はてなキーワード: 担い手とは
日頃より、アイドルグループ「アイドリング!!!」並びに番組「アイドリング!!!」を応援していただき、誠にありがとうございます。
この度のスポーツ紙における解散報道に関してご報告・ご説明致します。
2006年10月の番組スタート以来、『現在進行形で成長するアイドル』として活動するアイドリング!!!は、アイドルのみならず女優・歌手・タレントと、様々なジャンルで活躍することを夢見る女の子たちの集合体です。彼女たちはアイドルグループであると同時に、フジテレビのマルチメディア戦略の担い手として、地上波・CS放送・BS放送・配信・携帯コンテンツなど、幅広いフィールドで活躍してきました。
ファンの皆様の応援を頂き、9年目となる現在まで活動を継続させて頂いてまいりましたが、昨年末より番組及びグループ活動の終了の話が現実味を帯びてきたのは事実です。しかし、終了時期とそこに向けた展開は、今年2月に入り、ようやく関係各所との協議・調整に入ったところで、具体的な内容は確定しておらず、まだ正式に発表できる段階ではありません。
詳細が固まり次第、真っ先にファンの皆様へご報告致しますので、それまでは、状況を静かに見守っていただければ幸いです。
これまで、数々のドッキリ企画を行ってきたアイドリング!!!ですが、今回、残念ながら「アイドリング!!!メンバー並びにファン様へのドッキリ」ではありません。ただ、もっと"アイドリング!!!らしい"壮大な発表の企画を準備していたのが、今回のような報道がなされたことで、全て水の泡となったことが残念でなりません。
いずれにしましても、3月18日(水)には6枚目のアルバム「ロデオマシーン」が発売され、各地でリリースイベントが開催されます。
また、3月28日(土)渋谷公会堂にて行われる「アイドリング!!!13号長野せりな卒業ライブ ぷにぷに・またね・だいすき」をもって、13号長野せりなが声優という夢に向かって第一歩を踏み出すために卒業します。さらに、4月5日(日)には豊洲PITにて「アイドリング!!!FES 2015」が開催されます。
まだまだ、ファンの皆様と直接向き合い、触れ合う機会は多くあります。これまで以上に、暖かい声援と、力強いご支援をお願いするとともに、この様な形での第一報となったことを、心よりお詫び申し上げます。
神原 孝
サイコパスのAO義塾塾長の文章に突っ込み入れるンゴwwwwwww
全文は http://aogijuku.com/tk2016/
今回の一件で悶々とする中で、改めていま私が為すべき事は何かと考えた時、
それは「AO入試を通して、全社会を牽引していく先導者を輩出していく」という原点を貫き続けていくことだと、思い至りました。
→勘違いやぞ
自らの頭で考え、行動することを身につけていくことをサポートしていきます。
→まず学力つけるのが第一なんだよなあ
そして、全世界を牽引していく先導者となることを目指す、
それは今回の一件でも痛切に感じました。
それでもなお、私はAO入試が、これからの日本社会にとって欠かせない入試形態の一つだと私は確信しています。
AO入試では、大学から受験生へ必ず「志(=大学で学ぶことへの目的意識)」が問われることになります。
「志」を抱くには「意識」が欠かせない
そして「志」を抱くには、
だから私たちが「意識が高い」と嘲笑されることは避け難いこととも言えるのでしょう。
しかし、これからの日本には社会への「意識」が高い人々が「異端」として嘲笑されてしまう少数派であってはならないと思います。
これからを担っていく高校生にとって、そしてひいては日本人全体にとって、
「社会への意識が高いこと」を普遍的なことにしていくためには、
AO入試という入試形態が社会の教育装置として不可欠だと僕は思っています。
とんだ思い違いやね
社会問題を解決していく、社会への高い意識を持った担い手こそ必要です。
→まあわかる
その担い手を育てる仕組みの一つこそ、私はAO入試なのだと思います。
一方で、一点刻みの受験戦争を勝ち抜くには、
社会へ関心を持つよりも、机に向かうことばかりが奨励されてしまいがちです。
→いかんのか?
もちろん、机の上での勉強や学力を身につけることは極めて重要です。
しかしその重要性は、勉強や学力は「手段」であることに対してであり、それ自体が「目的」ではありません。
→意味不明
点数のみで評価することは、手間がかかりません。
→根拠なし
大学での学びも「手段」であって、入学することが「目的」ではないはずです。
→一時的な目的を達成して、それから手段としての学びを行うことの何が悪いのか
高校生達が大いに学問することへの、それぞれの「目的意識」が最も大切です。
その目的意識を問い、社会全体で育てようとするのが、AO入試です。
このAO入試の可能性を活かして、
「ゴール地点」ではなく「スタート地点」へと描き直していきたいのです。
→一般入学者は大学入学がゴールとかいう妄想を押し付けないで下さい(迫真)
やはり、AO入試で入学するには、意識が高いことが求められます。
要するにバカってことやし
むしろ、意識が高いことで嘲笑されてしまう日本社会の現状こそ、最も正さなければならない深刻の病理だと、真面目に思っています。
そんなこと真面目に思ってるなら真性のバカやな
本来ならAO入試の導入に合わせて、学校が変化するべきでした。
学校がAO入試のサポートを万全に行ってくれるのなら、AO義塾の出番など必要なかったと思います。
学校という教育機関に、高校生達のAO入試への挑戦をサポートしてもらうことを期待するのは難しいのが実情です。
AO入試に挑戦する高校生をサポートするコミュニティを創りたいと決心しました。
幸いなことに、AO義塾は毎年、合格実績の過去最高記録を更新し、
本年度のAO義塾4期生も既に慶應義塾大学に150名以上合格することが出来ました。しかしそれを支えたのは、既存の塾・予備校の概念ではありませんでした。むしろ、全くその逆の概念でした。
→AO用の意識高い実績作りのための団体まで用意しているもよう
教える側、教えられる側という関係でもなく、
茂木健一郎とか
200人の塾生がいれば、200通りの志があります。
みんなそれぞれ、違う色、違う形をしています。
それが私たちにとっての誇りです。
合格を目指しません。社会に貢献出来る人材を輩出することを目指します。
そして、この信念は揺るぎません。
安定した時代には、常識的なライフコースというエスカレーターがあり、
それに乗っていれば、社会のことなど考えられずにいられました。
自らの頭で考え、行動出来なければ、一寸先は闇な時代です。
でも、そんな不安定な時代に生まれた私たちのような世代だからこそ、
スリリングだけれども、わくわくするような人生を送れる世代です。
明日がどうなるのか怯える人生より、明日を切り拓いていく先頭に立つ人生に、僕たちの世代はしたい。
※ポエム終了
そしてそれは全てAO入試に挑戦することで得られる学びです。
時代の転換に合わせてそろそろお役御免です。
こうした背景を考えれば、
やはり、新しい学びの場が不可欠です。
AO義塾はその新しい学びの場たらんと、
そして再出発の第一弾として、
「社会問題を考えるワークショップ」を12月26日(金)に開催します。
皆さんと一緒に「考える」機会としていきたいと思っています。
対象は高校生ですが、参加人数によっては、大学生の見学も受け付けます。
こうした企画等を通じて、全世界を牽引していく先導者となることを目指す、
ぜひ意欲溢れる、才能の原石である高校生の皆さんのイベントへのエントリーをお待ちしております。
それは「結果」で示してみせます。
斎木陽平
全体的に文章が下手で草生えた
なぜかこいつは脳内で一般入学者を大学入学がゴールの「意識低い人間」に仕立て上げてるんだよなあ
安倍自民党圧勝の予想はおそらく実現するのだろう、左派の方々はこの世の終わりのように言っている。
私も安倍の政治的心情には全く賛同できないので暗澹たる気持ちであるが、投票する気はしない。
タイトルから他人に責任感を求めておきながら無責任なと言われるかもしれないが、しかし考えてみて欲しい。
仮に選挙ではなく、貴方が自由に内閣を組閣出来る立場だった場合、何処を与党にして誰を総理にするだろう?
まさか民主党を与党に据えて海江田万里を総理にするのだろうか? そんなこと誰も考えていない、本人も考えていない、
政権担当能力もそのための準備もそもそも政策方針も無いだろう、海江田以外でも同じことである。
結局自民党が与党をやるしかないのが現状というのは揺るがないだろう、では安倍はダメだとして誰を総理にする?
石破? 谷垣? それで何か変わりますか? 結局安倍政権の姿勢を踏襲するだけなんじゃないですか?
そういうことではなくて、自民党を大勝させるということが不味いのであるという意見もあるだろう、
安倍の今までの政策(秘密保護法,エネルギー問題)にお墨付きを与えるわけにはいかない、と言う、私もそう思う。
だが例えば今回自民党が議席を減らしたとしよう、それが国会にどんなメッセージを送ることになるだろうか?
