はてなキーワード: 考察とは
観てきたけど、別に普通の映画だった。面白くないって一言で表すには違うけど、なんか世間が騒ぐほどに深い作品でもないし、いつもの新海誠らしい退屈な映画だった。
俺が思うに、高い金出したのに内容が大したことないと、人は驚くほど肯定的に捉えて考察とかネタ探しとかするんだろうなって思う。
あとは単に話題に乗っていたいだけか。
この台詞について考察をした。自分なりの考えを書く前に、軽く人物について整理しておく。
江戸川コナン:みなさんご存じ主人公。本当は17歳の高校生探偵だが、「黒の組織」が開発した毒薬を飲んで小学1年生まで縮んでしまった。
工藤有希子:コナン(新一)の母。元女優。変装術が得意。ベルモット(後述)の親友?
(コナン界での)FBI:ベルモットを追い来日。日本では違法捜査中である。(→注1)
赤井秀一:スナイパー。組織に追い詰められ殺されたことになっているが、現在は沖矢昴として工藤邸に潜伏中。
ジョディ・スターリング:赤井の元カノ。ベルモット(後述)と因縁があり、憎んでいる。
アンドレ・キャメル:ドライビングテクニックに優れている。
ベルモット:表の顔はハリウッド女優。バーボンに秘密を握られている。ジョディの両親を手に掛けた。
NOC
安室透(バーボン):本名・降谷零。公安(警察庁)から送り込まれたスパイ。スコッチ(後述)の死をきっかけに赤井秀一を憎んでいる。公安では多数の部下を率いる立場で、上司もいる。(→注2)組織では「探り屋」として活動中。
スコッチ:本名・諸伏景光。公安(警視庁)から送り込まれたスパイ。組織にスパイだということが露見し、家族や同僚の事を守るため、胸ポケットに入れたスマートフォンごと心臓を打ち抜き自決する。安室の同僚で幼馴染みで親友。
水無怜奈(キール):本名・本堂瑛海。CAIから送り込まれたスパイ。弟・瑛祐の保護を条件に、FBIに情報を渡す約束をしている。(→注3)
(注1)
FBIはベルモットの身柄を確保するまで日本警察に捜査のことを伏せる方針でいる。つまり、日本での捜査に関して許可をとっていないことが判明している。
だが、高木刑事のこの台詞「困りますよジョディさん…いくらFBIの捜査官だといっても、ここは日本!しかもあなたは休暇を使って来日してるだけでしょ?」(81巻)から、現実世界と同様に、許可のないFBIの捜査は日本で認められていないことが分かる。後に、赤井は「日本警察が組織の存在をつかみ、捜査を開始している」ことを認識していた事実が明らかになったが、それをチームメンバーには報告していない。
(注2)
85巻(緋色シリーズ)で工藤邸の前に集まっていたいかつい男達は部下。その後の安室の台詞「撤収してください…上には僕の方から話しますので…」から、赤井秀一およびFBI捕獲作戦は公安の上から許可が下りた作戦だったことが分かる。
赤井秀一は公安のこの作戦を「俺の身柄を奴らに引き渡し、大手柄をあげて組織の中心に食い込む算段だった」と言っているが、「黒の組織」に赤井秀一を売るために「公安の仲間」を連れてくる行為は矛盾している。
更に、赤井秀一を始末した(ことになっている)水無は、始末前と代わらず監視が厳しくメール1本送ることすら困難な状況にいることが窺えるので、例え安室が赤井を組織に売っても「大手柄」になることはあり得ず、赤井のこの推測は成り立たない。
「組織の中心に食い込む算段」に関しても、安室は現在ラム(組織のNo,2)から直接指令メールをもらうほどの立場にいるので、わざわざこのような危険を冒す必要がない。(95巻)
なお、「赤井およびFBI捕獲作戦に関する推測」に安室側からのアンサーはないので、赤井の推測を事実として扱うことには疑問が残る。
(注3)
96巻現在、瑛祐が証人保護プログラムを断って以降FBIが彼を保護・護衛している描写はないので、水無から一方的に情報を貰っているというアンバランスな構図になっている。
赤井秀一の「目先のことに囚われて…狩るべき相手を見誤らないで頂きたい」という主張について整理していく。
狩るべき相手を見誤らないで頂きたい…ここでの赤井は、「(安室が)狩るべき相手を見誤っている」と認識している。
赤井は、「(緋色シリーズにおいて)安室が狩ろうとしている相手」を、来葉峠で公安とカーチェイスを繰り広げている「赤井及び来日中のFBIメンバー」のことだと言っている。
以上を整理するとこうなる。
赤井秀一「(安室は)FBIを狩ろうとしているが、それは間違いだ」
つまり、「(安室が)狩るべき相手はFBIではない。」→「(安室が)狩るべき相手は別にいるはずだ」
更に、現在安室が潜入捜査中であることを踏まえると、赤井は「(安室の)狩るべき相手は黒の組織だ」と伝えたいのだと推測できる。
つまり赤井秀一の主張は、「安室の狩るべき相手はFBIではなく黒の組織だ。」になる。
上で、「(赤井秀一の考える)安室透の狩るべき相手」について触れたが、ここからは「(安室から見た)安室透の狩るべき相手」について整理していく。
人物紹介に書いた通り、安室透は公安である。コナン界で公安は以下のように認識されている。
江戸川コナン「ゼロっていうのは「存在しない組織であれ」と付けられたコードネーム…日本の安全と秩序を維持する為に存在する…公安警察の俗称…」(84巻)
では、「日本の安全と秩序を維持する為に存在」している公安警察・安室の「狩るべき相手」は誰なのか。
先程のコナンの台詞を裏返せば、安室の敵は「日本の安全と秩序」に害をなすものだと考えられる。赤井の言う通り、安室の潜入先「黒の組織」も、敵であることに間違いはない。
つまり「(安室から見た)安室透の狩るべき相手」は「日本の安全と秩序を脅かす人物・組織」である。
上の2点を整理した上で、「狩るべき相手を見誤らないで頂きたい」について考察していく。
(注1)で述べた通り、赤井たちFBIは日本で捜査する許可を得ていない。だが、FBIの面々は、緋色シリーズを見るだけでも
拳銃の所持・発砲(来葉峠カーチェイス)、道路交通法違反(同場面)、公務執行妨害(同場面)、遺体損壊(遺体すり替えトリック)、観光ビザで来日しながら違法捜査を行っている
など、かなりの違法行為をしている。特に、拳銃の所持・発砲は「日本の安全」を、違法捜査は「日本の秩序」を脅かしていると言っても良い。
まさに、来日中のFBIメンバーは「日本の安全と秩序を脅かす人物・組織」である。
当然、安室透の狩るべき相手に「黒の組織」が含まれていることに間違いはないが、彼は公安である。「狩るべき相手」は、全ての「日本の安全と秩序を脅かす人物・組織」なのであって、黒の組織だけを捕まえればその使命を全うしたことになるわけではない。
もし、現実に
「テロリストを捕まえるのに必死で、他の事件の犯人は逃がしてしまいました。」
という発表があったとして、果たして警察のその言い分は通用するのだろうか?…通用するわけがないと言い切ることが出来る。
もし、現実に
警察「それもそうだな、じゃあ君釈放ね」
ストーカー、詐欺集団、泥棒、どれか1つを追いかけている間は、他の犯人達を放っておくのが正解なのか?違うだろう。
公安にとって黒の組織は「解決すべき事件の容疑者集団A」、違法捜査中のFBIは「解決すべき事件の容疑者集団B」、その程度の違いであり、まさに違法捜査真っ最中の赤井に「狩るべき相手を見誤」っていると言われる筋合いはない。
本当に赤井秀一が組織を壊滅させることを目的としているならば、脅しや既に破綻している約束で現役スパイのキール・バーボンに負担を掛けるのは悪手だと言わざるを得ない。そもそも、本来「脅し(をすること)」や「破綻している約束(を一方的に守らせる)」といった方法は、相手を陥れたいときに使うものだ。
赤井本人にその意識はないようだが、状況だけ見れば、キール・バーボン両名は赤井の「自らの手で組織を狩り尽くしたい」という非常に個人的な「狩り」に巻き込まれているとも言えるだろう。
それいうやつは、男は女は以前に、「感情的」「論理的」についての考察が足りないんじゃ無いかって思う。
だいたい俺は「感情的に満足するため」に生きているが、論理的に考える時もある。
「論理的に得を最大化するため」に生きている奴もいることだろうが、それが「感情的に満足するかどうか」を必ずしも保証しないように思う。
さらに、「感情的」「論理的」は上の俺のように「何を目的として重視してるか」であって、論理の詳細さや妥当さについては言ってない。
つまり「論理で得を取る事を目的にしてるけど、論理が雑な奴」はいるわけだ。
つまり「感情的で頭のいい人」と「論理的で頭のいい人」と「感情的なバカ」と「論理的なバカ」のカテゴリが存在して、どれが一番良さそうか、自分はどれか、という事になるわけだ。
「感情的で頭がいい人」は論理を組み立てて得へのルートが見えてるけど、得の先や過程で感情が納得できなければ打ち捨てる。
頭が良いからだいたい満足できる事が日常で多そうだけど、時々非合理な選択で自分を損に追い込む。
「論理的で頭のいい人」は得へのルートが見えてそうするので、人生で損を被ることは少なそうだ。
しかし「感情」を忘れた選択で満足できない日が時々来るだろう。
「感情的なバカ」は感情の満足を重視した上で得へのルートが見えないし、取る行動がいちいち雑で、満足はなかなか高いレベルに行かないし、過程で多くの人を傷つけるだろう。
「論理的なバカ」は感情は分からないし、得を取りに行ってもルートも見えず行動も雑なので、得も取りづらい、感情的に満足もできない、その上過程で周りを傷つける、という事になりそうだ。
「あいつは感情的だ」「あいつは人の気持ちが分かってない」とことさら激しく罵り合うような喧嘩は「感情的なバカ」と「論理的なバカ」の間でよく起こるように思う。
前にも書いたフォロワーさんが嫌いになった話の続き。
まず最初に軽く説明すると、私(二次創作小説書き)は数年前から好きだった方(現相互フォロー、一次創作絵師および二次創作絵師)にツイッターのアカウントをフォローしてもらいウッキウキだった。
しかし現在、なぜか彼女のことが嫌いになってしまい、表に載せられない絵を上げる鍵つき裏垢をブロ解し、二次創作用のアカウントをミュートした。
昔はあんなに憧れて、尊敬して、大好きだったはずなのに今はこんなにも嫌いになってしまったことが自分でも信じられない。
ただ、裏垢をブロ解した理由として、そのアカウントが彼女が恋人について語って恋人と会話するだけのものになってしまったことが挙げられる。
私は彼女の一次創作が見たくてフォローしたのに、独り言みたいなツイートが並んで、必ず1いいねがついていて、その恋人のアカウントと並べると会話が成立しているアカウント。なんだそれは謎解きゲームか?
