はてなキーワード: 単純化とは
「親は子供に勉強させる」というのは今も昔も親にとっての共通の課題であるように感じる。それはなぜだろう。
物事を極端に単純化してみれば「生物の至上命題は生物を絶やさないことである」と捉えることもできる。そのためには生命現象を停止させることができる様々な脅威への対策が必要になる。生物の長い歴史の中で脅威への対策は「多様性」だった。いろんな脅威に対応できるいろんな個体がいれば、そのうちのいくつかは生き残り、また多様性を生み出して新たな脅威に備える。適者生存による自然選択である。
人類はある種この「生物の多様化」というトレンドの極端な例外であると言える。なぜならば、人類は高い「知能」を使って脅威を事前に発見し、回避する術を手に入れたから。これまでは平たく言ってしまえば「数撃ちゃ当たる」的なスタンスで脅威に立ち向かってきた生物は自ら脅威を取り除くことができるようになった。つまり人類の最大の武器は「知能」あるいは「知性」であり、これを最大化することが生存の最適戦略であるというのは納得できる話で、故に「親が子供に勉強させたい」というのはごく自然な欲求であるように感じる。
では「勉強とはなにか」ということを真面目に考察する必要があるわけだが、現代の日本人が「勉強」という単語を聞いて想起するのはそれこそいわゆる「勉強」であるように思う。それは義務教育の小中学校で行う、教師から生徒への一方的な知識の詰め込みだ。このやり方は一見効率はいいし、それらの知識を体得することで未来が明るいことが(実際にはそうでなく集団幻覚としてであっても)約束されている場合には子どもたちも「やる気」にはなるとも思える。しかし、現代においてそれは成り立たない。世界の裏側の(厳密には世界の裏側は海である確率が高いが)人たちの様子が光の速度で伝わってくるレベルに地球全体が高度に繋がった時代では最適戦略も変わって来る。
どういうことか。人類の知性が想定しうる脅威は急速に個人の力で対策できるものではなくなっていったのだ。社会を形成した人類は一つの脅威に立ち向かうために複数人で協調して脅威に立ち向かうことを余儀なくされ、今では数百や数千人を動員する必要があるプロジェクトがざらにある。たとえばがん研究に携わっている人間の数は見積もることすらできるかどうかわからない。研究のためのデータを提供する勇敢な患者さんや一線で活躍するために琢磨する学生たちも含めればゆうに万の桁を超えるだろう。そんな環境の中で生き残るためにはどうすればいいのか、「成功するというのは一体どういうことなのか」についてもっと真剣に考えた方がいいのではないかと思うことがある。
成功を定義できない親が「成功のために勉強しろ」と宣うのはちゃんちゃらおかしいのではないだろうか。そもそも小中学生の親程度の年齢で自分の人生が、あるいは自分の人生観が導いた結論としての成功の定義が、本当に子供にとっての「成功」なのだろうか。まもなく30に差し掛かる私は統計的にはあと50年ほどの時間が残されている。今子供を産んだらその子が小中学生になっている頃に私は40前後の計算になる。そこまできてようやく人生の折り返し地点。終身雇用だったとして退職まで残り25年。それまで勤めている会社があるのかどうか、国があるのかどうか、自分の生き死にすら保証されない中で、成功を定義付けて恐らくは自分より未来を生きる子供に押し付けていいのだろうか。どんなに私ががんばっても遠い国の主宰がボタンを一つ押しただけで、私達の知る世界は消えてしまうのかもしれないのに。
では私はどう思うのか。私は一番大事なことは「勉強がしたい、あるいはしないといけないと自覚した時に、それを全力でサポートできること」だと思う。一口に「勉強」と言っても色々ある。私はずっと科学が大好きで、アメリカの優秀な中学校で表彰される程度には科学に関するあらゆる知識を吸収する探究心があった。でも逆に、いわゆる「文化系」の科目は大の苦手、というか大嫌いだった。国語、歴史、地理、こういった科目には一切の興味がなかったし常に成績が悪かった。きっとそういう人は多いんじゃないだろうかと思う。学校で教えている教科でなくてもいい。たとえばスポーツだって勉強だ。見ている分には非常に単純なマラソンにだって勉強しなくてはならないことがたくさんある。その証拠に私はマラソンでより早く走るために何を勉強したらいいのかすらわからない:まずそこから勉強しなくてはならない。
ゲームだってそうだ。私が一時期ものすごくハマっていたリーグ・オブ・レジェンドは勉強しなくてはならないことが山ほどある。キャラクター、武器、そしてゲームプレイに影響を与える様々なギミックの数値を知り、それを最適に組み合わせて実行に移さなくてはいけない。私はこういったことが得意だったので、最初は上達が早かった。でも次第に自分の才能(熱心に取り組んで考えて成長する力)が足りないことに気がついた。世の中には私よりはるかに上手にこれをこなすことができる人たちが存在する。そしておよそ5年間、毎日数時間とのめり込んできたゲームをある日突然全然遊ばなくなった。せいぜい数週間に一度、まとまって友人たちとわいわいとやるくらいになった。そして私はいわゆる「勉強」を始めた。それまで大学を通してやってきたプログラミングに割く時間が圧倒的に増えた。この時私は周りから「ゲームをしろ!」だなんて言われなかった。だからすんなりと離れることができた。
最後に一つ、個人的なエピソードについて語りたい。私は高校二年生最初の学期の時に物理で赤点を取った。当然両親には怒られた。しかし次の学期には期末試験で学年二位の点数を取った。なぜか?当然、両親に怒られたからではない。自分が好きだと自負していた物理という科目で赤点を取ったのが悔しかったからだ。私は自分の勉強方法を見直して、物理という科目への向き合い方を徹底的に変えた。その結果、ものの数ヶ月で私は学年トップを争えるようになったのだ。実際にはクラスの進度に歩調をあわせていたのでもっと早くその域に達していたのだと思う。その経験から私は「何かをしたいと、本当に、心の底から思うのなら、それはきっとできる」と信じるようになった。だから逆に、焦っても仕方がないのだとも思うようになった。勉強というのはそういうものなんだろうと、私は思っている。
もちろん、これもまた私が個人的に経験した一つの成功体験でしかない。これが普遍的な真実であるとは思わない。残念なのはそのことに気がついたのは私が指導してきた数人の後輩たちを凹ませてしまったあとだったことだ。私は、こういう原則でいるがために、完全に自主性に任せて「できない」ことを「やらない」ことだと決めつけていた。実際には取り組むための「きっかけ」が必要なんだという基本的なことにすら気づかずに。自主性に任せてどんどんと探求する意欲を芽生えさせるためにどうしてあげたらいいのか、私にはまだわからないし、あるいはそうすることが本当にいいことなのかどうかもわからない。だから私は現時点で子供を産んで育てるということをしようとは思っていない。でももし、また誰かが私に学びたいと申し出てきたのであれば、それがプログラミングだろうとゲームだろうと、私はその人がやりたいことに熱中できるようになるきっかけを探す努力をできるようになりたいと思っている。
ブロック機能についての話になると必ず「ブロック機能を使えば自分の見たいものしか見なくなる。世の中の多様性に無頓着になって自分にとって心地いいものしか受け入れなくなるから危険だ」というような批判を見る。これはそういう思想としては理解できるが、かなり極端な意見だと思う。物事を単純化しすぎた空理空論に見える。
特定のSNSでブロック機能を使うことによって見たいものしか見えなくなる状況というのは、特定のSNS以外に人との関わりをまったく持たない場合が該当する。引きこもりかつ同居の家族と会話しないかつテレビやラジオや新聞や書籍や広告などの情報源を利用しないかつ特定のSNS以外でインターネットを利用しない場合がそれに当たる。こんな状況はほとんどの人とは関係がない。
「引きこもりかつ同居の家族と会話しないかつテレビやラジオや新聞や書籍や広告などの情報源を利用しないかつ特定のSNS以外でインターネットを利用しない」という特殊な引きこもり以外は、たとえ引きこもりであっても自分の見たい意見以外のものにも日常的に触れることになる。引きこもりは同居の家族と仲が悪い場合が多いし、たとえテレビやラジオや新聞や書籍や広告などの情報源を利用しない引きこもりであっても、インターネットを利用するときに特定のSNSだけやるということはあまりないだろう。多くの場合、各種ニュースやそれについての人々の反応といったものも嫌でも目にすることになる。特定のSNSでブロック機能を利用しているからといって自分の見ているインターネットから自分の気に入らない情報を完全に排除することはまずできない。