マスメディアも野党もそもそもこの選挙については争点を作り出すことに失敗した、安倍が宣言した「アベノミクスを問う」と言う看板だけが高らかに掲げられているのが現状だ。
そうした中で自民党が議席を減らせば、どうしたってアベノミクスへの忌避感としか解釈されないにきまっている。
そのような国民の姿勢を諸外国プレイヤーはどう思うだろうか? 日本経済の動向にかなりのマイナス評価をするとしか私には思われない。
私に自由な内閣任命権や議員任命権があったとしても、安倍自民党にこのまま続投してもらう以外の選択肢は取れそうにない、
そしてそんな下らない選挙には行きたくないので投票自体する気が起きない、
まだしもそうして投票率を下げたほうが「ああみんな今回の選挙に興味持ってないんだな」というメッセージになるだろう。
きっとこんな意見は意識の高い左派の方にお叱りを受けるに違いない、なので聞きたい、
責任感あふれる文化的で知的な民主主義の担い手たる市民の皆様、貴方が自由に議席を割り振れる立場ならどのような思惑の下にどのような配分にしますか?
いやこれ、サブカルとオタ兼ねてた自分から言うと、腐女子の潜伏問題と一緒で、オタ文化がそもそも「潜伏大好きオープンになるの嫌だ、オープンな奴は叩け」な人たちが集まって出来た文化だから、オープンなサブカルを憎んで叩いているだけの構図かと。
村上隆を嫌いまくり、匿名で荒らしまくる2ch文化の担い手であった男オタの行動を見ても分かるとおり、「自分の嗜好や趣味をオープンにすることを憎む文化」がそもそも男女問わずオタの本質で、だから似た物を愛好しているにもかかわらずオープンにしているサブカルが憎くて憎くてたまらなかったんだろ? と。
オタがきもがられたから潜伏したんじゃなくて、潜伏することを好むから、他者と交流がもてずに、きもがられたんだろ、という。
もっと言うと、物事をオープンにするのは「私と他人は超えられない壁がある。全ての人間は孤独であり、他者の思考を知る手段も共有する手段もない」と言うのを認めることができる人間がすることだ。
オタはそれが出来ないから、オープンにすると「自分だけを特別だと思ってやがる!! 他人にどう見られるかしか考えてない!!」と逆切れする。
孤独を気取るくせに、実はもっとも孤独から程遠い感性(思考を共有できる他者が存在するはず、という希望を捨てられない感性)を持っているから、「いや、オープンにしないとお互いが何を考えているかなんて伝わらない」というのを見せ付けられると、発狂するという。
でなきゃ、オタ叩きが少なくなった今なら、とっとと実名でばんばんオープンに生きるのがオタの主流になってないとおかしいだろ? 90年代より居心地よくなっているのなら。
じゃあオタク業界で働いている人はさぞ儲けているんだろうと思われそうだがそんなことはない。
というか、その真逆をいっているのではないだろうかと僕は思う。
知り合いの話ではあるが、
あるアニメーターは休日出勤や深夜の帰宅を果たしているのをよく見かける。
デザイナーをしている人は無茶苦茶な量の案件を投げられて、これまた深夜まで仕事をしていたりする。
まったくの赤の他人のラノベ作家やアニメーターなんて2年に1回ほど有名な人が死んで話題になる。
そして僕の一番の親友は、関東の同人誌印刷会社に勤務している友人は、年収が300万をようやく越える程度かつ昇給の見込みなし、多数の繁忙期と夜勤を抱えているという。
繁忙期中の残業の平均は5時間、コミケ前はそれが約3週間というのだから、まったくもって頭があがらない。
かのクールジャパン推進室(うろおぼえ)は、経済産業省にある。
確かにオタク産業は、これから輸出していくのによいものだろう。
だがしかし、少しは国内のオタク産業を支える人たちのことを考えてほしい。
「この仕事すごい好きなんだ。しんどいけど…天職だよ。でも、将来のことを考えたら好きだけじゃやっていけないんだ」
そう言って僕の友人は鼻をすすっていた。
どうかこれからの有力な残業の担い手たちを潰さない政策をたててほしい。
そして国に期待を抱くだけでなく、たくさんのオタクな人に、わりとオタク産業はギリギリなのだということを知ってほしい。
よく
「医療・年金・介護制度維持のために、とにかく出生率を早急に2.07回復させろ、人口1億人維持を目指せ」
と識者が主張し、政治家が主張する。
「出生率を回復させれば、医療財政や年金財政や介護財政の崩壊を防げる」のロジックは、一見正しいように見える。
しかし、このロジック、長期的には成立するも、中期的には残念ながら成立しない。
医療年金介護が「ヤバイ」とされるのは、いわゆる団塊世代がリタイアして年金受給側に回り、
その後後期高齢者側に回って医療負担介護負担が増えてしまうから。
団塊世代のリタイアは2010~2015頃に始まり、年金介護の負担増は、団塊が後期高齢者になる2025頃から急増する。
で、仮に
「出生率が異常に高騰し、1.4程度だったのが3とか4とかに上がり、出生数も100万人⇒200万人300万人に急回復した」
そういう高出生社会に転換したとして、それが「2025年問題」の解決に役立つのか?
答えは残念ながら「No」である。
かりに、2015年から、異常に出生数が増えたとして、その人々が「社会福祉に貢献し始める」のは、早くても2033年以降。
(2033年になって、ようやっと、2015年生まれが18歳になる)
実際には2040年以降だろう。
だから、今更出生数を爆上げさせたところで、「2025年問題の解決には、全く手遅れ」である。
(2015年世代が社会に出る2040年頃には、既に団塊世代の殆どが鬼籍入りしている)
むしろ、もし2015年から出生数を爆上げさせたら、2025年社会は
「後期高齢者の医療介護と、年少世代の扶養を、ダブルで苦しむ社会」ということになり、社会負担が増大してしまう。
逆に言えば、団塊世代の年金・医療・介護負担をさせるために、「2000年前後の出生数を増やしておくべきだった」、
団塊ジュニアに30歳前で出産させるべきだったのであり、「もはや手遅れ」なのである。
もっとも、今から出生数を急回復させることに意味がない訳ではなく、
「団塊ジュニアが後期高齢者入りする2050頃」の福祉の担い手を増やしておく、という点においては、意味がある。
だそうだ。赤旗のコラムもかくやはと思われる一方的な決めつけと一部の政治団体の主張を代弁するご熱心さにはあきれるばかり。
昔から、朝日の社説は程度が低かったが、ここまででは無かったはずだ。
なんで、こんな独りよがりなポエムを社説として掲載するのだろう?天声人語ならいざ知らず。いや、コラムにだってこんなん書いたらあきれるけど。
この社説子が読者に感じてほしいことは、
「俺はウージェーヌ・イヨネスコの『禿(はげ)の女歌手』を知っている文化的な人間」
「安倍内閣の暴挙を不条理劇になぞらえる発想力。センスいいでしょ?」
「『カーテンコールの、喝采の代わりに。』どう?詩的でしょ?センス良いでしょ?」
こんなとこか?
