうまくなるには」みたいな記事を見るので
私がまあまあ描けるようになるまでの経緯を載せておく。
めちゃくちゃうまくもないがなんとなくときどきpixivのランキングにはいれたりRTを稼げたりはする程度。
もともと授業中にらくがきをしてしまうタイプの子どもではあった。
二次創作絵も描くことはあったが、下手くそで自分でがっかりするのであまり熱心ではなく、もっぱらなんとなく、好きな漫画家の真似をしながら意図もなく女の子や男の子を描いていた。
なんでか意味もなく女の子の目に涙かいて泣かせるとかね、よくあったよね。
某漫画のファンサイトで300*300の大きさに狂ったようにマウスで絵を描いていた。
もちろんこの頃も下手くそだったが、同い年くらいのこどもたちがなれ合いでほめてくれた。
なにもかも人まねだったし稚拙だったし、お絵描き掲示板の機能は制限されていたが、「人に見せるため」の絵をたくさんかけたのはよかった。
自分の技術でも、すこしはかわいいとか面白いとか思ってもらえるように、モチーフや色使いや画面内の余白を意識したり、人の絵を観察する習慣がついた。
細部をちゃんと描くとほめられるし説得力がでることに気づいたので、服のディティールや靴や小物なんかを面倒がらず資料探してかくようになったのもこの頃。
http://www.asahi-net.or.jp/~zm5s-nkmr/
しばらく小手先で描いていたものの、ガチで上手い人たちの絵がうらやましくなったので
当時流行っていたhitokakuではじめて「アタリをとる」という概念を導入した。
「上手い人たちは、顔を描くときに十字を描くらしい」
ということは知っていたが、他はなにも知らなかったので
頭のバランス、人体の骨格、全然できなかった手や足の描き方などをここで知った。
じゆうちょうを一冊買ってきてお手本を真似していると、「自分に描けるもの」が飛躍的に広がったのを感じてすごく楽しかった。
この頃にペンタブを買った。
東村アキコが「ロボット設計図」とめちゃくちゃにバカにしていたが
「写真を見て漫画絵にレンダリングして模写できる」というのは結構習熟の必要な作業だと思う。
「絵心」ってなにか、といったら、見えてるところから見えない部分を想像する能力じゃないかと思う。
立方体を見たときの底面、手のひらを見たときの手の甲、立ってる足を見たときの土踏まず、顔を見たときの眼球。
目で見えてる範囲から見えない部分へどう繋がっているか、がわからず、「目に見えたものをなぞろう」としても、絵に落としてもなんか不自然になる。
なぞり書きだってうまくいかないときがあるのに、模写となるとなおさらだ。
私には絵心がないので、それを理論的に教えてくれる「ロボット設計図」はほんとうにありがたかった。
お絵描き掲示板が下火になってくるとsaiを手に入れ、色塗りの技法や効果をお絵描き講座から仕入れて画面を華やかにできるようになった。
なんとなく上手く描けないな?というときもあったんだが、誤魔化しごまかしでなんとなくそれっぽい絵を描いていた。
ただ、漫画に挑戦してみた結果、ものすごい量の課題に否応なく気づかされた。
大きく分けて次の三つ。
2:意外と描きたいポーズが描けない。
3:白黒で見たときに絵の魅力がない。
背景を誤魔化すにも限界があった。
それまでも、ときどき思い立ってパースについての解説をぱらぱら眺めてみたが
「あー、ふーん、相似ね? なるほどね???」
ただ、人物からアイレベルを求めたりする解説がネットにいくつか掲載されるようになり、そのおかげでなんとなくそれっぽくできるようになった。
パースかんたん解説1:アイレベルの求め方 | 摩耶薫子「着物の描き方」発売中 https://www.pixiv.net/member_illust.php?illust_id=3933143
今も三点透視でばりばりに背景描けるぜ!って感じではなく
なんとなーく一点透視や二点透視のやりかたがわかったな、という程度だが
今のところそれで困ってないので、なんとなくの知識とパース定規を駆使してなんとかしている。
ビルの谷間を駆け降りるような絵が描きたくなったらまた頑張ろうと思う。
あとは、人体のパースという概念を手に入れたのはすごく大きかった。
それまでも、たとえば奥から手前にまっすぐ伸ばした腕やあぐらを組んだ足なんかがうまく描けないという自覚はあったのだが
人体のパースがわかってないからか!と気づいたときは目から鱗だった。
『やさしい人物画』のパースのあたりが楽しくてたくさん描いた。
http://loomis.sblo.jp/s/ (※原書)
