はてなキーワード: 単純化とは
例の日本赤十字社のポスターの件について、できるだけ冷静に考えてみたい。
SNSでの反応を見る限り、多くの人が感情的になっているようだし、それぐらい繊細な問題だと思うので。
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まず、そもそもこういう図象への評価に関して、黒か白か、というのはほぼ存在しないはず。
「これは多くの人が不快に思うだろう」
「これは不快に思う人は少ないかもしれないが、マイノリティの方が不快に思うかもしれない」
「これは多くの人が不快に思わずマイノリティへのケアも十分だろう」
これはアウトかどうか、NGかどうか、という思考で考えては、あまり議論は発展しない。
しかもコンテンツの作品背景は、公的な場所に出ると、共有されない。
いくら「そのキャラはそんなキャラじゃないんだよ」と言っても、一定数それを共有できない人がいる。
だから、結局は、
・作り手の意図はどうか、
・構図やメッセージはどうか、
その意味で、町山智浩さんの言うような「キャラ単位」での是か非か、というのは繊細さに欠けている。
同じキャラクターであっても、「OK寄り」のこともあれば、「NG寄り」のこともありうる。
たとえば、今回の「宇崎ちゃん」にしても、こういうカットだったらどうか。
https://ameblo.jp/imomochi895/image-12491865257-14496415971.html
・少なくとも、胸が強調されるような構図にはない、ように見える。
・女性が主体的に発言しているカットで、女性を客体化しているかどうか、という点に関してもクリアしている、ようには見える。
「かもしれない」と歯切れの悪いことを書いているのは、それですら世に出す前に、複数の人が議論したうえで出すべきものだと思うから。
・たしかに、胸が強調され、そこに視線が向くような構図になっている。
・しかも、表情が、(キャラの作品背景を共有しない人にとっては)男性に媚びている、ようにも見えるかもしれない。
という点で、「NG寄り」だとは思う。
だから、このキャラはOK、このキャラはNGなの? という議論はあまり意味がない。
ワンピースのナミだって、「OK寄り」であることもあれば「NG寄り」なこともあるだろう。いくら作品の中でナミが主体的に振る舞う強い女性であったとしても、構図や文脈によっては、その背景を知らない人にとっては、客体化されたような存在に見えてしまう。
・水原希子は、媚びるような表情をしておらず、主体的である、ように見える。
・構図的にも、胸を性的に強調しているわけではない、ように見える。
という点で、「OK寄り」だとは思う。
が、この表現を「掲出する場所」によっては、反感があることも想像できる。真っ向から否定する人がいてもいいと思う。そこはまったくの自由。
ただ、現状の、広く共有されていると思われる規範に照らし合わせて言えば、小学校の目の前に大きく掲出される、ということではなく、売り場のある商業施設の圏内で掲出される、ということなら「OK寄り」と判断するのが個人的には妥当だと思う。
■
そもそも赤十字のポスターが世に出る前に、表現チェックがどれぐらいなされたのか、どうか。
それを掲載する媒体の考査において、十分な議論がなされたのか、どうか。
そこの点がクリアにされないまま、「セクハラという認識は持っていない」と表明した日本赤十字社はやや乱暴だ。
