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はてなキーワード: 武家とは

2017-11-24

anond:20171124095835

同性婚かどうか以前に、婚姻制度自体庶民含めた全ての国民に対して法制度化されたのは明治からなので。歴史はそんなに古くない。

それ以前は、貴族血筋武家や一部の金持ちのもの

一般庶民にとっては、結婚ってのは、ある程度お金のある人しかできない、というのが、明治中ごろまで続いたところらしい。

夫婦もの落語にでてくる、「結納を取り交わした間柄」か「仲人なしのひっつきあい」か、というくだりが出てくるけど、

前者が「比較的余裕がある庶民結婚」で、後者がそれ以外の一般庶民という感じ

当時の庶民でも、商家農村なんかは、家同士のやりとりで「働き手」「財産の跡継ぎ」を求めて結婚をするというパターンがあった。

やっぱり現代式の結婚というよりは、家と家の結びつきなんだろうなぁ。

戦後からイメージ結婚スタイルって、ほんと歴史が短いんだよなー。自民極右勢とかネトウヨ勢なんかは、

戦前ってよりも、戦後10年ぐらいの高度成長期イメージで喋ってる気がするわ。三丁目の夕日的な。

anond:20171124014024

から昔は(特に武家の)結婚というのはまず家同士の繋がりと跡継ぎの確保が第一であって、

当事者同士の恋愛感情なんてもの別になくてもよかった事実がある

そして個人恋愛自体、同性間だろうが異性間だろうが、マイノリティとして隠れるべき立場にあった

単にどちらも抑圧の対象しかなかったというだけのことを、なぜ「昔は同性愛に寛容だった」

ということにしなければならないのか、これが衆道ageに対する個人的な疑問

で、この制度が形を変えつつ敗戦まで続いた以上、制度としての結婚は異性間のものだった、

というのはもう疑いようのない歴史的事実

なので、この伝統を引き継ぐべきか、それともいい加減変えた方がいいかというのは別として、

「今までの日本の伝統であった」とするのは決して間違っていないんじゃないかということ

2017-11-16

anond:20171116130659

バイだよ戦国武将殆どバイだよ

そうじゃない秀吉武家の嗜みがない農家出身からだよ

織田信長前田利家との若い頃の肉体関係をみんなの前でのろけたと記録に残ってるよ

2017-10-24

anond:20171024085820

今の基準で言えば過去ほとんどの人間関係パワハラだったり労基法違反だったりするだろうが、そんなこと言い出してなんになんの

武家の主従というもの自体主君邪魔人間集団殺傷してきて褒美に土地をもらうとかい現代から見れば超アンモラル違法取引から成り立ってるわけでな

2017-08-23

https://anond.hatelabo.jp/20170822170547

封建的道徳主君のために殉死すること

政次死亡の事を言っているなら、

あれは明らかに「愛した女の為に犠牲になる男」として描かれていたと思うが

あれを「主君の為に殉死した」と解釈したのか?

それ以外も、描かれてはいるが「美しく肯定的に」は描かれていない

主人公たちの行動指針がそもそも「なるべく戦を避ける事」だし、農民生活もきっちり描かれて農民搾取するだけではなく共に豊かになろうと努力してるし、

登場人物に「武家なんてただの大泥棒じゃねえか」なんて言わせたりもしてる

実際に見た上でその感想だったら読解力が無さ過ぎる

ブコメによると真田丸の方も本当に見ていたか怪しいらしいし(こっちは見てないので分からんけど)

どちらも見てないんだろうなあ

2017-08-08

正しい歴史認識」の話

真実はいつも一つ」といったとしても、私は、ジーザスクライストでも、工藤新一でもないから、事実認識のなかからその真実が見極められるというわけではない。

徳川武家慣習が依然とする)封建国家日本では、長幼の序とか、男尊女卑とか(女ですら劣後させられるくらいだからゲイとかトランスジェンダーとか……)、教師聖職絶対権力であったり、先輩が絶対的に偉かったりする。少なくとも戦時中まではそれが当然だった。

同じ日本人であっても、徳川時代以前から和人の方が先輩だから偉いわけで、後から編入させられた沖縄人や、北海道開拓使征服されたアイヌ人とかは、差別されていたわけで。(いわゆる「純粋日本人」とはそういう差別的表現だ。)

ましてや、日韓併合日本国民の端くれになっていた韓国人の扱いなんて、最下層であるわけで。

やっぱり身内である日本人かわいいから危険職種身分の低い人にさせたいと思っていたわけである。同じように、いわゆる穢れ仕事もそうだ。

例えば土木建設工事なんかでも、現場で命がけで肉体労働をする層にはいわゆる外国人労働者を使う。事故なんかで災害死しても、日本人が死んだとなれば立派な慰霊碑かなんかが建ったり、新聞報道実名が載ったりした。それに対して、韓国人労働者だとかが災害死しても、およそまともには扱われなかった。

今のように機械エネルギーを贅沢につかってでも人命最優先ということは、当時は不可能だ。だから、「使い棄て」が要り、死人が出ることもいわば「必要悪」かなにかと思われていたのだろう。例えば北海道開拓には、刑務所受刑者従事して沢山死んだ。少なから土木工事に「タコ部屋」もあった。

同じ日本人であろうが、身分格差がある。

徳川時代丁稚奉公にしても、人身売買に近い「社畜である

かつて「江戸にもない」景気の江差ニシンを獲ったのは、出稼ぎ季節労働者の「ヤン衆」で、(身分が低いし、教養もないし、将来のことなんか考えないので)資産を溜め込めないからパアーっと遣うので活況になったのは当然だ。ヤン衆を雇う網元が最も儲かり、資産を貯蓄しても非難されない。

炭鉱採掘にしても、危険職種死ぬことも多い、死ななくとも身体がやられるのだが、賃金は出る。生命身体と引き換えに稼いでいるというのが実際だ。いわゆる「軍艦島」なんて、当時では物凄く贅沢な暮らしができていたようだけれど、多くの時間を島の中で閉じこもって生活するわけだから自由は少ない。

トリクルダウン」(おこぼれ)で「恵んでやる」ということだ。つまり明らかな社会的格差があって、強者弱者チャリティーで恵んでやる。そういう社会

日本社会では身分の低い層であれば、出稼ぎしてでも稼ごうと思う人は多いわけで、甘言で騙すなどということもそれはあったとは思うけれども、たとえ騙しじゃなくたって、被差別層(社会的弱者)は事実上、穢れ仕事でもせざるをえないことに往々にしてなりがちだ。

たとえ徳川時代から日本人が同じ職種に就いたとしても、日本人の方が優遇されるというのも明らかにあったわけであり。

あとは、言うこともないだろう。

その社会的事実を、どのような価値観に基づいて主観的評価するか、そういう問題が「歴史認識」と呼ばれているようだ。主観的評価なのだから、一つにはなれない。

2017-07-13

日本人宗教は「滅私奉公

https://anond.hatelabo.jp/20170712073958

ここでも言われてるが道理が通ろうがなんだろうが「死んで償う」という発想がでるのは

儒教を元にした滅私奉公精神から来てる

お家のため、殿のため、一族のため、であるならばいかなる非合法的な手段も取るし判断もする

豪族が出来て

天皇が出来て

武家が出来て

幕府が出来て

戦国が出来て

徳川が治めて

鎖国して

黒船開国させられて

尊王攘夷をして

明治政府が出来て

太平洋戦争して

負けて

GHQ自由平等を教えられて

バブルがはじけて

自由平等を忘れて

滅私奉公精神だけ残り

既得権益だけ残り

システム的癌だけが残り

ブラック企業が産まれ

大企業は自浄作用がないため腐り

潰れ保護され

外資が買い取り

またロジカルシンキングが輸入されて

社員幸福になって

競合はそれを遅まきながらマネ

ベンチャー最初から取り入れて

おかげで景気が回復し始めてる

外敵のいない政治

未だに儒教で回ってる

から政治が糞なまま

 

恐ろしいことにこの間ずっと国民主人公になったことはない

いや、1度だけあった

太平洋戦争戦前

今では朝日扇動たからだとか陸軍が悪いとか言ってごまかすが

なんてことはない

国民のもの自主的に襲撃してたり暴動起こしてたのに

朝日が油を撒いて陸軍が乗っかっただけだ

最初から国民が主犯で国民が悪く国民主人公だった

これを客観的に受け入れないことには

次に国民主人公になったとき同じ失敗を繰り返す

 

もうね

全部儒教のせいなんですよ

またその前から続く天皇を崇拝する信仰から来てるんですよ

年功序列

これ立派な宗教ですよ

日本人お上の言う事、世間の言う事に不平不満はいっても

実際に行動することはない

死ぬか生きるかの一揆ですら権力転覆ではなく減税目的ですよ

徹底的に民衆である自分らが

主役になる気はゼロ

与えられた労働を消化する奴隷になりたいんだよね

これ全部DNAのせいですよ

 

この滅私奉公精神GHQが輸入したシステムバブル絶妙マッチした成果が

経済力2位の栄光時代ですよ

でもバブルが弾けたら滅私奉公けが残り

ブラック企業不正の増加

これこそが儒教の真の姿ですよ

日本人はみんな管理されたい欲求奴隷根性がその血に刻み込まれてる

からちゃんと宗教に入ってるんですよ

「仕組み」よりも「真か否か」よりも「誰が言ったか」の方だ大事

事実」よりも「誇り」、つまり感情」「建前」の方が大事

日本人はみんな漏れなくこれに入ってます、俺でさえ…

日本人はこの滅私奉公自覚してください

これを美しいと感じてるのがあなた信者である証拠です

あなた人生の主役は天皇でもなければお上でもないし世間でもないし将軍会社でもない

あなた自身です

ちゃんとあなた主人公物語を書いてください

 

