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はてなキーワード: ポジティヴとは

2024-11-02

anond:20241102203322

それは男目線での見方でしょ。

ブックマークコメントの皆んなが女性の方を問題視してる意味が分からない。

元増田さんが提起した問題は 「男はどうしてダサいのか? 」。

2024-10-13

ルッキズムへの反撃が始まったことについて

Dove の広告

やった、ついにルッキズムへの反撃が始まった!

togetterブックマーク での批判は、反撃の第2手目だと思う。

https://b.hatena.ne.jp/entry/s/togetter.com/li/2446611

初手をブラッシュアップするための材料が揃った。

とくに。

このコメントガツンと来た。た、確かに・・・

花屋の店先に並んだいろんな花は(品種改良され、温室で育てられ、形の良いものが選別され、萎びたり虫がついたら捨てられるので)どれもみんな綺麗だね


第3手目はどうすればいいだろう。

Dove の流れに乗って、具体的に何をすればルッキズムに対抗できるだろうか。

2024-09-01

『外向型言語化』と『内向型言語化

最近作品感想言語化することのが重要視されてる気がする。

言語化自体大事だと思うけど、どうも一緒にされたくない連中がいるので以下のように区別したい。

外向型言語化

感想他人に向けて発表するための言語化

SNSコミュニティ内でのファン活動目的としている。

自分は楽しんでいますよ」というアピールに使われ、コミュニティ内での承認欲求に端を発する。

内向型言語化

自分が感じたことを自分の中で体系化するための言語化

作品の何が良かったか・悪かったか分析であり、必ずしも作品に対してポジティヴな内容ではない。

言語化したこと自分が良い作品を探すための基準に用いたりする。

2024-07-01

anond:20240701224121

追い風を吹かせるのはいいだろ、逆風はダメだが。

女が理系に進みづらく将棋棋士かにもならないのって、逆風があるからだろ?

男がするようなことをしてるぞ! と世間に言われる逆風がイヤだから。違うかい

だけどAV女優に憧れるのは追い風ポジティヴエネルギーだ。

女の子AV女優になるかならないか自由選択できる。

2024-04-09

anond:20240408144402

ブコメにもあるけど、「内燃車にはできないがEVにはできること」の訴求がないのよね。

今までのガソリン車はそうやって新車種の魅力を訴求してきた。

「四駆は悪路・雪道に強い」とか。

ステーションワゴン荷物がたくさん載る」とか。

ワンボックスは車内が広い」とかね。

ランニングコストエネルギーだなんだの話は、大事ではあるけれども、クルマを買う人にとってわりと二次的なファクターという気がする。

クルマを買おうとしてる人って、もっと「そのクルマを買うと生活がどう変わるか」「どんな楽しみが増えるか」みたいな「夢」を一緒に買おうとしてるんだよね。

動けばいい、生活の足にさえなればいいという人も多いだろうけど、そういう人は軽を買うでしょ。

ライフスタイルポジティヴな変容を期待させるようなEVならではの何かが、EVにはないんだよね。動力電気になるだけ。

どっちみちユーザー動力クルマを選ぶわけじゃなくて、自分の使い道にいちばんぴったりなクルマを選ぶ。

なので、EVちゃんとフルラインナップして動力意識させずにユーティリティで選ばせるようにしないとEVは売れないと思う。

2023-09-03

弱者男性、いつからヴェノムに?

最初差別論に見過ごされてる可哀想属性、くらいの意味だったと思う。

綺麗事正義じゃ助けられない弱い男たち。

なのに最近じゃ意味が変わってきてる。

暇を持て余してミソジニーを発揮しまくる邪悪底辺男性、みたいな扱いじゃないか

無敵の人から勇気ニュアンスマイナスして性加害者の要素をプラスたかのような。

女性に話しかけた時点で怯えさせると分かってるのに、関わりたくて仕方がない暴走ミサイルのような。

フェミニストに唾を吐きたいためだけに、性的消費して何が悪い、などと開き直るミソジニスト

公的な場でタテマエだけでも取り繕うとはしない自他境界のない人たち。

強者男性の自制心や品格を学ぼうとはせず、心理的安全性を減らされる女性立場を慮ろうともしない。

そんなパブリックイメージに——昔でいう、池沼DQNのごときポジション仮想社会悪に——置き換わろうとしてる。

私は、ここで大々的に、「弱者男性で良かった」「弱者男性はこんなに良い」大会を催すべきだと思う。皆んなで悪くなったイメージを転換すべくポジティヴキャンペーンを計るんだ。

コメント弱者男性の良さを表わすエピソードを紹介してくれ。自薦他薦は問わない。

2023-06-13

anond:20230613112007

うーん…

かに体型カバーメイクの考えだからセルフケアだろってのは説得力があるが…。

ジェンダーレス水着 = ボディポジティヴ

まぁ、そうなのかも知れん。

anond:20230613104951

逆逆ゥ‼︎ ジェンダーレス水着はボディポジティヴのものなの

男女関係なく長袖で肌を覆って体の凸凹を目立たなくする

ジェンダーレス水着は、大人たちの99%が諸手を挙げて絶賛してて

あの頃欲しかった… って言ってる人も多いのよ

批判してるのはスク水揚げで喜ぶようなロリコン男だけ

彼らは子ども達を性的まなざしたい一心レガシー水着に執着してる

でも当の子ども達も間違いなく喜んでるのは彼ら彼女らの自尊心が低いせいじゃない

自分の毛深い素肌とか肌アレみたいな、あるいは肥満のような悩みは人間から仕方なくて

好奇の目に晒したくないんだから、だったらカバーしましょうってそれメイクの考え方と同じ

身体の悩みに真剣に向き合ってる証拠だし、つまりセルフケアなのよね

ずっと昔はロールプレイングゲームとかでビキニみたいなスカスカの防具があって

今は批判されてるのって戦闘なのに無防備なチグハグさがあるから

自分の体と性を大切にしたいんだったら武装はマシマシにするはずでしょ

自尊心が高いなら当然出てくる考えがボディポジティヴで、いまの子はそれをしてるだけ

昭和とか平成とかとは違って自分第一優先で考える自己肯定感の高さが備わってるから

まわりから要求される振る舞いには相変わらず振り回されるのは社会から不可避だけど

それでも、まずは自分気持ち第一でいい、余裕があれば皆んなに合わせようと考える

多かれ少なかれ、そんな優先順位プリインストールされてる、いまの子全然違う

2023-03-07

ちんこもいだ勢その2から

https://anond.hatelabo.jp/20230306222721

同士よ!

ちんこもいだ勢としてこの流れに乗って一言言いたい、と思ったけれど、大体のことはもう言われていたよ。

元増田にもある通り、SRSそれ自体もさることながら、その前段で「ちんこもいでいいよ」紙を貰う手続き、立証するための社会生活とかが色々大変だった。

まだ戸籍も変わっていない、場合によっては名の変更もしていないのに「これで行けてます!」という実績を作らないといけないので、かなり厚顔無恥に勢いでやらないと厳しい。

既にキャリアがある人とか人間関係を大切にしたい人にはより大変。

わたし場合、一回人間関係をぶった切ってバイトから猛勉強して別世界に入り、色々な人に嫌われながら何とかこぎつけた。

勉強したことは役に立ったけど、色々無理言ったのでその当時のわたしを嫌いな人は多いと思う。申し訳ございませんでした。

SRSしたって特にMtF場合身長やら肩幅やら細かいところで「そういう人」っぽいケースはあり、別に苦労が全部なくなるわけでもない。

まぁ結婚はしやすくなるけど(わたしは既婚)、それはそもそも同性婚を認めれば良い話。

公衆浴場とかの話がよく出るけど、わたしSRSして戸籍が変わっても原則そういうところには行かない。

家に風呂がないなら仕方ないけど、温泉やら頑張って行くところかね? トラブル可能性がちょっとでもあるなら避けたい。

実際上、公衆浴場のようなわかりやすいケースは社会生活の中のごく一部で、そういう極端な場面、極端な(向こう見ずな)人を想定して議論するのは建設的ではないと思う。

猟奇犯罪者を前提に社会全体を設計するようなもので、そういう人はたしかにいるし備えも必要だけど、世の中のほとんどは猟奇犯罪的には動いていない。

まぁ、線引きが要るというのはわかるし、最近有名人発言して叩かれたように、裸の付き合いになったら身体状態とかが基準になるのも仕方ないかな…と思うけど、ほとんどの場面はそうじゃないし、広く考えて欲しい。

ちなみにFtM場合ホルモンで大きく変わるので顔つきや声の完成度は高くなるけど、逆にSRSが大変でメリットも少ない。彼らにSRS絶対条件として課すのは酷だと思う。SRSなしでも大体出来上がるので、「事故ちんこなくなった男性」として扱うべきだと思う。

話がズレるけど、わたしの長きにわたる「そういう人」暮らしで、日常生活仕事や近所付き合い)であからさまな差別を受けたことはほとんどない(陰では色々あるだろうけど)。

さして教養のない人との付き合いが主だけれど、そういう人は意外と無関心というか、結構普通

面倒くさいのは文化人とかインテリの類で、「ボクは理解がある人」みたいのがやりたい人。

ゲット・アウト」という黒人差別を扱った映画で、「これからは黒い肌の時代だよね」みたいなことを言う白人とか、一見するとポジティヴでおそらく本人は好意と信じて言ってくるヤツがめちゃくちゃウザいのだけど、そういうタイプの「インテリ」が本当に不快

デブに「太っていてもいいじゃないか!」「ボクは太っている女性が好き!」と言って良い人間関係が築けると思ってるのかな(思ってるんだろうな、恐ろしいことに!)。

他人のことは放っておけよ。

ちんこもいだ勢その2から

https://anond.hatelabo.jp/20230306222721

同士よ!