もちろん「環境型セクハラ」という言葉がバズワードになって、誰もが思いを詰め込めるブラックボックスのようになったこともあって、その意味でセクハラではない、と、それこそ送り手としての想いを詰め込んで回答したのかもしれない。
これほどの反響があった、のであれば、どこかに問題があったのかもしれない、送り手側が読みきれなかった部分があるかもしれない、少なくとも、もう一度吟味と議論を重ねてほしいと思う。
SNS時代、それぞれが生きている文脈は、かなり分断されている。みんなが共有する文脈、はなかなかのレアだ。だからこそ、従来以上に、表現を送り出すとき、様々な文脈を考慮して、絶えず吟味して、議論する必要があるのだと思う。
長々と書いてしまった。
この件について、個人的「快・不快」や「お気持ち」が目立ちがちでしかも「表現の自由」に議論がスライドしているように感じられ、さらには表現そのものが成立する背景の複雑さがどうも単純化されているように思われ、表現に関わる者として、ちょっと苛立ってしまったのだと思う。できるだけ冷静に書いたつもりだけれど、この文章にも苛立ち反感を覚える人もいると思う。
それでも。
なんだか表現することが息苦しく感じるかもしれないけれど、そんな現状の中でも、爆発的に共感されたりポジティブな衝撃を与える表現者はいてそんな表現者たちは、ものすごくパワーを与えてくれる偉大な存在だ。
布団から出られない程だった姉の鬱がやや寛解した頃、姉はシルバニアファミリーの人形でままごとをしはじめた。姉はシルバニアの赤ちゃんで、シルバニアファミリーの人形たちに世話される。シルバニアの人たちにミルクを貰ったり、「おしめ」を変えてもらったりしている。
俺たち家族も赤ちゃん返りに付き合わされていて、「うさぎのお姉さんからミルクもらったよ。スヤスヤ」みたいなLINEが昼間に飛んできて、「よかったねえ」とか返してる。虚無じゃないといえば嘘になる。
姉は認知症のようなものだと俺は思ってる。複雑な思考や状況に耐えうるだけの脳の能力が失われてて、残った脳の能力で体や意識を動かしてるから、幼児レベルに単純化したことしかできなくなってるんだ、と。
鬱になってから、姉は祖母にベッタリで、逆に両親の悪口をよく言うようになった。俺たちの親は離婚している。姉は特に問題なく平気そうに振る舞っていたが、実はずっと悲しかったんだろうな。親の離婚と受けたダメージについて、毎日、祖母に泣きついているらしい。ここがサビだから同じこと何度も言うけど許して、みたいなツイートをおもいだして、これが姉の人生のサビなのかとか思うと辛い。もっと楽しいこととかあったじゃんって。忘れちゃったんかね。
祖母が元気なうちはいいが、彼女もいつ倒れてもおかしくない年齢だ。そうすると姉は社会福祉施設か何かに行くしかないと思う。どんよりする。
https://www.nikkei.com/article/DGXMZO50356620Y9A920C1CZ8000/
> 大学入試センターから民間試験の成績の提供を受けられないようにする措置
これは「ペナルティー」ではないのでは?
「使いたい」と思っているわけではないのだし.
すべての大学(国公立大学.私立大学)が2020年度の入試で民間試験を使わないと宣言したら,
とりあえず2020年度の入試についての問題はだいぶ単純化される.
あとは2024年から民間資格・検定試験に一本化というのが延長されれば良い.
「民間試験を使わなかったので,補助金停止」が後付で来るリスクを選ぶか,
「民間試験を使うことにしたので,受験生が減った」となるリスクを選ぶか.
試験を準備する側としても,何人の受験生が受けるのか分からなければ,対応が難しい.
当然の措置のように思う.