というと、途端に不安になって何かに縋りたくなるのがDNAのせいなんだよな

自分主人公」という状態に極度にストレスを感じる

ではなく「○○会社サラリーマン」でありたい

自分より大きな存在である○○会社が主役でいてほしい

みんなこう考える

日本人はみんな蟻です

2017-07-12

https://anond.hatelabo.jp/20170712000300

わかる。

ていうか、海外では男女の結婚ということ自体オワコン化して事実婚選択するカップルがいる現状において、「結婚」とは何かというところについてあまりにも議論が浅すぎる感じがある。

そもそもとして現在日本で「結婚」とされる制度江戸時代から武家のお家制度明治になって一般人適用したとともに、それまで一般的だった人前式を無理やり欧州列国に認めさせるために神前式に祀り上げたとかわけのわかんなもので、そういうところを真面目に研究する学者がいない。

同性愛者がいるという事実と、結婚という制度そもそも社会的歴史的にどういう位置づけであるかということは全く別の問題なのに、ほとんどの人が平面的に「だってみんなやってるし」で片付けてる。

世界諸国に比べて婚姻制度とかパートナーシップ制度20年は認識が遅れてる日本において、同性愛者ですら「だって男女の結婚幸せそうだから」とかふわっとした理由同性婚を支持していたりする。

一方でラディカルな同性愛者は結婚制度のものが将来的な家族制度に適しておらず、まして同性愛という人間関係にはそぐわないものであるということを理解しているから「同性婚」という茶番に反対をしていたりする。

日本における同性婚議論で最も欠けているのが宗教的観点で、元祖キリスト教同性愛禁止していたこととか男女の結婚も一生何があっても添い遂げることを強制するDV容認男女差別容認という宗教的戒律があったことが理解されていない。

今の日本結婚制度がもともとあった先祖崇拝とアミニズムと神道を無理やりキリスト教風にミックスしたクソみたいな思想の土台のもとに成り立ってるってことがわかってもらえれば「同性婚」どころか「結婚」がいか不毛20年遅れた制度であるかがわかるんだろうけど、まあ日本会議が頑張っているうちは無理かな。

こういうところ、まじで議論できる論者が日本ではあとどれくらいあとに発生するんだろうな。はあ。

2017-06-05

続・山川出版日本史の何がすごいのか、さっぱり分からない

http://anond.hatelabo.jp/20170604204919

これの続き。(文字数制限にひっかかったので分割します)

  

三省堂日本史B 改訂版』(日B 015)

1183(寿永2)年、義仲軍は京都に入り、食糧不足もあって狼藉を続けた。京都にとどまった後白河法皇後鳥羽天皇即位させ、寿永二年の宣旨頼朝東国での支配権を認めるとともに、義仲軍の乱暴ぶりを口実にして頼朝上京要請するなど、政治力の強化につとめた。しかし、頼朝東国支配を固めるために鎌倉を動かず、かわりに弟の範頼・義経上京し、1184(元暦元)年、二人は義仲を打ち破った。

義仲が京都乱暴狼藉を働いたという記述があるのは、意外にもこの教科書だけでした。

兵糧不足のまま進撃して首都占領しても、どうせ軍規が乱れて略奪しまくるぞというのは、日中戦争における南京事件南京大虐殺)のことを言いたいのかなと思いましたが、それは深読みのしすぎかもしれませんね。どうなんでしょう?

  

また、これは下記の引用部分になりますが、頼朝が初めて上京したタイミングがいつだったかを明記しているのは、この教科書だけだと思います

(この点はとりわけ山川の『詳説日本史』が最悪です。頼朝西国での平家追討の仕事をすべて弟の範頼・義経らにやらせ自分はその間ずっと鎌倉にひきこもって地盤を固めていたという基本的事項すらも把握できない書き方がされているんです。)

頼朝挙兵以来、北条氏三浦氏などの東国武士たちと主従関係を結んで、彼らを御家人として組織した。そして1180(治承4)年、御家人の統率と軍事警察担当する侍所を設けて、有力御家人和田義盛別当長官)に据えた。さらに1184(元暦元)年、一般政務をつかさどる公文所(のち政所)と問注所を開設し、実務に優れた下級官人らを側近にして職務を分担させるなど、支配機構の整備を進めた。

頼朝後白河法皇要請を受け、範頼と義経平家追討を命じ、1185(文治元)年、長門壇ノ浦平氏を滅亡させた。後白河法皇頼朝権力拡大を恐れて義経を重用し、頼朝の追討を命じたが失敗した。逆に頼朝は、親鎌倉派の公卿九条兼実藤原兼実)らを朝廷重要政務担当する議奏につかせ、反鎌倉派の貴族追放し、義経の捜索を名目に国ごとに地頭を置くことを認めさせた。さらに1189(文治5)年、頼朝義経をかくまったことを口実に藤原秀衡の子の泰衡を攻め、奥州藤原氏を滅ぼした。こうして頼朝東国西国の多数の武士御家人として組織しながら、主に東国支配確立していった。

1190(建久元)年、頼朝挙兵後はじめて京都に入り、右近大将に任命され、後白河法皇没後の1192(建久3)年には、法皇の反対で就任できなかった征夷大将軍に任命され、名実ともに鎌倉幕府が成立した。」

当然ながら『詳説日本史』にも、侍所政所問注所地頭というキーワードは出てきますしかし、治承・寿永の乱とは別項に記述されているため、時系列が分かりづらくなっています

それに比べて、この教科書歴史の流れの中にキーワードを配置しています。だから時系列に即してこれらの言葉意味理解することができるはずです。

  

結びが「名実ともに鎌倉幕府が成立した」という記述になっているのも、味わい深いです。

鎌倉幕府の成立が何年かという論争を垣間見ることができます名目的には1192年に幕府が成立したと言えるが、実質的にはそれ以前から幕府政治機構ができあがっていたというニュアンスを含ませているのでしょう。

  

  

  

あとは、上記引用中の「義経の捜索を名目に国ごとに地頭を置くことを認めさせた」という記述が最高にクールです。

一般には1185年、義経の捜索を名目にして守護地頭が設置されたとされていますし、国ごとに置かれた役職地頭ではなく守護だと暗記している人が多いんじゃないでしょうか?

例えば山川の『詳説日本史』はそうなっています。それによると、頼朝は1185年に「諸国には守護を、荘園公領には地頭を任命する権利」を獲得したとされています守護は「おもに東国出身の有力御家人から選ばれて「原則として各国に一人ずつ」任命され、「大犯三箇条などの職務を任とし」て国内御家人を指揮統率し、とくに東国では在庁官人支配することで「地方行政官としての役割も果たし」ました。いっぽう、地頭は「御家人のなかから任命され、任務年貢徴収・納入と土地官吏および治安維持」です。「頼朝は主人として御家人に対し、おもに地頭に任命することによって先祖伝来の所領の支配保障したり(本領安堵)、新たな領地を与えたりした(新恩給与)」わけですが、このことが御恩と奉公関係となって封建制度の基礎となりました。

  

ところが、三省堂の『日本史B 改訂版』(日B 015)によると、ここの説明がこれとまったく異なります。私が先に引用した項では、1185年の出来事として守護の設置には言及せず、地頭の設置だけが記述されていますしかもその"地頭"は国ごとに置かれたものだとされているのです。

私は最初にこれを読んだとき、わけがからなくて混乱しました。それでがんばって自力で調べてみて(独学なので苦労したナァ)ようやく理解できたのですが、1185年の文治の勅許守護地頭が置かれたとする『吾妻鏡』の記述には疑いがあり、実はこれがかつて学者の間でも論争になったテーマだったらしいのです。

1960年石母田正が新説を発表したのですが、おおざっぱに言うと、新説では、この時点で置かれたもの守護地頭ではなく、地頭(国地頭)だったとしています。それはわれわれが普通一般に知っている地頭(荘郷地頭)とは異なり、一国を統括する強大な権限を持つ存在です。この国地頭はすぐに廃止され消滅しましたが、守護前身となりました。

三省堂教科書は、次項でそのことが説明されています頼朝がはじめは国ごとに"地頭"を派遣して荘園国衙領のいずれからも兵糧米を徴収させていたこと、そのやり方がひどすぎたから反発を招いて、以後は"地頭"に代わるものとして守護を置いた、という記述になっています。またこれに続いて、頼朝は「荘郷地頭と呼ばれる地頭を任命し」、平氏没官領や謀反人の所領跡で「年貢公事徴収治安維持に当たらせた」としています

このように、三省堂教科書では、「国地頭」と「荘郷地頭」をはっきりと区別しているのです。

  

実教出版もこの新説を採用していますこちらも合わせて読んでおくと、国地頭のことが大変よく分かります東京出版は本文の記述が旧説に拠っていますけど、欄外では国地頭が惣追捕使とならび、守護前身として存在していた話をちょこっと説明しています。これらの教科書は「国地頭」論争の成果を取り入れており、学問的に誠実だと思います

それに対して山川の『詳説日本史』は旧説を採用し、1185年に守護地頭の設置が認められたとする断定的な記述になっています。これが他の教科書とのあいだに無用矛盾を生じさせているのです。私と同じようにこの点につまづいて、困惑してしまった高校生が少なからずいるんじゃないでしょうか。

  

なお、山川参考書『詳説日本史研究』にもこの新説の紹介はありません。同社『日本史B用語集』には「国地頭」という用語掲載されていて、そこでは一応説明がされているんですが、あたかも国地頭が荘郷地頭前身だったと思わせるような記述です。

地頭(じとう)⑪:1185年、頼朝要請後白河法皇諸国公領荘園地頭を設置することを認めた。当初は1国単位荘園公領支配する国地頭を設置したが、まもなく平家一族の所領として没収された平家没官領と謀反人跡地に限定した荘郷地頭となった。しかし、公家寺社の強い反対で、一時縮小、承久の乱後に全国化した。任務土地管理年貢・兵糧米の徴収治安維持など。

地頭⑤ 荘郷地頭

  

