2020-01-10

ブロック機能は見たいものしか見えなくなるから危険だ!」という主張は極端な思考の表れだと思う

ブロック機能についての話になると必ず「ブロック機能を使えば自分の見たいものしか見なくなる。世の中の多様性無頓着になって自分にとって心地いいものしか受け入れなくなるから危険だ」というような批判を見る。これはそういう思想としては理解できるが、かなり極端な意見だと思う。物事単純化しすぎた空理空論に見える。

特定SNSブロック機能を使うことによって見たいものしか見えなくなる状況とはどんなもの

特定SNSブロック機能を使うことによって見たいものしか見えなくなる状況というのは、特定SNS以外に人との関わりをまったく持たない場合が該当する。引きこもりかつ同居の家族と会話しないかテレビラジオ新聞書籍広告などの情報源を利用しないか特定SNS以外でインターネットを利用しない場合がそれに当たる。こんな状況はほとんどの人とは関係がない。

引きこもりかつ同居の家族と会話しないかテレビラジオ新聞書籍広告などの情報源を利用しないか特定SNS以外でインターネットを利用しない」という特殊引きこもり以外は、たとえ引きこもりであっても自分の見たい意見以外のものにも日常的に触れることになる。引きこもりは同居の家族と仲が悪い場合が多いし、たとえテレビラジオ新聞書籍広告などの情報源を利用しない引きこもりであっても、インターネットを利用するとき特定SNSだけやるということはあまりないだろう。多くの場合、各種ニュースやそれについての人々の反応といったものも嫌でも目にすることになる。特定SNSブロック機能を利用しているからといって自分の見ているインターネットから自分の気に入らない情報を完全に排除することはまずできない。

したがって、特定SNSブロック機能を使うことによって見たいものしか見えなくなる状況について想定することは可能だが、実際にはほとんどの人に該当しない。

特定SNSブロック機能を使うことによって自分人生において見たいものしか見えなくなる状況を作り出すのは困難である

引きこもりですら特定SNSブロック機能を使うことによって見たいものしか見えなくなる状況に居続けることは極めて困難であるので、引きこもりではない多くの人にとってはさらに難しくなる。特定SNSブロック機能を使うことは自分意見の異なる他者と関わらないことを即座に意味するわけではない。

多くの人は特定SNS以外にもインターネットを使っている。検索サイトまとめサイト雑誌新聞社のサイト趣味に関するサイト等々。特定SNSブロック機能を利用したところで、自分とは違う意見に触れる機会はインターネット上にも溢れている。

また多くの人はインターネット以外にも日常的にテレビラジオ新聞書籍広告などの情報源(のどれか)にも触れている。当然そこには自分とは異なる意見が出てくることもある。嫌いなジャーナリストや嫌いなタレントや嫌いな作家などが問答無用に何の断りもなく出てくる。

また多くの人は働いていて、毎日他人リアルに関わって生きている。毎日職場で嫌いな人間と顔を合わせ、駅では頭のおかし人間が暴れているのを目撃するし、地元のガラの悪いヤンキーがギャーギャーうるさくて不快になったりもする。

これらのことから特定SNSブロック機能を使ったからといって、即座に見たいものしか見えなくなる状況に陥るわけではないということがわかる。特定SNS自分の見たいものしか見えなくなるような操作をしたところで、見たくないもの自分人生から完全に排除できるわけではない。

なぜ「ブロック機能は見たいものしか見えなくなるから危険だ!」という主張が人気なのか

以上のようなことは考えなくてもわかることで、いちいち長々と説明するようなことではない。問題はなぜ「ブロック機能は見たいものしか見えなくなるから危険だ!」という主張が人気なのかということだ。

世の中では単純でわかりやすく痛快なものは人気になりやすい。「ブロック機能は見たいものしか見えなくなるから危険だ!」という主張もまたそういった風潮を反映したものだと言える。意見の異なる他者との関わりの頻度はイチかゼロかという問題ではなく、実際にはグラデーションになっている。特定SNSブロック機能を使うことが即座に意見の異なる他者との関わりが皆無であることを意味するわけではない。しかしこういう主張をする者はあえてそこを無視して極端に語る。「最終的にはこうなる」「ディストピアだ」と。

これは楽しい空想思考実験であって、地に足のついた議論ではない。人は常に意見の異なる他者と関わっているわけでもなければ、意見の異なる他者とまったく関わらないわけでもない。特定SNSブロック機能を利用したところでそれは変わらない。特定SNSブロック機能を利用すると当該SNSにおいてある程度自分の見たくないものも見えてしまう状況を軽減することはできるが、それは自分人生においてある程度自分の見たくないものも見えてしまう状況を排除することを意味しない。

ブロック機能危険性について主張する者は特定SNS人生のものを同じものとして扱っているように見える。しかしこれは極端な話だ。特定SNSというのは人生におけるほんの一要素でしかない。彼らは一部を全体であるかのように見せかけているわけだ。だがそういった操作に心地よさを感じる人が多いのだろう。想像力の羽ばたきといったもの快楽からだ。

人間想像力は即座に「最終的にはこうなる」という状況に飛躍することができる。「特定SNSで見たいものしか見ない人は人生においても見たいものしか見なくなっていくだろう」「自分意見の異なる他者排除するようになるだろう」「皆が排除におびえるようになるだろう」「皆が他人に気に入られるような言動を心がけるようになるだろう」「社会は窮屈になるだろう」等々。たしか想像力は突き進む。しか現実理論通りにはいかない。現実合理的ではないし、様々な思惑が入り乱れて予期せぬ結果を生む。最後まで突き進むたくましい想像力というのは実を言えば想像力の欠如と同じことなのだと思う。最後まで突き進むたくましい想像力は十分に想像力がないため、現実を図式化し、簡略化し、それで計算のすべてが間に合うと思い込んで次の段階に進んでいく。しか現実簡単な図式による簡単計算では間に合わない。

問題なのは簡単な図式による簡単計算を好む人が多いということなのだと思う。なぜなら地に足のついた議論をするのはめんどうだからだ。空理空論を楽しむ論者というのは「大体こんな感じになるよね? それってやばいよね?」こんな感じである。そしてこういった議論もどきが読者に好まれる。わかりやすく痛快だからだ。しかしそれはエンターテインメントであって、責任ある大人議論ではない。「大体こんな感じになる」は大体そんな感じにはならないのだ。

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