はてなキーワード: 帰結とは
観測するまでその場にいるかどうか解らないのだから、つまりは量子を観測して毒ガスを出す箱の中にサンタクロースが居るかは明けてみないと解らないとしても考え方としては生と死が重なってて矛盾をするし、結局マクロな世界ではサンタクロースを観測者の存在も含めて存在に帰結するのも困難。
また、サンタクロースの移動ベクトルも全てを繋げて地球儀に落としたとしても最終的に出発点に戻るとも言い切れないのだ。
はっきり言えるのはこの世にサンタクロースが存在するとは断言できず、また、いないとする論拠もないということで、神も悪魔も前世も運命も全て都合のいいブラックスボックスに他ならない。
プレゼントをねだる君の存在は実在を疑うこともないけども、同様にクリスマスのディナーの高値もまた、現実であって、そういえば地球が暖かいのは緩やかに核崩壊を行っているからであって、結局生まれてくる子供だって生まれてみるまで誰の子供か解らないと言う点では非常にシュレディンガーだよね。
シュレディンガーベイビーと君を置いて僕が宇宙を高速で旅したとすると子供より若い父親の存在がね、双子のパラドックスっていうんだけど。
いや、認知とかそういうのはまだ不明な未来な訳で、全ての物体のベクトルを観測し、予測できる悪魔にだってほら、やっぱり解らない事はあるはずだから。
仏教的にいえば未来はまだ来ていないのだから今目の前にある現在を精一杯いきる所存というか。
たとえばブラックホールは超高重力なのだから内部は高熱なのかといえばそうなのかも知れないけど、それは絶対重力圏内の全てを吸い込む故に、周囲に大量の反物質を生み出して常にエネルギー的に霧散して消滅に近づいているんだけど、僕らの関係も想いという意味ではブラックホールに似ていて、重いと想いをかけた訳ではないけど、常に目減りを繰り返してって、いつかは何かを生み出すかな。
いや、子供ではなくてね。
図書館の魔女を読んだ。エピローグがとてつもなく長くてびっくりした。珍しい外交ファンタジー小説だったけどとても楽しく読み進められました。
でも正直なところ、一巻の中盤辺りまでは退屈な小説だなあって思ってた。文飾がちょっと過剰だし、展開も遅いし、外交ファンタジーをうたっているのに外交する素振りのない内容が続いたからなんだかなあって思ってた。
極めつけに、図書館の構造についての理屈が詭弁に見えてしまったのが痛烈だった。問答も長いし、その帰結にも納得できなかったから読む意欲が結構そがれてしまった。
けれども、それ以降に出てくるニザマの佞臣との邂逅を描いた場面、つまりは外交の一端に触れたあたりからエンジンが温まってきた気がする。
如才ない敵役が現れたことにより、それぞれがそれぞれのシナリオに則った役割を演じて体面を終えるんだけど、そのあとで腹芸の内実が一枚一枚明かされていく流れが面白かった。その後で一巻は冒険小説になるんだけれども。
魔女の図書館の面白さに関して、先述したような冒険小説のような側面があったり、ミステリー小説のような側面があったりすることも挙げられる。要するにいろんなエンターテイメントが含まれている小説だったわけです。
窮地から脱するアクションシーンがあれば、罠の待ち受ける敵陣へと進行していく場面がある。甘酸っぱいボーイミーツガールが描かれたかと思えば、緊迫した議会の内実が描かれたりもする。
そのどれもこれもが丹精込めて力いっぱい描かれているもんだから物語奥行きがすごいことになっていた。一方で弊害もあって、少々読みにくくなっていたし、展開の遅さにもつながっていたように思う。
二巻三巻と読んでいるうちに慣れたけど、それでもやっぱりくどいし重たい文章ではあると思う。ただ二巻の終わりがけは執拗な文章構成が却って切実さを演出していた気がする。
キャラクターに関しては、ラノベと見まごうばかりの配置だった。毒舌の天才少女にアルビノの長身お姉さん、褐色肌の闊達な女軍師にちょっとおっちょこちょいだけど母性に溢れる家政婦など、色物が揃いすぎている。
女性キャラだけじゃなくて、男性キャラクターもそうそうたる面子だった。
かわいい名前なのに有能な政治家であるヒヨコをはじめ、個性あふれる近衛兵の面々、おおらかな知の巨人たるニザマ皇帝等々、主要な人物はもちろんのこと脇を固める人物にも個性があり人格があって、みんな生き生きして見えた。
読書感としては、スワロウテイルシリーズが似通っていると思う。学術的なやり取りの緻密さや、それぞれの土地に与えられた細やかな設定が物語を土台からしっかり支えてくれていた。
スロースターターだけど、ギアがかみ合えばどんどん先へと読み進めたくなる小説だった。読み終わるのがちょっと寂しかったです。続きを文庫ではよ。