センス無いよ。はっきり言って。
集団的自衛権に関する憲法の解釈変更について、ついでだから私見を述べておく。
とは言っても、今回の解釈変更についての賛成・反対のことではない。
デモクラシーの担い手たる健全なる社会人なら誰もが知っている「ルール」(社内規則や法律等、もろもろの)についてだ。
憲法は法律であり、法律はルールであり、ルールは守らなくてはならず、ということはルールは守れるものでなくてはならない。
現状を追認すればいいというものではないが、現状に即した適切な条文に随時メンテナンスしなくては、ルールはルールとして機能しなくなる。
守れる訳のないルールを頑迷に変更しないまま金科玉条のように奉っておくと、そのルールはやがて形骸化し、却って何の歯止めにもならなくなるものだ。
守れる訳のないルールの一字一句にこだわるのは、ルールの精神を尊重していない言葉遊びと同じことだ。
そしてその言葉遊びは、ルール自体をゆっくりと間接的に蝕んでいく。
たとえば創業者が決めたけれども時代や社会や新しい法律と整合性がとれなくなって、もはや誰も見向きしていない社内規則とか。
憲法9条は、法律の条文にすぎない。それによって守るべき価値は何か?日本国の平和と安全だろう。
しかし、かつてルールの一字一句を神聖視して、日本国の平和と安全などどうでもいいという人たちがいた。
彼らは「神聖なる憲法9条に奉仕する自分」にうっとりするばかりの、自分をえらく見せたいだけの偽善者たちだった。
言葉遊びを非難するならば、彼らこそが非難されるべきだろう。
彼らは、国際情勢に合わせて憲法の精神を尊重しつつ条文をすこしずつ変えるという民主国家に必要なプロセスをあれやこれやの感情的な屁理屈をもてあそんで邪魔してきたのだ。
そしてその結果として、今回の無理筋の解釈変更が必要になってしまったのだ。
つまり朝日新聞は「言葉遊び」によって憲法を形骸化させた張本人の側でもある。自分たちの言葉遊びの報いを別の言葉遊びで受け取ることになっただけのことだ。
いや、その報いを受けるのは国民全体なのだから憲法の精神を真の意味で尊重してきた人々には迷惑な話だ。
「主権者である私たちは声をあげ続ける。(中略)おかしい、認められないと」
こんなの今時は学生だって恥ずかしくってビラにも書かないような少女趣味のアジテーションだ。
これで横暴な権力に立ち向かう革命の闘士気取りならば、いい気なもんだぜ。としか言えない。
薄ら寒い自己陶酔はご自宅に配達される朝日新聞のチラシの裏でやったらどうか。
朝日新聞は700万部(主催者側発表)発行されているそうだから、この社説のおかげでざっと数万冊のノートを作れるパルプとそれに印刷するインクを無駄にしたことになる。地球温暖化の観点からも問題だ。
愛とセックスは別だと教えるなら、それと同時にポルノと現実のセックスは違うということも教えるべきだと思う。
とくに男性は、実体験の前に愛とは関係ないポルノとしてのセックスばかりに触れてしまう現実があると思う。
妊娠出産の可能性やそれにともなう危険性を知らないまま、セックスを性的快楽のための手段としか思わなくなる。
愛とセックスは違うよとだけ教えられてしまったら、じゃあポルノ的なセックスでいいんだなと思う子供が出そうで怖い。
よく言われることだが、性教育の際に女性ばかりが「教育」を施され男性は蚊帳の外、という状況は今までにもあった。
(マンガやドラマで「女子だけが教室に集められて男子は外でサッカー」みたいなシーンを見た事ないだろうか?)
女性は自分の体や性をどのように扱うべきか多少なりとも教え込まれるのに、男性はそこに無頓着でもいいという風潮。
一方で、きちんとした性教育を受けずにポルノ的な性情報にばかり触れている男性は、現実の女性と接する際
どう接していいか分からず、その結果が「草食化」とか言われる現状にもつながっているんじゃないだろうか。
ポルノのように女性をモノとして扱う方法は知っていても、対人コミュニケーション手段としてのセックスを知らないという。
性教育に愛がどうこうを持ち込むのなら、このあたりもフォローしないといけないのでは。
書いたまま忘れていたエントリが突然ホッテントリ入りしていてびっくりした。
これは元増田へのトラバとして書かれたもので、元増田の提案する性教育の必要性については共感したものの
「愛とセックスは別物だと教えるべき」という点だけ少しひっかかったので、そこを起点に考えたものです。
terminalhead
ひととおり考えたけど、結局一緒のような気もするけどなあ。愛とセックスは不可分だし、ふつうのセックスをただ撮影したってポルノになる。あと20年くらい前は男も性教育受けたけど今は違うの?
私はもう少し後の時代ですが小学校で女子が性教育を受けている間、男子は外で体育的なことをしてた記憶が。
今日ここで習ったことは男子には秘密ね、みたいな雰囲気もなんとなくありました。
また、ここで言う性教育はなにも学校だけに限らなくて、家庭や地域の大人から受けるものも含まれます。
家庭の問題でもある。子どもの教育の主たる担い手である母親は自分の娘に色々話はできるけど、息子には、当事者視点ではできないし。
父から息子への性教育ってどんなものがあるのか、興味あります。
Midas
こういう事を幾ら言ってもダメなのは『なら具体的にポルノと実際の性行為はどう違うか』に『やってみなくちゃ解らない』としか答えれない(現実は現実の中で失敗を通じ学ぶしかない)から。言葉がムダな領域が必ずある
ポルノと違うのは知っていても、どう違っていて、現実にどうすべきかが分からない、という点は同感です。
ただ、それは「愛とセックスの違い」に関しても同じことが言えるので、片方だけを教え込むとしたら危険かなと。
そもそも教育の場で「愛」などという漠然とした、個々人でありようの違うものを持ち出すのは難しい。
lisagasu
たしかに愛とセックスは別、ポルノと現実のセックスは別だけど、愛とポルノはそんなに別物じゃないと思うよどっちも基本幻想だし楽しいし腕の見せどころだし/てゆーか7年くらい前のはてなみたいな増田だな
愛とポルノがそんなに別物じゃないからこそ、愛「だけ」をセックスから切り離すのはおかしい、というのが主旨です。
そういう極端に俺様な人がいる一方で、どうしていいか分からず消極的にならざるを得ない男性も多そう。
ポルノへのアクセスが容易になってる現在では、ポルノとの付き合い方みたいなことを(男女ともに)性教育に含めてもいいんじゃないかなあ、と思ったり。
「ネット右翼/ネトウヨ」なる言葉が語られるようになってからかなりの時間が経ちますが、その間にネトウヨに対する揶揄の言葉というものがいくつか生まれ定型化してきました。
この記事で書かれている「そんなに韓国韓国って、本当は韓国が好きなんじゃないの?」「偶然日本人に生まれて、日本人という以外誇れることが何もないんだろ」というのはその代表的なものだと言えるでしょう。
はっきり言ってこういうのはあまり褒められたものではないです。「あなたの言っていることは間違っている」と発言それ自体について反論するなら批判として成立しますが、そうでなく発言の裏にあるものを勝手に決めつけてそれについてあーだこーだ言うというのは単なる揶揄にすぎない。「サヨクは反権力気取ってる自分が好きなだけ」とかそういうのと同じです。
そしてこの手のネトウヨへの揶揄が孕む問題というのは他にもありまして、というかこちらが本題なんですが、こういう揶揄って「ネトウヨ=底辺の負け組」という認識が前提になってるんですよね。まさにさきほど引用した「日本人という以外誇れることが何もないんだろ」なんていうのはその典型。
まあこれも無理ないことで、これまでネトウヨについての分析として「負け組の社会への不満が近隣諸国に向かっている」「持たざる者が日本人であるということにプライドを見出している」というような語りがされることが非常に多かったわけです。
これについてはいくつか理由があると思いますがとりあえずここではおいておきます。
問題は実際のところどうなのか、です。本当にネトウヨは負け組ばかりなのか。これについては批判的に見る必要があるのでは、と思います。
『日本型排外主義―在特会・外国人参政権・東アジア地政学― 』(樋口直人)について
実はここで紹介されてる本は読んでないんですが、興味深かったので少し引用します。
“まず最初の筆者の主張は、「欲求不満を抱え、下方へ転落し、社会の縁辺にある者が担い手になる」というのが誤りであり、さらにそれを社会病理の範疇で捉えるのは間違いであるということ。在特会の構成員も、桜井誠のように高卒で非正規雇用というような人はむしろ少ない。経済的には、どちらかという「中産階級」が多いとのこと。日本の在特会の調査でも、社会階層の共通点ではなくむしろそもそもあった保守的なイデオロギーの共通点が特長的。安田浩一が『ネットと愛国 在特会の「闇」を追いかけて』 で描く「しんどそうな人々」(経済的・精神的においつめられた人)というイメージも無理があるのではないかというところから始まる。”
ネット上でネトウヨ丸出しの発言をしている有名人が何人かいます。「ネトウヨレベル」なんて言われたりしてますが身分を隠して匿名で書きこんだらネトウヨとしか思われないんで「ネトウヨレベル」ではなく「ネトウヨそのもの」です。ではその人は社会の底辺なのかというと、東大を出て大蔵省に入って議員になった人だったり航空自衛隊のトップに上りつめた人だったり、底辺どころかエリートなわけです。つまり、ネトウヨになる理由を不満や生きづらさに求めるのはちょっと無理がある。個人的な実感でも「ネトウヨ=底辺」という印象はなく、これまで実際に出会ったネトウヨ的な言動をする人の中にいかにも生きづらそうな底辺の人というのはまるでいません。
おそらく、ネトウヨ底辺説については誤りであると言ってしまって構わないのではないかと思います。ネトウヨ若者説についても同様で、世代はそこまで重要なファクターではない。
そして更に踏み込んで、社会情勢とネトウヨの台頭を結びつける言説自体がそもそも間違っているのではないか、ということをここでは主張したいと思います。ネトウヨが増えているという社会の変化を他の社会の変化の反映であるとする発想そのものが間違いである、ということです。心の闇というのも関係がない。
アポロの月面着陸はでっち上げであるという説があります。子どもの頃、僕はこの説をテレビで知って、そして信じてました。
でっち上げ論者はいくつもの疑問をアポロの月面着陸につきつけます。そのうちのいくつかを紹介しましょう。
・月面には空気がないはずなのに旗がはためいているのは何故だ?