ちんこもいだ勢としてこの流れに乗って一言言いたい、と思ったけれど、大体のことはもう言われていたよ。

元増田にもある通り、SRSそれ自体もさることながら、その前段で「ちんこもいでいいよ」紙を貰う手続き、立証するための社会生活とかが色々大変だった。

まだ戸籍も変わっていない、場合によっては名の変更もしていないのに「これで行けてます!」という実績を作らないといけないので、かなり厚顔無恥に勢いでやらないと厳しい。

既にキャリアがある人とか人間関係を大切にしたい人にはより大変。

わたし場合、一回人間関係をぶった切ってバイトから猛勉強して別世界に入り、色々な人に嫌われながら何とかこぎつけた。

勉強したことは役に立ったけど、色々無理言ったのでその当時のわたしを嫌いな人は多いと思う。申し訳ございませんでした。

SRSしたって特にMtF場合身長やら肩幅やら細かいところで「そういう人」っぽいケースはあり、別に苦労が全部なくなるわけでもない。

まぁ結婚はしやすくなるけど(わたしは既婚)、それはそもそも同性婚を認めれば良い話。

公衆浴場とかの話がよく出るけど、わたしSRSして戸籍が変わっても原則そういうところには行かない。

家に風呂がないなら仕方ないけど、温泉やら頑張って行くところかね? トラブル可能性がちょっとでもあるなら避けたい。

実際上、公衆浴場のようなわかりやすいケースは社会生活の中のごく一部で、そういう極端な場面、極端な(向こう見ずな)人を想定して議論するのは建設的ではないと思う。

猟奇犯罪者を前提に社会全体を設計するようなもので、そういう人はたしかにいるし備えも必要だけど、世の中のほとんどは猟奇犯罪的には動いていない。

まぁ、線引きが要るというのはわかるし、最近有名人発言して叩かれたように、裸の付き合いになったら身体状態とかが基準になるのも仕方ないかな…と思うけど、ほとんどの場面はそうじゃないし、広く考えて欲しい。

ちなみにFtM場合ホルモンで大きく変わるので顔つきや声の完成度は高くなるけど、逆にSRSが大変でメリットも少ない。彼らにSRS絶対条件として課すのは酷だと思う。SRSなしでも大体出来上がるので、「事故ちんこなくなった男性」として扱うべきだと思う。

話がズレるけど、わたしの長きにわたる「そういう人」暮らしで、日常生活仕事や近所付き合い)であからさまな差別を受けたことはほとんどない(陰では色々あるだろうけど)。

さして教養のない人との付き合いが主だけれど、そういう人は意外と無関心というか、結構普通

面倒くさいのは文化人とかインテリの類で、「ボクは理解がある人」みたいのがやりたい人。

ゲット・アウト」という黒人差別を扱った映画で、「これからは黒い肌の時代だよね」みたいなことを言う白人とか、一見するとポジティヴでおそらく本人は好意と信じて言ってくるヤツがめちゃくちゃウザいのだけど、そういうタイプの「インテリ」が本当に不快

デブに「太っていてもいいじゃないか!」「ボクは太っている女性が好き!」と言って良い人間関係が築けると思ってるのかな(思ってるんだろうな、恐ろしいことに!)。

他人のことは放っておけよ。

2023-01-06

日記

……三十歳で亡くなるように繊細で、厳しい感性を持つ、地球上のすべての女性に向けて……

prologue

時代場所次元を超えたマッシュアップ段落

 いま砕け散ったすべての彼ら彼女らの全員が、けっして自分以下ではなく、自分以上の精神によって成し遂げようとし、表面だけは目新しい今日という時間に内在している本質的にはポテンシャル可能性が縮小していくこの世界に生まれる喜びを相手取った、苛烈で、疲弊し、それでも均衡を取りながらも、ある一瞬のスキを付いて世界価値刷新しようと繰り広げる闘争の中でくずおれていったすべての魂たちを目撃したわけだが、この敗北のすべてに共通するものがあるとすれば、それは、目に見えないもの価値が、目に見えるもの価値に負けてしまたことを意味しているのだ。微調整

人生シンボル世界アレゴリー冒険(または旧式の劣悪的価値観を盲目に信奉し続けている中身の無い老若男女による日頃の盲従とその殺人——と殺される人間精神本来の豊かさの立体的構成について)

「“あたくしは、永遠にあなたを愛するという揺るぎのない強固な意志をもってます。“

 このうわべは月並文章を注意深く読んでみたまえ。[愛する]という言葉よりも、[永遠に]と[意志]という言葉のほうがずっと重要なのだ。」

問題は愛ではなかったのだ。不滅だったのである

ミラン・クンデラ『不滅』

1 - verse

 宇宙全体を満たす闇。実は、そこには光もまた満ちている。

 それは、真空であるために太陽の光を反射するものが無いことで、肉眼では感知できない光だ。地球では空気の粒子による反射によって、人間は光を認識出来るのである

 あなたがこれを読む前に抱えていた感情はなんだろうか。

 感情字面上では、喜びの対義に悲しみが、怒りの対義に笑いが記されている。しか実際問題として、この二つは同時に抱えることもある。なぜなら感情は、単一感情よりも、もっと多くの感情と連動しているからだ。

 映画を観た時に、小説を読んだ時には、その人物感情ひとつで考える私たちの把握能力には、いまだ未知の領域が広がっている。同時に抱えた感情は、いくつもが比例や反比例の連動的であり、また相対的でもある。

 人間存在することが1で、存在しないことが0であるならば、人間は産まれた時の1から0へと向かっていることになる。生きているという状態を前方向だとするならば、一日一日前へ進むごとに、死という後ろ方向へと歩んでいるという矛盾が内在している。

 そのように、史上空前の前向きさというものは、中途半端な前向きさの中にあっては、後ろ向きに進んでいるように見られてしまものである

 ジャンケンを心から面白いと思って行う者は、たぶん、あまりいないと思われる。僕は簡単に持ち出せるツールとして、ジャンケンを使っている。

 たとえばチョキの指の数が三本で、パーの指の数が四本で、グーの握り拳を半分の力で握るといったジャンケン2や、ジャンケンのその他のAnotherバージョンがあっても、それが最も面白いと思って行ってはいないことだろう。ジャンケンがこの世で最も面白いと思って満たされれば、ジャンケンよりも高次のもの発明する必要はなくなる。

 それと同様に、世の中の九割以上のもの面白いと思えなくなってから、この話は始まる。それはつまり物語面白いと思えなくなってからしかし同時に物語以外が面白いと思えなくなったところから始まる物語、でもある。

 トロフィーを獲得することを目指すのであれば、どんなに簡単ゲームソフトのゴールでも、トロフィーは獲得出来るのだ。

 人間の願いは、たった一つに集約出来る。と言うと、金や異性やその他諸々、人の数だけたくさんの夢があるだろう、とあなたは思ったはずだ。

 もったいぶっても仕方がないのであっさりと言ってしまうが、そのひとつの願いとは、自分が産まれてきてよかった、と思いたいのだ。もちろん、それは一瞬のことではない。なぜなら、その一瞬は、次のニ瞬目には覆されてしまうかもしれないという不安が、常に内在しているかである。これが現在という本質自体の中にある、癒すことのできぬ不完全性である

段落

 最初にどんな断りを置いたとしても、本来、こんなことは書きたくない。いつの世にあっても、本当のことを考えれば、好きな人からは嫌われ、嫌われるべき相手からは好かれ、招待状もなく価値を殺す人はやって来るし、招待状をいくら出しても価値を殺される人には届かないことだって多い。

 往々にして悪魔自分自身天使だと思い込んでいるものだし、天使は引け目を感じていつでも自分を捨てようと画策している。本当のことを追えばそれは自然哲学に近づいていき、でも僕は哲学者になりたくないし、哲学者が遺した書物に書かれているものSNSの内側では見られないものだし、ツイッターで流れてくるものではないし、マッチングアプリのコツでもないから、SNS基準である以上の思考が溢れることのない世の中で生きることは出来なくなってしまう。

 探検家にはなりたくないし、革命家にはなりたくないし、伝道師にはなりたくない。なぜなら、その肩書きという断絶によって精神の分断が発生し、無責任肥料が撒かれ、その土には何も育たないからだ。

