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2020-07-31

炎上って昔は祭りって言わなかったか

あの頃はみんなで盛り上げていく感じがあったが

今や祭りはバズと炎上の二つに引き裂かれ

ただ誰かの恨みや呪い燃えてるのをぼんやりと眺めてる

おんぼろの家と屋根裏の音、びっくりする音

都内の築50年は経ってる感じのところで暮らしてる。

駅のそば、高架下に近い立地だ。

おんぼろだから、駅近なのに家賃はとても安い。

越してきて初めての冬、夜になるとたまに壁から音がする事に気がついた。

ゴソゴソ、カリカリ、そういう音だ。

外壁と内壁の間から、毎晩同じくらいの時間帯に音がする。

それからまた暫くして、天井の上、屋根裏からさな生き物が走る足音がするようになった。

トタタタタ、カリカリ、たぶん鼠なんだろうなと思った。

とりあえず、押し入れの上段で見つけた天井裏との隙間を塞いだ。

家の外側も見て回って、素人目に見て解る隙間も塞いだ。大変面倒だ。

室内には出てきていないしと放っておいた。

幼い頃、夏休みなんかに遠方の祖父母の家に泊まると

蚊帳をかけて蚊取り線香を焚いて、窓を開けて寝た。隣には祖母がいる。

眠りに落ちる前に、天井から音が聴こえた事があった。

ズズズ、ズズズ、天井裏をゆっくり移動している。

蛙や虫の声に消される程度の、控えめな音だ。

目を凝らしても蚊帳越しの天井ぼんやり見えるだけだし、よくわからない。

「蛇だよ」と教えられた。

幼いながらにあまり信じられなかった。なんでだろう。

そもそもこの記憶自体、夢なのかもしれない。

ある夜。ゴソゴソ、カリカリという音が襖を挟んだ隣の部屋から聴こえてきた。

ついに入ってきたかと襖をそっと開けると、ごみ箱のあたりにちらっと長い尻尾が見えた。

調べたら、クマネズミと解った。それからは、戦いの日々が始まった。

2匹仕留めて、もう1匹を追い回した成果なのか、部屋にはやってこなくなった。


壁や天井裏の音にもすっかり慣れてきた、丁度今くらいの頃の夜。

からゴソゴソ、その後に天井でトタタタタ、外壁のどこからか入って天井裏をいつものように走っている。

いつもより走っている気がする。

トタタタタタタタッ

チッ チチ キィ

ギューッ

ズズズ、ズズズ、

かになった。

鳴き声、絞めたような音と、あの音が聴こえた。

びっくりした。いくらおんぼろでも、流石にこの立地で天井裏に蛇はいないだろうと思う。

でも古い家なので、いるんだろうか。

ずっと天井裏で生きてるんだろうか。

見えないので解らない。

それからはすっかり静かになったので、蛇だという事にして暮らした。


今。このところ天井裏にいるのは、きっとハクビシンだ。

数日に一度やってくる。足音が大きい。一度鳴いたので、鳴き声で調べた。

気付き次第、居るであろう場所、その部分の天井を棒で怒突いて追い出している。

蛇はどこかに行ってしまったのか、食べられてしまったのか、そもそも蛇だったのか解らない。

たまに、隣の家の猫が追いかけて入ってきて天井裏で大喧嘩している。お陰ですっかり鼠はいなくなった。

でも大変煩いしびっくりするので、なんとかしなくてはならない。

2020-07-30

中期中絶をした話

おはようからおやすみまで、どうもツイ廃です。


ツイッターで低用量ピルや緊急避妊薬、望まない妊娠などの話題が上がるたびに思い出す数年前の出来事

私は中期中絶をした。


7月29日NHKの「おはよう日本」で

予期しない妊娠で苦しむ女性と緊急避妊薬を薬局で購入できるようにとの活動特集され、

ツイッターで様々な意見が飛び交っている。

その様々な意見を見ている中で、

中絶をした人の体験談などはあまり聞かないかイメージで語っている人も多いだろうが」

というような文章を目にした。


そもそも中絶という選択肢に直面しない限り、中絶について調べもしないだろう。

そして中絶という選択肢に直面し調べた私でも、体験談などはあまり見られず、病院やまとめのサイトばかり見ていた気がする。

体験談が少ないのであれば書かせていただこうではないか

このブログバズるかどうかなんてさっぱり分からないが、より多くの人に、そして困ってる人に一例として読んでもらえたら嬉しい。


なんとなく偉そうな感じになってしまったが、本当にこの当時はどうしようもない人間だったので

読んでて不快感を覚える人もいるかもしれない。

現代社会の闇がかなり見える文章になるかもしれないが、ご了承願いたい。


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大学2年生の冬。

私はパパ活をしていた。

それもいわゆる「本番あり」のものだ。

普通にアルバイトもしていて、大学生の一人暮らしとしては苦しくないぐらいの給料は貰っていた。

ただ、物欲無限で、もっとお金が欲しかったのだ。


出会い系も使っていたが、一番多いのはツイッターだった。

いつものようにDMでやり取りをし、日時と場所を決め、その男の人と会った。

ゴムを付けてセックスをし、相手がイったため私もぼんやりのんびりしていたらまた相手が挿入してきた。

ぼんやりしている時にゴムを捨てていたのはなんとなく見ていた。股の感覚もいつもとなんだか違う。


慌てて「ねえゴムは??ゴムつけてるの???」と聞いた。

相手からの返答は有耶無耶ものだった。

絶対に付けていないと思い、相手を蹴飛ばす勢いで拒否したらさすがに離れた。

その後シャワーを浴び、股もいつもより念入りに洗いホテルを後にした。

この時慢心せずに産婦人科に行きアフターピルを貰うべきだったのだが

パパ活をしているという後ろめたさと、直接的に中に出された訳ではなかったので大丈夫だろうと考えていた。

産婦人科に行ったことが無かったため心理的ハードルも高かった)


それからひと月ほど経ち、とあることに気が付いた。

生理が来ない。

しか学校アルバイト(割と力仕事系)(とパパ活)で忙しく、生理周期も安定していなかったためとりあえずスルーした。


そしてこの頃から何とも言えぬ気持ち悪さを感じるようになった。

食欲はあるが、胃が固形物を受け付けない。量も食べられない。

しかし腹は減るのでゼリー豆腐をすする毎日

アルバイト先の人たちにも「最近なんか胃が気持ち悪いんですよね~」などと呑気に喋り、

季節柄もあり胃腸炎なんじゃない?と色んな人に返されていた。

もちろん胃腸炎などでは無く、立派なつわりだったのである


そして春になり、大学3年生になった。

相変わらず体調が思わしくなく、友達何の気なしに上記事情を話していたら

冗談半分で食べづわりなんじゃない?と言われた。

血の気が引いた。生理も来ていない。


その日の帰り道、意を決してドラッグストア妊娠検査薬を購入。

駅のトイレ検査をし、見事に陽性。

泣きそうになりながら電車産婦人科を調べ、直近で予約をした。


初めての産婦人科。内診で妊娠検査をし、やはり陽性。

しか中絶が出来ない病院だったため、検査のみでその日は帰宅


後日、初期中絶可能産婦人科へ。

しかし週数が経ち、中期中絶の時期に入ってしまっていたため別の病院を紹介される。


そして紹介された産婦人科へ。

週数としては確か12週とかで、なるべく早く手術を、とのことだった。

その場で2週間後に入院が決まり費用入院時に全額支払い。

金額は65万円程度。

貯金があるわけもなく、母親に泣きながら電話をした。

決して裕福では無い家庭で、私が行きたい大学に行かせてくれて、一人暮らしをさせてくれた親に

なぜ自分はこんなことをお願いしているのだろう。

本当に本当に自分が情けなくて、こんなことになった自分が悔しくて、涙が止まらなかった。

母親は優しく話を聞いてくれ、すぐにお金を手配してくれた。

母親は、頻繁に男と遊ぶ姉を見て、ずっと「遊ぶのは構わないけど妊娠だけはしないようにね」と笑うように言っていた。

こんな絶望的な親不孝を自分がするなんて。


問題中絶同意書だった。

医者事情もやんわり話し、父親の欄は無しではできないか交渉したが

少しでも連絡が取れる可能性があるならサイン貰ってきてくださいと言われた。


タイミング的にも心当たりがあるのは生で入れてきた男だけだったので、ツイッターDMを送った。

中絶などという単語はもちろん出さず、また会いたいんだけどどう?的なものを。

無事会えることになり、当日待ち合わせ場所に向かうと想定とは違う男がいた。

実は原因のセックスの際、もう一人の男と合わせて3人でホテルにいた。

このもう一人は会った後にDMが送られてきたのだが、私は原因の男の別垢か何かだと勘違いしやり取りをしていたのだ。

その場で原因の男にDMを送ってみたが、返答は無かった。

しかし私としても後が無いため、申し訳なく思いながらもなんとか説得しそのもう一人に同意書へサインを貰い帰宅した。


同意書を提出し費用を払い、個室に通される。

入院は5日間で、1日目の朝に入院、3日間かけて子宮口を拡張、4日目の午後に強制出産、5日目の午前中に退院

子宮口の拡張のために、棒を少しずつ入れていった。

1日目はなんとも感じなかったが、3日目ともなると生理痛のような重たい感覚が広がり

元気など1ミリも出なかった。

4日目の強制出産は、全身麻酔で眠っている間に終わっていた。

重たい感覚が無くなり、やっと解放された安堵でご飯をめちゃくちゃおいしく感じた。


そして退院1週間後に経過観察。

子宮妊娠のための膜(うろ覚え)も破れておらず、再度妊娠可能問題なし。

もし万が一この膜を傷つけてしまったらもう妊娠できない可能性があることは事前にきちんと説明を受けていた。


そして中期中絶退院して終わりではない。

強制出産」と書いた通り、中期中絶あくま出産であり、死産扱いになる。

火葬病院が手配してくれるので、私は遺体は一度も見ていない。

しか死産届を役所に出すのは私の仕事だ。

これも父親名前を書く欄があるため、同意書と同じ男の情報を書いた。


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以上で一連の話は終わりのはずである

どこかに自分で記録を取っていたわけでもなく、うっすらとした記憶だけで書いているので順番や細かい部分は違う可能性はある。

嫌なことは大抵寝たら忘れる人間であることが裏目に…。


そして少しだけ補足や余談。

・産むという選択肢は無かったのか

→無かった。親の金学校に通っているし、卒業してくれとも言われていたし、相手が正確に誰かも分からないし、好きでもない人間DNAを持った子供を産もうとは私は考えられなかった。予定外の妊娠で産む人は、その勇気と決意を尊敬します。

費用について

最初に65万円を払ったが、社会保険国民保険出産一時金を申請できるため40万ぐらいは戻ってくる。当時は父親扶養に入っていたため、申請が通ってお金が振り込まれたかは私では確認できていない。


私はこの出来事日常的に気に病んだりすることは無いが、影を落とすことは不意にある。

先日親知らず相談歯医者に行った際、麻酔したことはあるかと聞かれた。

病気の手術はしたことが無かったため即座に「無い」と答えたが、直後に中絶の際に麻酔していたことを思い出した。

何の手術?などともし聞かれたら…と考えてしまい訂正することもできなかった。

それと産婦人科の問診票には、妊娠経験と回数を記入する欄がある。

こればかりは嘘を付けないので、今後産婦人科にかかる際は「1回」と書かなければいけない。

中絶以来産婦人科にはかかっていないが、今後望んだ妊娠でかかったりした際にも

「1」という数字が付きまとうのは苦しい。


とても仲が良くて信頼のおける友人たちにはこの話をしているため、たまに「彼氏とやっていたら途中でゴムが外れていた」などの相談が来る。

その際には迷わずアフターピルを飲め、産婦人科に行け、と言っている。

生理が来ないことに怯えて生きるのは本当につらい。そのまま怯えて待っていたら妊娠する可能だってある。

だったらアフターピルを飲んで安心を手に入れた方が良いのだ。


今は彼氏がいて、付き合い始めの頃にこの話はしている。

もし次に付き合う人がいたとしても、この話を受け入れてくれる人でないと出産はできないなあ。

きっと妊娠して産婦人科に通っている最中に、妊娠経験があることが分かってしまうと思うから


ちなみに中絶パパ活からは足を洗ったが、風俗では働いた。

今はそれも完全にやめ、正社員として働いている。


色々と意見もあるかもしれないが、あくまで一例であり、そして恐らく一番自業自得な例だと思っている。

ゴムを付ける約束はしていたのに生で入れてきた男も悪いと思ってはいるが、私も十分悪いことをしている。

インターネット正義マンたちと国語力について思うこと

インターネットを見ていると、フェミニストだの反○○だのいろんな思想の人たちが喧嘩している。

あえて喧嘩表現するのは、大抵が議論に満たない罵りあいしかないと感じるからだ。

インターネットの普及で同じ思想属性人間同士が出会いやすくなったのはとてもいい事だと思うが、同じような人間同士で固まっているとその中での常識やら正義やらに凝り固まってしまいがちだと思った。