したがって、特定のSNSでブロック機能を使うことによって見たいものしか見えなくなる状況について想定することは可能だが、実際にはほとんどの人に該当しない。
引きこもりですら特定のSNSでブロック機能を使うことによって見たいものしか見えなくなる状況に居続けることは極めて困難であるので、引きこもりではない多くの人にとってはさらに難しくなる。特定のSNSでブロック機能を使うことは自分と意見の異なる他者と関わらないことを即座に意味するわけではない。
多くの人は特定のSNS以外にもインターネットを使っている。検索サイト、まとめサイト、雑誌や新聞社のサイト、趣味に関するサイト等々。特定のSNSでブロック機能を利用したところで、自分とは違う意見に触れる機会はインターネット上にも溢れている。
また多くの人はインターネット以外にも日常的にテレビやラジオや新聞や書籍や広告などの情報源(のどれか)にも触れている。当然そこには自分とは異なる意見が出てくることもある。嫌いなジャーナリストや嫌いなタレントや嫌いな作家などが問答無用に何の断りもなく出てくる。
また多くの人は働いていて、毎日他人とリアルに関わって生きている。毎日職場で嫌いな人間と顔を合わせ、駅では頭のおかしい人間が暴れているのを目撃するし、地元のガラの悪いヤンキーがギャーギャーうるさくて不快になったりもする。
これらのことから、特定のSNSでブロック機能を使ったからといって、即座に見たいものしか見えなくなる状況に陥るわけではないということがわかる。特定のSNSで自分の見たいものしか見えなくなるような操作をしたところで、見たくないものを自分の人生から完全に排除できるわけではない。
以上のようなことは考えなくてもわかることで、いちいち長々と説明するようなことではない。問題はなぜ「ブロック機能は見たいものしか見えなくなるから危険だ!」という主張が人気なのかということだ。
世の中では単純でわかりやすく痛快なものは人気になりやすい。「ブロック機能は見たいものしか見えなくなるから危険だ!」という主張もまたそういった風潮を反映したものだと言える。意見の異なる他者との関わりの頻度はイチかゼロかという問題ではなく、実際にはグラデーションになっている。特定のSNSでブロック機能を使うことが即座に意見の異なる他者との関わりが皆無であることを意味するわけではない。しかしこういう主張をする者はあえてそこを無視して極端に語る。「最終的にはこうなる」「ディストピアだ」と。
これは楽しい空想、思考実験であって、地に足のついた議論ではない。人は常に意見の異なる他者と関わっているわけでもなければ、意見の異なる他者とまったく関わらないわけでもない。特定のSNSでブロック機能を利用したところでそれは変わらない。特定のSNSでブロック機能を利用すると当該SNSにおいてある程度自分の見たくないものも見えてしまう状況を軽減することはできるが、それは自分の人生においてある程度自分の見たくないものも見えてしまう状況を排除することを意味しない。
ブロック機能の危険性について主張する者は特定のSNSと人生そのものを同じものとして扱っているように見える。しかしこれは極端な話だ。特定のSNSというのは人生におけるほんの一要素でしかない。彼らは一部を全体であるかのように見せかけているわけだ。だがそういった操作に心地よさを感じる人が多いのだろう。想像力の羽ばたきといったものは快楽だからだ。
人間の想像力は即座に「最終的にはこうなる」という状況に飛躍することができる。「特定のSNSで見たいものしか見ない人は人生においても見たいものしか見なくなっていくだろう」「自分と意見の異なる他者は排除するようになるだろう」「皆が排除におびえるようになるだろう」「皆が他人に気に入られるような言動を心がけるようになるだろう」「社会は窮屈になるだろう」等々。たしかに想像力は突き進む。しかし現実は理論通りにはいかない。現実は合理的ではないし、様々な思惑が入り乱れて予期せぬ結果を生む。最後まで突き進むたくましい想像力というのは実を言えば想像力の欠如と同じことなのだと思う。最後まで突き進むたくましい想像力は十分に想像力がないため、現実を図式化し、簡略化し、それで計算のすべてが間に合うと思い込んで次の段階に進んでいく。しかし現実は簡単な図式による簡単な計算では間に合わない。
問題なのは簡単な図式による簡単な計算を好む人が多いということなのだと思う。なぜなら地に足のついた議論をするのはめんどうだからだ。空理空論を楽しむ論者というのは「大体こんな感じになるよね? それってやばいよね?」こんな感じである。そしてこういった議論もどきが読者に好まれる。わかりやすく痛快だからだ。しかしそれはエンターテインメントであって、責任ある大人の議論ではない。「大体こんな感じになる」は大体そんな感じにはならないのだ。
最近、表現の擁護派と否定派でどんどん話が噛み合わなくなっていってるのを感じる。
それはオタクが表現の擁護に必死になる必要性を伝えられてないからだと思う。
それが伝わってないからオタクがスケベ心とワガママからごねているとしか見られてないのだ
本当にオタクがベースにしているのは表現から得られる素晴らしい価値なのは間違いない。
なぜならばオタクカルチャーは「個人的な欲望や価値を追求し、自分の内面を掘り下げる」のを基礎としているから。
誰もが大なり小なり心に欲望を、闇を、願望を、獣性を持っていて
オタクカルチャーはそれをストレートに、そして求道者のように掘り下げる。
欲望を追求することとは、なぜ自分がそれに魅力を感じるか追求することであり、自分を知ることである。
もしかしたら大量殺戮を望むのが内なる自分かもしれないとしても、それを知ること、
そして向き合い内面的に掘り下げるのには凄まじい価値があるはずだ。
知ることによって飼いならし乗りこなしポジティヴに転ずる機会も生まれる。
そうやって内面の追求と、外にある社会とを両立させるというのがオタクの理想だ。
オタクも女性の差別や不利益の解消に異論はない。目指す理想とゴールが違うというだけだ
日本は女性による女性のための性的表現も活発な国であり、その根っこも同じだ。
ポリコレなどの強いロジックは女性が「自分を知る」機会をも根こそぎ壊してしまいうる。
男性オタクだけの問題ではないし、海外とは違った形の理想を実現しうる土壌がある。
なぜポスターの問題が長引いてるかというと「環境型セクハラ」「表象の悪さ」「ポリコレ」といったロジックが強すぎて
ピンポイントにポスターの問題だけ解決して終わりという性質のものではないから。
「自分の内面を掘り下げる」というオタク的価値観を根本から破壊してしまう可能性すらある。
ポリコレ的に完全に正しい社会というのも尊重すべきひとつの理想ではあるとは思うけど
「自分を知る」ことの素晴らしさを知ってる人間としては臭いものに蓋的な世界は受け入れたくない。
(ゾーニングや第三者を不快にしない配慮は難しく繊細な問題でこれからも柔軟に考え丁寧に慎重に議論されていく必要はあるだろう。)
女性への性的表現を人種差別と同一視する単純化すらもみられる。
レイシズムは不合理的かつ不必要で、根源的な欲望とは直接結びついてはいない(歪な形で間接的には結びついてるだろうが)
オタクにとって性的表現は自分を知り内面に向き合い掘り下げるために必要性があるもののひとつであり、
差別のための差別になりがちな人種差別とはまったく文脈が異なるものであることは理解いただけるのではないかと思う。
もしこの増田が奇跡的に目について否定派が最後まで読んでくださったならとても嬉しい。
読みきったとしてもオタクきめえ以上の感想にはならないかもしれないが、
オタクにはオタクの理想があり、命をかけてすら守りたいと思える素晴らしいものがあるということだけは認識してもらえるとありがたい。
「他者をキャラ化したい人たちと自己をキャラ化されたくない人たちの対立」
1.「他者をキャラ化する」ということは、自分の知のあり方の一面を披露することである
1について。