山上浩嗣『パスカル「パンセ」を楽しむ──名句案内40章』(講談社学術文庫、2016年)を買って読んだ。
パスカルの『パンセ』(これ自体は読んだことない)から、著者の山上さんが気に入った40句を抜粋して解説した本。
抜粋部分は基本的に、パスカルがキリスト教を信仰する中で思いついたことや考えたことが断片的に書いてある。
脈絡のない思いつきがたらたらと書いてあるだけかと思ったら、通読すると何となく山上さんが『パンセ』をどう読んでいるかが見えてきて面白い。
著者や出版社は1日1章読んでもらうことを期待しているようなのだけれど、ライトな読み物なので3時間もあれば読み終わってしまう。
中でも印象的だったのが、「パスカルの賭け」という章だ。
① 人間は、神さまが存在することを証明できないし、逆に存在しないことも証明できない。
② ここでもし神さまが存在するとすれば、人は、死後天国に行けるように、聖書に書かれた高潔な生涯を送る必要がある。
③ 逆にもし神さまが存在しないならば、高潔な生涯を送ることはムダであり、快楽を追及する人生を送るべきである。
④ このことから信仰とは人生を賭けた丁半博打のようなものだと分かる。賭けの帰結は以下の4つ。
(ⅰ) 神さまが存在しない方に賭けて、実際に神さまが存在しなければ(つまり賭けに勝てば)、聖書の教えに縛られない自由な生涯を送った挙句、失うものは何もない。
(ⅱ) 神さまが存在しない方に賭けて、神さまが存在した場合(つまり賭けに負ければ)、自由な生涯は送れるものの、死後、地獄の業火に焼かれ続けることになる。
(ⅲ) 神さまが存在する方に賭けて、実際に神さまが存在すれば(つまり賭けに勝てば)、聖書の教えに縛られた高潔な生涯を送らなければならないが、死後、永遠の幸福を得ることができる。
(ⅳ) 神さまが存在する方に賭けて、神さまが存在しなければ(つまり賭けに負ければ)、聖書の教えに縛られた高潔な生涯を送らなければならない上に、死後、何も得られないこととなる。
⑤ なお、この世に生まれた瞬間から賭けは始まっており、どちらにも賭けないという選択肢はあり得ない。
*ちなみに以上の整理には批判多し。
その上でパスカルは、確率論を駆使して、神さまが存在する方に賭けるべきことを論証していくのだが、結構しょうもない論理でおもしろい。
上と似たようなことを信仰を持ってる人は誰しも考えたことがあるんじゃないかと思うが、パスカルみたいな稀有な天才が似たようなことを考えてるのがまたおもしろい。
こんばんは。
親の年収が400万円を下回りつつも田舎から出させてもらった東大生の僕の立場から、ちょっと書きたい。
勢いに任せて書くから、構成も整っていないし少し読みにくいかもしれないが許してほしい。
およそ8:2。
世界各国のトップ校は、ほとんど1:1であるにもかかわらず、日本のトップ校のみがこのような数値をたたきだしている。
東大も焦っているようで、女子学生を集める努力を必死にしている様子がうかがえる。
http://www.asahi.com/articles/ASJCG4WF3JCGUTIL030.html
東大、女子学生に月3万円の家賃補助 来春に初めて導入:朝日新聞デジタル
「女子学生に限定せず、苦学生を救うのが先だ」という趣旨の意見が散見された。
うーん、まあこれとそれとは分けて考える必要があるのかなというのが私の考え。
女子学生を集めるインセンティブとして、3万円を家賃補助として出すのは、あまり効果がないように思われる。
この2つが大きな原因ではないだろうか。
私より成績のいい女の子はたくさんいたが、彼女らは地元の医学部や旧帝大を志望していた。
男子と比べると、女子の方が圧倒的に地元志向が強く、高望みも少なかった。
もしくは、③家計の問題もあったが、これは別に男女差は少ないと思うので、女子学生が東大に少ない理由としては不適当やろう。
特に①の心理は、以下の増田を読めば何となく納得できるところではないだろうか。
(彼女こそ、地方ではなく都内のいわゆる超一流進学校ではあるものの)
http://anond.hatelabo.jp/20161108222835
女と学歴 - はてな匿名ダイアリー
また、②の心理は、上の朝日新聞の記事によると、今回東大が女子学生に家賃補助を出す理由としているところでもある。
すなわち、地方の女子学生の母親は、治安の意味で娘を東京に出すのが怖い→安全性の高いマンションを東大が提供することで治安の面を解決→女子学生増加、というシナリオを東大は目論んでいるのだ。
別に、娘を上京させるのが怖いっていう心理と、親の年収が低いってことに相関関係はなくないか?