今回思ったきっかけは、緊急避妊薬のOTC化の是非。フェミニスト?なのかよく分からないが、TwitterのTLには「何故買えるようにしないのか、困っている人はたくさんいるし、悪用するような人はいない」という意見が溢れていた。

Twitterでは言えなかったが、私は2度、緊急避妊薬を処方してもらった事がある。今思うとDVのようなものだったが、当時の相手避妊してもらえず、自分避妊を強いるよりマシ程度の軽い気持ち受診し処方してもらい、しかもその後の通院をブッチするというクソムーブかましていた。

自分が類まれなるクズだっただけかもしれないが、実際「軽い気持ちで緊急避妊薬を使う」人間はいると知っている。品行方正な人には想像もつかないだろうが、どの界隈にもそういう意識人間はいものだと思う。

こういう問題を「議論」するには、同じような属性、同じような思想の人同士が同じ正義の元に語っても意味が無いと思う。

けれど、「喧嘩」している人たちは、別の正義を持つ人達がどうしてそう考えているかまで思い至っていないように感じる。

別の正義理解することは議論の最低条件だというのが持論なのだが、案外それができない人は多いのかもしれない。

別の正義理解する能力を磨く方法というのはきっと、「思いやり」というやつだ。

「思いやり」というのは優しいかどうかとかいスピリチュアル能力ではなく、「登場人物気持ちを考える」「作者の主張を読み取る」というような、いわば「国語力」のことだと思う。

オタクというのはこの国語力が高い人が多いものだと思っていたが、そうでない人が増えたのか、そもそも言うほど国語力が関係ないのか、皆インターネットでは相手を思いやらなくていいと思っているのか知らないが、

頭のいい人であろう人たちも議論にもならない喧嘩をしているのを思うと、なんだかとても悲しくなってくる。

せっかく意見を交わしやすい場があるのに、みんながもう少し思いやりをもって議論することができたら、もっと世の中良くなるんではないかな、とぼんやりと思った。

父の話

きょう、父が死んだという報せが来た。

わたし中学生の頃、修学旅行に出かけるのを見送ってくれたのを最後に姿を消した父だった。

父が姿を消して以降当時住んでいた土地を離れるまでの約2ヶ月間(その後もだけど)、母が大層苦労していたのはなんとなく覚えている。どうやら父は働いていた会社にさまざまな迷惑をかけていたようで、会社の人が行方を探していたのだ。(母は捜索願を出すよう強く頼まれていたし、引っ越したあとお世話になった不動産屋さんに父の会社から私たちの転居先を訪ねる連絡が何度もあったと聞いた)

その後両親は無事に離婚をし、そこにいたる過程とある土地に住んでいることを知った。会いたいという気持ちが湧くことは当然なく、どこかで生きているのだろうとだけ思って過ごしていた。

当時未成年だった私は父の戸籍から抜けることが難しく(家庭裁判所申請必要だった)、急がなければならぬことでもないとそのままにしていたけれどそれが今回報せがくるきっかけになったのだろうと思う。成人してからさっさと抜いておけばよかったと今は後悔している。

役所から来た手紙には父が死んだこと、独居で身寄りがなく、すでに火葬が終わっているので期日までに遺骨と家財の引き取りをするか否かの申し出をし、残った財産等で葬儀をあげて良いか答えて欲しいという旨が書いてあった。

遺骨の引き取りをするつもりはもちろんないし、家財など送られてきても困るので拒否をしようと思っている。相続についても書かれていたので、もしかすると借金などあるかもしれないし放棄するに限るなと一枚の紙を見ながらぼんやりと思った。

住居の所在地が書いてあったので、なんとなく調べて察しがついたことがあった。

おそらく父は、その土地福祉関連にお世話になっていたのだろう。大層ご迷惑をかけてしまったに違いない。これからさらにご迷惑をかけてしまうのだな、と申し訳なく思ったが正直もう関わりたくないので早めに返事を出さねばならない。重ね重ね自治体の皆様申し訳ない。

明日から相続放棄手続きも取らねばならないので気が重い。

身寄りもなくたった1人で死ぬとはこういうことなんだなということを突きつけられた気がした。いつかは私にも同じことが起こるだろう。独り身で一生を終える可能性が高いわたしは、どれだけ周りに迷惑をかけずに死ぬことができるのだろうか。

同じように独り身の兄の後始末はわたしがすることになるだろうが、わたしはどうなるのだとふと不安になった。

そう考えると、父はまだ幸運だったのだろうか。そんな思いが頭を巡ってしまっている。

2020-07-29

初めて艦娘轟沈させてしまった

2014年から提督になってはじめて艦娘轟沈させてしまった。

別の鎮守府でもしかたしたらその子相棒やお嫁さんにしている人がいるかもしれないので名前は避ける。

彼女はいくつか前の期間限定海域から一緒にいてくれた子だった。

いつも攻略優先なので「もし会えたら嬉しいなぁ」などとぼんやりしていたらコロッと現れてくれた。全部の艦娘が等しくかわいいと思っているけれど、そういう予期せぬ出会いの子は少しだけ特別感があったりする提督もいるんじゃないだろうか。その子はそんな子だった。

さっそく演習に組み込んで実践レベルまで鍛錬する。出撃する時の声MVPをとって高揚している声も何もかもが可愛かった。姉妹艦について話す姿なんかは親になった気分でほこほこしながら見たりもした。

艦娘お約束でさっそく期間限定で着替えた姿も見せてくれた。あのオフの日ような振る舞いがいつもの「戦う女の子から普通女の子」になったみたいでギャップにやられたりもした。とにかく可愛かった。艦娘は全てがかわいいと思う。


自分がちょうど着任した頃は、一番艦これが盛り上がっていた時だったんじゃないだろうか。自分サーバーの空き待ちをして、二度目の抽選で初めて新米提督になった。

事前に噂は聞いていたし、ゲームといえど操作ミスが無い限りお別れなんてことはないだろうと、例え一時のバイト艦娘であろうと誰も沈ませないできた。

一時攻略ダメコンを使っていたが、戻ってくるとわかっていてもあの演出にはドキドキするし、連合艦隊の第二艦隊旗艦は沈まないとわかっていても大破になる度に心臓がぎゅっと掴まれているようだった。あの感覚を味わってからより一層轟沈は出さないと固く誓ったはずだった。はずだったのに。

流行り物だし、と軽い気持ちで初めて早6年。就活の時も転職した時もほぼ毎日ゲームに触っていた。最初就職した会社はとにかく毎日が辛くて、朝起きてすぐと夜寝る前少し艦これを触るのが癒やしだった。その後それさえ辛くなるかもしれないと思った所で転職した。たまに審神者オヤカタなんかに浮気したこともあったけど、気がつけばいつも母港画面を眺めていた気がする。


数日前、期間限定海域で初めて艦娘轟沈させてしまった。

完全なミスだった。ちょうど眼鏡を外してすぐで、ぼやけた目が中破と大破を見間違えてしまったのが原因だと思う。

気が付いた頃にはもう遅かった。ボスマスで大破艦がいると気が付いたと同時に、なんで、中破だったのに、と脳が事を認識しようとすると同時に一巡目の攻撃でその子が沈んでしまった。

わずリロードを押してしまった。押してもどうにもならないことはわかっていたが、押してしまった。

それからなんとか母港に戻っても編成確認するのが怖くて、初めて艦これをしない数日を過ごした。二期移行を除けば初めてだったかもしれない。

それでも習性というのは怖いもので、数日後、朝アラームを止めた後すぐPCを開くクセがついていた自分は寝起きに一人足りない編成画面とご対面してしまった。

から崩れ落ちた。忘れていたわけでは無かったが、いざ直面するとキツイ

それから一日なんとか仕事をこなした。普通仕事できてしまうのがまた悲しい。お手洗いやコピー待ちなんかの本当に何も無い瞬間がいちばん辛かった。


正直、艦娘かわいいと思っていても、いくら生活の一部に組み込まれているとしても、所詮ゲームだと思っていた。

レアな子が轟沈したり、もう入手チャンスがない装備なんかが一緒に持っていかれたらそら辛いわな…程度にしか考えていなかった。

SNS轟沈を嘆く声を聞いても「まぁそうは言ってもゲームだし」と心の中で思っていたし、アンチによる故意轟沈動画を見かけても全く同じことを思っていた。

二次元から後腐れなく、ゆるゆるまったり遊べる。実際、艦娘が一人沈んだところで私の生活になんら影響は無かった。仕事もできた。


けど今猛烈に胸がモヤモヤとしている。正直しんどい習性のように母港画面には行くけどそこから何も触れない。

食欲はある。夜も眠れる。けどスキマ時間に沈んだ子がふと浮かんできて頭が痛い。

の子期間限定海域しか会えなかったといえど、そこまで入手困難な子ではない。装備も頑張って改修したものがあったが失って嘆くほどのものではなかった。

そこまで落ち込むほどのことではなかったはずだった。


今もう一度艦これをしたい気持ちと、もうしたくない気持ちがせめぎ合っている。

なので言葉にして書いてみたが、こうして見てもよくわからない。

ずっとモヤモヤしている。

別のゲームも少しだけ平行しているので、そっちに集中してみた。

集中している間はいい。終わった瞬間からまた次の集中までがとてつもなく辛い。

艦娘のことはとてもかわいいと思っているし、大事だけど、やっぱりゲーム世界には変わりない。

自分三次元に生きていて、息抜き二次元世界を覗いていたはずだから、多少それが変わっても何ともなかったはずなのに。

こういうのは時が解決してくれるものなんだろうか。

いつかどういう方向であれ解決した時に、またこ文章を読み返したいと思う。


もし同じく提督の人や、違うゲームだけど似たような経験があるという人がいれば、よければ軽い気持ちで良いから何か一言くれると嬉しいと思っています

どうか参考にさせてください。

高齢になったお得意様

我が家は細々と農産物販売する兼業農家で、20年くらい前から通信販売もはじめた。始めた当初は母が諸々の事務担当し、8年ほど前に私にその仕事が私へ引き継がれた。

代金の回収は商品着後の後払い(郵便局コンビニ)で、ほとんどのお客様は滞りなくお支払いしていただいている。


そんな中、本当に初期の頃からご利用いただいている、Aというおじさんがいた。

Aさんはいつも電話で注文をしてくれる。特にうちのブルーベリーを気に入ってくれていて、一箱は奥さんと食べるために自宅へ、あとは兄弟や従兄弟に送りたいから、〇〇県のB、△△府のCに同じ商品を送ってね、というように注文をくれた。

Aさんのご兄弟我が家商品を気に入ってくれて、兄の紹介で、と注文をくれたこともあった。

Aさんとは直接お会いしたことは無かったが、電話の話だと過去営業をやっていたとのことで、声にはハリがあり、大変はきはきと喋る。熨斗確認などの際も、細かく指示をくれたので、15年の間にAさんに変化が訪れていたなど想像もしていなかった。15年。私はまだ学生だった頃だ、そのくらいの時間が流れたいたのに、気づかなかった。


ある年のこと、Aさんに商品請求書を送ってから3週間が経過した。我が家では着後2週間以内のお振込みをお願いしているが、まあ土日や祭日に商品が届くこともあるので、入金漏れのチェックはおよそ3週間を目途に行っている。Aさんは今まで着後すぐに入金をしてくれるタイプの人だったので、家族でもあれ?という話になった。商品の追跡を確認したが、発送の翌日にはお受け取りいただいている。Aさんからの発送依頼で商品を送ったご兄弟の方々も同じくお受け取りは完了していた。

入金の確認がとれないまま、4週目に突入した。請求書の発行履歴はある、これまでにあったパターンだと、請求書を紛失した?でも、Aさんなら請求書を紛失したと言ってくるだろうし、となると何かあったのだろうか?