「他者をキャラ化する」ということは「こいつはこういう性質の存在である」という定義付けをして単純化する、ということであるから、その定義付けに際しては定義者が対象をどのように捉えているかが問われる。対象をどのように捉えるかは、すなわちその人間の知覚のあり方を示していて、認知が偏った人間はおおよそ常人の思考とはかけ離れた枠組みで物事を捉えようとし、何を見ても一面的な捉え方しかできない視野の狭い状態になったりする。一方でこの定義付けが上手い人間は、「キャラ化する」ことを通じて新たな視点を提示したり、今まで人々が上手く言語化できなかった部分を補完して共感を呼ぶことができたりする。つまり、物事を他人に共感させるような定義付けには、幅広い知識や的確な言語センスが重要になってくるわけで、それは普段その人間が世界をどう認識しているかという問いに対する答え(の一面)にほかならない。「キャラ化」とは戦略的に行った場合、大喜利のような知的総合力の結集体ともいえる。
2について。
上記のように、「キャラ化」とはその人の知的成果であり、使いようによっては人々に影響を及ぼすことができるわけだが、そのためには表現が洗練されている必要がある。冗長でポイントを外した表現は共感を呼ばないし、あくまで簡潔である必要がある。しかし人間という存在は誰しも複雑であり、一面的に捉えられるような存在ではない。一見同じような存在に見えても、人によって趣味嗜好や成育環境は異なっており、それぞれの微妙な違いが結果として多様性・複雑性を生んでいる。そういった背景を無視して「あいつはこうだ」と決めつけることは一般的には無礼な行為であり、まして人間関係を持たない赤の他人にされるのは誰しも不快に感じるだろう。「キャラ化」とはそういった攻撃性を孕んだ上で成り立っているのである。
討論において、論敵をキャラ化するということは聴衆の共感を得るのに効果的であるというメリットの他に、上に述べたように相手を軽んじているという態度を表出するという攻撃的な効果もある。これがメリットであるかデメリットであるかは、議論をどういう目的でどこに着地させるかによって大きく異なるわけだが、この手法を選好して用いるということは基本的は論敵を侮辱してやるという「メリット」をとったということだろう。こういった敵対的な態度で行う議論に生産性はなく、何か成果らしきものがあるとすれば、「あ、なんとなく分かってはいたけどこいつとはやっぱ相容れないんだわ」とか「こういうやり方で討論やってても現実問題の解決は遠のくだけなんだな」とい諦め半分の気づきくらいなんではなかろうか。
端的に言うと「こうなんのみんな分かってたよね?分かっててなんでやったん?なんで?ヒマなん?」って感じなんだが、わざわざこういう徒労に時間を費やしてくれている人がいるおかげで世界は更新されているんだと思うので尊重するようにはします。行動力ある人えらい。
自戒を込めて。
「〇〇のような表現は問題がある。だから、そういう表現が自然と減っていくといいなあ…」
にもかかわらず、両者が区別されないまま、議論が進んで混乱が生じていることが多い。
意見を発信する側としては、法規制を主張しているかどうかを明確にすることが必要であり、意見を受け取る側としては、その確認が必要である。
・法規制すべきとまでは言わないが、自主規制されるのが望ましい
なお、以下は、基本的に法規制の是非が論じられていることを念頭においた記述である。
「性的搾取」「性的消費」「まなざす」「萌え絵」「ヘイトスピーチ」などは、必ずしも概念が明確でない。
自説の中心に使う場合は、ある程度明確な定義をした上で使わないと議論が混乱する。
また、法学においては、日常用語に見えてもそれが独自の意味合いを持ったテクニカルタームだったりすることがあるので注意が必要である。
まずは丁寧に論理を追っていった方が自分の論理の粗に気づけるし、相手に意図が通じやすい。
また、相手の意見がいまいち理解できないときは、三段論法に分解して考えてみると良い。
隠れた前提が省略されているのが分かったら、どこに同意できないかが分かりやすくなったりする。
「ある表現を法規制すべき」という意見であれば、多くの場合、単純化すれば以下のようになるだろう。
法規制が主張されるとき、まず問題になるのはその合憲性(憲法適合性)だ。
表現に対する法規制の合憲性は、原則、「①その法令が表現の自由を制約し、かつ、②その制約が正当化できない」といえるか否かで決まる。
①については、保護範囲(領域)と制約の有無の問題であり、②ではじめて、(違憲審査基準と呼ぶか否かはともかく)いかなる基準で判断するかとその当てはめが問題となる。
最初に見た他人のレビューが安っぽく狂気狂気と書き立てるものばかりで失望した。アーサーは狂ってなんかいない。むしろ最初から最後まで一貫して、彼には完全な判断力があったし、正気だった。
僕が一番好きだったのはゲーリーを逃がすところだ。この映画のそれ以外の全てと釣り合うほどに素晴らしかった。映画史に残る名シーンだと思う。
家に二人で訪ねてきた元同僚の片方を滅多刺しにして殺し、もう一人も手にかける——、手にかけるだろうと、そう観客は予想する。しかしアーサーは彼の事は見逃した。行っていいと。しかしドアの鍵が閉まっており、小人症で手が届かない彼が、殺人者である当のアーサーに開けてくれと頼む。アーサーは鍵を開けてやり、彼を送り出す。ただ気紛れに見逃したのではなく、ゲーリーのことは本当に殺すつもりがなかったのだと、ここではダメ押しでそう強く明示して見せているのだ。「優しかったのは君だけだ」と額にキスまでして。
なんて涙ぐましいシーンだろうか。アーサーはただ愛が欲しかっただけだ。誰かに愛されたくて仕方がなかったんだろう。愛されればそれに報いることができる正常な人間だった。正常だからこそ、自分に降りかかった世間の悪意に正しく報いて、彼はジョーカーになったのだ。映画的なレトリックでそれを説明し果せている。この直後に初めて、あの紫のスーツの、お馴染みのジョーカーの姿になり、あの階段を下った。晴れ晴れとダンスを踊りながら。しかしゲーリーとのあの別れの直後だけに、どこか空っぽの乾いた悲しみを感じさせる。
「優しかったのは君だけだ。」アーサーはすべて、ちゃんと言葉にして語っていた。正常な知能と判断力の賜物だ。ウェインを訪ねた時も。金が目的だろうと言われ、違う、そうじゃない、欲しいのは温もりとハグなんだと、言葉にしてちゃんと主張してみせている。しかし、返ってきたのは暴力だった。最後にTV番組に出演した時も、司会者に自分の主張を過不足なく説明している。何もない奴を笑いものにし、足蹴にするとどうなるのか見せてやると。そして銃で撃ち抜いた。
作中の事件を伝えるニュースでは、犯行の動機として「格差」があると触れている。これも良く計算されて織り込まれていたと思う。今この時代に、悪役を主人公としたこの映画が作られたことの必然性がここにある。
証券会社の三人組も、チャップリンの映画を見ているシーンでも、金持ちたちは皆、小綺麗な黒のスーツを着ていたのが印象的だった。これは明らかに意図的なものだ。創作作品一般の「悪者は黒色で表される」という不文律を上手く利用して、アーサーの目から見た世界を描いているのだ。彼にとって上流階級とは自分を疎外し苦しめる悪者でしかなかったから。ここに善悪の相対化が、全くの反転がある。「狂っているのは俺か?それとも世界の方か?」という序盤の問いかけは、敢えてこう言い換えてもいいだろう。「冷酷な殺人鬼とは俺の事か? それはあいつらの方じゃないか。」
小綺麗でピカピカな正義のヒーローが、正しい暴力を振るって悪者を懲らしめる。その昔ヒーローものといえばどれもこんな風だった。単純化されたストーリー。分かりやすい善悪。悪者はボコボコにされて言葉を奪われ抗議することもできない。何故ならその暴力は「正しい」のだから当然だ。
みんなヒーローの方に自分を重ねていた。勿論バットマンを見て育った子供たちも。しかし現代ではこの悪者の側に感情移入する人も多いのではないだろうか。やんごとなき上流階級の人々が、政治的に正しい暴力を振るい、庶民を搾取し痛めつける。この社会にそっくりだ。皆自分が殴られる悪者の方なのだとうっすらと自覚している。小汚い貧乏人には抗議する権利もない。何故ならその暴力は「正しい」からだ。“悪者”は黙って殴られていろと、社会システムが無言で言っている。
誰がやりたくて悪者をやるだろうか。誰が好き好んで罪を犯すだろうかと、今になって分かるのだ。あのピカピカの正義の味方に殴られていた「やられ役」は、生きていく中で仕方なくそうせざるを得なかった「弱者」ではなかったか?