山川出版日本史B用語集』より

ですが三省堂実教出版東京書籍の教科書によると、国地頭はむしろ守護へと発展的解消を遂げたという記述なんですから、『日本史B用語集』のこの説明とはやはり若干の矛盾が生じています

「国地頭」を教科書に載せている上記の主要3社の文脈に従うなら、この用語独立の項目として取り扱うか、せめて「地頭」の項目じゃなく「守護」の項目にいれて取り扱うべきじゃないでしょうか。

  

(追記 これはインターネット上の情報なので私は未確認ですが、現在は『詳説日本史』にも国地頭掲載されているそうです。近年改訂されたんでしょうか。

予防線を張っておくと、私は高校日本史Bを履修しなかったし、大学理系に進みました。教科書を読んだのは興味本位にすぎません。

はじめに書いたとおり、最新版教科書を持ってません。今回はてブでバズっていてびっくりしましたが、筆者は歴史学の専門家でも何でもないことをお断りしておきます

追記id:HRYKtbykさん、確認をしてくださり感謝です。)

  

  

  

追記

複数教科書を読み比べすることで、『詳説日本史』を読むだけでは見えないポイントが浮かび上がってきます

『詳説日本史』では、前九年合戦後三年合戦のところで、「これらの戦いを通じて源氏東国武士団との主従関係を強め、武家棟梁としての地位を固めていった」とあります。これが後の頼朝挙兵につながるわけですが、それは時代を経てからのことだから教科書のページが離れすぎていて、この関連が把握しづらくなっています

ここで例えば山川出版社『新日本史B 改訂版』(日B 018)のような他の教科書と読み比べてみると、『詳説日本史』がこの簡潔な一文を通して伝えたかたことを理解することができるのです。(上述参照)

  

つぎは例えば、貫高制・石高制を見てみましょう。

『詳説日本史』によると、戦国大名性格は次のように説明されています戦国大名は「新たに征服した土地などで検地をしばしばおこなっ」て、それにより「農民に対する直接支配」を強化しました。そして国人地侍を取り込むため、貫高制を導入しました。これは戦国大名が彼らを「貫高という基準統一的に把握」して軍役を課す制度でした。それでここからすこし時代下り、別のページで豊臣秀吉太閤検地説明しています太閤検地により石高制が確立しました。それは「荘園制のもとで一つの土地に何人もの権利が重なりあっていた状態を整理」し、「一地一作人」を原則とするものです。農民は「自分田畑所有権を法的に認められることになった」わけです。

このような記述だけでも表層的な理解はできると思いますが、実教出版日本史B 新訂版』(日B 014)は、貫高制について「荘園の複雑な土地制度は貫高に組み込まれ大名統一的な国内政治を推進」するものとしています。『詳説日本史』ではせいぜい石高制と荘園制の関係しかからないでしょうが、本書はこのように貫高制と荘園制の関係を明示しているのです。

この視点を最もわかりやす記述しているのが、三省堂日本史B 改訂版』(日B 015)です。本書は貫高制、石高制、荘園制の全部を一つの項目に入れて記述しています。それによると、秀吉太閤検地を行い、「戦国大名の貫高制にかわって、それを発展させて全国に広げた石高制」を導入、その結果「荘園制を完全に崩壊させ」ました。このポイントを把握しておけば、中世から近世への社会の変化を、土地一元的支配確立荘園制の衰退・消滅という視点で見ることができます。本書の特徴は、貫高制・石高制をともにこの視点から語っていることと、しかもそれが荘園制を「完全に崩壊させ」たと言い切っていることです。

ちなみに、東京書籍『日本史B』(日B 004)では、石高制を「近世封建制体制原理」と書いています。これがまったく新しい制度であることを強調しつつ、近世という言葉を使ってその射程を江戸時代にまで広げているのです。)

2017-06-04

山川出版日本史の何がすごいのか、さっぱり分からない

山川出版の日本史いかに凄いかについて情熱的に説明する」

http://blog.tinect.jp/?p=40198

はてなブックマークの人気記事だったので開いてみたのですが、驚くほど中身のない記事でした。

これ、おっさん居酒屋でしゃべっているレベルですよね??

『詳説日本史』を引用するなり参照するなりして、具体的にどこがどうすごいかを語ってほしかったです。

僕も10代の頃はあれが本当に理解できなかった。けど今ならああい教科書が作り続けられる理由がよくわかる。物事を語るにあたって、中立を維持しようとするとなると、事実しか語れなくなるのである

ストーリーというものは、基本的には何らかの価値観を元に構築されるものである日本民族いかに優れているかという視点で歴史を分析すると、それは右翼的な記述にならざるをえないし、平等であろうとすれば、それは左翼的価値観を元に記述せざるをえなくなる。

客観的な記述がされている、左右に偏向していない、中立だからすごいゾ、という感想には呆れ果てました。

いったい全体、どこが情熱的ですか? 教科書を読み返さず、いい加減な記憶をもとに語っても、多分これくらいのことは言えると思います。 

  

クソ記事を読んでしまい、あんまりにもムシャクシャしたので、私が自分で『詳説日本史』を引っ張りだしてきて調べました。

例えば「源平の騒乱」という項目は、次のように記述されています

平清盛後白河法皇幽閉し、1180年に孫の安徳天皇を位につけると、地方の武士団中央貴族・大寺院のなかには、平氏の専制政治に対する不満がうずまき始めた。この情勢を見た後白河法皇皇子以仁王と、畿内に基盤を持つ源氏源頼政は、平氏打倒の兵をあげ、挙兵を呼びかける王の命令(令旨)は諸国の武士に伝えられた。

これに応じて、園城寺(三井寺)や興福寺などの僧兵が立ち上がり、ついで伊豆に流されていた源頼朝信濃の木曾谷にいた源義仲をはじめ、各地の武士団挙兵して、ついに内乱全国的に広がり、5年にわたって騒乱が続いた(治承・寿永の乱)。

平氏は都は福原(現・神戸市)へと移したが、まもなく京都にもどし、畿内を中心とする支配を固めてこれらの組織に対抗した。

しかし、畿内西国を中心とする養和の飢饉や、清盛の死などで平家の基盤は弱体化し、1183年(寿永2)年、平氏北陸で義仲に敗北すると、安徳天皇を報じて西国都落ちした。やがて、頼朝の命を受けた弟の源範頼義経らの軍に攻められ、ついに1185年に長門の壇の浦で滅亡した。

この一連の内乱の行末に大きな影響をおよぼしたのは地方の武士団の動きで、彼らは国司荘園領主に対抗して新たに所領の支配権を強化・拡大しようとつとめ、その政治体制を求めていた。

ここには明らかに編者の歴史観と、因果関係説明が詰め込まれています

  

まず、平清盛後白河天皇幽閉したこと、安徳天皇即位させたことは、この教科書では「平氏の専制政治」と評されています

当時の人たちがそう感じていたのか、それとも教科書の編者がこの評価を下しているのか、どちらなのか判然としませんけど、ともかく本書はこの評価にもとづいて記述がされています

  

次に、この「平氏の専制政治」が地方の武士団中央貴族・大寺院の不満につながって、 以仁王源頼政はそういう情勢を見たので挙兵したと書かれています

これはまさしく因果関係に言及しているわけです。

  

このように、教科書は単なる事実の羅列ではありません。歴史に対する評価因果関係がしっかりと述べられているのです。

そこにどういう学問的な裏付けがあるか、歴史学に無知な私はよく知らないです。あのブログ記事ではそのへんの話を説明していると思ったのですけど、まったくの期待外れでしたね。

  

なお、この教科書とおなじ編者がつくった参考書『詳説日本史研究』(山川出版社)によると、次のように説明されています

治承・寿永の乱は、一般には源氏平氏の戦いといわれている。しか歴史学的にみた場合、この全国的な動乱を単に源氏平氏勢力争いとみるのは正しい理解ではない。以仁王挙兵以降、軍事行動を起こすものが相次いだ。美濃近江河内源氏若狭越前加賀の在庁官人、豪族では伊予の河野氏・肥後の菊池氏である。彼らはあくまでも平氏の施政に反発したのであって、はじめから源氏、とくに源頼朝に味方したわけではない。彼らの背後には在地領主層があり、在地領主たちは自己の要求を実現するために各地で立ち上がったのである

彼らの動向をまとめあげ、武家棟梁となる機会は頼朝以外の人、例えば源義仲源行家、あるいは平宗盛にも与えられていた。頼朝が内乱に終息をもたらし得たのは、彼こそが在地領主層の要望に最もよく答えたからである。この意味で幕府の成立は、時代の画期ととらえることができる。

教科書である『詳説日本史』では、これがたった一文にまとめられているのです。

この一連の内乱の行末に大きな影響をおよぼしたのは地方の武士団の動きで、彼らは国司荘園領主に対抗して新たに所領の支配権を強化・拡大しようとつとめ、その政治体制を求めていた。

こういう史観が妥当なのかというのは、私にはちょっと分からないんですが、この点を強烈にプッシュしているのが『詳説日本史』の特徴と言えるでしょう。

他の教科書を読んでみても、三省堂の『日本史B 改訂版』(日B 015)を除き、この史観はあまりプッシュされていないと感じました。

  

【参考文献】

山川出版社『詳説日本史』(日B 001)

山川出版社『高校日本史 改訂版』(日B 017)

山川出版社新日本史B 改訂版』(日B 018)

東京書籍日本史B』(日B 004)

三省堂日本史B 改訂版』(日B 015)

実教出版日本史B 新訂版』(日B 014)

桐原書店新日本史B』(日B 011)

(このエントリは上記7冊を参照しています。いずれも平成22年ごろ購入。)

  

  

  

余談:教科書の読み比べ

  

山川出版社新日本史B 改訂版』(日B 018)

伊豆に流されていた源義朝の子・源頼朝も、妻・北条政子の父北条時政とともに挙兵して南関東を掌握し、10月には源氏根拠地鎌倉に入った。頼朝は父祖以来の結びつきを背景に、三浦千葉上総氏などの有力な東国武士主従関係を結んで御家人とし