私はAさんの自宅へ電話した。


Aさん「はい、Aです!」

私「××の私と申します」

Aさん「あ、××(会社名前)さん! どうしたの?」

私「すみません、実は商品発送後、Aさんの入金確認がとれておらず、お電話させていただきました。商品とご請求書は届きましたか?」

Aさん「ああ、商品は届いているよ~ ごめんね、冷蔵庫に空きがなくて仕舞えてないんだ。早いところ食べないとね、請求書は、ちょっと待ってね、見たような気はするけど……」

私「あ、はい、あのもし紛失されたようでしたら、再送致しますが……」

Aさん「あ、あった、ありました、あれ?おかしいなあ、忘れちゃってたのかな。ごめんなさいね今日は、え~っと、土曜日か! 週明けに至急振込みますので!」


そう言うなり電話は切られた。

冷蔵庫仕舞えてない」「土曜日」この二つの言葉に私はじわりと嫌な感じがした。

まず、この会話は商品を発送してから4週目に突入たころのやり取りなのだブルーベリークール便で送ったが、その後少なくとも常温で20日以上経過している。傷んでいるだろうし、下手をすると腐敗している可能性もある。だが、Aさんはそれを食べないとねと言っていた。

そして、Aさんは土曜日と言っていたが、その日は普通の平日だった。


5日ほど経過した。もちろん入金はなかった。

私は家族相談した上、経緯(食い違いがあるといった内容は書かず、何日に商品を送った、請求書の送付から何日が経過している等)を説明した手紙を同封し請求書を再送した。奥様がいると言っていたので、奥様に読んでいただければと思った。

再び5日ほど経過したが、何の連絡もなかった。


私は再度Aさんへ電話をかけた。

Aさん「はい、Aです!」

私「××の私と申します、先日お電話したブルーベリーの件で……」

Aさん「××(弊社の名前)さん! ブルーベリーね、昨日おいしく食べたよ」


嫌な予感が当たった衝撃。Aさんの嘘であって欲しい、本当はぐじゃぐじゃで食べられなかったけど、気を使ってくれただけだと。いや、でもAさんなら、もし食べてしまっていたら、今年のブルーベリーはおいしくないって正直に言ってくれるはず……Aさんの言った昨日がせめて、先日の電話の日であって欲しい……食べられる部分だけ食べたのだと……そんな日にちの感覚がずれているだけであって欲しい……。色々な考えが巡った。


私「請求書をお送りしたんですが……」

Aさん「んっ!? 請求書ね、ちょっと待ってね……妻が出て行ったから、持って行っちゃったのかなあ、申し訳ございませんね、今日は、え~っと、土曜日か! 週明けには至急振り込みますので!」


先日とほぼ同様のやり取りだ。


このままでは代金の回収ができないこともだが、Aさんの生活は成り立っているのだろうか、それが不安だった。奥様はお元気なんだろうか、家族のことに踏み込むのは失礼にあたるだろうが、Aさんが常温でずっと放置されたブルーベリーを食べるような生活を送っていることを知った上で、このまま見過ごしていいのだろうか。

もちろん、Aさんとは親戚でもなんでもなく、顔も知らないし年齢も分からない。遠い所に住んでいるお客様の一人だ。けれど見て見ぬふりをするのが正解、代金の回収も諦めてそのまま(大口の注文ではないので、できなくもないが)、と割り切ることもできなかった。

その後も、Aさんへの電話は続けた。逆に、Aさんから電話がかかってくることもあった。やり取りは同じようなことを繰り返すことになった。

Aさんの調子には波があるようで、ブルーベリーの注文をしたことすら忘れているときブルーベリーを食べたことを忘れているとき、注文はしたけど届いてないよと言われるときがあった。奥様とは相変わらず連絡が取れなかった。

かかってくる電話は、早朝に来ることもあれば、夜にくることもあった。


家族と再度相談し、今回はやむなし、ということで、私はAさんのご兄弟のBさんに連絡をさせていただいた。過去ご注文をいただいたご兄弟履歴が残っていたのだ。

経緯を説明すると、「お察しのことかと思いますが、兄は痴呆症なんです」「義姉(Aさんの奥さん)は既に他界しておりまして」「私も月に数度様子を見に行っておりますが」「日常生活身の回りのことは大体出来ているので、あとはホームヘルパー派遣したり、週に数度は兄の息子夫婦が訪ねたり」「息子さんは〇〇(大手企業)の役員をやっていて、その奥様が様子を見に行っているようですが、二人ともいい人なので、代わりに支払いを申し出て下さると思いますよ、私の方から経緯と事情説明しておきますね、そちらの会社名とご連絡先も伝えておきます

本来、私が心配しなくてはならないのは代金の回収だけのはずだし、私でも知っているような企業にお勤めの息子さんご夫婦が定期的に訪れているのだ、生活に困窮なんてしていないに違いない。どんな生活を送っているかなんてわからない。これ以上私などがAさんの心配をすることも、私にこれ以上できることもない。そうは分かってもなんだか、Aさんの老い時間の流れや……何ともしがたいけれどつらい気持ちになった。

後日、Aさんの義娘にあたる方からご連絡があった。請求書の送り先の住所は、都内マンションだった。3日もせず、入金があった。


私たち家族としてはとりあえず一件落着、と思っていたさらに数日後、なんと当のAさんから電話があった。

Aさん「ブルーベリーいただいたよね! 請求書を送ってくれるかな?」

Aさんへ請求書は4度ほど送った。送ったとだけ言うと、Aさんからまた電話がくるかもしれない。

悩んだが、入金は完了したことだけを言った。

Aさん「えっ? そんなことないよ、まだ支払ってないはずだって

困った。少し押し問答になり、悩んだ結果、私はこのような嘘をついた。

私「ご請求書の件ですが、何度かA様宛に郵送したのですが、郵便事故でA様の所へ届かなかったようです。申し訳ありませんが今回だけ息子さんご夫婦の所へ郵送させていただきました。お支払いも息子さんご夫婦代理で行って下さいましたよ」

Aさんはものすごく怒った。悪くなったブルーベリーの違いも分からなくなり、時間曜日感覚も失い、けれど息子に迷惑をかけたことを恥と感じ、こんなに辱められたのは初めての経験だ、客へ行う仕打ちではない、一体どんな会社教育なんだと御叱りを受けた。私は謝罪した、10分ほど謝罪を続け、Aさんは怒りを納めて、また来年ブルーベリーを注文させていただきますと言い、電話は終わった。

翌年、Aさんにはブルーベリー案内ハガキは出さなかった。Aさんからも問い合わせも注文も無かった。


Aさんの弟さん、息子さん夫婦、ここまでサポートされ、身の回りが出来ていると判断されていても、Aさんは腐敗した食べ物を食べている。でもそのことをBさんに伝えることはできなかった。そんなこと分かっていて、それでもAさんの性格や折り合いから付きっ切りなんてできないのかもしれないし、もしかしたら腐敗した食べ物を食べていることも知っているのかもしれない。

あるいは、Bさんに伝えたところで息子さん夫婦ヘルパーさんが叱られるだけで、でも手のつけようがないのかもしれない。

外野が出る幕でもなく、余計な心配だったのかもしれない。でもどうしたらよかったんだろうとブルーベリーの時期になるとぼんやり思い出す。

こうしたお客様は今後も出てくるかもしれないし、私もいずれAさんみたいになることもあるんだろうな、なんてぐじゃぐじゃした気持ちを、今も引きずっている。

anond:20200728112036

頭がぼんやりするのはエアコンがないからだと文句を言ったら「お前が貧困層から悪い」「体温を下げる努力しろ

2020-07-28

anond:20200727213107

というか逆に「彼氏できたらこうなりたくね〜〜〜〜〜」という恐ろしさがあるので逆に恋愛したくなくなる悪循環生まれる。

これすごくわかる。特に三次元嫌悪もこじらせたオタク女だから「え!?なぜシミシワほくろ無駄毛だらけでたいして顔も整っていない人間にそこまで入れ込む!?」とおもってしまいまったく感性が噛み合わなくなる。彼氏作らなくても三次元アイドル俳優流れるオタク女見ると「え~~~…」と思ってしまう。三次元転向したオタク女を見るたび、屍人ってあんな感じなのかな…とぼんやり考える。(三次元恋愛という書き方だったので元増田も単なるオタク女ではなくその中でも二次元しか興味がないタイプかなと勝手想像勝手同意して書きました。もし三次元もいけるタイプだったらごめんなさい)


ここから直接関係ない余談。友達彼氏を作ったら私がやばくなった話。

相手は幼馴染みとよべるような友達で、高校別になってからもちょこちょこ連絡を取り合っていた。その友達が急に連絡を返さなくなった。

その後ふとしたきっかけでまた連絡がとれるようになったので、返事をしなくなった頃の話をそれとなく聞いてみると、実は連絡を返さなかった時期彼女病みに病んでいてそこをネットで知り合った彼氏に助けてもらいそのままお付き合いを始めたらしい。

私はその空白の期間の事実を知り、「私のことを放っておいて彼氏イチャイチャしてたってこと…!?」という嫉妬独占欲…言い方を変えれば「あの野郎(※彼氏)、俺の○○ちゃんを取りやがって…」的な感情が湧いてきてその後しばらくそ友達ツイッターで見るたびイライラしていた。友達自覚なしに彼氏の話をさりげなく混ぜてくるしだんだん私とはおでかけもしてくれなくなって彼氏ばかりと出掛けているようで余計イライラしていた。

このイライラには彼氏への敵意だけでなく「あの子が病んでいたときもっとしてやれることがあったのではないだろうか?私は『病んでいたあの子を救えなかった』点で彼氏にもう負けているじゃないか」という無力感自分への失望も含まれていた。そしてそのイライラの中の無力感に気付いたとほぼ同時に「あっもしかしてこれ共依存だったのかな?やべっ」と気付いて少し友達距離を取るようにした。

濃い(ピンクの)オタク話ができる機会は減って悶々とすることが増えたけどほんとに彼氏のこと🔪しそうだったししょうがいね問題彼氏友達同人グッズ製作にも関わっていて、私としてはずっと友達作品見てきたしグッズも買い支えたいけど、友達の作ったグッズは実質彼氏の作ったグッズってことなんだよな…はあ~無力無力。

カフェの片隅で一人、周り確かめて、マスク外してぼーっとしてたいのだが、片隅も間合いもあるのに、視線がうるさいので、ぼーっともできない。

今思うと、カフェ図書館ぼんやり本とか読めてたのは幸福時間だったな。

インテリマスク外したいけど周りの目が気になるからなー(チラッチラッ、アピールやりがちなの何なんだ。マスクくらい自信持って外せよバカがよ。

最近つらいか死にたいと思わなくなったけど自分は死んだ方がいい人間から死なないとなあ〜とぼんやり思う程度になった

前進なのか後退なのか

自担自担

私には今まで(といっても4年ほど)、Aくんの担当しかしたことがなかった。

それに、二次元にも推しはいてもあの事務所内でA以外に「自担」と呼べるような人は現れないと思っていた。なぜなら私は盲目的にAのことを好きだったし、その好きにはアイドルとしての好きとちょっとリア恋感情があったから。リアルにAに恋してるのに他に好きな人ができるわけがない。

しかし数年前、Aにある変化が起きた。そこからAは彼自身気持ちやしたいことをするようになっていった。それ自体はいい。アイドルかいう前にAの人生なので好きなことして生きてほしい。しあわせであってほしい。ただその変化が私とピッタリ合うというわけではなかったので、(本人と私の思う「アイドルAくん」像が違うという点で)所謂自担との解釈違いのような状態になってしまった。(そこでちょっとリア恋〜みたいなのは薄れたと思う。)

なってしまったのだが、そこまで深刻ではない。たとえばあまり好きな外見ではない時期があったり今まで言わなかったことを発言したりした程度で、現に私はAを自担だと思っている。とても好きでかっこいいしかわいい。

もし読み手に深刻そうに伝わってしまっているなら私の表現力のせいである。

Aはいつも通り好きでかっこよくて最高の自担!.....でも少し気になるところがあるな。周りの同担は気にしてなさそうだけど。という程度で割合にすると9:1の9が自担最高!の気持ち。めでたい。

私はきっとAに昔のようなAを求めてしまうけど気づかないフリをしていた。そしてそんな中突如現れたのが後輩グループのB。

Bのことは以前からそのグループ内でもかなり好ましく思っていた。歌番組でもAのいるグループを目当てに見ているとBのいるグループもだいたい出演していたためシングル曲を知っている程度。それ以上でもそれ以下でもなかった。ただその日みた歌番組の後輩グループがかわいかった。Bの歌声仕草が好きだと思った。それからというものの出演番組を全部録画したし、CDDVDもこの歌番組以降発売されるものは買った。雑誌も買った。さすがにドル誌を毎月買うことはないけれど。