 自分が変わらないように相手を変えようとするパワープレイの中にあって、お互いが同時に変わるという正解を見つけることなど難しい。

 日本人モラルの一つとして、危険を犯さないということを前提としている。だから、誰も言わなかったことは言えない。誰もやったことがないことはやらない。ああだ、こうだ、それはこうだ、と後からもっともらしいことを言う奴はいるけど、誰もやったことはないとか、誰も言ったことがないようなことを、言ったりやったりするということはない。

 日本では個性的なことをやると嫌われる。日本オリジナルなことをやったら協力者はいない。あらいいわねえ、と言われる程度の表現範疇しか成立しない。

 一般の人たちの芸術観は、ふだんはいろんな壁でもって遮られている。それが協力者たちのおかげで枠がサッとはがされて、みんなの心がひらかれる。しかし多くのことは、このようなプロセスを踏めないがために、人々の初歩レベルの心はひらかれることはない。もちろん、芸術という言葉は、人間存在のもののことである。なぜなら、命とは、生まれてきた(アウトプットからである

 今までの社会では、すべての人がそれをはっきりと自覚するまでにはいたっていない。しか自覚さえ持てば、そこには芸術がはじまるのである

 安心できたことのない世の中で人間精神に道をつくるような前進とは、感性を揺さぶらないがために波を立てることもまた無いといった類いによる社会権威のような安心ではなく、圧縮した密度を柔らかい感性で紐解けば空間を満たすことの出来るストリームの粒子を包んだものによって開いていくのである。なぜなら、安心できない世の中に対して、無風という誰からも嫌われなさそうな自己主張による社会人生流通権力は、結局、人間排除する社会の固さにひれ伏し続けているかである安心でさえ、安心の風が吹かなければならないからだ。

 たとえその時は無風であることに安心しても、その時を過ぎればまた窒息し、社会という強制参加で誰しもの元にいつもやって来る未来に対して、ほとんど勝てないギャンブルのような傷付き方をしているのだ。

 物語というのは、ガラスケースの向こうだけで収まり安心出来るもののことを言うのではない。作品の向こう側が物語であると同様に、作品こちら側こそが物語からであるあなた人生という言葉を使う時、その人生乾パンのようなすべてを削ぎ落とした最低限の生活イメージするだろうか。乾パン乾パン出会って、乾パン家族にでもなるのだろうか。乾パンに味は染み込まない。精神の荒廃の目配せをしながら、社会という徒党を組んで人間を捨て、不安払拭するのだろうか。普通とはなんだろうか、大人とはなんであろうか。それらは人間の外にあるのだろうか。そもそも日常という言葉欺瞞であり、それがあることで非日常が生まれ、それらはまるで交わることのない別の直線のように思い込んでしまうが、日常という言葉意味乾パンであるならば、DVをし続ける会ったことのない両親に税金という仕送りを送金し続けるためだけの頭数の数合わせである。そのために産まれた時からあなた脳内に刷り込まれ続ける、数々の人生認識を胸に抱きながら死を迎えることだろう、おめでとう。改めて言うが、人生とは全部である段落

段落

 芸術と名付けられた一系統の固さが残り、その人間がその時に立ち向かったであろう、作品を超えた形なきストリームの柔らかさは残らなかったのである。そして僕たちはそれと向き合ったときに、社会での自分をそのまま変えそうにないか不快ではない、として表面を見るのである

 今の時代からすれば、これは自分の部屋に飾れるくらいに、なんでもないかいいね。その状態にあっては、たいていの美術館は5分で出ることができる。それがいつでも時代限界だったのだ。段落改訂

 そして感性とは、思考と同じくらいに姿勢のことである思考がそれひとつであれば、姿勢というのはそれひとつの外にまで開かれているということだ。この両輪が表示するものは、画面いっぱいに並んだ細かい違いのパーツというよりは、パーツの持つ目に見えない特性である段落改訂

 そして、これこそがポテンシャルの方角を決める判断に繋がるものであるポテンシャルが無くても、ポテンシャルへの方角が合っていれば、前に進むごとにポテンシャルへと近づいていき、ポテンシャルがあっても、ポテンシャルとは明後日の方角を向いているのであれば、前に進むごとにポテンシャルは消えていく。段落改訂

段落

 趣味的だからだ。趣味というのは自己満足から、自他に挑んで自分自身を乗り越える、自分をも否定するということにならない。ちょっと面白いものをつくったり、変わったことをやるのはいても、¨遊び”と、”趣味”は違う。”遊び”と、”お遊び”は、むしろ正反対のものからだ。趣味危険を犯さない。自分によりかかっている。甘えてる気配がある。自分を敵としてやってない。強烈に自分と闘ってない。自分の好みに乗っかって自足してる。趣味に溺れるのではなく、自分と闘い、同時に他とも闘う。段落改訂

段落

 ほとんどがニューヨークパリ海外の国なんかで発表された二番煎じ三番煎じみたいなものが多い。何だこんなもの、と言いかけて、海外のどこどこの国ではこういうのが流行っている、と言うと、見るほうも、ああそうかというようなところがある。誰もやらなかったことをやるというのは、日本じゃ絶対に認めない。

 これは作品論で終わる話ではなく、この国で日々の思考を縛りつけている価値観のことである

 ゴッホ絵画生前には一枚も売れなかった、という話を引き合いに出すまでもなく、人々の自分に対する感覚の自信は傲慢であるしかし、人生理解出来てないのだ。1+1=2、1×1=1、納得した、僕が納得出来るってことは、これはいいものだね。しかし、IQ10の人間が納得することなど、IQ9までである。そして人生にたえず付き纏う問題の数式は、誰も解こうとしないのである。だが人生とは、往々にして1÷1=1程度には難しい。

 本番には使えないその練習で埋め尽くす時間の消耗とは、なに? 消耗が人生であるのなら、解決もまた人生である。この世で起こることのすべてが人生であるように、この世で起こすことのすべては人生である段落

 人間生活は、ほとんどのものを借りてきている。つまりは、全員が「借りてきた人間」だ。

 ピカソシステムだ、愛はシステムだ、お〜いお茶システムだ。このように、この世のすべてのものは「システムであるシステムは、名前が付いた瞬間から駆動し始める。このシステムを借りているのである

 システムそれ自体には、自己反省性や自己批判性が無い。日に日にすり減り、衰退し、レベルの低くなっていくパワーゲームが起こるのは、このためである。それはひとつの部類と部類の間にも起こり、ひとつの部類の中にある区分区分や、なにかとなにかでも起こる。この世に存在するすべてで発生する。

 イチローホームランを打つこともシステムである。観客は指先ひとつ動かさずに、ホームランを打つ感覚だけを、その時に借りてくる。システムには固体と液体が存在し、それを紐解くのが感性である。固体よりも液体の方が紐解きづらい。

 イチローホームランを打つ、ということにおいての固体は、バットボールが当たった、ということだ。そして液体は、バットの振る速さ、バットのどの部分に球が当たったのか、イチローのその試合までの日頃の練習、その時のプレッシャーなどである

 食べ物でいえば、ハンバーガーのものは固体であるが、ハンバーガー牛肉パテ一枚は液体であるハンバーガーには、何が挟まっているか。肉、トマトレタスピクルスソースなど、まだわかりやすい。それは固体だからである

 では、牛肉パテがどうかといえば、牛のどの部位の肉なのか、どのようにミンチにして他にも保存料などを混ぜるのか、あるいは冷凍する方法はどうかなど、液体なので難しくなる。

 飲み物場合であれば、それ自体がすでに液体であるいくら沢山お茶を飲んでも、お茶の葉の摘み方はわからないし、茶葉から抽出の仕方もわからない。

 そして肝心の乗り越えることは、紐解くこと、ともまた違う。乗り越える方法とは、決意である。つまり感性によって液体までを紐解き、それを決意によって乗り越えるのである

 もし感性によって紐解き、そして乗り越えなければ、借りてきた人間であるわれわれの精神はその借りているシステムに回収され、その枠内で縮小していき、ボーリングの球を投げる人間ですらなく、ガーターに落ちないようにレーンを直線に転がることを反復するボーリングの球そのものとなって、日に日にシステムは低次のレベルに向かって下降していく。

 世界の見え方は、ひとりひとりの感性による紐解きによって見えるものである遠近法パースペクティブ)は、人によって異なるということになる。

 実際にあるものよりも多くの秩序を想定してものごとを単純化したり、大きな衝撃からとても些細な衝撃までとにかく様々な衝撃によって人間は多くのものごとを見落としてしまったり、個人が持つ関心や愛好の傾向によって視野が狭められてしまったり、人間たちが交わす言葉が歪められ適切に定義されていないことに由来して私たち思考弊害を生んだり、上手にまとめてしまう際に人を欺くことになったり、など様々である。微調整

 この見え方が、感性の鈍感な体系的や表面的でしかなければ、そのもの本質ポテンシャル判断することが不可能になる。言うなれば開封されないゲームソフトパッケージのようでもある。段落改訂