・写真の中で影の方向や長さがバラバラなのは何故だ? 光源が複数あるのでは?
・宇宙飛行士は月面で宇宙服を着たままカメラを操作したようだがそんなことは可能なのか?
・月に行くまでには大量の放射線を浴びるはずだがそれを防護する技術が当時あったのか?
・アポロ計画以後アメリカが地球軌道の外に人類を飛ばしていないのは何故だ?
これはほんの一部で月面着陸への疑問点は他にもたくさんあります。ここでは文字だけなのでちょっとピンとこないかもしれませんが、これがテレビで画像や映像を参照しながら語られるとかなりの説得力を感じてしまうわけです。そして「月面着陸は冷戦の中アメリカがソ連に対抗するためにでっち上げたものであり月面着陸映像はスタジオで撮影されていた!」という結論に「なるほど!」と納得してしまう。一応筋が通ってますから。
念のため断っておくとこの月面着陸捏造説はトンデモの類です。少し調べるだけで上記の疑問への答えは出てきますし、大真面目に唱えたら馬鹿扱いされるんで気を付けてください。
さて、この月面着陸捏造説ですが、これを信じる人を分析して心の闇だとか社会への不満だとかそういったものが出てくるでしょうか。普通はノーでしょう。これを信じてしまう人は単に騙されただけで、その人が騙されやすいか騙されにくいかというのは関係があるにしても社会がどうのこうのというのは関係がない。騙されやすい人はあらゆる世代、階層にいますから世代や階層もあまり関係がない。ネトウヨもこれと同じなのではないかと思うんです。
つまり、右派プロパガンダ・修正主義デマに騙されたらネトウヨになるという単純な話なのではないか、ということです。
もちろん、月面着陸捏造説との違いはあります。月面着陸捏造説の先に反米感情は用意されていませんが、修正主義デマの先には嫌韓・反中感情が用意されています。これはひとつのパッケージとしてある。実は嫌韓・反中感情があるからネトウヨになるのではなく、ネトウヨになる過程でそういった感情が「注入」されるというのが実際なのではないか、というのもここでの仮説です。
この感情との結びつきの有無の違いは月面着陸捏造説は広がりを見せないのにネトウヨ言説は広がりを見せるという違いを支えているものだと考えています。
まあなんにしろ、「南京で30万人虐殺されたというが当時の南京の人口はそんなにいなかった! だから南京虐殺は捏造だ!」とか言い出すネトウヨのことを僕は「大気がない月面で星条旗がはためいている! だからこれは地球のスタジオで撮影されたものでアポロは月に行っていない!」とか言い出す人と同じ人種として見てますし、「韓国ってこんなにひどいんですよ! ちゃんと勉強してください!」とか言って国民の知らない反日の実態とかアフィブログとかのURL貼る人については「アポロの月面着陸は捏造なんですよ! あなたは騙されてるんです!」とか言って怪しげな個人サイトのURL貼るようなアレなことしてんなあというそういう目で見てますはい。
確かにここ4~5年で女子人口が圧倒的に増加した感は否めない。
かくいう僕も以前はアニメイトの子会社に勤めていたけど幹部格に女子社員が多く自身の意見が周囲から浮いてるのは感じていたし
それが容れられず女子社員の意見が多く採用されたことは、悔しさとは別の感情が蠢いていた。
実際、僕と似たような感情を持っていたらしい上司が転籍を願い出たり同僚が鬱を理由に休職したまま辞職していたのを知ったのは、
当時僕の同僚が普段座っていた席に見知らぬ女子社員が座っていた事から分かったものだから。
今後、男子社員は減って行き、女子社員が増えていく事は会社全体の命題だったのかもしれない。
何故なら僕も既に閑職に追いやられてるような錯覚に陥りそうになっていたからだ。
アニメの仕事だから好きだからという理由だけで続けていたけど、雑務や庶務が実際の職務と異なる作業が続いている状態だと
確かにうちの会社は女性層に支持されているだけに、男子社員が口に出せる事は女子社員のそれより多いとは言えないかもしれない。
商品を企画するにも男子社員の意見より女子社員の意見が容れられる事が目立っている、と感じてしまうのは単純に女子社員の数が会社全体の大半を
占めているからかもしれないし、それでも女子社員の方も男子社員たる僕に気を使ってくれてる事は痛いほど分かってる。
将来的にアニメ産業というのは、女性層の受け皿とした活動にシフトしていくだろう。
それは何も悲しい事ばかりではないし、むしろ今後のアニメ産業の担い手となり得る存在に昇華していく作品が誕生するかもしれない
そんな可能性だって大いに秘めてる。
けれど、僕が夢見たボトムズとかスクライドみたいな硬派なアニメは限りなく淘汰されていくんだろうな。
それが悲しくてならない。
今、東京都中央区の賃貸住宅に住んでいる。中央区歴8年その前は世田谷区に8年住んでいた。
子供3人と夫婦の5人家族。30代後半、中小企業の部長をしていて、共働き。
子供が増えたので、住宅問題が勃発し、60平米台の2LDKに肩を寄せ合うように住むことに限界を感じて近くのマンションを探し始めて、あちこち調べていて色々と思ったことを書いてみる。
ベイエリアでもざっくり3エリアあり、八丁堀、新富町、築地、明石町、湊などの都市エリア。勝どき、晴海、月島、佃、豊洲(駅に近いエリア)などのメインベイエリア。豊洲(はずれの方)、有明、東雲、新豊洲などのネオベイエリアとしよう。
それぞれ住んでる人も、街の色彩も違うが、主に勝どき、晴海、月島、佃、豊洲の中心地の話をする。
このエリアはここ数年で恐ろしい程大規模タワーマンションが建っており、これからもっと立つ予定だ。
総戸数200戸などは小ぶりな方で、SKYZ、ドゥトゥール、勝どきザタワーなど、総戸数1000戸以上のマンションが昨年から立て続けに売り出されている。しかも、今後の開発計画を聞くと、このメインエリアの再開発計画を勉強会ベースで立ち上がっているものだけ見ても、このクラスのマンションが最低でも10本は立つ。しかも、オリンピック後は晴海の選手村は中層の住宅となるはずでこちらも住宅となる。
現時点でこれらのマンションの平均価格帯は70平米2LDKで6000万円~8000万円。もう麻痺してしまったが、たまに実家に帰って不動産のチラシを見ると如何にこの価格がとんでもないか分かる。いくら金利が安いとはいえ、頭金を1000万円入れても月の支払は18万~23万、管理費や修繕積立をすると20万~25万円となる。
ほとんどの人間がローンで買っているらしいが、普通に逆算すれば世帯年収は1000万円以上ないといけないことになる。
で、、実際売れているのか? 僕が実感値で感じる限り、、やはり「売れている。」ようだ。キャピタルゲートプレイスもSKYZも完売した。
むしろ、いい間取りや手ごろな価格帯の部屋は倍率が高くなかなか買えない。
・・・で、、ここで疑問が出てくる。誰がそんなに買ってるんだ?ということだ。
一般的には、1000万円以上の年収の人間は3.9%とか言われている。
3.9%の人達だけが1400世帯と考えると、すさまじい光景だ。
平均的な世帯人数が2.5人として、人口3500人の中央区のタワーは、言いようによっては、約9万人規模、東京郊外のベットタウンの綾瀬や八潮と同規模の街の富裕層だけを集めたたった一本の建物なわけだ。
前述のたとえをしたのは、いろいろ聞いたり、見たりしていると最近売り出されたタワーの内、比較的間取りがコンパクトで仕様が高級なものを買っているのはよく言われる外国人などを除けば、地方の裕福な高齢者がかなり多いように見受けられるからだ。購入者は北海道から鹿児島などまで広範囲にわたっていて、現在はセカンドハウスとして、将来的にはこちらにと購入する人が後を絶たないとのことだ。
彼らの購入背景として代表的なものは、娘、息子夫婦が首都圏に居て、東京にはちょくちょく来るとか、健康不安を抱えて医療が充実したところで日々を過ごしたいとか、一戸建て&クルマ中心の地方の暮らしは面倒だ。
とかいう意識と、それを相続税対策という資金の裏付けが後押ししている。