それと、人物を描くとき、アイレベルより上をあおり、下は俯瞰、と意識して描くようになった。
それまではなんとなくぺらぺらしていた自分の絵に立体感が出た気がして、これも嬉しくてたくさん描いた。
漫画のなかで、どうも自分の描くポーズが硬い気がして嫌だった。
たとえば歩く人を複数人描いたときに、左右どちらの足が出ているかの違いしか出せないこと。
本当はちゃきちゃきした歩き方、靴を引きずるような歩き方、スカートとズボンの違い、ヒールと革靴とスニーカーの違い、色々あるはずなのに、絵のなかでそれが表現できない。
たとえば座ってごはんを食べる時に、背中を丸めただらしない食べ方や、へんなコップの持ち方や、そういう「絵にならない」瞬間が描きたかったし、そういう絵のある漫画は魅力的に思えた。
これについては「他人を観察する」というのを意識的にするようになった。
居酒屋のシーンを描くなら居酒屋で、電車のシーンを描くなら電車で
ばれない環境なら真似してみるのもよかった。
もちろんその場で全部覚えられるわけでもないが、インプットした分は絵を描くときになんとなくにじみ出てくる気がする。
白黒の絵の魅力はすなわち描線の魅力だと思う。
グレーで細かく陰影をつければ疑似カラーみたいにできるけど、それは私の描きたい絵ではない。
線の魅力って不思議なもんで、絵のうまさや好みとは別のところで
すごく魅力的でいきいきした線の人がいる。
もしや才能なのか…と思いつつ、ペンの設定を変えたりソフトの補正を調整したり、何より繰り返してかきながら自分の思ったような線が描けるように練習している。
hitokakuのはじめは「◯と│をひたすら描こう」と言われるのだが、当時の私はほとんど飛ばしていた。
最近またやってみている。
私は「基本から、教本にしたがって、積み重ねるように」練習をするほどまじめにはなれなくて、
その時その時で絵を描きながら、「もうちょいこういう風に描けたら楽しいのに…」というフラストレーションが自分のなかに溜まったら練習する、という感じでここまで来た。
もともと私のやる気はそういうふうにできている気がする。
道具もあまり新調しなくて、
今使ってる道具をうんざりするまで使い倒しながら
新しいソフトほしいあたらしいペンタブほしい、とフラストレーションが貯まったところで買うと
わー!なんてべんり!なんてすてき!!と思えて格段に楽しくなる。
と思う。
そして、好きな作品であればあるほど、顔をかわいく描くことにすごくこだわるようになる。
ひとつの作品をねっちり長く描くことも、ちょっと好きな作品をたくさんかきちらかすことも、どちらもすごく絵の練習になった。
前述のように私は今もまだまだ完全に描きたいように描けるわけではなく練習中の身だが、
スマホって便利だよね。
おかげで旦那との会話が皆無。
朝起きて2人とも下向いてスマホ。
私はツムツムのゲームで旦那はスマートニュースを読み老けている。
この増田日記がスマートニュースのはてなブログカテゴリに載ったら旦那が読むことになるかも。
ということで、すごく間接的だけど届けこの思い。
〜旦那へ〜
あなたがスマホばかりでつまらなくて私もスマホをいじっています。
そうすると相手をされないフラストレーションから開放され、お互い様という気持ちに救われるからです。
ツムツムのゲームしてる割にあなたとの関係は積むどころか崩壊して詰んでるけどね。
よかったらお盆休みに海にでも行きたいけど、やっぱりスマホの方が面白いのかな。
あなたのスマホを叩き割りたい時期もあっけと、今は諦めて見放してます。
大好きなスマートニュースでこれを読んでるであろうあなたは「自分かも?」と思い当たるのか読み捨てるのかどちらだろう。
なんにしろ私よりスマホを愛するあなたに私の存在意義はないですね。
関東在住 26才 M子より
福岡で起きた事件を契機にロスジェネがどうとかいう論が盛り上がってるみたいだけど、「将来に絶望したロスジェネが破滅的な行動をしまくって社会が混乱に陥る」みたいな事態にはならないと思う
その前に韓国のロスジェネが日本で爆発して日本のロスジェネが萎縮するんじゃないかと睨んでる
一つ目は2015年11月に靖国神社の公衆トイレに爆発物を爆発させた韓国人男性(当時27歳)
二つ目は2018年5月に渋谷のNHK放送センター近くで通行人を切りつけた韓国人男性(当時30歳)
どちらも年齢がほぼ同じなんだよね
2017年に約640円だったのを、2020年にや約1000円に引き上げるというやつ
既に今年1回目の強制上昇が実施されて韓国経済は一発目のエグいボディーブローを喰らってる状態で、しかもこれがあと2回続く事が確定している