奴隷を目指す社会の掲げる指標

沸騰していく社会

 小市民的な枠の中で、安穏な生活をして、たとえばたまにごちそうを食べて、遊びに行って、楽しいかもしれないけど、あとの日常というのは、会社に行ってせいぜいおしゃれな格好をして、夜になると酒飲んで、上役の悪口を言う程度のことで、あとはもう毎日毎日システムの中に組み込まれちゃってる。段落改訂

 なぜなら大多数にとっては、矛盾解決することではなく、長い大通りが隙間のない道であるかのように表面から矛盾を見えなくすることが、幸福の前提だからだ。

 ある人間が、自分生活だけしか生き得ないようなら、彼は自分生活も生き得ないはずだ。なぜなら、彼自身生活というのが、その各々が、他の生活にも属し続けるアクシデント連続から成っているのだから段落

 このようにしてわれわれは、目の前の温度が昨日よりも苦しくなっていることが、わからなくなってしまうのである

 社会で良いものとされている礼儀であっても、ポテンシャルを持っていない礼儀であれば、それは良いものとは言えない。同様に、ポテンシャルを持っていない褒め言葉も、けっして良いものとは言えない。罵倒批判にいたっては悪いイメージ自動的に付くものであるが、ポテンシャルを持っている罵倒批判は良いものである

 歳をとるということが、物理的にも、精神的にも、〜のセーフラインではなくデッドラインに近づいていくことだとしても、今はまだ大丈夫という感覚を持っている人もいるかもしれない。しかし、トラックに轢かれて腕を失ったとき、心が重くて起き上がれなくなったときあの世よりもこの世に Permalink | 記事への反応(0) | 18:41

日記

……三十歳で亡くなるように繊細で、厳しい感性を持つ、地球上のすべての女性に向けて……

prologue

時代場所次元を超えたマッシュアップ段落

 いま砕け散ったすべての彼ら彼女らの全員が、けっして自分以下ではなく、自分以上の精神によって成し遂げようとし、表面だけは目新しい今日という時間に内在している本質的にはポテンシャル可能性が縮小していくこの世界に生まれる喜びを相手取った、苛烈で、疲弊し、それでも均衡を取りながらも、ある一瞬のスキを付いて世界価値刷新しようと繰り広げる闘争の中でくずおれていったすべての魂たちを目撃したわけだが、この敗北のすべてに共通するものがあるとすれば、それは、目に見えないもの価値が、目に見えるもの価値に負けてしまたことを意味しているのだ。微調整

人生シンボル世界アレゴリー冒険(または旧式の劣悪的価値観を盲目に信奉し続けている中身の無い老若男女による日頃の盲従とその殺人——と殺される人間精神本来の豊かさの立体的構成について)

「“あたくしは、永遠にあなたを愛するという揺るぎのない強固な意志をもってます。“

 このうわべは月並文章を注意深く読んでみたまえ。[愛する]という言葉よりも、[永遠に]と[意志]という言葉のほうがずっと重要なのだ。」

問題は愛ではなかったのだ。不滅だったのである

ミラン・クンデラ『不滅』

1 - verse

 宇宙全体を満たす闇。実は、そこには光もまた満ちている。

 それは、真空であるために太陽の光を反射するものが無いことで、肉眼では感知できない光だ。地球では空気の粒子による反射によって、人間は光を認識出来るのである

 あなたがこれを読む前に抱えていた感情はなんだろうか。

 感情字面上では、喜びの対義に悲しみが、怒りの対義に笑いが記されている。しか実際問題として、この二つは同時に抱えることもある。なぜなら感情は、単一感情よりも、もっと多くの感情と連動しているからだ。

 映画を観た時に、小説を読んだ時には、その人物感情ひとつで考える私たちの把握能力には、いまだ未知の領域が広がっている。同時に抱えた感情は、いくつもが比例や反比例の連動的であり、また相対的でもある。

 人間存在することが1で、存在しないことが0であるならば、人間は産まれた時の1から0へと向かっていることになる。生きているという状態を前方向だとするならば、一日一日前へ進むごとに、死という後ろ方向へと歩んでいるという矛盾が内在している。

 そのように、史上空前の前向きさというものは、中途半端な前向きさの中にあっては、後ろ向きに進んでいるように見られてしまものである

 ジャンケンを心から面白いと思って行う者は、たぶん、あまりいないと思われる。僕は簡単に持ち出せるツールとして、ジャンケンを使っている。

 たとえばチョキの指の数が三本で、パーの指の数が四本で、グーの握り拳を半分の力で握るといったジャンケン2や、ジャンケンのその他のAnotherバージョンがあっても、それが最も面白いと思って行ってはいないことだろう。ジャンケンがこの世で最も面白いと思って満たされれば、ジャンケンよりも高次のもの発明する必要はなくなる。

 それと同様に、世の中の九割以上のもの面白いと思えなくなってから、この話は始まる。それはつまり物語面白いと思えなくなってからしかし同時に物語以外が面白いと思えなくなったところから始まる物語、でもある。

 トロフィーを獲得することを目指すのであれば、どんなに簡単ゲームソフトのゴールでも、トロフィーは獲得出来るのだ。

 人間の願いは、たった一つに集約出来る。と言うと、金や異性やその他諸々、人の数だけたくさんの夢があるだろう、とあなたは思ったはずだ。

 もったいぶっても仕方がないのであっさりと言ってしまうが、そのひとつの願いとは、自分が産まれてきてよかった、と思いたいのだ。もちろん、それは一瞬のことではない。なぜなら、その一瞬は、次のニ瞬目には覆されてしまうかもしれないという不安が、常に内在しているかである。これが現在という本質自体の中にある、癒すことのできぬ不完全性である

段落

 最初にどんな断りを置いたとしても、本来、こんなことは書きたくない。いつの世にあっても、本当のことを考えれば、好きな人からは嫌われ、嫌われるべき相手からは好かれ、招待状もなく価値を殺す人はやって来るし、招待状をいくら出しても価値を殺される人には届かないことだって多い。

 往々にして悪魔自分自身天使だと思い込んでいるものだし、天使は引け目を感じていつでも自分を捨てようと画策している。本当のことを追えばそれは自然哲学に近づいていき、でも僕は哲学者になりたくないし、哲学者が遺した書物に書かれているものSNSの内側では見られないものだし、ツイッターで流れてくるものではないし、マッチングアプリのコツでもないから、SNS基準である以上の思考が溢れることのない世の中で生きることは出来なくなってしまう。

 探検家にはなりたくないし、革命家にはなりたくないし、伝道師にはなりたくない。なぜなら、その肩書きという断絶によって精神の分断が発生し、無責任肥料が撒かれ、その土には何も育たないからだ。

 自分が変わらないように相手を変えようとするパワープレイの中にあって、お互いが同時に変わるという正解を見つけることなど難しい。

 日本人モラルの一つとして、危険を犯さないということを前提としている。だから、誰も言わなかったことは言えない。誰もやったことがないことはやらない。ああだ、こうだ、それはこうだ、と後からもっともらしいことを言う奴はいるけど、誰もやったことはないとか、誰も言ったことがないようなことを、言ったりやったりするということはない。

 日本では個性的なことをやると嫌われる。日本オリジナルなことをやったら協力者はいない。あらいいわねえ、と言われる程度の表現範疇しか成立しない。

 一般の人たちの芸術観は、ふだんはいろんな壁でもって遮られている。それが協力者たちのおかげで枠がサッとはがされて、みんなの心がひらかれる。しかし多くのことは、このようなプロセスを踏めないがために、人々の初歩レベルの心はひらかれることはない。もちろん、芸術という言葉は、人間存在のもののことである。なぜなら、命とは、生まれてきた(アウトプットからである

 今までの社会では、すべての人がそれをはっきりと自覚するまでにはいたっていない。しか自覚さえ持てば、そこには芸術がはじまるのである

 安心できたことのない世の中で人間精神に道をつくるような前進とは、感性を揺さぶらないがために波を立てることもまた無いといった類いによる社会権威のような安心ではなく、圧縮した密度を柔らかい感性で紐解けば空間を満たすことの出来るストリームの粒子を包んだものによって開いていくのである。なぜなら、安心できない世の中に対して、無風という誰からも嫌われなさそうな自己主張による社会人生流通権力は、結局、人間排除する社会の固さにひれ伏し続けているかである安心でさえ、安心の風が吹かなければならないからだ。

 たとえその時は無風であることに安心しても、その時を過ぎればまた窒息し、社会という強制参加で誰しもの元にいつもやって来る未来に対して、ほとんど勝てないギャンブルのような傷付き方をしているのだ。