後輩グループ活動を見ていくごとに、若くて未来があるっていいなと思っている自分がいた。

それに、気づかされた。本当は自分がAにかわいいAでいてほしいと思っていることに。

勿論、Aのグループに夢を見ていないということはない。でもどうしたって勢いと若さにはやっぱり適わないのかもしれないと思うと、なんだか切なかった。Aのグループは、客観的に見るとピークが過ぎたのだと思う。私はファンなのでまだまだこれからだって言い続けるけれど、ピークは過ぎたと認めざるを得ない。

対して後輩グループは、まさに「これから」。応援していて明るい未来が見えるって大切なことらしい。彼らについていけばものすごく楽しいことがあるんだという気にさせられる。ライブ円盤を見終わった頃にはBを自担だと思っていた。自担と呼ぶ他ないという感じだった。

Aのいるグループ自担をAとしながらも箱推ししているのでグループとして本当に好きだけれど後輩グループはBが圧倒的に好きだ。きっとランキング形式にすると1位がA、2位がB、3位〜はAのグループの他のメンバーが同率で占めることになるだろう。後輩グループはその下だ。

からCD等の売り上げではAのグループがいい数字を出せて後輩グループがそれに劣っていたら、まあ!私の好きなグループは強いわよ!、なんて思うがこれが逆ならおもくそしかったりする。

いまの現状は後者。後輩グループの方が売り上げがいい。

からいつかAのグループは後輩グループよりも目立たなくなってしまうと思う。悔しい。CDめっちゃ買いたい。学生なのでなかなか厳しい。

悔しいだけじゃなく怖い。

今までA>Bだった自担自担バランスがいつかA=Bになり、さらにA<Bになることが。

なんで怖いのかは漠然としている。

でもこれを怖いと思ったのは着実にA>BからA=Bに移行している自分がいると気づいたから。

私は担降りしてしまうのだろうか。いや、仮にAから担降りする日がやってきたとしてもグループ自体が好きなので箱推しとして好きであり続けるとは思う。

でもいつかAをBが超える日がくるのかな。

あ、もしかしたら私はいまのバランスが崩れるのが怖いのかもしれない。

どんな風にヲタクしたらいいのかぼんやり考える今日この頃。後輩グループ推してるくせにAのグループライバル.....と思ってしまう。そう思いながらもCD買って売り上げに貢献している。

ふわっとした文章でごめんね、読んでくれた人。

こんな気持ちになったことある人いるのかな〜。

2020-07-27

スノトラに命を救われた嵐担の話

‪スノトラで命を救われた方の沼落ちブログを読んで、私も命救われたしな…と思い、私もスノトラに対する気持ちアウトプットしようと思いました。‬

‪嵐担なので地に落ちるまでの嵐に関するお話が長いです。‬

‪全体的にちょっと長めかもですがご容赦ください。‬

2019年1月27日日曜日だった。私がその報道を見たのは確か18時ごろだったと思う。LINEニュースの速報だ。嵐が活動休止するのだという。‬

‪私は嵐が好きだ。担当松本潤くん。彼のビジュアルから入ったものの、好きなところは数えきれず、ストイックさや直向きさ、とても可愛らしいところ、でも魅せ方をしっかりわかっているところなど挙げたらキリがない。‬

‪潤くんとの出会いは遡ること19年前。当時小学2年生だった私のクラスではみんながみんな嵐が好きだった。‬

‪そして、シャーロキアンの母の影響でミステリーが好きだった私は当然のように金田一少年の事件簿も好きだった。‬

レンタルビデオ屋に行けば専らディズニー堂本剛金田一を借りていた。‬

‪そうして二代目実写版金田一少年を見た私は、人生の生きがいに出会う。‬

しかしながら、それ以降は好きな芸能人を聞かれると、ほぼ毎回松本潤と答える程度で強くは追っていなかった。‬

‪追っていなかったものの、嵐が出ていたならばテレビは見たりしていた。‬

‪そんな私が、中学卒業から高校1年にかけて何のきっかけでもなく松本潤に強い感情を抱くようになる。中学では、松潤のこと好きだなと思う程度だった女が、ある日突然、嵐の大ファンになるのだ。こわい。親も驚いたと思う。‬

‪今考えると当時の嵐は10周年に向けて動いており、私も世間の熱気に当てられたのかもしれない。‬

‪それ以降は嵐が出ていたならばリアルタイムで見ていても録画をし、円盤に焼き、雑誌はほぼ全て買い、切り抜きしてファイリングし、ジャニーズショップにも足繁く通った。‬

‪また、当時はK2やA2、N3と言った掲示板全盛期でもあり、登下校時には毎日のように掲示板を見て楽しんでいた。アタス子とか覚えてる方いますか?‬

‪そうして、青春を嵐と共に過ごした私は事務所担寄りのオタクへと変質し、生き甲斐松本潤、ひいては嵐となった。‬

‪時は過ぎ、高校卒業大学入学大学卒業を経て上京就職転職をし、嵐にめちゃめちゃ注力しているわけでもないが、やはり生き甲斐は潤くんであった、2019年1月27日。私は目の前が真っ白になった。‬

‪その頃にはもう嵐が大好きで仕方がなく、彼らがステージの上でキラキラした衣装を身につけて歌っているの見ると反射的に泣く程度にはクソデカ感情が育っていた。‬

あの日はちょうど埼玉での泊まり込みの出張最終日で翌日の朝に帰京し、事務所作業の予定だった。‬

出張中の移動は主にレンタカーなので、休憩に立ち寄ったセブンイレブン駐車場で私はあの速報を見た。その日の仕事は22時半頃までだったが常に泣きそうな中、ふと緩んでしまうと泣いてしま状態仕事をした。‬

仕事が終わり、宿泊先のホテルに入った途端、封を切ったように、涙が出た。‬

‪嗚咽を漏らしながら泣き、見苦しくも友達電話をした。‬

‪その日は日曜日。翌日は月曜日である。つまりNEWS ZERO櫻井翔が出るのだ。‬

‪最早、どうしたらいいのかわからなかった。人はショックすぎることがあると頭が真っ白になるというのは本当なんだと体感し、また泣いた。‬

‪一人で過ごすことはできなくて、28日の夜には私用で上京していた友達に、ZEROまでの時間、飲みに付き合ってもらった。‬

‪そして泣きながら見ZERO櫻井翔は言ったのだ。有働さんに「復活はあり得ますか?」と聞かれた櫻井翔は答えた。「あり得ます。」と断言した。希望だと思った。‬

‪翌29日はちょうど仕事休みだった。朝起きてまた泣いた。ボーッとつけていたワイドショーでその類の報道が流されまた泣いた。あの3日間は生まれた時以来、人生で一番泣いた日だったのではと思う。‬

‪私はやば目のオタクなので、潤くんが結婚した時など、嵐に関してショックな出来事があってもダメージを軽減しようと、常からイメージトレーニングをしていた。例えば、潤くんの婚約発表、披露宴結婚記者会見、おそらく50年以上先にはなるだろうが一番辛い告別式などである

ただその中で何よりも想定していなかったことが活動休止であった。嵐として5人が並ぶ日が来なくなるなど、微塵も考えていなかったのである。‬

‪そこから私の虚無の日々が始まる。多くの方もそうだろうが、私は辛い時には音楽を聞いたり、推しを見たりすることが多い。‬

しかし、今その辛い原因は他でもない私の生き甲斐なのだ。潤くんを見たところでまた泣いてしまう。嵐の曲を聞いたところでまたさらに泣く。‬

‪だからといって他の曲や推しでは代替えできなかった。‬

‪後押しして欲しい時にはファイトソングを聴き、辛いことがあればHappinessを聴いた。夏を感じた日にはSummer Splash!を聴き、気持ちの整理がつかない時には、感謝カンゲキ雨嵐を聴いた。‬

‪嵐によって開けられた穴は、他では代替えできないほどに大きなものだった。‬

‪嵐がSNSを始め、サブスクを解禁した時もそれはそれで嬉しかったが、やはり辛かった。‬

2021年なんてこなければいいと思ったし、もう全てがどうでも良かった。

嵐が活動休止する2020年12月31日までは前を向いて生きようと思っていたが、それ以降は本当にどうなろうが、どうでも良かった。‬

いくら櫻井翔が明言してくれたところで、希望があったとしても、やはり不安は拭えず、生き甲斐が例え一時的であっても無くなることの恐怖が強かった。‬

‪日を追うごとにその感情は強くなり、2021年以降の自分が全く想像できなくなった。‬

‪この頃は本当にたくさんの人に心配をかけたと思うし、ジャニオタでもないリア友からLINEやリプをたくさんもらった。今思うと、とてつもなく申し訳ない。‬

‪そんな風にカスみたいに生きていた時でも嵐がテレビに出ていれば当然見る。そうやって見ていた、あれからちょうど10ヶ月後の 2019年11月27日。その日放送ベストアーティストで私は天使出会う。‬

‪当時、Jr.について詳しくは知らないものの、ジャニオタの端くれとして1月Snow ManSixTONESデビューするらしいというのは知っていた。が、しかし私が知っていたのはSnow Manラウールという単語のみで、 顔と名前が一致していたのは、B.I.shadowであった SixTONES松村北斗と髙地優吾のみであった。‬

‪そんなほぼ無知な私が見たのは、D.D.のコココガチャで魅せ方をよく熟知した、金髪の、足の長い子だった。一目で目を奪われた。こんな子がいたのかという衝撃は凄まじく、やっとラウールという名前と顔が一致した私は、個性的な9人のメンバーに引っ張られ急転直下スピードSnow Manに落ちていく。‬

‪当時のSnow Manデビュー前であり、未来があって、輝きに満ちていた。‬

楽しいと思った。嵐が決めたことや嵐を決して否定するわけではないが、後ろを向けば期日が見えていた推し事と、先が続いているような感覚を得られる推し事はやはり大きく違った。

‪もし、嵐が出ないのであれば見ることができないと思っていた2020年カウントダウンコンサートも、それ以降の歌番組も、Snow Manが出るならば見ることができると思った。‬

自担を追うってこんなに楽しいことなんだ。‬

‪全く見えなかった私自身の未来も同時に見えたような気がした。‬

‪そして友達に誘われ、Snow Man目的で見た素顔4で私はまた出会いを果たす。‬

‪私はディズニーが好きでパークに行きたくて上京した。そんな女なので当然ミュージカルも好きである。そしてTravis Japanの夢のHollywoodは非常にツボな曲であった。‬

楽曲衣装が好きだなあと思いながら見ていた夢ハリで、センターの子がいきなり「みんなで一緒に〜!!」と会場に向けて煽り始めた。煽ること自体おかしくもないが、その煽りの後に続いたのはコールアンドレスポンス等ではなく、タップダンスであった。タップダンス!?みんなで一緒に!?!?と私は大層混乱した。混乱しながらもこれがきっかけでTravis Japanダンス動画等を見るようになる。‬

‪今の時代は非常に素晴らしく、ジャニーズJr.オリジナル楽曲でさえもYouTubeジャニーズJr.公式チャンネルに上がっていたりする。しかも定点カメラダンス動画だって上がっているのだ。すごい。‬

‪そこで私はTravis Japanダンスに特化したグループだということ知った。‬

‪統率の取れたシンクロダンスや、ジャンルの幅広く取り入れられている振り、そしてしっかりと身についている歌唱力や、耳に残る歌詞に心奪われた。‬

‪そして来たる外出自粛期間。例に漏れテレワークとなった私はTravis JapanYouTube動画を全て見た。第一印象が「みんなで一緒に〜!」だった宮近海斗くんは時々ボケるのが可愛らしい、ダンスばりうまなリーダーだと知った。他にも才色兼備でたまにボケるのがまたかわいい川島如恵留くん、何をしてもかわいい上に自分で「俺かわいいから」と言って憚らない七五三掛龍也くん、顔が小さく手足が長いのにヒモ気質中村海人くん、ボケ役なのにリアコ枠でふとした時にとてもかっこいい吉澤閑也くん、独自感性をしっかりと持っているかわいいお顔の松倉海斗くん、魅せる時は魅せるのにちょっとおバカかわいい松田元太くん。