それと、二次創作用垢をミュートした理由もわかる。というかついさっきしたからわかるに決まってるが。そのアカウントも恋人との惚気に使っていたからだ。
もともとは二次創作の絵を描いたり、いいねしたりするのに使っていた。bio(?)にもそう書いてあったはずだ。それが、今じゃ一緒に行った牧場の牛、鶏、水族館の魚、ペンギン……。なんのアカウントだ。
前々からそろそろここもブロ解かな……と思ってはいた。ただ、その決定打がなかった。割と耐えられないような発言もあったが。
例えば、
彼女が好きな漫画、全巻揃えていて特装版まで買っている漫画。私も好きで全巻持っているその漫画をあろうことかディスったのだ。
「〇〇は絵も特別うまいわけじゃないし話もワンパターンでつまらないけど好き」
何?マジで。お前が何を言いたいのかわからない、と思った。お前の絵の方がバランスやばいぞ、足の長さが首から腰までの長さと同じじゃねえか。そんな風に思ってしまったことに驚いた。こんなに私、彼女のことが嫌いだったのか、と。
こんなこともあった。某有名AV男優の講座みたいな動画をいいねしていたのだ。なんで自分がそれに気づいたのかわからない。いいね欄を漁ったのかもしれないし、TLに流れてきたのかもしれない。普通の、普通って基準もわからないが、フォローしてる人がそういうのをいいねしていてもハァーなるほどねくらいにしか思わないかもしれないけれど、彼女は恋人がいて、その存在をフォロワーに知らせている。とんでもなく気持ちが悪くなり、そのアカウントを見ることが耐えられなくなってきた。
今見返してみると、最近は病みツイも多い気がする。私には精神が弱めな友人がいて、その子と別のアカウントで繋がっているのだが、なぜかその友達が病みツイしているときにはあまり感じない苛立ちを感じた。
そんなこんなで溜まりに溜まった感情が吹き出したのが今朝のことだ。
私が何年か前から気になっていたバンド。とはいえ、ちゃんと公式ツイッターをフォローしたのはここ数ヶ月だし、アルバムもつい先日見つけて購入した、まだハマりたてのバンド。それについて、彼女がツイートしたのだ。
「めちゃめちゃいいな…」
「アルバム買おうかな」
このツイートを見て、なんだかモヤモヤした。なんでこいつが、と。よく考えてみれば、もうその感情を抱いた時点で憧れてもいないし、尊敬なんてしてないし、大嫌いなんだと思う。普通、友達でもフォロワーでも、同じものが好きになりそうだったら全力で応援して、おススメして、楽しく会話するものだ(同担拒否は除く)。でも、どうやってもそんな気持ちは湧かなかった。
このツイートには続きがある。なんかよくわからん人の、そのバンドのおススメ曲へのリンクと歌詞の考察の書かれたツイートをリツイートして一言、
「わかる…」
と。
「わかる…」じゃねえよ何がわかるんだよお前は何も理解せずただ目に付いたツイートに同意しただけなんだよ本当に耐えられない、そう思ったので今朝ミュートにしました。ブロ解しなかったのはなんでなんだろう。正直表の一次創作アカウントも…って今見たら吐きそう、なんでこっちでもその曲紹介してんの?普通に理解できないんだけどこれもう全部ブロ解して離れてもいいかな。こんなに無理だと思ってなかった。
書いてる途中でアカウントを見たりしたからめちゃくちゃな文章で申し訳ないのですが、ブロ解していいですかね?
結局私もこの感情を誰かに理解してほしくて、一緒にその人はおかしいね、気持ち悪いね、って言ってほしいだけだったりするのですが、ここに吐き出せて少しはすっきりしました。
前回はピクシブ以外はブロ解して離れた方がいい、という意見をもらいましたが、自分の気持ちを言葉にして外に出すだけでかなりすっきりしたので、そのままにしていました。
そういえば「男できたから嫉妬してるだけ乙」とも言われました。そうかもしれないですね。
今回は割と耐えられないのですが、それでもこのままにするかもしれないです。もうよくわからない文になってしまったので終わります。
クソ長い文読んでくれた方、いるならありがとうございました。
ここに書き込んで全部のアカウントをミュートにしたらかなり気分が楽になりました。
ただ、こういうのはどんな人にもある感情だと思っていたので、「それは発達障害だ」とか「あなたの性格がだらしない」と言われたのはとても驚きました。執着も、そんなにしてないつもりだったのですが……。
今話題になっているあいちトリエンナーレについて個人的に思うことが色々あったので書こうと思う。細かいことを話して特定されると普通に死ぬのでぼかすが、一応運営ボランティアとして展示に参加している。
クソ長い。
====
最初に断っておくと、今話題になっている「表現の不自由展・その後」についてだが、私はぶっちゃけ見ていない。今となっては炎上が勃発した時点で見に行っておくべきだったと後悔しているのだが、いやだってまさか3日で終わるとは思わねえもん。
と、いうのも事前のボランティア研修とかで「表現の不自由展・その後」に注目している人は私の知る限りほぼ皆無だったからだ。一応警備対応とかの事情で説明は受けたがそれについて「楽しみだ」とか「心配だ」とか言っている人は居なかった。別に目を逸らしていたとか重大性を認識していなかったとかではなく、ちゃんと理由もある。
他の人は知らないが、個人的には「表現の不自由展・その後」については「色んな理由で各地の展示会から撤去された作品を集めてみました」くらいの認識だった。面白そうな企画だ、地獄のデスマッチ感がある。しかし確かに面白そうだが、言ってしまえばそれだけなのだ。
話が変わるが我々ボランティアが研修で何をやっているかと言うと、作品の知識を蓄えるのではなく、自身の感性に従って自由に鑑賞する、所謂対話型鑑賞とかVTS(定義は微妙に違うのだが)と呼ばれているものを実践している。具体的にどんな感じかというと、背景知識はほぼなしで作品を見て
「画面は綺麗だけど、人物の顔が悲しそう、破局を予兆しているのでは?」
などとそれぞれの感性や経験に基づいて解釈を語りあうのだ。これが結構楽しい。例えるなら深夜のファミレスでオタクが集まってエヴァ最終回について語り合っている状態に近い。割と何分でもやっていられる。
だがそういった観点から見ると、「表現の不自由展・その後」があまり魅力的でないことは分かってもらえると思う。「近代化」、「ジェンダー」、「作家自身の半生」、トリエンナーレには複雑なテーマを持った鑑賞しがいのある作品が沢山出品されている。「表現の不自由展・その後」は企画としては面白いがある意味「企画落ち」なのだ。事前に具体的な作品内容が分からなかったというのもあるが、それ以上掘り下げようがない。寧ろ中止になった今の方が色々語れる。
そんなわけで「表現の不自由展・その後」がここまでの話題になったのはかなり意外だったし、多くの人にとってあいちトリエンナーレの第一印象がそれになってしまったのは少し残念でもある。
さて「表現の不自由展・その後」の中でも特によく燃えていたのが慰安婦と昭和天皇絡みの展示だと思う。政治的にインパクト抜群だからだ。だがここまで千字くらい駄文を読まされて大分心と頭が冷え切っているところだと思うので、少し冷静に展示のコンテクストについても考えて欲しい。
「表現の不自由展・その後」は「あちこちの展示会で撤去されたやつを集めて展示する」というコンセプトで行われている。よってこの企画で展示されているのは慰安婦像それ自体ではなく、あくまで「どっかから撤去された慰安婦像」なのだ。
ソウルの日本大使館前に慰安婦像が設置されたとき、メディアはこぞって大使館と慰安婦像が一緒に映った映像を放送したと思うが、あの報道に対して「不快だから映すな」と怒った人は居ただろうか。まあ居なくはなかったかもしれないが、多分映さない方がもっと怒られるだろう。怒らないのはそれが「大使館の前に慰安婦像が設置されたという報道」だとコンテクストも含めて理解しているからだ(勿論どちらの場合も制作サイドの意図は別にあるのだが)。
今回の展示ではそこのコンテクストがおざなりにされたまま、日本に実物の慰安婦像が展示されているというインパクトと、SNS上の断片的な情報で事態が拡大してしまった感がある。
また若干話が大きくなるが、余裕があったら歴史的なコンテクストについても一度考えてみて欲しい。慰安婦像というと直ぐに反日というイメージに結びつけがちだが、何故そう思うのか。
そもそも慰安婦なんて居なかったと考えている人からすれば一応理屈は通っている、悪意のある捏造ということになるからだ。
しかし、詳細については諸説あるが、そういうものが存在したということだけについては歴史的資料も揃っているし、両国の見解も一致している。つまるところ歴史に認められているのだ。
