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はてなキーワード: 受け手とは

2023-12-10

音楽の良さを判定する個人的基準ひとつは、その音楽過去のどこに繋がっているかだ。

現代の音楽に全く新しいものは無い。完全なオリジナルというのは存在し得ず、過去の何かに影響を受けたり、参照をし、混ぜ合わせることで、自分たちが描き出したい何かに近付ける。

その時に意図的偶発的に繋がった過去音楽、その音楽が作られた歴史、奏でられた地域、生み出した人間との間接的な交信が、現在音楽を通じて行われる。

ミュージシャン自分の心境を歌や演奏に込めながら、過去の亡霊と対話をするイタコで、作品降霊術でもある。

上手に過去と繋がった音楽を聞いた時に、作り手と受け手は同時に時間を超越する。

2023-12-02

anond:20231202124410

サマーモードフェミニンに彩る、ボタニカルジュエリーに注目。 愛らしく咲く花やみずみずしい葉っぱ、その草花に止まる虫など。自然世界を描いたボタニカルモチーフジュエリーに今夏、注目が集まっている。 オーガニックな優しいラインや華やかなカラーストーンで、サマーモードフェミニンな甘さをひとさじプラスして。

↑これ見ても「発信側受信側双方に便利だったから定着した」って言えるか?せいぜい発信側に便利だから乱用されてるだけで受け手はそうは思ってないことが多いんちゃう

2023-11-30

anond:20231130163047

本格ファンタジーとは何か?は、

受け手資質によって変動する、って話では?

どう考えても「葬送のフリーレン」は本格ファンタジーでは「ない」んだからハンバーグ問題なんて起こらないはずなんだけどな。

多分、これは受け手資質問題なんだと思う。

フリーレンを読んで(視聴して)、

フリーレンは本格ファンタジーだと判断する層は、

ハンバーグが引っかかるんだと思う。

私は全然気にならない。

でも、例えば指輪物語原案にして、

新しいドラマなり映画が作られた時に、

ハンバーグが出てきたら「ちょっと待て」

と思うかもしれない。

ここでいう「フリーレン」「ハンバーグ」「指輪物語」とかって単語は、

XとかYみたいなものなので

任意単語を代入出来ると思います

2023-11-27

anond:20231127001722

そもそもダイジェスト版がウンコであるという意味不明なので、「分かりやすくいい表現」ですらないと思う。

まず、ウンコをどういう意味定義で使ってるのか教えてほしい。読む価値のないゴミという意味安易な語彙に逃げず、もう少し具体的に分かりやす表現すべきだと思う。

受け取ってるこちらとしては

という印象を抱く。

それとも、言葉受け手ことなんて知るか、お前の理解力価値観の問題だ、この俺がいいと思うんだから分かりやすくていい表現なんだ! ということなんだろうか。

2023-11-16

労働価値説はなぜ生まれしまったのだろう

作者がどれだけ丹精込めてようが受け手が要らなければゴミだって健常者がふつうに考えれば秒で分かるはずなのに

人類需要を過不足なく予測したうえで生産計画するというなろう小説夢想前提ありきの考えなのだろうか

そんな思想に大真面目に人命を捧げてきたと聞いても、それは昆虫図鑑で希少な昆虫の生態を解説されているときに示す興味と同等であった

登場人物が知らないはずの情報をいつの間にか知っている理由が明かされない作品イライラする

サリーアン問題の応用問題的な感じかな。

読者(鑑賞者)はAさんが昨日家の中でウンチを漏らしたのを神の目線で知っている。

そこにAさんが昨日ウンチを漏らしたことについてBさんが話しかけてくる。

BさんがどこでAさんのウンチ漏らしを知ったのかがこちらに開示されることはない。

雰囲気何となく察したのか、Aさんのことをストーキングしてるのか、それは永遠に明かされない。

自分飛ばしたのかと思ってAさんがウンチを漏らしたエピソードからBさんが話しかけてくるまでの一連の流れを見直すも、Bさんがウンチ漏らしを知る機会はなかったように見える。

きっとあとで真相が明かされるだろうと思って放置するんだけど、いつまで経ってもBさんがいつどこでAさんのウンチ漏らしを知ったのかは明かされない。

なんだかこういうの凄いモヤモヤする。

AさんがBさんとの会話の中でウンチ漏らした話を自分から漏らしたのかも知れないけど、それは作中で描写されてない。

描かなくても作者が伝わると判断して切り落とした情報が、読者には伝わることなく作者の脳内で完結したまま物語が進む。

作劇の定番的な要素だったり花言葉によって語られたりしていればネット情報仕入れて把握することも出来るけど、本当にただただ雑誌ページ数の都合で切り落とされたネームの中に眠った情報が補完もされてないとかだとマジでどうしようもない。

ミステリー作品でもないなら受け手に全ての情報スッキリと与えられなければいけないってことは無いと思うんだが、話の繋がりに違和感があるとそこに余計な意識が取られて作品への集中力が下がるから良くないと思う。

2023-11-14

ボーカロイド音楽論」(ぱてゼミ)は何故あまり批判されないのか

追記そもそも「何故もっと批判されるべきなのか」については、【最後に】の後に追記した(2023/11/15)。

【背景】

 東京大学東京芸術大学では、鮎川ぱて氏(以後、ぱて講師)による「ボーカロイド音楽論」という講義が開講されている。東京大学の方の講義はぱて講師による著書『東京大学ボーカロイド音楽論」講義』においてその過去の内容が公開されている。このダイアリーの筆者(以後、「筆者」)は「ボーカロイド音楽論」の元受講生であり、書籍を購入し一読した。同講義Twitter(現X)での実況が推奨されておりTwitter上で一つの活発な動きを毎年見せているが、「ぱてゼミ 批判」「ボーカロイド音楽論 批判」などと検索しても同講義に対する明確な批判ツイートはヒットしない(Twitter検索システムが悪いという可能性は保留する)。書籍についても、これに批判的な書評Amazonレビューやブックメーターにわずかに存在するのみである講義内容全体のレビューはそれらに譲るとして、本ダイアリーは、この「批判の少なさ」の原因について仮説を立てることを目的とする。

 本ダイアリーは直接の筆者の特定を避けるため匿名形式をとっている。内容について「そんなの当たり前じゃん」「その仮説は的外れだ」と思う読者もいるかもしれないが、このように書き残さなければ何も始まらないということでご容赦願いたい。また、筆者は全ての年度や東京芸術大学講義を聴講したわけではないこと、このダイアリーの内容は主に『東京大学ボーカロイド音楽論」講義』の初版第一刷(以下、書籍)に基づいていることを断っておく。

【本論】

まず結論として、 「ボーカロイド音楽論」に対する批判の少なさの原因として、筆者は次の4点を提唱する。

1. 媒体:現地で行う音声形式講義では記録に基づく批判が困難であるという点。

2. 受け手資質講義対象となる学生や読者のほとんどはその議題についての非専門家であり、しか批判に割くだけのリソースを持っていないという点。

3. 内容:この講義の内容が批判を先んじて封じてしまうように作られている点。

4. コミュニティ:この講義ボーカロイド音楽が好きな東大生のうち一部を迎え入れるコミュニティ形成する役割を同時に担っており、コミュニティ批判との相性が悪いという点。

以下、これらの点を順に見ていく。

1. 媒体

 書籍が発売される前、「ボーカロイド音楽論」(以下、この講義)は大学の構内の教室で開講されているのみであった(初回の何回かこそニコニコ動画配信されたが)。そこではぱて講師の口頭でのみ内容が話され、レジュメは一枚も配られることなく、板書も最低限であった。言われたこと全てを紙に書きとるのはほとんど誰にもできないだろう。従って口頭の講義に基づく批判は、言った言わないの水掛け論になってしまやすい。現に筆者がこのようなダイアリーを書くことができるのも書籍が発売され、何を書いてあり何を書いていないかを把握し見直すことが可能になったかである

2. 受け手資質

 この講義は主として東京大学教養学部学生に対して開講されたものである。その多くはこの講義で取り扱った多くの思想概念の(多くとも)全てについて専門家であるというわけではない。またぱて講師自身もそれら全ての専門家でないことは講義中に明言している(85ページ脚注5など)。従ってぱて講師によるそれらの援用が妥当でない可能性は常にあるが、そのような観点から検討をすることは学生にとって難しいだろう(勿論専門家のみがそれらを扱うべきだという立場をとることは避けなければならないが)。さらに言えば、進振りのための勉強で忙しい学生にはわざわざこの講義批判するためだけに捧げる時間も体力も残っていないということ(そしてこの講義のもの大学が門を閉める時間まで延長していることもそれらのリソースを奪う一端となっていること)を指摘しなければならない。これは書籍の読者の多くについても同じである

3. 内容

 ここでは書籍でぱて講師が用いた概念の内容が批判を先んじて封じる性質を持つことと、ぱて講師が「論じるべき内容を論じなかった」ことが批判すべき点を覆い隠す機能を持っていることを指摘する。

 まず、ぱて講師はテマティスム(テーマ批評)に則ってボカロ曲評論するとしている。ぱて講師の言うテマティスムとは、以下に抜粋する通りである

「テマティスムは、作家メッセージをその意図の通りに読み取るということではありません。そうではなくて、むしろ作家作品の細部から作家自身も気づいていなかったかもしれないテーマ抽出し、作品価値を読み替えていく。それがテーマ批評という手法です。」(40ページ14行目-41ページ1行目)

