「飯食ってくか。魚買ってくるわ」
お湯を沸かしてお茶を入れて、冷蔵庫で冷やした上で氷を入れる。近くの海でとれた魚をおろして刺身にするなりして、茗荷とすりおろした生姜と醤油に、お茶碗 1/3 くらいの白飯と香の物で食事をする。できれば、家族や来客にも、同じように質素な料理でぶっきらぼうにもてなす。
私は上場企業経営 xx 年目になるサラリーマン経営者だ。東京のど真ん中で働き、オフィスから徒歩 5 分の場所で家族と暮らしている。四半期の売上進捗が思わしくないだの、誰それが辞めると言っているだの、どこそこの部門の空気が悪いだの、どれだけ頑張っても、寝る寸前まで自分にまとわりつく焦燥感。具体的な内容を思い出せないほど数が多く、ただただそれら事実の寄せ集めが名も無き不穏となって後頭部にはりついている。
自分の人生に自分が何を求めているのか、理解できないことは不幸だ。不鮮明な希望の輪郭をなぞってみても、それが実際にどのような形をしているのか、想像も及ばない。その形に、一般的な欲望の帰結を仮説として当てはめてみたところで、違和感だけが残る。西麻布のラウンジや高級ブランド、美しい異性や異国の風景にどれだけ金銭と時間を投じても、Twitter や Instagram のキラキラアカウントのようにシンプルな幸福への最短距離を走ることができるわけではない。なんならキラキラアカウントたちも、当人の希求する毎日を、インターネットアカウントという時間軸をぶつ切りにしたパラパラ漫画のような、仮想的な人格に投影しているのだろう。
人生の幸福について考える際のパラドクスは、このタイムライン化にあると思う。冒頭の段落は、私が考える幸福を具体的なシーンとして描写したものだ。それだけ読むと、ああいいな、と共感してくれる人もいるだろう。しかし現実には、このような丁寧で質素な生活は、2, 3 日で飽きるのだろうし、日々の一瞬を、最高到達点で切り出して静止させ、その画像のような人生に満足感を得る意味はない。画像と画像の間こそ生活であり、人生だからだ。
1 日に 1 回あるかないかの一瞬のピークをパラパラ漫画化して、数万枚アップロードされた Instagram のような何かが、お前の人生だった、というのはどうも侘しいのではないか。
それでも私は、人生における幸福を画像として想像することをやめられない。その 1 秒以外の 23 時間 59 分 59 秒を無視しなければ、脳みその計算機がオーバーヒートしてしまう。どうやら私はいつまでも、自分が求める日々を理解できそうにない。
サラリーマン経営者設定にキラキラアカウントなどのポップな単語の絡め方、全体にワードを詰め込んだ感じなどもう少し精進スべし。
NLPで言うところの視覚優位な性格ってだけじゃない?