これは韓国で2011年頃に登場したもので、不景気により「恋愛」「結婚」「出産」の三つを諦めた世代という意味だ
国民から圧倒的支持を得た大統領だから、きっと有効な不景気対策をしてくれているかと思いきや、なんと今は「七放世代」という言葉が生まれている
前述の「三放」に加えて「人間関係」「マイホーム」「夢」「就職」の四つをさらに諦めた世代を意味する言葉だ
最初に挙げた二つの事件の犯人は、まさにこの「七放世代」ど真ん中なのだ
「ロスジェネ」に関しては、韓国は日本のはるか先を行く先輩なのだ
韓国の文在寅大統領の支持率は今も7~8割近いという人気ぶりだ
そんな状況下、韓国の若者が国内で破滅的な犯罪に走る事は不可能に近いだろう
ではそのフラストレーションの行き先はどこへ向かうのか
たとえ大事件を起こしても、非難されるどころか英雄視されるチャンスがどこかに転がっていないか
ある、ここ日本だ
ディスコミュニケーションによって憎悪を募らせるのは現代的な心理パターンといえるかもしれない。
先日の新幹線での殺傷事件なんかでも他の事件同様「何もしていない人に何故殺意を向けるのか」という憤怒のリアクションが見られたが、
ああいった境遇の人間に対して「何もしないでいた」からこそ殺意が生まれたのではないだろうか。
彼らの発言やその存在自体を切り捨てるような市民心理が彼らが憎悪していたターゲットであり、彼らからすればこういう風潮を受け入れ一市民として生活しているものなら誰でも良かったのかもしれない。
今回の事件はhagexがディスコミュニケーションつまり無視することを意識的に行っていたから、そういった類の憎悪がわかりやすく噴出していた。
加えて神奈川の障害者施設襲撃事件なんかはこのフラストレーションがより複雑になったものだと思う。
「自分より能力が劣る人間が、発言力において自分より優遇されている」と彼は考え、知的障害者の存在に彼の抱える人生の理不尽さを集約させてしまったのではないだろうか。
発達障害などが社会に周知され能力的な区分けというものがいよいよ社会的に不可能になりつつある昨今、
個人の信頼、影響力、成績で各意見を選り好みする姿勢が、誰かを侮蔑する態度の裏返しになってしまったことを我々はまざまざと痛感させられているようないないような。
これは、何かレトリック(言葉のあや)として云うのではありません。
また、「1995年のオウム問題以来の、いわゆる『刹那的な社会』に、我々は巻き込まれ、事実上参加しているに等しい」などと云っているのでもありません。私の認識は、そんな寝ぼけた老害のようなものとは違います。
いま起きている気味悪い殺伐事件は、本物のテロではないことはもちろん、誰かの仕業でもないのです。
では、いったい何が起きているのか?
本当は分断が起きているのです。
これは、私の独自の見解ではなく、欧米の一部の学者たちの見解に私も賛同しているだけですが、彼らの文章は私ですらコムズカシくて一般の人にはとても読めたものではありませんから、私なりにかみくだいて説明すると、現在おこなわれている分断は、かつてのような目に見えるものではなく、社会の内側での左派対右派の分断であるということです。
今日の混乱(分断)は、最初は「社会の貧困」を口実として始められますが、その構図は当初の「経済的な貧富」からどんどん拡大し、最終的には社会に属する人間すべてが個人単位にまで分断されます。
これは現在、世界のあらゆる国で程度の差はあれ進んでいる傾向で、実はアメリカの「トランプショック」の本質もここにあります(その証拠に、トランプ政権では白人のフラストレーションがクローズアップされていますが、アメリカは極端な個人主義に分断が進んでいます)。
我が国の分断では、それは最初、1992年に貧困階層の可視化として始まりましたが、やはりその後、なし崩し的にその対象を拡大し、今や、かつては「弱者」ではあっても「被差別階層」ではなかった行為さえもが分断抗争によって次々と差別されています。偏った娯楽性の高い趣味(現在では「オタク」とか「娯楽廃人」とか呼ばれます)や、重労働者に対するレッテルなどはその典型ですし、また、私たち差別階層が作っている社会のひずみが原因であるに決まっている地下社会のモンスター化や極端な治安の悪化に対し、その原因を反省し改善する努力をまったく放棄して、ただ揉み消しで対応しようという方針もその一環です。