さらに、この講義の鍵となる概念の一つとして「アンチ・セクシュアル」をぱて講師提唱している。以下に書籍抜粋を示す。

「本講義の当面のキーワードは『アンチ・セクシュアル』です。性や愛をめぐる通念を自明のものとせずに扱う感性が、ボカロシーンには多く見られ、そして支持されました。なにに比してかというと、いわゆるふつうのJポップに比してです。Jポップのチャートを見れば瞭然でしょう。ラブソングばかりです。」(42ページ8-12行目)

「『アンチ』といっても、それは必ずしも単純な否定のことだけを指しません。性愛を疑ってみたり、気持ち悪いもののように言ってみたり、ときにそれは、米津玄師において見られたように、アンビヴァレントな愛憎を差し向けるというかたちをとることもあるでしょう。」(43ページ2-4行目)

 つまるところ、「テマティスムを用いれば、性や愛をめぐる通念を自明とせずに扱う感性(単なる否定に限らない)をボーカロイド音楽から読み取ることができ、そのような音楽がシーンの人気を博した。一方で「いわゆるふつうのJポップ」からはそのような読み取り方のできない曲が人気を博している。」という主張をぱて講師はしているということになる。この主張に当たって用いた「テマティスム」と「アンチ・セクシュアル」の二つの概念は、この主張に対する批判として想定される「作者はそこまで考えていないと思う」型の主張や「この曲は性や愛めぐる通念を否定しているとまでは言い切れない」型の主張を先んじて封じる機能を持つ。このため、読者がすぐに思いつく形での批判ができず、ぱて講師の主張に対する批判が少ないことに寄与していると考えられる。

 もう一つ批判封じに寄与しているのは、「論じるべきところを論じていない」ということである。「いわゆるふつうのJポップ」についての記述に注目すると、ここでぱて講師が行わなければならないのは、

①「いわゆるふつうのJポップ」を「『アンチ・セクシュアル』な感性を持たないJポップ」以外の形で定義すること

個別楽曲評論を通じて「いわゆるふつうのJポップ」に該当する曲に「アンチ・セクシュアル」な感性が備わっていないことを論じること

③それが「Jポップのチャート」に非常に多く見られることを指摘すること

であるしか書籍の中で「いわゆるふつうのJポップ」についての言及があるのはここのみで、上記3つ全てを行っていない(ぱて講師言葉を借りれば、「瞭然」という「感覚思考俎上に載せ」ていない)。それもそのはず、「テマティスム」と「アンチ・セクシュアルな感性」を用いた読解だけではこのようなことは到底不可能からである。「テマティスム」は確かに「作者の意図」に縛られない自由評論の基礎であるが、それは同時に評論者次第でどうとでも言えてしまうことを意味する。同じ曲が違う評論家によって「アンチ・セクシュアル」であったりそうでなかったりする。もし「そうは言ってもこじつけってものがあるでしょ」と思うのであればそれは「良い評論」の基準として「テマティスム」以外の何かを想定していることになる。さらに言えば、「アンチ・セクシュアル」という概念の幅も広い。同じ言葉賞賛にも皮肉にもなる世界で、「性や愛をめぐる通念を自明のものとせずに扱」っているかどうかを「テマティスム」のみで確定させるのは不可能だ。つまるところ、ぱて講師が「いわゆるふつうのJポップ」を論じないことは「テマティスム」の持つ脆弱性、あるいは、「何でも言えてしまうが故に何も言うことができない」性を(本人の意図とは無関係に)覆い隠し、批判を予防することに寄与していると言える。

4. コミュニティ

現地での講義に付随する活動として、コンピレーションアルバム作成ちょっとした食事会など、ボーカロイド文化が好きな東大生のためのコミュニティ積極的提供する姿勢をぱて講師は見せている。それ自体マイノリティたる若者鼓舞するという目的からすれば妥当であるが、評論の面ではこれが裏目に出ている。余程肝が据わっていない限り人間は、自分を匿ってくれるコミュニティの発起人の言うことに盾突いたその先を恐れる。発起人自身が何とも思っていなくても、同じコミュニティの仲間から邪険に扱われるかもしれない。仲間が何とも思っていなくても、内なる自分が責め立てる...。こうなれば講義批判するのは難しい(批判したとて有耶無耶に言いくるめられるだけだ、という疑念もあろうが)。「肝を据わらせろ」という主張はマッチョイズムなのでしないが、しかコミュニティ形成するとはそういうことなである

最後に】

 「ボーカロイド音楽論」の講義書籍化されたことは、この講義自身にとって、そしてボカロシーンにとっての大きな一歩であると筆者は考える。内容の巧拙政治的立場はともかく、書籍化されたことによってこの講義は「亡くなったボカロPを悼み、内輪でボカロ曲をべた褒めする会」になってしま未来を脱して、元受講者やボカロ関係者を含む全ての人の衆目に晒され、批判され、検討され、洗練され、時に新たな論を生み出していくことができるようになった。後は実際にそうしていくだけである。筆者よりもっと優れた批判をできる人は多くいるはずなので、後は彼らに託してこのダイアリーの締めとする。

追記:何故もっと批判されるべきなのか】

 強い言葉で言えば、

「『ボーカロイド音楽論』などと大層な看板を出しながら、その実著名な学者の業績を形だけ借り"正しい"思想を添えた類推だらけの持論を『教養』と称し、[『教養』]と[『教養』を並べ立てた個別楽曲評論]を弱い脈絡の下で繋げただけの、部分を詳細に語っただけで全体を語った気になっている、評論と呼ぶべきなのかもわからないものが、まともに批判されずに学生の間や世の中に広まることが許せないから」

である(「まともに批判されずに学生の間や世の中に広まる」という心配杞憂であってほしいが)。

 筆者がこの講義書籍の内容が批判されるべきであると考えている理由は3つあり、これらを以下に簡潔に説明することで追記とする(注あり)。

1. タイトル詐欺:「ボーカロイド音楽論」を名乗りながら、その大部分は個別作品の読解に費やされている上、それらを踏まえて「ボーカロイド音楽とはなにか」をまとめて論じている内容が存在しないこと。

2. 「思考俎上」に載せる「感覚」の選び方の恣意性:本論で述べたように、思考必要なぱて講師感覚があるにも拘わらずそれを思考した形跡が存在しない箇所が見られること。

3. 「思考」の粗雑さ:「感覚」を正当化する目的しか思考」が用いられていないこと。「思考」に用いた「教養」の内容もそれぞれの分野を専攻した読者から見れば的外れものになっていること(注1)。「類推」や「テーマ批評」などのいくらでもこじつけることが可能手法を用いているのに、何故その手法を用いるべきなのか、その手法限界はどこにあるのか、といった説明がされていないこと。

注1:少なくとも一つの例として、筆者が専攻していた生物学に関連した部分を挙げる。リチャード・ドーキンス書籍利己的な遺伝子』に言及した後、「しかしこれらのような個体利他行動も、種や遺伝子主語にすると、自らを温存するための利他行動にすぎない。」(54ページ8-9行目)と段落を結び、その後「性はこのように、種の都合のための機能主義的なプログラムであるという言い方もできるわけです。」(54ページ18-19行目)と主張している。結論から言えば、この言い方はできない。生物学を学んだことがある人物なら絶対にこのような主張はしない。進化の結果としてある個体Aが(同種とは限らない)他個体Bに利他行動をする形質を獲得する条件はあくまで「それが後に個体A自身生存繁殖に有利となる可能性が十分高い」あるいは「個体Aと個体Bで利他行動に関連する遺伝子を共有している」であり、そこに「種」の概念は一切関係しないかである。(遺伝子自然選択対象となり得るのに対して)「種」という概念は観察者が生物を分類する際の線引きのツールであって、自然選択対象として観察可能ものではない以上、「性は種の都合のためのプログラムである」ということを(観察によって)事実として得ることもできない。つまり「種」を全体と見立て個体」を部分と見立てるような類推は成立しない。百歩譲って「利他行動に関連する(種を問わず)同じ遺伝子を持つ全ての個体」を全体とみなす形で類推を成立させるとしても、それは「類推を成立させるためだけに拵えた全体」であることを指摘しておく。

2023-11-13

anond:20231113002852

いいえ含みます

少なくとも例えば「ジャニーズ界隈の民度」と言う記事がバズっていてただの受け手であるジャニーズファンを含まないと思う奴は少数派です

お前がどう思ってもいいけど少数派なので断言されても困ります

2023-11-08

anond:20231108063626

あの鮮明ではない映像で大騒ぎしてたマスコミ受け手はもう少し落ち着くべきというツッコミ真実に依らず正当ではないのか?