 物語というのは、ガラスケースの向こうだけで収まり安心出来るもののことを言うのではない。作品の向こう側が物語であると同様に、作品こちら側こそが物語からであるあなた人生という言葉を使う時、その人生乾パンのようなすべてを削ぎ落とした最低限の生活イメージするだろうか。乾パン乾パン出会って、乾パン家族にでもなるのだろうか。乾パンに味は染み込まない。精神の荒廃の目配せをしながら、社会という徒党を組んで人間を捨て、不安払拭するのだろうか。普通とはなんだろうか、大人とはなんであろうか。それらは人間の外にあるのだろうか。そもそも日常という言葉欺瞞であり、それがあることで非日常が生まれ、それらはまるで交わることのない別の直線のように思い込んでしまうが、日常という言葉意味乾パンであるならば、DVをし続ける会ったことのない両親に税金という仕送りを送金し続けるためだけの頭数の数合わせである。そのために産まれた時からあなた脳内に刷り込まれ続ける、数々の人生認識を胸に抱きながら死を迎えることだろう、おめでとう。改めて言うが、人生とは全部である段落

段落

 芸術と名付けられた一系統の固さが残り、その人間がその時に立ち向かったであろう、作品を超えた形なきストリームの柔らかさは残らなかったのである。そして僕たちはそれと向き合ったときに、社会での自分をそのまま変えそうにないか不快ではない、として表面を見るのである

 今の時代からすれば、これは自分の部屋に飾れるくらいに、なんでもないかいいね。その状態にあっては、たいていの美術館は5分で出ることができる。それがいつでも時代限界だったのだ。段落改訂

 そして感性とは、思考と同じくらいに姿勢のことである思考がそれひとつであれば、姿勢というのはそれひとつの外にまで開かれているということだ。この両輪が表示するものは、画面いっぱいに並んだ細かい違いのパーツというよりは、パーツの持つ目に見えない特性である段落改訂

 そして、これこそがポテンシャルの方角を決める判断に繋がるものであるポテンシャルが無くても、ポテンシャルへの方角が合っていれば、前に進むごとにポテンシャルへと近づいていき、ポテンシャルがあっても、ポテンシャルとは明後日の方角を向いているのであれば、前に進むごとにポテンシャルは消えていく。段落改訂

段落

 趣味的だからだ。趣味というのは自己満足から、自他に挑んで自分自身を乗り越える、自分をも否定するということにならない。ちょっと面白いものをつくったり、変わったことをやるのはいても、¨遊び”と、”趣味”は違う。”遊び”と、”お遊び”は、むしろ正反対のものからだ。趣味危険を犯さない。自分によりかかっている。甘えてる気配がある。自分を敵としてやってない。強烈に自分と闘ってない。自分の好みに乗っかって自足してる。趣味に溺れるのではなく、自分と闘い、同時に他とも闘う。段落改訂

段落

 ほとんどがニューヨークパリ海外の国なんかで発表された二番煎じ三番煎じみたいなものが多い。何だこんなもの、と言いかけて、海外のどこどこの国ではこういうのが流行っている、と言うと、見るほうも、ああそうかというようなところがある。誰もやらなかったことをやるというのは、日本じゃ絶対に認めない。

 これは作品論で終わる話ではなく、この国で日々の思考を縛りつけている価値観のことである

 ゴッホ絵画生前には一枚も売れなかった、という話を引き合いに出すまでもなく、人々の自分に対する感覚の自信は傲慢であるしかし、人生理解出来てないのだ。1+1=2、1×1=1、納得した、僕が納得出来るってことは、これはいいものだね。しかし、IQ10の人間が納得することなど、IQ9までである。そして人生にたえず付き纏う問題の数式は、誰も解こうとしないのである。だが人生とは、往々にして1÷1=1程度には難しい。

 本番には使えないその練習で埋め尽くす時間の消耗とは、なに? 消耗が人生であるのなら、解決もまた人生である。この世で起こることのすべてが人生であるように、この世で起こすことのすべては人生である段落

 人間生活は、ほとんどのものを借りてきている。つまりは、全員が「借りてきた人間」だ。

 ピカソシステムだ、愛はシステムだ、お〜いお茶システムだ。このように、この世のすべてのものは「システムであるシステムは、名前が付いた瞬間から駆動し始める。このシステムを借りているのである

 システムそれ自体には、自己反省性や自己批判性が無い。日に日にすり減り、衰退し、レベルの低くなっていくパワーゲームが起こるのは、このためである。それはひとつの部類と部類の間にも起こり、ひとつの部類の中にある区分区分や、なにかとなにかでも起こる。この世に存在するすべてで発生する。

 イチローホームランを打つこともシステムである。観客は指先ひとつ動かさずに、ホームランを打つ感覚だけを、その時に借りてくる。システムには固体と液体が存在し、それを紐解くのが感性である。固体よりも液体の方が紐解きづらい。

 イチローホームランを打つ、ということにおいての固体は、バットボールが当たった、ということだ。そして液体は、バットの振る速さ、バットのどの部分に球が当たったのか、イチローのその試合までの日頃の練習、その時のプレッシャーなどである

 食べ物でいえば、ハンバーガーのものは固体であるが、ハンバーガー牛肉パテ一枚は液体であるハンバーガーには、何が挟まっているか。肉、トマトレタスピクルスソースなど、まだわかりやすい。それは固体だからである

 では、牛肉パテがどうかといえば、牛のどの部位の肉なのか、どのようにミンチにして他にも保存料などを混ぜるのか、あるいは冷凍する方法はどうかなど、液体なので難しくなる。

 飲み物場合であれば、それ自体がすでに液体であるいくら沢山お茶を飲んでも、お茶の葉の摘み方はわからないし、茶葉から抽出の仕方もわからない。

 そして肝心の乗り越えることは、紐解くこと、ともまた違う。乗り越える方法とは、決意である。つまり感性によって液体までを紐解き、それを決意によって乗り越えるのである

 もし感性によって紐解き、そして乗り越えなければ、借りてきた人間であるわれわれの精神はその借りているシステムに回収され、その枠内で縮小していき、ボーリングの球を投げる人間ですらなく、ガーターに落ちないようにレーンを直線に転がることを反復するボーリングの球そのものとなって、日に日にシステムは低次のレベルに向かって下降していく。

 世界の見え方は、ひとりひとりの感性による紐解きによって見えるものである遠近法パースペクティブ)は、人によって異なるということになる。

 実際にあるものよりも多くの秩序を想定してものごとを単純化したり、大きな衝撃からとても些細な衝撃までとにかく様々な衝撃によって人間は多くのものごとを見落としてしまったり、個人が持つ関心や愛好の傾向によって視野が狭められてしまったり、人間たちが交わす言葉が歪められ適切に定義されていないことに由来して私たち思考弊害を生んだり、上手にまとめてしまう際に人を欺くことになったり、など様々である。微調整

 この見え方が、感性の鈍感な体系的や表面的でしかなければ、そのもの本質ポテンシャル判断することが不可能になる。言うなれば開封されないゲームソフトパッケージのようでもある。段落改訂

奴隷を目指す社会の掲げる指標

沸騰していく社会

 小市民的な枠の中で、安穏な生活をして、たとえばたまにごちそうを食べて、遊びに行って、楽しいかもしれないけど、あとの日常というのは、会社に行ってせいぜいおしゃれな格好をして、夜になると酒飲んで、上役の悪口を言う程度のことで、あとはもう毎日毎日システムの中に組み込まれちゃってる。段落改訂

 なぜなら大多数にとっては、矛盾解決することではなく、長い大通りが隙間のない道であるかのように表面から矛盾を見えなくすることが、幸福の前提だからだ。

 ある人間が、自分生活だけしか生き得ないようなら、彼は自分生活も生き得ないはずだ。なぜなら、彼自身生活というのが、その各々が、他の生活にも属し続けるアクシデント連続から成っているのだから段落

 このようにしてわれわれは、目の前の温度が昨日よりも苦しくなっていることが、わからなくなってしまうのである

 社会で良いものとされている礼儀であっても、ポテンシャルを持っていない礼儀であれば、それは良いものとは言えない。同様に、ポテンシャルを持っていない褒め言葉も、けっして良いものとは言えない。罵倒批判にいたっては悪いイメージ自動的に付くものであるが、ポテンシャルを持っている罵倒批判は良いものである

 歳をとるということが、物理的にも、精神的にも、〜のセーフラインではなくデッドラインに近づいていくことだとしても、今はまだ大丈夫という感覚を持っている人もいるかもしれない。しかし、トラックに轢かれて腕を失ったとき、心が重くて起き上がれなくなったときあの世よりもこの世に Permalink | 記事への反応(0) | 18:41

日記

……三十歳で亡くなるように繊細で、厳しい感性を持つ、地球上のすべての女性に向けて……

prologue

時代場所次元を超えたマッシュアップ段落

 いま砕け散ったすべての彼ら彼女らの全員が、けっして自分以下ではなく、自分以上の精神によって成し遂げようとし、表面だけは目新しい今日という時間に内在している本質的にはポテンシャル可能性が縮小していくこの世界に生まれる喜びを相手取った、苛烈で、疲弊し、それでも均衡を取りながらも、ある一瞬のスキを付いて世界価値刷新しようと繰り広げる闘争の中でくずおれていったすべての魂たちを目撃したわけだが、この敗北のすべてに共通するものがあるとすれば、それは、目に見えないもの価値が、目に見えるもの価値に負けてしまたことを意味しているのだ。微調整