例の国連で泣き叫んだ白人リベラル欧州少女だけど、リベラルの悪い所を全て煮出したような感じだった。
・感情的ですぐ怒る
・子供とか少女とかそういうアイコンを偶像化して政治に利用する
・全く科学的ではない
・多様性を認めない
理由は国連がそういうダメリベラルに牛耳られており、まともに相手されないレベルまで権威が落ちつつあるからだよね。
彼女のスピーチの内容は、はっきり言って、40代のキモくて金のないおっさんが言ったら100%無視されるレベルの内容。
全く内容もない、新しくもない。ただキレ散らかしてるだけ。Twitterの放射脳でもいえるレベルの内容だ。
富裕層でありながら、経済発展を否定している。富裕層ならば経済発展を否定して経済が衰退しても耐えられる。
腹いっぱいに自分たちだけなって、もういらないというのは卑怯だ。
しかも彼女のスピーチには複雑な世界情勢を全く理解しようという素養がない。
計算した温暖化ガス排出量をこのパフォーマンスにかかった分、計算したら普通に来るよりも多いというお粗末。
まったくもってばかげている。
完全に馬鹿げている。
(※匿名ダイアリーの仕様の為、リンクを一部省略)下心コーデ #漫画 #オリジナル#オリジナル漫画#下ネタ#デート服#エッセイ漫画#実話#レポ漫画#コミックエッセイ#実録https://t.co/vDzYD8lWRN pic.twitter.com/QWahQsQXMn— オノデラユズカオ🎩 (@yuzukaO_o) September 19, 2019
このマンガの、ベスト着用シーンに「ダサすぎる」「どこで売ってるんだ」という意見が多数出ていた。
男の俺は、とくに違和感ないな、と思ったのだが… それにしても、ここまで単純化されたデザインでダサい判定を下せるものなのか。
しかし検索してみると、確かに似たようなベストは見当たらない。肩幅が広い、胸元がガッと空いている、裾がブカブカで長い… ひょっとして女性はジャストサイズで服を着ないのだろうか? どの服も典型的な形から、どこか外れている。色や素材に加えて形状までも多種多様なのに、一部に地雷が含まれていて外からのバッシングが容赦ない。女性のファッションは辛そうだ。男はRPGの装備みたいにジャストサイズのを組み合わせれるだけで基本はセーフなのに。
現役レフリーが答える
ボールを前に投げてはいけないとかトライで5点とかそういうのは全然わかるんだけど
アドバンテージはラグビーの「継続性」を根拠に運用されている。
これが他のアメフト、野球などのスポーツと違う所であり、大きな魅力でもある(プレーヤーは大変!)
例えば防御側のチームがズルをして、攻撃側のプレーを遅延させたとする
この時、レフリーがすぐ笛を吹いて攻撃側のチームにペナルティキックをすぐに与えると、試合を一瞬中断することになるので、せっかくの継続性が損なわれてしまう
そこで、防御側の反則後も一度攻撃側にプレーをさせてみて、そのまま有利にプレーできれば防御側の反則は無視し、有利にプレー出来なければ反則の地点に戻すことで、できるだけ継続性を保とうとしているのがアドバンテージの役割
サッカーはゴールにボールを蹴り込むスポーツで、ほとんどのルールはそれを元に理解できる。
オフサイドだってサッカーを面白くするための工夫だと思えば理解できる。
バスケもゴールにボールを入れるスポーツで、そこから派生したルールだから理解できる。
野球はちょっとややこしいけど、基本的にはバッターが一周すると点が入るゲーム。
それを元に理解すればだいたいわかる。実はバットで打つのはおまけなんだと理解する。
ボールを相手の陣地の奥底まで運んだら得点が得られるシステムになっている
だから、「いかにボールを自分のコントロール下に置きながら、前にすすめるか」がラグビーの基本原則
これは、ラグビーの起源のフットボールが相手の陣地にボールを押し込むお祭りであることによる(サッカー中にボールを持って走っちゃった少年は起源ではないらしい)
トライするのが目的だとしても、キックでも点が入るし、スクラムを理解できない。
ラグビーは元々ゴールポストの上の部分にキックをしてゴールをすることだけで"しか"得点できなかった
トライをすると、その後ゴールキックをする挑戦権を得るから、トライはトライと呼ばれていたらしい
後に「これだとキックが上手いチームばっかり勝つし、点数が全然入らなくてつまらない!」となって、トライにも点数が与えられるようになった