変に中立ぶってるけど、そもそも大手マスコミニュースで流れてる以上、ある程度裏は取れてるんだよ。

マスコミは滅多に間違わないから、たまに間違うと大騒ぎになるの。

大した根拠を示せないくせに、信じたくないニュースからマスゴミだの言ってノリで否定してたら、簡単に足元をすくわれたってだけの話だから

しかも今回はマスコミを疑うだけじゃなくて、ニュース対してけしからんって言ってる人らまで、叩き出してるんだからさらにどうしようもない。

anond:20231107134736

草津の件は、例え真実だったとしても初報の段階で一方的な片方だけの意見鵜呑みにして大騒ぎするべきではなかったし、結果的真実でなかったから尚更謝るべきって話よな。罪なき「草津という地名やそこに住む人々」への風評被害を広めたことも同様で。

そもそもの話をすれば真実に依らず当時の一部の人間の姿勢は間違いなんよ。

今回の件に関しても、噴き上がるタイミングはせめて「両者の主張が出揃って真実だと判明した今」であって、あの鮮明ではない映像で大騒ぎしてたマスコミ受け手はもう少し落ち着くべきというツッコミ真実に依らず正当ではないのか?勿論、デマと決めつけた様な発言は明確に間違いで謝罪すべきだが。

から諸々の背景やそもそも問題点を放り投げて全てを一緒くたに雑にミラーリングするこの増田行為も当然間違いだと思う。論点は「デマと決めつけたブコメ」と「口の悪いブコメ」のみに絞るべき。

2023-10-21

anond:20231021094647

こういう、受け手を貶めて間接的に作品を叩く手法、吐くほど嫌い

言う側は自分を「売れてる作品を的確に批評できるワテクシ」に据えられてやっすい万能感に酔えるかも知れんが、

作品を楽しんだ側からすれば、好いた作品ごと雑にレッテル貼られて低俗な枠に押し込まれた気にさせられて、

うるせえわ死ね、という感想しか出てこん

2023-10-16

まらないものでも、楽しみしろを見つけようとすれば楽しめる余地はある。

まらないと思うのは、あなた感性教養が乏しく解像度()が低いからだ。

これってどう違うん?って思う。同じ事象を指してどちらにも言い換えられると思うんだけど。

キューブリック映画がつまらんとか言ったらそういうのがウジャウジャ湧きそう。

あの作品面白いと思えないのは、鑑賞リテラシーが低くどこに注目して観れば分からいからだ、とか。この映画の話はただの例えで、他の物事でも色々と。

まあ自分も好きなものが軽く扱われた(ように感じたら)そういう言葉が喉元までせりあがるかもしれない。私は社会性があるのでグッと堪えますけど、世の中失禁してしまう人の多いこと。

なんちゃらの影響がどうこうでどこそこが革新的でこういう特色が云々、みたいなどっかで仕入れたような受け売り諳んじる

どう感じるかの話をしているのに歴史の話を持ち出すのアスペでしょ。

受け手感性がとか言い出したら、じゃあ大怪獣のあとしまつがつまらないという人も全員感性が乏しいって事になりますね。

そうでないなら、オレの好きなものが嫌いな奴は感性が乏しい。オレの嫌いなものが嫌いな奴は正しい。その対象がつまらない。言ってることそういう事になりますからね。「教養」さえあればいくらでも楽しみしろは探せるはずなんだから

まあ教養主義というか権威主義というか本質主義丸出しな……どのような信仰をお持ちでも結構なんですけど、それをグイグイ押し付けられるのは甚だ鬱陶しいという自覚くらいはあって欲しいね

2023-10-14

どれそれがつまらんと言う人がいれば、教養が足りない。歴史を学べ。想像を膨らませろ。オマエは感性が乏しい。って吐き捨てに行く人がいる。インターネットでよく見かける。

全方位を貶す2ch脳みたいな奴もウザいけど、こういう連中もアレだなって思う。

言わんとしてる事は分かるけど。物事に楽しみしろ見出していけば人生割と楽しいけど、ただ偶然の出会いに身を任せて受け身でいるだけじゃそこまで面白くはないし。

ただ何を面白く感じるかは各々が決めればいいことだし、つまらないと思う気持ちは楽しむ気持ち等価だとも思う。

これを面白いと思えないオマエが間違ってる、みたいなのは余計なお世話だよなって。一般的感覚と照らし合わせるとズレてるかもね、くらいのことはあるかもしれんけど。

それがつまらないんじゃなくて、お前がつまらないだけ。みたいな事を言う人は多分に本質主義教養主義、権威主義的な考えを持ってる気がする。

情報無しに受け身でも楽しめるようなゲームエンタメ全振り映画よりも、知識コンパス言葉の先を行く表現物を鑑賞したり、自分の考えなり価値観なりを挟んだり照らし合わせる余地のあるモノを楽しむ方が素晴らしい、より優れた人生体験である、みたいな価値観が前提に置かれてる感じ。

まあ各々の中でそう思うのは勝手だけど。おれもそういう物事の方が生きている意義を感じられるし、自分という存在を確かにできる感じがする。でも別にそれがこの世界に用意された正解という訳ではない。

極端な話をすれば、じゃあその豊かな感性想像力、知識でもってしてその辺の石ころでも眺めながら一生諸行無常宇宙歴史にでも思い出を馳せてれば?そういう身近な喜びを無視して、わざわざ人の作った芸術作品なりで分かりやすく楽しみを得る事も受け手がショボいって事になるんじゃないですか?でもそうではないでしょ。見る側がつまらないとか言い出すと、突き詰めるとそういう事になってくると思う。

人が人を楽しませるために、相互的なものとして作り出した作品無為存在する自然物とではまた話が違うんだけど。でも説教マンって多分グランドキャニオン見たけどつまらなかった、みたいな人がいれば多分知識想像力がとか言い出すんじゃないかな。知らんけど。

2023-10-10

新海誠の好きなところと微妙なところについて書く

あんまり映画を観る方じゃないけれどね。

ほしのこえ

記憶は定かではないが、おそらくこれが最初に見た新海アニメ

大学在学中はSFに飢えていて、「AKIRA」とか「エヴァンゲリオン」とかを観ていたのだけれど、「ラーゼフォン」にはハマることができなかった。問題は長さなのではないかと思い、26話も見る必要のない映画を手に取った。

この作品が好きだったのは、クラークイーガンが好きだった自分が求めている、別の惑星風景描写があったことだ。僕が映像作品評価するのは、どれくらい思いがけない風景を見せてくれるかだ。火星の大地や、木星イオあいだにかかる雷の橋が美しかった。ヒロインから携帯メールにも確かクラークへの言及があった。

また、日常の美しさを切り取った言葉を、詩のようにつなげていくアニメを見たのは初めてで、そこも新鮮だった。

敵方宇宙人が、鏡像となって話しかけてくるところなど、露骨エヴァの影響を受けているし、詩的な文章村上春樹フォロワーに過ぎないと感じはしたものの、この監督作品もっと見てみたいと感じた。

「僕と彼女の猫」は忘れてしまった。珍しく自分好意を寄せている女性視点失恋の話だった気がする。

雲のむこう、約束の場所

僕が好きな要素がとにかく詰まっていた。架空歴史知的早熟だけれども情緒的には年相応の少年少女、そして天にそびえる真っ直ぐな塔。東京からも見える北海道メガストラクチャーという、自分想像力はるかに超えた世界を見ることができた。

もちろん、欠点もあった。ヒロイン・佐由理を救うか世界を救うか決断を迫られる主人公・浩紀は、セカイ系典型例に感じられて冷めてしまったし、あと、これは前にも書いたのだけれど主人公のやっていることはテロリズム肯定だ。

テロ組織名前も、北海道を手に入れるためなのにアイヌ解放戦線じゃなくて、サハリン樺太先住民族ウィルタ解放戦線だ。ヒロイン祖父名前キノエはアイヌ系の名前だが、そこには一切触れられないし、朝鮮半島のように南北に別れた家族悲劇は、ごくわずしか触れられず、プロットには絡んでこない。つまるところ、政治は装飾でしかない。いいのか。

にもかかわらず、この作品を好きになってしまった。アニメで精密に描かれた東京景色は、当時の僕の生活圏とかぶっていた。自分の暮らす世界彩度を高めた景色は、ぐずぐずとした感傷に僕を引き込んだ。何にもでもなれると、まだかろうじて思い込めていた頃だった。

そして、テーマ曲があまりにも切なく、これがずっと頭の中で流れ続けていた。過剰なまでに作中で繰り返され、露骨でさえある。しかし、悔しいけれども切ない気持ちになるのをやめられなかった。ラストで虚無に飲まれ北海道の美しさで息をのんだ。

自分青春に満足できていなかった僕は、この甘ったるいテーマ曲映画呪縛されていた。批判しつつも、フィルムブックとノベライズを買ってしまうほどだった。これが感傷マゾなのか。

秒速5センチメートル

退屈さを感じる場面や、冗長な個所もあった。でも、日常風景を美しい色合いで描くアニメを他に知らなかった。第2話冒頭の、貴樹が空想する巨大ガス惑星が空にかかった惑星風景は、僕が創作していたSF小説舞台として何度も用いた。

そして、第3話で流れた「One more time, One more chance」ですべてを持っていかれた。ヒロイン・明里と結ばれないラストを見て「そうなんだよ! これこそが人生なんだよ! はっはっは!」と快哉を叫んだ。「鬱エンドだ」「悲しい」と言っている連中を笑っていた。なんてこじらせた大学生だったんだ。これもノベライズを買った。