僕はその後、更に他人の書いたレビューを読んでみて、やはり憤りを禁じ得なかった。
何も持っていないゆとりの無い人間に対して、それなりに足りてる奴が、安全な場所から、もっとこうすれば良かったとか、小人症の男と仲良くすれば良かったのにとか、あまつさえ大して不幸じゃないとか、上から目線の薄っぺらい正論を、自己責任論を披露する。それは正義の味方が「わるもの」を力一杯ぶん殴る構図そのものではないのか。
この映画に共感せずに済むような人たちは、自分がどれだけ恵まれていたかに気付いてない。絶望的に愛情に飢えていて、精神的なゆとりを根こそぎ奪われた人間が、どれだけ不自由でままならないか。それを知らずに済んだ幸運な人たちだ。「こうすれば良かったのに」だと? それができたらああはなってないだろ。「お前は怠けている」とでも言いたいんだろうか。できるならとっくにやっているのに。
「不幸すぎないから共感を生んだのでは」という意見は、少し違うと思った。少しズレている。正確に言うとこれは「福祉の谷間問題」なのだと思う。歩けなくて車椅子とか、目が見えなくて杖をついてるとか。誰の目にも明らかな障害者なら公的な支援を受けられるし、みんなに助けてもらえる。でも微妙な障害だったら? 見た目が普通で症状が分からない、健常者と同じように扱われるのに、しかし健常者ではない。実際には軽微な障害があり、仕事や日常生活で「現に」困っている。困っているのに、誰も助けてくれない。こういうのを福祉の谷間という。発達障害やチックなんかがそうだ。或いはアーサーみたいな、感情が高ぶると笑ってしまうという障害もまさしくそれだった。周りからはそれが障害だと分からないのだ。本人はとても苦しんでいるのに。そして誤解と偏見に満ちた視線のせいで二重に苦しむ事になる。それはこの映画に「大して不幸じゃないじゃん」と言い放った人たちの正にその視線である。ここに地獄がある。
“有色人種なら贔屓してもらえたのに” 白人だから何もない、自分は現に困っているのに、何の手助けも受けられない、ホワイトトラッシュと呼ばれる人たちも、谷間問題という意味では本質的に同じだった。彼らは事実ジョーカーみたいな政治家を支持した——。ドナルド・トランプだ。この映画はこういう人たちの共感を生んだのだと思う。だから社会現象になったのは必然と言えるし、解釈に分断が起こり、理解できる人とできない人とで真っ二つに分かれてしまったのも、必然だったのだろう。
お気持ち表現規制派を殴るついでに社会構築主義殴られても困るんだよねぇ,正直.
私は人文系で別にジェンダーの問題には関心ないけど,構築主義的な考え方は別にフェミニズムに限られた概念でもないし,社会学だけじゃなく人類学や歴史学でも受け入れられてる.
「民族」が構築されたもので云々みたいな話はさんざんされてきていているわけで.きちんと実証的にやろうとすればするほど構築主義の考え方を取らねばならない局面って多いんだよね.
社会構築主義への批判もあるにはあるけど部分的修正を促すものだし(たとえば「老人」というカテゴリの特殊性から社会構築主義の大前提を疑った論文もあり,これはかなり面白い),本質主義に戻れるかといえば戻れないので,まあ構築主義を受け入れた上でどうやって実証に活かすかという話になるわけだけど,そもそも社会構築主義はおかしいって言われると「ええ……」ってなるよな.
社会構築主義批判が悪いわけではなく,きちんとした論を立てて批判してくれるなら全然大歓迎なわけだけど,一部のアンチフェミな方々の議論は耳を傾けるべき水準に達していないので.
正直もう本当にうんざりなんだけど,お気持ちフェミニストを殴りたかったらお気持ちフェミニストをピンポイントで殴ってほしい.社会学批判とか始めるならネット上の断片的な社会学についての解説だけじゃなくてちゃんと社会学の本やら論文やらをちゃんと読み込んでほしい.当たり前のこと言ってるはずなんだけどなぜか通じない.いやキズナアイを叩くなら彼女の配信をちゃんと見ろとか宇崎ちゃんポスター批判するなら漫画を読めよとかと同じことを言っているはずなんだが? という.
表現規制を求めるお気持ちフェミニスト批判ならオタクとして賛成するけど,雑きわまりない構築主義批判を始めるならそれは文系の学問に喧嘩を売っているに等しいわけで,こちらも文系アカデミシャンとして「は? お前何言ってんの?」というモードに入らざるを得なくなるんだよな.
だからまあ私の感想は,去年キズナアイが叩かれてたときに書いたの(anond:20181011062902)と同じになるわけだけれど.
とにかく私は両側にもうウンザリ.ろくに事実関係を調べもせずVTuberについて基本的なことを知りもせずキズナアイを叩く連中にも,ろくに文系について知りもせずどんな研究をしているか理解もしないできないのにクソバイスを垂れ流す連中にもウンザリです.オタク叩きも文系叩きもクソくらえ.どっちも私の敵.
仕事仲間から趣味を貶められ趣味仲間から仕事を侮蔑されるのそろそろ勘弁してほしいわけですが,まあこの流れは収まらないんですかねと諦めモード.どっちの陣営にも話通じない人がいて辟易.
まあせめて自分が誰に喧嘩を売っているのかはちゃんと把握してくださいね.表現規制派を批判するためにフェミニスト全体を殴ると性の解放を唱えるフェミニストに流れ弾が当たるし,社会構築主義にまで戦線を広げるならフェミニズムや社会学だけじゃなく人類学とか歴史学にまで喧嘩を売っていることになるわけだけどそこはちゃんと自覚してます? 自覚がないなら攻撃対象はもうちょっと限定しようね.もしそれらの分野に喧嘩を売るなら各分野の基本書はちゃんと読んで勉強してねという話になるけど,その覚悟はありますか?
(もちろんこれは男性向けジャンルの潮流とか文化とかについて碌に知らずお気持ちで批判してくる一部のフェミニストや社会学者にも当てはまることだけどね.よりにもよってそのジャンルでデータベース消費論に基づいた雑分析をやりますか? ほんと勘弁してくれ.男性向けだからどうせ女体目当てのポルノだろうみたいなその偏見をどうにかしろ.オタク,というよりも男のセクシュアリティを単純化するな.参与観察なり文献調査なり統計なりの実証手法を使いこなせ.表象分析やるならちゃんと作品に向き合え)
ところで献血行って冴えカノのクリアファイルもらってきたんだけど,今期アニメで白衣着て献血のポスターに採用されてほしいキャラって誰? 僕は,クリーブランドちゃん! アズレン未プレイなんだけどアニメは見てます.出来いいよね.さすが艦これより先にアニメ化されるだけはある.ユニオンとロイヤルと鉄血と重桜でそれぞれ1種類ずつナース服のクリアファイルとか作って献血ルームで配布してほしい.あ,『放課後さいころ倶楽部』も捨てがたい.翠ちゃんいいよね……仮にコラボやるならやっぱり京都府内限定とかになるのかな……(やると決まったわけじゃないだろ起きろ)(もう一回『ヤマノススメ』とコラボしてほしいよぉ……)(いま気づいたんだけどアズレンの鉄血って「血」って字が入ってるから献血にちょうどいいんじゃないか? プリンツ・オイゲンが上から目線で献血を要求してくるポスターとか,どうすか)
似たような話題を似たような面子で似たようなコメントで殴り合うの見てるのは正直言って苦行なので、色々な所に飛び火するのは割とありがたい
勘弁してください.俺は楽しくオタ活や研究して気分よく献血したいだけなんです.献血ポスターを燃やされ趣味を踏み躙られた挙げ句に仕事にケチつけられるとかただただ迷惑でしかないんです……一部のフェミが放火してまわって一部のオタクが焦土作戦しかけてきてるのは巻き込まれた村人Aとしては消耗するだけなんだ……
これはっきり言っておくけど,去年のキズナアイバッシングに付随しての文系バッシングのときにも,私が書いた増田を読んで「こういうのが読めたのはよかった」と言ってる人大勢いたけど,私まだ根に持ってるからね.なんもよくねーよ.水が言葉を記憶しないことについてやたら解説が充実していたり数多の歴史的事件のなかで南京大虐殺にだけやたら詳細なFAQがあったりするのはちっとも良いことじゃねーよ.文系バッシングはこれっぽっちもありがたくないです.一部のフェミに好きな作品を燃やされてもちっとも嬉しくないのと一緒.宇崎ちゃんの売上は上がったらしいけどそれを素直に喜べるかといったら喜べないでしょ.宇崎ちゃんバッシングなんてない方が遥かに良かったわけで(もちろん表現の自由というものがあり,作品への批判をするなとは言わないのだが,しかしその批判をどう思うかというのはまた別の話で……).
社会学部に運動家が集中しすぎている。法学部や経済学部や文学部とは比較にならないほどに集中して存在する。社会学と社会学部全体がうさんくさいものとして見られるようになった。
社会学部なんて設置してる大学は少数派なんですが本当に印象論でしか語ってないんですねというのがよくわかる.偏見を正当化したいだけのノイズ.
この世界は全て物理法則に従って動いている、というのが本質主義なら実際それは多分正しいんだよなぁ…そこに戻れないのは単に人間の知性が追い付かないから「仕方がない」だけなので/クリーブランドはロリだから叩
学問的良心からはたかだか門外漢との対話なんぞのために本質主義を採用するなんてできませんわ.
社会学部を設置してる大学は少数派でたいていの大学に社会学部なんてものはないわけですが本当に印象に基づいたお気持ちで社会学を叩いているんですね(それとも,ひょっとして社会学部がある大学の卒業生なのかな?).
人によります.普通の句読点使う人とかカンママル好きとかコンマピリオド派とか.出版社だと東京大学出版会は横書きの本は基本コンマピリオドですね.岩波もそうだっけ?