元々キックによる得点はペナルティキックでもトライ後のキックでも一律で3点だったのが、トライに点数が与えられるようになったことで、バランス調整でトライ後のキックは2点に格下げされた
ちなみに、ラックで手を使っては行けないのは、ラグビーの起源がフットボールだったから
よく考えたら二種類の方法で点が入るスポーツって他にある?ややこしさの原点な気がする。
アメフトはややこしさを得点方法だけに単純化して成功したんだろうね。
とにかくトライかキックで点を入れればいいんだもん。わかりやすい。
ワールドカップ始まるけど、やっぱ試合見ていて納得できないシーンが多いし
観戦している人はみんな腑に落ちてるのかな。割り切ってみているんだろうけど。
ではなぜこんなにルールが難しいかというと、ラグビーは慣習法に則ってルールが決まっていってるから
バスケットボール、ハンドボールなどは、ルールを元にゲームが定義されるので、原理原則が頂点に来る
しかし、ラグビーは元々お祭りだったものをなんとかスポーツにしようとルールを作っていったので、「ラグビーってこうあるべきだよね」という思想が頂点にある
だから、未だに欠陥だらけのスポーツで、どっかのチームがルールの穴を突いたプレーをすると、その穴を埋めようと毎年新しいルールが追加されていくのでツギハギだらけのルールになってしまったのである
ルールとは離れるが、
ボールを前に投げてはいけないとかトライで5点とかそういうのは全然わかるんだけど
アドバンテージでやり直したり唐突にスクラムが始まったり意味が分からない
平たく言うとなぜそうなるのかの合理的な理由がわからなくて、納得できない。
サッカーはゴールにボールを蹴り込むスポーツで、ほとんどのルールはそれを元に理解できる。
オフサイドだってサッカーを面白くするための工夫だと思えば理解できる。
バスケもゴールにボールを入れるスポーツで、そこから派生したルールだから理解できる。
野球はちょっとややこしいけど、基本的にはバッターが一周すると点が入るゲーム。
それを元に理解すればだいたいわかる。実はバットで打つのはおまけなんだと理解する。
隙を見て走るのが本質で、そう考えたらタッチアップも第4のアウトも理解できる。
他のスポーツもだいたい基本を押さえたら理解できるのにラグビーだけはさっぱりわからん。
トライするのが目的だとしても、キックでも点が入るし、スクラムを理解できない。
ラックで手を使ってはいけないとかも謎ルールだし、だから試合中も「?」っていう状況が多々発生する。
ペナルティキックは3点で、トライ後のキックは2点だし、なんか腑に落ちない。
よく考えたら二種類の方法で点が入るスポーツって他にある?ややこしさの原点な気がする。
アメフトはややこしさを得点方法だけに単純化して成功したんだろうね。
とにかくトライかキックで点を入れればいいんだもん。わかりやすい。
ワールドカップ始まるけど、やっぱ試合見ていて納得できないシーンが多いし
観戦している人はみんな腑に落ちてるのかな。割り切ってみているんだろうけど。
実際のそれっぽくみえる行動だけで政治的イデオロギーを判断しているし、
本人からそれを聞きたくないの?
人間は思想は変遷していくんだから、過去の発言は過去の発言程度にしかならない。
ぶっこぬきの犯罪者だって? それを掲載していた各メディア側の責任はどうなる?
現在の展示も中止にした。
で、それからどうしてもらいたいのさ?
そのほかの展示物については気にしないのか?
気にならないのか? とりあえず祭りに乗って批判している人たちは
自分が政治家、運動家の拡声器として利用されている自覚あるのか。
結局無責任な発言だけして、それに乗っかっていたっぽい過去の上司の行動も大人気ない。
正義面してやっていることは報復じゃん。いい大人が何やってのよ。
どっちが擁護すれば、右派左派とか決められるものでもないし、作品に関する個人的な感想でも同様。
物事を単純化したり、とにかく答えを早急に求めたりしすぎなんだよ。
表現の自由とか不自由とか、それ以外の話を持ち出して風呂敷広げて結局わけわからんなくするよね。
で、ワンイシューで怒っている人たちに利用される。
今回の件とか吉本反社会問題とかで政治家の口出しが早すぎて、風呂敷が広げすぎているけど、
で結局どうしてもらいたいのか言えばいい。
実際のそれっぽくみえる行動だけで政治的イデオロギーを判断しているし、
本人からそれを聞きたくないの?