振り返ってみれば、主人公はいつまでも明里の幻影に惑わされており、サーフィン少女・花苗の気持ちちゃんと向き合っていない。独り身の期間が長かった自分は「応えてやれよ!」とあとになって思ったものだった。そりゃあ、思春期から初めての感情ばかりで、あまりにも未熟で、だから人間関係で目も当てられないような失敗を繰り返すんだけれど、「結局お前モテてんじゃん!」と怒りが湧いた。

後に、貴樹をはじめとした新海アニメ主人公たちはどうやって童貞卒業したのかな、夜のお店かな、などと根拠のまったくない最低な空想をするようになってしまった。自分がそうだったからって投影するなよ。

星を追う子ども

激しくツッコミを入れながら観た作品

統一感のない固有名詞(※僕はファンタジー名前を付ける際には一貫性必要だと信じている。だからアルカンジェリ、ケツァルトル、シャクナ・ヴィマーナと複数言語から安易に引っ張ってくるのを良しとしないし、文法的に怪しいヴィータクアやフィニステラという語も納得できない)、ジブリの表層だけをなぞったような描写主人公明日菜が地上世界と地下世界の両方の血を引いているという重大な設定が劇中ではほとんど描写されないなど、自分が気に食わなかった点は多数あるが、最大の問題点は悪役の森崎(ムスカ揶揄される)のサブプロットのほうが面白く、新海誠思い入れを持っているように感じてしまったところだ。

愛するもの喪失を受容せず(子の喪失ってキーワード村上春樹フォロワーっぽい)、代理品や依り代を求め、神々なり悪魔なりと契約する姿は碇ゲンドウともかぶり、なんにせよ強烈なキャラで、明日菜を食ってしまっている。いっそ明日菜いらなくないか

冥界をめぐり、禁断の知識の代償として盲目になるのは神話的でちょっと良かったけどね。

この頃から、新海アニメを僕はさら批判的に見るようになる。

しかし、作者の意図性癖が透けて見えるというのは一方的に親しみを感じる契機でもある。不完全にゆえに見透かせるものがあり、理解者になれたと錯覚できてしまい、結果的作品を愛してしまうことがある(※これは新人賞を取った作品を読むときもそうなんだけど、「作者はこういうことをやりたいんだろうな。なら、ここをこうすればもっとよくなるだろうな」と考えつつ読むことが多い。創作をしていた人にありがちなことなのかな?)。

言の葉の庭

言いたいことはたくさんある。

けれども、最大の欠点は「何でもかんでも台詞説明してしまうこと」だ。

最後タカオとユキノが見つめあう場面で、高まった気持ちをぶちまけるのだけれど、音楽映像がうるさいなので、台詞なんていらない。

海監督は文章を書く能力はあるのは認めるけれども、「説明小説でやれ」と感じる。「なんでも説明するのをやめてくれ、映画受け手を見くびるな」とも感じた。

そして、鮮やかな色彩がわざとらしく感じられ、反発を覚え始めた。

ただ、この頃から日本古典を扱いだしたのは嬉しい。ささやか愛国心が満たされる。

僕は海外文学が好きなので、逆に外国の人に日本の詩を知ってほしい。

君の名は」「天気の子

観ていない。

言の葉の庭」の一件もあったが、ハッピーエンドになったということを聞いて、寝取られ性癖(というかBSS、「僕が先に好きだったのに」?)を抑える優秀なプロデューサーがついたんだな、とシニカルに考えていた。売れるようになった、大ヒットを飛ばすようになったとも耳にして、新海誠自分からどんどん離れて行ったように感じた。そして、もう二度と新海アニメを見ることはないだろうと思った。友人や尊敬するSF作家が見ていると聞いても、耳を塞いでいた。

君の名は」の予告の「スカート注意、男子目線!」といったセリフにも、新海誠性癖が透けてみるのだけれど、徐々に作者のあけすけな欲望に対して嫌悪を感じるようになっていた。

これは男子出身の僕がそうだからかもしれないけれども、僕には、男性監督女子高生をじろじろ見て偏愛していると気づくと、鬼の首を取ったかのように指摘してやりたくなる悪癖がある。岩井俊二映画を観たときもそうだし、「ラストレター」を観たときは「俺を振った女は不幸になればいい」という怨念を感じた。庵野秀明俳優やってたのはめっちゃ面白かったけどね。

「すずめの戸締まり

ある女性が新海アニメが好きで、じゃあ一緒に見に行こうということになった。ただし、彼女が好きだったのは「君の名は」以降だった。

「お手並み拝見」と思いながら(なんだかんだで楽しみにしていた一方、不安でもあった)観てみると、極めてまっとうな少女の成長映画になっていて驚いた。

被災者のすずめが「死ぬのなんて怖くない」と言っていたのが、逆に震災記憶と向き合い、心底死を恐怖し、逆に生きる実感を取り戻す構成が素晴らしかった。自分を助けに来た謎の女性自分自身だったってのも良かった。周囲の支援必要なのはもちろんだけれども、傷付いた自分を癒すためには、どこかで自分の力を信じて自分の足で立ち上がらないといけないのだ。

ロードムービーとしても優秀だし、周囲の人々が善意にあふれてすずめに手を差し伸べてくれたのも、叔母の環が思わず激高して負の感情をぶちまけるシーンのための溜めだと感じ、よく計算された素晴らしい脚本だと感じた。

今まで肯定的だった(あるいはマスコットしかなかった)猫が、ダイジンという善悪不明存在になったのも面白い。

今まで別の災害という形で間接的に東日本大震災を扱ったと聞いていたが、正面から向き合ったのはとても立派だ。このタイミングでなければできなかっただろう。

恋愛要素を薄めたのも大正解。「シン・エヴァ」を観たときみたいに、「監督大人になったんだな」と感じた。

それでも無念な個所はある。人口希薄になった土地を神々に返すというモチーフと、地震を封じる要石というモチーフが、完全に噛み合っているわけではない(人口が減少している時代から出てきた発想では? なぜそこから厄災が漏れ出る?)。少しぶれている。また、震災は人力で防げる、つまり東日本大震災は防げた、という誤った読解を誘発しかねない面もある。

あとは、震災描写リアルだし、緊急地震速報が頻繁に鳴るので、観ていてずきずきと頭が痛み、かなり気分が悪くなった(御茶ノ水近辺も学生時代生活圏内だったし)。昔は「アルマゲドン」みたいなパニック映画大都市がぶっ飛ばされるのを見たり、「地球大進化」の大隕石地殻津波が起きて日本列島が引き裂かれるのを見て気分爽快になっていたのだが、ある時点で感受性が「まっとう」になってしまったらしい。

ところで、この作品村上春樹かえるくん、東京を救う」のオマージュだとよく言われるけれども、「海辺のカフカ」のパロディも仕組まれている。東北まで中古車ドライブする芹澤青年が車内で流すのが「夢の中へ」だが、「海辺のカフカ」でも星野青年が何を探しているのかもわからない中田老人を連れて車で高松ドライブしながら、「探し物は何ですか~」と口ずさむのだ。誰か気づいてないかな。

そのくせ、村上春樹オマージュにとどめ、影響下からは完全に脱しているように感じた。

疑問点。すずめの三本足の椅子過去自分に手渡されたことで、時間の輪っかをめぐっていないか? 

その他

どの作品かは伏せるが、主人公が僕の名前と同じで、ヒロインから名前を呼ばれるたびに恥ずかしいくらいに動揺してしまった。

当時流行っていたラブプラスをやっていたら、おそらく引き返せないことになっていただろう。

あと、「すずめの戸締まり」に関するウェブ記事で、新海監督が#MeTooのこともあるしパンチラを封じたと聞いて、機を見るに敏だなと感じ、何となく気に食わなかった。正しい判断だと思ったけど、商業性に屈したようにも感じたのだ。正確には、「雲のむこう~」みたいに政治的を雰囲気に使うのをやめたのが、なんとなくタイミングが上手すぎて、逃げ足の早さを感じるのだ。

でも、とっくに青春コンプレックスこじらせオタク向けクリエイターから国民監督に変わってしまったのだ。寂しい。あんなこじらせた作品を書くのに既婚者なのも納得できない時期があった。

まとめ

こういったことを、友人に対してつらつら語っていたら、「それはお前、もう立派なアンチだよ」と指摘された。「アンチじゃない、愛情と憎しみの両方を持っているだけだ。複雑な感情をも抱えているんだよ」と反論すると、「お前が複雑な感情を抱えていない対象なんてあるのか」と笑われた。ひどくない?