「お気持フェミが自分のお気持の裏付けとして使用していますがそもそも関係ありませんし用法も間違っています」というならわかる。フェミニズムと深い関連があるなら批判に耐えるだけの論拠が欲しい
耐える以前の問題で批判側が雑すぎてマトモに相手してやる価値もないというだけの話なんですが.社会構築主義を批判するなとはもちろん言わないけど,批判の質が悪ければ歯牙にもかけないよ.当たり前でしょ.
というかそもそも,社会構築主義の是非と一部のお気持ちフェミの表現規制要求の是非って無関係だし.勝手にその2つを結びつけたのはアンチフェミの側.一部のお気持ちフェミには自由主義とか哲学とかのツールを使って対抗すればいい話で,社会構築主義を疑う必然性はどこにもないし,疑うっていうなら俺の立場は表現規制反対派のオタクから文系研究者に変わりますよというだけの話.文系研究者としては雑なアンチフェミの議論なんて支持できるわけないでしょ.一介の市民としてなら喜んで性的解放とか表現の自由とかを叫ぶけどさ.
本来ならそこは互いに削り合ってこそ信頼性が担保されるはずなのにおフェミさん達は互いにお手々つないで仲良しするからこうなの。社会構築主義の信頼性を担保したかったらおフェミがそれを乱用するのをたしなめろよ
マジで社会構築主義がフェミニズムのあいだでしか通用しない概念だと思ってんの? 馬鹿じゃないの? もう何度でも言うけど本当に馬鹿じゃないの?
文系の学問について無知なのは別に悪いことじゃないけど無知なのにこんな勘違いしたままでドヤ顔で物申すのは馬鹿で恥知らずだと思う.勉強しろよ.
社会構築主義はポスター批判側から確かにあんまり出てなかったけどいなかったかといえば居たような…。「表象」とかゆってた人はソレとは違うの?教えてください!
表象の話は『世界』5月号に載ってた小宮さんのやつかな? あれは社会構築主義とはあんまり関係なくない? いやもちろん関係ないということはないんだけど,小宮さんが言ってるのは表象と女性差別の問題だよね.
実のところ社会構築主義ってマジで社会について分析する上でのベースとなる考え方だから社会構築主義が滲み出てくるのはある程度仕方ないところはあるんだけど,anond:20191104014500でも書いたように社会構築主義の是非以前の問題だなと思うことはあるんだよね.ジェンダーは(というかセックスも)社会的構築物だけど,それは議論の前提であって,じゃあその上でどの程度の女性表象を許容すべきかみたいなそういう話は倫理とか哲学とか思想とかの領分じゃないですか.そこに社会構築主義はどうなんだみたいな話を持ってくるの不毛すぎない? ロールズとかの話しません?
ちなみに私は小宮さんの主張には反対するんだけど『世界』掲載論文の注10(236ページ)には同意する.みんなもっと本質的な話しよ.「そもそも男性だって公共空間で性的消費されてるんだから架空の女性が多少公共空間で性的消費されてたって別にいいじゃないですか」「性的自由の拡大が目指されるべきであって表象を制約しようとするのはおかしいでしょ」「医療のための広告には高い倫理性が求められるのだとしても,人気マンガの多少えっちなイラストを使った広告すら問題とされるのはおかしい.それは医療のための広告に求められる倫理の範疇に収まるはずだ」みたいな話しよ.
……この規制反対増田を多数の「お気持ち棍棒」で殴り倒して口封じし「パワフル表現規制」した方が、学問で論破するより遙かに低コストって事は確実そう。だから規制派は扇動するのか。なるほど、俺でもそうするな。
それは過大評価ですよ.私はフェミニズムに学問的反論を加えているのではなく,フェミニストの一般社会に対する主張の一部に対して一人の市民として反対しているだけだもの.私は知の体系としてのフェミニズムにはちっとも触れていないので学者としてフェミニストに勝つことはできません.それはジェンダー研究の偉い先生が私の専門分野で私に勝てないのと同じ.
気持ちはわかる。が、賛成批判両側ともに多数の人間がいる以上、雑でなんも考えてない意見は出るだろうし、そういう意見は大体過激でツッコミ所が多いから目立つんだよねえ。正直、どうしようもない気がする。
フェミニストのお気持ちで趣味を殴られるのもオタクのお気持ちで仕事を殴られるのも正直疲れ果てたというお気持ちがあるけど,でも流石に今回は献血ポスターが叩かれたということで全血献血15回以上行ってるワイもちょっとプチッと来たよね.これまでは割とフェミの言い分もわからなくもないという感じだったけどキズナアイバッシングと献血ポスターバッシングで「こいつらの主張は基本聞く必要ないな」くらいにまで変わった.メチャクチャすぎるものこの2件.でもこの2件でオタク界隈に吹き荒れた文系バッシングの嵐も忘れてないからね.キズナアイバッシングや献血ポスターバッシングを主導したフェミと社会学叩きや文系バッシングを煽ったオタクはどちらも僕の中では絶許という扱いです.あとpixiv論文事件での学問叩きのことも忘れてないぞ……(しつこい)
まあフェミのことなんて無視して表現の自由を満喫してオタクのことなんて気にせず学問の自由を謳歌すべきなんだろーけども,オタクであることも学者であることも私の重要な一部なので,そう簡単に忘れることはできないんだよなー.
あー、キズナアイの時と同じ人か。私の感想としては当時のこちら(https://anond.hatelabo.jp/20181010204115)の増田とほぼ同じです。ていうか、学問の重要さを訴えたいなら匿名じゃない場所でやったほうが効果的でしょうに。
ネット上の有象無象が学問をdisってるときになんで納税者様への説明責任みたいな話になるのか理解できんわ.科研費の報告書とかはちゃんと出してますし論文も書いてます.納税者様への責任はそれで果たしてるはず.はてブ民とか棘の米欄住人とかに丁寧に説明して差し上げる義理はどこにもないよね.
というかそういうこと言うなら同じ口で二度と民主党政権の事業仕分けを批判しないでほしいんだが……
匿名じゃない場所でやれ? 嫌です.自分の専門分野を誠実にさらけ出して物申した先生方がいたけど,どうなったかといえば物知らずの連中が学問分野ごと燃やしに来ただけでしょ.私は私の専門分野に無知と思い込みでケチをつけてくる連中を招き入れるつもりはありません.
あのさ,それは何一つ否定してないじゃん? 法学部や文学部と並んで社会学部って書くのはおかしいよねって話じゃん? 誰も社会学専攻は置いてないなんて言ってないじゃん? 学部の名前と学問分野の名称は往々にして乖離するもので,そんな肌感覚もなしに批判してるのかよって話じゃん?
ただ関西の方だと有名な私大には社会学部を設置しているところが多いので,関西の有名私大を出た人だと社会学部があるのは当たり前って思っちゃうかもしれない.関東の大学でも,例のキズナアイバッシングの急先鋒だったセンセの勤務先は社会学部だしね.けど繰り返すように全国的には社会学部を設置してる大学は少数派です.
「社会学部」と「社会学専攻」を混ぜて論じてよいと思っている人につける薬はありません.文学と文学部,法学と法学部を区別できないってことでしょ?
歴史学者や政治学者や文学研究者もヒウィッヒヒーには生息して色々発言しているわけだけど,社会学者への偏見があるから社会学者が目立っているように見えるだけでは???
いやさ、投下12時間後位に見たらノーブクマ2煽りトラバだから、こんなに大漁になってたの気付かなかったわ、めんごめんご!