頼朝の挙兵が、東国武士との「父祖以来の結びつき」を背景にしていたものだったということは、他の教科書ではなかなか分からないと思います

三浦千葉上総という武士名前が沢山出てくるのもおもしろいですね。(三浦氏名前が出てくる教科書は多いですが、それはこの時点ではなく幕府成立後、十三人の合議制か、宝治合戦ときに唐突に登場します。)

[寿永二年十月宣旨から義仲滅亡までの]この間、鎌倉の頼朝は没収した平氏の所領(平氏没官領)を法皇より与えられ、経済基盤を固めていった。また御家人を統制する侍所を設置し、その長官である別当には和田義盛を任命した。これに加えて、行政裁判制度を整えるための公文所(のちに政所)・問注所がおかれ、その長官にはそれぞれ京から招かれた朝廷の役人である大江広元三善康信就任した。前後して、義経軍らは一の谷・屋島平氏を追い、1185(文治元)年に壇ノ浦平氏を滅ぼした。

[]は引用者註。

この教科書の特徴は、幕府の政治機構の形成過程を、治承・寿永の乱の進行に併記していることです。

鎌倉幕府の成立が1192年(いいくに)なのか、1185年(いいはこ)なのかという論争は、世間でよく知られているぐらい有名になりました。どちらが正しいかは諸説あるとしても、ただ一つ言えることは、どこかの時点でいきなり幕府が完成したというわけではありません。治承・寿永の乱が続いていた期間に、徐々に幕府の政治機構が形成されたのです。この教科書はその史観が反映されています

  

  

  

桐原書店新日本史B』(日B 011)

北条時政の援助によって挙兵した頼朝は、東国武士たちに支持されて、富士川の戦い平氏を破ったが、その後は鎌倉にとどまって、東国地盤を固めることに専念した。これに対して平清盛は一時、都を福原神戸市)に移して態勢を立てなおそうとしたが、まもなく京都に戻り、1181(養和元)年に病死した。一方、義仲は1183(寿永2)年、北陸方面から急進撃して、平氏一門を京都から追い出した。しかし、義仲は後白河法皇対立したので、法皇は同年、頼朝に東海東山両道(東国)の支配権を認め、義仲追討を命じた。頼朝は弟の範頼・義経らを上京させて、義仲を討たせた。範頼・義経さら平氏追討に向かい、1185(文治元)年、長門壇ノ浦平氏一門を滅ぼした。

この教科書歴史用語の詰めこみを回避しているようで、内容は簡単、文章としても平易です。

上記引用でも分かるとおり、「頼朝に東海東山両道(東国)の支配権を認め」という記述があるくせに、寿永二年十月宣旨というキーワードがありません。治承・寿永の乱、一の谷、屋島の戦いなどは年表に記載されていますが、本文中に記載なし。養和の飢饉、平氏都落ち安徳天皇を伴ったことも言及なし。

というわけで受験生には不向きですが、他の教科書にはない特色もあります

  

鎌倉将軍に尽くして家人となった武士のことを、鎌倉御家人といった。鎌倉御家人になる目的は、将軍面接して(見参)、先祖伝来の所領を承認してもらい(本領安堵)、さらに勲功のあった者は新たな所領を恩賞としてうける(新恩給与)ことにあった。

教科書の中では唯一、桐原書店けが「見参」を掲載しています。これは鎌倉幕府の権威の構造がどういったものであったかを知るための手がかりになるかも。

(他の教科書ではこの用語がないどころか、「将軍面接して」という説明も省かれています

  

["新恩給与"についての註]

土地のものよりも土地に対する一定の支配権と、それにともなう収益権を与えられるのが普通で、そのおもなものが地頭職であった。

これは「職の体系」のことを言っています。他の教科書とは違って、地頭をあえて「地頭職」と見なす視点を紹介し、その意味するところを簡潔に説明しているのがすごい!

所有権が重層的に重なりあっていたというのは、中世土地支配構造を知るうえで一番大切なポイントだと思います

なお、山川出版の『日本史B用語集』には「職の体系」という用語は不掲載で、かわりに「職」の項でそれを説明しています

職(しき)②:一般に職務に伴う土地からの収益とその職務自体を指す。荘園場合、有力者への寄進が何回も積み重なり、下記のような複雑な職の改装秩序を生じた。

本家職①、領家職②、預所職②、下司職②、荘官職①

  

[引用者註:丸の数字はこの用語を掲載している教科書の数]

山川出版『日本史B用語集』より

この説明は悪くないと思いますが、桐原書店は「土地のものよりも土地に対する一定の支配権と、それにともなう収益権」のことと明記しているので、その方が的確です。

しかも、いかんせん、『日本史B用語集』は「職」の用語説明を「院政期の社会文化」のページに掲載しているので、これと鎌倉時代の地頭職との関連が全然分からないです。そして「鎌倉幕府の成立」のページにある「地頭職」の用語説明は、次のようになっています

地頭職(じとうしき)⑤:職とは役職に伴う権益意味。地頭職は御家人が地頭に任命されて認められた兵糧米の徴収や免田(給田)経営などの権利

  

山川出版『日本史B用語集』より

これは間違っていませんけど、この説明を読んで、重層的な土地支配構造があったことを理解できますか? 絶対に不可能ですよね?

せめて「職」「地頭職」という用語同士を紐付けて相互参照させてほしいです。ふざけんなってかんじです。

  

さて、桐原書店教科書に話をもどすと、欄外にこういう豆知識も載っています

幕府とは、近衛府の唐名であるが、転じて近衛大将の居館のことをいった。のちには近衛大将とは関係なく、武家政権意味する語となった。頼朝は1190年に上洛し、右近大将に任ぜられたが、まもなく辞任した。

[ふたつの源頼朝像]

Aについては南北朝時代武将とする説もあり(伝・藤原隆信筆,京都神護寺蔵)、Bも注目されるようになった(山梨甲斐善光寺蔵)。

とてもユニークですね。受験には使えないかもしれませんが、知っておいて損はないです。

  

  

  

東京書籍日本史B』(日B 004)

養和は平氏政権が用いた年号で、これを認めない頼朝の支配する関東では、ひきつづき治承の年号が用いられた。

網野善彦著作『東と西の語る日本の歴史』に、たしかこの話があったと思います

他の教科書には載ってませんが、ピンポイント東大入試に出題されました。

  

源氏鎌倉の関係は、源頼信のころに源氏氏神となった石清水八幡宮を、前九年合戦の際、子の頼義が相模国由比郷に勘請して鶴岡若宮八幡宮前身)を建設したことから始まった。鎌倉は前面に海をもち、三方を山にかこまれた要害の地で、切通によって外部と結ばれていた。

鎌倉という土地をこれだけ情熱的に語っているのは、東京書籍教科書だけです。

上記引用とはまた別に、「コラム 武家の都鎌倉経済流通」というのも掲載されています

東大入試では、「院政時代から鎌倉時代にかけての京都と鎌倉都市の発展」について論述させる問題が出されたことがありますが(1990年)、この教科書はその答案を書くうえで非常に役立つものだと思います

  

  

  

山川出版社『高校日本史 改訂版』(日B 017)

こののち、後白河法皇義経を重んじ、頼朝追討の命令を下したが、これに失敗すると、頼朝はその責任を追及し、逆に義経追討の命令を得た。さらに頼朝は義経をかくまっていた奥州藤原氏を滅ぼそうと朝廷に追討の命令希望したが、法皇がそれを拒否すると、1189(文治5)年に頼朝は追討の命令を待たず、大軍をもって奥州藤原氏を滅ぼした。ここに全国を平定し、その後、法皇死後の1192(建久3)年に頼朝は念願の征夷大将軍に任じられた。

頼朝の悪人っぷりがこれでもか!?というぐらい強調されています

あいつは自分の野望を実現するため、ときには法皇に逆らって圧力をかけたり、朝廷命令無視して独断専行する奴だった、ということを言いたげな記述です。

  

それはともかく、奥州藤原氏を守ろうとした法皇朝廷側と、それを潰そうとした頼朝の厳しい対立がわかるのは、この教科書だけでしょうね。

両者のぴりぴりした緊張関係が伝わってきます

関西にある政権東北地方を使って、関東独立の動きを牽制するというのは、日本の歴史において繰り返し出てくるパターンなので、この視点を漏らさず記述しているところはアッパレ

  

  

  

実教出版日本史B 新訂版』(日B 014)

平氏安徳天皇を奉じて西国に落ちていったが、後白河法皇は京都にとどまり、新たに後鳥羽天皇をたてて政権を維持した。法皇は義仲には平家追討を命じるいっぽう、頼朝には上京をうながして、京都の義仲に対抗させ、武士たちをたがいに牽制させて政局の主導権をにぎろうとした。しかし頼朝は、東国の安定に意をそそいでみずからは鎌倉を動かず、弟の範頼・義経を上京させて、1184(元暦元)年、義仲を討たせ、源氏一族の長となった。ついで義経らは、その当時勢力回復して都にせまっていた平氏を一の谷・屋島などの合戦でやぶり、さらに翌1185(文治元)年にはこれを長門壇ノ浦に追いつめて滅亡させた。

この時代に2人の天皇が同時に存在していたとする視点を取り入れているのがナイス

都落ちした平氏はそのままあっけなく滅んだわけじゃなくて、京都にいる天皇とは違う天皇を奉じて勢力を盛り返していたのです。

どちらの天皇が正統かというのは、つまるところ結果論にすぎません。この教科書はそんな歴史観に基づいて書かれています

  

ちなみに、この教科書の編者は、大半が関西教育機関に属する人たちみたいです。後白河法皇平氏を主軸にした書き方は、編者の関西びいきが反映した結果なんでしょうか。(笑)

例えば奥州合戦について、「奥州進撃のために頼朝は東国だけでなく西国武士もひとまず鎌倉に動員し、これを機会に国ごとに御家人組織の整備をいっそうすすめた」とありますさら西国御家人東国御家人とどう違うかを説明しているのもおもしろく、この教科書関西中心っぽい史観は独特です。

  

  

  

三省堂日本史B 改訂版』(日B 015)

  

……って、おい!? 増田がここで文章を掲載できなくなったんだが??