これだけ複雑な感情を抱えているので、「君の名は」「天気の子」を見るのがずっと延期になっている。諸般の事情ラブコメ苦手だし。

2023-10-06

オタクからこそ女の子をまもります宣言

https://web.archive.org/web/20041230202724/http://yellow.ribbon.to/~aka7/savegirls.htm

<「オタクからこそ女の子をまもります宣言> (04/03/13)

* *

群馬県高崎市の小1女児殺害事件ですが、残念なことに、幼女を手にかけた男は、オタクでした。

こうした事件が起きると、

 「ああ、またオタクに対する風当たりが強くなるな」

と気が気でないのですが、一方で私に言わせれば、

 「あのような男はオタの風上にも置けぬ」

といった具合です。

私の妹などは、この種の犯罪が起きるにつけ

 「きっとオタクは、大人の女性が怖いんだね。だから幼女に手を出すんだね」

と、結構厳しいコメントをサックリと突き刺してくれますが、実際にこのような事件が起きてしまうと、私の必死反論も、やや精彩さを欠くというものです。

今回のように、ひとたびオタクが何かをしでかすと、マスコミはこぞってオタク興味本位で取り上げ、結論としては

 「キモ~い」

というあたりに落ち着くわけですが、これについては、今さら何を言う気もありません。

オタクが何を考え、何をしているのか。

このことを、今まで一般人は知ろうとしなかったし、オタクも伝えようとしませんでした。

からないものに対して、得体の知れない恐怖を感じるのも、もっともな話だと思います

落ち着いて考えれば、犯人オタクだったからといって、オタクがみな犯罪者のように扱われるのは、論理的おかしいことです。

しかし、世間の大半は真実よりも「分かりやす結論」を求めているのが実情。

警察官はみな不正をしている」

中国人留学生はみなピッキングをしている」

イスラム教徒はみなテロリストだ」

といったような誤った認識と同様、

オタクはみなロリコンで、道行く幼女を狙っている」

のごときイメージ付けをしているのは、なにもマスコミけが悪いのではなく、何をおいても受け手大衆が「分かりやすさ」を求めているからに他なりません。

彼らに対して、いかオタクが無害な存在か主張したところで、おそらく聞く耳を持たないでしょう。

私が上述のような、やや諦観いたことを述べたのも、そういった次第です。

以下略

2023-10-02

社会人サークル内での女→男のセクハラ問題

とある社会人サークルで、副代表をつとめている。

男女5:5くらいのサークルである

社会人サークルなので、年代は幅広い。2040歳の男女である

 

サークルには、酒癖の悪いアラサー女性がいる。

酒の席で男性メンバーベタベタ触るのである

それも、肩に触れたり膝に触れたりなんてものではない。

顔(口や鼻、頬)に触れたり、腕を組んだりするのである

直見苦しいは見苦しいのだが、まあ女→男であるし、被害を受けた男性メンバーから不快という声はないので、これまで看過してきた。

 

そして最近

別の女性メンバーからセクハラの苦情が合った。

飲み会の席で、とある男性メンバーから肩に触れられたり、話す距離が近すぎることがあった。不快であるから幹部から何かしら注意をしてほしいとのこと。

それはいけない。いくらサークル活動とはいえど、セクハラはあってはならない。

 

当該の男性メンバーを呼び出し、個別指導し、サークル規約に則って誓約書サインを求めた。

今後このようなことが必ずないように。

誓約書の内容は、次があったらブラックリスト名簿に入れて、サークルとの関わりを断絶することを記している。

 

すると、当該の男性メンバーは、女性メンバーへの身体接触があったこ自体は認めたものの、不服な部分があったらしい。

アラサー女性過激セクハラがつね日頃看過されているのに、自分のことだけ指導されるのは不服。アラサー女性にも指導があるべき。」

幹部側としては、

接触行為セクハラであるか否かについては、セクハラを受けた本人がどう感じたか依存する。アラサー女性接触行為に関しては、被害の報告がないため、指導にあたらない。」

という回答を出した。

 

そんな会話をしながら、

アラサー女性の「セクハラになりうる接触行為」を看過している事自体が、「セクハラとなりうる行為」そのもの助長する環境の温床になってしまっているのかもしれないなあ…なんてことを思った。

また、サークル規約ブラックリストにかんするルールで、セクハラの扱いが、「された人がいやだったかどうか」というフワっとしたものであるのも、ちょっと良くないんかな…と思った。

セクハラとなりうる行為」の具体的な内容は、アラサー女性接触行為のほうがよほど悪質であるのは確かだな…と。

 

明確な悪意というか、害意がなかったのは、アラサー女性も、当該男性も、同じだと思うんだ。

酔っ払った席で行き過ぎてしまっただけ。

それで被害者が生まれるか生まれいかは、受け手次第。

性差があるから、仕方ないことなのか?

それとも、同意が無い接触行為に関しては、被害者の感情に寄ること無くすべからく平等に裁けるルールであるべきなのか?

 

難しいぜ。

2023-09-29

今さだらけれどセンスない認定されたSF作品を弁護したい

三大「好きなSFで挙げられたらセンスない認定する作品」

時機を逸したけど。

星を継ぐもの

かっちりとしたロジック物語を進めているから好き。

最近SFも割と好きで、それこそ伊藤計劃みたいに現実社会問題を扱う作品のおかげで「社会学社会学SFなんてつまんない」って気持ちをひっくり返してくれたし、最近キャラクターかわいいSFが多いんだけど、古典SFキャラ社会問題よりも、核にある純粋論理を重んじる姿勢はやっぱり時折読み返したくなる(僕の友人はダンチェッカーツンデレかわいいとか言ってるけど、それはさておいて)。

かにこの作品というかシリーズには欠点もあって、特に第3作は陰謀論っぽくてあまりきじゃないし(人類の愚かさを人類以外のせいにするのはダサいってのが僕の感覚)、ホーガンは途中でトンデモ宇宙論にハマっちゃうんだけど、ロジカル作品世界が僕はとにかく好き。

たったひとつの冴えたやりかた

かにこの作品ベストじゃないけど、やっぱりティプトリージュニアは好きだ。「愛は定め、定めは死」がお気に入り

ある編集者が「最近SFはつまらん、男らしい作品を書くのはティプトリージュニアくらいだ!」と嘆いていたら実は女性だったって結構笑える。

古い作品って、いろんな作品元ネタになったりしているから、ダサいと考えるよりも、そこから派生した作品をそっと差し出すと、この作品が好きだって言った人にも喜んでもらえるんじゃないかな? もしかしたら派生作品も含めて好きといったのかもしれない。

インターステラー

ノーランだったら「TENET」のほうが確かにSF度が高くて好き。背景の地球の滅亡の理由もよくわからないし、何となく宇宙に行かずに大地に縛り付けられた農家バカにしているところあるし。SF設定がザルな個所もかなりあるのは認めないといけない。でも、SF映画の場合リアリティレベル小説と同水準に持っていくのは無理があるし、科学的な論理で驚かせるのは小説のほうが向いている。時間旅行SFでは感傷的にして泣かせてなんぼでしょう。そりゃあSF慣れしてたらこ伏線だろうなとか最後は年齢差で泣かせる気だなとか読めちゃうけど、それが作者が悪いというより僕ら受け手スレてるんじゃないかって疑うべき。

僕はSF映画に関しては科学的正確さよりも、どれだけ絵になる風景が出てくるかと、作中の機械装置デザインがどれ程優れているか評価している。

それにロボットかわいいじゃん。加速する宇宙船の中であんな角張ったロボット危ないに決まってるけど、人間離れした姿に善意を持つロボット萌え

基本的に僕は加点評価方針、そうじゃないとSFに限らず古い作品って読めなくない? 実際、創作してみると科学的厳密性とキャラ立てとわかりやすさとその他色々、トレードオフ関係にあって、理想作品って滅多に会えるもんじゃないってわかる。

最後にして最初アイドル

「暗黒声優」とか面白かったじゃない。作中でエーテル存在するとしたらどのような物理学現実のものになるかを、虹色に輝く地球の表面として美しく描写してくれている。

手塚治虫関連

好きなんだけどなあ、手塚治虫SF短編。確かに今読み返すと、当時は最先端だったけど今は陳腐化したネタとか、科学的正確さがいいかげんなのはあるんだけど、それでもつまんないSF映画よりもずっと面白い。ストーリーの語り方・盛り上げ方がすごい。話が面白いと、すでに否定された科学理論に基づいた話でも読みごたえがある。

というかどんなジャンルも書けて、しかも常に一定以上のレベル作品を出力していた手塚治虫って化け物だよ。創作しててそう思ったよ。

関係ないけど「W3」のプッコ中尉ドタバタドナルドダックに似てるし、星真一の父ってディズニーピノキオのゼペットじいさんに似てる。

横浜駅SF

作者が弐瓶勉椎名誠が好きなのがひしひしと伝わってきて楽しい

あと、この人は一発屋ではなくて、「人間たちの話」だとかいろいろSF短編集を書いてて、とくにこの表題作を読んで「この人こんなウェットなストーリーも書けるんだ」ってすっごく驚いた。ひょいひょいとアイディアがわいてきて、それをスマート調理するもんだから、頭が良くていけ好かないと感じていたんだけど、この一作で評価が変わった。

沈黙リトルボーイ」って短編原爆SFとしてオススメ。宮西健礼「もしもぼくらが生まれていたら」と一緒に読むと楽しい

「猫のゆりかご」

タイタンの妖女」や「スローターハウス5」のほうが好きなんだけど、最初に読んだので思い出深い。村上春樹の初期の短編とかブローティガンとか好きだし。

まりにも悲惨現実を相対化するのは、一歩間違えば現実逃避の冷笑主義になるんだけれど、狂気世界を別の狂気批判する方に踏みとどまっているから好き。

以上。ごめん、アニメはあまり見てなかった。

気が向いたら「三体」の好きなところとツッコミを入れたいところについても書くかも。

2023-09-21

anond:20230921143145

評論家とか雑誌で点数つけるやつとかをすべて否定してるな

受け手がどう判断するかが一番重要なのに、その仕事に携わって実績ないという資格なしマンって定期的にわくけど

ハエかなんかなの?