負の歴史を展示し続けることは未来に生きるだれかにとっての悪意になるのか、日本を始め第二次世界大戦に関わった各国には慰霊碑やモニュメントがある、ドイツやカンボジアには国内の虐殺を記憶するモニュメントがある、それを見て不快になる人はいるだろうし、寧ろ不快になるべきなのかもしれないが、ならそれらは排除されるべき悪意なのか、そもそも悪意は無条件に「悪」なのか。
場所によって反応も変わる、オバマは広島の原爆資料館に行ったが、アメリカでスミソニアンがエノラ・ゲイ展示をやろうとしたときは退役軍人たちから大バッシングが来た。そういった反応の違いは展示の意味、ひいては歴史の意味に影響を与え得るのか、得ないのか。
そして誰の、誰に対する悪意なのか、人の属性は一つでないし必ずしもはっきり分類出来る訳でもない、あなたが引いた「味方」と「敵」の線など気にも留めず他人は好き勝手踏み越えて生きる。例えば、韓国人男性と日本人女性が慰安婦について議論しているとして、彼らは一体どの立場にいるのか、そこに存在する先入観は何か。
話が大分概念的になってしまったが、何が言いたかったかというと、コンテクストというのはそれだけ膨大で複雑なのだ。
勿論コンテクストには政治性だって含まれる。慰安婦像が純粋に歴史的なモニュメントというより政治的に使われているのは明らかだし、恐らくそれは大半の日本人のせいではないので、あんな一触即発なもの見たくも聞きたくもない、というのは分かるし別に普段はそれで構わないと思う。
ただ死ぬほど暇なときにでも少し考えてみて欲しい。メディアの報道を見ていると日韓で政治的な同意が得られれば慰安婦像は撤去されていると考えている人もいるようだが、その必然性はない、だって歴史に認められているから。というかそれで撤去されたらマジで純粋なプロパガンダだったって言っているようなものだからやめろ。
像はコンテクストの中で存在し続けるし、今回の展示もそのコンテクストの一部である。
批判するにせよ擁護するにせよそこに対する考察がなければそれはインパクトに押された感情任せでしかないだろう。
それでも慰安婦像許せないし完全に撤去したいんだけどっていう人はどうすればいいかって?そこも歴史に学ぼう。
アメリカでコロンブスとかリー将軍の像が次々撤去されているのはニュースで聞いた人もいるだろう。時代の変化とともに歴史観は書き換わる。虐殺や奴隷制擁護者としての側面が評価され、彼らは英雄ではなくなった。もはや歴史に認められていないから像だって撤去される。
個人的には英雄として評価されていた歴史も含め展示するのも面白いんじゃないかとも思うが、少なくとも公共の場のモニュメントとしてはふさわしくないと判断されているのだ。
つまり慰安婦像を撤去したいのなら何らかの方法で歴史観を書き換えれば良い。そして歴史学の徒は全力で戦って阻止すれば良い。
トリエンナーレ運営が「表現の不自由展・その後」の公開を取りやめたことについて、ネット上では様々な意見が飛び交っている。これについては「脅迫に屈した」とか「作家に許可をとっていなかった」とか確かに色々と問題がある気はするのだが、津田総監督や大村知事が会見で言っていた「安全管理上の問題」という観点からは正直仕方がないと思っている。
第一に展示施設自体の問題だ。あいちトリエンナーレには複数の会場があり、「表現の不自由展・その後」が展示されていたのは愛知県文化センターの8階、所謂「県美」だ。関係者の名誉のために言っておくが、日本は災害が多いだけあって美術館や博物館といった文化施設の安全管理にはそれなりに注意が払われている。耐震設備に水害対策、防火設備、さらには盗難や破壊防止のための監視員や監視カメラが多くの施設で導入されている。
しかしテロや大人数による襲撃までは対応出来ないというのが現実だろう。海外の博物館ではそういった事態も想定して手荷物検査などを実施しているところもあるが、日本でそれをやるのは割に合わないと言わざるを得ない。
第二に運営側の問題。最初に言っておくがあいちトリエンナーレのような文化事業というのは基本的にクソクソ&クソ金がない。
確かに税金から拠出の予算10億は大金だ、これだけあれば50回くらい安心して老後を過ごせる。しかしそれでアーティストを100人くらい呼んで75日間展示会をやれと言われたら難易度はルナティックだ(他に寄付金とかもあるので実際の予算規模はもっと大きいはずだが)。
よって私も含めた運営スタッフの多くはクオカード1枚で半日働くボランティアである。加えて事前に結構勉強もしないといけないし、当然交通費とかも出ない。
これだけ聞くと何が悲しくてそんな苦行をとか思われるかも知れないが、最初に言った通り美術館とか博物館とかも含めて文化事業は取り敢えず金がないので、もうそういう人たちがいないとほぼ成り立たないのだ。そこで講習会とかバックヤード体験を餌にこじらせ教養オタクたちをボランティアとして釣っている、というか釣られている(※個人の感想です)。言っていて悲しくなるし話が逸れるのでそこら辺は省くが、つまるところ何が言いたいかというと、テロとか起きると我々はタダ働きの挙句何も出来ずやられる。勘弁して欲しい。
最後に若干抽象的な話になるのだが、良くも悪くもあいちトリエンナーレは寄せ集めというのがある。
運営側の細かい事情は知らないが、直前までどんな作品が出るか分からなかったりしたので、少なくとも運営と作家が一体となって特定のテーマに沿った展示を作るという感じではないと思う。恐らく「情の時代」とかいうぼんやりしたコンセプトに基づいて作家を招待して展示スペースを用意している感じだ。
「表現の不自由展・その後」だって別に運営が企画した訳ではなく、かつて行われた「表現の不自由展」を招待しただけだ。
展示施設の職員に至ってはそれを公務員の業務として受け入れているだけである。
よって、運営の中心スタッフ、末端のボランティアスタッフ、施設や関連団体のスタッフ、さらに作家間で一人一人が一つ一つの作品に全て賛同しているとかそんなことはあり得ない。まあそれはある程度の規模の組織では当然のことだと思うし、そうでなければ大規模で多様性のある展示会なんて開けないだろう。なので断っておきたいが、会場とかSNSで関係者に絡んで「トリエンナーレの見解」とやらを聞き出そうとしてもそんなものはない、せめて総監督に聞いてくれ。
そんな緩い結束でつながっている人々を「脅迫に屈しない覚悟」に巻き込むのは正直言って無理がある。
それらを踏まえてトリエンナーレ運営の対応はある程度仕方なかったとは思うのだが、しかしそうせざるを得ない状況には大きな問題がある。
先述の通り、施設や組織の問題でテロや脅迫に対応することは出来ないし、安全上の問題を考えると「表現の不自由展・その後」の展示中止は仕方ない側面もあると思う。
しかし考えてもみて欲しい、そもそも武器とかガソリン持った奴相手に対抗できる団体・個人がこの国にどれだけいるのだ、極真空手の総本山とかか?結構な大企業だって本気で襲撃されたら対応出来ないことの方が多いだろう、必然的にそれを仄めかす脅迫の時点で相手側の要求を飲まざるを得なくなる。
暴力による権利への挑戦に対しては個人レベルでなく、社会全体として対抗しなければならないし、行政側には憲法に基づいてその義務がある。
最初に特定されたら困るから匿名で意見すると書いたが、そもそも身の危険を感じて発現を躊躇しなければならない状況自体がおかしいのだ(勿論それとは別に自衛はするが)。
また、津田総監督が会見によると脅迫と並んでまずかったのが「電話」らしい。
抗議の電話でまず事務局の回線がパンク、結果つながらなかった人たちが県美や文化センターに掛け、何の対策もしていない職員が罵声を浴びせられる、しかも公共施設なので切らずに対応しないといけないという事態になったらしい。所謂「電突」と呼ばれるものだ。
ネット炎上とともに話題になることの多い電突は、市民による集団的抗議の形態とも見做せるが、一方でインターネットという新興メディアによるメディアスクラムともとれる、特にやられる方からすればそうだろう。
確かに組織には説明責任がある、取材と報道の自由もある。けどそれが対象となる人々の生活を過度に制限するようになればそれは権利が守られている状態とは言えないし、何かしらの法にも触れそうなのだが、恐らく相手が不特定多数ということで対策が難しいのだろう。スクラムを仕掛けた側を罰しろとかではなく、対象となった側を守る為の社会整備は必要だと思う(と、ずっと前から言われている気はするのだが…)。
誤解しないで欲しいが、ここでいいたいのは抗議をするなということではない。
表現の自由というのは反論されない権利などではない、ただやり方の問題だ。