むしろ、東大に通う家庭は裕福な家庭が多いのだから、そういう家庭は多少の金を切り崩せばいくらでも安全な部屋に住める。
さらに、①のような上昇志向がもともと希薄な女子生徒に、3万円の家賃補助を出してもインセンティブになり得るか?
別に女子学生の家庭の方が男子学生の家庭よりも貧しいというわけでもないのに、なぜこのような措置をとるかなさっぱりわからん。
東大に女子学生が少ないのは、それが理由ではなくて、もっと大きな問題が背後に潜んでいるはずだ。
女性に対して機会が開かれていないことではなくて、女性が社会のエリートとして生きていこうとすることに対する違和感が、社会に存在することの問題なのだ。
家賃補助を出すというアフォーマティブアクションは、ほとんど効果を出さず終わるだろう。
私は、東大に女子学生を呼び込む努力には賛同するが、そのやり方が間違っていると主張する。
だが同時に、これはまた別の問題ではあるが、苦学生の支援を充実させてほしい。切実に。
http://www.nenshuu.net/m/sonota/contents/toudai.php
しかし、東大では年収900万円オーバーの家庭がマジョリティであるのは、肌で感じる。
田舎の普通の家庭から出てきた私は、カルチャーショックを受けた。
正直、卑屈になったこともあった。
世帯年収450万円を下回る学生は、このデータによると、約15パーセント。
②宿舎の用意
月に約12,000円で住める駒場生向けの三鷹寮、月に約1万円、36,000円でそれぞれ住める、本郷生向けの豊島寮と追分寮というものがある。
前者の三鷹寮には、ほとんどの苦学生が住めるものの、本郷生向けの2つの寮は、部屋数が少なく、かつ留学生優先のため、苦学生の中でもかなり貧しい学生しか住めない。
私は月に8万円の奨学金を借りて生活し、1、2年の頃は三鷹寮に住んでて何とかやりくりをしていた。
しかし、3年生に上がり本郷に移る際、どちらの寮にも落ち、月3万円台の風呂なしアパートに住むことを余儀なくされた。
辛い。甘えかもしれないが、やはり辛い。
もちろんこれが、私をそこから這い上がらせる原動力にもなっているが、友人との金銭感覚を実感すると、どこか悔しくなる。
どうしようもないやるせなさを感じる。
親にはもちろん感謝しているが、同時に、この社会の不公平さを少しでも改善したいと思う。
私はまだマシな方であるが、もっと厳しい友達になると、3年生から寮に移れず退学したり、せっかくの大学生活のほとんどをバイトに費やしたりしている友達もいる。彼らは、授業料の免除も受けられなかったようだ。
機会の均等をもっと増やしてほしい。
でも、少しでも定年退職間際の親のローンの額を減らしてやりたいし、退学やバイト漬けによって勉強の機会を奪われている友達を減らしたい。
昔の発言が掘り起こされることが多いが最近のコラムと経歴を調べてみた。
竹中平蔵氏は複数の内閣会議に「東洋大学教授・慶応義塾大学名誉教授」を肩書にし有識者として参加している。
それと同時に竹中平蔵氏自身は民間企業の会長(株式会社パソナグループ取締役会長)である。
竹中平蔵氏はこのコラムでは、通訳案内士、民拍、Doornobなどの規制緩和を訴えている。
しかし、パソナは自治体や観光協会などの団体を対象にした「インバウンドビジネス」を行っている。
例として、(宿泊施設インバウンド対応支援事業補助金事務局 、パソナ『観光立国ソリューションサービス』、
竹中平蔵氏自身「公に近い民間」という規制緩和から離れた人物であるにも関わらず(であるからこそ?)、
自身の関係のない部分は「規制緩和」を主張しているようにも見える。
おそらく竹中平蔵氏は非正規問題を引き起した当事者として今の非正規問題を語れないのでは?