人生シンボル世界アレゴリー冒険(または旧式の劣悪的価値観を盲目に信奉し続けている中身の無い老若男女による日頃の盲従とその殺人——と殺される人間精神本来の豊かさの立体的構成について)

「“あたくしは、永遠にあなたを愛するという揺るぎのない強固な意志をもってます。“

 このうわべは月並文章を注意深く読んでみたまえ。[愛する]という言葉よりも、[永遠に]と[意志]という言葉のほうがずっと重要なのだ。」

問題は愛ではなかったのだ。不滅だったのである

ミラン・クンデラ『不滅』

1 - verse

 宇宙全体を満たす闇。実は、そこには光もまた満ちている。

 それは、真空であるために太陽の光を反射するものが無いことで、肉眼では感知できない光だ。地球では空気の粒子による反射によって、人間は光を認識出来るのである

 あなたがこれを読む前に抱えていた感情はなんだろうか。

 感情字面上では、喜びの対義に悲しみが、怒りの対義に笑いが記されている。しか実際問題として、この二つは同時に抱えることもある。なぜなら感情は、単一感情よりも、もっと多くの感情と連動しているからだ。

 映画を観た時に、小説を読んだ時には、その人物感情ひとつで考える私たちの把握能力には、いまだ未知の領域が広がっている。同時に抱えた感情は、いくつもが比例や反比例の連動的であり、また相対的でもある。

 人間存在することが1で、存在しないことが0であるならば、人間は産まれた時の1から0へと向かっていることになる。生きているという状態を前方向だとするならば、一日一日前へ進むごとに、死という後ろ方向へと歩んでいるという矛盾が内在している。

 そのように、史上空前の前向きさというものは、中途半端な前向きさの中にあっては、後ろ向きに進んでいるように見られてしまものである

 ジャンケンを心から面白いと思って行う者は、たぶん、あまりいないと思われる。僕は簡単に持ち出せるツールとして、ジャンケンを使っている。

 たとえばチョキの指の数が三本で、パーの指の数が四本で、グーの握り拳を半分の力で握るといったジャンケン2や、ジャンケンのその他のAnotherバージョンがあっても、それが最も面白いと思って行ってはいないことだろう。ジャンケンがこの世で最も面白いと思って満たされれば、ジャンケンよりも高次のもの発明する必要はなくなる。

 それと同様に、世の中の九割以上のもの面白いと思えなくなってから、この話は始まる。それはつまり物語面白いと思えなくなってからしかし同時に物語以外が面白いと思えなくなったところから始まる物語、でもある。

 トロフィーを獲得することを目指すのであれば、どんなに簡単ゲームソフトのゴールでも、トロフィーは獲得出来るのだ。

 人間の願いは、たった一つに集約出来る。と言うと、金や異性やその他諸々、人の数だけたくさんの夢があるだろう、とあなたは思ったはずだ。

 もったいぶっても仕方がないのであっさりと言ってしまうが、そのひとつの願いとは、自分が産まれてきてよかった、と思いたいのだ。もちろん、それは一瞬のことではない。なぜなら、その一瞬は、次のニ瞬目には覆されてしまうかもしれないという不安が、常に内在しているかである。これが現在という本質自体の中にある、癒すことのできぬ不完全性である

段落

 最初にどんな断りを置いたとしても、本来、こんなことは書きたくない。いつの世にあっても、本当のことを考えれば、好きな人からは嫌われ、嫌われるべき相手からは好かれ、招待状もなく価値を殺す人はやって来るし、招待状をいくら出しても価値を殺される人には届かないことだって多い。

 往々にして悪魔自分自身天使だと思い込んでいるものだし、天使は引け目を感じていつでも自分を捨てようと画策している。本当のことを追えばそれは自然哲学に近づいていき、でも僕は哲学者になりたくないし、哲学者が遺した書物に書かれているものSNSの内側では見られないものだし、ツイッターで流れてくるものではないし、マッチングアプリのコツでもないから、SNS基準である以上の思考が溢れることのない世の中で生きることは出来なくなってしまう。

 探検家にはなりたくないし、革命家にはなりたくないし、伝道師にはなりたくない。なぜなら、その肩書きという断絶によって精神の分断が発生し、無責任肥料が撒かれ、その土には何も育たないからだ。

 自分が変わらないように相手を変えようとするパワープレイの中にあって、お互いが同時に変わるという正解を見つけることなど難しい。

 日本人モラルの一つとして、危険を犯さないということを前提としている。だから、誰も言わなかったことは言えない。誰もやったことがないことはやらない。ああだ、こうだ、それはこうだ、と後からもっともらしいことを言う奴はいるけど、誰もやったことはないとか、誰も言ったことがないようなことを、言ったりやったりするということはない。

 日本では個性的なことをやると嫌われる。日本オリジナルなことをやったら協力者はいない。あらいいわねえ、と言われる程度の表現範疇しか成立しない。

 一般の人たちの芸術観は、ふだんはいろんな壁でもって遮られている。それが協力者たちのおかげで枠がサッとはがされて、みんなの心がひらかれる。しかし多くのことは、このようなプロセスを踏めないがために、人々の初歩レベルの心はひらかれることはない。もちろん、芸術という言葉は、人間存在のもののことである。なぜなら、命とは、生まれてきた(アウトプットからである

 今までの社会では、すべての人がそれをはっきりと自覚するまでにはいたっていない。しか自覚さえ持てば、そこには芸術がはじまるのである

 安心できたことのない世の中で人間精神に道をつくるような前進とは、感性を揺さぶらないがために波を立てることもまた無いといった類いによる社会権威のような安心ではなく、圧縮した密度を柔らかい感性で紐解けば空間を満たすことの出来るストリームの粒子を包んだものによって開いていくのである。なぜなら、安心できない世の中に対して、無風という誰からも嫌われなさそうな自己主張による社会人生流通権力は、結局、人間排除する社会の固さにひれ伏し続けているかである安心でさえ、安心の風が吹かなければならないからだ。

 たとえその時は無風であることに安心しても、その時を過ぎればまた窒息し、社会という強制参加で誰しもの元にいつもやって来る未来に対して、ほとんど勝てないギャンブルのような傷付き方をしているのだ。

 物語というのは、ガラスケースの向こうだけで収まり安心出来るもののことを言うのではない。作品の向こう側が物語であると同様に、作品こちら側こそが物語からであるあなた人生という言葉を使う時、その人生乾パンのようなすべてを削ぎ落とした最低限の生活イメージするだろうか。乾パン乾パン出会って、乾パン家族にでもなるのだろうか。乾パンに味は染み込まない。精神の荒廃の目配せをしながら、社会という徒党を組んで人間を捨て、不安払拭するのだろうか。普通とはなんだろうか、大人とはなんであろうか。それらは人間の外にあるのだろうか。そもそも日常という言葉欺瞞であり、それがあることで非日常が生まれ、それらはまるで交わることのない別の直線のように思い込んでしまうが、日常という言葉意味乾パンであるならば、DVをし続ける会ったことのない両親に税金という仕送りを送金し続けるためだけの頭数の数合わせである。そのために産まれた時からあなた脳内に刷り込まれ続ける、数々の人生認識を胸に抱きながら死を迎えることだろう、おめでとう。改めて言うが、人生とは全部である段落

段落

 芸術と名付けられた一系統の固さが残り、その人間がその時に立ち向かったであろう、作品を超えた形なきストリームの柔らかさは残らなかったのである。そして僕たちはそれと向き合ったときに、社会での自分をそのまま変えそうにないか不快ではない、として表面を見るのである

 今の時代からすれば、これは自分の部屋に飾れるくらいに、なんでもないかいいね。その状態にあっては、たいていの美術館は5分で出ることができる。それがいつでも時代限界だったのだ。段落改訂

 そして感性とは、思考と同じくらいに姿勢のことである思考がそれひとつであれば、姿勢というのはそれひとつの外にまで開かれているということだ。この両輪が表示するものは、画面いっぱいに並んだ細かい違いのパーツというよりは、パーツの持つ目に見えない特性である段落改訂

 そして、これこそがポテンシャルの方角を決める判断に繋がるものであるポテンシャルが無くても、ポテンシャルへの方角が合っていれば、前に進むごとにポテンシャルへと近づいていき、ポテンシャルがあっても、ポテンシャルとは明後日の方角を向いているのであれば、前に進むごとにポテンシャルは消えていく。段落改訂

段落

 趣味的だからだ。趣味というのは自己満足から、自他に挑んで自分自身を乗り越える、自分をも否定するということにならない。ちょっと面白いものをつくったり、変わったことをやるのはいても、¨遊び”と、”趣味”は違う。”遊び”と、”お遊び”は、むしろ正反対のものからだ。趣味危険を犯さない。自分によりかかっている。甘えてる気配がある。自分を敵としてやってない。強烈に自分と闘ってない。自分の好みに乗っかって自足してる。趣味に溺れるのではなく、自分と闘い、同時に他とも闘う。段落改訂