話がまた大きくなるが、個人的にはどれだけ平和主義を語っても「戦い」なんてものはなくならないと思っている。政治も、経済も、受験も、スポーツも、婚活も、創作も、結局は「戦い」なのだ、ただそれをいかに物理的な暴力を伴わず決められたルールの範囲内でやるかが、人類が積み上げてきた理性とか法治とか文明の指標なのだと思う。
抗議は存分にやればいい、カウンターとなるアートを作成しても良いし、ネットに長文を書き込んでも良い、署名やデモでも良い。そして表現の自由と言っても万能ではない、脅迫罪、威力業務妨害罪、侮辱罪、名誉毀損罪、プライバシー権、著作権…憲法に定められた公共の福祉の概念に基づいてそれを規制する法律なんてごまんとある。そのうちの何かに抵触してそうなら訴訟という手もある。ただやるからには全て合法的にやれというだけの話だ。
pixivで気に食わねえ解釈を見つけたら自分の解釈を倍の質と量で投稿して相手の筆を折るのが仁義というものだろう。すまない今のは完全に個人の意見だから忘れてくれ。
じゃあこの場合どうしたらいいのか。
少し話が飛ぶが比較のため「コンビニエロ本問題」について話させて欲しい。「コンビニエロ本問題」とは女性客などからの抗議を受けてコンビニから18禁の本が撤去されている事態のことだ。あれを表現の自由と結び付けて語る人もいるが、私はそうではないと思っている。
何故ならあくまでコンビニは民間の営利団体だからだ。コンビニ業界に詳しい訳ではないので話半分に聞いて欲しいのだが、もしコンビニ側が「エロ本を撤去しないとタピオカを積んだトラックで突っ込む」とか脅迫を受けているならば、それは許すべからざる犯罪だ、しかし多分そうではないだろう。
抗議が原因と言われているが、恐らくより正確には「エロ本絡みの抗議や客足減退に対してエロ本の売り上げが割に合わない」が原因なのだと思う。
コンビニで18禁本を最後に買ったのはいつだろう、正直質はともかく量と利便性はネットの方が格段に上だと思う。正確な売り上げは知らないが、エロ本だけで月々1兆円くらい純利益が出ているなら、あの容赦のないコンビニ業界が Permalink | 記事への反応(15) | 22:16
価値観←「大人の価値観」←宗教という論理展開が曖昧です。日本における大人の価値観を作ったのが仏教という説明ができておらず、イスラムと日本の例も宗教に関する対比になっていません。そもそも価値観を作るのは宗教だけでしょうか、他に同様の役割で道徳を作ったものがあるのではないでしょうか。その辺を踏まえて日本の価値観を作ったのが何かをもう一度考察、再提出お願いします。
新天地での生活に慣れて、もうそろそろ「行きつけ」みたいな場所を作りたいなーと思い数ヶ月前からバーに通いだした。
最初は静かに飲んで他の客の話を横聞きして(友達の少ない身としてはそれだけでも結構面白い)うとうとしたら帰っていた。
何回か通うとマスターに自分の話をしたり他の客とも少し話すようになった。
すると何回も顔を合わせるおじさんができた。そこの常連であり似たような仕事をしていて、仕事柄時事の話とかも真面目にできる。変なマウントもない良識派のおじさんだった。
都会の日向で明るくうぇーい生活を20数年送ってきた会社の同期と、田舎の日陰でぶつくさ言う20数年を送ってきた私には常識が大きく異なる点があり、ショックを受けることも多い。その点おじさんは人生を積んでいるから常識に乖離もないし議論好きなこともあり話が弾む。入社当時もうぇいの喧騒から離れ人事のおじさんと喋っていたので、好かれてるとかお気に入りとか言われていた。
確かにおじさんと話すのはリスクが低く、普段何の役にも立たない自論も語れるしためになったり珍しい話が聞けるので結構楽しい。特に予定もないので夜中までおしゃべりして飲んで帰っていた。
その日も途中からおじさんたちと話していた。私は考察と議論好きに加え、プロレスと深夜ラジオを少しかじっているという特徴があった。この2つは同世代よりはるかにおじさんに刺さる話であり、その日もプロレスの話で盛り上がった。そこからまた仕事の話になり、なんか膝触られたなとは思ったがおじさんは3軒目らしいし酔ってるんだろうなと思った。何周かしてまたプロレスに戻り、小学生の時に回し蹴りとかやってたという話をしたところ蹴られたいとおじさんが言った。相当酔ってらっしゃるなと思ったがマスターもいたのでMなんじゃないですか?と問答してそれなりに盛り上がった。
かれこれ5時間ぐらい喋っていた。閉店時間となりチャリで帰ろうとしたがおじさんはふわーっとしていたのでしばらく歩くことにした。
するとおじさんが「今日可愛いね」といって頭をポンし始めたので「これはマズイな」と思ったらやはりしなだれかかられてしまった。
体格差はあるが力は無かったので冷静におじさんを起こしてやめましょうと宥めたあと、しばらく関係のない話をして、おじさんがシャンとしてきたなと思ったところでチャリで爆走して帰った。
何も襲われたなんて思っていない。本当に就職で住み始めた土地だし同期もアレだしでツテ0なので自分で友達を開拓してみたかった。しかし通う場所も集う場所も無いしアプリやSNSで繋がることも無い。考えた末のバーだった。だから会社や旧知の友人以外と話せるのが新鮮でそれなりに楽しかった。
あと上述の通り、自分でもおじさんとばかり話が盛り上がってしまうことについて自覚があった。ゼミの先生や上司と1:1で話すのも全然楽しかった。周りが好きなタイプにジャニーズや若い俳優をあげるなか、答えが出ずに考えていると「反町隆史とか?」と振られてしまうような私であった(無論、反町隆史はここにおけるおじさんとは年齢ぐらいしか共通項の無いナイスガイである)
となれば私はやはりおじさんが好きなのだろうか?おじさんでもいいのか?という疑問は結構な間、確かに存在していたのだ。
そしてそれについて私も答えを知りたいと思っていた。
が、しかし、昨日出たのは「おじさんと話すのは楽しくても、おじさんを愛することはない」という答えであった。酒の勢い、相手に流されて、という理由がつけられる状況においてもおじさんと寝ることはできなかったのだ。
マイルドに言えば頭ポンされても心ときめかず、可愛いねと言われても「確かに今日の仕上がり良かったな」としか思わず、悪く言えば、あのまま応えていれば酒臭いとかタバコ臭いとか身体がだらしないとか思ってしまうのは必須であり、小さい細いの私がおじさんと並べばどうみても程度の低いパパ活であり、つまり生理的に無理なのだ。
あるとき、親戚のおじさんがなぜ大学生になっても挨拶でハグするのだろうと思い「もう私も大人ですから、やめましょう」と言った、まさしくあのノリで「今後会ったら気まずくなりますから、やめましょう」とおじさんに言ってしまったのである。
話が合って良識があり、独り身っぽいけどなんか矜持がある紳士という魔法は溶けて
若い姉ちゃんとワンチャンしようとしたただの婚期逃しただけだったおっさんになってしまった。
それと同時に「もしかしたらおじさんも恋愛対象なのかしら?」という私のぼんやりした疑問もNOという答えで消滅してしまった。
私の記憶が正しければ、おじさんはおそらく家と逆の方向に歩いてきたはずである(以前は逆方向に帰っていたから)。
私が爆走して消えたあと、きっと踵を返しているだろう。もしかしたら以前もそんなことがあったのかもしれない。
おじさんにとって私はいつまで「悩ましき、打てば響く人生の後輩」で、いつから「なんかワンチャン寝れる気がする20代女性」になったのだろう。
おじさんは反省したのだろうか、恥ずかしくて死にたくなったか、あるいはミスったなあぐらいの常習犯なのか。それを考えて少し笑ったり、おじさんは無理だなやっぱ…と少しガッカリしてる私は冷酷なのか。
とか書いてたら長い揺れが来た。
そういやおじさんとは震災の話もした。私は被災地における同期のあるふるまいに怒り、未来の故郷に待ち受ける絶望と空虚さを語った。おじさんは真面目に話を聞いて「でもそんな悩めるひとだからこそ、辞めないでほしい、そういうひとが若い世代にいることは1つの希望だ」と言っていた。あんな会話も、魔法が解けてしまったから、もうできないな。
内容にかんするきちんとした反論であったので、言及する必要を感じた。
ちなみに意見としてはこの三行が要旨であろう。
> 奈須作品は主人公の生き様を見てヒロインが主人公に惚れるケースの方が圧倒的に多い。
> そこを、分かり易い恋愛スイッチでキモ男にコロリと落ちるチョロインと勘違いしないように。
> 増田に女性の主体性って視点がない。何かしてもらったからじゃなくて、何かしているのを見て恋をするんだよ。
おそらくだが、ほぼほぼこれは衛宮士郎、岸波白野、藤丸立香を指して言っているのだろうと思う。こいつらの特徴は、生き方や人生に対する向き合い方=人格的な部分を評価されているエピソードが多いところである。これはwikipedia見るだけでも一目瞭然である。だが、その上であえて言おう。それは間違っている。なぜならば