せっかくこの先が本番なのに、文字数の上限なのだろうか。

つづき→http://anond.hatelabo.jp/20170605001028

2017-06-01

日本人無宗教ではなく儒教徒である

日本の最大宗教儒教で、それは江戸時代から変わっていない。

武家は、統治のために中国儒教に倣ったからで、そしてそもそも儒教社会構造を維持するための宗教だ。日本史教科書には儒学とか朱子学とかさらっとしか書かれていないけれど、徳川治世は政教一致で、儒教社会本質を担う物凄く重要ものだった。

そして例えば、長幼の序年功序列)とか、男尊女卑とか、御先祖様がどうだとか、上座下座とか、家父長制(天皇制典型)とか、未だにある。そしてそれは道徳と称され、確信的に(加害者に悪の自覚が無く)差別が行われている。

さらにそれがとりわけタチが悪いことに、儒教教義を信奉している当人儒教徒であることの自覚が無い。それで、「日本人無宗教」という言説が定説になっている。

日中戦争太平洋戦争をした原因にも、儒教がある。儒教身分差別階級差別宗教なので、どちらが親分か、どちらが兄貴か、優劣(序列)がある。そうして、他者を蔑んだり、権威にひれ伏したりする。「大東亜共栄圏」という概念は、日本東アジア盟主親分)たらんとしたものだ。

日本では、少なくとも戦時中までは公然アイヌ人や沖縄人(「沖縄県民」)を差別してきたし、韓国人中国人は未だに事実上差別を受けている。戦前政府日本社会システム押し付けて、創氏改名を行わせた。それは韓国人に対してだけではなく、アイヌ人にも行われた。侵略され植民地化されたからには、日本論理を受け入れるしかなく、多くのアイヌ人は和人同化せざるをえなくなった。

国家神道」とかいうけれど、それも、神道の皮をかぶった儒教だ。天皇を家父長にした、身分差別階級差別宗教だ。

日本人は、正しい歴史認識をしていないし、戦争反省もしていない。なにせ、儒教徒である自覚が無いのだから戦争の原因を認識していない。だから謝罪をしても反省はしていない。しかも困ったことに、中国人韓国人儒教徒から問題本質解決する可能性がない。

正しい歴史教育だとか正しい歴史教育だとかいう以前に、日本人和人)は自分自身を知らない。

2017-05-19

園城寺(おんじょうじ)は、滋賀県大津市園城寺町にある、天台寺門宗総本山。山号を「長等山(ながらさん)」と称する。

開基(創立者)は大友与多王、本尊弥勒菩薩である日本三不動の一である黄不動で著名な寺院で、観音堂は西国三十三所観音霊場の第14番札所である。また、近江八景の1つである三井の晩鐘」でも知られる。

なお一般には「三井寺(みいでら)」として知られるため、本文では「三井寺」の呼称を用いる。

目次 [非表示]

1 歴史

2 伽藍

3 黄不動

4 文化財

4.1 三井寺秘仏

4.2 国宝

4.3 重要文化財

4.4 その他

5 御詠歌

6 前後札所

7 交通

8 周辺

9 脚注

10 参考文献

11 関連項目

12 外部リンク

歴史[編集]

三井寺7世紀大友氏 (古代)の氏寺として草創され、9世紀に唐から帰国した留学円珍天台寺門宗宗祖)によって再興された。三井寺平安時代以降、皇室貴族武家などの幅広い信仰を集めて栄えたが、10世紀から比叡山延暦寺との対立抗争が激化し、比叡山の宗徒によって三井寺が焼き討ちされることが史上度々あった。近世には豊臣秀吉によって寺領没収されて廃寺同然となったこともあるが、こうした歴史上の苦難を乗り越えてその都度再興されてきたことから三井寺は「不死鳥の寺」と称されている。

三井寺」の由来となった井戸「閼伽井屋」(重文

三井寺起源については、次のように伝承されている。大津京を造営した天智天皇は、念持仏の弥勒菩薩像を本尊とする寺を建立しようとしていたが、生前にはその志を果たせなかった。天皇の子大友皇子弘文天皇)も壬申の乱のため、25歳の若さで没している。大友皇子の子である大友与多王は、父の菩提のため、天智天皇所持の弥勒像を本尊とする寺の建立を発願した。壬申の乱大友皇子敵対していた天武天皇は、朱鳥元年(686年)この寺の建立を許可し、「園城寺」の寺号を与えた。「園城」という寺号は、大友与多王が自分の「荘園城邑」(「田畑屋敷」)を投げ打って一寺を建立しようとする志に感じて名付けたものという。なお、「三井寺」の通称は、この寺に涌く霊泉が天智・天武・持統の3代の天皇の産湯として使われたことから御井」(みい)の寺と言われていたものが転じて三井寺となったという。現在三井寺には創建時に遡る遺物ほとんど残っていない。しかし、金堂付近からは、奈良時代前期に遡る古瓦が出土しており、大友氏と寺との関係史料から裏付けられることから、以上の草創伝承は単なる伝説ではなく、ある程度史実を反映したものと見ることができる。

三井寺では、他宗で「管長」「別当」などと呼ばれる、一山を代表する僧のことを「長吏」(ちょうり)と呼んでいる。貞観元年(859年)、三井寺初代長吏就任し、その後の三井寺の発展の基礎を築いたのが、智証大師円珍である円珍は、弘仁5年(814年)、讃岐国那珂郡香川県善通寺市)に生まれた。俗名は和気広雄、母方の姓は佐伯氏で、円珍の母は弘法大師空海の妹(もしくは姪)にあたる。幼時から学才を発揮し神童と呼ばれた広雄は、15歳で比叡山に登り、初代天台座主義真に入門。19歳の時に国家公認正規の僧となり、円珍改名した。その後、比叡山規定に従って「十二年籠山行」(12年間、比叡山から下りずにひたすら修行する)を終えた後、大峯山熊野三山を巡って厳しい修行をする。このことから三井寺修験道とも深い繋がりを持っている。仁寿3年(853年)には唐へ留学して6年間、各地で修行青龍寺の法全(はっせん)から密教の奥義を伝授された。天安2年(858年)、円珍は多くの経巻、図像、法具を携えて日本帰国した。翌貞観元年(859年)、大友氏の氏寺であった三井寺に「唐院」(とういん)を設置。寺を整備して修行道場とすると共に、唐から請来した経典や法具を唐院に収蔵した。貞観8年(866年)、太政官から円珍伝法の公験(くげん、証明書)が与えられた。顕教密教に加えて修験道を兼学する円珍伝法は、これによって政府公認を得たわけであり、天台寺門宗ではこの時をもって開宗と見なしている。貞観10年(868年)、円珍天台宗最高の地位である天台座主就任。以後、没するまでの24年間、その地位にあった。

円珍の没後、比叡山円珍の門流と、慈覚大師円仁の門流との2派に分かれ、両者は事あるごとに対立するようになった。円珍の没後1世紀まりを経た正暦4年(993年)には、円仁派の僧たちが比叡山内にあった円珍派の房舎を打ち壊す騒動があり、両派の対立は決定的となり、円珍派は比叡山下りて、三井寺に移った。比叡山延暦寺を「山門」と別称するのに対し三井寺を「寺門」と称することから、両者の対立抗争を「山門寺門の抗争」などと呼んでいる。比叡山宗徒による三井寺の焼き討ちは永保元年(1081年)を始め、中世末期までに大規模なものだけで10回、小規模なものまで含めると50回にも上るという。

三井寺は、平安時代には朝廷貴族尊崇を集め、中でも藤原道長白河上皇らが深く帰依したことが知られている。これら勢力から寄進等による荘園多数を支配下におき、信州善光寺荘園末寺として記録に著れる。中世以降は源氏など武家信仰も集めた。源氏は、源頼義三井寺に戦勝祈願をしたことから歴代尊崇が篤く、源頼政平家打倒の兵を挙げた時にはこれに協力し、平家を滅ぼした源頼朝も当寺に保護を加えている。頼朝意思を継いだ北条政子もこの方針継承し、建保元年(1214年)に延暦寺に焼き払われた園城寺大内惟義・佐々木広綱・宇都宮蓮生ら在京御家人に命じて直ちに再建させている。しかし、園城寺僧侶として育てられていた源頼家の子公暁叔父である源実朝暗殺するという事件を起こしたために、以後鎌倉幕府より一時冷遇を受ける。だが、北条時頼の信頼が厚かった隆弁が別当就任すると再興され、続く南北朝内乱でも北朝足利氏を支持したことから室町幕府保護を受けた。両幕府のこの厚遇は、強力な権門である延暦寺勢力牽制するために園城寺に対して一定支援をすることが必要であると考えられていたからだと言われている。

文禄4年(1595年)、三井寺豊臣秀吉の怒りに触れ、闕所(寺領没収事実上の廃寺)を命じられている。三井寺が何によって秀吉の怒りを買ったものかは諸説あって定かではない。この結果、三井寺本尊や宝物は他所へ移され、金堂をはじめとする堂宇も強制的に移築された。当時の三井寺金堂は比叡山に移され、延暦寺転法輪堂(釈迦堂)として現存している。慶長3年(1598年)、秀吉は自らの死の直前になって三井寺の再興を許可している。これは死期を悟った秀吉が、霊験あらたかな三井寺祟りを恐れたためとも言われている。秀吉の再興許可を受け、当時の三井寺長吏・道澄が中心となって寺の再興が進められた。現在三井寺の寺観は、ほぼこの頃に整えられたものである