2.「非正規」について語れない。
そもそも日本では観光業は非正規の比率が他の職業に比べて多い。
例えば、通訳案内士は数が足りていないので柔軟な発想で(資格取得規制を緩和)というコラムがあるが、
格取得後、多くの合格者が就業しない理由として「生計を立てられない」を挙げているのには全く触れていない。
あるいは、「シェアリングエコノミーを利用することによって低迷する日本の中間層に大きな利益がある」とするが、
「日本の中間層の低迷」に言及できても、「日本の低所得層」についてはコラムでは触れられていない。
観光地の魅力としてはフランスやイタリアを引出し、規制緩和ではアメリカ中国を引き出すが、
(例えばアメリカでは懲罰的損害賠償があり、誰でも訴訟をする文化がある、中国は政府の統制力が大きいなど。)
非正規問題、労働問題について語れないので問題の認識もできなくなる。
そもそも、コラム上で竹中平蔵氏が問題としている日本の現状は竹中秘蔵氏自身の政策が行われた結果ではないのか?
例えばパフォーミングアートが日本の伝統芸能を取り上げたコラムでは、
「毎日どこかで外国人が観たり聴いたりできるようにはなっていない。」
としているが、日本人が平日にパフォーミングアートを見たり聞いたりできる労働環境にないからではないのか?
「他の国に比べパフォーミングアートが日本で圧倒的に不足している。」
「パフォーミングアートを継続的に楽しめる環境はまだまだ整備されていない」
「欧米などでは、寄付制度も充実している。日本では民間資本やファンが文化を支援する構図がまだまだ成り立っていない。」
「寄付の税制改正なども含めて、文化へのアクセスを充実させていく」
他のコラムを見ても多くが
「欧米に遅れる日本」、「規制緩和」、「労働力の安売り」に帰結している。
これ以外にも「2000万人の観光客が1週間滞在すれば40万人の人口増と同じ効果」という
「インバウンド効果を一時的なもので終わらせないためにも、日本人の不断の努力が必要」としながらも
http://www.nikkeibp.co.jp/atcl/column/15/IB-TK/
第2回通訳案内士制度のあり方に関する検討会の開催結果について(概要)
みんなはクラスメートとか仲間内で雑談をするとき、傾向とかなかったか?
例えば俺たちの場合は、ウンコ味のカレーかカレー味のウンコかみたいなことに思考リソースを割くのが多いかな。
弟のマスダたちの場合は、思春期ということもあってかエロ関連の話が流行みたいだ。
「僕がエロいと思うのは、この曲線だと思うんだよね」
「胸! 大は小を兼ねる! 安定需要!」
さて、弟たちのしている話が最終的にどこに向かうかは大した問題ではない。
俺だってこのテの話は別に嫌いではないというか、こういう話で学校の隙間を埋めていた経験も人並みにはある。
しかし、何度も聴いていた名曲が騒音に聞こえるように、同じことは繰り返せば繰り返すほどツマラナくなり、最終的には嫌悪感すら抱くようになる。
そうならない内に、一時的にその話をしないようにして、忘れる必要があるのだ。
「お前ら、いつまで同じ話をしているつもりだ。いい加減に次のステップに進んだらどうだ」
「ちゃんと進んでいるよ、今はエロ度をランク分けしている最中なんだ」
「私、女だけど、その理屈だと結局は骨って結論になってくるよ」
「それが同じ話だと言っている。結局はエロいかエロくないか、そしてどの程度エロいかを話しているだけじゃないか。場所がちょっと変わっただけで、お前らはグルグル回っているだけなんだよ」
俺の指摘は間違ってはいなかったが、弟たちはそれが逆に自分たちへの無理解だと受け取ったらしい。
「これはとても大事な話なんだ、兄貴。そんなガワだけを見た評価をして、俺たちに冷や水をぶっかけないでくれ」
「私、女だけど、料理にも使われている言葉だから、この場合はその料理がエロいかも審査していく必要が出てくる」
「いい加減にしろ。お前ら、このまま同じ空気を吸い続けて皆がエア性行でもしていると俺が言えば満足なのか? くだらん、不毛なことにエネルギー割くのは程ほどにしろ」
俺が思っているよりも、弟たちがその雑談で背負っていたものは大きかったらしい。
「ふざけんな!」
「トマホーク! ちょうな!」
「おいおい、やめろ、暴れるんじゃない。ここは俺の部屋でもあるんだぞ」
