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2022-04-09

日本映画界の大御所原田眞人監督パワハラ告発反論事実無根誹謗中傷」 文=Business Journal編集部 ニュースサイトで読む: https://biz-journal.jp/2022/04/post_288951.html Copyright © Business Journal All Rights Reserved.

日本映画界の大御所原田眞人監督パワハラ告発反論事実無根誹謗中傷

文=Business Journal編集部


ニュースサイトで読む: https://biz-journal.jp/2022/04/post_288951.html

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>一連の告発について当サイト原田氏に見解を問い合わせたところ、次のような回答を得た。

~(略)~

>ちょい役でも大切にすることから、私の作品に参加したいという無名役者が多いことに繋がっています

 参加したいのは大作映画からであって、原田組だからというわけではないかもしれませんが、原田氏はそう思うことはないでしょうね。

 この作品には参加したいけど、原田組ならやめとくか…と思う役者の方が多いか少ないかはわかりません。


彼女セリフは数シーン程度の短いものだったので、あとで吹き替えればいいのですが、本人のために、なんとか演じ切ってもらいたかったため、ぎりぎりまでねばっているうちに泣き出したのです。私は、多数の俳優女優撮影をしてきた経験から彼女の涙は悔し涙だと理解しています。いずれにせよ、彼女セリフは別の女優吹き替えてもらっています

 人の心は複雑なので、自分の不甲斐なさへの悔し涙かもしれません。悔しさ100%というのは原田氏にとっては都合の良い解釈ではあります。「悔しさからだと思う。私の行動は適切だった」ということも可能ですし、「悔しさからだと思うが、私のやり方にも反省すべき点があったかもしれない」と主張することも可能でした。



現場離脱するスタッフが出ることはありますが、大抵が本人の事情です。私に怒鳴られたからやめた、というスタッフがいたという記憶はありません。

 会社をやめるとき理由説明する言葉100%真実でしょうか?

 上司パワハラ野郎から辞めよう、と思うとき、正直に申し出る人はどれだけいるでしょうか?

 家族病気になったので…とか、カドを立てない理由を選んで辞める人の方が多いのではないでしょうか?

 子育てが大変で…と言って辞める人も、本当は給与含む職場環境が良ければ辞めないのではないでしょうか?

 「私に怒鳴られたからやめた、というスタッフがいたという記憶はありませんが、もしかしたらそういうこともあったかもしれません」と言ってもよかった。

 想像力は乏しいことがわかりますね。




スタッフの大多数は、原田組の現場は愉しい、と言ってくれます

 △残っているスタッフの大多数は、原田組の現場は愉しい、と言ってくれます

 裸の王様というお話がありますね。

 愉しいと思える人だけが残った生存バイアスだったらまだ良い方ですが、おべんちゃら、生存戦略かもしれませんね。

 パワハラ野郎の下で働いていて、辞めて次に同等以上の職場に移れるあてもない時に、”原田組の現場はクソみたいだ”、と言うのは自分の首を絞めるだけですからね。

 「スタッフの大多数は、原田組の現場は愉しい、と言ってくれますが、つらくて辞めた人もいたかもしれません。改善できる点があるか、考えてみます」と言うこともできましたが、そうではなかった。

 想像力が足りないことがわかりますね。


映画ジャンゴ 繫がれざる者』で、奴隷支配する富豪白人キャンディ(ディカプリオ)の側用人として奴隷を手ひどく扱うスティーブン(サミュエルジャクソン)が黒人だったように、原田組に「適応」した人が「愉しい」と思っていたの可能性もあります増田想像力が過剰なのかもしれませんが。