明治維新後は天台宗寺門派を名乗っていたが、1946年以降は天台寺門宗総本山となっている。

右筆(ゆうひつ)は、中世近世に置かれた武家秘書役を行う文官のこと。文章の代筆が本来職務であったが、時代が進むにつれて公文書や記録の作成などを行い、事務官僚としての役目を担うようになった。執筆(しゅひつ)とも呼ばれ、近世以後には祐筆という表記も用いられた。

目次 [非表示]

1 概説

2 鎌倉幕府室町幕府

3 織豊政権

4 江戸幕府

5 関連項目

6 関連作

概説[編集]

初期の武士においては、その全てが文章の正しい様式(書札礼)について知悉しているとは限らず、文盲の者も珍しくは無かった。そこで武士の中には僧侶や家臣の中で、文字を知っている人間書状文書を代筆させることが行われた。やがて武士地位が高まってくると、公私にわたって文書を出す機会が増大するようになった。そこで専門職としての右筆誕生し、右筆文書作成執筆を行わせ、武家はそれに署名花押のみを行うのが一般的となった。これは伝統的に書式のあり方が引き継がれてきたために、自筆文書一般的であった公家とは大きく違うところである武家が発給した文書場合文書作成のもの右筆によるものでも署名花押が発給者当人のものであれば、自筆文書と同じ法的効力を持った。これを右筆書(ゆうひつがき)と呼ぶ(もっとも、足利尊氏のように署名花押まで右筆に任せてしま特殊例外もあった)。

なお、事務煩雑化すると、右筆正式手続を経て決定された事項について自らの職権の一環として文書作成署名を行い、これに主君発給文書と同一の効力を持たせる例も登場する。こうした例は院宣綸旨などに早くから見られ、後に武家の奉書や御教書などにも採用された。

現在では天皇皇后文章の代筆をする宮内庁文書専門員(中島司有、佐伯司朗といった書家が務める)は「祐筆」と呼ばれることがある。

鎌倉幕府室町幕府[編集]

源頼朝鎌倉幕府の原点である鎌倉政権を打ち立てた時に、京都から下級官人が招かれて事務的業務を行ったが、初期において右筆を務めていたのが大江広元である。後に、広元が公文所政所において行政に専念するようになると、平盛時(政所家事)・藤原広綱・藤原邦通らが右筆を務めた。

その後、将軍執権のみならず、引付などの幕府の各機関にも右筆が置かれ、太田氏や三善氏などの官人末裔がその任に当たるようになった。基本的室町幕府もこの制度を引き継いだが、次第に右筆の中から奉行人に任じられて発言力を増大させて、右筆方(奉行衆)と呼ばれる集団構成するようになった。

なお、室町幕府では、行政実務を担当する計方右筆公文書作成担当する外右筆(とのゆうひつ)・作事造営を担当する作事右筆などと言った区別があった。

織豊政権[編集]

戦国時代に入ると、戦時必要文書を発給するための右筆が戦にも同行するようになった。戦国大名から統一政権を打ち立てた織田・豊臣の両政権では右筆衆(ゆうひつしゅう)の制が定められ、右筆衆が行政文書作成するだけではなく、奉行・蔵入地代官などを兼務してその政策決定過程から関与する場合もあった。豊臣政権五奉行であった石田三成長束正家増田長盛は元々豊臣秀吉右筆出身であった。他に右筆衆として著名なもの織田政権の明院良政・武井夕庵・楠長諳・松井友閑・太田牛一、豊臣政権の和久宗是・山中長俊・木下吉隆・安威了佐などがいる。

なお、後述のように豊臣政権の没落後、右筆衆の中には徳川政権によって右筆に登用されたものもおり、右筆衆という言葉江戸幕府でも採用されている。

江戸幕府[編集]

戦国大名としての徳川氏にも右筆存在したと考えられるが、徳川家康三河時代右筆家康勢力拡大と天下掌握の過程奉行代官などの行政職や譜代大名などに採用されたために、江戸幕府成立時に採用されていた右筆は多くは旧室町幕府奉行の子弟(曾我尚祐)や関ヶ原の戦い東軍を支持した豊臣政権右筆衆(大橋重保)、関東地方平定時に家康に仕えた旧後北条氏右筆久保正俊)などであったと考えられている。

徳川将軍家のみならず、諸大名においても同じように家臣の中から右筆祐筆)を登用するのが一般的であったが、館林藩から将軍就任した徳川綱吉は、館林藩から自分右筆江戸城に入れて右筆業務を行わせた。このため一般行政文書作成管理を行う既存の表右筆将軍の側近として将軍文書作成管理を行う奥右筆に分離することとなった。当初は双方の右筆対立関係にあったが、後に表右筆から奥右筆を選定する人事が一般化すると両者の棲み分けが進んだ。奥右筆将軍以外の他者私的関係を結ぶことを禁じられていたが、将軍への文書の取次ぎは側用人奥右筆のみが出来る職務であった。奥右筆承認を得ないと、文書老中などの執政に廻されないこともあった。また奥右筆のために独立した御用部屋が設置され、老中若年寄などから上げられた政策上の問題将軍の指示によって調査・報告を行った。このために、大藩の大名江戸城を陰で仕切る大奥の首脳でも奥右筆との対立を招くことは自己地位を危うくする危険性を孕んでいた。このため、奥右筆の周辺には金品に絡む問題も生じたと言われている。一方、表右筆待遇奥右筆よりも一段下がり、機密には関わらず、判物・朱印状などの一般行政文書作成や諸大名の分限帳や旗本御家人などの名簿を管理した。

2017-01-18

文字が読めるってのは素晴らしいことだ

それだけで人間に生まれて、よかったってもんだ。

しかも私は20世紀日本まれ義務教育プラスアルファ日常生活に不便ないレベルまでもっていってもらえた幸せな部類。

ああ、私は幸せだ。

もし文字が読めなかったら、どうしたよ。

時代小説なんか読んでいると「あたくし、こういうものちょっと……」なんて言って手紙なんかをね、和尚さんやお武家さまに読んでいただいたりするんですよね。

読めることをベースにした、理解できる、考えられるというレベルにはピラミッドの形をしたヒエラルキーがあるけれど、

とりあえず文字が読めてよかった。

日本語だけでも読めてよかった。

いや、どうだろう。

2016-12-14

http://anond.hatelabo.jp/20161214001752

リチャード一世が12世紀のイングランド王だもんな。日本で言うなら頼朝義経みたいな(単純に年代の話だけど)名前ってことになる。

でも案外日本武家名前って長く似たようなの続いてるし、近年の言わばキラキラネームまではいかないにしても、若干使われてる感はあるかも。

信長とかそういうの。

知らねーけど。


あと一般庶民ネームはまた全然違うんだろうね。

12世紀日本庶民ネームなんて知らん。

江戸でも農村都市部でまた違うんだろうし。

それこそ識者の話が聞きたい。

いや普通に新書とかありそうか。

2016-07-27

子あり既婚者男の立場非モテを考える

何か非モテって自分たち社会底辺とか、食物連鎖の一番下とか思ってるみたいだけど、

現実のところ、承認欲求を満たせるかどうかはともかく、子育て負担なしに生きてるって

ちょっとした貴族特権階級みたいなもんだと思うけどな。

貧困低所得結婚できない層は別問題だ。あれは社会問題一種だと思う)

非モテというか、全く女性と縁のない男性層が目立つようになったのは、

もちろん、女性の側にもかなり強力な拒否権が認められるようになったからに違いない。

それは女性自由が拡大した証拠だし、社会進歩だと言える。基本的に良いことだ。

同時に、昔は男女ともに強制的に家庭を気付かされてわけで、男にも子作りの拒否権なかったんだよ。

江戸時代の文献にも、明治大正でも、高度成長期昭和時代であっても、

「家庭から逃げ続ける既婚男」の存在確認できるのは、そういうことなんだ。拒否権がなかったんだよ。

仏門に入るなら別だが、それは武家とか特権階級しか許されていない)

からある意味、「中高年で子なしの独身者」の存在普通に許容されている時点で、

男性自由も拡大した、と肯定的に見ることもできる。

子なし高齢独身者を悪く言う人もいるが、それはその本人の考え方に過ぎないし、現実的に何の影響力もない。←大事

こんなに世の中が自由面白い時代なのに、正直、恋愛結婚

子育てのチャンスに恵まれいくらいで自分卑下したり、人生を諦めたり、社会攻撃するのはもったいない

現代日本は確実に男性にも生きやすい国になっているよ。ちゃんとその自由を謳歌すればいい。

恋愛したことない人は人格が劣っている」なんて思う奴がいたら、そいつらこそが劣った人格の持ち主なだけだよ。

ちなみに、自分結婚したのは、学生時代に気の合うパートーナーと出会たからだけど、

自分自身特別モテるための努力をしたわけでもない(昔から妻に見た目に清潔感がないと怒られている)し、

たまたま同じ目標を共有した現在の妻と出会わなかったら、多分結婚することもなかっただろう。

自分基本的恋愛にも結婚にも子育てにも興味はなかったし、今も昔も妻とは恋人というより親友って感じだ。

流行りのセックスレス問題でいれば、付き合い始め以外はずっとレスだ。妻は大卒直後に出産した)

ところで、たとえ非モテやら中年童貞やらを現実バカにする奴がいるとしても、実はそういうのって

そいつらが「何かをバカしないと精神が保っていられない」ほど屈折した負の感情を引きずっている証拠にすぎないんだよ。

目を合わせたらアカン連中だ。学校と違って世の中は閉鎖環境じゃないから、そういう連中はいくらでも避けられる。

付き合うメリットのない面倒な人の相手するほど慈善精神に溢れていないなら、素直に距離を置いた方がいい。


そもそも、どんな人間であっても、「自分より劣っている」と判断した対象非難することで、

自分の弱さや苦悩や直面している問題から一時的に逃避して、全能感に浸りたくなる瞬間があるだけなんだよ。

から、そういう連中の公開オナニーに付きやってやる必要はない。

まあ、傷ついているふりして、実は傷つけられるのが好きな隠れドMでもないならな。

2016-06-19

[]19:増田の共謀

「どういうことぢゃ!?