そして思う。私、この子たちはちゃめちゃに好きだわ…と。‬

‪ところで、ジャニーズブログをやっている。会員登録をし、月額料金を払えば所属タレントのうち、ブログが開設されている子のものは全て読めるのだ。ありがたい。‬

‪そこで嵐やSnow Manブログを読んでいた私は、当然のようにTravis Japanブログ、とらまるを読むようになる。‬

Travis Japanは甲乙つけがたいほどに7人全員が好きだと思ってしまい、いわゆる箱推し状態である。なのでとりあえず全員のブログを読む。当たり前である。‬

ブログを読み進めているうちに、川島如恵留くんの文面に興味をそそられるようになった。‬

‪如恵留くんの展開するアイドル観、勉強観、その他全てにおいて、人間として尊敬に値すると強く感じた。‬

‪さて、皆様は7月27日現在の最新の定期更新分は拝読済みだろうか。‬

‪最新の定期更新分で如恵留くんはこう書いている。‬

‪「貴方が辛い時に、生きていきたいと思える理由の一つに、僕らの存在が力になれたら」‬

‪それを読んだ時、ラウールSnow Manに会えるまで2021年なんてクソだと思っていたこと、Travis Japanに会うまで全てがどうでも良いと思っていたことを、恥じた。‬

‪また、如恵留くんがそう言ってくれるなら2021年以降も生きようかなと思った。‬

‪結局生き甲斐だった嵐の穴は大き過ぎて、ひとグループじゃ埋められず、Snow ManTravis Japanのふたグループ出会うまで埋め切ることはできなかったけれど、私は今とても楽しく生きているし、来年以降も楽しく生きることができるのだろうなと思う。‬

ラウール担として恥ずかしくないよう、ずっと二の足を踏んでいたダイエットにも取り組むようになったし、如恵留くんを見習って勉強をしようかなという気持ちにもなっている。‬

アイドルって本当にすごい。‬

‪私はきっと来年アイドルを追うことができるのだろう。本当に楽しい。‬

アイドルによって開けられた穴はアイドルによって塞ぐことができるのだと体感した。‬

‪今現在も嵐、Snow ManTravis Japanともに色々なことがあるし、このご時世、グループの存続に関して全く持って問題ないなんてことはなく、薄ぼんやりした不安を抱きながら日々を過ごしているけど、スノトラの16人に出会えるまでのことを考えると、なんてことはないなと思う。‬

毎日が楽しく、笑顔で過ごせる。私は今日アイドルに生かされ、明日アイドルのことを想うのだ。‬

‪嵐に色々あってから本気で死ぬことも考えたが、本当に生きていて良かったと思う。ありがとうSnow ManTravis Japan、そして嵐。本当に大好きです。‬

anond:20200727121727

そういう認識を得るに至ったエピソードにこそ面白みがあり、物事の深みを捉えるもんだと思うけどなあ。

理論だけ書かれても「はあそうですかそうかもね」くらいのぼんやりした感想しかかばない。

2020-07-26

26歳になってから生理が辛い

こんなに辛いものだったの?

今まで生理痛に悩まされたこともなかった。

痛みはあったけど、うわーきたか、と思うくらい。

から血が出る数日が不快なだけだった。

26歳になってから半年くらいだけど、ホント急に辛い。

ホルモンバランスとやらのせい?


■予定日の1週間〜10日前に体温が37度を超える

(平熱からするとやや高めの微熱

ぼわーっと暑い

これは熱がありますねぇ、という感覚

体がダルいし頭ぼんやりするし、夏場なんか最悪。

最近は毎月、コロナじゃないかと怯えてる。

検温される店には入らないようにしてる。


■予定日の1週間前くらいから極端なネガティブ思考に陥る

元々根暗だけど、輪をかけて酷くなる。

何年も前の言動を突然思い出して頭を抱えたり、

あの時ああだったこうだった、あんな失敗した、

周りにはこう思われてたんじゃないか

嫌われてる、好かれるはずがない、みたいな思考が止まらない。

人と会ったり、話したりするのが怖い。


■期間中、腰の鈍痛と下腹の捻じ切られそうな痛み

これがみんな苦しんでた生理痛か…と思った。

めちゃくちゃ重たい荷物を、

腰だけに体重かけて持たされてるみたい。

下腹はずっとギリギリ、ああここに子宮がありますねぇ…となる。

あと穴がとにかく痛い(生々しくてごめん)

筋肉が無理やり収縮してる痛み、みたいな感じ。

日常生活は送れるからまだマシな方なのかも。

ただ、前まではせいぜい2日目だけが痛みのピークだったから、

こんなに何日も続くと泣き言も言いたくなる。


■期間中、引くほどイライラする

世で言うPMSって月経"前"だったと思うんだけど、

私は期間中に来るタイプらしい。

普段なら電車で順番抜かされても何も感じないけど、

この時ばかりは突き落としてやろうかと思う。

絶対しないけど。思考けがギラついてる。

できるだけ外に出さないようにしてるつもりだけど

"その時"の精一杯の努力なので

平常時からしたら不機嫌かもしれない。


10日くらい続く(これは前から

3日くらいで量が減って、あとはダラダラ終わらない感じ。

痛みもイライラじわじわ続くようになった。


・・・こんなのを中高生の頃から耐えてきた

"重い"タイプの人たちを本気で尊敬してる。

単純計算で毎月の半分近くが不調なの、

どう考えても人体のバグでは?

生理ビギナーすぎて、この歳で驚いてる。

みんなどうやって乗り越えてるか教えてほしい。

2020-07-25

29歳喪ブス、服を買いに行く

・前回までのあらすじ

32歳腐女子記事に触発されてさすがに私もなんとかしないと駄目だよな~~と思って先週しまむらに行くも

デブサイズの合う服がないのでしまむらより遠方にあるユニクロに行く決意をした

今日

ほんとは木曜に行きたかったけどようやく雨が止んだのでこの日になった

先日イオンで買ったばかりのマスカラをして眉毛ちょっとだけ描いて顔の下半分はマスクで隠してしまむらで買った服を着て9時過ぎに家を出る

車の運転ができないので電動自転車

道中にヘビと出会って轢きかける あと隣の地区クマが出たよ~~というメールが来た 田舎である

ユニクロまでは初めて行くので道がよく分からず、住宅街沿いを走っていたら途中で行き止まりになり少しうろうろする

11時くらいに到着 迷わなければもう少し短縮できたとは思う

店内に入るも無地のシンプルTシャツばかりでびびる

無地T……デブスの無地T……ちょっと勇気が出ない……日曜日のお父さんになってしまうのでは……それに好きなアーティストツアーTシャツをたくさん持ってるからこれ以上Tシャツを増やすのもなという気も

いろいろ試着してみるも袖が短いものはふっとい腕と剃っても剃っても青髭のようになる腋毛が目立つので断念

なんかスケスケの素材の服もあったけどスケスケすぎて頭おかし痴女に見えたらどうしようと思いこれも断念

ワイシャツはこれだ!って色はSサイズとMサイズしかなかった まじでこの辺に住んでる人Lサイズ以上の人どこで服買ってるの

というか夏なのに半袖のバリエーション少なくない……?なんかもうちょっとうまく言えないけど袖がヒラヒラしてたりボーダーの柄がついてたりVネックとか裾がまっすぐじゃなくて弧を描くような形になってるのとか(名称が分からない)色々あるのかと思ってた……

※6年くらい前に推してたキャラVネックをよく着ていたかVネックだけはその時に覚えた

この辺はしまむらのが豊富な感じだったな~~~~~ほんとデブじゃなかったらな……

しょうがいかスカートだけ3着買った(中高の制服以外でスカートを持っていなかったので実質初スカートである

お昼は悩んだけど近くで中華料理食べた

田舎だとぼっちで飯食ってる女はマジでいないから浮きまくる上に詮索好きなババアが目を光らせている率が尋常じゃないので知り合いに見られていないことを祈りつつ帽子を目深に被っていっぱい食べた

目立つのは嫌だけど家では偏食の家族に合わせる必要があって色々面倒なので定期的に一人外食はしたい

近くにはゲーセン中古ショップやハンクラの店など普段なかなか立ち寄れない場所が多くて惹かれたけどくたびれたのでやめた

帰りにイオンに寄ってブラを買ったけどここもマジでサイズがねえ

安くてサイズが合うものがなかったので2着で6千円以上

帰ったら15時過ぎ 電動自転車の充電もほぼゼロになっていた

スカート3着とブラ2着買うだけで6時間……


くたびれて畳の上で寝そべって休んでる間に思ったけど少しずつファッション勉強したり服を買いそろえたりダイエットを頑張ってMサイズの服を着れるようになったとしてもその時には40歳になってそうだな

そしたらもう20代用の服は着れなくなっちゃうんだろうか そうなるんだろうなあ つ、つれ~~~~~~~~~~

普通女の子小学校高学年くらいからおしゃれに目覚めていくものから20年遅いわけでそれを考えるとしょうがないんだけど


前にここに悩みを吐き出してたらなんかめちゃくちゃ刺々しい感じで「あなたが楽しくオタ活する時間を他の子自分を磨く努力に費やしていたんだよ!」みたいに言われたけど

中高は2chに入り浸りぼっち生活大学ではオタサーに入るも当時ハマっていたのが知名度は高いけど同人は盛り上がってない系のものばかりで話が合わず幽霊部員になり

大人になっても同人イベにも一度も行ったことがないし

絵も小説も書けずツイッターでぽつぽつアニメ漫画映画感想と実況書いてたまーーにフォローからちょっとだけいいねもらったり5chやはてなレスバしてるだけだから言うほどオタ活エンジョイ生活してるわけじゃないんだよな

ほんとずーっとぼんやり生きてきた

人生って…………………

死人を好きになってしまった話

もう昔の話だし、自分の中で折り合いも付いていることなのだが、この経験を忘れたくないので備忘録的に書いておく。もし興味深いと思って読んでくださる方がいるなら有り難い。

以前、某フォロワーさん(仮にAさんとする)が自宅の室内写真をUPしていた。その中に写り込んでいた、遺影中の人物に私は一目惚れしてしまったのである。まだ10代後半か、20代そこそこだろうと思われる綺麗な顔立ちの方だった。Aさんには若くして亡くなったご家族がいると聞いていたので、多分その方だったんだろう。(Aさんはよく自撮りを上げる人だったが、似ているかどうかはよく分からなかった。原型が分からいくらいのお化粧をして、加工もしっかりするタイプの人だったので)

私は顔を見ただけで人のことを好きになってしまったのと、何よりもうとっくにこの世にいない人を好きになってしまったのとで困惑した。とりあえず、遺影が写り込んでいるのに気づいたAさんが写真を消さないうちに保存して、しばらくその人の顔をぼんやり見ていた。この人と話してみたい、どんな人か知りたいと思っても、いくらその顔立ちが好みであろうと、私が好きになる前からこの方はお亡くなりになっている。そう思うと、とても妙な心持ちがした。

何だかんだで端から成就するはずのない気持ちには、自分の中だけで折り合いがついた。しかし、一般的な「片思い」のそれとはまた違った、不思議心持ちを味わった。最初から積みみたいなものだが、悪くない経験だったと思う。(自分面食いだということにも気づかせてくれたし)

この間画像フォルダを整理していたら件の保存した写真が出てきたので、元想い人の冥福祈りつつ削除した。ぶっちゃけ他人から見たら気持ち悪いだけの話だろうが、あの時の自分気持ちだけでも、ここに書き残しておきたい。

anond:20200725084245

朝イチで海に入る。波が良ければ昼飯の後また海に入るけど、6時くらいから海に入ると大抵は昼近くになるともういいやってなる。

イルカ練習してる音が聞こえるなと思いながら年パスで入館。子供連れとカップルをかき分けて、大水槽の前のベンチで座って、イワシとかを見ながらゆっくりペットボトルの水を飲む。ボーッと眺めてると、自分もまだ海の中にいるみたいな、ぼんやりしたふわふわしたトランス感でいい気分になってくる。

水を飲み終わったら売店のある2階に行っておやつを買う。そのまま直進してイルカプールに。

12:30からイルカショーで席は満杯だ。入り口近くの、イルカ練習プールの近くに座る。出番を待ってるアシカイルカがソワソワしてる。

おやつを食べながらショーを見る。

終わったら電車に乗って帰る。

そんな土曜日

精神病の症状としての強迫に関連することだと思うが、

人と話すと、不快な内容なのに何度もその内容を反芻してしまい、

日常作業効率が落ちるとかは多い。

たぶん被害的な幻聴連続的な(質的には同じで程度が弱い)