増田にわかやすいようにQuoteすれば「封建社会の完成形は少数のサディストと多数のマゾヒストによって構成されるの」ですね。


上記3点、要するに原田氏は「私は悪くない」という被害者意識は強く、「私が悪かったかもしれない」という自省の意識には乏しいのですね。

謝ったら死ぬ病という概念がありますが、そっち系



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2021-06-25

「拝察」の件

宦官側用人といった「権力者の声を伝える役職」がいか権力を握りやすいかよく分かったよな

歴史実証したみたいでちょっと高揚したよ

2020-02-28

側用人政治

ここ最近首相周辺のニュースを見ていると、首相閣僚統一された見解のもと何かを発表する、

という当然あるべき光景ほとんどないように思える

閣僚閣僚自分の所管について語るが、それについて首相と綿密にコミュニケーションを取ってるようには見えない

その代わりにニュースに現れる頻度が増えてきている単語首相佐官

首相意思を実現するために動いているのは閣僚ではなく補佐官であるかのように見える

将軍老中意見無視するために側用人を間に置いた歴史とだぶる

実質的意思決定は内閣閣僚たちではなく首相本人と少数の補佐官によって行われているのでは?

首相が何考えているのか閣僚殆どわかってないのでは?

疑念が拭えない

2017-05-19

右筆(ゆうひつ)は、中世近世に置かれた武家秘書役を行う文官のこと。文章の代筆が本来職務であったが、時代が進むにつれて公文書や記録の作成などを行い、事務官僚としての役目を担うようになった。執筆(しゅひつ)とも呼ばれ、近世以後には祐筆という表記も用いられた。

目次 [非表示]

1 概説

2 鎌倉幕府室町幕府

3 織豊政権

4 江戸幕府

5 関連項目

6 関連作

概説[編集]

初期の武士においては、その全てが文章の正しい様式(書札礼)について知悉しているとは限らず、文盲の者も珍しくは無かった。そこで武士の中には僧侶や家臣の中で、文字を知っている人間書状文書を代筆させることが行われた。やがて武士地位が高まってくると、公私にわたって文書を出す機会が増大するようになった。そこで専門職としての右筆誕生し、右筆文書作成執筆を行わせ、武家はそれに署名花押のみを行うのが一般的となった。これは伝統的に書式のあり方が引き継がれてきたために、自筆文書一般的であった公家とは大きく違うところである武家が発給した文書場合文書作成のもの右筆によるものでも署名花押が発給者当人のものであれば、自筆文書と同じ法的効力を持った。これを右筆書(ゆうひつがき)と呼ぶ(もっとも、足利尊氏のように署名花押まで右筆に任せてしま特殊例外もあった)。

なお、事務煩雑化すると、右筆正式手続を経て決定された事項について自らの職権の一環として文書作成署名を行い、これに主君発給文書と同一の効力を持たせる例も登場する。こうした例は院宣綸旨などに早くから見られ、後に武家の奉書や御教書などにも採用された。

現在では天皇皇后文章の代筆をする宮内庁文書専門員(中島司有、佐伯司朗といった書家が務める)は「祐筆」と呼ばれることがある。

鎌倉幕府室町幕府[編集]

源頼朝鎌倉幕府の原点である鎌倉政権を打ち立てた時に、京都から下級官人が招かれて事務的業務を行ったが、初期において右筆を務めていたのが大江広元である。後に、広元が公文所政所において行政に専念するようになると、平盛時(政所家事)・藤原広綱・藤原邦通らが右筆を務めた。

その後、将軍執権のみならず、引付などの幕府の各機関にも右筆が置かれ、太田氏や三善氏などの官人末裔がその任に当たるようになった。基本的室町幕府もこの制度を引き継いだが、次第に右筆の中から奉行人に任じられて発言力を増大させて、右筆方(奉行衆)と呼ばれる集団構成するようになった。

なお、室町幕府では、行政実務を担当する計方右筆公文書作成担当する外右筆(とのゆうひつ)・作事造営を担当する作事右筆などと言った区別があった。

織豊政権[編集]

