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はてなキーワード: 真・女神転生3とは

2024-03-20

真3のマタドールをLv17で倒した

なんかSwitch真・女神転生3HDリマスターが980円で売られてたので買ってみた。30年ぶりの女神転生シリーズ楽しいRPGSFCポケモン金銀までしかやってなかったので、PS2ゲームでも新鮮だ。

SFC時代RPGの暗黙の情報ゲームっぷりが嫌いだった。装備品や敵と魔法属性に相性があるとか言われても、その情報ユーザーには隠されていて、それが分かる頃には十分にレベルが高いからバフデバフ盛って物理や強魔法で殴れば十分なのが嫌い。

その点、真3は属性相性を調べて組み合わせを考えるのが楽しい作りになっていて、アナライズコストは低いし魔法スキル属性は常に明示されるし弱点や耐性をつけば画面上にそう表示される。

あと敵がアイテムバカスカ落とすからアイテムをどんどん使えるから残数管理がヒリヒリするのも良い。

マタドールは序盤の中ボス的なやつで、Lv18になると途端に相性の良い仲魔が解放されてちょうど良く倒せるけど、頑張ればそれよりも低いLvでも倒せるように意図的に調整されてるみたいだ。

まぁそんなこと言いつつ攻略手段は、ノズチ以外は斬撃は諦めて主人公のバフデバフと通常攻撃でぶん殴る、だったけども。

2020-07-22

うつ病休職して1ヶ月経つんうつになったきっかけとか書く②

文字数制限引っかかったんで前回の続き

もう書くことないしここみることもないです

フリーター時代

仕事をやめてから寮も出て友達と2人、都内の端っこの方でルームシェアを始めた。これは小学校同級生で、今も一緒に暮らしてる。

彼女大卒で、就職を機に上京するというので私から話を持ちかけた。家電代浮くし、部屋探しやライフライン周りの手続き全部やるし、ってことで。

ぼんやりニートをして、中々バイトが決まらなくてめっちゃ苦労した記憶がある。給料はそんな良くないけど暮らしていければいいなー、っていうのでクリーニング屋さんでバイトを始めた。

めっちゃみんな優しくてびっくりした。おばちゃん3人と、年の近いお姉さんが1人。駅前にあるクリーニング屋なので今でもたまにあったりする。

その中にめちゃお上品な人が居て、何かと本当に気にかけてくれる。お菓子持ってきたよ~!とか、これお土産!お友達と食べて!とか。未だに道端で会うと「マックごちそうさせて!笑」とか言ってくれる。

常連クレーマーかいうよく分からん人に当たって苦労もあったけど凄く良い環境だった。労働時間も5時間ぐらいで短い代わりにたくさん出勤させてくれて稼がせてくれた。

多分おばちゃんたちからすると「有給使って休めるラッキー」くらいだったのかも。就活とかも大丈夫?とか、旦那会社紹介しようか?って本当優しい人たちばかりに恵まれたいい環境だったなあ。

お盆休みも2週間くらいあった。初めて夏休みが出来た……って思ったくらい。大体半年ちょっとクリーニング屋で働いてる間にそろそろ就活しよう!と思った。

バイト始めてから仕事を覚えるので手一杯で、就活するような余裕が無かった。なので、落ち着いてきた秋ぐらい。生活の安定しないフリーターだと友達不安だろうし、と思ってたまたま母親の紹介してくれた就職エージェント的な人に会った。

ふとフォロワーが「縁切り行けば?」と言ってくれたのを思い出してその日のうちに縁切りに行った。



行った縁切りは於岩稲荷陽運寺。お岩さんの階段で有名なとこ?らしい。縁切りと縁結び、両方あるってネットで見てこれは今の私に最適じゃ~んと思った。

そこで今までの悪縁全部切って、今月中に就職したいです!あと櫻井孝宏みたいな(声の)彼氏欲しいです!!ってお願いした。(櫻井孝宏の声に人生狂わされたオタクなので)

その効果があったのか分からないけど、縁切りに行った3日後に内定が出た。それが去年の10月末のことで、友達自分ことみたいに喜んでくれた。

今までしたことなかったけど、決まった次の日が土曜日だったのでピザとか頼んじゃって、お酒冷やして、ハロプロライブみて騒いだ。今までで一番うまい酒だった。



転職して休職するまで

転職先はインフラIT企業警備員だったときの基本給が14万だったので、多分17万くらいだろうな~と思って雇用契約書みたら21万って書いててひっくり返った。ドッヒャー!