2023-09-20

anond:20230920195927

これ元増田は「伝わってるのに」って書いてるから違わないか

それに、訂正をするということは「ふいんき」という発音で「雰囲気」のことだと伝わっている

XをTwitterと訂正するということは、Twitterを指して言っていると伝わっている

増田の言う「自分脳内の変換」にリソース割かれるのが許せないタイプなんだと思う

受け手側に「ふんいきじゃないと許せない」「Xじゃないと許せない」という不寛容があるんじゃないか

2023-09-19

anond:20230919115942

受け手側の言い分が罪かどうかの判断になる時点で〇〇ハラすげえ概念だなと思うよ

キムタク全盛期はキムタクセクハラ存在しない説があったからなあ

2023-09-05

Web3ヤーたちはどう生きるか

Not Financial Advice。個人的メモ、現状の文字起こしと雑な未来予想。自分Web3ヤーとして整理したかった。

ビットコイナーが望まない形でBTCがATHを迎えるシナリオ

根源的にビットコインは規制禁止することはできないので、できるところから規制されるトレンドは今後も続くだろう。目下、短期ナラティブETF承認であるAML/CFT観点ビットコイ現物流通はなるべく制限したい規制当局側と、ビットコインのエクスポージャーが欲しいだけの大多数の投資家の思惑の両方が、現物ETF承認という形で結実するのである。その後、ビットコイETFが高い流動性を持つようになれば、既存金融機関ビットコイETF担保にした金融サービス派生金融商品を展開できるようになる。

また、大手マイニングプールと、(すでにマイニングプール株主となっている)ETF取扱金融機関提携する未来もありえるだろう。例えばマイニング収益プール参加者ウォレットアドレスに引き出されることはなくなり、プール参加者証券口座ETF残高として入金されるようになる。これはプール参加者規制当局どちらにも利点がある。プール参加者にとっては、ブロックチェーン手数料秘密鍵保管といったブロックチェーン特有リスクを負わなくて済むし、ビットコイETFを通して既存金融多種多様流動性へ容易にアクセスできるようになることも喜ばしい。規制当局にとっても、本質的規制できないマイナーとBTC現物が切り離されることは喜ばしく、win-winなのだ。すでに大手マイニングプールマイナーにKYCを求めているので、マイナー分散思想よりも規制された安定を選んでいる。マイナー投資家保護環境の整ったETFに乗り換えるのは合理的選択なのだ

ビットコイナーの思想とは相反するものの、市場原理とは相反しない力が優勢となって働くことで、ビットコインはATHを迎えるのである

少数マイナーの寡占は問題か?

先日Twitter話題になっていたので急遽追加する。

マイニングプールが結託して51%攻撃を起こすことは、マイニングプールにとっても合理的ではないので、少数マイナーの寡占状態が直接的にビットコインを破壊に導くとは考えにくい。しかし、大きな金額を動かさないといけない巨大プール既存金融保護されざるを得ず、規制圧力に対しては脆い。同じ51%でも1 ✕ 51よりも25+26の方がCensorship ResistanceやOpennessといったブロックチェーンの本源的な価値は損なわれやすい。なのでマイナーに寡占が起こることを問題視しないのも間違いである。

ツイートの人の反論もあるので一応参考程度に

https://x.com/nook_ethereum/status/1696476655475171759

仮の話だが、完全に当局規制を受けてコーポレートが牛耳る、本源的な価値を失ったビットコインが、too big to failな状態ゾンビ化した時どう振る舞うのだろうか?そのタイミング古参クジラ離脱して一時的に売り圧が発生する気もするが、そのままトリクルダウンとなるほどのトリガーかというと分からない。これはビットコインに使われる暗号の危殆化などのリスクと一緒で、起こるまで想像ができない。そのフェーズP2P電子決済システムビットコインという壮大な社会実験重要ハイライトになるに違いない。

Drivechain

ビットコインのブロックスペースを使って、レイヤー2上で好きなブロックチェーンを誰でも立てられるようにする新機能。まだ提案段階の機能だが、賛否両論を招き、界隈を真っ二つにしている。

https://www.drivechain.info/

ちょっと前に流行ったStacksの仕組みと異なり、BTCを子チェーンにオプトインするような仕組みも備える。もちろんオプトアウトもできる。

ただし、Drivechainが認められると、ビットコインのスケーラビティを向上させるソリューションとしてのLightningネットワークの意義がかなり失われる。Lightningは”P2Pで”高速決済したい人が使うための機能という、かなり思想が強い人向けの錆びついた技術になり得る。

Drivechainの提案自体は昔からあったが、最近になって流行り出したのは単なるナラティブ作りであろう。ordinalsやStacksもそうだが、新しい技術はそれだけで盛り上がりやすい。ordinalsの場合だと、昔から追っていた人は、自分が優位でいられる情報非対称的な時期に、短期で出口流動性イナゴ養分)をたくさん集めて、たんまり儲けて売り抜けることができた。

ちょうどBitcoin, not Cryptoな時期で、Drivechainのような特大アップデートがあればナラティブとしては強力だ。しかし、だからこそ、どうしてもDrivechain利権存在を勘繰ってしまう。Lightning利権とも対立しそうだ。

Lightningはビットコインにマルチシグだけあればできる機能だが、Drivechainはソフトフォークとは言え、これだけのために新規のオプコードメッセージの追加など、開発リソースをかなり費やす大幅なアップデートなので非常に図々しい。ソフトフォークをexcuseにすればなんでもありだと言うわけではない。

今更dAppsが走るサイドチェーンを作っても、Ethereumで起きているようなゴタゴタをビットコインに持ち込むだけで、Bitcoin, not Crypto神話を汚すだけになるだろう。

DeFiはDaFi(Dark Finance闇金融)へ

実質管理者のいるDeFi規制煽りを受けて存続は難しくなっていくだろう。ハッキングインサイダー、スキャム(詐欺)、ラグプル(持ち逃げ)から投資家保護できないファイナンスは、たとえゲイリーゲンスラーSEC長官を退任したとしても長期的には必ず規制対象になる。また、そうはならなくとも投資家の方から勝手離脱していく。

しかしながら、オフショア規制の及ばないチェーンを舞台に、リスクを恐れない投機家の間でDaFi(Dark Finance闇金融)に転じたDeFiがしぶとく生き残るのはどうしようもない。

ただ、そのようなDeFiはもう社会生活金融インフラになることはないだろう。結果的に今のDeFiはDaFiかCeFiに分岐していく。

CeFiの意義

CeFiという語彙は以下のツイートから使わせてもらった。ブロックチェーンを使っているが、規制もされている金融サービスくらいの意味だ。

https://x.com/kimurayu45z/status/1695988782871498898?s=46

ブロックチェーン上の金融サービス規制をかける場合、どのようなものになるだろう。まずCeFi事業者に対する当局による管轄投資家のKYCは必須になる。そうなってくるとブロックチェーンでやる必要はあるのかいよいよ分からなくなってくる。かの有名なWhy Blockchain?の声がまた聞こえてくるのだ。

少なくとも、トークンガバナンスするような機能プロトコルに組み込む必然性はなくなり、ガバナンストークンは株や証券に近いものになっていく。また、仮にアプリケーションどころかL1チェーン自体規制されれば、PoSなどのトークンベースコンセンサスアルゴリズムはもはや茶番になる。

ユーザー目線でも、KYC済みのアドレススマートコントラクト登録してまで、入札や取引したい投資家がどれくらいいるのか今のところ分からない。

もしもかつてのDeFiバブル違法事業者非合法的な取引で盛り上がっていただけの幻想だった場合、KYC後のクリーンなCeFiにどのような実需があるのだろうか。

MEVは重い問題

MEVというのは、ブロック生成者が承認前のブロック内の取引を盗み見れることをいいことに、他人取引を先取りしたり、順序を利己的に入れ替えることが可能である性質から生じる、ブロック生成者が独占できる収益源泉のことである

筆者は以下の記事勉強させてもらった。

https://keccak255.substack.com/p/mev

https://mirror.xyz/0x95d7660ceb04b402fdBAf112a8278980335616d4/aDB1Zh4ybztR3DJsY1pgoK8h63wH05PlOMOEj0zvL3U

MEVがあるせいで、ブロック成行為が中央集権化しやすくなったり、ユーザーサービス体験が低下したりするため、dAppsが動くブロックチェーンにおいては重要課題だ。

もちろん技術的に解決するSuaveのようなソリューション提案されているのだが、分散化にメドがたっているわけではない。また、問題が外部化するだけで本質的解決にはなっていないのではと思う。

Suaveについて参考までに

https://writings.flashbots.net/mevm-suave-centauri-and-beyond

また、MEV利権がすでに巨大化している政治的事情もあり、問題はかなり複雑化している。このように込み入った問題を、さまざまなステークホルダーの思惑が入り混じる、非効率的分散ガバナンス解決するのは前途多難と言わざるを得ない。