その証拠に、型月の主人公はただのむっつりスケベである。彼らは純朴・朴念仁・お人好しという格好を装っているだけで、実はメチャクチャむっつりである。これはFate/Extra、Extellaのストーリーを追っかけていればわかる。こいつら、実はかなりヒロインに対してセクハラしてる。ただ同じくらいヒロインたちが主人公に対してセクハラをする。ただ、重要なのはセクハラがどうとか主人公がむっつりである、とかそういうところではない。要するにここから那須きのこ氏の作風が透けて見えるのである。つまりキャラクターがシナリオに追従している、という作風である。
本当はこいつらメチャクチャむっつりのドスケベ野郎なのに、ストーリーやエピソード全体で語られる人格は「公明正大で忍耐強く、極端なまでに懐が広くて朴念仁でお人好し」なんだぜ?なんでこういうキャラ付けがなされるのかというと、これまた単純な話で、要するにこいつら性癖を隠すためにこういうキャラ付けがされているだけなのだ。で、特にこれが言いたいのだけれど、本当に主人公たちがマジで性癖があってエロくて人間的に駄目なやつなら全然問題ないのだ。それは単にキャラクターの人物像を掘り進めた結果としての個性になる。だが那須きのこの場合は違う。那須きのこは自分自身の性癖や変態性を隠すために主人公に「人格者」というキャラ付けをする。つまりキャラクターからストーリーを生んでいるわけではないのだ。こいつの性的嗜好を満たすストーリーのためにキャラクターを配置しているだけなのだ。これがキャラクターが描けていない所以だ。
したがって、“女性の恋への主体性という観点が抜けている”という指摘があったが、これも違うと言えよう。何度も言うが、Fateのヒロインは基本恋愛スイッチを押されているだけだ。主体性に似たものをエピソードの中でときたま見せるときもあるが、これをもってしてFateヒロインに恋に落ちる主体性があると考えるのは間違いだ。単にストーリーのつじつま合わせを狙っているだけに過ぎず、これを持って「きちんと好きになった理由がありますよ」とエクスキューズする逃げ道を作ってるだけにしか見えない。そしてそれを成立させるための男性のキャラクターを逆算で考えるため、追従的に男性キャラクターを没個性的なくせに妙に正義感を使命感あふれて包容力がある実はムッツリスケベな男性像ばかりにしてしまうのである。
この代表格は型月ヒロインの代表格:セイバーさんと衛宮士郎くんの関係である。
これは有名な話だと思うが、セイバーはもともと男で衛宮士郎が女という設定だったことを知っているだろうか。Fate/Prototypeで描かれている関係こそが、fate/Staynightのもともとの形だったのである。これがキャラデザ担当の意向とエロゲ売り前提事情から何故かセイバーを女にしてシナリオ改訂しなければならくなった、という逸話は有名だ。(没個性型主人公というのもエロゲによくある話なので、型月主人公の妙な没個性性の源流をここに求めることも可能だろうとは思う。が、私としては前述にも述べたようにきのこ氏の作品発表系列として「空の境界」の黒桐くんを源流と考察しているし、これは間違いないと思っている)
さてここで問いたいのだが、元英国騎士王が現代高校生の落ちこぼれ魔術師もどき男子のところに召喚されてきて恋に落ちる主体性ってなんだろう???
そんなもんあるわけねーだろ。初っ端からシナリオが無理筋じゃねえか。こんなもんまともなストーリーになるわけない。よくてギャグにしかならん。衛宮士郎の人格的な闇?英国騎士王セイバーさんの聖人君主たるがゆえの騎士王としての悩み?アホかそのどこに恋愛につながる要素があるんだよ。シナリオを読めば分かるけど、終始衛宮士郎はセイバーさんを女の子扱いするために謎の頑張りを続け、デートをして現代日本の遊楽街を引っ張り回したリ飯食わせてみたりいろいろデートイベントらしきものを作ってはいる作ってはいるが(ry あれこれシナリオの中で理由らしきものは語られてはいる、語られてはいるがどれもこれも取ってつけたようなよくわからんエピソードばかり。
結局このひとことで終わっちまう気がしてならん。だってエロゲですもん。でもこの言葉で終わらせてしまったら思考停止。言葉に出した時点でシナリオに対する分析する意味自体なくなっちまうパワーワード。でもある意味では結局この言葉に行き着く気がする。要するに、Fate自体最初からつじつま合わせのためにシナリオが存在してきたようなものだ。恋に落ちて人間性を取り戻す英国騎士王という文学をエロゲにするためには、きちんと主人公とセックスするために英国騎士王を女にして、彼女とデートする必要があったんだろううん。果たしてエロゲを描くために英国騎士王を出してくる意味があったのかどうかは置いても、だ。そう、Fate/StayNightはもともとエロゲだったのだ。だからしょうがないのだ。人間性を描けていなくても、女性の恋に落ちる主体性にいまいち説得力がなくても、主人公が単にライターの性癖を隠すためだけに没個性的で奇妙なくらいに人格者でありながら実は内面は単なるむっつりスケベでも、しょうがないのだ。
そんなわけねーだろ。エロゲならキャラクターを描けてなくてもいいのかよ。そんなわけあるか。そんなこと言ったら虚淵さんだってエロゲライターだぞ。しかも割とストーリー性も評価されてるタイプのエロゲライターなのである。なのにこの作品の完成度の違いは一体なんなのだ?というもっともな指摘を那須きのこ氏は逃れられない。元がエロゲだから、元々無理筋なシナリオだから、こじつけっぽいのはしょうがない?それは単なる言い訳だろう。
少々反論もあった衛宮士郎についても言及しておこう。すなわち衛宮士郎とは、やりたいシナリオのためにキャラクターの人間像に説得力のあるエピソードを加えていく奈須きのこ氏の作風の中でも顕著な失敗例、である。主人公が没個性的な理由かつ妙なヲタノリをするのは間違いなく主人公たちが奈須きのこ氏のアバターとしても機能しているからだと私は睨んでいる。それを踏まえて何度も言うが、基本的に奈須きのこ氏はむっつりスケベなので、むっつりスケベなエピソードを書くために女の子が存在している。そしてその女の子と対比させる形で男性キャラクターを反存在的に生み出している。つまり男の子は所詮反射的にいなきゃいけない存在だから生まれてくるキャタクターに過ぎない。そしてむっつりエピソードを成立させるためには女の子がそれなりに異常でなければならないが故に、その異常な女の子に好かれてかつ包容できる男は同様にまた異常でなければならない。つまりシナリオの必然性のためにキャラクターのすべてがつじつま合わせのプロフィールを持っているに過ぎず、衛宮士郎くんの場合は元英国騎士王でありながら実は女の子という異常性を持つセイバーというキャラクターが、魔術適正がありながらほぼ無力の男子高校生である士郎くんとの恋愛を成立させ、恋愛における主体性を持って最終的に結ばれるエンディングを迎えるためには衛宮士郎くんにもそれなりに異常であり傷がなければならない、というシナリオライター的バランス感覚から逆算して生み出されたつじつま合わせのキャラクタだからだ。
そろそろ言いたいことが分かってきてもいいんじゃないだろうか?厨二病という自意識過剰な男性像が自尊心を失わずに英国騎士女王のような格上の女性とデートを成立するために必要な自意識過剰さを支えるために異常性というプロフィールが用意されている。まさにシナリオ追従でキャタクターを配置していることで起こる典型的な弊害だ。
ちなみに青セイバー・アルトリア・ペンドラゴンの過去と元英国騎士王という過去がある女を落とすために主人公(男)もまた異常でなければならない、という等式は単に奈須きのこ氏の脳内にある思い込みであって、実際にはシナリオライターの技量次第でまったくそうではないと思うし、そもそも衛宮士郎くんが男子高校生である必要もまったくなかったと思うが(※例えば虚淵氏が描く衛宮切嗣氏とセイバーの関係の方がよっぽどドラマティックな恋愛シナリオが書けたのではないかと思うくらいだ)そこは突っ込んではいけないらしい。(※これは単に奈須きのこ氏が衛宮切嗣のような男性像を描けなかったからであり、これは彼のキャラクター像が描けないというシナリオライターとしての欠陥からくるものだ。これがいかに病理的であるかは全開語った通りなので割愛するし、この原因は彼のむっつりスケベからくるものだと私は主張してはばからない。そしてこれを乗り越えて、魅力的な男性キャラクター像をきちんと描けるようになることが、奈須きのこ氏の課題だと筆者は思う)
わりと上記のような指摘があったような記憶するので、一応代表的な脚本家をあげてみる