研修中にCCNA取得して、12月中はなかなか常駐先が決まらず、月末頃にやっと決まった。その間は本社研修のお手伝いとか電話番とかしてた。この時ぐらいにマッチングアプリ彼氏出会ってお付き合いに至る。

なお、櫻井孝宏みたいな声ではぜんっぜんない。ただ、名前が「ささき たかひろ」という。名前に寄せろって言ってないんだけど~!?wwwwwwみんなもお岩さんにお願いするとき絶対ちゃんと細かく指定したほうが良い。

私のようなニアミスを起こす人が出ないことを祈ります。ただ彼氏お酒は苦手、タバコは吸わない、ギャンブルもしないっていう良い人なんでオッケーです。


年明けからは常夜勤、土日祝休みの超ホワイト現場で働き始めた。最初は何が何だかよく分からん~ってなってたけど先輩は優しかったし、「僕もよく分かってないこと多いです」って言ってくれた。本当にこの言葉に助けられた……

初めての夜勤最初は辛かったけど警備員時代の体力で普通に乗り切れた。仕事も慣れてきたら楽しいし、現場におじさんが多いのもあってお菓子とかよく貰った。優しくて厳しい人たちだった。

夜勤のうちは本当に良かった。満員電車に乗ることも無く、コロナ流行りだしてから通勤があったけど人がさらに減ってラッキーぐらいに思ってた。でもコロナのせいで、夜勤で出来る仕事がなくなって日勤に移動になった。

それと同時に、現場の人は変わらないが場所だけ移転となった。今まで通っていた場所までは1時間だったのが、通勤に1時間半かかるようになった。

夜勤は広いフロア20しか居なかった。日勤は常にたくさんの人で溢れかえっていた。常にどこかピリピリした空気が漂っていて、人多いな~、嫌な感じだな~くらいだった。

通勤の時も満員ほどではないけどほぼ満席、それでも毎日座ることは出来てた。日勤になってから、徐々に徐々に、自分でも気付かないうちにストレスが溜まってたのかもしれない。

日勤に移動したところで仕事はほぼ無く、暇な時間を過ごすことが多かった。何もやることも、出来ることもなかった。

この頃からなんとなく自分の体調がおかしいことに気付いてた。なんとなく落ち込んで、イライラしてしまう。生理前だからだろ、って勝手解釈して片付けてた。

食事を摂らなくなって、早朝覚醒が多くなったのはこのへんからだと思う。

これが、5月20日頃の話。


私の心と体のバランスが完全に取れなくなったのは緊急事態宣言解除後からだったと思う。

今までにないくらいの満員電車職場の人の多さ。思い返してみると6月中はずっとピリピリして彼氏に当たり散らしてた。先月までの私は口を開けば愚痴ばかりの女で、何をきっかけに怒るか分からない。そういうヤバい人だった。

コロナの中での通勤、3密を避けられない満員電車、新しい場所現場、常にピリついた雰囲気、人の多さ。これが私のストレス源になってたんだと思う。

6月10日の夜。

気が付いたら自宅のベランダ、3階から飛び降りていた。幸いなことに怪我は打撲と切り傷しかなかった。痛くて涙が出て、その時に「もしかして私は限界なのでは?」と思った。もしかしなくても限界である。気付けバカ、と過去自分に言いたい。

痛い……って思いながら階段登って家に帰った。次の日、寝て起きて普通に出勤した。今思えば普通に病院行けって感じだけど、とにかく私は出勤しなきゃと思った。

そこで初めて飛び降りたことは伏せて「気持ちの具合が悪い」的な感じで先輩に相談すると「早めに医者には行くほうがいい」と言われる。先輩も前の会社メンタル病んで辞めた人だった。

日勤はやることが殆ど無かったし、そういう日は先輩に時々相談したり、LINE自殺相談チャットとか、自殺相談電話とかを週に2、3回してた。

6月10日の週や、その前の週は「私は何もしてないのに周りは仕事をしている」。というので落ち込んでた。勝手に周りと比較して、勝手会社の中で泣きそうだった。

15日以降は通勤電車の中で泣きそうになった。「この人達は今から出勤して働くんだ、なのに私は今日出勤しても何もやることない。その上通勤するだけでもう泣きそう、なんてダメなんだろう」って思った。

確か出勤したのは17、19の2日間だけ。あとは休んだ。休んでしまう罪悪感で押し潰されそうだった。夜中、車や大雨の音が怖くて怖くてたまらなかった。


22日はコロナ抗体検査を受けるように、と言われて抗体検査の会場に会社の人たちと向かった。昼からだったので午前休を取って、会場に行った。

自宅で玄関を開けるだけで手が震えて、最寄り駅に行くまでの間で泣きそうになった。すれ違う人が怖かった。行かなきゃ、使命感みたいな義務感で向かった。

その会場がよくなかったのかもしれない。今まで行ったことがない場所で、たくさん人が居た。検査結果はオール陰性で、これから会社に行こう、って向かう駅の改札前で具合が悪くなった。