本来、これだけの金額のマンションを購入できる60歳以上で地方となると、もはや地場の経営者や開業医などが大半だろう。これまでならロータリークラブや商工会議所で音頭を取って地方の発展を真剣に考えていた人たちはもはや表向きではそういうことを言いながらとっくに匙を投げて順次脱出しており、現状の地場産業はせいぜい自分と息子世代向けのキャッシュマシーンくらいにし考えていない。
というか、彼らにもどうにもできないのだから、今ある資産で将来に備えるのは当たり前の話で別に非難すべき理由はどこにもない。現実を真正面からとらえてちゃんと意思決定をするだけの合理的な判断力と資金力を歳を取っても持っているわけで、むしろ尊敬すべきだろう。
3.購入者像-②郊外庭付き一戸建てに魅力を一切感じないエリートサラリーマン
時はカネなりである。大江戸線や、有楽町線の銀座や六本木に向かう路線は朝8時でも座れる。通勤時間は丸の内で15分、汐留10分、赤坂25分、六本木25分といったところか。
僕は昔、成城や二子玉川に住んでいたこともあるので小田急線や田園都市線のラッシュのすごさはよく知っている。西武線に至ってはもっとすごい。
高年収のサラリーマンと言えば、商社、マスコミ、広告、テレビ、通信、金融などだが、これらは汐留、丸の内、赤坂、六本木に集中しており、激務の彼らは、満員電車がなにより疲れることを知っている。経費節減でタクシーチケットもおいそれとは切れない現在、近くに住まないとやってられないという現実的な事情と、合理的な彼らは無駄なところで見栄を張ったり、無駄遣いしたりしない。古き良き一戸建てファミリーを無理して演じることに魅力を感じないのだ。
彼らは、自分が浮き沈みの大きい業界の中でいつ今の高給が無くなるか分からないから大切に使おうとする。つまり、多少高くてもいざと言うときに売れる物件、あわよくば儲かる上に、会社から近い物件を物色するようになる。先の不安は給料の多少にかかわらず皆同じである。但し、今取れる選択肢の幅が給料と勤め先で多少異なるだけだ。
彼らは、将来が安定しないことを知ってるから、住み続けるしか投資回収できない郊外の一戸建てを嫌い、ベイエリアのマンションを買う。
4.購入者像-③空中移動族
新築マンション相場は中古相場と密接に関係がある。そしてその中古相場は同一エリアの賃貸相場と密接に関係がある。
新築マンションを新たに購入する動機はいつでもこれだ。
「ここに住みつづけたいけど家賃が高い」
つまり、逆説的に言えば同一エリアに高い家賃を支払っている人がたくさんいると、常に潜在的な高級物件の購入希望者を抱えていることになるわけで、彼らの基準は常に「今の家賃」vs「月々のローン支払額」で、現在の似たような条件で子供の小学校も中学校も転校せずに月々の支払が下がるならメリットが多く常に中古物件を探す人間が増える。
中央区はその点では非常に面白く、大川端リバーシティーを中心としたURなどの賃貸タワー群がその中央区とタワーマンションのエントリーユーザーの製造装置になっていると考えている。
リバーシティーは日本で最初のタワー林立再開発エリアで現在もずば抜けて環境がよい。さすがに築年数は20年を超えてきているが、それでも豪奢な造りと素晴らしい眺望、下手な田舎より緑が多い水辺の生活にファンも多い。、、、が実に10棟近くのタワーや大規模住宅が並び立つこれらのタワーの中で分譲タワーはいくつか?実は三井不動産のフラッグシップ センチュリーパークタワーなど3本しかない。
家賃は、2LDK中心で、URや三井で23万円~30万円。都営で14万~20万。
こんな家賃を払い続けている人たちが数千世帯単位でおり、常に同じ島の中でマンションを探している。
実際、僕が保育園や幼稚園の他の保護者に聞くと、5年以上月島、佃、勝どき周辺に住んでいる人たちはほとんどが住み替えを島の中でしている。すごい人では、10年の内に最初はリバーシティのURに居たけれど、近くのマンションを3回購入し、家族構成が変わる度に周辺のタワーマンションを移動しているのだ。
しかも、この買い替えは当たりのマンション価値の値上がりもあって、やればやるほど儲かる人が出る始末なのである。
10年くらいのスパンでいえば、高級タワーに住みながら、10年実質家賃を払わなかったうえに、1000万円ほど資産が増えたなんてことが起きるのがざらに起きるのがこの島なのだ。
彼らは、常に中古や新築の近隣物件に目を通して良いものがあれば住み替える。そして空中を移動しながら資産を増やしていく空中移動族なのだ。
2020年のオリンピックに向けて、ベイエリアの開発は進む。晴海は選手村跡地が中層の住宅群になり、報道センターは商業施設になるそうだ。築地市場は16年には新豊洲に移転し、新豊洲は活気を見せ、逆に築地の広大な後地は良すぎる立地を生かして汐留からつらなる再開発の目玉になる。
日本の抱える限界集落や、医療制度の崩壊、地方と中央の経済格差の拡大や、郊外ニューターウンの高齢過疎化など致命的ともいえる地方の問題、製造業からサービス業への基幹産業のシフトなど国家レベルの変化進む中で、わずかに残った地方や郊外の資金的、人的リソースをベイエリアは天空を貫く塔に貪欲に接収しながら今後急速に発展するだろう。
一部にはベイエリアの住宅の過剰供給を懸念する声もあるが、そういう意味でいえば、私はまだまだむしろ足りないくらいだと思う。
逆に言えば、このシナリオは一部の例外はあれど、全体として地方都市が、壊滅的に沈みゆくこととワンセットになるはずだ。
地方の担い手と資金をタワーに10万人規模の市町村の富裕層だけをどんどん引き抜いていくのだ。
その中には、腕のいい医者も、意欲のある実業家も、有能な実務家も、スタースポーツ選手も、皆に夢を与えるアーティストが含まれている。
コアな人材とお金がどんどん中央に流出することで地方は加速度的に貧しくなってゆくだろう。
地方が苦悩しているうちに残酷なまでにベイエリアの街は発展と集約を進めていく。
6.ベイエリア、この島に来るという選択。
僕が保育園の保護者同士のコミュニケーションや、近所の住民と接していて思うのは、ベイエリアの住人は非常に合理的な人が多いということだ。
見栄やステータスなどを追う人たちも無駄遣いが好きな人も少ない。とても自然体でただ、少し冷えた目で現状の自分が置かれている経済状況と今後の東京の見通しを考えている人が多い。
また、職業柄もあり様々な情報を持っている人が多く、非常に緻密に計算した結果この島に住んでいるようだ。
そういう意味で、今、まだ、なんとかなんとか勤め先があって、がんばって稼げている人が、合理的にこれからの生活と人生の質を向上させたいなら、このエリアはおすすめできると思う。
では、ベイエリアのこれらの島でやって行くために注意することを個人的視点からいくつか書いてみる。
①子供が何人できようが共働きを目指す。
男性1人の働きではこの時代、不安定すぎる。嫁や彼女、女性なら自分が正社員で勤めているなら絶対に仕事を辞めてはいけない。
専業主婦を抱えて、郊外の一戸建てをローンで買うなんていうのは、今時、一流企業の中堅なんかじゃ到底できない神の国の話だ。
ただし、二人で働けばベイエリアに住むのは難しくない。僕はオスプレイ型と呼んでいる。二つのエンジンで垂直に離陸して(マンションを買って)、高度を持ってから滑走する生き方だ。飛行機のように滑走路が無い(親の資産や特殊な能力)人は、二人で働けるうちに一気に高度を上げるべきだ。あと、子育てはどんなにしんどくても2人で仕事はやるべきだ。たとえ保育園代が妻の稼ぎを越えても仕事は辞めてはいけない。オスプレイは片方のプロペラが止まったら即座に墜落するのだから。
独身男女はパートナーが仕事することに対してネガティブでないかを確認しておくのが重要だろう。
ベイエリアでは、確かに保育園は不足気味だが、急速に充実してきており交通の便や医療サービスが充実していること、公園や道路が大きく街が整備されている割に交通量は多くないことから子育てはしやすい。