 増田典厩はひさしぶりに実家に帰ってきた娘を詰問した。彼女はまず平伏した。

 首尾良く増田家(八)内部に入り込んだ娘は増河の合戦時点では正確な情報を送ってきていた。

そのおかげで増田家(四)は思い切って兵力を東に集中し、死戦に勝利することができたのだ。

 帰ってきたら昇級だと褒められていた娘だが、みやこを巡る増田家と増田家(士)の戦いには正反対のことをした。

増田家と同盟の後増田家が北の国境に十分な兵力を残していると偽り、主家の判断を誤らせたのである

実際に残っていた野戦戦力はカラトラヴァ騎士団くらいのものであった。

 増田家(四)は増田中弐船団の難破者を助けたことで増田海側での中入り策を知っていたが、

さらに反対側の海岸でも同様の作戦を行うとは予想していなかった。

もしも、知っていれば武力に訴えなくても旧増田家(六)領の残り半分くらいは切り取れた可能性がある。

 歩き巫女ゆっくりと顔をあげた。強いまなざしで父を見つめる。

少し頬を染めてから唇を開いた。

「実は……漏らしてしまったのです」

 もちろん大便のことである

「あわてふためくわたくしを見て、あの方はこう仰いました。「ここで我が漏らしたのは二人だけの内緒だぞ」と……」

 増田典厩の瞳が揺れた。上を向いて瞼を閉じる。一筋の涙が皺だらけの頬を伝った。

美談じゃな」

はい増田島に生まれた者なら誰でも一度は漏らすもの

 でも、多くの人はそれを認めることができません。

 その弱さを他人の分まで背負って泰然としておられるあの方は真に強き方だと思いました」

「……だからと言って主家を売っていいわけがあろうか」

 娘は頬をこわばらせた。

「ええ、おめおめと戻ってこられる身とは思っておりません。

 ただ、これだけはわたくしの口から父上に直接お話たかったのです」

 いま増田家(八)は恒常的な和睦を求めている。

現状に少し変更を加えるだけで各家の領土固定化し、増田島の戦乱を終結させたい。

 具体的には増田家(四)が旧増田家(二)と旧増田家(六)の半分を割譲し、増田家(一・三・四)を治める。

割譲された旧増田家(二)は増田家(五)に分配し、旧増田家(六)の残り半分を放出する。

中心となる増田家(八)は本土の他に(六・七・九)を治める。

増田家(八)の下に入りながら復興をなしとげた増田家(十)が(士)の領土支配する。

 彼らの希望はこのような国割りである

増田家(士)との戦いに多大な貢献をした増田家(五)は土地を重視するため、少しでも領地をわけ与える必要がある。

また、重心となるべき増田家(八)は明確に最大の勢力でなければならない。

 このような事情から考えられた領土分配は、つまるところ彼らの都合に過ぎず、増田家(四)内部の気持ちをおもんばかっていない。

 確かに国力では圧倒される立場だが、仮想敵一枚岩になりきれず、以前行われた旧増田領(二)での直接対決でも自分たちが快勝している。

 仮に当主が和睦案に納得しても家臣たちが納得しないであろう。

増田典厩は娘に説明した。

 増田家(六)の半分だけであっても領土割譲は難しい。

そして、領土割譲が皆無では増田家(八)(というより後増田家)も和睦を受け入れない。

 やはり一戦に及ぶしかない。

 そして戦いが始まってしまえば増田家(四)の当主最後まで勝利を追求するに違いなかった。

「いくさはイヤにござります!」

「シエーーッ!!」

 増田典厩は娘の言葉に横から頭を抱えるポーズを取った。武家の娘が何を言う……。

「考えてくださいませ。両家のいくさとなれば主戦場になるのは、わたくしたちの故郷でございます!」

「う、うむ」

「父上は主家や増田家(八)の思惑ばかり考えていらっしゃいますが、

 もっとも大切にするべきなのは果たして何なのですか?

 おめおめ帰ってきたのは、それをどうしてもお聞きしたかたからです」

 彼女は激烈な調子で言い放って、顔を青ざめさせた。増田典厩は長時間腕組みをして考え込んだ。

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2016-05-21

http://anond.hatelabo.jp/20160521164823

貞操観念が厳しく不貞を悪としていたのは血筋を守らねばならない武家の話ですね

不貞は死罪というような武家にとっては厳しい時代です

農民フリーセックスで誰の子供かわからない子たちを長屋で共同で育てたりしてました

そのほうが子ども生存率が最終的に上がるからというような

そちらはそちらで別の厳しさのある時代ですね

2016-03-16

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江戸時代は長子(地域によっては女性相続対象)以外は死ねって世の中だかね。

有力武家ですら次男以降は穀潰し扱いで、そういう連中が集まって愚連隊みたいになって治安悪化してたし

2016-02-28

死霊術師井上

死霊術師としてのすべては、今は亡き祖母から伝習した。大学では文学部に進学した。これはもともと歴史学に興味があったことと、死霊術師としていつか遭遇するかも知ない事態に備えるためだった。

大学3年生の終わりころ、死霊術師としていよいよその事態を迎えることになった。

ある日テレビを見ていると、旅番組のようなものがやっていて、滋賀県西部の山林地帯をいつも見る芸能人が歩いていた。何の変哲もない番組だった。しかし、テレビを介しても充分過ぎるほどに、死者が放つ霊の波動が伝わってきた。もちろん、普段生活していてもその種の死者の波動を感じることはある。霊波は一般に、腐ったり火葬したりして身体が失われると弱まる。またたとえ身体があっても、時間経過によっても霊の波動は弱まる。人間やその他の生き物は、その場にとどまろうという意志を長くはもちえないのだ。恨みだとか、一般に強そうと言われる意志ですらそうだ。こういうのは仏教的に言うと成仏していくってことなんだろう。魂は残らない。めったには。

テレビで知った、滋賀県の霊波は別次元と言えるほど古く、そして強力だった。おそらく、亡骸がある程度そのままの、古い死体があるのだろう。そして、強靭意志21世紀でも保っている。

死体と強い意志。これが重要だ。死者蘇生の用件を満たしている。そしてかなり古い。

腕試しにはちょうどいい。見つけてしまったらもう止められない。死霊術の行使者として、その興味関心を止めることはできない。

祖母から習った作法で、霊波の質から霊が生きた(死んだ?)時代のおおよその年代を感じとった。520年+-30年前くらい? 手元の『日本史辞典』を紐解く。室町後期? 手が震える。研究室で『国史辞典』にかぶりついた。

その頃の近江一般に長享・延徳の乱と呼ばれる動乱期にあった。守護六角氏討伐のために将軍足利義尚が長く近江に陣を設けていた。どうやら死体はこの時期のものらしい。

私は大学研究室院生の先輩に聴いてその時期の文献を学んだ。また隣りの言語学研究室国文学研究室に行って、室町時代言語やその発音について質問した。かなり難しい。筆談の方がいいかもしれない、と祖母アドバイスを実感をもって思い出した。まさか室町期の死体に会えるなんて。せいぜい行って天保期くらいだと思っていた。古い死体なんてもの時代を遡るにつれて加速度的に少なくなる。祖母明治4年に死んだ男の死体蘇生したことがあると言う。これでもだいぶん古い方だ。室町期の死体なんて、祖母からもきいたことがない。後で聞けば、先輩方は私が卒論室町時代後期を扱うから一生懸命調べていると勘違いしていたそうだ。


春休み近江に旅した。大きなスーツケースを持って。蓬莱なんてお誂えむけの地名だ。山の方に入っていく。山は静かだった。ほどなくして現場に到着した。霊波は強い耳鳴りのような形で私の身体に具現する。こんな古くて強い霊波、他の死霊術師が気付かなかったのはちょっと不思議だ。まぁ波長が合う、合わない、はかなり厳密だから。私にもってこいのチャンスなのだ。私は女ながらオリエンテーリング部で体を鍛えていたから山歩きは結構得意なのだオリエンテーリングなんて全然興味が無かったんだけど、新人歓迎コンパで迎えてくれた先輩方の雰囲気がすごく良かった。サークルでは、大学生なりだけど、人との付き合い方、間の取り方を学べたと思う。高校生の時にはあまり意識できなかった、人間(じんかん)の距離感や発話。

山道から沢に下りる。死体が残った理由が、何となくわかった。日本では死体はすぐ腐って亡くなってしまう。しかし沢下にはぽっかりと、知られざる洞窟が顔をのぞかせていた。多分ここに死体がある。相違ないだろう。もしかしたら近年はずっと埋まっていて、最近になって地震などで再び穴が地表に現れたのかもしれない。だから今まで波動に誰も気づかなかったのかも? 洞窟は沢が近く低温が保たれ死体が保存されたのかも。あるいは永久凍土なんかがあって風穴で涼しいのかも。ま、これを考えても詮無い。とにかく、死体があるのは明らかなのだから

ひんやりした洞窟に足を踏み入れる。かなり急だ。いよいよだ。震えるほどだ。周囲には驚かれるけれど、死霊術の技術は、実は私にとってはとても簡単なものだ。血も継いでいるし、祖母と言う佳き師もあったから。祖母もいっていたことだが、基本的死霊術師は技術的な部分はそんなに問題にならない。むしろ重要なのは、死者と会い、契約する時の対話の仕方だ。死者が生きた時代言語常識を、こちらが把握してしっかり対話せねばならない。そうしないと蘇生に応じないこともあるだろうし、蘇生したい旨すら伝えられないこともあるだろう。死霊を怒らせてしまっては、あるいは成仏させてしまっては元も子もない。死霊術師の実力はここで決まる。このことを上手くやるために、私は大学では文学部へ行ったのだ。もし死霊術師に生まれなかったら、稲の光合成研究をしに理学部農学部へ行きたかった。