シナリオライターのタイプにはいろいろあるが、実力の高い作者がよく言うこととして「キャラクターが勝手に動いて言うことを聞いてくれないことがある」。これはキャラクターを掘り下げて書くことが得意なタイプによくある特徴で、稀代の脚本家でいえば特撮系の脚本家として有名な小林靖子氏などがそうだろう。氏は脚本を書いていて、シナリオがキャラクターにらしくない行為を強いている場合に、躊躇なくキャラクターにシナリオを追従させる。つまりシナリオをキャラクターに合わせて改変させてしまうのだ。これはキャラクターをシナリオの駒と考えるシナリオライティングとは真逆のアプローチだが、結果としてこれが人間像をきちんと描くことからシナリオ自体の評価につながる事が多い。
また同じようにキャラクターが持つ人間像から醸し出される雰囲気や空気感を出すことにかけては吉田玲子氏の名前を出さないわけにいかない。氏の名前を検索すればすぐにでも代表的な作品がいくらでも出てくるはずだ。この人も脚本賞を二度受賞している。このひとの名前を出すと、すぐにガルパンとかけいおんが出てくるのだが、私としては「デジモンアドベンチャーぼくらのウォーゲーム」とか最近の作品では「ヴァイオレット・エヴァーガーデン」や「夜明け告げるルーの歌」などを上げたい。他にも「猫の恩返し」「若女将は小学生」キャラクターを描けている、とはこういう作品のことを言うのではなかろうか。特に氏の作品はシナリオの安定感が抜群で評価できる。バランスがよく、それでいて繊細で、何気ない日常の何気ない動作の中に登場人物の感情を表現する手腕には舌を巻く。
女性ばっかりなので、男性も上げておこう。他でもない筆者は虚淵さん大好きである。Fateの中で唯一好きといえるシナリオはFate//Zeroと豪語するくらい虚淵押しである。当然PsychoPassも押さえている。ちなみに筆者を女性と指摘する声もあったが、残念ながら私は男性である。「まどマギ」はもちろん「楽園追放」「沙耶の唄」も消化済である。氏のシナリオの面白いところは、なんだかんだ言って社会風刺を含めたメッセージ性をきちんとエンタメシナリオの中に押し込めることが出来ているところである。しかもこの辺を、いわゆる世間の「反戦」だとかいうご教育主義的で説教臭い作品ではなく、エンターテインメントという作品の中で行えているところがすばらしいと思う。あくまでこれはエンタメなのだ、という前提を忘れてしまえば、主義主張の強いプロパガンダのような作品になってしまう。こういう哲学ばかりするアニメーションではなく、きちんとエンタメをやっていながら、そのエンタメに深みを与える要素として社会風刺がきちんと出来ているところがとても良い。氏の脚本のハードボイルドな側面には魅了されるばかりだ。
私も特撮の偉大さって全然理解できなくて、会社の資料作るのに致し方なく実費で特撮展に行ったことがあったんだけど(もちろん、不承不承、期待せず、必要な情報だけ得られればいいかな、という超消極的な期待で)、そこで「巨神兵、東京に現る」を見た瞬間に言い様のない恐怖に包まれた。そこから見方が変わって、今は積極的に見ることは無いものの、特撮好きの人達の気持ちもなんとなく分かるようになった。
私の解釈では、現実世界とのリンクと、そこに現れる(ほぼ勝ち確の)ヒーローへの信頼感、安心感が根底にある、怪獣やヒーローの背景やらビジュアル、造作を楽しむものなのかな、って。
悲惨の事件、前代未聞、単独殺傷事件での死者数過去最多…なので、多分どうやって考えればいいか分からなくなっている部分がある。
一つの事件を一つの視点で考えることは、どんな犯罪においても違うとは思うのだが、
事が事だけに混乱しているメディアや書き込みが目立っているような感覚を持つ。
なので一つ一つを整理していくべきだ。冷静に。犠牲者に悲しみを持って。
まず最初に、大勢の人間の命が失われたことについて考えなくてはならない。
これが同じ人間としてまず考えるべきことであり、これが考えられない人に以下を考える資格は無いとすら思う。
なんの罪の無い人たちが、殺されてしまった。いまだに入院している人もいる。怪我人も多い。
居合わせた74人のうち無傷だったのは6人だけ。
我々はまず、悲しまなくてはならない。
そして、彼らの今後に想いを馳せる。そのために必要なものはなにか、協力できないかと考える。
集められた資金は、まずは彼らのために使われるべきだろう。
次に文化的価値についてであると考える。いや本当は防災意識なのかもしれない。しかしいつだって感情が先なので、これは後回しにしよう。
日本は文化を持って戦争に負けても自尊心を保ってきた。アニメは文化だ。
多くの日本人は文化価値の重大さにして理解しているからこそ、アニメーターに価値を見出している。
さらにドラえもんやクレヨンしんちゃん、コナンや美味しんぼ、キャッツアイや犬夜叉、初期ジブリ作品など京アニが関わったことのある作品を見たことの無い日本人はいるだろうか。
アニオタでなくとも、その事実に気付いたときにハッとするものがあるだろう。
大きな喪失感はきっとこの辺にあるのだろう。
次に考えるのは防災観点だと思う。京アニが問題だったわけでは無い、と断言する。少なくとも、法律上は問題が無かったのだから。
しかしこういうことが起こるのだ、という前提で今後危機管理を行っていかなければならなくなった。
そうせざるをえないのだ。いつだって最悪を想定して防災は進む。
これで何かが変わらなければ、日本はそれこそ成長が止まった国となるだろう。
特殊な事件だからで終わらせることは出来ない。一度あることは二度ある。だから、考え続けなければならないのだ。
次に考えるのは京アニの再建だ。
しかしこれは再建しようとする人が居続けることが必要だ。事件後すぐ表に出てきていた社長は再建すると言っている。
ただ、事件後間もないことだ。社長の気持ちや状況も汲んであげたい。アニメへのテロ行為に屈するわけにはいかないのだから。
我々はきっと社長の言葉に期待しているが、それは時間がかかることだろうし、気力が続くかどうかも分からないことだ。
今はただ、彼らがしたいことの手助けをするのみだ。あれをしろこれをしろ、という時期ではない。
彼らのためにできることが、京アニの復活に繋がると、信じて待とう。
目を向けなければならないのはいつだって人の気持ちだ。そうでないと人で無くなってしまう、と考える。
被害者やその家族、そして関係者、友人、救助にあたった人達、近隣住民。そしてファン。
この人達のカウンセリングについても考えていかないとならない。
今は警察が100人体制で動いているが、来年は50人も残っているのだろうか。
するべきことはたくさんある。今すぐにすることと、長期的にすることを考えるのが大事だろう。
さて注目されている犯人の動機だが、それを聞いて納得できた人は、危ないと思う。
殺人事件を書く小説シリーズにありがちの言葉だが、殺人鬼の言い分を理解してはいけない、ということだ。
殺人者の動機を延々考えている推理作家たちの結論が多くそこに行きつくのが、なかなか興味深い。
だから正直なところ、聞いても仕方がないと思う。
しかし聞かなくてはならない。そして対話をしなければならないのだろう。
話しもせず死刑を執行することは、結局のところただの殺人鬼と同じになってしまう。
法律は本来国民が決めるものだ。国民の意思で話も聞かずに殺すとなれば、国民が理屈の無い殺人鬼になってしまう。
死刑制度について考えてしまうが…まぁきっとこれは、凶悪犯が出てきたときに逐一考えていくことなのだろう。結論はそれぞれだ。
ただ犯人の動機を聞いたところで、上記に書いたことよりは得られるものが少ないように思う。
正直なところ、その分野の詳しい人や心理学者に研究を委ねるべきなのだろう。
きっとまだ考察すべきことはあるのだろう。
やばくないものをヤバイと感じてしまう人の認知や知能についての考察と感想だよ
なにも解決なんかしてないだろう
1.買い物などのために自転車がほしいと思った
2.2万円程度で買えるなら、優先度が高い
3.どうせ買うなら電動がいいなと思った
4.電動なら8万円を超える
5.8万円を超えるなら、優先度が低い
6.買い替えが嫌なので、2万円の自転車を買うこともない
7.結果当分買わない
8.でも本当は自転車がほしい
1.Aがほしい
2.AがX円で買えるなら、優先度が高い
3.どうせ買うなら良いやつが欲しい
4.良いやつはY円する
5.Y円ならば、優先度が低い
6.買い替えが嫌なので、X円のAを買うことはない
7.結果当分買わない
8.でも本当はAが欲しい
もっと何も考えずにノリで買えよ
_____
・冷蔵庫(3年)
・机(1年 自作したい)
・Mac(40万円)
・カメラ
・絨毯やカーペット
・かばん(1年)
共通点:でかい、重い、1つあれば十分、買うのに悩む、売りにくい、とか?