心的出来事とか心的過程だと思う。

たとえば配信とか見てて、ゲーム内のキャラ発言に、

配信者がマジレスしかできんのかとかコメントしたこと

三日くらい反芻されるとか。

結局自分マジレスしかできんのは仕方ないけど、

面白いことを言おうとしているところではなんか言うのは控えよう、

と決意を新たにしたり。

その配信者が頑張ってお調子者を演じていて、

自虐的な含みがあるとぼんやりとわかっていてもそんな感じ。

2020-07-24

死ねないだけで生きてきた

初めて死にたいと思ったのは小学2年生の頃だった。

家のすぐ隣に出来たゴルフ練習場の明かりが眩しくて、眠れない夜が続いた時だ。

死にたい」という明確な気持ちがあったと言うよりは、明日もこのまま寝不足学校に行って、

眠くてぼんやりとしているところを先生に怒られて、というのを続けるぐらいなら、いっそこのまま消えてしまったらいいのにと願っていた。

そうやって暗いイメージが湧き出しては止めることが出来ず、幼少の自分には長すぎる苦痛な夜の時間から抜け出したくて、

ベッドに横になったままできる限り精一杯長く息を止めるのを繰り返し「うっかり窒息死してしまえたら」と子供じみた自殺未遂を試み続けていた。 

次に死にたくなったのは高校2年生の時だった。

高2病とも言われるような、人生を斜に構えて無気力に過ごしては自身無力感に苛まれていた。

次第に学校もやや不登校気味になり、気が付けば「皆が真面目に勉強している中でフラフラ遊んでいる」というレッテルを貼られ、

たまに教室に顔を出そうものならクラスメートだけでなく教員たちから厄介者のような扱いを受けていた。

そんな時、家の薬箱から母親が昔飲んでいたらしい薬局の袋に入った睡眠導入剤を見つけた私は、

「これをたくさん飲んだら死んでしまえるかもしれない」と袋に入っていた束になったシートから錠剤を全て取り出して震える手で飲み干した。

どくんどくんといつもより大きな鼓動を打つ心臓が、自分死ぬかもしれないという不安と緊張と少しの期待のせいなのか、

それとも単純に薬の副作用だったのかは分からないけれど、私は暴れる心臓の音が家族に聞こえないように自室の中で布団に包まっていた。

暗闇の中で止めどなくほろほろと溢れる涙を流しながら、その時を待っていた、そして私の意識は途絶えた。

翌日、私は何事も無かったかのように、いつも起きる時間よりもだいぶ早くに目が覚めた。

遺書も残さず、数少ない仲の良い友人にも何も言わずに突発的に試みた自殺未遂だったけれど、

拍子抜けすると同時に、あれこれ残したりせずにして良かったと安堵していた。

まだ誰も目覚めていないキッチンに行って水を一杯飲んで、違和感を覚えた。

かめるように冷蔵庫に入っていたオレンジジュースを飲む、味覚が無くなっていた。

冷汗が止まらず、ただただ「どうしよう」という言葉が頭の中をぐるぐると回っていた。

自殺しようとして薬を沢山飲んだら味覚が無くなってしまった」などということを誰かに相談する訳にもいかず、

しばらくは生きた心地がしないまま、味のしない食べ物咀嚼するのはまるで砂や泥を食べている気分で、誰にも気づかれないように胃に押し込むことにひどく苦労した。

結局、三日も経たない内に味覚は元に戻るのだけれど、この時に「次に死ぬなら確実に死ななければいけない」と心に誓ったのだった。

 

次に死にたくなったのは22歳、大学留年した時だった。

真面目な学生では無かったけれど、なんとなく大丈夫だろうと思っていた淡い期待はあっさりと裏切られてしまった。

一応サークルには所属していたけれど、ほとんど活動に参加していなかった私は、文字通り大学一人ぼっちになってしまったのだ。

そんな私の唯一の心の拠り所はSNSの顔も知らない友人たち、その中でもとりわけ"メンヘラ"とカテゴライズされるような人々との交流だった。

最初は寂しさを埋めるためのアイテムだったはずが、尊大希死念慮に苛まれて生きるダメな人たちの存在可視化されることは私の良くない考えを加速させていった。 

あの頃を思い返すと、死にたかった、というよりも、いつ死んでもよかった、というのが正しかった。

私は名前も知らないおかしな人たちと浴びるように酒を飲むことも、サイケデリックな色をした「海外製」とだけ言われた錠剤をスナック菓子のように口へ放り込むことも、

そのまま外に飛び出して狂ったように遊びまわることも、怖いと思うことは何一つなかった

素面でいたくなかった、誰かと過ごしているようで、感覚けが宙に浮かび、幻覚の中を彷徨って倒れこみ、自分を取り囲む影と会話して過ごした。

路上はもちろん、駅の医務室や知らない人の家で目覚めることも日常茶飯事だった。

裸で目覚めて隣で眠る見知らぬ人を起こさないようにベッドを抜け出し、最低限の服と荷物だけ持って逃げ出したこともあった。

 一方で大学がある日は真面目に授業を受けていた。

離脱症状でガタガタと震えながら、倒れないように机に噛り付いて授業を受ける様は正しく狂人だったと思う。

ただ「死のうと思えばいつでも死ねる」ということが確かな心の支えになって、私は人より一年だけ多く掛けて大学卒業することができた。

真っ先に死ぬと思われていた私を残して、大学時代の悪友たちは4人が亡くなり、2人は隔離病棟入院していると風のうわさで聞いた。

 

気がつけば30歳を目前としている、生きてしまった、生き延びてしまった。

私は死ねなかった、自分長所や得意なものというのは思い浮かばないが、死ぬことは特別下手なようだった。

それどころか真っ当に就職して、結婚し、子供にも恵まれた、人は私のこと見て「幸せだね」と言うようになった。

ただそれでも「死にたい」という心の底に燻る感情は、初めて認識した時から今のこの時まで片時も消えてはいなかった。

から私は今夜も、精一杯長く息を止め続ける、「一度ぐらい上手くいきますように」と願って。

死ねないだけで生きてきた

初めて死にたいと思ったのは小学2年生の頃だった。

家のすぐ隣に出来たゴルフ練習場の明かりが眩しくて、眠れない夜が続いた時だ。

死にたい」という明確な気持ちがあったと言うよりは、明日もこのまま寝不足学校に行って、

眠くてぼんやりとしているところを先生に怒られて、というのを続けるぐらいなら、いっそこのまま消えてしまったらいいのにと願っていた。

そうやって暗いイメージが湧き出しては止めることが出来ず、幼少の自分には長すぎる苦痛な夜の時間から抜け出したくて、

ベッドに横になったままできる限り精一杯長く息を止めるのを繰り返し「うっかり窒息死してしまえたら」と子供じみた自殺未遂を試み続けていた。 

次に死にたくなったのは高校2年生の時だった。

高2病とも言われるような、人生を斜に構えて無気力に過ごしては自身無力感に苛まれていた。

次第に学校もやや不登校気味になり、気が付けば「皆が真面目に勉強している中でフラフラ遊んでいる」というレッテルを貼られ、

たまに教室に顔を出そうものならクラスメートだけでなく教員たちから厄介者のような扱いを受けていた。

そんな時、家の薬箱から母親が昔飲んでいたらしい薬局の袋に入った睡眠導入剤を見つけた私は、

「これをたくさん飲んだら死んでしまえるかもしれない」と袋に入っていた束になったシートから錠剤を全て取り出して震える手で飲み干した。

どくんどくんといつもより大きな鼓動を打つ心臓が、自分死ぬかもしれないという不安と緊張と少しの期待のせいなのか、

それとも単純に薬の副作用だったのかは分からないけれど、私は暴れる心臓の音が家族に聞こえないように自室の中で布団に包まっていた。

暗闇の中で止めどなくほろほろと溢れる涙を流しながら、その時を待っていた、そして私の意識は途絶えた。

翌日、私は何事も無かったかのように、いつも起きる時間よりもだいぶ早くに目が覚めた。

遺書も残さず、数少ない仲の良い友人にも何も言わずに突発的に試みた自殺未遂だったけれど、

拍子抜けすると同時に、あれこれ残したりせずにして良かったと安堵していた。

まだ誰も目覚めていないキッチンに行って水を一杯飲んで、違和感を覚えた。

かめるように冷蔵庫に入っていたオレンジジュースを飲む、味覚が無くなっていた。

冷汗が止まらず、ただただ「どうしよう」という言葉が頭の中をぐるぐると回っていた。

自殺しようとして薬を沢山飲んだら味覚が無くなってしまった」などということを誰かに相談する訳にもいかず、

しばらくは生きた心地がしないまま、味のしない食べ物咀嚼するのはまるで砂や泥を食べている気分で、誰にも気づかれないように胃に押し込むことにひどく苦労した。

結局、三日も経たない内に味覚は元に戻るのだけれど、この時に「次に死ぬなら確実に死ななければいけない」と心に誓ったのだった。

 

次に死にたくなったのは22歳、大学留年した時だった。

真面目な学生では無かったけれど、なんとなく大丈夫だろうと思っていた淡い期待はあっさりと裏切られてしまった。

一応サークルには所属していたけれど、ほとんど活動に参加していなかった私は、文字通り大学一人ぼっちになってしまったのだ。

そんな私の唯一の心の拠り所はSNSの顔も知らない友人たち、その中でもとりわけ"メンヘラ"とカテゴライズされるような人々との交流だった。

最初は寂しさを埋めるためのアイテムだったはずが、尊大希死念慮に苛まれて生きるダメな人たちの存在可視化されることは私の良くない考えを加速させていった。 

あの頃を思い返すと、死にたかった、というよりも、いつ死んでもよかった、というのが正しかった。

私は名前も知らないおかしな人たちと浴びるように酒を飲むことも、サイケデリックな色をした「海外製」とだけ言われた錠剤をスナック菓子のように口へ放り込むことも、

そのまま外に飛び出して狂ったように遊びまわることも、怖いと思うことは何一つなかった

素面でいたくなかった、誰かと過ごしているようで、感覚けが宙に浮かび、幻覚の中を彷徨って倒れこみ、自分を取り囲む影と会話して過ごした。

路上はもちろん、駅の医務室や知らない人の家で目覚めることも日常茶飯事だった。

裸で目覚めて隣で眠る見知らぬ人を起こさないようにベッドを抜け出し、最低限の服と荷物だけ持って逃げ出したこともあった。

 一方で大学がある日は真面目に授業を受けていた。

離脱症状でガタガタと震えながら、倒れないように机に噛り付いて授業を受ける様は正しく狂人だったと思う。

ただ「死のうと思えばいつでも死ねる」ということが確かな心の支えになって、私は人より一年だけ多く掛けて大学卒業することができた。

真っ先に死ぬと思われていた私を残して、大学時代の悪友たちは4人が亡くなり、2人は隔離病棟入院していると風のうわさで聞いた。

 

気がつけば30歳を目前としている、生きてしまった、生き延びてしまった。

私は死ねなかった、自分長所や得意なものというのは思い浮かばないが、死ぬことは特別下手なようだった。

それどころか真っ当に就職して、結婚し、子供にも恵まれた、人は私のこと見て「幸せだね」と言うようになった。

ただそれでも「死にたい」という心の底に燻る感情は、初めて認識した時から今のこの時まで片時も消えてはいなかった。

から私は今夜も、精一杯長く息を止め続ける、「一度ぐらい上手くいきますように」と願って。

2020-07-23

連休。もちろん予定は何もない。

昨日は夜更かしして、今日はようやく起きたところ。

ぼんやり携帯いじって、適当に顔洗って、お腹がすいてきたか適当もの食べた。

連絡取りたい人もいないけど、特に困ってもなくて。

好きな音楽聴いたり、ラジオ聴いたり、ネットしたり本読んだりして、過ごすつもりだ。

テレビはあまりみないけど。星野源綾野剛ドラマだけはたのしみ。

まらない毎日かもって思ってたけど、適当毎日楽しんで過ごせてるって気づいたらすごくいいじゃんって思った。

独り身の30代。雨がやんだらコンビニに届いてるamazonnの荷物取りに行く。

2020-07-22

うつ病休職して1ヶ月経つんうつになったきっかけとか書く②

文字数制限引っかかったんで前回の続き

もう書くことないしここみることもないです

フリーター時代

仕事をやめてから寮も出て友達と2人、都内の端っこの方でルームシェアを始めた。これは小学校同級生で、今も一緒に暮らしてる。

彼女大卒で、就職を機に上京するというので私から話を持ちかけた。家電代浮くし、部屋探しやライフライン周りの手続き全部やるし、ってことで。

ぼんやりニートをして、中々バイトが決まらなくてめっちゃ苦労した記憶がある。給料はそんな良くないけど暮らしていければいいなー、っていうのでクリーニング屋さんでバイトを始めた。