十数分に及ぶ私闘は、開き直った俺が木刀を用いた演舞を披露することで決着となった。
とはいえ自分たちの部屋に大きな傷を残すという、誰も幸せにならない決着だったが。
それから、弟たちの雑談場所はもっぱら近所のカフェになったらしい。
まだエロいエロくないかで盛り上がっているのかは知らないが、弟たちが出禁になるか、それまでに雑談内容が次のステップに移行するのが先か。
そんなことをクラスメートたちと雑談しながら昼休みを過ごすのが、最近の俺たちの流行だ。
竜王戦の時点でスマホ不正できないような仕組みを導入してしまえばいい話では
なんで? そこの帰結は自明でないです。プログラムと人間の思考が同じ手を結論とする可能性なんていくらでもあるでしょう。
将棋の棋士は将棋プログラムの専門家じゃないけれども、棋譜を読む専門家じゃん。
その人の手筋の真贋を見極めるという点では、直接対決してきたA級棋士ほど研究した人はいないはずなので、トップ棋士複数の判断は重要だよ。
プロの棋士の判断をセンサーにして、出た疑惑を客観的な手段で検証するならわからなくもないが、
http://www.yomiuri.co.jp/yolon/ichiran/20160923-OYT8T50010.html
コンテンツへの理解が浅すぎるkawangoにはまじで失望した
http://anond.hatelabo.jp/20160928053429
ラノベ業界最大手企業の社長・川上量生氏が垂れ流したラノベに関する偏見・虚偽・流言について
http://kazenotori.hatenablog.com/entry/2016/09/29/212207
もちろん例外があることは知ってるけど、それが例外な時点で偏りがあるってことになる
それだけ偏りがあるってことは、物語の大体の流れからして最後がほぼ予測可能なのは誰も否定できないだろう
こんなものもある、こんなパターンがある、なんてこと言ってる時点ですでにおかしいんだよ
そんな状況の中で、物語の途中でいくら紆余曲折があろうとも、どうせ最後には勝っちゃうような存在の努力描写に感情移入しろって方が無理でしょ
物語的にそれが必要であることは理解してるけど、だったらそれは最低限で十分だし、なんなら最初から最強の存在であって「ちゃんと昔に努力してましたよ(笑)」で済ませてくれた方が無駄もなくていい
こんなこと言うと今度は物語を楽しむ才能がないだとか言われるんだろうけど、リアリティを望むのであれば努力描写の有無よりもハッピーエンドとバッドエンドの割合こそを問題視すべきだと思うね
特に商業作品は、物語の終わり方が売上に影響するからほとんどがハッピーエンド、もしくはそれに準ずる展開で終わることがほぼほぼ約束されてるわけであって、
それで過酷な修行だとか何ページにも渡ってされても、正直なところ茶番だとしか思えないんだよな
最近だとリゼロってアニメあったけど、あれも最終回は結局のところハッピーエンド的な感じで終わったわけで、正直言って拍子抜けもいいところだったわ
原作はまだまだ続いてその後にいろいろと展開もあるようだけど、俺はあの終わり方はすべてを台無しにしたなと感じたよ
あれではまるで、「正しく誠実に頑張れば報われますよ」と言ってるようなもので、そんな素敵な話にしちゃったらそれまでの苦悩もすべてが物語的に正しいだけのものになってしまうじゃないか
開き直って俺tueeeeしてくれた方が楽しめるし、その理由も神様がチート能力くれたとかの適当なもんで十分だよ
だってどうせ物語に過ぎないわけで、たとえそこにいくらリアリティを持たせたところで、帰結の部分だけはノータッチなんだからすべては茶番になって終わるんだし
正しく誠実に努力して努力して努力して、それで一切が報われることなく、スタート地点よりもむしろ悪くなって終わるみたいな物語の方にこそリアリティを感じる人も多いだろうに
と最近の色々を見て、改めて思ってたのだけど、その一因が先ほどふと分かった気がする。
というのも、「庵野秀明は新海誠への嫉妬で燃えているに違いない」というどこぞで見かけた馬の骨の因縁ツイートがあまりにも自分のイメージと違うことで、何かそこにメンタルヘルス用語で言うところの投射があることに気づいたからだ。
まず、このツイートが根本的に見誤っている事実として、庵野秀明という人物は、あの業界の人間にしては極端に他人に対する競争意識というのが低い。