あと、文章雑なのはごめんなさいその通りです、完全片手間&やっつけ仕事です。まあ、言い訳と言われればそれもその通りよ。しっかし3行目から消して適当な文言入れ忘れてるし、小見出し2つ目も入れ替えるの忘れるし、かといって今から手直しも卑怯っぽいから、直すに直せなくなったなこれ
一応ケツに「反転可能性」と書いたので、やや牽強付会に最大限、愛トリに寄せたつもりではあるが、他人の思考をトレースするの難しいっすね
では皆様の二枚舌(あるいは信念による鉄面皮)をご覧ください。
name | 某献血のイラスト問題について | 某トリエンナーレのアート問題について | 短評 |
---|---|---|---|
id:aomeyuki | 献血は困っている人を助ける為の良い行いだから、そこで発生する「モノ化」は甘受せよってロジックが増え始めてるけど、それこそが性や身体への搾取の具体例なると思うんで、それを広めて大丈夫かな。 | 自分は「日本人」ではあるけど、「日本」ではないのでよくわからない話だった。それと憎悪や嫌悪も人間が内包している当たり前の感情や感覚なので、それが外側に出てしまう事を殊更に避けるのも不自然。 | その「よくわからない」から出るそぶりを出せるかよ |
id:SweetGiraffe | これは日本赤十字も『複数女性と性交渉を持たず体重がそれなりにある若い男性』に寄り添った広告は打てなくなる。残念だが2019年では『人の命』より『政治的な正しさ、ポリコレ』の方が重くなってきてるのだ。 | 『表現に対する嫌悪感』は、あいトリも献血ポスターも同じでしたね。 | |
id:kyo_ju | すげぇ。ビリーバーだ。 | 釣りかそのぐらいかは見抜こうぜ | |
id:memomizawa | なぜこの絵がエロいと思えるのか、他の絵はなぜエロくないか、考えていくと美術って面白いと思いませんか?そこには文脈がある。我々は性によって生きている、存在しているということもまた事実であるのです… | 日本に対して絶望したり、憎悪したりすることない?この主張だと公的な場では愛国的な作品しか見れなくなるよ。誇りに感じている日本の歴史を振り返れよ。 | ほら、「みんな憎んでる」としか見えてない |
id:onigashira_3 | 追記読んでも主語がデカいなとしか思わなかった。個人の話を男女の話として語ってるだけ。 | ||
id:kiku-chan | 複雑な問題なのに、単純化したブコメ星がつくのな。/ 戦略として「思考停止」って言葉を使わないほうが言葉は届いたのかな? 丁寧に言っても届くべき人には届かないようにも思うが | 日本の過去の過ちに言及すると「反日だ!ヘイトだ!」と騒ぐ人の思考が見えた気がする。 | そりゃそれを見せようとして訳でな |
id:myogab | とは言え、切りが無いよなあ…。襟足や首筋や足首にフェティッシュを見出す者も定番として、古来から居たわけでな…。裸にペイントしたような「服」は画力が無いよな…とdisりながら潰してゆく方向かなあ。 | 苦痛があるのは理解するが、被害者特権を振りかざし更なる弱者により酷い苦痛を与える事を容認する事には無理があるわな。弱者の恫喝はサヨクだと批判してきた事だろ。建前は守れよ。まず救う事によって救われようよ | それ結局弱者トーナメントっすよね。あなた基準では後者の方がまだ強者だとおっしゃってるだけで |
id:mimoriman | 貞操逆転世界をみんなに読んでほしい。原作はエロ同人らしいんだけど、商業化で女の子が主人公に。男性が性的な目で見られまくる世界に転移してしまう話。正直ここまで女性はエロと密接に生きてきたのかと衝撃だよ? | 言葉尻をつかまえてるブコメ多いけど、たぶん若い子はこんな考えの人多いよ。自国ディスしまくりのインテリ層の大人に辟易しながら成長したんだよ。 | 今の若い衆、そんななの? |
id:pikopikopan | 最近性の教育が適切でないから、無駄に傷ついたり傷つけたりして、結果殴り合ってるのではないかと思い始めてる。 | ||
id:tomoya_edw | 「性的消費」という文言への思い込み強いね。この絵の対象世代はとっくに意識変わってるのにな。思考停止はどっちなんだろうか、女性という性はそこまで特別扱いか?この作品ですらその部分の捻りがあるのに。 | 思考停止という言葉は嫌い。誰だって考えている。同じ言葉とて受け入れられるタイミングは異なる、そういう経験あるでしょう。党派性は雑フィルターだと思っている、普段は働かせていないと脳みその負担がでかい。 | とはいえ、何のフィルタもなしに世界を受容することが出来るかというと |
id:tatsuya_memo | 宇崎ちゃん、ワンピース、セーラームーン。挙げられた個々の例へのスタンスはどうあれ増田主張の骨子は理解できるはずだし、特に男性は深く受け止めるべき。意識しないと無自覚に女性差別し続けるよ。自戒を込めて。 | 例のポスターは表現の自由が侵害された案件ではなく、ミラーリングのつもりなら不適切。萌え絵を扱った美術展に展示されていたとしても誰も文句言わないだろう。その他ツッコミどころ満載で頭の悪さが溢れ出ている。 | ところがぎっちょん、美術展にも放火あったんだなぁ |
id:RRD | この議論からポジショントークしかできないアニメアイコンを排除して欲しい。まずはそこから。 | そもそも「日本」ってなんだ? ってところから考えるのが思考だよ。こいつは間違いなく、「日本」とはなにか考えたことがないことが文章からよくわかる。 | 考えたことない人、ちっすちっす。いきなりアイコンだけで排除しろって、それ考えてやってるの? |
id:mohno | 思考停止しないで聞いてほしいが、「不快なものだから否定するのはおかしい、表現の自由」という看板を掲げていたあいちトリエンナーレを応援してた太田弁護士が自分が不快なときに看板下ろすなよ、と言ってるんだ。 | そもそも「あいちトリエンナーレ」は実施前から「男女平等じゃないくらいものすごいことが起きる」と“認識してやったこと”だから、“予期せず話題とされた”であろう「宇崎ちゃん」と比べるものでもないんだよね。 | そこまで細かいフレームを比べだすと、凡てモノは比較できなくなるのでは |
id:Ayrtonism | この意見に賛成の人も反対の人も、一行一行に反応するのを止めて、一旦最後まで読んで、胸の中に収めて、咀嚼して、消化してみてほしい。それくらいよくまとまっている。自分もすごく参考にしたい。 | 最初っから前提が全く理解できないので、全編通して全く理解も共感もできない。「日本に対する憎悪を煽っている」という自分の勝手に設定した前提を疑わないことこそが「思考停止」そのものじゃん。 | 理解できないんじゃなくて理解したくないんでしょ?宇崎ちゃんがエロ、って自分の勝手に設定した前提じゃないって言いきれるの? |
id:deep_one | 非実在に対して「性的に消費」とか言われてもな。しかもあのレベルで。 | そう来るか。当たり前だが元を崩せないから内容は無茶苦茶だな。 | そこがこの芸の弱点よ・・・ |
id:asx | 個人としてあの手のイラストは好きじゃないんだけど、ただの「お気持ち」だと自覚してるからなくせとは思わない。基準があるようでない「性的消費」を印籠にこの手の議論をするのは悪手なのでは。 | 「思考停止」という言葉、左右フェミその他問わず結局「自分と意見が違う人間は間違っている」とイコールで使われすぎで、この単語を見ただけでそっ閉じしたくなる昨今。 | 正確には「この思考に従って停止せよ」って話よね |
id:EnergeticDuck | セーラームーンはSMを連想させるので公に出すな、まで言うならまだしもフェミニストから同じ熱量で上がってきた事は無いので、お気持ちでしょう。自分を善人の顔した利己主義者だとも振り返って頂けませんか? | "日本を憎むことは普通の事なんだよ、という教えが公的の場におかれていることが問題なんです。" 子供の自己肯定感とかに関係しそう(アメリカ人のアメリカ肯定感つよそう | USA!USA!が大前提だからなあいつら・・・ |
id:kyoto117 | 「性的に消費」という言葉の定義がよくわからない。性を意識する部分を強調した描き方をしたポスターが問題なのか、それを使うことが問題なのか、ポスターを見て「性的に消費」することが問題なのか。 | 単に文字遊びをしたいのか、事象を皮肉りたいのか、だとすれば対となる元ネタとしてこれを採用した意図は何か、つまるところどういう効果を企図したのか、全てにおいて不明瞭。わかりやすくいうと覚悟が足りない | 無名者に何の覚悟の在らん。迷陽迷陽无傷吾行 |