めっちゃみんな優しくてびっくりした。おばちゃん3人と、年の近いお姉さんが1人。駅前にあるクリーニング屋なので今でもたまにあったりする。

その中にめちゃお上品な人が居て、何かと本当に気にかけてくれる。お菓子持ってきたよ~!とか、これお土産!お友達と食べて!とか。未だに道端で会うと「マックごちそうさせて!笑」とか言ってくれる。

常連クレーマーかいうよく分からん人に当たって苦労もあったけど凄く良い環境だった。労働時間も5時間ぐらいで短い代わりにたくさん出勤させてくれて稼がせてくれた。

多分おばちゃんたちからすると「有給使って休めるラッキー」くらいだったのかも。就活とかも大丈夫?とか、旦那会社紹介しようか?って本当優しい人たちばかりに恵まれたいい環境だったなあ。

お盆休みも2週間くらいあった。初めて夏休みが出来た……って思ったくらい。大体半年ちょっとクリーニング屋で働いてる間にそろそろ就活しよう!と思った。

バイト始めてから仕事を覚えるので手一杯で、就活するような余裕が無かった。なので、落ち着いてきた秋ぐらい。生活の安定しないフリーターだと友達不安だろうし、と思ってたまたま母親の紹介してくれた就職エージェント的な人に会った。

ふとフォロワーが「縁切り行けば?」と言ってくれたのを思い出してその日のうちに縁切りに行った。



行った縁切りは於岩稲荷陽運寺。お岩さんの階段で有名なとこ?らしい。縁切りと縁結び、両方あるってネットで見てこれは今の私に最適じゃ~んと思った。

そこで今までの悪縁全部切って、今月中に就職したいです!あと櫻井孝宏みたいな(声の)彼氏欲しいです!!ってお願いした。(櫻井孝宏の声に人生狂わされたオタクなので)

その効果があったのか分からないけど、縁切りに行った3日後に内定が出た。それが去年の10月末のことで、友達自分ことみたいに喜んでくれた。

今までしたことなかったけど、決まった次の日が土曜日だったのでピザとか頼んじゃって、お酒冷やして、ハロプロライブみて騒いだ。今までで一番うまい酒だった。



転職して休職するまで

転職先はインフラIT企業警備員だったときの基本給が14万だったので、多分17万くらいだろうな~と思って雇用契約書みたら21万って書いててひっくり返った。ドッヒャー!

研修中にCCNA取得して、12月中はなかなか常駐先が決まらず、月末頃にやっと決まった。その間は本社研修のお手伝いとか電話番とかしてた。この時ぐらいにマッチングアプリ彼氏出会ってお付き合いに至る。

なお、櫻井孝宏みたいな声ではぜんっぜんない。ただ、名前が「ささき たかひろ」という。名前に寄せろって言ってないんだけど~!?wwwwwwみんなもお岩さんにお願いするとき絶対ちゃんと細かく指定したほうが良い。

私のようなニアミスを起こす人が出ないことを祈ります。ただ彼氏お酒は苦手、タバコは吸わない、ギャンブルもしないっていう良い人なんでオッケーです。


年明けからは常夜勤、土日祝休みの超ホワイト現場で働き始めた。最初は何が何だかよく分からん~ってなってたけど先輩は優しかったし、「僕もよく分かってないこと多いです」って言ってくれた。本当にこの言葉に助けられた……

初めての夜勤最初は辛かったけど警備員時代の体力で普通に乗り切れた。仕事も慣れてきたら楽しいし、現場におじさんが多いのもあってお菓子とかよく貰った。優しくて厳しい人たちだった。

夜勤のうちは本当に良かった。満員電車に乗ることも無く、コロナ流行りだしてから通勤があったけど人がさらに減ってラッキーぐらいに思ってた。でもコロナのせいで、夜勤で出来る仕事がなくなって日勤に移動になった。

それと同時に、現場の人は変わらないが場所だけ移転となった。今まで通っていた場所までは1時間だったのが、通勤に1時間半かかるようになった。

夜勤は広いフロア20しか居なかった。日勤は常にたくさんの人で溢れかえっていた。常にどこかピリピリした空気が漂っていて、人多いな~、嫌な感じだな~くらいだった。

通勤の時も満員ほどではないけどほぼ満席、それでも毎日座ることは出来てた。日勤になってから、徐々に徐々に、自分でも気付かないうちにストレスが溜まってたのかもしれない。

日勤に移動したところで仕事はほぼ無く、暇な時間を過ごすことが多かった。何もやることも、出来ることもなかった。

この頃からなんとなく自分の体調がおかしいことに気付いてた。なんとなく落ち込んで、イライラしてしまう。生理前だからだろ、って勝手解釈して片付けてた。

食事を摂らなくなって、早朝覚醒が多くなったのはこのへんからだと思う。

これが、5月20日頃の話。


私の心と体のバランスが完全に取れなくなったのは緊急事態宣言解除後からだったと思う。

今までにないくらいの満員電車職場の人の多さ。思い返してみると6月中はずっとピリピリして彼氏に当たり散らしてた。先月までの私は口を開けば愚痴ばかりの女で、何をきっかけに怒るか分からない。そういうヤバい人だった。

コロナの中での通勤、3密を避けられない満員電車、新しい場所現場、常にピリついた雰囲気、人の多さ。これが私のストレス源になってたんだと思う。

6月10日の夜。

気が付いたら自宅のベランダ、3階から飛び降りていた。幸いなことに怪我は打撲と切り傷しかなかった。痛くて涙が出て、その時に「もしかして私は限界なのでは?」と思った。もしかしなくても限界である。気付けバカ、と過去自分に言いたい。

痛い……って思いながら階段登って家に帰った。次の日、寝て起きて普通に出勤した。今思えば普通に病院行けって感じだけど、とにかく私は出勤しなきゃと思った。

そこで初めて飛び降りたことは伏せて「気持ちの具合が悪い」的な感じで先輩に相談すると「早めに医者には行くほうがいい」と言われる。先輩も前の会社メンタル病んで辞めた人だった。

日勤はやることが殆ど無かったし、そういう日は先輩に時々相談したり、LINE自殺相談チャットとか、自殺相談電話とかを週に2、3回してた。

6月10日の週や、その前の週は「私は何もしてないのに周りは仕事をしている」。というので落ち込んでた。勝手に周りと比較して、勝手会社の中で泣きそうだった。

15日以降は通勤電車の中で泣きそうになった。「この人達は今から出勤して働くんだ、なのに私は今日出勤しても何もやることない。その上通勤するだけでもう泣きそう、なんてダメなんだろう」って思った。

確か出勤したのは17、19の2日間だけ。あとは休んだ。休んでしまう罪悪感で押し潰されそうだった。夜中、車や大雨の音が怖くて怖くてたまらなかった。


22日はコロナ抗体検査を受けるように、と言われて抗体検査の会場に会社の人たちと向かった。昼からだったので午前休を取って、会場に行った。

自宅で玄関を開けるだけで手が震えて、最寄り駅に行くまでの間で泣きそうになった。すれ違う人が怖かった。行かなきゃ、使命感みたいな義務感で向かった。

その会場がよくなかったのかもしれない。今まで行ったことがない場所で、たくさん人が居た。検査結果はオール陰性で、これから会社に行こう、って向かう駅の改札前で具合が悪くなった。

突然目の前が真っ暗になるって感じかもしれない。フラフラして、しゃがみこんだ。すぐに駅員さんが椅子持ってきてくれて、先輩がポカリ買ってきてくれた。


流石に改札前じゃ目立つ、って思って駅のホーム椅子に座って、半泣きで先輩に色々話した。

先輩が教えてくれたのは「いい意味で休んでも大丈夫。休んでも今みんな暇だから代わりにやってくれる人はたくさんいるし、みんなやりたがる。だから一度休んだほうがいい」。

その先輩は色々限界な人だったらしく、一時期生活保護貰って生活してたこともある、生きてたらなんとでもなる、と言ってくれた。出会って半年くらいの小娘にここまでいろんなことを教えてくれるいい人だった。

やっと自分限界なのを悟って休職に踏み切った。心療内科電話して、予約を取って、人生二度目の医者にかかった。



最初看護師さんとカウンセリングをした。その時今ここに書いてあるようなことを喋った。生育歴、というらしい。

カウンセラーさんには「うーん、親離れが出来てないのかも?」と言われてめちゃくちゃ衝撃を受けた。

私は今までの人生母親の言うことは絶対だと思って生きてきた。何なら今もそう思ってる節はあるかもしれない。

お母さんが言うから女子より男子の多い学校に行って、お母さんが言うからAOで入れる学費の安い専門に入って、お母さんが言うから仕事社員寮のある場所にして、お母さんが言うから前の会社を辞めた。

私は無意識にそういう話し方をしていたらしくて、自分でも無意識のうちに、母親の言うことにずっと従ってたらしい。あまりの衝撃に呆然とした。待合室でぼんやりしてた。

他にもいくつか心理テストみたいなものも行った。自分の思ってるものに近いものに丸をつけましょう、みたいなやつ。


その後の診察でお医者さんに言われたのが、「まあ、いわゆるうつ病ですね」だった。自分でも「ですよね」って思った。多分、ホッとした。

心理テストの結果で点数が出るらしい。その数値は「平均的なうつ病」らしい。平均的なうつ病、有る種のパワーワードだなと言うのが率直な感想だった。

そして、休むことに対する罪悪感が大きい、と告げれば「うつ病一種に過剰な罪責感って項目があるのね。だから病気のせいだよ」と言われた。それと同時に、「多分あなた場合はお母さんから言葉があるのかも」と言われハッとした。

「休むことはサボり」という価値観は、母親に植え付けられたものだった。職場にいるのに仕事をしない=サボってる状態、と無意識解釈してたのかもしれない。それで疲れていたのもあったのかも。

元々うつ病の素質(警備員時代)があったこと、環境の変化がストレスに繋がりやすタイプなこと。今回は後者きっかけで表に出てきたんだろうね、と丁寧に図を使って色々説明してくれて、休職診断書を書いてくれた。

私に言い渡されたのは3ヶ月間の自宅療養だ。



休職してから

会社の人とオンラインでの面談なんかを済ませ、なんだかんだ休職して1ヶ月近くが経過する。

一緒に住んでる友達は「お父さんがうつで休んでた事あるし、私は私で生きてるから大丈夫。今はめっちゃ休んだらいいぞ」と言われた。理解の有る友達で一生大事にしたい。

最初の1週間は何したらいいんだ…?って凄い焦ってたし、休むことに対する罪悪感が大きかった。

でも、彼氏友達、お医者さんにも「休むことは権利として存在してる。そうじゃなかったら公休以外の有給祝日存在しない」と言われた。

そしてお医者さんには「休まなきゃ人間は病む」と言われた。医者が言うならそうなんだな!って思える単純な脳みそで良かった。

薬のおかげもあってか、死にたいとか思うことは無くなった。段々夜も眠れるようになった。外に出るのが苦にならなくなった。休んでも良いんだと思えるようになった。

何より説得力があったのは「警備員時代に休めなかった分休むと思えばいいんじゃない?」という彼氏言葉だ。月3、4休みの1年半。3ヶ月休んでも多分足りないんだよな~!