現在の課題は高校以上が近くにあまりないということだが、私学をメインに子どもの将来を組み立てるならさほど問題ではない。
まずは、自分たちがしっかり稼げる心身の状態を維持することが人生においては重要だ。この街は腹を括って働くことを決めた家族にはとても優しい街だ。
この島には賃貸物件のタワーがたくさんある。
前述のリバーシティー21もそうだし、日本一の巨大マンションTOKYO TOWERSもミッドタワーは賃貸だ。
家賃は安くはないが、私が住んでたURの定期借家物件、JKK(都営住宅)の物件も古いが設備は過不足なくおすすめだ。
家賃は東京郊外、世田谷区、杉並区などと比べれば5万円~8万円ほど上がるが、クルマを所有して賃貸住宅に住んでいる人ならクルマさえやめれば十分対応できる。
中央区はカーシェアリングがかなり盛んで(法人も多い為)今のところ借りたい時に近くで借りれないことはほぼない。
それに、そもそも銀座まで歩いていけるのに自動車の必要性が著しく低い。
都心に通っている人なら通勤の楽さにビックリする。生産性以前の問題だ。勤務地によっては毎日2時間は得をする。
まずは、賃貸に住んで月々のローン負担や街の住み心地を確かめ、好条件の分譲物件を探す方がいい。はずれは少ないとはいえ、購入する際は売れない物件を高掴みすることは避けたい。じっくり価値ある物件を腰を据えて探す為にもまずは賃貸からエントリーだ。
③賃貸vs持家 思想にこだわらない
この島の中のタワーマンションの価格は非常に安定している。なので、ローンで購入して、金利負担と管理費修繕費、固定資産税、売却時の購入価格との差額だけを足して、住んでいた期間で割った金額がこの島に住むコストと考えることができる。
物件選びが確かなら家賃換算で10万円以下で高級タワーマンションの3LDKに住むことも可能だ。
どうせ、家族構成も仕事先も変化するのだ。期間コストで考えれば目先の購入金額は高く感じても、中途半端な郊外物件を買うより売却可能なタワーマンションの方がよっぽど安全だし、満員電車に揺られて片道1時間かけて家賃12万円の狛江のアパートから会社に通い、週末は自家用車で買い物に出て環八で渋滞にはまる生活より期間コストも安くなる場合がある。
買ったが最後、一生住むとか、買わずに一生賃貸とかそういう極端な考えをせず、変化に合わせて売却と購入を繰り返して空中を移動する柔軟性を持とう。
ネット上ではホリエモンやちきりんが ストック型じゃなくてフロー型の思想を持て!とか、煽りまくってるが、この島の住人はフローで稼げる力を持った人が大半だが、もっとしたたかで柔軟だ。
彼らは自身の賞味期限や稼ぐ力の変動、抗えない市場の激変においてストックがモノを言うことを知っていてフローで稼いだお金を決して無駄にせず日々の営みの中で着実にストックに変化させている。
たとえば、月島に住むある中堅商社の友人は独身だが、自身で駅前の2LDKのマンションを買い、ローンを払いながら、同じマンション内の別の1LDKの賃貸に会社に住宅手当をもらいながら住んでいる。
自分の2LDKのマンションは家賃25万円で他人に貸している。ローン支払いを他の人にしてもらいながら、もし空室が長く続くようなら自分が住んでロスを減らすという考えだ。
もちろん結婚したら、自分のマンションが空いていればそこに住むし、そうでなければまた近くに借りるかもう一軒買うという具合である。
現状は激務だが、ローンを早めに終わらせて、賃貸収入が入るようになれば人生の保険になるので起業にチャレンジしたいと言っている。
フローをストックにストックを使ってまたフローを増やし、またストックに。
謙虚で、粘り強く、情報収集を欠かさず、無駄遣いはしない、ただ、時間と自分がしっかり稼げるための環境と、家族を大切にしてゆくにはこの考えはとても有効だ。
そしてその思想を実行に移せる数少ないエリアがこのベイエリアなのだ。
7.最後に
僕は東京では家を買うつもりはなかった。
しかし、満員電車での通勤が苦痛でたまたま移り住んだベイエリアで、すっかり考えが変わった。
日本中でこのロジックが通用するのはおそらくここだけだろうし、それを知った日本中の人たちがどんどん流れ込んできている。
別にすべての情報は隠ぺいされているわけではない。なのに僕は全然このロジックを最近まで知らなかった。
ベイエリアには誰でも住むことができるし、ローンを組んで家を買うこと自体は比較的多くの人が体験することだ。
僕は自分の人生に慎重な方だし、自分の実力を過大に評価もしていない。
驚くほど稼いでいるわけでもないし、夫婦二人で一生懸命働いているだけのサラリーマンだ。
でも、ベイエリアではそんな人たちに合理的に資産と家族を形成しながら高い行政や民間サービスを受けるチャンスが開かれていて、住環境も良い。他の選択に比べてリスクが比較的低いと思う。
夏までにはなんとか僕も空中移動にエントリーしたい。
引き続きベイエリアのタワーマンション探しをがんばろうと思う。
追記
だらだらと書いたものを投稿したらすごい反応もらっててビックリした。
ツイッターなどでいくつかツッコミが入ってるので、ちょっと追記。
>地震が来たらどうすんだ?!破滅やで!
という話については、単純に安全性に関しては僕はタワーマンションの方を信頼している。311のあの日、20階以上の僕の部屋はグラス一つ食器棚から落ちていなかった。
同じタワー内でも上層、中層、下層で揺れ方が異なるようだが、僕はできれば大地震は家に居る時に来てほしいと思っている。
資産価値の下落に対するリスクに関しては、もはや、人間のコントロールできる範囲ではないわけで。そもそも、タワマンがぶっ倒れ、東京が火の海になった中でそれでも資産を保全したいというほどリスクを取りたくないということであれば何もできない。そん時はその時。。元々大して資産もないわけだし、無一文になっても、結局元に戻るだけ。自分の努力でコントロールできないものを恐れすぎて満員電車の中で人生を終わりたくない。この辺は正直リスクをゼロにはできないからエイヤーの世界。当然、エイヤーするのは家族がいるからだけどね。
僕はむしろハイパーインフレの方が怖いので、ローンは10年固定で組む。
>おまえ業者やろ!
まぁ、絶対言われると思ったw
まったく違うのだけど、、自分の文章を見返すと三井不動産にセールストークのテンプレートとして売って頭金にしたいなと自分でも思うw
これはそうだね。この数年ずっと、いろんなディベロッパーのマンションを見てきたけど、やっぱり気になる。
だからやっぱり大手のディベロッパーの大規模物件に絞って探している。
さらに追記
「売れている」「売れてない」とかは言ってるのは単なる僕の主観なので、実際のデータ云々はしらないです。
>売りたい業者だろうが!そんな売れてないよタコ。
っていうつっこみもあるけど、単純にこの数年条件に合う物件を申込してローンを仮審査通しても、抽選ではずれて買えてない。
なんでもよければ買えると思うけどね。1LDKとかでは抽選1倍の部屋もあるし。
僕が買いたい物件が、高倍率で外れて買えてない状況を単純に「売れている」と言ってるだけだけど、いじくりまわされた業界のデータより信憑性はあると思うよ。
買いたい人が買えない状態を「売れてる」って僕は認識してます。
>なんで増田で書くの?
って言うのもあるけど、かなりプライベートな話なんでね。
途中までノリでブログに書いてたのだけど、やめて、もったいないから、おもしろ半分で投稿したらこんなことになった。
>釣りもできない海沿いに住む意味がわからない
リバーシティー周辺は釣りできるよーw
僕は関西に居た頃釣りが趣味だったのだけど、今は隅田川でシーバス釣ってる。これは田舎出の僕的にはポイント高い。足場がよいので八王子あたりからわざわざ来るアングラーもいる。
ロッドにルアーだけつけて風呂入る前にキャストしに行く。かなりスレているからライトゲームになるけど結構釣れる。さすがに釣れた魚は食わないけどね。
>自分が住んでない家のローンを組むのは銀行NGなんじゃないの?