意を決して買ったもの
たぶん意志が弱いんだろうな
いつ買うんだろうな〜と思いながら1年以上経つの草
どの商品が良いか、調べるところまではやるんだけど、そっから放置する
________
◯わかりづらい解説
A,B、どちらか1つあれば十分な場合、AからBにアップグレードした時に2つになってしまう問題がある。
それの対処は「Bを買った後にAを売る」「Bを買った後にAを捨てる(あげる)」「Bを買った後にAを放っておく」「Aが壊れたらBを買う」「Aを買わずBを買う」などあると思う。
「売る」ができると非常に嬉しいが、「売れない」「売るための手間が大きい」商品は結構ある。
更に「耐久年数より前にアップグレードしたいと思っている」とき、「Aが壊れたら」の選択がとれない。
残る選択肢は「Aを捨てる(あげる)」「Aを放っておく」「Aを買わずBを買う」。
あげる、放っておくというのは価値の放棄なのでもったいない、となれば「Aを買わずBを買う」が残るんだけど、
Bは高いため、今時点の予算がオーバーしてしまう(他の商品CやDやEと競合する)
Bが高いせいで優先度が相対的に落ちて、購入が先延ばしになってしまう。
結果、Aの価値もBの価値も得ることができない期間が生じる。と言う現象。
例外:
・消耗品
・2つになっても気にならないもの
・十分に安い場合
→これら例外を除外すると、該当するのは家具や家電などのデカブツとなる
(特に捨てるのが億劫とか、捨て方が分からないものはより顕著になる)
あとは血圧計のような売れない類の機器とか、サービスとかも入ってくる
考察:
これが少し厄介なのは、比較軸が「AかBか」という単純な構造をしていない点だ
時間軸と、CやDやEという別の選択肢が混ざっていてるから、評価変数が複数あって混乱するんだ
そのうち考えるのが面倒になる
たぶん私の間違いは、多く指摘されているように「3.どうせ買うなら〜」の部分だと思う
昔は「いっちゃん安いので!」って事が多かったけど、少し稼げるようになって「背伸びすれば良いの買えそう!」となってからおかしくなった
たぶん予算の使いみちを決める人とかもこういうの悩むんじゃないかな
____
「既にAを買った場合に買い替えづらい」のようなコメントがあるけど、これはこの現象と表裏一体だと思う
たぶんAを買ってしまったら、Aが壊れるまでもったいないからBを買わないんだと思う
特にデカいものはそう(エアコンとか照明とか。前の家では照明が無い真っ暗期間があったw)
要はケチなのか?アホなのか?
オタクがアニメの公式に使った金額は愛の指標だが、金額=愛の大きさではない。
お金を使うのは偉い。けれど、お金を使わない人は愛が無いわけではない。って話はもはや一般的。
なのになぜ、金額の部分が同人誌を描く事になると、描いている人の方が愛が大きくて、描いていない人の愛は貶されるのだろう…。
ツイッターで【俺の考えた最強の推しちゃん】を語ってるときに、それは描くべき内容って言われると心が凍る。かけねぇよ…。
別に、妄想ツイートに賛同して!自分のの考察こそが正しい!って言ってるわけではないよ。同人作家が漫画にしてる妄想と一緒だよ。
ただ、想像力が足りない。圧倒的に足りない。
言論統制って何なのか。言論統制に近いけど言論統制でないものの例示とか出来る?
それは言論統制じゃなくて「言葉使うの禁止」って状況下ではない?
言論統制という概念についての把握がガバガバだからそうなるんだよ。
同上
たとえば聾者なんか手話のひとつひとつが言葉であり概念なんだぜ
だから思考する時は頭の中で手話がボンボンボンて組み合わされていく
(これって健常者とどういう違いが出ると思う?)
聾者のギャングが同じ聾者を手話で恐喝してたなんて事件もあった
そういうニュースとかエピソードとかをちゃんとたくさん知ってるのか、
そしてそれを聞いた時読んだ時に面白いと感じたり考えたりしたのか
ある国で食べ物注文するときに手の甲向けて2本指立てたらものすごい侮辱のサインだった、とか
チャットがオーケーなら全然言論統制でも言葉の禁止でもなくね?
一体どういう社会なの?
その制定に至った思想や経緯についてはそれなりに筋の通った設定が求められる
君はそこをちゃんと考えられてないんじゃない?
(というかそういうのを考えるのが好きじゃないんじゃない?普段からそういう妄想してないんじゃない?)
国民を統制したいならジェスチャーより先にチャットなんか規制されるはずでは?
規制する側が何をしたいのかはちゃんと作者が考えないと駄目じゃない?
・言いたい事もいえない世の中ポイズン
・最終的に人間同士関わらなくなりそう
それだけ?
いわゆる馬鹿というのはどっちも出来てない
思考が常にぼんやりしていて思考のツールである概念の精度もガタガタ
自分の面白いと思うことの知識をどこまでも吸収していることと(自発的に)
そこからいろんな概念を抜き出して整理したり組み合わせたりする妄想で遊ぶこと(自発的に)だと思うので
増田はなんとなくデレマスに関するお気持ち表明が多いイメージがあるから私もお気持ち表明するね。
だから何?みたいな内容だし文章もめちゃくちゃだと思うけどずっと心の中にあってモヤモヤしてること。
私は恐らく「推し被りNG」とか「同担拒否」といわれるタイプの女性プロデューサーです。
一ノ瀬志希を担当していて、スターライトステージのリリースから4年弱、彼女だけを微力ながら応援してきました。
彼女の見た目や性格はもちろん、好きな食べ物から趣味、バックグラウンドまであらゆる側面を愛しています。
性的指向はヘテロセクシャルだと思いますが、志希への感情が友愛や憧れだけかと言われると怪しいです。結婚したいと思うことはあります。でもセックスはしたくない。
自分では「推しているアイドル」に対するごく一般的な感情だと思っていますが、他人に確認したことは無いため定かではありません。
わたしの「同担拒否」は、独占欲とは少し違うと感じています。志希が有名になることは嬉しい。アイドルとしてはもちろん成功して欲しいし、もし好きな人ができたのならその想いが報われて欲しいとも思います。
でも志希が他人の欲望に晒されているのを見るのはめちゃくちゃきつい。
たとえばエロ同人。一ノ瀬志希が作者の欲望が透けるようなセックスをさせられているのを(Twitterやpixivでふいに)見てしまうと吐き気がするほど嫌悪感を抱きます。
たとえば極端な結末の二次創作。一ノ瀬志希を自殺させるような創作が一時期流行しましたが、それは本当に一ノ瀬志希じゃなきゃいけなかったのか?本当にその結末にしなければいけなかったのか?ただ悲劇が書きたいだけじゃないのか?怖くて読めてないので内容を知らないで批判するのも…とは思いますがずっと疑問でした。
たとえばコスプレ。コスプレイヤーが承認欲求を満たすためにするような、キャラクターへの敬意も愛もない、考察の薄いコスプレは志希を馬鹿にされていると感じていました。
これまでも好きなキャラクターはいたし、ジャニーズみたいな「同担拒否」が普通にまかり通るようなジャンルに身を置いていたこともあったけど、こんな感情を抱いたのは一ノ瀬志希が初めてで自分でも困惑しています。
ただ他の人が彼女を好いていることが許せないとか、私だけを好きでいて欲しいとかそういうことではなく、志希をオカズにシコられることが許せない。そこに愛を感じない。
キャラクターに感情移入しすぎと言われればそれまでかもしれませんが、私にとって志希は絵でもコンテンツでもなくかわいいかわいい担当アイドルなので自衛を覚えるまではこれが原因でかなり病んでいました。
今はデレマス用のTwitterアカウントも削除して公式から与えられる情報以外は目に入れないようにしています。
我ながら気持ち悪いオタクだなと思うけど、絶対同じような感情を持つ人はたくさんいると思うんだよな。
自分は他人の推しを貶めるような発言や創作は避けようと気をつけています。
別に「二度と一ノ瀬志希のエロ同人を書くな!」って言いたいわけじゃないし、デレマスの楽しみ方は人それぞれだからそこに割り入って文句をつけるつもりは無いんだけど、こういう人間もいるので「一ノ瀬志希好きなんだよね?この同人おすすめ!」とか「志希ちゃんコスして誕生日祝ってあげようか?」とかやめてください。
味のばらつき | 手軽さ | 保存性 | 備考 | |
---|---|---|---|---|
りんご | B | B | A | 飽きの来ない味。保存技術が進化して1年中おいしく食べられる。すりおろして出すと毎回すりおろしを要求されるようになりめんどくさい |