段落

 ほとんどがニューヨークパリ海外の国なんかで発表された二番煎じ三番煎じみたいなものが多い。何だこんなもの、と言いかけて、海外のどこどこの国ではこういうのが流行っている、と言うと、見るほうも、ああそうかというようなところがある。誰もやらなかったことをやるというのは、日本じゃ絶対に認めない。

 これは作品論で終わる話ではなく、この国で日々の思考を縛りつけている価値観のことである

 ゴッホ絵画生前には一枚も売れなかった、という話を引き合いに出すまでもなく、人々の自分に対する感覚の自信は傲慢であるしかし、人生理解出来てないのだ。1+1=2、1×1=1、納得した、僕が納得出来るってことは、これはいいものだね。しかし、IQ10の人間が納得することなど、IQ9までである。そして人生にたえず付き纏う問題の数式は、誰も解こうとしないのである。だが人生とは、往々にして1÷1=1程度には難しい。

 本番には使えないその練習で埋め尽くす時間の消耗とは、なに? 消耗が人生であるのなら、解決もまた人生である。この世で起こることのすべてが人生であるように、この世で起こすことのすべては人生である段落

 人間生活は、ほとんどのものを借りてきている。つまりは、全員が「借りてきた人間」だ。

 ピカソシステムだ、愛はシステムだ、お〜いお茶システムだ。このように、この世のすべてのものは「システムであるシステムは、名前が付いた瞬間から駆動し始める。このシステムを借りているのである

 システムそれ自体には、自己反省性や自己批判性が無い。日に日にすり減り、衰退し、レベルの低くなっていくパワーゲームが起こるのは、このためである。それはひとつの部類と部類の間にも起こり、ひとつの部類の中にある区分区分や、なにかとなにかでも起こる。この世に存在するすべてで発生する。

 イチローホームランを打つこともシステムである。観客は指先ひとつ動かさずに、ホームランを打つ感覚だけを、その時に借りてくる。システムには固体と液体が存在し、それを紐解くのが感性である。固体よりも液体の方が紐解きづらい。

 イチローホームランを打つ、ということにおいての固体は、バットボールが当たった、ということだ。そして液体は、バットの振る速さ、バットのどの部分に球が当たったのか、イチローのその試合までの日頃の練習、その時のプレッシャーなどである

 食べ物でいえば、ハンバーガーのものは固体であるが、ハンバーガー牛肉パテ一枚は液体であるハンバーガーには、何が挟まっているか。肉、トマトレタスピクルスソースなど、まだわかりやすい。それは固体だからである

 では、牛肉パテがどうかといえば、牛のどの部位の肉なのか、どのようにミンチにして他にも保存料などを混ぜるのか、あるいは冷凍する方法はどうかなど、液体なので難しくなる。

 飲み物場合であれば、それ自体がすでに液体であるいくら沢山お茶を飲んでも、お茶の葉の摘み方はわからないし、茶葉から抽出の仕方もわからない。

 そして肝心の乗り越えることは、紐解くこと、ともまた違う。乗り越える方法とは、決意である。つまり感性によって液体までを紐解き、それを決意によって乗り越えるのである

 もし感性によって紐解き、そして乗り越えなければ、借りてきた人間であるわれわれの精神はその借りているシステムに回収され、その枠内で縮小していき、ボーリングの球を投げる人間ですらなく、ガーターに落ちないようにレーンを直線に転がることを反復するボーリングの球そのものとなって、日に日にシステムは低次のレベルに向かって下降していく。

 世界の見え方は、ひとりひとりの感性による紐解きによって見えるものである遠近法パースペクティブ)は、人によって異なるということになる。

 実際にあるものよりも多くの秩序を想定してものごとを単純化したり、大きな衝撃からとても些細な衝撃までとにかく様々な衝撃によって人間は多くのものごとを見落としてしまったり、個人が持つ関心や愛好の傾向によって視野が狭められてしまったり、人間たちが交わす言葉が歪められ適切に定義されていないことに由来して私たち思考弊害を生んだり、上手にまとめてしまう際に人を欺くことになったり、など様々である。微調整

 この見え方が、感性の鈍感な体系的や表面的でしかなければ、そのもの本質ポテンシャル判断することが不可能になる。言うなれば開封されないゲームソフトパッケージのようでもある。段落改訂

奴隷を目指す社会の掲げる指標

沸騰していく社会

 小市民的な枠の中で、安穏な生活をして、たとえばたまにごちそうを食べて、遊びに行って、楽しいかもしれないけど、あとの日常というのは、会社に行ってせいぜいおしゃれな格好をして、夜になると酒飲んで、上役の悪口を言う程度のことで、あとはもう毎日毎日システムの中に組み込まれちゃってる。段落改訂

 なぜなら大多数にとっては、矛盾解決することではなく、長い大通りが隙間のない道であるかのように表面から矛盾を見えなくすることが、幸福の前提だからだ。

 ある人間が、自分生活だけしか生き得ないようなら、彼は自分生活も生き得ないはずだ。なぜなら、彼自身生活というのが、その各々が、他の生活にも属し続けるアクシデント連続から成っているのだから段落

 このようにしてわれわれは、目の前の温度が昨日よりも苦しくなっていることが、わからなくなってしまうのである

 社会で良いものとされている礼儀であっても、ポテンシャルを持っていない礼儀であれば、それは良いものとは言えない。同様に、ポテンシャルを持っていない褒め言葉も、けっして良いものとは言えない。罵倒批判にいたっては悪いイメージ自動的に付くものであるが、ポテンシャルを持っている罵倒批判は良いものである

 歳をとるということが、物理的にも、精神的にも、〜のセーフラインではなくデッドラインに近づいていくことだとしても、今はまだ大丈夫という感覚を持っている人もいるかもしれない。しかし、トラックに轢かれて腕を失ったとき、心が重くて起き上がれなくなったときあの世よりもこの世に Permalink | 記事への反応(0) | 18:41

2022-11-19

チェンソーマン 漫画 第2部 雑感

雑感、 第2部は 「正義悪魔」が悪党側で2回交戦

戦争悪魔」が主人公側の役と分かれている。

一般には、「正義」が人類側で「戦争」が対立する悪役を演じるのが自然だが…正反対に。

意図してやっているのだとすれば第2部は次の傾向が期待できる。

ネガティヴ言葉 + 悪魔」 {戦争、死…}が人類の味方であり、

ポジティヴ言葉 + 悪魔」{正義…} がその敵…という逆転した形になりそう。

その場合、チェインソウは…木を伐採する道具の名称から中立的だと言える、

人類の味方もしないし、敵対もしない。

雑な予想だけど 3割くらい当たってくれ、たのむ!!

2022-05-16

anond:20220516103107

あなたがいれば 嗚呼あなたがいれば

辛くはないわ! この東京砂漠

ポジティヴソング

ふと北九州中学同級生だったマドンナ若いころ新宿で再会した出来事を思い出した[1]。画家を目指し上京したものの夢破れ不本意ながらデザイナーの道に進んだ吉田は、あるとき歌舞伎町で一杯ひっかけてモダンジャズ喫茶の前でタクシーを待っていた[1]。そしてかつて親しくしていたマドンナと偶然鉢合わせるのだが、美人で利発だったかつての初々しい面影は失せ、こちらを避けるような眼差しを向けながら黙って雑踏へ消えていった彼女の姿に吉田はひどく心を痛め、「ああ、きっと苦労しているのだろうな」「あの子恋人そばにいたら、幸せになれるだろうに」といたたまれない気持ちになったのだった[1]。吉田彼女境遇自分境遇に重ね合わせ、都会での生きづらさ、人を変えてしまう都会の非情さを詞に込め[1]、1964年東京大渇水の際に生まれた「東京砂漠」という言葉タイトルを託した[2]。