少なくとも、表立ってはそれを感じさせない人物だ。
今までそれと意識した事はなかったが、改めて探してみると、他人への嫉妬や妄執が感じ取れる言動というものが本当に少ない。
自分以外のクリエイターの作品はまず肯定的に評するし、作品を比較して善し悪しを語るということにも熱心ではない。
富野由悠季の『そういう部分』をリスペクトしている割には、本人は驚くほど『競う』とか『順位を争う』とかという発想とは無縁の人物だ。
その代わりに顕著なのが、強い自意識だ。
ここで用いる言葉は、自尊心ではなく自意識、というのが妥当であるように思える。
ある種、究極のナルシストとでも言うべきか、他のクリエイターと自分との力関係などまるで我関せず、ただ自分がどれだけ自分を見てる人に印象的に映るかということだけを考えている感じだ。
『自分と自分の客』だけが世界の全てであると言っても良い人なのだ。
そういう意味で、セカイ系とかいう古くさい言葉で語られる彼の作品類型は、彼に見えている世界観そのものであるという事が改めてよくわかる。
当然の帰結として、庵野秀明が強い悪感情を抱くのはただ一つ、『悪い客』だけになる。
庵野にとっては同じ業界人などライバルでもなんでもない。ただ客だけが自分の戦うべき敵であり、「自分を分かってくれない」悪い客だけが究極の憎悪の対象なのだ。
幼稚と言えば幼稚なのかも知れないが、庵野にあるのは「なんで必死にがんばってる僕をわかってくれないんだ」という承認欲求だけで、それ以外の事は良くも悪くも何も考えていないのだ。
エヴァンゲリオンの、俗にいう『旧劇』は、庵野の強い憎悪・ルサンチマンの産物であるという事実は有名だが、それはあくまで『悪い客』に向けられたものだ。
庵野は、気に食わない批評家、もっと有り体に言えば『オタク』に負けるもんかと闘志を燃やす事はあっても、かつて一度たりと同じ業界人に対する『対抗意識』で燃えた事などはないのだ。
しかるに、庵野がことさらに嫉妬されがちな人物で、また冒頭に書いたような「若手を嫉妬しているに違いない」などという頓珍漢な言いがかりをつけられまでするという事実は、非常に興味深い。
庵野という人物は、常に競うという事とは無縁で、ただ『自分』を分かって欲しいという自意識だけでここまで来たクリエイターだ。
その事実は、取りも直さず、庵野秀明がオンリーワンであり、別の言い方をするなら「自分がトップに立てる土俵でだけ戦って来た人物」であることを意味する。
だがそれこそが、自分で土俵を作れず、他人と競う、オンリーワンをナンバーワンとして嫉妬するということしか出来ない種類の人間には、もっとも攻撃されやすい属性なのではないだろうか。
究極のナンバーワンであるオンリーワンの庵野は、彼らの目には常に妬ましいものとして映るだろう。
なんとかして、自分たちと同じ『競争』のルサンチマンに庵野を引きずり込みたい。
庵野が気にした事もないような『軸』で、庵野がナンバーワンでなくなる軸で、庵野に嫉妬して欲しい。
そんな願望が、このツイートのような、あまりにも庵野のキャラクターと齟齬を来す『勘ぐり』として現れるのではないだろうか。
彼らは往々にして、実際には自分で戦う事の出来ないただのオタク、つまり『観客』だ。
庵野秀明が新海誠に嫉妬して闘争心を燃やす事はまずないだろうが、このような、新海誠を出汁にして、庵野にいちゃもんをつけたがる『観客』がいる事実は、まだまだこれからも庵野を奮起させ続ける可能性が、まあ、確かにある。
http://anond.hatelabo.jp/20160912204811
まず、大前提として、8割ぐらい……っていうのが間違ってることはおいておいて。
最近の流行は逆に、ニッチな狭い世界観だったり、飯食う、飯食わすだけな作品が多い。
特に連載初期とか。
商業だと、やっぱりアニメ化2期3期目指すといろんなカタルシス必要だし編集が口を出すのだろう。
リスペクトしている作品の展開が王族から認められて、「いやー、俺ってば静かに暮らしたいのに周りがほっておいてくれないのよねー(チラ」がいわゆる様式美だから。
大きなイベントなしでずっと読者をひきつけるのは凄く力量が居る、んでそんな力量ない作者が多い。
日常からの脱却で話を広げて起伏を付けるほうがよっぽど楽、これはテンプレ崇拝とも被るけどね。