バナナ | B | A | C | 保存が難しい。子どもの手の届くところにあるとすぐに無くなる。食べ過ぎると飽きる。 |
みかん | C | A | B | 保存が難しい。子どもの手の届くところにあるとすぐに無くなる。味にばらつきが大きい。 |
デコポン/不知火 | A | B | A | 外皮も中の皮も手で剥ける。味も安定してる。少し高い |
デラウエア | A | A | A | 割と安い。味も安定。3歳くらいから一人で食べられる。この時期の定番。 |
ピオーネ・巨峰・藤稔 | A | C | A | 値段高め。6歳ぐらいで何とか一人で食べられる。それまでは皮をむいて種を取ってやる必要がある。 |
もも | B | C | C | 柔らかくておいしいものと固めのものを見分けるのが難しい。皮が手で剥けるのと剥けないのがある。 |
スイカ | B | B | C | お盆くらいになると味が落ちる。外で食べたい。4歳までは種を取ってやる必要がある。 |
梨 | C | B | B | うちの子はあまり食べなかった。味にばらつきがある。 |
輸入オレンジ | A | B | A | 皮に農薬があるのであまり買わない。 |
グレープフルーツ | A | B | A | 皮に農薬があるのであまり買わない。 |
イチジク | B | B | B | 見た目、味ともに子どもには不評 |
ザクロ | B | B | A | 子どもには好評だけど可食部が少ない。あまり売ってない。たまに見つけるとうれしい。 |
ブルーベリー | A | A | A | 子どもが好きな味。長持ち、そのまま食べられる。実家にブルーベリー畑があるこの時期毎週もらえる。 |
苺 | B | A | C | すぐ痛む、準備は楽。 |
メロン | B | B | B | もらうか回転ずしで食べるのみ。アレルギーが出やすい気がする。 |
ハネデューメロン | B | B | B | ビックで売ってるとても安いメロン。味も悪くない。 |
キウイ | B | B | B | 半分に切ってスプーンですくって器に盛ってる。グリーンキウイは酸っぱいから食べてくれない。 |
柿 | A | B | B | 小さいのが多い。一人一個ぐらいじゃないと食べた気になれない。 |
パイナップル | A | B | ? | 回転ずし専用。セラミックナイフを持参して一口大に切って渡す。 |
サクランボ | B | A | C | 割と高い。4歳ぐらいから種を出せる。それまでは種を取ってやる |
現代のコンテンツの消費されている流れの速さでは紙媒体は追いつかない。経済を抑えてますって風態で紙の日経を読んでるジジイたちの目に届く頃にはオンラインではトピックを掘り下げた記事や様々な考察がでてる。
2019年の神経内科専門医試験に通ったので、勉強についてのメモをここに残しておく
専門医のレポートは3月中旬までに提出がいる。全部で10症例。
焦らずにやるのであれば1月から、ただ2週間程度で完成させたような人もいるので、このあたりは個人差があるだろう。
このレポートを見ながら面接を行うので、できるだけ簡単な症例を選んだ方がいい。あんまり特殊な症例だったり、あるいは画像と診断が合わなかったりするような症例は面接で突っ込まれる可能性があるのでやめた方がいい。心房細動があって塞栓症を起こして治療して転院しましたみたいな取り立てて特徴のない症例が良い。しかし症例報告したことがあるようなものであれば質問されても対応できる可能性が高いのでケースバイケースではある。面接については後に語る。
レポート以外に経験した症例の種類と数をかく必要がある。意外にこれが時間がかかる。概ね適当でよいのだが、特殊な症例を書いていると面接で突っ込まれたりする。かといってcommon diseaseだけで書いても突っ込まれる。正直に書くのが良いが、前の病院に問い合わせなどやり出すと時間がかかるのでレポートを書いた後にやろうなどと思っていると時間がなくなるかもしれない。
GWあたりから試験勉強を始める人が多いようだが、やはり早めに行った方がいい。おすすめとしてはもうレポートが終わった段階から始めた方が良い。
試験自体は相当難しい。学会が出している過去問集、通称「青本」から始める人が多いとは思うが、ほとんどの人で初回の正答率はおそらく3割もないと思う。青本は良問だけ集まっているが、実際の過去問をやり始めると悪問も多く、初回の正答率の低さに吐きそうになる。病理、ライソゾーム病や糖原病などの先天性疾患、筋疾患、公衆衛生などの難しさは特筆すべきである。自分が普段みている疾患以外はどれもわからないことが多いだろう。私は変性疾患がメインの医局にいるのでショックがまだ少なかったが、脳血管をメインとしている友人は頭を抱えていた。結構本気の意見として、立ち直るのにも時間がかかるので早めにショックを受けた方が良い。
また、過去問は再現問題を関東だと東大、関西だと京大?が作っていてそれをどうにか手に入れるのだが、作られている解答が間違っていることがかなり多い。複数人が同じ問題の再現と解答をつくっているが、全員の答えが違うということがよくある。いちいち調べて正当を見つけていかないと行けない場合があり、それだけで1日かかったりするので、やはり始めるのは早いほうが良い。
勉強法は人によるだろうし今更説明する必要もなさそうだが、私はノートをつくって試験前に見直せるようにした。
おすすめの勉強法は、まず青本を説いてどういう問題が出るのかを把握する。
過去問は医局内などで貯められたものを手に入れて、4年分ほどやる。並行して教科書を通読して勉強する。私は2015−2017をやって、6月に入ってから2018をやった。
病理は学会のホームページに生涯学習の動画があるのでそれを見ることをお勧めする。
医学生・研修医のための神経内科学:通称「神田本」。これだけで十分である。これを数回通読して丸暗記すれば全く問題ない。ライソゾーム病や糖原病も試験にでるものだけが記載されている。神経内科ハンドブックもおすすめされることが多いが、内容が細かく量が多いので丸暗記には適さず、辞書的に使う方が良い。
神経病理インデックス 病理はこれ1冊でマクロもミクロも十分だった印象。これと学会の動画で十分だろう
他には解剖の本などがあれば良いと考えるが、特にお勧めはない。筋病理や末梢神経病理の本などは読むと理解はしやすいが、そこまで深く勉強する必要はないかもしれない。他に弱い疾患があれば適宜教科書を読むといいだろう。
本番は東大で行われる。地方民は前日に渋谷のホテルをとるのが良い。
試験自体は過去に経験してきたようなマークシートの試験と殆ど差はない。ただ一つ違うのは、試験が終わってからメモは出来ないが、少し問題を見る時間がある。問題再現を行うことが前提になっていることを向こうも把握しているのだ。なので試験時間中に問題を覚えることに躍起になる必要は実はない。
他の注意事項としては、会場の周りにコンビニなどが殆どない。このため短い昼休みに買い出しにいくのが難しいので、朝のうちに昼食を買っておいた方が良い。
終わったら抜け殻になる。
1次試験に通れば請求書が来るので払う。2次試験までは1カ月ほどある
神経診察とレポートを見ながらの、パワハラじみた面談が2つある。
神経診察の方は、基本的に内容は面談者によるので対策をしても無駄である。一応学会のホームページにある生涯学習の動画などで推奨される神経診察、MMTの取り方を覚えて、試験の時はそれを振る舞うようにするのが良い。
眼底鏡を使えるようになっておくと良いとはよく言われるが、最近は聞かれることは減っているようで、自分も使わなかった。NIHSSやMMSEなど点数化するものはなんとなくで良いので覚えておくべきと感じた。
レポートをみながらの面接は先に述べたように、不備があると突っ込まれる。なので簡単な症例が望ましい。レポートに考察を書いているが、それに対して突っ込んでくる人もいれば、それを読まずに聞いてきて考察に書いてる内容を言えばいいような人もいる。なので対策をしても無駄である。
半分は経験症例の方から聞いてくる。特殊な症例を書いているとそれに突っ込まれるかもしれないが、答えられるなら問題ない。多く見ている症例について聞いてくることが多いようで、どういう診察をするかなどが聞かれたりする。ガイドラインと違うと突っ込まれたりする、把握しておいた方が良い。
人によってはレポートも経験症例も見ずに聞きたいことを聞いてくる人もいるので結局対策しても無駄である。
2次試験も合格したら晴れて専門医だが、また金を払わさせられる。それで終わりである。
みんなも頑張ってね