はてなキーワード: 増田長盛とは
増田 長盛(ました ながもり)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。豊臣政権五奉行の第三席。父母は不詳、弟に増田長俊、子に盛次、長勝、新兵衛。官位は従五位下・右衛門少尉。
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1 生涯
1.1 仕官以前
2 子孫
3 主な家臣
3.1 一門衆
3.2 重臣
3.3 その他
4 脚注
4.1 注釈
4.2 出典
5 関連項目
生涯[編集]
生地は2つの説があり、1つは尾張国中島郡増田村(現在の愛知県稲沢市増田町)[注釈 1]だったという説、もう1つは近江国浅井郡益田郷(現在の滋賀県長浜市益田町)[注釈 2]だったという説がある。上野国に存在した増田氏との関係は不明である。
秀吉に仕官する以前の経歴は明らかでないが、一向宗徒であったという説がある。永禄7年(1564年)側室との間に長男・長勝を儲けている。
天正元年(1573年)、28歳の長盛は、まだ織田信長の家臣であった羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)に召し出され[注釈 3]200石で仕えた[1]が、この時期に正室を迎えたと見え、天正8年(1580年)、嫡男・盛次が誕生している。盛次の誕生に際し、銘吉光九寸五分の短刀を与えたことが盛次討死後、乳母の口から語られて記録に残されている。
秀吉の麾下で中国攻めをはじめ多くの戦に従軍し、鳥取城攻めでは「陣中萬の物商の奉行」を命じられた。天正10年(1582年)には奏者に任じられ、上杉景勝との外交交渉などを担当した。同年の吉田兼見の日記に名前が登場している。
天正12年(1584年)3月、小牧・長久手の戦いでは先陣を務めて兜首二つを取る功を上げ、この功績で2万石に加増され、翌天正13年(1585年)3月の紀州攻めでは、大谷吉継と共に2,000の兵を率いて従軍、根来衆の津田監物、西谷延命院を斬った武功があったとされ(『根来寺焼討太田責細記』)、従五位下・右衛門尉に叙任されている。
天正18年(1590年)の小田原征伐においては里見義康担当の申次となり、安房国で差出検地の施行と知行宛行状の発給を行っており[2][3]、後北条氏が滅亡すると、さらに下野・常陸・安房の大名に対する豊臣政権の取次となった[4]。この年、中村一氏が駿河国駿府14万石に移封になったのを受け、近江国水口6万石を拝領している。
太閤検地では石田三成、長束正家らと共に中心的な役割を担い、近江国、美濃国、越後国などの要地の検地奉行を務めた。普請に積極的で、京都では鴨川に架かる三条大橋・五条大橋の改修工事にもあたり、三条大橋には今も長盛の名が刻まれる。伏見城の改修も分担した。
文禄元年(1592年)からの文禄の役では、石田三成、大谷吉継とともに朝鮮に渡って漢城に駐留し、奉行として占領地統治や兵站に携わった他、碧蹄館の戦いや幸州山城の戦いにも参加している。
文禄4年(1595年、豊臣秀次が秀吉の命で切腹する「秀次事件」が起きると、長束正家と共に秀吉との間に対立が生じた豊臣秀次の老臣を糾問するなどしている。文禄5年(1596年)にはサン=フェリペ号事件の処理で土佐に赴き、このときの対応が秀吉によるキリスト教(フランシスコ会)の弾圧(日本二十六聖人の殉教)の端緒を開いた。
文禄4年(1595年)、豊臣秀長の後を継いだ豊臣秀保が没すると7月、大和国郡山城20万石の所領を与えられる。高田一英・浅井井頼ら大和大納言家の旧臣の多くは長盛が召抱えた。長盛はまた郡山城に総堀をめぐらす大掛かりな普請を行った。東では秋篠川の流れを東に変えて水流を佐保川に落とし、西に多数の溜池を繋いで堀となすなどした。この普請のために大和中から夫役が徴発され、普請は翌文禄5年(1596年)に完成を見た。慶長元年(1596年)には紀伊国・和泉国の蔵入地の管理を委ねられている。秀吉の晩年には五奉行となる。慶長2年(1597年)には再び安房国を訪れて、総検地を施行している[2][3]。