昔はともかく、(昔は王道ファンタジーが主流で今に繋がってるんだけれど)、
今は、ファンタジーは供給過多で、のんびり系(生産チートとか)、スローライフとかもあるけど埋もれてる作品が多いから目についてないだけというのもある。
今のWEBファンタジー小説ってゲーム世界感を踏襲してるからキャラの成長は当然あって、成長するといろいろ巻き込まれていくのは当然の帰結だし。
まあ、まとまってないけど、ダンジョン飯みたいなのもあるっちゃあるわけですよ。スローライフ系も流行ってるし。
だけど、それを書く、書ける作者があまりいなくて安易な王道系に逃げているだけというのもあったり、
結局流行廃りの人気産業なので(産業じゃないけど)、まったり系の人気作が徐々に増えているから、そのうちフォロワー(それを真似て書く人)が増えてってというかもう実際増えてるから元増のいうような8割って商業しか見てないよねーって話。
まあ、商業になると、横槍が入って展開に口出されるんだけれど。
色々議論見てきたけど、結局残しちゃいけない理由って、作り手の気持ちを害する・廃棄の手間を増やすってことぐらいしかないんじゃないかな。
・生産者の気持ち ⇒ 個々の消費者が残しているかどうかは分からない。
・食材となった生物の命の大切さ ⇒ 出荷された時点で死亡している。
◇お母さんが作ってくれたご飯をお母さんの目の前で残す。⇒×残すべきでない。
◇自炊料理を残す。⇒ ○残してもよい。 ∵作り手が自分。廃棄の手間も自分。
◇コンビニ弁当を残す。⇒ ○残してもよい。 ∵作り手から客が残しているかどうかは分からない。廃棄の手間は客負担。
◇マクドナルドでご飯を残す。⇒ ○残してもよい。 ∵作り手から客が残しているかどうかは分からない。廃棄の手間は客負担。
◇大規模レストランチェーンでご飯を残す。 ⇒ △残してもよいか議論があり得る。 ∵作り手の気持ち・廃棄の手間という問題があるため原則残すべきではない。ただ合理性を突き詰めると、この気持ち・手間すらカネで買っていると見る余地があるかもしれない。
◇高級寿司屋にて寿司を残す。⇒ ×残すべきでない。 ∵作り手の気持ちを害する。廃棄の手間がかかる。通常こうした店で食事を残すことは想定していないから、こうした気持ち・手間をカネで買っていると見る余地はない。
僕がシン・ゴジラについて「はいはい庵野庵野」と言ったのは、庵野秀明作品の中ではあからさまな様式美の詰め合わせでかつ、他作品でやったことのやきうつしだったからだし、そこに熱狂する人はオタクとして強度が… / “東浩紀氏「シン・ゴジ…”
典型的な学者気取りのオタクが書いた、わっかりにくい日本語と、エビデンスで取り繕ったクソみたいな文章の好例。こういう文章を自己満足でつくることを評論だ、批評だと言う人が嫌いで俺は評論同人への寄稿をやめた / “『君の名は。』の大ヒ…”
アニメについての評論や批評を見ても作品が面白くなる解釈ができるようになるわけでもなきゃ、アニメの見どころや作画的な技術論がわかるわけでもないことに気づいた途端に急に冷めてしまったのです。あー僕がやりたいのは作品紹介や楽しく見るために抑えておきたい情報であって評論じゃないな~と
「オタク文化がリア充色や社会派色を帯びて一般化して、オタクの時代は終わった」とか言ってる東浩紀に心底言いたいのは「今の20代は子どもの頃に押井守アニメやエヴァみたいな要素を含んだ冒頭からスタートするミュウツーの逆襲からアニメを見始めてそれがおとなになっただけ」ってことさ!!
支援ブクマ。いいぞ~ころしあえ~ / “「『動物化するポストモダン』はどこがまちがっているか」はどこがまちがっているか - 赤目無冠のぶろぐ” (2
「オタク論」は学者ごっこでしかなくて、実際にコンテンツが好きな人がコンテンツの話をするためにやってることではないからなぁ~。「評論ごっこ」「論文的なエビデンス漫才ごっこ」であって、もしこれを人文系の学問というならこんなもんに国がカネ出してる方が異常。憧れて同人作るのも狂気
オタクという自意識を持たない人をリア充だというならそれってどうなんだろうって感じはあるし、ジブリアニメで育った世代はオタクじゃなくてもあんなこじらせたものを国民的娯楽だと言って幼いうちから見せられてるんだから、オタクじゃなくてもその基礎的な土台はオタクなんだと思うぜ?