チェーンのTVLが巨大化し、RWA(real world assets)などのMEVファクターがチェーンのエコシステムの隅々まで組み込まれれば、MEVがもたらすマイナス・サムの影響はユーザーにも感じ取れるくらい甚大なものとなるだろう。さらに、可視化できないリスクを嫌う大手投資家の参入を阻むことにもつながる。

そうなったときパブリックブロックチェーンの夢は雲散霧消するか、中央集権正当化された世界でregulatedなブロックチェーンが生き残っていくかのどちらかになる。

DeFi社会限界

一旦DaFiやCeFi、MEVのことは忘れて、全てが解決して、DeFiがそのままメインストリームになった社会を想定してみる。そこで注目したいのは、チェーンに閉じたDeFiでは信用創造ができず、分散型ステーブルコインなどの場合は常にover-collateralized(過剰担保)させなければならない点だ。つまりロックされた資本以上の価値市場に再投資されない。原資本は再投資のたびに指数関数的に薄まっていく構造になってしまうのだ。

そのような先細りの金融インフラの上に展開される資本主義及び自由市場経済社会が、規制された金融に基づいた現状の社会よりも、高い資本効率経済成長率を達成できるのかは甚だ疑問である

一昨年のDeFiバブルの正体が、USDTなどの法定通貨担保型のステーブルコインがチェーン外から流入することで起こったに過ぎなかったのだとすれば、DeFi世界はCe要素なしには拡大できないということになる。実際、USDT、USDCなどの法定通貨担保型のステーブルコインの時価総額無視できないほどに巨大だ。そういった規制アセット流入なしにはリターンが期待できない構造的欠陥がある限り、DeFi規制を拒んで信用収縮の道を選ぶか、信用創造のために規制を受け入れてCeFi化していくしかない。

ブロックチェーンイノベーションなのか?

分散自己主権といったブロックチェーン思想を全く気にしない大多数のユーザー目線で見ても、国際送金や金融取引が瞬時に透明性高く行えるブロックチェーンが便利なのは間違いない。しかし、それは既存金融サービス規制というかなり重いハンデを付けられた状態で戦ってくれているからそう見えるだけで、ブロックチェーンという技術自体イノベーションからではないのではないか?つまり、仮に規制の側が妥協して、金融業界リバタリアン並みの自由化を勝ち取った時、ブロックチェーンは、例えばApple銀行のような大規模なWebインフラを使った金融サービス技術として勝てるのだろうか?

もしも、ポンジスキームやスキャムであることが明らかなミームトークン、発行主体を名指しできるXRPや、ガバナンストークン全般が、規制されない(もしくは証券ではない)と判決された場合Apple銀行プログラマブルトークン発行プラットフォームを立ち上げればブロックチェーン競争に負けてしまうのではないか?秒間取引処理数が少なくて、手数料も高く、ウォレットも使いにくいブロックチェーンの優位性はどこにあるのだろう?

とはいえ実際に既存金融が完全自由化することはありえない。あり得るのは、既存金融業界ブロックチェーン業界が融合していく中で、その両極からの声を取り入れながら、長期的には両者の境界線が最も曖昧となるような規制環境が整備されていくシナリオだ。それはトークン証券化かもしれないし、証券という概念が古くなるような全く違う新しい法概念規制フレームワーク誕生かもしれない。そうなったとき果たしてブロックチェーン技術市場競争力を持つのかは、改めて問われなければならない。使いやすさより分散思想を優先するユーザーなんて殆どいないはずだ。

日本海外Web3コミュニティ

日本Web3界隈は、昔から霞ヶ関巡回する界隈と海外組の界隈に二分されていたが、最近海外からの出戻り組が増えてきたように思える。かつてJapan色がなかったAstarが最近Japanを押し出すことが増えてきたので、これも出戻り組と言えるだろう。京都で開催されたIVS Cryptoでは、かつての海外組が、今後は日本にもコミットしていくしたたか姿勢も見せていた。

Astarが政府機関やJTCと手を取り合って、提携関係や共同研究関係を結び始めたときは、何をしているんだと正直思っていた。しかし、当時から規制側に歩み寄らなければブロックチェーンは存続できないと読んでいたのか、単なる嘘から出た誠なのか、こうなった今では一定妥当性が理解できる。

とはいえ規制と近づきすぎるとパブリックブロックチェーン特性邪魔するはずなので、その擦り合わせは茨の道だろう。Why Blockchainの最前線で闘う姿勢評価したい。

渡辺氏も、もしAstarがダメになっても、日本は偉い人と仲良くしておけば何とかなる国なので、かつてのホリエモンのような毒を出さなければ、どこかしらの利権に入れてくれるだろう。そこら辺を踏んでいるのか、彼のポジショニングは上手いなと思う一方で、FTXのサムが破滅直前まで政府蜜月関係を結ぶのに奔走していたことを思い出させるから少々怖くもある。当局に近づくと不透明性が増すので、個人的にはまだASTRに買いを入れる勇気が持てない。

さて、クリプトコミュニティ一般の話だが、これも昔よりは成熟してきたと思う。悪しき通貨自然淘汰される市場原理が働いたというのもあるが、個人の中にも、かつては歯に衣着せぬ物言いオピニオンリーダーになったインフルエンサーが、今ではバランスの良いコメンテーターになったりと、心境の変化なのかポジショントークなのか、変化を感じざるを得ない。日本人垢にも外国人垢にもそんな人は多い。

例えばVitalik氏は、かつては大衆向けに過激なことを吐いていたが、最近難解な理論提示にとどまり過激な使い道を見つけるかどうかは受け手自由ですよ、という我関せずな態度に改まった。

しろ危ないのは、陰謀論界隈や極右派をバックにした米国会議員をはじめとするすでに過激コミュニティが、ビットコインやWeb3に活路を見出そうとしていることだろう。余計なポリコレリスクを抱えると面倒である

Web3ヤーたちはどう生きるか?

このタイトルは煽っているように聞こえるかもしれないが、流行りに乗っただけで煽ること自体は本意ではない。ジブリのあの映画を見た頃、こんなこと考えてたんだなぁと後でエモくなるための筆者なりのギミックなのだ。もし不快な思いをしたクリプトに携わる人や投資家の方がいれば、そこは大目に見ていただきたい。

また、ビットコイナーは Permalink | 記事への反応(0) | 21:52

 実のところ、数年前から実話怪談が盛り上がってきている。

 実話怪談とは、四谷怪談のような古典怪談ではなく現代怪談だ。というとトイレの花子さんのような都市伝説を思い浮かべる人もいるだろう。しかし、そのような出所不明の噂話とも違う。

 まず大前提として「実際に不可解な体験をした人というのは、この世の中にいるんだ」というところから始まる。そして、それら体験から聞き取ったものを語ったり、あるいは執筆という形で記録されたものが実話怪談である

 と、基本的説明としてはこれで十分ではあるのだが、多くの人が疑問に思うことだろう「それが実際にあった話だとする根拠は?」と。

 ここははっきりと申し上げておくが「そんなものはない!」である

 ないんスよ。というのも怪談超自然的なもの、未知のものを扱う分野だからだ。最新の科学技術物理知識を以てして証明できてしまったなら、その時点で、もはやそれは「怪談だったもの」となってしまうからだ。

 うん、わかった。

 もう少し突っ込んで説明しようか。

 つまり、実話怪談とは「実際にあった話だとする根拠はないが、とにかく、本当に不可解な体験をしたと主張する人がいて、その人の実在根拠とした話」のことだ。

 そんな根拠の拠り所となる体験者は、実際に語られるさいには、諸般の事情により匿名として扱われることが多い。

 …はい、お察しのとおりだ。実のところ、受け手側に実話である判断する材料はほぼない。

 ここまで読まれた皆様におかれましては「せめて、なにか実話を担保するものはないのか?」とお思いかと存じます

 まあ、その、あるにはあるんですよ。お気に召すかはわかりませんが。

 というわけで、以下が令和最新版だ。

 実話怪談とは「実際にあった話だとする根拠はないが、とにかく、本当に不可解な体験をしたと主張する人がいて、その人の実在根拠とした話…としたいけど、事情により身元は明かせない以上、聞き取ってきた私という実在を仮の根拠とした話」のことである

 あきれちゃった人には申し訳ないが、こういった回りくどい手順を踏むことで、かろうじて実話と呼べるものになっているのが実情だ。ゆえに実話怪談はその性質上、二重の信用が必要となる。

 つまり怪談話者(著者)は、取材において体験者が事実を話していると信用し、受け手話者(著者)が嘘を言っていないと信用したときに、初めて実話怪談を楽しむことができるのだ。

 もはや新手のカルトのように聞こえるかもしれないが、事実そうなのだとはいえ実話怪談愛好家がなんでもかんでも受け入れているかというと、そんなわけではない。聞いていて、あるいは読んでいて「なんかこの話うさん臭いなぁ」と思うことは多々ある。

 なぜなら、それぞれが自分なりの実話怪談観を持っており、常にそれをもとにこの話者(著者)を信用するかどうかを推し測っているからだ。また、これは怪談取材時でも吟味される事柄である。(興味があるなら『忌み地 怪談社奇聞録』あたりを読もう)