id:grdgs | あの絵が性的欲情を狙って描かれているのは明らかだからな。一応言っておくが性的がすべて駄目ではなく議論の余地はあるってこと。議論のスタートにも立たず「オキモチダー!」ってそれこそお気持ち思考停止だよね。 | あれを作った人・支持する人は日本を憎んでいるという発想が間違っている。「憎んでいるに違いない」というお気持ちだよ。被害妄想。批判=増悪と単純につなげる雑な「思考停止」多すぎ。 | 自陣以外に正しいお気持ちはないらしい |
id:world3 | 話の前提がおかしい。献血ルームは日本赤十字の管理する私的空間であって公共の場ではない。 | なんだかよくわからんけど、元ネタの出来が悪いから改変後もイマイチ。 | すまん、こういう時はすべて改変者がへっぽこなせいだ・・・。元ネタ悪くない |
id:teto2645 | ただ単に面倒で図々しい人。 | なるほど。思考停止という言葉には普通に考えれば自分と同じ考えにたどり着くはずなんじゃ低脳どもが、という意味がある訳ですね。わかります。 | まあ、左側の前衛史観に立つとそうなりがち |
id:amematarou | あれを東京オリンピックの公式キャラにして世界に発信する事を考えてみてよ。公的な機関がやる事じゃないって思わんのかなぁ? | こんな奴がいるから、漫画やアニメにオリジナルの天皇が出てくる作品が作れないんじゃないの? | 漫画でオリジナル天皇出てくる筋が見えねぇ・・・ |
id:ug_idol | sexual objectification の概念なんて馬鹿には理解できない | ||
id:right_eye | でもそれを言うならアイドルやガーリーな服等も性的消費だし、性的消費を肯定する女性向けの媒体(女性誌のモテファッション特集等)も全てアウトと思いますが、なぜポンチ絵ばかり?思考停止せず答えて貰えますか? | 検閲を是とする気も少女像を否定するつもりもないが、「これは日本人に向けたものではない」「これは日本否定ではない」という主張には説得力がないと思う。明らかにその要素はあるし、あった上で表現の自由が必要。 | 「萌え絵はあなたに向けたモノではない」 |
id:tikuwa_ore | うん、いいから、黙って病院に行け。脳の。自分がモデルになってるワケでもない単なる「絵」を、「女性」という共通点一つのみで自分と同一視するんだから、マジで病気以外の何者でもないワケだが。 | 表現の不自由展については「国家・自治体は国益を損なう表現に対し公金で支援する必要はない」「民間企業や個人が自費でやる表現に国家が口出ししてはいけない」でいいんだよ。 | |
id:kincity | 「女性は社会からどう見られたいのか」って人間として見られたいんじゃないの?男は精子を供給するだけの存在と見られたいの?/「黙って病院行け」←君がな。君女が男より犯罪率高いてデマ流して撤回もしてないだろ | まぁ昔はそこらじゅうでフィリピンとかに憎まれててそれが雑誌に載ったりカジュアルにしてたんだけどね。古本屋行ってごらん。 | じゃあ、昔はいっぱいあったからヌードカレンダー復活させようぜ!って違うだろーッ! |
id:laislanopira | ……。 | あるいは一番正解かもしれない | |
id:inferio | 北拳見て現実の人間殴るヤツはそいつがキチガイだ。エロい絵見て現実の人間に危害加えるやつもそいつがキチガイなだけ。自分が不快に思う以上の意味を持たない主張に社会正義のような絹を纏うやり方は不誠実だ | まず旧日本軍ていうのがキチガイカルトに民衆がハックされた状態なわけで、そんなもんに唾を吐きかける表現が今の日本の何を傷つけるのか分からない。オウムのテロの行状くさして展示してるようなもんやろ | オウムほど彼岸ではなくない旧軍?ってか、その孫曾孫に至るまで謝罪のため拝跪せよって話なんすけど先様は |
id:udukishin | だったらスナックとかキャバクラとか接待する店を非難しろよ。あっちは「実在する人」が性的に搾取されてるぞ。「生活のため」?ならイラスト関係者や漫画家は?他の職業にしろ?それならスナックとかも同じだろ! | あーなるほど「それ敵増やすだけだからやり方考えよ?」と言いたいのか。それはわかる。 | そこまでどっちかに肩入れしたいわけではない |
id:LittlePenguin | 新宿二丁目のポスターに修正が求められるのと同じだね。制限かけたい人々がいる。 http://murapo.sakura.ne.jp/pl2/?p=84 | 弱者ランキングが始まったようですね。併せて性的消費で女性は弱者なのかBLについて https://nlab.itmedia.co.jp/nl/articles/1910/23/news105.html | [後で読む] |
id:mutinomuti | 増田が性的に搾取されていると感じる公的なコンテンツは許されない(´・_・`)まで読んだ | 読んでないけど思考停止するなと言う人の多くが思考停止してあらかじめ自分の考えたストーリーしか提示できないので読む価値は低そうである(´・_・`) | 逆もまた言えなくはない、という話なので、そこが読めれば見る価値が低いことはある |
id:mukudori69 | あの絵自体は明らかに、胸を強調するための構図・彩色・視線誘導だよ。性的魅力を強調するため以外の目的あるんだろうか。性的魅力の強調度合いは露出や肌面積で一義的には表せないと思う。 | してやったりと思ってるのかな。苦笑しかないけど。公的な場って何回も自分で書きながら意味の差異を考えなかったの?…書いてないのか。しょーもな | 自分で書いておきながらその共通性も考えなかったの?しょーもな |
id:quick_past | サヨ叩きしてる愛国者連中や、少数者を社会から追い出してコスト削減したがってるネオリベとか、これもだけど行き着く先は欲望を好きな時に開陳できる、ケンのいない北斗の拳なんだが、それでいいわけか? | だから、なんども言ってる通り、ちゃんと、相手の言葉を、一度でもいいから、真っ直ぐ、聞いて、知って、その上で解釈して、それから自分なりに考えたことを、書いてください。一度でいいから、脳味噌を通して。 | 君も、条件反射じゃなくて、一度でいいから、脳味噌を通して。 |
id:cha9 | ファンやタニマチらによる一大性的消費コンテンツ、男性の裸体丸出しの大相撲が公共放送で毎日お茶の間に届けられてる異常な国ニッポンに関して増田はどう思ってるんやろ。伝統だしセーフは無しな、元は丸裸なんやで | 不自然な文章だなと思ったら改変後の主体がおかしい。比較で揶揄するならフェミ弁護士の双極になるのはガソリン脅迫犯や電凸やった奴ら。で日赤や漫画作者に当たるのが表現の不自由展。日本語不自由やと思考停止の例 | 何らかの表現を葬ろうとした段階で同じでは。フェミ弁の双極はあえて言うなら名古屋市長?付け火して煙喜ぶ連中よ |
id:frothmouth | 🤔 フェミニスト学会とかで、この絵は性的ポイント何点とか基準を作ったらどうだろう?80点以上はフェミニスト的には禁止とか?もちろん、社会の側はそれに従う必要はないけど... | パロディなのか真剣なのか | 7:3位っすね正直 |
id:mouseion | 自衛官をイケメン化するのも辞めて欲しい。僕はごつごつしたラグビーの稲垣選手みたいな自衛官の方が大好きです。むしろ野人系推してけよ~。 | アゴラの読売記者のネトウヨがね、この間僕を名指しで日本語不自由なのか“バカサヨ”って発言してるのよね。そのリテラシーの欠片もない不自由な発言を僕は評価したい。左翼がバカなら右翼はもっとバカなのだとね。 | ごめん誰か解説して |
こういう風に単純化するのは反対だなぁ。ポスターを批判している人の中にも、ただ無知なだけで話せばわかってくれる人もいる。たしかにマイノリティ側にばかりコミュニケーションの義務が発生するのはそれ自体が非対称性ではあるけど、だからといって開き直ったところで何も解決しないし、先人たちが地道に偏見を払拭してきたから今回もたくさんの人が味方をしてくれたわけで。
えっ、そういう話じゃない?