好景気や愛国心をも疑う安倍批判論者ではありませんが、社会のこうした風潮を、「いかがなものか」と憂えているのは私一人ではないはずです。もしかすると、これを読んでいるあなたも同じ気持ちでいるかもしれません。しかし、残念ながらあなたは、つまり私たちは現在、圧倒的な極左ないし極右であります。しかも、その問題意識をいいかげんなところでアイマイにせず、よーく突き詰めてみればやがて気づくと思いますが、もはやこの社会の左派ないし右派にとっては、そんな問題意識を持ってしまう私たちのような存在自体が、何やら不気味で恐ろしい「敵」なのです。奴らは、私たちに対して混乱を仕掛けてきているのです。
我が国における(他の国でも同じですが)国民同士の対立は、すでに戦争(内戦)の域にまで達しているのです。
私は、この期に及んで「反戦」を訴えるような非現実的な夢想家ではありません。奴らは、不安が高じてヒステリー状態になっていて、もはや説得に耳を貸さないことが明らかであるからです。この内戦は、私たちが一人残らず消えていなくなる(何か口実をもうけて「アウトロー」とされて社会的に抹殺されるか、それを恐れて完全に沈黙するか)まで終わりません。
また、私はもともとリベラルであり、景気拡大には反対しない立場です。例えばカジノや欧米型のリベラルビジネスなどとはむしろ推進すべきだと思っています。私たちにとって、現在もっとも憂えるべきは左翼の拡大ではなく右翼の拡大です。従来の寝ぼけた老害の「反戦派」は、ここのところがまったく分かっておりません。むしろ寝ぼけた老害階層は、そのお家芸である「単純で分かりやすい理屈」を掲げ、右翼力の拡大を率先して推し進めているようなありさまです(秋葉系的サブカルオタクそのものの抹殺を要求する保守階層や、ゲームそのものの撲滅を要求する似非リベラルなどがその代表です)。
私は、現在のさまざまの不気味な犯罪や精神的貧困者増加の背景には、共同体や進歩的社会の崩壊があると考えています。「問題解決」のためには、奴らが推進する文化の弾圧のような対症療法ではダメで(そのような弾圧化は、ますます人々の心にストレスを生み、結局はさらなる問題の悪化を招きます)、共同体や進歩的社会を再建する粘り強い努力が必要です(「公共交通の全否定」「高校生オートバイ推進」「自転車たたき」「IT拒絶」などはこれに反する破壊行為です)。このあたり、私の見解はむしろ保守に近いのですが、残念ながらほとんどの保守は、考えが浅いのか、「問題解決」には弾圧を、というヒステリーに同調しています。
私は、奴らから「社会の敵」「未来の敵」のように見なされているみなさんに、団結を呼びかけます。
奴らの勢いは、とどまるところを知りません。もはや「話し合い」は不可能です。
何度も云うように、私は「反戦派」ではありません。私たちに残されたただ一つの選択は、団結して「応戦」することです。
現段階では、まず団結し、私たちの側の隊列をととのえることです。
ネットでのゲリラ的工作活動は、何よりも私たちに共感するみなさんに、このような形で大々的に団結を呼びかけるための手段です。
私の見解に「なるほどそのとおりかもしれん」と思う方、まずは行動しましょう。ネットでの宣伝やビラ配りやポスティングです。奴らに反撃していくための、行動を始めようではありませんか。もちろん外国人や、未成年者やノンポリも大歓迎です。
何しろ奴らは圧倒的多数派であり、私たちは圧倒的少数派ですから、今回の行動で、成功する可能性は、完全にゼロであると自信を持っています。
むしろ何かの間違いで成功しちゃうと私自身がビビってしまいますが、まあそのようなリスクは覚悟の上での呼びかけです。
私に共感される人間が多ければ多いほど、私ですらビビってしまうのですから、奴らはなおのこと恐怖のズンドコに突き落とされるのは間違いありません。あなたが実行して成功するかしないかは二の次です。たとえ成功しなくても、一人でも声が多ければ、奴らはそのぶんだけ慌てふためくのです。私たちの存在を、目に見える形で奴らの前に突きつけてやることには、これから反撃を開始するにあたって、大きな意味があります。
そもそも奴らのために存在する、私たちにとってはバカバカしいかぎりの民主主義という社会(デモでも選挙でも勝負にならないほど不利です)において、「一声の重み」など嘘八百もいいとこです。誰がどうしようが、奴らの支配はこれっぽっちも揺るがないからです。しかし、今回の私のような人間の登場となると話は変わってきます。成功しようがしまいが、その一票は奴らを心の底から動揺させる「重み」を持ってしまうのです。ざまあみろであります。
どうせ何もしないでは何も変わらないのです。