 こういった部分も含めてこのジャンルの楽しみ方となっている。

 個人的に言えば、実話怪談とは少額の霊感商法だと思っている。騙されたとしても、実害は、文庫本なら数百円ていど、新書なら千円か二千円ていど、映像ならタダから数千円ていど。イベントもそれくらいのものだろう。

 これは受け手側としての心持ちについて論じているが、同時に話者(著者)側にある程度の倫理観を求めるということでもある。

 実話怪談センシティブだ。

 実在する人物を扱うこともそうだし、死を扱うという点においてもそうだ。タブーをかき分けた先に真の恐怖はある。根本的に不謹慎ジャンルなのだ

 だからこそ信用される優れた話者(著者)となるためには、細心の注意を払いつつもギリギリを攻めるという綱渡りを行わなければならない。

 ともかく、信用を重視する点からわかる通り、実話怪談というジャンルは意外なほど属人的性質を孕んでいる。そしてこの属人性こそが、昨今の実話怪談ブームの一因であるように思う。

 分かりやすく言うと、怪談師と呼ばれる人々が出てきたことによって盛り上がったのだ。

 実話怪談の始祖を『新耳袋』とするなら、最初媒体書籍であり文字媒体だった。(ちなみに稲川淳二御大の語る怪談を、実話怪談の枠に当てはめるのは無理があるので割愛

 まだ怪談師という言葉はなかったが、初期のころから属人的気質垣間見れた。とはいえ、この時代の実話怪談エピソード至上主義であった。

 あと、そもそも著者がほとんどいなかった。

 私は00年代の初期からの愛好者だが、この時代怪談にとって冬の時代だった。それでも『新耳袋』や『「超」怖い話』がシリーズとして刊行を続けてきたことが、今日の盛り上がりの土壌となっている。

怪談師」という言葉が出だしたのは10年代の中頃だろうか。怪談師とは怪談話者のことだ。彼らの活動範囲は音声のみならず、映像イベントなど大きく広がっていった。

 そのため必然的話者存在が前に出ることとなったが、属人性の強い実話怪談と非常に相性がよかった。

 昨今の怪談人気は、すなわち怪談師の人気と言って差し支えない。

 しか怪談師の数は年々増えていっている。

 そんなわけで、実話怪談は空前の大ブームとなった。

 さて、それに加えて、去年あたりから呪物が盛り上がりを見せている。

 いわゆる呪物ブームだ。

 事情を知らない人からするとマンガ呪術廻戦』人気に乗っかったものだと思われるかもしれないが、それは半分くらいは正しい。マンガの影響はでかい

 とはいえ呪物コレクターと呼ばれる存在が昨日今日誕生したわけではない。もっと言えば、呪物と呼ばれるものは大昔からあり、怪談好きに限らず、多くの人から認知されていたはずだ。

 では、なぜこのタイミングブームとなったのだろうか。

 そもそも実話怪談においては、エピソード重要視された。実話の「話」とはお話エピソード)のことだから当然と言える。ゆえにエピソードの乏しいものは主流から外れていく。

 心霊写真心霊スポット探索といったものがそうだ。

 怪談ジャンキーには「ここの木陰に恨めしそうな女の顔があります」だけではお話として弱く感じるのだ。

「出ると有名な廃墟を探索しました。すごく雰囲気があって怖かった」だけでは怪談欲は満たされないのだ。

 呪物もその性質エピソードに乏しい。「これが丑の刻参りで有名なご神木に刺さっていた藁人形です」だけでは情報不足も甚だしく、消化不良を起こしてしまう。

 とはいえ、これらは実話怪談という評価基準において物足りないというだけで、それぞれに違った魅力があり、愛好する者が一定数いる。

 また、怪談師という存在が実話怪談を発表するメディアを広げたことにより、別媒体として点在していたそれらが、集約されつつある。その中でもビジュアルに優れた呪物は、具体的なイメージに乏しい実話怪談を補佐する存在とも言える。

 だが、それは本質ではない。

 呪物ブームの最大の理由は、呪物コレクターの所有する呪物のエピソード性の高さだ。いつの間にか呪物はお話を手にいれ、怪談のものとなっていたのである

 むろんこれにはカラクリがある。そして、それこそが先般の木札に関連した炎上事件の原因ともなっていると考えられる。

 具体的な手口は単純で大したことではない。呪物の定義を限りなく押し広げた、それだけ。

 一般的な「呪い」や「呪物」といったものイメージは「恨みを持った人間が、儀式などの間接的な方法怨念を晴らそうとする行為呪い」であり「その儀式使用される道具=呪物」ではなかろうか。すなわち丑の刻参りを行うことが「呪い」であり、そこで使用された藁人形が「呪物」であると。

 しかし呪物コレクターはそれだけでは満足できなかった。

出自不明ながら所有すると厄にあうもの

・呪われるわけではないが曰くのあるもの

心霊現象に関わる物品

・念のこもったもの

祈り宗教的儀式に使われる道具や開運グッズ

 これらをまとめて呪物として扱ったのだ。

 呪物という語にそれらを無理やりに詰め込んだ結果、呪物のミーム化といった現象がこの界隈で起こった。これによりエピソード性は強いが呪物と呼びがたい物すらもその範疇に納めることに成功する。

 どこまで意図的に行われていたかは分からないが、そういった呪物コレクター戦略が奏功し、折よくマンガの人気と合わさったことで、呪物ブームが巻き起こったのではなかろうか。

 あくま個人的考察ではあるが、あながち的外れでもないかと思う。

 というのも、今回の炎上には特徴的な温度差が見てとれる点からも、それらを裏付けているように感じたからだ。

 今回の件はジャニーズ性加害問題と似ている。すなわち、内部においては問題意識がほとんどなく、外部の人間が指摘することで初めて問題化したという点だ。

 そもそも木札のエピソード2022年の時点ですでに紹介されており、それこそ祝祭の呪物展というイベントでは2年連続で展示されていた。しかし木札について問題視する声は(自分観測範囲内では)なかった。

 私自身はイベントに足を運んではいないが、動画にてその存在を知った一人である。だが、やはりその時はまったく問題意識はなかった。

 事が明るみになったさいも、初めは事情の分かっていない人が騒いでいるだけだろうくらいに思っていた。しかし実際に内容を確認するにつれ、そういった次元出来事でないことに気付き、心地よい夢から叩き起こされたような気分となった。

 この件に関しては、はやせ氏に非があることは間違いない。

 問題複数あるが、やはり東日本大震災被災者と関連のある物品を「呪物」というくくりに入れてしまたことに尽きる。呪物コレクターとしての戦略裏目に出た形だ。

 だが、本当に非があるのははやせ氏だけだろうか。

 これは出自不明説明された木札の出所が判明し、そのエピソード自体に疑問が持たれた今だからこそ言える話などではなく、最初の発表時からあった問題だ。

 しか自分も含め誰も指摘できなかった。受け手側も麻痺していた部分があったのだ。間違っても「はやせさんがあんなに謝ってるんだから、許してあげてください」なんて言える立場にない、どころか一緒にごめんなさいしなくてはいけない立場にあると言える。

 …とはいえ、頭では理解できるものの、心の奥底では引っ掛かりを感じている。

 それは結局のところ、不謹慎さも含めて楽しむというスタイルが染みついているせいだろう。

 自分高潔人間などではない。心の奥底にドロドロとした薄汚いものを秘めた、しょうもない人間しかない。

 だからこそアングラものに惹かれる。怪談に惹かれるのだ。

 冒頭に戻るが、今、実話怪談が盛り上がってきている。

 文字媒体くらいしか発表の場がなかった時代は終わり、怪談師の活躍により発表の場は増えていった。賞レースも盛んとなり、多くの怪談師と無数のファンを生み出した。

 怪談を取り巻く環境は激変したが、怪談本質は変わらずにい続けられるのだろうか。

anond:20230904223603

この増田が、誰か人を好きになって、その人とセックスをしたいと思ったときに、相手10歳以下だけど双方に真摯同意があるのですというのであれば難しい面もあるかなとは思う。基本的にはその子のためにも性行同意年齢まで待ちなさい。増田のために個別判断をしてあげることは、そこまでコストはかけられないし、判断が間違った場合デメリットを超えるメリットもないですよ。ということになるだろうが、そこは増田なりその相手なりの性的自由と衝突するわけで。

ただ、一般論として、10歳以下でしか興奮できなくてつらいですと言われてもね。基本的には知らんがなじゃない?人を殺すことでしか快感が得られないんですって言われて、それが本当だったとしてもどうしようもないのと一緒で。もちろん、一般論として(表現をする側の)表現自由はあるだろうけれども、その検討の中で尽きてるというか、受け手の側がほかに性欲を満たす手段を持っている人ばかりなのか、それでしか性欲が満たせない人がいるのかということで、考慮要素が変わるということはない。

まあ、増田としてはつらいのだろうが、社会から認められなくてつらいことはいっぱいある。経歴や結局二次元への一方的な性欲の吐き出しで代替できていることからすると、後天的社会的な欲求に見えるので通院も一つの手段では。

2023-09-04

anond:20230904150614

これ受け手側の好みに左右されんか

たとえば穏やかな優しい人が好きなら「直裁な物言いをする、時にきつい印象を与える人」のことを性格がいいとは言わないか

逆に正直者が好きなら裏表がない性格のいい人だと評するかも

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