人間は思想は変遷していくんだから、過去の発言は過去の発言程度にしかならない。
ぶっこぬきの犯罪者だって? それを掲載していた各メディア側の責任はどうなる?
現在の展示も中止にした。
で、それからどうしてもらいたいのさ?
そのほかの展示物については気にしないのか?
気にならないのか? とりあえず祭りに乗って批判している人たちは
自分が政治家、運動家の拡声器として利用されている自覚あるのか。
結局無責任な発言だけして、それに乗っかっていたっぽい過去の上司の行動も大人気ない。
正義面してやっていることは報復じゃん。いい大人が何やってのよ。
どっちが擁護すれば、右派左派とか決められるものでもないし、作品に関する個人的な感想でも同様。
物事を単純化したり、とにかく答えを早急に求めたりしすぎなんだよ。
表現の自由とか不自由とか、それ以外の話を持ち出して風呂敷広げて結局わけわからんなくするよね。
で、ワンイシューで怒っている人たちに利用される。
今回の件とか吉本反社会問題とかで政治家の口出しが早すぎて、風呂敷が広げすぎているけど、
で結局どうしてもらいたいのか言えばいい。
よくアニオタは「ドラマは俳優の演技力が無さ過ぎて見てられない、でもアニメは違う」と言うけど
「アニメは絵が下手過ぎて見てられない」にはならないの?
いや、好きな漫画がアニメ化したというから見てみたんだけど(ちなみにそのアニメも評判は良いみたい)
原作と比べて明らかに絵が手抜き&下手(原作の緻密な絵をそのまま動かすのは無理だから単純化するのは仕方ないが)だし
絵の動きも無さ過ぎてアニメ感が薄い。
歩いてるシーンで足が動いてるのを描きたくないから上半身だけ上下に揺らして歩いている事を表現、とかやってるのがあからさまで
動かなくても絵さえ綺麗なら見れたかもしれないけど、絵も上記の通り別に綺麗じゃないし、
声優の演技さえあれば良いと思えるくらい声優に興味ある訳でもないし…
普段見るアニメは映画か(子供に付き合って)キッズアニメだけだから、それらと低予算の深夜アニメ比べちゃいけないのは分かるけどさ。
描きたい内容を単純化しつつわかりやすい折り目をつけ、誰でもついていきやすい速度でありながら明確な変化を持って描かれる最大公約数的なストーリーテリング。画面を広く使いつつ視点を大きく動かさないようにする雄大なカメラワーク。日常と幻想の間に半透明の敷居を置き両者をはっきり区別しながら横へと並べる非連続的な非日常性。これがいい意味での細田守らしさ。
ショタコンにしてケモナー。自意識過剰なキャラクター。誰もが承認欲求に飢えているという断定の元に進む構ってちゃんストーリー。全てを自分の口で説明してしまう自信のなさ。ヒステリックさと寛容さの両極端。これが悪い意味での細田守らしさ。
未来のミライを面白かったと言えるかの全ては、細田守の悪癖、性癖、嗜癖を理解した上で、その発露を作家性として消費することが出来るかにかかっている。逆に、そういったものに対して一切無頓着に、ただ何も考えずに綺麗な映像が流れる2時間のパラパラ漫画だと思って鑑賞するかだ。
未来のミライには細田守の内面”だけ”が描かれている。”だけ”である。この映画は主成分が細田守なのではなく、すべての成分が細田守なのだ。全スタッフの労力、作業は製作の過程で全て細田守分として返還されてしまう。そこに慈悲はない。この映画は全力で細田守であり、それ以外のものが含まれることは認められていない。実際、この映画の制作にあたってスタッフに細田家のホームビデオが見せられたというエピソードすらある。スタッフが「家庭」というものに描くイメージを、「細田家の家庭」というイメージで塗りつぶし、他の家庭から異物を混入されることを防ぐ徹底した管理体制である。