慶長の役では開戦後国内にいたが、慶長4年(1599年)に予定されていた大規模攻勢では福島正則・石田三成とともに出征軍の大将となることが決定していた[5]。しかし、慶長3年(1598年)8月に秀吉が没したためこの計画は実現しなかった。
慶長3年(1598年)に秀吉が没すると、石田三成は反徳川家康の立場を鮮明にし、長盛もこれに与して打倒家康の謀議に参加。慶長5年(1600年)には長束正家や前田玄以など五奉行連判で家康の悪事を糾弾する弾劾書を示し、五大老の毛利輝元や宇喜多秀家を擁立して挙兵、西国大名に西軍加担を要請する文書を送るなど精力的に活動した。
伏見城攻めには自ら参加し[注釈 4]、重臣・福原清左衛門をして城内に籠る甲賀衆に寝返りを促し、落城に導いている(甲賀郡志)。大津城の戦いには一門の増田作左衛門を陣代として軍勢を派遣し、増田勢は大津城の湖水方面から城壁を越えて乗り込み攻撃した。同城の戦いではまた、家臣・中村金六が敵方の勇士・浅見藤右衛門と組み打ちし功名をあげた。 しかし、一方で家康に三成の挙兵を内通し、また三成の資金援助要請も渋るなど対東軍への保身工作も講じている。9月15日に行われた関ヶ原の戦いには参加せず、毛利輝元とともに大坂城守備部隊として西の丸に兵3,000を率いて駐屯。戦後の9月25日、出家して謝罪し、9月27日に大坂城西の丸にて沙汰を申し渡され改易となる。その身柄は高野山に預けられた。
後に高野山を出て岩槻城主・高力清長預かりとなる。慶長19年(1614年)8月、家康より召喚され大坂方への和睦の仲介を依頼されるもこれを断る。元和元年(1615年)、尾張藩主・徳川義直に仕えていた息子の増田盛次が長盛との相談の上で義直の了解を取り大坂夏の陣で尾張家を出奔して豊臣氏に与したが、戦後この責任を問われ自害を命じられた。享年71。
三白眼であり豊臣家を滅ぼした元凶ではないかと後世に語り継がれている。安藤英男は、長盛が三成失脚後に100万石以上に相当する豊臣氏の蔵入地を一括管理していた点を指摘し、長盛が家康に通じずに蔵入地の100万石がもたらす資金・人員を豊臣家及び西軍のために振り向けたならば、関ヶ原の戦況も西軍有利に転じた可能性があったとして輝元とともに西軍敗戦の原因と分析している。
墓所は埼玉県新座市の金鳳山平林寺。当初、騎西郡金重村にあった平林寺に葬られたが、松平信綱によって平林寺が移転された際、新座郡野火止に移った平林寺の境内に移された。明治年間、子孫が墓石を再度移転している。
右筆(ゆうひつ)は、中世・近世に置かれた武家の秘書役を行う文官のこと。文章の代筆が本来の職務であったが、時代が進むにつれて公文書や記録の作成などを行い、事務官僚としての役目を担うようになった。執筆(しゅひつ)とも呼ばれ、近世以後には祐筆という表記も用いられた。
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1 概説
3 織豊政権
4 江戸幕府
5 関連項目
6 関連作品
概説[編集]
初期の武士においては、その全てが文章の正しい様式(書札礼)について知悉しているとは限らず、文盲の者も珍しくは無かった。そこで武士の中には僧侶や家臣の中で、文字を知っている人間に書状や文書を代筆させることが行われた。やがて武士の地位が高まってくると、公私にわたって文書を出す機会が増大するようになった。そこで専門職としての右筆が誕生し、右筆に文書を作成・執筆を行わせ、武家はそれに署名・花押のみを行うのが一般的となった。これは伝統的に書式のあり方が引き継がれてきたために、自筆文書が一般的であった公家とは大きく違うところである。武家が発給した文書の場合、文書作成そのものが右筆によるものでも署名・花押が発給者当人のものであれば、自筆文書と同じ法的効力を持った。これを右筆書(ゆうひつがき)と呼ぶ(もっとも、足利尊氏のように署名・花押まで右筆に任せてしまう特殊な例外もあった)。