戦国時代に入ると、戦時必要文書を発給するための右筆が戦にも同行するようになった。戦国大名から統一政権を打ち立てた織田・豊臣の両政権では右筆衆(ゆうひつしゅう)の制が定められ、右筆衆が行政文書作成するだけではなく、奉行・蔵入地代官などを兼務してその政策決定過程から関与する場合もあった。豊臣政権五奉行であった石田三成長束正家増田長盛は元々豊臣秀吉右筆出身であった。他に右筆衆として著名なもの織田政権の明院良政・武井夕庵・楠長諳・松井友閑・太田牛一、豊臣政権の和久宗是・山中長俊・木下吉隆・安威了佐などがいる。

なお、後述のように豊臣政権の没落後、右筆衆の中には徳川政権によって右筆に登用されたものもおり、右筆衆という言葉江戸幕府でも採用されている。

江戸幕府[編集]

戦国大名としての徳川氏にも右筆存在したと考えられるが、徳川家康三河時代右筆家康勢力拡大と天下掌握の過程奉行代官などの行政職や譜代大名などに採用されたために、江戸幕府成立時に採用されていた右筆は多くは旧室町幕府奉行の子弟(曾我尚祐)や関ヶ原の戦い東軍を支持した豊臣政権右筆衆(大橋重保)、関東地方平定時に家康に仕えた旧後北条氏右筆久保正俊)などであったと考えられている。

徳川将軍家のみならず、諸大名においても同じように家臣の中から右筆祐筆)を登用するのが一般的であったが、館林藩から将軍就任した徳川綱吉は、館林藩から自分右筆江戸城に入れて右筆業務を行わせた。このため一般行政文書作成管理を行う既存の表右筆将軍の側近として将軍文書作成管理を行う奥右筆に分離することとなった。当初は双方の右筆対立関係にあったが、後に表右筆から奥右筆を選定する人事が一般化すると両者の棲み分けが進んだ。奥右筆将軍以外の他者私的関係を結ぶことを禁じられていたが、将軍への文書の取次ぎは側用人奥右筆のみが出来る職務であった。奥右筆承認を得ないと、文書老中などの執政に廻されないこともあった。また奥右筆のために独立した御用部屋が設置され、老中若年寄などから上げられた政策上の問題将軍の指示によって調査・報告を行った。このために、大藩の大名江戸城を陰で仕切る大奥の首脳でも奥右筆との対立を招くことは自己地位を危うくする危険性を孕んでいた。このため、奥右筆の周辺には金品に絡む問題も生じたと言われている。一方、表右筆待遇奥右筆よりも一段下がり、機密には関わらず、判物・朱印状などの一般行政文書作成や諸大名の分限帳や旗本御家人などの名簿を管理した。

2011-06-06

元禄時代に見る平成運命

元禄時代(げんろくじだい)

 

狭義には元禄年間(1688年―1704年)をいう

綱吉将軍権威を高め幕政を主導(この間大名旗本の改易断行)して,

固定化した制度・格式を改革】,勘定吟味役を設け幕府直轄領支配を刷新。

 

諸国国絵図・郷帳を作成(以降の相論裁許の典拠となる),

風俗取締まり・忠孝道徳の制札など 【幕府権力人民生活への徹底化】を図った。

 

この時期農業生産・商品経済の発展・貨幣流通の増大(元禄金銀改鋳)などによる経済成長期で,

町人層が台頭し元禄文化が開花した

しか側用人柳沢吉保(よしやす)の重用,生類憐みの令による【弊害が表面化】,

1703年の大地震,1707年の富士山噴火など【天災あいつぎ】,【幕府経済,世相などを次第に後退】させた。

2008-08-14

http://anond.hatelabo.jp/20080814175625

世の中の業種を落語でつかわれる言葉で訳してみる

建設業 = のんぼりくんだり持ち

コンサル= 太鼓持ち

卸売業 = 仲買人

人材派遣= 口利き屋

IT業界 = 火附盗賊改火附盗賊

広告業 = 瓦屋

公務員 = 側用人

警察官 = 岡引

タクシードライバー = かご屋

芸能人 = 歌舞伎役者

小売 = こまもの屋

自衛隊 = 用心棒

 
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