今は買い物に出るぐらいは出来る。ただ、人が多いとパニック状態になってしまうのでオフピークや、パニクったら一人になれる場所に行く、とかで対策してる。

外で店員さんと話すのとかはちょっとまだ不安なことが多いけど一時期よりは随分マシになった。

当面の課題電車に乗れるようになる、あとは選択肢が多すぎるとパニックになるのを克服する。この2つかな、と思う。

徐々にだけど良くなってきたので無理せず今はやりたいことをやって行こうと思う。


最後にこんなアホ長文読んでいただいてありがとうございます。何かの役に立てば幸いです。

それから真・女神転生3 ノクターン HDリマスター、発売決定めっちゃ嬉しい。はよ復職したい。

有言不実行な友人の話

ある友人に我慢できず、他の友達に話すのも気が引けるので筆を執ることにした。

私の自分語りを多分に含んだ愚痴のような物なので、肩の力を抜いて読んでいただければ幸いだ。

私はしがない字書きの大学生である中学生の頃には仲の良い友人二人と、自分たちを模したキャラクター架空世界の中活躍させる創作を交換ノートの中でやっていた。元々絵を描くことも好きだったが、どう足掻いても上手く描けないことに諦めを感じ、気付けば文章ばかりを書いていた。

高校に入ると文芸部に入った。入部届けを提出するまで、入ったことは親には黙っていた。シンプルにそれまでやっていた吹奏楽に嫌気が差しただけなのだが、高い楽器(丁度自分の貯めていたお年玉やらお小遣いやらの全額程度だった)を買ったというのに吹奏楽を続けなかったので、父親は後にも先にも無いほど激怒した。当時の私は相当にショックを受けたが、まあこれは関係の無い話なのでやめておく。

とにかく文芸部に入ったのだ。正直本当に楽しかった。気の合う友人もできた。文学という架け橋が無かったら話すことも無かったような、私とは系統の違った部員一冊の本を作るのは刺激的だった。空が白んできても何も浮かば空虚日の出を見たり、締切の為に定期テストそっちのけで徹夜をしてキーボードを叩いて編集をしたり、高校生なりの熱量部活を、書くことを、“創作”を、楽しんでいた。

恐らく想像がついている方もいらっしゃると思うが、私はオタクであるとはいえ二次創作イラスト等の投稿や閲覧が楽しめるSNS投稿を始めたのはつい最近で、それまでは内輪のオリキャラでの創作小説を書いたり、時には友人を主体にした夢小説を書くこともあった。

そんなこんなでここの所二次創作を楽しんでいる私であるが、どうにも腑に落ちないことがある。

端的に言ってしまうと、あまり好かない友人がいるのだ。彼女高校1年生の頃からの友人で、ありがちな書き方ではあるが彼女をAと呼ぼうと思う。(A以外にアルファベットは出てこないので、特に気に留めて置く必要はない。)

Aは自信家だった。帰国子女のAは英語を始めとして成績優秀で教員にも好かれる模範的な生徒だった。本人はそれを隠すこともなく、「私は天才から」「と言うより、努力型の秀才なんだけどね」と言ってのけていた。努力を惜しまない姿勢は素晴らしいし、怠惰な私は純粋尊敬したが、その努力をひけらかす行為はいただけなかった。受験期にはキーワードをページいっぱいに書き連ねたノートボロボロになった単語帳を常に持ち歩き、志望校赤本まで隠さず机の上に置いてあった。私は「落ちたら恥ずかしくないのかな」とぼんやり思っていたし、本番当日にもAは「Twitterしてる場合じゃないけど不安 報われなかったらどうしよう」だの「爆死」だの呟いていたが、最終的にAは無事合格し、その大学へと進学した。

思うに、Aはオープン性格なのだ。未だにTwitterの鍵垢同士で繋がっているのだが、課題の進捗やらをよく呟いている。「自称天才から(オンデマンド)授業明日の分全部受けてレポートまで書いた」「虚しいから労って(レポート画像)」などなど。活きの良い大学生である

さて、本題から離れてしまったが、私がお話たかったのはAの創作についての話である

実はAは高校在学中から一次創作を嗜んでいた。Aはもう一人の友人とタッグを組んで自作ゲームを作ろうとしているようだった。所謂ファンタジー物で、次々とキャラクターを生み出してはストーリーの核となる部分を練ったり、キャラクター自身の掘り下げをしていた。

なぜ私がそれを知っているのか。それは彼女が片っ端からTwitterに放流するからである。興味が無いので完全にスルーしていたが、AやAの周りの友人はいつもAの生み出したキャラクターの話をしていた。

彼女ゲームシナリオとなるその“創作”の本筋を書いて、もう一人の友人は立ち絵や背景を書いていた。

書籍化しないかな」

Aのそんな旨の呟きをよく見かけた。

そのうち、Aの周りにいる友人は、そのキャラクターイラストを描き出した。漫画にせよ小説にせよ映画にせよ、ストーリーを追ううちにキャラクター個性を見出す私にとっては、設定や性格が書き連ねられた一枚絵を見せられても特に何も思わなかったが、友人たちは違ったようだ。確かに毎日それらのキャラクターの話を聞いていれば興味を持つの自然だろう。

最初こそAは大いに喜んでいたが、そのうちさして大きなリアクションをとらなくなっていった。そのうち、「おまえらファンアート15溜まったら本編まじで進めるわ、ケツ叩いてもらわないと無理かも」といった旨をツイートしていた。

Aとタッグを組んでいた友人は、徐々にTwitterに浮上しなくなっていった。その代わり、Aは自分のことを“字書き”と自称することが増えて、ゲーム制作の話は一切しなくなっていった。

Aはよく産みの苦しみの類いのツイートをする。

「一話が上手くいかいから先に進めない」

「予定の字数より多くなっちゃったw」

キャラには自信あるけど文に自信ないから〜」

「(とある児童文学タイトル)の後釜狙ってます

そう言って一通り喚き散らした後、「やっぱり今日は書けないから寝よう」と言って日付の変わる前には就寝している。

なるほど、AもAなりに書くことを楽しんでいるようだ。いつか自分創作を完成させて、それが大々的に二次創作される日を夢見ているらしい。丁度今、絵の上手い他の友人に描いてもらっているように。

私は一言言いたかった。

四の五の言わずに書けよ。

一発当てたいなら本気で完成させろよ。

甘えてんのか。

もちろん私は今の文壇リードするような大作家でもなければ、新進気鋭の小説家でもなんでもない。しかし、Aよりも文字を書くことは数こなしてきた。適切な表現が思い浮かばなかったり、心苦しくても大部分を削除してエンディングを書き直したり、寝食を忘れて夢中になって書いていたこともある。もちろんそれが重要なことでないこともわかっている。

Aは昔、高校生だった頃に私にこう話したことがある。

わたし、○○(私の本名)ちゃんのことすごいと思うよ。文芸部に入ったら、締め切りとかそういう重圧で死んじゃいそうだもん。自分好きな物上手く書けなそうじゃない?」

私はこれに何と返したかは覚えていない。しかし、文芸部は私に書き終えることの大切さを教えてくれた。

オープン彼女は書いている最中の苦しみを漏らすことを抑えていられない。しかもそれをやたらと文学的に表現しようとする。浮かんでこない、降ってこない、突然書けなくなる……、そういったありきたりの表現で。Aはやたらと“創作”や“小説”という言葉を使いたがった。自分が今しているのは“創作”で、“小説”を書いている。その行為に酔っているように見えた。けれど言葉が固くなってはいけないと思っているのか、進捗状況が載ったスクリーンショットに映る文はなろう系を模したような劣化させたような文体なのである

「私の文幼稚なのはわかってるんだけど、かっこつけた描写はしたくないな。児童書目指してるし」

子供が読みやすい文、単純に砕けた文、そして口語ばかりで仮名遣いの怪しい文。難解な表現を使うことと、状況を説明するために上手く言葉を組み立てること。これらは明確に分けられていると思う。斜に構えた描写を、子供には解しがたいと思っているのだろうか。私は自身の素の書き方がかなり固いこともあり、まるで自分が“かっこつけた描写”をしているような気がしたこともあり、なんだか頭にきてしまった。

また、数日後にはこんなツイートもあった。

承認欲求足りな過ぎて手っ取り早く誰かに褒められたいけど、二次創作は書けないからなぁ」

この発言は私の逆鱗に触れた。

私は、自分の書いた二次創作を「承認欲求を得るための行動だ」と言われたように感じたのだ。書いた物を貶されるのは嫌だけれど、書く動機をAのようにあからさまに「誰かから評価されるため」にすり替えられるのが耐えられなかったのだ。ネットに公開している以上、何らかの反応があることはもちろん嬉しい。しかしそれ以上に、頭に浮かんできたシチュエーションを練ってひとつの話を作ることが楽しいのだ。

今思うとAはそこまで考えて発言したように思えない。恐らく私の考えすぎだ。坊主憎けりゃ袈裟まで憎いし、何を言ったかより誰が言ったかが気になる質なのかもしれない。

SNS上でのAとの繋がりを消そうにも、そのアカウントには共通の友人が多く、彼女たちが気を利かせて私の転生後のアカウントをAに伝えてしまうことは想像に難くない。かと言って「繋げないでくれ」とあからさまに嫌う素振りを見せて友人関係にヒビを入れたくもないし、ログアウトしてしまうと他の友人の呟きまで見れなくなるのも寂しい。そういうわけで今でもAとはFF内で、表向きは仲良くやっているわけである

さほど苦ではない。しかし確実に自分ストレスを感じていることはわかるので、いつか縁を切ろうと思っている。

結局これはさして大きな問題ではなく、周りからチヤホヤされている人間を妬ましく思っている私の醜さが露呈しただけなような気がしたので、この辺で筆を置いておこう。自分の“創作”のスタンスに口を挟まれて気分を悪くするのは、私自身もそうだから

2020-07-21

もういないんだなあと唐突に実感した

若くて才能のある、それも容姿端麗な人が死ぬとみんな好き勝手に言う。死んじゃ駄目だとか、私たちは助けてあげられなかったとか。

「この思いが天国に届いてますように」に対して「きっと届いてるよ!」と無邪気に返す人たちを見て目の前が真っ暗になった。

天国だって

まだ訃報を耳にしたばっかでもうそんなこと言ってしまえるのか。

届いてるって何だよ。なんですぐにいい話にしようとするんだよ。自分たちのために物語を作るな。死にたいとも思ってない自分が救われたがるな。こんな悲しい決断をするところまで追い詰められた人を消費して、自分に酔うのはやめろ。

もうみんな黙ってくれ。頼むから何も言わないでくれ。

ものすごく悲しいから静かにしませてほしいのに、自分の話をしたがるやつが多すぎて嫌になる。 ツイッターで散々いろんなことを言われてるのを目にしてめちゃくちゃに傷ついたから、日曜の晩から今までツイッターもインスタも一切触れてない。 SNS依存気味だからすぐに癖で開きそうになるけど堪えてる。

死んだら駄目だって言うやつ山ほどいるけどあんたは何なの?どんなに悲しくても生きてればいいことあるよ、じゃないんだよ。

じゃあそれは具体的にいつなんだよ。いつまで我慢したらいいことがあるんだよ。他人人生責任なんか持てない癖に、薄っぺらな正しいっぽい言葉すらすら吐いて気持ちよくなってんじゃねーって思う。

いいこと起こるまで耐えられないくらい今がどうしようもなく辛いっていうのは、そんなに理解に苦しむ話なの?少しも我慢せずに死ぬ道を選んだって思うの?耐えて耐えて耐えてきて、それでもやっぱり辛かった結果だとは思わないの?あんたそれ想像力と思いやりが足りてないんじゃないの。

死にたいって思って死んでしまった人が負けなんじゃない。

死にたいって思う人に、死ななくても済む理由を見つけさせられなかった世界が負けたんだよ。

残された側は悲しいけどね。本当に辛いけどね。でも私たちの悲しみ苦しみは問題じゃない。いちばん大事にされるべきなのは、死んでしまった人の感情から

せめて今もう辛くなければいいなと祈ることしかできないのは、目眩がするほどやるせなくて何もかも投げ出してしまいたくなる。

でもそれしかできないよ。あとは素晴らしい出演作をときどき観て、やっぱり素敵な人だったなあと懐かしむのが精一杯だよ。それ以上に何かできると思うのは傲慢です。あの素敵な人のことを全部悲しい思い出にしてしまわないように、今はまだ胸が痛くて難しいけど、定期的に作品を見返していきたい。

去年なんとか取れたチケットキンキーブーツを初めて観た。そのパンフレットを開いて眺めていたらブワッといきなり涙が溢れてきた。まだどこか受け止められていなかった現実を脳が唐突理解して、涙腺が壊れてしまった。

最高の舞台だったな。悪くもないけどあまりよくもない席が当たったのだけど、微妙座席であることなんか気にならないほどのめり込んだ。

演技がとにかく素晴らしかった。歌声の力強さ、美しさ。

あの舞台に救われた。辛くて苦しくて塞ぎ込んでいた時期だったけど、踏み出す勇気をもらった。自分のありたい姿で生きるのは困難で勇気がいることだけど、そうやって真っ直ぐ生きる姿が格好よかった。また何としても観に行くぞって思ってた。

また、はもうない。日曜日から胸を占めていたぼんやりしていた悲しみが輪郭を持って、感情が今になって追いついてきた。タイムラグがあった分、勢いが凄まじくて止められなかった。泣いても泣いても止まらない。

あの素晴らしい舞台記憶を綺麗に保存しておけたらいいのに。忘れたいことに限って忘れられないし、覚えていたいことは次々と思い出せなくなってしまう。

忘れたくないな。覚えていたいな。悲しい最期だけを記憶に残すんじゃなくて、きらきら輝いていた瞬間のこともちゃんと私の中に残しておきたい。

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