洞窟の奥にややひらけた場所があり、その壁によりかかるように木製の箱型の人工物が見える。…ああ、かなり古い牛車だ。小八葉の牛車? 公家が移動手段として用いていたもの。八葉の大きさ、小さい? 大きい? これで身分が大体分かるのだが…肝腎の大きさが、大きいのか小さいのかわからない。そんなの文献に載ってない。牛車なんて初めて見るんだ。そもそも近江に牛車。やや不可解? 足利義尚近江出陣の際には公家近江まで出向いたというから牛車できてたのか? それにしたって牛車で近江まで行くの? なにもかも自信が無くなってくる。

これではだめだ。祖母の言によれば、まずはその人をそのまま、そのままに感じるのだ。先入主観は退けるのだ。牛車の文様が大八葉だろうが小八葉だろうが、なかに居る主こそを見るべきなのだ

精神を澄ませる。霊とは頭の中で会話する。結局、『太平記』のテキストをメインに準備を進めていた。『太平記』は南北朝時代を描いた軍記物で、室町後期には往来物として身分を問わず人々に広まっていた。死体教養がいかほどであっても『太平記』の語調なら大丈夫ではないか、と考えた。とうぜんテキスト変わっているんだろうけど…。

太平記』の文法で私は語りかける。

「私はあなたよりも後世を生きる人間で、その間に人間が語る言葉も変わってしまった。この言葉あなたにどの程度通じるか私にはわからないが、どうか話を聞いてほしい」。ここまでテンプレ国文学研究室富田先輩ありがとう

…牛車がガタガタと動く。御簾が超自然的な動きを示し、内の暗闇をあらわにする。お化けが怖い人はびっくりするんだろうけどもちろん私はそんなことはない。打掛の裾が見える。小袖が二重? そして茶色く干からびた手のひらが…暗くてよく見えない…が、死者に話しかけた段階で幽界との淡いが生起し、この世ならざる強烈なイメージ五感以外から五感を経由し認知される。死体は髪の長い公家女性が見える。平安時代のオカメ十二単イメージがあるけど、それより軽装だ。でも相当めかしこんでいる。この時代人間は小さいしガリガリだな。さぁ、いよいよだ。頑張って蘇生素体になってくれるよう語りかけよう。

「…私の寂滅からどれくらいの時間が経過しまたか?」むむ、なんとかこれくらいなら聴き取れる。うほっ、「太平記読み」専攻の坂田先輩ありがとう! 高校非常勤やりながら大変でしょうけど博論頑張ってください。

「五百有余年でございます。『太平記』を読んであなた時代言葉を学びました」「…私も『源氏物語』で古の言葉の遣いに触れました。」「実は、…今日あなたお話しがあって武蔵国から参ったのです」いよいよ本題だ。

あなたは強い心をお持ちで五百有余年をお過ごしになられました。そして幸いにしてお体も崩れず残されております。私はあなた精神と身体とを結び付かせ、再び現し世に復することができます。再び洞窟の外に出て暮らしてみるのはいかがでしょうか」

「たしかに私はまだ黄泉の食物を口にしておりませんね」さすが公家の娘だけある。当意即妙にこたえねば。「私なら黄泉比良坂をあなたを連れて戻ることができます。」「どうして私を選ぶのです」「あなたのように長らく意識と身体とを保つ例はめったにないことなのです。」実はこれはあまり理由になっていない。死霊術師の衝動説明するには、私には言葉が足りない。彼女が尋ねる。

「当時(筆者注:ここでは現在の事を指す)は死者を供養する作法は未だ仏式を用いますか?」意外な質問だ。自らの供養を望んでいるのか? 「ええ、大分形はかわっておりますが仏の教えは今でも通用しております」「ならば既に死んだ者を私なりのやり方で供養して、意味があるということですね」…あやうく意味を取り損ねるところだった。ちょっと不可解な質問だ。彼女は何を考えているのか。彼女の事を深く知った今になって考えると、これは彼女なりにかなり考え抜かれた、ある種の哲学のようなものだった。彼女の培った供養の作法。そのルールがもし現代で途絶えていたら。つまり仏教現代に伝わらなくて、もし私たちが何か違う祈りの作法で死者を弔っていたら。きっと彼女蘇生に応じなかっただろう。彼女の知っているルール現代でも供養ができる。これが彼女にとって重要だったのだ。

「私は京都六角富小路邸宅がある公家(筆者注:ここでは「こうけ」って読んでね!)に生まれました。大乱(筆者注:ここでは応仁の乱を指す)の後の騒擾の世でありますから、私は近江根拠にする武家の御仁に嫁ぐことになりました。いよいよ渡嫁のとき、牛車が谷に落ちて私は命を落としたのです。嫁ぐことが決まってから武家奉公人生活が如何様であるか、主人が如何なる稟性を持つのか。和歌は読めるのか古典は存じているのか。いつも想像していました。」死霊術師の常識から考えれば、それだけでここまで精神は保てない。私はほとんど確信をもって尋ねた。「もちろんそれだけで想いを保つことはできなかったでしょう。どうして。」

彼女はここで初めて表情を私に感じさせた。「実は洛中で一度彼の人をお見かけ申上げたことがあるのです。私の生家は上って四位の家柄ですから、ふらふらと外にでてもあまり咎められることは有りませんでした。ある日京師が物騒になり武家の人が20騎ばかり邸宅の前を過ぎりました。颯爽と武者を連れていたのが、後々判ったことですが我が主人となる方でありました」え? それだけ。うーん恋愛感情ってわからないけど、そんな単純な感情で何百年も持つのかな? 単純だからこそ長持ちする? わからんね。すると彼女が続ける。

「死んだあとはずっと新しい生活の事を考えていました。武家生活。今まで見知った知識や噂話全てからひとつひとつ、未だ来ぬ時の先をずっと、ひとつひとつ限りなく。一日の起きてから寝るまで衣服の糸先から世情に至るまで。とにかくひとつひとつ。世に現れるであろう現象をすべて想像しうる限り、ひとつひとつ。彼や周囲の人間との交わされたであろう会話をひとつひとつ。彼の人とのありうべき時と出来ごとの全てをひとつひとつ想像していたのです。そうしたら、ええと、五百有余年過ぎ去っていたというわけです。」そうして彼女は莞爾した。私は一発でこの女性を好ましいと思ってしまった。こんな偏執的で叮嚀な思考回路を持った人があるだろうか。この人なら。彼女21世紀平成の世の中で夫となるはずだった人の菩提を弔わせたり、あるいは彼の一族についてその後どうなったか調べさせたりすることは、彼女の心性をおそらく負に傾けることはないだろう。ひとつひとつ彼女には想像したことの自分なりの答え合わせをしてもらえたら。私がそのお手伝いができたら。ちょっと勝手か。とにかく、この人なら大丈夫だ。

好奇心イマジネーションとを併せ持って、平成の世まで意識を有した五条顕子姫の死体は、その意識と共に、こうして私の赤羽マンションにやってきた。

2016-02-26

http://anond.hatelabo.jp/20160226173805

それゆえの美人画春画浮世絵)、遊郭茶屋ブーム

武家はともかく江戸では庶民家庭の妻が浮気とかも普通にあったみたいだし

現代と同じだな

2016-02-23

きりちゃん

真田丸」のきりちゃんこ長澤まさみがずいぶんDISられてるようなんだけどさ。

あの感じでウザがられることまで含めて役として機能してると思うし、

何より「いい……」と思ってしまっているのでその辺のことを説明する。

ムダに丁寧に。

 

・演技が雑でいい

いちおう若手から中堅にさしかかってる長澤まさみ

あいアメリカみたいな大振りの演技をしまくってると

いかにも「大河でそれはねーわ」って思われるのはわかるんだけど、

あいう「うわっ、雑っ」って思わせる演技が

武家の娘だけどまだガサツな田舎娘という造形にちゃんとハマっている。

ムカつくとしたらそれは長澤まさみの術中である

ほんとに十代に見えてくる堺雅人大泉洋バケモノぶりに比べると落ちるけど、

いい仕事するようになったなぁ……とわりに思う。

 

セリフがドギツくていい

これは脚本のほうの良さになるけど、

人質に使える駒が減って〜」とか「(とりの居場所を)知りません」とか

「お松様もこの人のせいで死んだんです」とか、

もう100%反感買う前提のドギツいセリフを言ってくるのが良い。

女優として駆け出しみたいな位置の子だったら可哀想しかないんだけど、

ヘイト集めの役を任されてるのって大したもんじゃないか、と思う。

だいたい即座に他の登場人物フォローされて(怒られて)るあたり、

ちゃんと視聴者心理計算して書いているぞ、という

コミュニケーションとして機能しているのが妙味である

 

服装がゆったりしてていい

長澤まさみ本来モデル体型なので、

どうしてもピシッとした見栄えのする格好をさせられがちなんだけど、

真田丸」ではそのへんも無視である

子供であることを表現するためもあるんだろうけど、

わざと膨らませて縦横比を変えるみたいな着方をさせられてて良い。

なんていうの、肩幅を活かした着こなし?

あんまり華奢でガラス細工みたいな体型の子

あいキーキーいう演技をやってたらほんとに腹立つと思うんだけど、

なんとなく「こいつならしょうがないか……」という体型に

ギリギリで見えていると思う。

体型の問題かって言われそうだけど、体型の問題です。

 

そんな感じで、お人形扱いじゃなくちゃんと女優として使い倒されてる雰囲気

がんばれ、と思わず唸ってしまうのです。

これからヘイトを集める展開が続くと思われるので楽しみである

2015-12-17

http://anond.hatelabo.jp/20151217010814

武家は別姓だよ? 武家のほうが儒教の影響が強かったからな

同姓になったのは、欧米の影響と、明治政府が別姓にしようとしたのに庶民の慣習が変わらなかったことが原因でしょ

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