甘えん坊でわがままで自分を認めてもらいたくてたまらない子供は当然細田守であり、彼の成長を通して鑑賞者から贈られる称賛を求めているのも細田守自身なのだ。彼が作中では徹底して直接その苦しみを認められることがないのは、そういうふうに世界を見る細田守が細田守の中に居るからである。電車好きである点などは細田守の実子がモデルとなっている。彼にとってこの映画は自分の子供が成長する姿を通して「かつて自分が子供だった頃に成長したことを客観的に見ることになった」という事実を描いたものでもあるのだ。ケモナー成分を取り込んだりハチゲームでクネクネしていたりと(ショタコンケモナー向け)サービスシーンも多く、彼が主人公であるということは、細田守にとってはケモナーやショタコンであることが自己同一性の核であることを示す。
客寄せパンダとして使われまくったのに、出てくるシーンは意外と少ない。未来という名前、赤ん坊であること、婚期を逃すことを気にする発言、最終的にくんちゃんに血縁上のつながりを思い出させる役目、これらの要素から「男女の関係によって子孫を残すこと」のメタファー、ひいては「(ショタコンではなく)普通の人間として生きること」のメタファーであることが伺える。同時に「世間で受け入れられ、未来に繋がる作品」のメタファーでもある。最初にキャッチコピーとして登場し、最後のクライマックスにおいてただの細田守回顧録であった映画を一般向けの娯楽映画へと引き戻す役目を追っていることからもこれが分かる。
仕事人間であり、子供の親でもある細田守。一般的役割に対して性別が反転しているのはジェンダーフリーというよりも、それぞれに細田守に繋がる要素をもたせることで、どちらもを細田守にするためである。時折ヒステリックなのも妙に余裕ぶってみせるのも、自分たちが変わってきたと殊更に言うのも、全て細田守の独り言なのだ。
オスケモ。王子だったという発言は、細田守の中で最も大事なものがケモナー性癖だったことの暴露である。それにかつてという言葉をつけるのは、今の自分はそれを卒業したという自負である。
ホモホモしい外見、言動、であるのだがそれがハッキリと語られることはない。ここまで赤裸々にショタコンもケモナーも自己開示してきて、それをあえて語らないのは、細田守の中において自分のホモセクシャルへの興味がまだ疑問の残るものであるからである。逆に言えば「それすらも」赤裸々にスクリーンに映し出したのだ。
上で述べたようにミライは『普通の家庭』や『世間一般の価値観』のメタファーであり、それが細田ハウスに持ち込まれるのは、ショタに興奮だけしていればよかった世界の終わりを意味している。ミライファーストの生活を否定する姿は、一般向け要素を散りばめた映画を作らされてきた細田守の姿である。その中で雑な反逆に出ては怒られる。悪い意味で細田守らしい映画を作ってきたことへの反省と、それに対する怒りが描かれる。『自由にショタでケモいアニメだけやらせてくれ』、くんちゃんが繰り返すミライ否定発言はつまる所こういうことなのだ・
『雛人形を毎年1日ずつ出し続けていたら1年ずつ婚期が伸びる』という会話は、ずっと結婚できないということを意味している。それを片付けてミライちゃんが未来で結婚できるようになった。これは、細田守が自分の中で幼少期から積み上げてきた結婚感を今一度棚卸しして、普通に恋愛をして普通に結婚をする人生を受け入れたことを意味している。作中に置いて、未来ちゃんが過去にやってくるのは、細田守の中で過去の細田守と共に今の細田守が気持ちの整理をつけた経験を描いているのだ。そこに犬が加わっている理由は、それが彼の性癖に置いて重要な意味を持つからである。普通に見ていると何がしたいのかわかりにくいシーンも、このように整理していくと理解できる。これが未来のミライの面白さだ。