これはそんなことはない。
オリックスなどは自分が住まなくても貸してくれる「フラット35」なんていう謎な商品もある。
今もあるのか知らないけど。
追記の追記の追記
もはや完全に炎上。三井さん。僕に広告費ください。
>文字どおり地に足が付いてない感。共働きの強い決意をした瞬間、嫁の実家近く以外の選択肢は消えた
これを書いた人は、共働きの実際を知ってる人。
その通りだと思う。共働きの子育ては保育園だけで解決できるほど甘くない。
僕が中央区に引っ越したのは妻の母も中央区に来たことも大きい。今では元々世田谷に住んでいた妹夫婦も中央区ベイエリアに引っ越して来た。
一族丸ごとこのベイエリア発展、地方郊外壊滅シナリオに乗っかっていくと、更に共働きもかなり楽になる。
妹夫婦も共働きで。妹の子供を含め、子育ては認可、無認可保育園、おばあちゃん、妹など同一エリアのサービスのフル活用と身内の協力で成り立っている。
民間サービスでは、フローレンスや聖路加をはじめとした病児保育施設の充実もありがたい。
共働きオスプレイ編隊を作ってこの殺人的な日本の社会環境を機動的に乗り切ろうと試行錯誤している。
>全く個人的な印象だが、ベイエリアのマンションというと、どうも潮見のマンションでの猟奇殺人事件が起こって以降、偏見がとれないままでいるのだよなあ。
なるほど。確かにそんな事件もあった。
僕は逆に世田谷の低層住宅に住んでいたころ近所の一戸建てで一家殺人事件が起きて、本当に夜怖い思いをしてセキュリティを始めて意識するようになった。
タワーマンションは戸締りが玄関一か所で室内は心から安心できるのも実は気に入っている。ベランダから侵入できる奴はたぶんサンタかスパイダーマンなので来てくれると子供が喜ぶのでそれはそれでよい。
問題を整理する。そもそも対策が明後日の方向を向いている。
①少子化という問題は社会の持続性保持、生産消費の担い手再生産の為喫緊の課題である。
②30歳~34歳男性の未婚率は1975年は14・3%、2005年には47・1%へ上昇し、 これに伴う形で女性の未婚率は7・7%から32・0%へ上昇した。
今や35歳男性の半分以上が結婚経験が無い晩婚化と、30歳女性の半分以上が出産経験が無い晩産化が進んでいて、
このままでは生涯独身は3人に1人になり、すでに離婚は3組に1組がしているので、結婚できて離婚しないのは全体の半分以下になる。
③一方で夫婦がつくる子の数の平均は1977年は2・19人、2005年は2・09人と 実はほとんど変わっていない。
④男性の有配偶率は雇用形態や年収の多寡にほぼ正比例する。女性のそれに偏った数値は見られない。
http://www2.ttcn.ne.jp/honkawa/2451.html
⑤統計上この10年間で35歳時点での平均年収が、500万円台から300万円台へと、実に200万円以上も下がっている。
⑥この国の年齢階級別の完全失業者数は長きに亘り、25歳~34歳の男性がトップであり 次が35歳~44歳である。(総務省統計局労働力調査)
⑦非正規雇用者の割合は34・3%に達し、35歳以下の子育て世代では実に半分以上が非正規。
しかし、この国では非正規の処遇では家族を養うどころか自分の人生設計も出来ない。
一般職業紹介状況(平成23年4月分)正社員有効求人倍率は0・34倍に過ぎない。
http://www.mhlw.go.jp/stf/houdou/2r9852000001czhw.html
⑧25~39歳の非正規雇用者が正社員になれないことで婚姻数は年間5.8万~11.6万組減り、毎年生まれる子供の数は13万~26万人も減少する。
具体的には派遣を原則禁止とする派遣法改正と、最低賃金千円の公約を早急に守るべきである。
比例する年収と既婚率
★民放アニメの累計放送時間を集計したところ、80年代後半がマックスで、以降減少傾向らしい。
かつては「夕方に再放送でアニメを流していた」のが、「夕方の情報番組に変わったから」らしい。
★確かに、夕方アニメ再放送を視聴するのは「購買力皆無な子供」なので、
であれば、製作費安い割に視聴率稼げ、店からバックマージン取れる「情報グルメ番組」の方がはるかにオイシイ
しかし長期的には「子供のアニメ離れ・テレビ離れ」を招き、テレビ局の首を締める。
子供達が成人しても「テレビを知らない若者」「アニメを知らない若者」になっちゃう
7時から23時の間のアニメ放送時間累計は、もっと減っているらしい。
「非常識な時間帯」、23時以降の「深夜アニメ」が急増してる為、
★つまり、子供がテレビにアクセス出来る時間帯のアニメ放送時間累計は、
ピーク時比では激減、恐らくピーク時の2~3割程度しかない
★80年代、再放送等でアニメのシャワーを浴びたアニメネイティブ世代がそのまま成人し、
成人してもアニメを欲するようになり、需要に応じて深夜アニメが作られた
★今の子供は恐らく日曜朝のアニメ枠とアンパンマン、ドラえもん・クレヨンしんちゃん程度しかアクセス出来るアニメはない。
80年代生まれ(アニメネイティブ世代)のアニオタ比率が10%だとしたら、
00年代生まれ(非アニメネイティブ世代)のアニオタ比率は3%程度になっちゃう
★「アニメイト」辺りは、
「00年代生まれはアニメ視聴機会が少ないため、アニメネイティブじゃない、
彼らが成人してもアニオタにはならない」と危機感持っているんだろうか?
今はSNSとかオンラインゲーム、YouTubeが占めてる。つまりSNSネイティブ、スマホネイティブな子供
★実は同じ話がコミックにも当てはまる。
70年代、少年ジャンプとか少年マガジンに嵌まった世代が、そのまま成人して成人向けコミックを買ってる。
一方、今の子供はコミック紙を買わない。多分、十数年後には成人向けコミック紙も衰退するだろう
★日本最大のイベントはビッグサイトのコミックマーケット、通称「コミケ」らしい。
コミックネイティブ、アニメネイティブ世代がコミケを支えてる。
今後00年代生まれ、「非コミックネイティブ、非アニメネイティブ世代」が成人したら、コミケも衰退する?
★「クールジャパン」は、裾野が広いアニメコミック愛好家によって支えられてる。
ちょっと近所の地域団体活動のイベントに関わったり、地域ボランティア活動に顔を出してみた感想。
まず1つは、構成員がほとんど定年後のじいちゃんか、専業主婦ばっかりで、誰もこの活動を通して(直接的にしろ、間接的にしろ)収益を得ようとしていないこと。アンタたちはたしかに年金だの旦那の稼ぎだので生活出来てるんだろうけど、これではそういうので生活出来てない人が入り込めないね。定年が延長され、定年の人が働く職場も増え、兼業主婦も増えてる現状、これで新しい人が入ってこれると思っているのか。
2つめは、この状況を誰もまずいと思っていないこと。
新しい人が全く入ってこないことを悔やむ人はたまに見かけるものの、それを自分たちの問題だと考えもしない。「最近の若いもん(※ 定年退職直後の人たちのこと)は、活動に見返りを求めてくる」とか、当たり前じゃないか。見返りがあるかも分からないことに時間を割くよりかは、なんとかして生活を安定させたいだろうよ。
3つめは、地域NPOだのの地域福祉活動をやってる団体が、そういう人たちをアテにしていること。
(そうじゃないところもあるだろうが)地域NPOだのの団体は、結局ボランティアが手伝ってくれることによってなんとか回ってる状態。そして、ボランティアは何をするかというと、基本的に地域NPOの有給スタッフと同じレベルのことだったりして。年金ってのはこういう地域ボランティアの給料じゃないかと思ったくらいだった。
不思議なのは、地区センターだの社会福祉協議会だのの職員には結構若い人も多いのに、そういう人が一言も現状の問題を口にしないことだよなと。
「最近地域の担い手(地域活動団体に関わってくれたり、ボランティアを手伝ってくれたりする人たちのこと)が少ない、どうしたらよいか」と口々に語る人はちょくちょく見かけるが、その先のことを聞いたことがない。
まあ、無償で手伝ってもらってるじいちゃんや専業主婦の人たちの目の前で言いづらいのは分かるが、ここまで隠していられるものだろうか。
そういう人たちが、ボランティアのイベントを企画して、ボランティアで集まってくれた人に「それでは皆さん楽しいボランティアを」と笑顔で言える心理がよく分からない。それとも、心の底では悲しんでいるのだろうか。
IT業界だって、無料のもので回ってる部分はたくさんある。有名どころのWebサービスだったら広告料なりプレミアムサービスなりでしっかり稼いでるから良いものの、オープンソースソフトウェアだのITコミュニティイベントだの、まったく収益を上げていないものも多い(オープンソースのものの中にはちゃんと収益が回るしくみがあってそのための手段として配布されてるものも多いが、そうでないものも結構な数があるはずだ)。
WindowsやMacのいわゆるフリーソフトの類いにも、本人の力量アピールでもなく自社有料アプリの導入でもなく、真に作者の趣味だけで製作されたソフトなんかも多いし、なかにはそこそこ知名度の高いソフトなんかもあったりする。自分も結局そういうソフトをたくさん見てきたからこそそこそこIT分野を勉強し、はてなで愚痴るくらいまではなったのだと思う。
だからこそ無償で活動することそのものを非難することは出来ない。ただ、この状況はそろそろヤバいんじゃないかと。
正直、日本にいる限り、そんな地域とはどこかしらで関わるんじゃないかと思う。どんなところで仕事してたって家に帰れば地域に関わることになるし、日常の買い物で一切地域と関わらないのは味気ない。もちろんネットで買い物するなり遠くの専門店に行くなり、地域の人間と一切顔を合わせない(あわせてもろくに話さない)暮らしも出来なくはないが、味気ない。なにより、災害時など何かあったときには結局地域の人と関わることになるわけで。
それに、地域の人たちがITに関わる人間を「自分とは全く違うタイプの人間」と思っている限り、何かあったときにIT技術なりアニメなり、主にああいう人らがあまり関わらない分野に関する誤解が解けない。
最近の「犯人はアニメオタク」なんかの報道も、遠隔操作ウィルス云々も、だいたい地域の人らがこういうIT技術なりアニメ文化なりに誤解ばかり抱いているからこういうことになるんじゃないかと。
だから結局、地域にはなんとかして関わらないといけないし、それはなるべく早いほうが良いんじゃないか と。
もちろん、なんとかして地域活動を収益化して、「地域活動でもやりようによっちゃ生活出来る」ようにしなきゃいけないんだろうけど。
腐女子が作品を語るとき、腐女子目線で話をし過ぎて何言っているのか(なぜ盛り上がっているのか)よくわからないという体験をしたことがある。
書いてある通り、腐女子界でのイベントやいざこざ・事件は、腐女子でない人でも知りたいor知っておきたい人は多くいるだろう。需要があるはずだ。
だがその時に、腐女子じゃない人に対してもわかるように、しっかり翻訳して話をしてほしい。
その作品に、なぜ萌えるのか?なぜそこにグッとくるのか?