なお、事務が煩雑化すると、右筆が正式な手続を経て決定された事項について自らの職権の一環として文書を作成・署名を行い、これに主君発給文書と同一の効力を持たせる例も登場する。こうした例は院宣や綸旨などに早くから見られ、後に武家の奉書や御教書などにも採用された。
現在では天皇・皇后の文章の代筆をする宮内庁の文書専門員(中島司有、佐伯司朗といった書家が務める)は「祐筆」と呼ばれることがある。
源頼朝が鎌倉幕府の原点である鎌倉政権を打ち立てた時に、京都から下級官人が招かれて事務的な業務を行ったが、初期において右筆を務めていたのが大江広元である。後に、広元が公文所・政所において行政に専念するようになると、平盛時(政所知家事)・藤原広綱・藤原邦通らが右筆を務めた。
その後、将軍や執権のみならず、引付などの幕府の各機関にも右筆が置かれ、太田氏や三善氏などの官人の末裔がその任に当たるようになった。基本的に室町幕府もこの制度を引き継いだが、次第に右筆の中から奉行人に任じられて発言力を増大させて、右筆方(奉行衆)と呼ばれる集団を構成するようになった。
なお、室町幕府では、行政実務を担当する計方右筆・公文書作成を担当する外右筆(とのゆうひつ)・作事造営を担当する作事右筆などと言った区別があった。
戦国時代に入ると、戦時に必要な文書を発給するための右筆が戦にも同行するようになった。戦国大名から統一政権を打ち立てた織田・豊臣の両政権では右筆衆(ゆうひつしゅう)の制が定められ、右筆衆が行政文書を作成するだけではなく、奉行・蔵入地代官などを兼務してその政策決定の過程から関与する場合もあった。豊臣政権の五奉行であった石田三成・長束正家・増田長盛は元々豊臣秀吉の右筆衆出身であった。他に右筆衆として著名なものに織田政権の明院良政・武井夕庵・楠長諳・松井友閑・太田牛一、豊臣政権の和久宗是・山中長俊・木下吉隆・安威了佐などがいる。
なお、後述のように豊臣政権の没落後、右筆衆の中には徳川政権によって右筆に登用されたものもおり、右筆衆という言葉は江戸幕府でも採用されている。
戦国大名としての徳川氏にも右筆は存在したと考えられるが、徳川家康の三河時代の右筆は家康の勢力拡大と天下掌握の過程で奉行・代官などの行政職や譜代大名などに採用されたために、江戸幕府成立時に採用されていた右筆は多くは旧室町幕府奉行衆の子弟(曾我尚祐)や関ヶ原の戦いで東軍を支持した豊臣政権の右筆衆(大橋重保)、関東地方平定時に家康に仕えた旧後北条氏の右筆(久保正俊)などであったと考えられている。
徳川将軍家のみならず、諸大名においても同じように家臣の中から右筆(祐筆)を登用するのが一般的であったが、館林藩主から将軍に就任した徳川綱吉は、館林藩から自分の右筆を江戸城に入れて右筆業務を行わせた。このため一般行政文書の作成・管理を行う既存の表右筆と将軍の側近として将軍の文書の作成・管理を行う奥右筆に分離することとなった。当初は双方の右筆は対立関係にあったが、後に表右筆から奥右筆を選定する人事が一般化すると両者の棲み分けが進んだ。奥右筆は将軍以外の他者と私的な関係を結ぶことを禁じられていたが、将軍への文書の取次ぎは側用人と奥右筆のみが出来る職務であった。奥右筆の承認を得ないと、文書が老中などの執政に廻されないこともあった。また奥右筆のために独立した御用部屋が設置され、老中・若年寄などから上げられた政策上の問題を将軍の指示によって調査・報告を行った。このために、大藩の大名、江戸城を陰で仕切る大奥の首脳でも奥右筆との対立を招くことは自己の地位を危うくする危険性を孕んでいた。このため、奥右筆の周辺には金品に絡む問題も生じたと言われている。一方、表右筆は待遇は奥右筆よりも一段下がり、機密には関わらず、判物・朱印状などの一般の行政文書の作成や諸大名の分限帳や旗本・御家人などの名簿を管理した。
たかがコピペ相手にそこまで憤慨している増田が怖すぎる。 思い込みが激しすぎるというか、独善的というか。 リアルでこんな人と関わりあいたくねえええええ. Permalink | トラックバック(0) | 23:34 はてなブックマーク このエントリーのブックマーク ...
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