突然目の前が真っ暗になるって感じかもしれない。フラフラして、しゃがみこんだ。すぐに駅員さんが椅子持ってきてくれて、先輩がポカリ買ってきてくれた。


流石に改札前じゃ目立つ、って思って駅のホーム椅子に座って、半泣きで先輩に色々話した。

先輩が教えてくれたのは「いい意味で休んでも大丈夫。休んでも今みんな暇だから代わりにやってくれる人はたくさんいるし、みんなやりたがる。だから一度休んだほうがいい」。

その先輩は色々限界な人だったらしく、一時期生活保護貰って生活してたこともある、生きてたらなんとでもなる、と言ってくれた。出会って半年くらいの小娘にここまでいろんなことを教えてくれるいい人だった。

やっと自分限界なのを悟って休職に踏み切った。心療内科電話して、予約を取って、人生二度目の医者にかかった。



最初看護師さんとカウンセリングをした。その時今ここに書いてあるようなことを喋った。生育歴、というらしい。

カウンセラーさんには「うーん、親離れが出来てないのかも?」と言われてめちゃくちゃ衝撃を受けた。

私は今までの人生母親の言うことは絶対だと思って生きてきた。何なら今もそう思ってる節はあるかもしれない。

お母さんが言うから女子より男子の多い学校に行って、お母さんが言うからAOで入れる学費の安い専門に入って、お母さんが言うから仕事社員寮のある場所にして、お母さんが言うから前の会社を辞めた。

私は無意識にそういう話し方をしていたらしくて、自分でも無意識のうちに、母親の言うことにずっと従ってたらしい。あまりの衝撃に呆然とした。待合室でぼんやりしてた。

他にもいくつか心理テストみたいなものも行った。自分の思ってるものに近いものに丸をつけましょう、みたいなやつ。


その後の診察でお医者さんに言われたのが、「まあ、いわゆるうつ病ですね」だった。自分でも「ですよね」って思った。多分、ホッとした。

心理テストの結果で点数が出るらしい。その数値は「平均的なうつ病」らしい。平均的なうつ病、有る種のパワーワードだなと言うのが率直な感想だった。

そして、休むことに対する罪悪感が大きい、と告げれば「うつ病一種に過剰な罪責感って項目があるのね。だから病気のせいだよ」と言われた。それと同時に、「多分あなた場合はお母さんから言葉があるのかも」と言われハッとした。

「休むことはサボり」という価値観は、母親に植え付けられたものだった。職場にいるのに仕事をしない=サボってる状態、と無意識解釈してたのかもしれない。それで疲れていたのもあったのかも。

元々うつ病の素質(警備員時代)があったこと、環境の変化がストレスに繋がりやすタイプなこと。今回は後者きっかけで表に出てきたんだろうね、と丁寧に図を使って色々説明してくれて、休職診断書を書いてくれた。

私に言い渡されたのは3ヶ月間の自宅療養だ。



休職してから

会社の人とオンラインでの面談なんかを済ませ、なんだかんだ休職して1ヶ月近くが経過する。

一緒に住んでる友達は「お父さんがうつで休んでた事あるし、私は私で生きてるから大丈夫。今はめっちゃ休んだらいいぞ」と言われた。理解の有る友達で一生大事にしたい。

最初の1週間は何したらいいんだ…?って凄い焦ってたし、休むことに対する罪悪感が大きかった。

でも、彼氏友達、お医者さんにも「休むことは権利として存在してる。そうじゃなかったら公休以外の有給祝日存在しない」と言われた。

そしてお医者さんには「休まなきゃ人間は病む」と言われた。医者が言うならそうなんだな!って思える単純な脳みそで良かった。

薬のおかげもあってか、死にたいとか思うことは無くなった。段々夜も眠れるようになった。外に出るのが苦にならなくなった。休んでも良いんだと思えるようになった。

何より説得力があったのは「警備員時代に休めなかった分休むと思えばいいんじゃない?」という彼氏言葉だ。月3、4休みの1年半。3ヶ月休んでも多分足りないんだよな~!

今は買い物に出るぐらいは出来る。ただ、人が多いとパニック状態になってしまうのでオフピークや、パニクったら一人になれる場所に行く、とかで対策してる。

外で店員さんと話すのとかはちょっとまだ不安なことが多いけど一時期よりは随分マシになった。

当面の課題電車に乗れるようになる、あとは選択肢が多すぎるとパニックになるのを克服する。この2つかな、と思う。

徐々にだけど良くなってきたので無理せず今はやりたいことをやって行こうと思う。


最後にこんなアホ長文読んでいただいてありがとうございます。何かの役に立てば幸いです。

それから真・女神転生3 ノクターン HDリマスター、発売決定めっちゃ嬉しい。はよ復職したい。

 
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