インターネットを見ていると、フェミニストだの反○○だのいろんな思想の人たちが喧嘩している。
あえて喧嘩と表現するのは、大抵が議論に満たない罵りあいでしかないと感じるからだ。
インターネットの普及で同じ思想・属性の人間同士が出会いやすくなったのはとてもいい事だと思うが、同じような人間同士で固まっているとその中での常識やら正義やらに凝り固まってしまいがちだと思った。
今回思ったきっかけは、緊急避妊薬のOTC化の是非。フェミニスト?なのかよく分からないが、TwitterのTLには「何故買えるようにしないのか、困っている人はたくさんいるし、悪用するような人はいない」という意見が溢れていた。
Twitterでは言えなかったが、私は2度、緊急避妊薬を処方してもらった事がある。今思うとDVのようなものだったが、当時の相手に避妊してもらえず、自分も避妊を強いるよりマシ程度の軽い気持ちで受診し処方してもらい、しかもその後の通院をブッチするというクソムーブをかましていた。
自分が類まれなるクズだっただけかもしれないが、実際「軽い気持ちで緊急避妊薬を使う」人間はいると知っている。品行方正な人には想像もつかないだろうが、どの界隈にもそういう意識の人間はいるものだと思う。
こういう問題を「議論」するには、同じような属性、同じような思想の人同士が同じ正義の元に語っても意味が無いと思う。
けれど、「喧嘩」している人たちは、別の正義を持つ人達がどうしてそう考えているかまで思い至っていないように感じる。
別の正義を理解することは議論の最低条件だというのが持論なのだが、案外それができない人は多いのかもしれない。
別の正義を理解する能力を磨く方法というのはきっと、「思いやり」というやつだ。
「思いやり」というのは優しいかどうかとかいうスピリチュアルな能力ではなく、「登場人物の気持ちを考える」「作者の主張を読み取る」というような、いわば「国語力」のことだと思う。
オタクというのはこの国語力が高い人が多いものだと思っていたが、そうでない人が増えたのか、そもそも言うほど国語力が関係ないのか、皆インターネットでは相手を思いやらなくていいと思っているのか知らないが、
頭のいい人であろう人たちも議論にもならない喧嘩をしているのを思うと、なんだかとても悲しくなってくる。
せっかく意見を交わしやすい場があるのに、みんながもう少し思いやりをもって議論することができたら、もっと世の中良くなるんではないかな、とぼんやりと思った。
優しさ警察です 思いやりから優しさからスピリチュアルからからからと音を立てて崩れて行きその上で作者の主張を読み込む国語力云々の件を浮上させる論理構成が白々しくて死ねば良...
機能的非識字ですな
Twitterの文脈わからないけど、これ読む限り緊急避妊薬OTC化については「処方箋薬だと軽く使えない人もいるから、軽い気持ちで使えるようにしよう」にしか見えないんだが。軽い気持ち...