民主主義ではとりあえず奴らに一泡ふかせておいて、私たちは、民主主義などというクソみたいなもんの外で団結を開始し、奴らを本格的にギャフンと云わせる、大革命の恐ろしい陰謀を、着々と進めていこうではありませんか。
・金を求めて故郷を捨ててきたくせに、故郷を嫌いになり切れない矛盾したハンパもん
・オフィスのある東京では馬鹿にされるので方言を自粛している、これが潜在的なストレスになっている
・しかしテレビや世の中では関西弁が受け入れられているし面白がられているのにさらにストレスを溜める
・それに加えて出稼ぎしなくとも稼げる商社が多い関西圏に嫉妬爆発
・関西ディスは関西人も面白がって乗っかるので効果が得られずディスを繰り返すもフラストレーションばかり蓄積する→さらに関西嫌いになる
・根っからの東京人間は方言を動物園感覚で認識しているので方言をディスるのはパンダやキリンをディスるようなもの
・京都人は自然体で大阪を見下しているのでいちいちネットでディスらない
プライベートではまず会わないし合わない層。
この人たちの何が問題って普通の人のふりして社会生活に溶け込んでいることだ。
パッと見、気のいい人たちで話も面白い、ノリもいい。しかし急によく分からないポイントで怒り出す。
大体怒るポイントは共通していて、「そんな対応するなんてこちらを見下しているのか」というもの。
しかも怒り方がすごい。瞬間湯沸かし器のように怒鳴ってくる。え、さっきまで普通だったのに。なんか超怒鳴ってくる。
いやいや、見下してる云々は貴方が勝手に勘違いしただけで対応は仕事上やむなく、です。
とは言えず、ああ至らずすみません、ご指摘ありがとうございます、という魔法の言葉で切り抜ける。
すると向こうは満足気に「これからは気を付けてくれ」とか言って電話を切る。
向こうはスッキリしたかもしれないが私は無駄にフラストレーションが溜まる。向こうは私に怒鳴ったことはすっかり忘れてまた普通に接してくる。イライラする。完全にいじめっ子といじめられっ子の構図である。高校生か。
何が言いたいかというと、こういう人達は一目でヤバいと分かる目印を身に付けて欲しい。
パッと見てヤバそうな奴なら、こちらも心の準備ができる。特に気をつけて接しよう、と。
だが元マイルドヤンキーで自頭の良い奴は、一般企業に潜り込んでしまっている。製造業に多く、第一印象は面白くて気のいい人達、である。
いい人っぽく見えるけどいい人じゃないのだ。
いい人が持つ心の余裕が全くない。
彼らは自頭が良いが故にヤンキーよりはちゃんとした会社に入れる。しかしほとんどが高卒またはそれに準ずる大学卒なのでそこそこの役職に留まりがちである。
自分の方が明らかに能力もあって要領もいいのにぼーっとした使えない奴らがどんどん出世していく。何であんな奴らが。くすぶる想いはあるものの、会社を辞めるという選択肢はない。だって学生時代につるんでいた奴らよりは良い場所にいるのだから。
その心の余裕のなさが、「見下されている」と勝手に勘違いする理由なんだろう。
と、ここまで書いて気付いた。やっぱり私、彼らのこと見下しているわ。
という3点に尽きる。
アメフトの戦略性が高い、チェスや将棋みたいだ、というのは知っている。
アメフトの試合中継がもっと多ければ自然と戦術を理解するようになるかもしれないが、
現状では試合を観たところで「いまのどういうプレーだったの?」と疑問符だらけになってしまうだろう。
ちなみに将棋の大盤解説だってもっとCGとか使って分かりやすくしてほしいと思っている。
あとポジション。
サッカーなんて縦に三つ(FW・MF・DF)横に三つ(L・C・R)しかないから分かりやすい。
FWは攻撃をするんだな、CBは守備をするんだな、というのが感覚的に理解できる。
アメフトのポジションは多すぎるし、パッと見で何をするポジションなのか分からない。
アメフトは細かく時計が止まるからフラストレーションが溜まる。
野球だったら0(アウト)と1(ヒット)がはっきりしていて分かりやすいのに対して、
そのうえ戦術が分からないので、余計に「なにをやっているんだろう」「どういう状況なんだろう」という感想になる。
アメフトでは、タックルやブロックが、ゲームのなかで必然的に発生する。
バスケやサッカーなら、もちろん実際には押し合いへし合いは発生するんだけど、それはルールとしての必然ではない。
理想的には、全ての選手がまったく触れ合わずにプレーすることも可能だ。
暴力がルールに織り込まれているという点で、アメフトは非常に怖い。
それに「結局はフィジカルゴリ押しなんでしょ」という印象があることで、プレーそのものが大味に見えてしまう。
そしてなにより
ということでよろしく!