献血ポスターをめぐるやり取りについて、どうして齟齬が生じるのか、幾人もの人が色々と小難しく考えているようだけれど、んな難しいものではないでしょ。ネットイナゴの難癖があまりに目立つというだけなんだから。ネット右翼とか差別主義者との間に「誠意あるやり取り」が成立するかどうかと同じで。— 若林 宣 (@t_wak) October 23, 2019
「アイカツ!」シリーズの「話数が多い」というハードルを越えて視聴してもらうためにはどう勧めれば良いか、という話が少し盛り上がっていた。
その中でよく出てきた話に、見てハマった人間にとってはその話数というのはむしろ少なく感じるほどである、というものがあった。
それについては私も大いに頷くものであるが、なぜ皆がこれだけ話数の多い物語をそろって「短い」と言うのであろうか。(単純に面白いからあっという間だよって意味かもしれないが)
それを少し考えてみたので書き連ねてみる。なお、シリーズ全部について書くと本当に長くなるので第1作の「アイカツ!」に絞って書く。
「アイカツ!」は2012年10月から2016年3月までの約3年半の期間に放映されたアニメである。総話数は178話。劇場版は長編の「劇場版アイカツ!」と、ステージを中心に構成した中編「アイカツ!ミュージックアワード みんなで賞をもらっちゃいまSHOW!」、最終回後に制作された短編「アイカツ!~ねらわれた魔法のアイカツ!カ―ド~」の計3つがある。他にもドラマCDが制作されている。
そして、「アイカツ!」は放映時期と作中の時間がリンクしている。つまり、季節が現実と同じように流れ、クリスマスやバレンタイン、卒業式・入学式や年末年始などの季節のイベントのエピソードが時期に合わせて放映されている。
劇場版も公開日と合わせてあり、たとえば2014年12月13日公開の「劇場版アイカツ!」は同年12月11日放映の第112話の後のお話となっている。
プリキュア等の年間を通して放映されるアニメを見ている人にとってはさほど驚くことではないかもしれないが、1〜2クールが基本の深夜アニメを中心に見ている人にとっては新鮮かもしれない。
さらに、いわゆる「サザエさん時空」ではなく、1年経つと実際にキャラクターが歳を取り、進級したり卒業したりする。
最初の主人公の星宮いちごは第1話時点では中学1年生だったのが、第178話時点では高校2年生になっている。(ある話数の間にだけきっちり1年間のブランクが存在するが詳細は省く)
つまりは、視聴者は画面を通して「アイカツ!」の世界での出来事をリアルタイムに感じとり、キャラクターの成長を見守っていくのである。
週に1回の放映内容だけでその1週間の出来事を知る、と単純化して考えてみると、それはあまりにも時間が足りないと言わざるを得ないであろう。
漫画「スラムダンク」は週刊連載で6年連載して作中で4ヶ月の出来事を描いたのであるから、単純計算でその18倍の短さと言えてしまう。(1/3年の出来事を6年間で伝える=1/18年の出来事を1年かけて伝える)
そして、年間を通して季節に合わせて放映されていると、視聴者にとって「アイカツ!」は生活の一部となっていく。生活が終わることなんて人は想像したくないものであるから、それが終わった時の寂しさは計り知れない。
後追いで視聴している者にとっては、話数と共に季節が移り変わっていくのを感じながら見ていると、キャラクターの人生を辿っているような感覚になる。そうすると、途中でそれが途切れてしまうとなると、それがどれだけ寂しいものであるか。
最終回後に制作された劇場版の短編は、そんな人たちに向けてキャラクターから届けられた久しぶりの近況報告・贈り物であると考えてみると、それがどれだけ嬉しいものであるか。
先述したように「アイカツ!」ではドラマCDがいくつか制作されているが、劇中のラジオ番組という形をとっており、まるで実際にラジオを聴いているかのように感じることができる。ファンにとって「アイカツ!」のキャラクターはどこか現実と地続きのところに存在しているような感覚がある。
「アイカツ!」のキャラクターの誕生日を祝う時、毎年そのキャラクターの年齢を数えるファンは少なくない。今年、星宮いちごは20歳になった。
いちごちゃんお誕生日おめでとう!
はたちだね〜。出会った頃に言ってた夢が叶っちゃうね。私は来月!一緒にお祝いしよう〜🍓— 諸星すみれ (@smileysuu) 2019年3月15日
アニメが終わってもキャラクターたちは消えることなく、生きてアイカツをし続けている。キャラクターの生きる姿を描くのにはいくら話数があっても足りない。
「アイカツ!」にはたくさんのアイドルが登場する。作中でCGで描かれたステージを披露したアイドルを数えてみると、総勢28人。披露されていないアイドルも多数おり、その中に人気のキャラクターもいる。
長期放映のアニメで俗に言われるものに「当番回」というものがある。
特定のキャラクターにスポットライトを当てたお話のことを指すが、「アイカツ!」にももちろん当番回と呼べる回が多くある。
しかし、28人を超えるキャラクターの全員に満遍なくスポットライトを当てるにはあまりにも話数が足りない。当然キャラクターによって登場の頻度の差は出るので、「あのキャラをもっと見たかった」という声は常にある。
それだけキャラクターが魅力的であったことの証左ではあるのだが、178話という話数をもってしても描き切れていないわけである。
ただ、そういった「スポットライトを当てる」ことについては、第146話「もういちど三人で」で星宮いちごが語った言葉がちょうどぴったりだったので引用する。
「私ね、世の中のアイドルとか、みんなを照らすスポットライトって、ずーっと動いてる気がするんだよね。ぐるぐるって。ずーっとぐるぐるぐるぐるね。だから、その時その時で、照らされる人数は少ない。でも、照らされなかった人がいなくなってるわけじゃない。だから、次のチャンスは誰にでも来るんだよ。その場所に立っている限りね」
スポットライトの当たってないところでもアイドルたちのアイカツは続いている。
物語の舞台であるスターライト学園はアイドル学校で、つまり通う生徒たちは全員アイドルである。メインで登場するアイドル以外も皆アイドル活動をしているわけである。実は、クラスメイトにも全員しっかり設定が付いている。何気ないシーンで映り込んでいるアイドルや、一瞬映った雑誌に載っているアイドルにも名前がちゃんとついていたりする。スポットライトが当たっていない彼女たちも、「アイカツ!」の世界で生き、活躍している1人であることが想像できて、それが「アイカツ!」という作品の世界に深みを与えている。
さらに、アイドル以外にも、家族や先生、デザイナー、ファン、仕事の関係者等のサブキャラクターもアイドルに負けず劣らず魅力的である。
特にブランドのデザイナーは重要な存在で、アイドルが、自分の好きなブランドのトップデザイナーが作る「プレミアムレアドレス」を手に入れるまでの物語は「アイカツ!」のひとつの見所でもある。
デザイナーのブランドに対する考え方だったり、アイドルとの向き合い方・関係性だったりにもその人の生き方のようなものを感じることができ、それは、いろんなアイドルのいろんなアイカツの形を見るのにも似ている。アイドルでないキャラクターにもその背景や物語があるのを感じさせる。
また、当初はただのモブでしかなかったアナウンサーが、節目節目でのイベントでいつも司会者として登場するうちにいつの間にか名前が付くまでになっていた、ということもある。
何が言いたいかというと、「アイカツ!」を見ていると、登場する全てのキャラクターが魅力的で愛おしく思えるようになり、もっといろんな話が見たいと思うようになるということである。
歴代シリーズのキャラクターが大集合する新シリーズ「アイカツオンパレード!」の放映に際し、シリーズのダイジェスト動画が公開されている。
歴代シリーズプレイバック!『アイカツ!(2012年10月~) ver.』
歴代シリーズプレイバック!『アイカツ!(2014年10月~) ver.』
だいたい5〜6分の動画でシリーズがおさらいできるようになっている。
やろうと思えばアニメの内容をあらすじでさらっと伝えることはできる。主人公が「輝きのエチュード」や「SHINING LINE*」や「START DASH SENSATION」等の楽曲に至るまでの物語を理解してもらうために最低限のエピソードをピックアップすることもできる。
「アイカツ!」は基本的に1話完結のストーリーになっており、途中から見てもわかるような配慮もされている。単話で見ても面白い回はたくさんあるので、つまみ食いでもきっと楽しんで見ることができるであろう。
この回が良い、この回が好き、といった話に花を咲かせることもよくある。
それでもやっぱりファンとしては全話見てほしい。全話が全部大事な話だ、と本気で思っている。
星宮いちごが歩んだ道のりを軸に、物語上の重要なエピソードだけをピックアップすることになったとしよう。
そうすると、例えばいちごたちがただオフタイムを過ごすだけという第24話「エンジョイ♪オフタイム」は、含めなかったとしても物語の説明は可能である。でも、ファンとしてはこの話は絶対に外したくない。
また、いちごがメインでない他のキャラの「当番回」、例えば藤堂ユリカがメインの第89話「あこがれは永遠に」も含めなくてよいだろうか。確かに、なくてもいちごの物語を語ることはできるであろう。だがこの回で描かれた藤堂ユリカのアイドルとしてのあり方やデザイナーとの関係、ファンとの向き合い方、そういったものが全くいちごと関係ないなんてことはなく、作品を通して描かれているテーマの根幹に通じているものがたくさんある。
例えば「SHINING LINE*」の歌詞を紐解くときに、ただ美月といちごとあかりにだけ注目して考えるのでは、やはりもったいない。いろんなアイドル、いや、アイドルでないキャラクターたちにもそれぞれの「SHINING LINE*」があるし、「最初の風」もある。
「アイカツ!」の楽曲は、キャラソンというわけではなく、「アイカツ!」の世界で歌われるポップスであり、普遍性を持った歌詞になっている。もちろん、これは誰々が歌っているという「持ち歌」の考え方はあるが、ある楽曲を別のアイドルが歌うことでまた別の新しい意味が生まれる、ということが「アイカツ!」にはよくある。
などといろいろ考えていると、どの話も外すことができなくなってくる。いろんな人のいろんな出会いが物語を紡いでいる。全ての話が全部つながっている。
「アイカツ!」を代表する曲のひとつに「カレンダーガール」がある。
この曲には「何てコトない毎日がかけがえないの」「何てコトない毎日がトクベツになる」という歌詞がある。
詳しい説明は第22話「アイドルオーラとカレンダーガール」に任せるが、彼女たちの今日をかたちづくっているのは日々のアイカツであり、そして今日のアイカツがその先の未来をつくっていく。
私たちが「START DASH SENSATION」で涙するのは、そうした彼女たちのアイカツをずっと見てきたからである。