どうせ腐じゃない人にはわからん!なんて姿勢は採らずに、丹念に解説いしてもらえれば、おもしれーなと思う。
それと腐女子の一人称問題に付言しておくと、だいたい腐女子をみてると、一人称が「俺」に限らずなんか変なチョイスする傾向にあると思う。
中村桃子『〈性〉の日本語』(NHKブックス、2007)に「なぜ少女は自分を「ぼく」とよぶのか」という文章がある。
高度経済成長期の女性の人生の流れ、すなわち「こども」から専業主婦に代表される「おとな(婦人)」へと進展する際に「○○ちゃん(自分の名前を一人称にする)」を用いるこどもから、「私(わたし、わたくし)」を用いるおとな(婦人)への、単線的一人称のみが用意されている。しかし人生が多様化た現代においてはそう簡単にはいかない。子供でもなく、専業主婦に代表される婦人でもない身分が発生する。少女などがそうだ。そうした既成の枠組みにとどまらない女性が自己を表現するためには、「私」ではダメなのだそうだ。だから「俺」や「うち」を用いる少女、男のような言葉遣いをする少女が現れるのだという。
ここから私が想像するに、一人称が「俺」とか「拙僧」とか変なのをチョイス(「私」以外をチョイス)するってのは、腐女子のサブカルチャーの担い手としての、一種の気概なのかと思う。
近くの2丁目にA神社がある。
先日A神社でお祭りがあり、2丁目の各地で子供神輿を出してた。
近年少子化で子供神輿の担い手が少ないせいか、各町会ともに「神輿を担いだらお菓子プレゼント」とサービス競争している。
(因みに、2丁目だけで4つほど町会があり、なので子供神輿も4つほどある)
なので、「どの町会がいちばんサービスが充実しているか?」を見定めて、充実した町会の子供神輿に子供を参加させた。
ところで、自分の住んでいる4丁目の氏神は、実はA神社じゃないらしい。
なので、本来であれば、4丁目に住む自分(とその子供)は、A神社の子供神輿じゃなく、B神社の子供神輿に参加するのが「スジ」なのかもしれない。
しかし、B神社の祭りよりA神社の祭りの方が盛大だし、そもそも駅への行き帰りに見かけるA神社の方が「親近感」がある。
サラリーマンで電車通勤の自分の場合、生活圏は「駅から自宅までの間のスポット」であり、駅から見て自宅以遠のスポットは、滅多に行かない。
幼稚園も小学校も図書館も駅から自宅までの間に立地しているから、尚更だ。
生活圏から離れているB神社への帰属意識を要求されても、無理がある。
4丁目にも町会があるようだが、特に参加を求められてもないし、連絡も来ない。
自分は特に近所付き合いを忌避しているわけでもなく、マンション管理組合の理事長とかも務めたが、管理組合に町会がコンタクトしてきた形跡もない。
どうやら町会の方が「マンションは町会とは縁遠いもの」と決めてかかって、接触してこないようだ。
ということで、マンション住まいな人間、電車通勤な人間にとっては、旧来の氏子氏神のエリア区分は「生活圏に即していない」気がする。
老人や子供、場合によっては女性も含まれるけど、彼らは(少なくとも身体能力的に)弱者だから大事にしようってお話なんだと理解している。
弱者に優しくできる社会は素晴らしいと思う。豊かな社会とはいかに多様な弱者に対して手助けできているかで計ってもいいんじゃないかと思うぐらい。
自分が飢え死にしてでも弱者のために食料を残すという人もいるとは思うので、瞬間的な余裕の有無は問題ではなくて、社会的な成熟に伴って醸成される精神的な余裕か。
しかし、戦争や大規模災害などの非常事態に、その精神的な余裕を発揮していていいのか疑問に感じることがある。
老人、子供、女性を助けるということはつまり20代から50代ぐらいの男性が犠牲になるべきだということになるわけだ。一日や二日ぐらい配給の食料を我慢して弱者に割り当てるぐらいは我慢しよう。しかし核シェルターの定員がいっぱいの時に弱者を中に入れ、成人男性を見殺しにするようなシチュエーションがあったとして、それは本当に正しいのだろうか?
だんだん面倒くさくなってきたので細かい言い回しなんかは端折るが、戦争や災害の被害から立ち直るには労働力が必要だ。すでに教育を受け終えて労働力としてアブラの乗っている人間を犠牲にすることが合理的だとは思えない。老人については言うまでもないので省略。
子供は未来の担い手だとしても、すでに教育されていていろんな意味での仕事のやり方に習熟している世代よりも優遇すべきなのだろうか。
成人男性がクズばかりだから、もしかしたらマトモに成長するかもしれない子供に賭ける!とかって話なら理解できるけど、そうではないですよね。
(個々人のスキル差は無視して)社会的なコストで判断するならば優先順位は 成人男性・女性 > 子供(それも年長の子供から優先) > 老人 ってことにならないだろうか。
別に差別したくて言っているわけでもないし、自分がこういう切羽詰まった状況に陥ったこともないので妄想で書いているのだけど、この辺についてみんながどう思っているのか気になったので書いてみた。
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追記
1年生の時からなんやかんやと意識高いと言われいまだに周囲からは意識が高いと言われる私ではあるが、今年のNexst Leaders Meetingにはいかない。
まあもとより2010年に行ったのみで、それ以降は行っていないのだが。
招待もされてないのに行かない宣言かよwwwwwwと思われるかもしれないがなぜかやけに関係者に知り合いが多く、やたら長文の招待メッセージをいただいたりしている。
それでも私は行くまいと、そう思っている。
なぜか。
まずは登壇者を見てみよう。
http://nlm2013.info/speaker.html
一見してわかることは「世間受けする人ばかり」ということである。
学識経験者は西原先生くらいなものだし、なにより自然科学の担い手たる技術者・科学者が一人もいない。
この人たちの話を聞いて何でリーダーにつながるのは私にはわからない。
そこで、そもそもリーダーとは何ぞや、という話になる。
http://nlm2013.info/activity.html を読む限りNLMのいうリーダーにはオピニオンリーダーも含んでいるようだ。
そのこと自体はいい。
だが、オピニオンも何も呼んでいる登壇者は分野としてはごく一部だし、日本にとって喫緊の話題であるエネルギー、TPP、税率など、そうした真に社会的に問題であると言える分野の専門家がいない。
あえていうなら林大臣くらいだろうか。
そして、彼らの話を聞いてリーダーになれるのか?と思う。
私見だが、リーダーの素質にひつようなものは「確固たる立場」だと思う。
集団の運営方法としてはワンマン・調整型などいろいろあるであろうが、リーダーが集団の中で確固たる立場を必要とすることはかわりあるまい。
だが、それは人の話を講演という一方的な形で聞いて得られるものなのか、というと私はNOだと答えよう。
むしろ必要なのは自己との対話であり、その道具としての学識であろう。
たしかに、NLMは「自己との対話」を掲げている。だが、対話に必要な学問なしになにが出来るというのだろうか。
大学生求められていることは他でもなく、学問を積み自己を研鑽することなのだから。
社会のあり方と、そこに属する個人というのは科学技術に大きく影響されている。
自然科学を学ぶ存在……いわゆる「理系」は「根暗」だとか「コミュ障」だとかいわれ、社会の多数派を占める文系諸兄からはいい扱いを受けていない。
だが、実際に自然科学を学ぶ人間として声を大に言わせてもらうとすれば、研究はコミュニケーションなしにできるものではないのだ。
社会から隔絶され、隔離されているといえど、社会に与える直接的なインパクトでいえば、自然科学は決して無視できるものではない。
しかし、NLMは意図してか意図しないでか、ほとんど自然科学というものを無視している。
自然科学なしに社会は回らず、どれだけリーダーを養成しても意味のないものとなってしまうと、彼らは気がついていないのだろうか。
いってしまえば、学生団体(に限らず大学生のサークルというものは)全て自己満足でしかない。
その自己満足を自覚し、どう発展させていくのか考えなければ、彼らの活動は泡として消えかねないのだ。
書きたいことはたくさんあるが、腹が減ったのでこれまでとする。