あなた恋人)がいれば…」と何度も繰り返されるフレーズを[1]、前川清はその粘りのある歌声で[2]切々と歌い上げた[1]。

2022-05-13

[]金貰って働くポジティヴ意味を教えてください。

子供家族が飯食えなくなるから」とかじゃなく

ポジティヴピースフルなヴァイブスでお願いします。


新入社員体育会で、新人研修とかも受けてるらしいんですけど

おじさんの時には研修なかったので

2021-11-12

操作ミスデーター消してしまった増田酢魔他っ増し手時化ーターデデ済み差ウソ回文

おはようございます

ポジティヴシンキングすぎてポジティヴ大会優勝!というかそう言う大会に出場するよりも大会自体を開催してしまう、

自分ではポジティヴな方だと思うんだけど、

あのさー

やらかしちゃって、

出荷したデータを削除してしまったのよ。

さすがに温かい晩ご飯食べて寝て起きてうんこして朝ご飯食べたら元気になるかなって思ってたけど、

我ながらそんな私が犯した凡ミス自己凹みしてるわけなのよ。

この凹みが沁みるわーって

よく一世風靡したセピアじゃない方のものの言い方で

「なになにみ」ってのがあるじゃない。

昭和み」とか「分かりみ」だとか「さしみ」の「うまみ」だとかそう言ったまるまるみって言葉なぐらい

この凹みが凄かったわ。

朝起きてもなんかそのクレーム解決部隊を投入しなくてはいけないという

そのクレーム解決部隊は私一人の部隊なので、

今朝はもうさグリーンベレー帽を被っていざ挑んで、

結果はもう解決してから良かったから肩の荷が12トンぐらいおりたからよかったわ。

何をやらかしたかって言うと

送り状番号のよくみんなも荷物がどこに届いてるかって調べるとき入力する1万桁ぐらいの数字があるじゃない。

それを私控え忘れて消してしまったのよ。

お荷物自体は正しい住所が記載されて無事に配達はされるんだけど、

物理的には荷物はあっても

ウエブ上では荷物は無いことになってるのよ。

から困ったなーって

自戒としては端末操作は十分に気を付けること。

私はグリーンベレー帽を被りながら緑のたぬきを食べていたことが一番の原因であり片手で余裕でお箸で麺をすすっていたのが一番の原因でもあり敗因でもあり

そう言うことだったのよ。

まあよく何を行ってるか分からないと思うけど、

凄い自信だったわけ。

でもちゃんと無事解決してよかったわと撫でる肩を降ろすところよ。

情報管理社会お荷物1つ探すのは超簡単だと思ってたけど、

そもそもベースデーター消してしまうと

お荷物はその出荷伝票の正しい住所だけが頼りになるから

ウエブ上では追跡できずに

本当に世界の果てまで行ったっきりになっちゃうのよね。

一応はちゃんと到着することを温かく親やぎが産まれた子ヤギが立ち上がるのを優しく見守るような眼差しで見届けることが出来たけど、

もうこんなことは金輪際五臓六腑に沁みわたりたくないほど

この凹み具合がもうとんでもない感じで

万死でバンジージャンプセクシーに決めるところだったわ。

もうレジ袋どうのこうのっていうあんな小さいことに3円とか5円とか出した方が、

お気に入りエコバッグ

生肉ジュースがこぼれてエコバッグの中がジューシーな日にちが経ったらなんとも言えないスメルになるぐらい困るから

セクシー大臣提唱するエコバッグより

実際にはもうレジ袋買った方がいいのよね。

それだと遠慮無く生肉ジュースがこぼれても気にしなくて、

うそれはゴミ箱かぶせるゴミかに変身させることが出来るじゃない。

そのぐらいにセクシーな変貌はないわ!ってぐらい

昨日の私の凹み具合は刺身の旨味に匹敵する

なになにみ、って言葉の発端だったわけで、

あー今日はツイていない1日だなーって今日は終わっちゃうのかと思ったけど、

案外早急に投入した緑のたぬきをすすりながら事件現場突入するグリーンベレー帽の隊員を派遣してよかったわ。

久しくそういうのを食べてないと

結構麺食感のアップグレードさ加減が半端なくて

わ!これ意外とイケるじゃん!って

日清焼そばUFO乾燥キャベツを追いキャベツ出来るような

あの乾燥キャベツと単品で買って追いキャベツしたいぐらいに、

麺が日々美味しくなってるのよね。

改めてそう思ったわ。

もう自戒としては端末操作するときには緑のたぬきを食べながらしないってことを強く決めて守らなければ!って思った矢先で

藤井風さん風に言うと、

そんなこともうどうでもえーえーよって言いたいぐらいだったわ。

とりあえず

解決してよかったわ。


今日朝ご飯

ハムタマサンドです。

と言っても違うお店のモノなのでなんか塩気が多いくて塩っぱいかな?って思うけど

一緒にミルクヒーコーをあわせて飲むと

美味しいわね。

もうホッツヒーコーの時代にやっと世間が追いついたようで

私も気兼ねなくおのののか出産祝いに便乗するかのようにあたたたかボタンを押すことが出来るのよね。

デトックスウォーター

今日はルイボスディーホッツウォーラーにしてみました。

まだルイボスティーのパックが残っていたので

ホッツルイボスティーウォーラーにしたってわけ。

凹んでいるときはあたたたかものおのののかなのよ。


すいすいすいようび~

今日も頑張りましょう!

2021-10-13

anond:20211013204802

「叶わない」という呪い最初から自分にかけないようにしようよ!

叶うよ。ポジティヴにいけば!

2021-07-21

Quick Japan』95年3号 「いじめ紀行 第1回ゲスト 小山田圭吾の巻」 16

anond:20210721210929

今回僕が見た限りでは、いじめられてた人のその後には、

救いが無かった。

でも僕は、救いがないのも含めてエンターテイメントだと思っている。

それが本当のポジティヴってことだと思うのだ。

小山田さんは、最初アルバム

ファーストクエスチョンアワード』発売当時、

何度も「八〇年代的な脱力感をそんな簡単に捨てていいのかな」

という趣の発言をしていた。

これを僕は、"ネガティヴなことも連れて行かないと、

真のポジティヴ世界には到達できない"

ということだと解釈している。

でも、いや、だからこそ、

最後小山田さんのこの話でしめくくりたい。

卒業式の日に、

一応沢田にはサヨナラの挨拶はしたんですけどね、

個人的(笑)

そんな別に沢田にサヨナラの挨拶をする奴なんていないんだけどさ。

僕は一応付き合いが長かったから、

『おまえ、どうすんの?』とか言ったらなんか

ボランティアをやりたい』とか言ってて(笑)

『おまえ、ボランティアされる側だろ』とか言って(笑)

でも『なりたい』とか言って。

『へー』とかって言ってたんだけど。

高校生の時に、いい話なんですけど。

でも、やってないんですねえ」

Quick Japan』95年3号 「いじめ紀行 第1回ゲスト 小山田圭吾の巻」 1

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追記:はてなブログにも同じもの投稿しました。こちらのほうが読みやすいかもしれません。

https://bibokj.hatenablog.com/

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僕は『月刊ブラシ』というミニコミ編集している。

インタビュー中心の雑誌で、二二の時に創刊して、もう二年が過ぎた。

今までにインタビューしたのは、爆弾製造青年

五年間顔を合わせたことのない隣人、

日本語学校の生徒、駆け出しの探偵、等々。

特に決まったジャンルとかは無いので、

今は閃いたことを全部やるようにしている。

インタビューをしてると、

相手が「マンガみたいな現実」を語ってくれる時がある。

例えば、爆弾製造青年高校の時に友達から

「不良にからまれから爆弾作ってくれ」って言われたとか、

探偵学校に潜入する時は用務員のフリをする」とか、

そんな話にはメチャクチャシビレる。

関係ないけど「スティービー・ワンダーは必ず綺麗な女を選ぶ」とか

ビーチ・ボーイズメンバー全員カナヅチだ」とか、

火葬場はやはり火事がおこりやすく、

職員が焼け死ぬことがよくある」とか、

そんなエピソードも大好きだ。

そんな僕にとって、"いじめ"って、昔から凄く気になる世界だった。

例えば

*ある学級では"いじめる会"なるものが発足していた。

この会は新聞を発行していた。

あいつ(クラスいじめられている男の子)と

あいつ(クラスいじめられている女の子)はデキている、

といった記事教室中に配布していた。とか、

*髪を洗わなくていじめられていた少年がいた。

かに彼の髪は油っぽかった。

誰かが彼の髪にライターで点火した。

一瞬だが鮮やかに燃えた。

といった話を聞くと、

"いじめってエンターテイメント!?"

とか思ってドキドキする。

だって細部までアイデア豊富で、何だかスプラッター映画みたいだ。

(あの『葬式ごっこ』もその一例だ)

自身学生時代傍観者で、人がいじめられるのを笑って見ていた。

短期間だがいじめられたことはあるから

いじめられっ子に感情移入する事は出来る。

でも、いじめスプラッターには、イージーヒューマニズム

ぶっ飛ばすポジティヴさを感じる。

小学校の時にコンパスの尖った方で背中を刺されたのも、

今となってはいエンターテイメントだ。

「ディティール賞」って感じだ。

どうせいじめはなくならないんだし。

去年の一二月頃、新聞テレビでは、

いじめ連鎖自殺が何度も報道されていた。

コメンテーター」とか「キャスター」とか呼ばれる人達

「頑張って下さい」とか「死ぬのだけはやめろ」とか、

無責任言葉を垂れ流していた。

嘘臭くて吐き気がした。

それに、いじめた側の人がその後どんな大人になったか

いじめられた側の人がその後どうやって

いじめを切り抜けて生き残ったのか、

これもほとんど報道されていない。

誰かこの観点いじめを取り上げないかな、と思っていたら、

昔読んだ『ロッキング・オン・ジャパン』の小山田圭吾インタビュー

思い出した。

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2020-12-06

anond:20201206012131

鬼滅は誰かを貶めてないのが偉いよね

フェミは男社会をぶっ壊そうとするけど、それとは違って福岡出身女性らしいから男社会的な現状に女性ももっとやれるってポジティヴさを加わえた前向きな丁度良さを感じる

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