これもうそのまま細田守が自分の親に対して「心の中で」やっていたことです。自分が親になって子供を持つ身となってそれで子供の頃の両親の大変さとか知って感謝してーっていうアレです。そのままかよ!そしてその中で全部セリフにしちゃうのかよ!このシンプルさ!観客への信頼の無さ!そして自分の表現への自信の無さ!これもまた細田守なんですわー。自分がちゃんと愛されているか不安だとそのまま口にするのは、自分の映画がちゃんと観客に伝わっているのか不安だっていう宣言でもあったりするわけで。メタいぜー。
ホモホモしいアンちゃんとの初体験。遠くを見据えろと語られるが、そのさきに見えるのは廃墟。この道の先に未来はない。細田守も分かっている。ショタコン一本では子孫は残せない。アニメだって歴史に残らない。分かっている。分かっているけど、そうして進んだ先で結果を出したのが今の細田守だろ?そんな叫びが聞こえてくる。補助輪無しで突き進むには、遠くに廃墟を見据えなきゃいけなかったんだ。そうしてバケモノの子が生まれてしまったんだ……。
自分を見失ったとき、戻ってくるためには家族の名前を呼ぶ必要がある。自分に流れる血の繋がりを思い出す必要がある。そして、そのためにはミライを認める必要がある。ミライは「普通の家庭」「普通の価値観」のメタファーであり、自分がそれと深くつながっていることを認めることが、自分を取り戻すためには必要だと、最後の最後で認めることになる。途中からひたすらショタキャラメインで妙な話ばかりしていた映画が、ここで突然なんとも一般受けしそうなキャラと共にさもストーリーがしっかりとある映画であるかのような物語へと戻っていく。細田守の敗北宣言だ。人間としての細田守がここにいるには、彼の父親や祖父がショタコン一本で通さなかったからである。映画監督としての細田守がここにいるのは、デジモンやサマーウォーズといった一般向けに迎合した作品を作ってきたからである。自分が今ここにいるなかで、ケモナーであったことや、同性愛的な面を抱えていたことはたしかにあったが、それでも『普通』を受け入れてきたからだ。そう認めることで、見失っていた自分は取り戻される。そして、和解は結ばれた。ケモノやショタへと一度は預けられた細田守界の王位継承権は、最後には『普通の未来』へと託された。
凄まじい映画だった。「作家性の塊」と呼ばれる映画はいくらでもあるが、純度99%作家性の劇物はそうそうはないだろう。アニメ映画というと娯楽作品ばかりで、文学性や哲学性を謳っておきながら結局は娯楽作品に片足と重心は置きっぱなしにした作品ばかりな中で異彩を放っている。そんな世界にこんなものが現れたらそりゃ受け入れられないだろうな。ましてそれを作った人間の最大のウリ文句がサマーウォーズや時をかける少女なんていう痛快娯楽一般層向け作品なら。サマーウォーズや時かけ期待してこれ見に行ったら羊頭狗肉も良いところだって怒りたくもなるだろうな。
この作品には作家性以外を求めちゃ駄目なんだよ。日本の広告業界や映画業界はそれを頑なに伝えようとしなかった。そこは紛れもなくEVILだね。
ミライちゃんがただの客寄せパンダであり、その使われ方も「はいはいこのへんでパンダ投入すれば良いんだろ?」っていう態度で行われることに、細田守の中に渦巻いた鬱憤を感じ取ろうっていう気概を最初から持って見る分にはね、いい映画なんですよ。
そこは分かってあげて欲しい。
でも娯楽映画としては本当に駄目だけどな。俺はこれを娯楽として楽しむことは出来たけど、それは正しい意味での娯楽じゃなくて単に俺の見方が捻くれてて性格が悪いから娯楽に出来ただけだわ。素直な心の持ち主が素直に楽しめる娯楽映画を作った方が最大多数の最大幸福だよ。新海誠の君の名はと、細田守の未来のミライ。このコントラストはある意味美しいけどね。