@tm2501 いやだからその事実自体が「オタクの時代は終わった」なのでは
@kimiterary だったら、それは20年前(もののけ姫や、ミュウツーが邦画の歴代ランキングで上位に食い込んで、アニメ映画をオタク以外が見に行く時代になった時)に約束された話だから、今それを言うこと自体が遅すぎない?…とは思う。
まぁ、その辺は記事にしたので夜に出すけど.それはね、多分「表面上の言葉でこの言い方をしたら絶対に誤解されるから、俺なら絶対こんな言い方をしないわ」っていうレトリックの問題であり、ある種の(正直言って、納得行かないけど)同族嫌悪なんだと解釈してるよ…うん
@tm2501 確かにもののけ姫やミュウツーに「オタク特有のグダグダした心理」の描写はないんだけど、その二十年分の変化の集大成として、節目の年と感じてるって話じゃないのこれ。その二十年前にいるのがまさにエヴァなわけでさ。
@kimiterary 東浩紀の文脈(オタクの定義を動ポモで扱ったものやそれを論じたゼロ年代ゲンロンとした上で)あるものはエヴァでありエロゲなんだろうと思うけど、世の中の人のターニングポイントが本当にエヴァだったのかと言われるとそこにはとても疑問を感じるかなぁ…数字の問題として
というか、うちのブログやそのスタンス自体が、「哲学者・批評家の言ってることを噛み砕いて、アカデミックな言葉を使わないで書く」という部分(本人すらアカデミックでそれをもっとシンプルに言い表した言葉があったことを知らずに書くことは多い)があるからねぇ~うん。
@tm2501 「誰しも土台にオタク的部分がある」のは普遍的にそう。ただ、それを突き詰めても「だからみんなオタクであり同時にオタクではない」みたいなところに帰結するだけで、そこからこぼれ落ちる人間、こぼれ落ちる想像力は確実にあって、で、それらはもはや力を持てないって話なんかなと。
@tm2501 世の中のターニングポイントがエヴァだったのかが問題なのではなくてシンゴジラの監督が庵野であることがこの文脈では問題なのでは?
@kimiterary あー…直感的には理解したけど、いいアクションを持ち合わせない部分がある話やなぁ~。
@kimiterary あー…うん。(概ね納得)
だとするとすげー個人的な話を主語がでかいままネットに書き込んだ系のことやなぁ~。「お前はそうかもしらんが、一般的な分岐はそこじゃないだろ」的なモヤモヤは個人的な話である時点ですでに意味を持たないというかその人の手を離れるわな…
@tm2501 つまり「アニメ・マンガ文化愛好者」としてのオタクと「少数派としてのグダグダなメンタリティ所有者」としてのオタクの問題。前者がもはやメインストリームに取り込まれた(皆オタクであり非オタな世界)として、後者の想像力が表出してくる余地が果たしてあるのか、でしょ。
@tm2501 そもそもアレ個人の感想だけどな?
@kimiterary それな(盛り上がってるから真夜中にがんばって記事を書いたけど、結局東浩紀との対立というよりも、EXILEまでオタク的になったという話までの道のりを自分がポケモンとかジブリを使って補填するようなすごく説明的な記事だからいいんだけどさ…)
@kimiterary 「後者はそもそもオタクなのか」とはてなブログにいるとすげー思うけどなぁ~。結局、何を議題にしてもグダグダにグズグズに揉めてる印象があるから。オタク論争だけでなく、人間関係でも、サイトやブログのアルゴリズムやテクニカルな話でも
@tm2501 ちなみにこんなこと言っておいて難だけどセカイ系とは相性が悪いマンだからさほど感慨はない……w
@kimiterary あ、僕もそこはどうでもいい派。15年以上前のオタク同士でランデブーしてろ派だし、安易に話に入ると誰も幸せにならないから意図的にスルーする派
@tm2501 端的に言って本人の能力値がどこでいいからどこかに向けて高くない限り救いようがない人種だけど、わりとそれオタクの本質の1つだと思うんだよな。
@tm2501 てゆーか貴方だしすっげえ雑なこと言うけど、要は1つのテンプレとしては太宰に感情移入しちゃうタイプのメンタリティが挙げられるんじゃないの、後者。ファウスト系に人生曲げられたマンとしてはこの辺他人事ではない
@kimiterary それ、私には発達障害の問題(IQの低さと高さが混在した人間の宿命や悩み)の話に聞こえるから、哲学案件ではなく、精神科案件か臨床寄りな心理学案件な感じがあるかなぁ…。個人的な話でもあると同時に、それらを病気や克服すべき問題と定義したのはそっちだし。
@kimiterary そこまで広くくくっていい話だとすると、それは確かに哲学案件。
@tm2501 俺としては「病気が治ってしまったら病気が治る前の自分は死んでしまう」みたいな感慨があるからいかに病を抱え続けていけるかの問題、自己肯定の問題なんだけどなそれ。戯言遣いが言う「変わりたいって気持ちは自殺だよね」に未だに取り憑かれてる感。
@tm2501 「太宰に感情移入しちゃうタイプ」の「太宰」に代入出来る解としての庵野なり新海ではもはやなくなった、ってことだと俺は理解してるし、なんならそこに代入できる解って今の世界にいるのか?そもそも求められているのか?ってところで一般化していけそうではある。